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(081011)
朝日朝刊
論説委員・脇阪紀行
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しなやかな丸腰の仲介者
足場は小さなNGO
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「今日の世界で、アハティサーリ氏は傑出した調停者だ」。ノーベル賞委員会は今年の平和賞受賞者をこう評した。1901年に設立された平和賞は、軍縮や国際的な紛争の調停、人道活動など、世界の平和実現に貢献した人物・団体に贈られてきた。その意味で、今年の受賞は「王道」と言える。
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同時に、同氏の活躍はすぐれて今日的でもある。
冷戦終結から約20年。平和や国際社会の安定は、大国同士、軍事ブロック同士の対立が消えても実現していない。世界は、ほかに多くの課題を抱えていることに気づいた。
それに応えるようにノーベル平和賞も近年は、「平和」の定義を拡大させる傾向にあった。昨年は初めて地球温暖化問題を取り上げた。開発や人権など新しい分野にも同賞を贈ってきた。世界のグローバル化で金融危機や地球温暖化、エネルギーや食料高騰問題など、社会を不安定にする要素が多様化するにつれ、平和賞受賞者も、幅広い分野から選ばれるようになった。
紛争の原因も、単に当事者の利害だけでなく民族や宗教など文化的なアイデンティティーも根深くからむようになっている。
そうした時代の変化の中で、フィンランドという中立的な小国出身という立場をいかして、インドネシア・アチェ紛争や北アイルランド紛争、コソボ紛争などで和解の仲介者としての役割を根気強く果たしてきた。
いま足場としているのは、自らが率いる小さなNGO「危機管理イニシアチブ](CMI)だ。強力な外交組織や軍事力を背景にしない。しなやかな平和の使者。
同委員会は「アハティサーリ氏の調停はいつも成功するとは限らなかった。しかし、挑戦し続けた」とその姿勢を評価した。
泥沼化するイラクやアフガニスタン。グルシア紛争のように、入り組んだ民族対立、宗教対立をはらむ危機は世界各地に広がっている。世界はアハティサーリ氏のような新しい形の仲介者を求めている。ノーベル賞委員会は授賞理由を「彼の努力と成果がほかの人たちの奮起を促すことを望む」と結んでいる。
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「紛争人脈」を武器に
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アハティサーリ氏の仕事を追って見えてくるのは、紛争調停を通して築かれた「紛争人脈」の豊かさだ。
「祝福の電話かと思って電話口に出たら、次はコソボを考えてくれと言うんだ。彼の頼みは断れなかった」。6月に来日した際、アハティサーリ氏は記者にこう語った。
インドネシア・アチェ紛争の和平合意がまとまった05年8月、フィンランドの首都ヘルシンキの自宅で喜びに浸っていた同氏に国際電話をかけてきたのは、長年の友人でもあるアナン国連事務総長(当時)だったというのだ。
フィンランドの外交官としてナンビア紛争の仲介に取り組んだアハティサーリ氏は国連外交の最前線を経験するために、87年、国連本部に転身した。そこで親交を深めたのがアナン氏だった。当時のデクエヤル事務総長の下で働きながら欧米やアフリカに知己を広げる。94年、母国の大統領になり、旧ユーゴ紛争の調停に手腕を発揮してからは、紛争仲介を求める依頼が殺到した。
その人脈は、紛争解決そのものにも生かされた。近年、イラク紛争の仲介に取り組んだ際には、血で争う紛争を乗り越えた北アイルランドや南アフリカの関係者を招いて、当時の苦悩や経験をイラクの人々に語り聞かせた。
少年時代、旧ソ連軍に追われて避難生活を送った体験や、20代にNGOの一員としてパキスタンで貧困撲滅に取り組んだことが紛争解決への情熱を支えているのだろう。8年前に大統領職を退いた後、紛争仲介のNGOを旗揚げした。2年前、ヘルシンキの事務所を訪ねた時、「最も尊敬する友人はこの人だ」と言って、獄中に二十数年間つながれながら南アフリカ独立を導いたネルソン・マンデラ元大統領の写真を示した。
アハティサーリ氏は今、どんな和平調停にかかわる際にもNGOの若い仲間を加えるようにしているという。紛争仲介の仕事を受け継ぐ後継者が出ることへの期待からだ。ノルウェーのノーベル賞委員会もその期待を込めた。
ノルウェーも中東和平など予防外交に輝かしい実績を持つ国だ。世界に悲惨な紛争が消えない21世紀、両者の思いはぴったり重なっている。
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(081011)
朝日朝刊
社説
ノーベル平和賞 紛争の時代が彼を求めた
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この人がいなければ、紛争の犠牲者はきっと増えていたことだろう。
今年のノーベル平和賞は、フィンランドのマルティ・アハティサーリ元大統領に贈られることになった。
旧ユーゴスラビア、インドネシアのアチェ、北アイルランドなど多くの地域紛争で、和平の仲介や交渉にあたってきた。30年に及ぶ貢献を評価するとともに、」とくに冷戦後の世界における紛争調停の重要性に光をあてたいというのが贈る側の意図だろう。
ノーベル平和賞は一昨年に貧困撲滅、昨年には地球温暖化問題に着目した。今年の選考結果は、戦争の悲惨さを食い止めるという平和賞の原点に戻ったとも言える。
アハティサーリ氏が初めて紛争調停を経験したのは70年代末、40歳そこそこの外交官だったころのことだ。アフリカ南部ナミビアの紛争で国連代表に任命され、紛争当事者の対話仲介にあたった。
冷戦終結後の90年代、地域紛争が世界各地で起きるとともに、アハティサーリ氏の出番が増えていった。
旧ユーゴのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、国際平和会議の座長として和平交渉を進めた。セルビア共和国とコソボ自治州の対立では、当事者の間を走り回って「コソボ独立」への道を開いた。
旧ユーゴでは宗教や民族が激しくぶつかり、民族浄化と呼ばれた集団虐殺も起きた。そのなかでの調停がどれほど忍耐を要する仕事であることか。
「バルカンの諸民族の間には数百年にわたる深い対立と憎悪がある。紛争解決にはそのことを踏まえねばならない」。今年6月に来日した際、アハティサーリ氏はコソボ紛争の仲介を振り返ってそう語っている。
輝かしい実績とそれを支えた豊かな経験は、時代が求めた結果でもある。
忘れがたいのは、インドネシア北部アチェでの紛争解決で見せた手腕だ。分離独立を求めてゲリラ闘争をしてきた自由アチェ運動とインドネシア政府との和平交渉を仲介した。
当事者の主張にじっくり耳を傾ける一方、時を見計らって妥協案を示し、受け入れを迫る。長年の経験で培われた柔軟で豪胆な仲介術が発揮され、見事な成功をおさめた。
この時、アハティサーリ氏はすでに大統領を退き、NGOの仲間とともに交渉を仲立ちした。さらに欧州連合に話を持ち込み、武装解除や元兵士の社会復帰など、和平を定着させる作業でも国際支援の仕組みを編み出した。
アチェ紛争では、日本政府もかって和平仲介を試みたが、うまくいかなかった。アジアではスリランカ、フィリピンのミンダナオなど地域紛争は今もなくならない。アハティサーリ氏の業績から学ぶことは少なくない。
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間違いなく欲しかった。
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ノーベル平和賞を受賞したマルティ・アハティサーリ元フィンランド大統領は10日、ヘルシンキの大統領府で記者会見を開き、「授賞は予想できないが、間違いなく欲しかった」と喜びを表した。
大統領府によると、アハティサーリ氏は「尊敬するマンデラ元南アフリカ大統領のような人の後に続くことができて光栄だ」と語り、さらに「受賞によって、私が率いるNGO『危機管理イニシアチブ』(CMI)に必要な資金が簡単に集まるようになればと思う。資金がもっとあれば、今まで以上のことを成し遂げられると常に思っていた」と語った。同氏の引退後もCMIが活動できるよう基金を設立する考えを明らかにした。
紛争の仲介者としてわきまえたことは「常に率直でいること。良いことばかり言ってはいけない。私は常に善人ではない」と説明。多くの関係する国や機関を巻き込み、協力を結集させる必要性を説き、「国連やフィンランド大統領と言う経歴のおかげで、どんな政治的な立場の人にも連絡を取り、助けを求めることができた。ラッキーな立場にあった」と振り返った。
同氏がかかわったセルビアからのコソボ独立交渉については「コソボの隣国、マケドニアとモンテネグロが独立を承認してくれた今が、一つの大切な時だ。まだ承認していない国に良い影響を与え、承認国がもっと増えてくれることを望む」と語った。
今後は、紛争の調停だけでなく紛争予防にも力を注ぐ。「今後10年間で世界で約10億人の若者が職にあぶれる。希望を失うとテロリストになってしまう」と語り、中東や北アフリカの若者に職を与える活動を行うという。
マルティ・アハティサーリ氏
元フィンランド大統領。
フィンランド・ビープリ(現ロシア領)生まれ。NGO活動後、フィンランド外務省に入り、73年、36歳でタンザニア大使。国連ナミビア特別代表などを歴任。94~00年、フィンランド大統領。退任後も国連事務総長特使としてコソボ問題に取り組んだ。