彼が恐れていたのは、神なき世界のおとずれであり、
「神がなければすべては許される」のひとことは、その不安の証だった。
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「一つの死を百の命と取りかえるんだ」
ラスコーリニコフに訪れる運命のささやき。極貧の元大学生は、七百二十歩さきの老女の家へとひとり歩き出す。
「なるほど、もうはじまっているのか、あれの罪が!」
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また、読むことになるのだろうか。
今日か、明日かは判らないが、やっぱり、きっと手にして読むことになるのだろう、そんな金縛りに似た感覚に襲われた。
今日、081019、新聞全15段で、光文社、ドストエフスキーの「罪と罰」全3巻の亀山郁夫氏新訳の発売広告が出た。既刊の同氏新訳「カラマーゾフの兄弟」の本の紹介もしてあるのですが、これはもう読んだので、目の焦点は「罪と罰」の方だ。
何回読めば気がすむのだろう。
「カラマーゾフの兄弟」は4回読んだ。「罪と罰」も3回読んだが、工藤精一郎訳が1回、江川卓訳を2回読んだ。4回目の「カラマーゾフの兄弟」は昨年、亀井郁夫訳が出たので、その宣伝文句に魅かれて読まされた。2ヶ月前、イースト・プレス発行の「まんがで読破・カラマーゾフの兄弟」も読んだ。読書嫌いな、我が愛すべき息子にも娘にも強制的に読ませた。
今度も、光文社が亀井新訳をアピールしての大宣伝に目を奪われてしまったのです。言っておきますが、私は光文社のまわし者でも、宣伝マンでもありません。ドストエフのおっさんのファンちゅうだけです、さかいに。
その新聞15段の広告の中に、亀井氏が書いている文章を、書きとめて置かないと、悔いが残ると思ったので、転載させていただいた。
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光文社
光文社古典新書文庫
東京外語大学長・亀井郁夫
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フョードル・ドストエフスキーの類まれな力は、「人間」という存在のもつ意味と魂の領域をかぎりなく押し広げた点にある。彼の目は、二つの方向から人間の世界を見ていた。罪をおかす人間と罪のいけにえになる人間の二つの世界、二つの目。それらが交差する地点に、ドストエフスキー文学の真の醍醐味は立ち現れたーーー。
ドストエフスキーによって、わたしたちの世界は救われるのか?神はほんとうに存在するのか?
「罪と罰」を訳しながらわたしが感じていたのは、高利貸し老女の殺害をたくらむ青年の恐ろしい傲慢さと、それを上回ってあまりある運命の力である。青年は、文字通り、運命にとって殺人の現場へ導かれる。青年に殺人をそそのかし、「大地との断絶」の罪をくだす運命とは何か、神に罪はないのか?
ドストエフスキーが晩年にたどりついた信仰こそ、命の絶対性、その純化された観念である。それはある点で、宗教のカテゴリーを超えていた。どのような意味でも、人を殺すことは許されないーーそれは、かって国家反逆の罪に問われ、死刑の恐怖を味わった男ならではの、究極の結論だった。だからこそ彼は、「罪と罰」の主人公を自殺の道から救い出したのだ。ほかでもない、命の絶対性を教え込もうとして。だが、人間がけっして免れることのできない罪がある。「カラマーゾフの兄弟」で、作家はようやくその表現に立ち向かう。人間の命そのものが罪であるという矛盾ーー。では、恐ろしくも謎に満ちたこの小説が、わたしたちの魂にどこまでもひびく理由とは何なのか?
究極のところでそれは、「父殺し」という宿命の罪に苦しむ魂を、永遠の救いに導きたいと願う作家の、ひたすらな思いではなかったろうか。
「わたしの主人公」アレクセイ・カラマーゾフこそ、命の絶対性のシンボルである。満天の星空のもとで彼がかき抱く大地は、ほかでもない、わたしたちの魂のなかに息づいているのだ。
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081024,25、日本でミリオンセラーになったドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の翻訳者である東京外語大学の亀山郁夫学長がモスクワで公開対談を行った。そこで、日本におけるドストエフスキー人気の高まりを紹介した。ロシアではドストエフスキーの重厚な小説は若者から敬遠されており、日本でのブームはモスクワ市民の強い関心を呼んだ。
亀山氏は「資本の暴力」が支配するグローバル化とインターネットに代表されるテクノロジーの影響下で、「人間の心が根本的に壊れ始めているとの予感をぬぐえない」と指摘。自殺率が先進国で1位となっている日本ではこの兆候が顕著だと述べ、「自ら作り出したテクノロジーによって壊れた日本人の心が人間精神の破壊を見つめ、救いをテーマにしたドストエフスキーを発見した」とブームの背景を分析した。