2010年5月18日火曜日

宇治田原への帰省、望郷編その③

朝めしをご馳走になって、竹さんと甥・セは茶園畑の消毒に出かけた。

私と甥の嫁・ヤは自宅で暫く雑談を楽しんで、甥がやっている竹炭づくりの窯見学に連れて行ってもらった。百姓仲間の一人が始めた竹炭づくりを、ただの物見遊山で一人集まり二人集まり、今は8人ほどで本気でやっているらしい。竹炭づくりは、冬の農閑期の仕事だ。今の窯ができるまでに試行錯誤があったのですよ、各地の異なる土を持ってきて試してみた、窯の構造もいろいろやってみたのですが、失敗の連続でした、と甥。孟宗竹を使うのですが、この竹は私の田舎のそこらじゅうにあって、材料にこと欠かない。荒れ放題の竹林の整備と、竹炭づくりは一石二鳥でよくぞ思いついたものだ。

打ち合わせの小屋と、出来上がった竹炭を保管する小屋の2棟が、いかにも手作り風に建っていた。黒板には仲間の名前と予定が書き込まれていた。このうち真面目に来る奴は少しだけだそうだ。テーブルがあって、ビールの空缶がいっぱい散らかっていた。窯に火をつけたら、後は飲んでばっかりや。甥はいい仲間に恵まれていると思った。

ここで仲間達は、米作りのこと茶のこと、始まった大型の茶畑開墾事業をビール片手に自分の感じたこと学んだこと、教えられたこと、これからのことの情報交換を行なっているのだろう。

夜、夕飯の際、竹酢液を薄くして飲まされたが、強烈な臭いと味がした。喉の奥に液体の一部がくっついたのか、いつまでも気持ち悪さは取れなかった。家の周りに撒いたり野菜にかけて、虫が近づかないようにしたり、入浴剤になったり、殺菌や消毒効果もあるのです。竹炭は、本来の炭としての役割以外に、空気清浄効果、消臭作用、湿気吸収、カルキの吸着効果があるのです。今や、健康趣向の時代だ、よく売れるそうだ。

 

今回の帰省の大きな目的の一つに、父と母、祖母の墓参りがあったのです。祖母は私が結婚して2年目ぐらいで亡くなった。36年前のことだ。祖母は父や母には厳しかったのですが、私には特別優しかった。お通夜、酒に酔った私は、布団に寝かされた祖母の布団の中にもぐって寝た。おばあちゃんは、冷たかった。平成14年の2月に母が、11月に父が同じ年に同じガンで亡くなったのです。母享年81歳、父享年86歳でした。この年とその1年前は、2週間毎、1週間毎に見舞いに行った。死が日に日に迫ってきて、休日には居ても立っても居られなかったのです。距離にして片道450キロ、ドアからドアまで5時間はかからなかった。親を亡くして人間は一人前になる、とよく言われるけれど、父の葬式の夜、夢の中で父母にしっかり生きていけよ、と迫らて心臓がぎゅっと押しつぶされそうになった。父母の霊が、生身の私の中に忍び込んできて、私を励ましたのだ。その後、七回忌にも、会社の財務が緊急事態だったので参加できなかったのです。

2010 039 報国寺だ。

父と母の思いではいっぱいある。高校進学、2年間の浪人生活、大学、就職について、何から何まで事後承諾で認めてくれたことは、私のようなちょっと我が儘な人間にとって、ありがたかった。父は、東京大や京都大、日本大学は知っていたけれど、私の入学した大学は知らなかった。卒業して入社した会社の関連の電鉄会社の名前も知らなかった。母からは田舎を出て上京する時、二つの約束をさせられた。その一つは、偉くならなくても、お金持ちにならなくてもいい、田舎ではお兄ちゃんが一所懸命百姓で頑張っているので、お兄ちゃんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ、それってどんなことをしたら泥を塗ることになるのと聞いたら、警察だけにはお世話になるようなことはしないでくれということだった。もう一つは、東京は何でも高いから、食事をする時は店の入り口に「めし」とか「定食」とか書いてある暖簾がぶら下がっている店に入りなさい、レストランとか綺麗な入り口の店は高いから入っていけない、と言われた。母の忠告を神妙に拝聴した。

何年か前に兄は墓石を新しくした。兄はトコトン山岡家の跡取りだ。代々継いで来た生業を、彼は全くの百姓然として、格好よく、少しも揺るぎなく山岡家を守ってきた。一番身近な者として、深く感謝する。天晴れなことに、立派な跡継ぎの息子を育て上げた、これも偉業だ。

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田原小学校の校門だ。校門には維孝館と銘打ってある。田原小学校は昔、維孝国民学校と呼ばれていた。この維孝という名前はその後、中学校の校名に使われ、宇治田原町立維孝館中学校となった。両方とも、私の母校だ。担任だった先生はみんな思い出せる、小学校は川南、山本、中村、伊藤先生だ。中学校は、名前は出てこないが国語の先生、森本、山田先生だ。

自宅から小学校に通う時に必ず渡る橋があって、その橋の上から上流方面と下流方面に向かって撮った写真です。私が幼少の頃は、もっと川の水は豊富で、夏になると大人が大きな石で堰を作ってくれた。水かさを増した臨時のプールでよく泳いだものです。ここは、子ども仲間では初級コースでした。難関コースは別の川にあって、小学校の上級生になって挑んだ。唇が真っ青になるまで、体が冷えてブルブル震えながら、陽がかげるまで遊んだ。水際の草むらに竹かごを構えて、片方の足で、上方からガサガサ騒ぎ立て、休んでいる魚を追い立ててその竹かごに誘導するのです。捕れた魚は、ハヤ、フナ、ゴリ、ドジョウ、他にはタニシ、ゲンゴロー、ザリガニ、イモリなどだった。

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昨日、寄った城南高校の後輩・原の家にもう一度行ってみた。彼は居た。奥さんも居た。43,44年ぶりだ。高校のときは、ちょっと二枚目を気どった静かな子だった。何で、宇治田原なの? と気になっていたことを聞いた。彼のお父さんは、この宇治田原の出身で、就職したのが宇治市役所だったので、土地の値段は安いし、職場にも近いので、ここにしたんです、もう30年以上住んでいます、と話した。美味しいお茶、コーヒー、甘味をご馳走になった。一通り、城南高校が廃校になったことや、共通の知り合いの情報を聞かされた。情報は貰い放しだ。さすが、30年も住めば、この宇治田原の人々とも随分濃厚な人間関係を構築しているもんだと感心させられた。私の友人、親戚、恩師とも仲良くやっているのには、驚いた。でも、二人の空白の何十年間のことは何故か話題にならない。狭い宇治田原の町では。何処の、誰が、何をして、どうなったか?一瞬にして、情報は行き届くのです。原はもう充分宇治田原の地元民だった。帰りには焼酎をくれた。

私は、彼の顔を見て喋りながら、45年前のことを思い出していた。サッカーは下手糞だったのに、朝の授業の始まる前、昼飯の後、午後の練習と、時間をみつけてはボールを蹴っていた。真剣だった。午後の授業が始まって教室に入っても、頭から湯気が立ち上り、先生に、ヤマオカ、ちょっと廊下で頭を冷やして来い、と言われ廊下をうろちょろしていたもんだ。皆からは、ゲラゲラ笑われた。いっつも元気印の私はみんなの人気者でもあったのです。特にBグループの女の子たちに。

練習が終わって、ホンダのカブに乗って宇治川に沿って帰るのですが、そそり立つ山からちょろちょろ水が流れる小さな滝があっちこっちにあって、蛍の季節になると、何万匹の蛍がその滝ごとに、山肌から離れた闇のなかに光を点して宙に飛び交っていたのです。まるで夢の中の世界だ。その中を、お尻を後ろに引いて背を丸めて突っ切って行くのです。これは、俺様だけが特別な経験をしているのだ、と思っていた。

元社員が、元気な姿を見せてくれた

アーバンビルドの再建計画が具体的になってきた。元社員だった人が戻ってくれて、彼らは以前よりも、元気に業務に携わっている。取引のある金融機関とのリスケ折衝も、金融円滑化法の後ろ盾もあって、何とかいい方向で了解を取り付けられそうだ。

そんな中、再建計画の何本かの事業の柱に、リフォーム事業を本格的に立て直そうと思っている。このリフォーム事業については、私たちの会社及び関係会社においてなら、直ぐにでも実行できる仕事なので、即、今からでもやりましょう、と言うことになった。ところで、責任者が欲しいと思い当たり、適任者が周辺にいないか、思い巡らしてみた。

そんな時に思いついたのが、以前に弊社に入社して実力を発揮するまでもなく、退社を余儀なくされた思いでいただろうⅠ君に電話した。早速会社に来てくれて、私の考えていることを率直に話した。彼も、病気で苦しんだけれども、なんとか克服して今は某大手不動産会社のリフォーム部門でバリバリやっている、と報告を受けた。

どうしたんだ? そんなに痩せて体でも壊したのか? いや、違うんですよ、朝から晩まで、歩き回っているからです、忙しくて、体の贅肉が削(そ)がれたようです。女房も元気になりました。そうだよ、君が元気になったから、奥さんも元気になったのだよ。そうでしょうね。

そこで、彼が弊社とのことについて、言葉少なげに話してくれたことが印象的で、感動的だったので、書き溜めておこうと思った。

自分は御社にお役にたてるように、と張り切って入社した。勤務中もなんとかお役にたてるように、と思って一所懸命仕事をしてきた心算です。だが、思っていたようには成果が出せなくて、退社後も気になっていました。今日、電話をもらってノコノコやってきたのは、その辺の複雑な気持ちを一掃したかったこともあるのです。

山岡さんたちがやろうとしていることには、出来ることなら何でも、協力したい。今自分たちで、色々将来の起業のために考えている企画、優秀な職人さんの協力と紹介、コストダウンの方法、何でも開示しますし、そのノウハウを使っていただいて、御社の利益の積み上げに利用していただきたい。こんなことで、何とか恩返しをしたい、と言ってくれた。何か相談事があれば、いつでも来ますから、気楽に声をかけてください。

2年前、弊社の業務が急に悪化し、退社してもらったような形で去らざるを得なかった彼からの言葉は身に沁みた。この述懐を承る身に余る光栄、私は久しぶりに人間関係の尊さを感じた。ラーメン屋で定食を食いながら、彼を前にして幸せな気分でいっぱいだった。この男となら、一生付き合えると確信した。

2010年5月14日金曜日

犬のいる暮らし 、中野孝次さん

私が不動産屋の一経営者として悩み、苦しみ、七転八倒、獅子奮迅の激しい生活のなかで、中野孝次さんの本の中の「清貧」なんて言葉で平安な気分にさせてもらって、かつ自らの気持ちを正すようになった。また犬との楽しい暮らしを、私の気分そのもののように書かれていて、本の中の犬と私と中野さん、中野さんのような高名な文学者には迷惑かも知れないのですが、勝手に一体感を感じさせていただいています。私の変わり映えのしない生活に涼しい文章で癒してくれるのは中野孝次さんでした。

この中野さんの犬との暮らしの物語は、その著作「ハラスのいた日々」で、ワンワンと多くの読者をうならせた。この本については、次の機会に語るとして、今回は、中野さんの別の本「犬のいる暮らし」(岩波書店)の中で紹介されている丸山薫さんの詩を、私もこの本の中で初めて知ったのですが、どうしても犬と一緒に暮らしている人には、この詩を味わって欲しくなって、詩の部分の前後の中野さんの文章もまとめてそのまま転載させてもらった。

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一度でも犬を愛し、犬との暮らしを経験した者にとっては、もはや犬がいない孤独な暮らしに戻ったあとでも、犬はよろこびを与える存在でありつづける。

丸山薫に「犬と老人」という詩があるが、これこそそんな事情をやさしく歌ったものだ。詩の中で、詩人はスピッツ種の仔犬を飼っていて、仔犬をつれて散歩に出ると、出会う人でその愛らしさをほめない人はいない。ある日犬をつrてて草原にいると、坂の上から粗末な服を着た老人が下りてきて、彼も犬に注目して立ち止まった。老人は「ほう、良い犬でごわすな」とほめ、珍しい種だとか、何を食べさせているかとか、いろいろ質問するが、詩人が素気なくあしらっていると、ふしぎなことに犬の方が老人にしきりに親愛の情を示した。尾を振って老人にとびかかってゆき、節くれだって大きな手ではげしく撫でさすられ、「みるみる奇怪な形のなかに消え入りそうに見えた」それから、ーーー

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「老齢(とし)でごわすな」

ふいに思ひ余った吐息をして老人が言った

「かやうな無心なものがなにより慰めになり申す

女房は墓になりました

子供は育って、寄りつかん

世間には憂きことばかり

終日(いちにち)、働いて帰るとかやうなものがじゃれついてくれる

もうそれだけで疲れは忘れるでごわすよ」

その言葉は不思議な滋味を滴(したた)らした

仔犬は這って、いそがしく草の穂を嗅ぎまはった

それから、彼のつぎの当たったズボンとシャツに跳びついた

老人は頭を低く突き出した

犬が惨苦に光る額(ひたい)の皺(しわ)を舐めはじめた

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そういう詩だが、詩人が中でいうようにこの老人の言葉と、老人に対する犬の反応には、なんともいえぬ滋味があって、わたしはこの詩が好きだ。短い言葉からも老人の現在の孤独と惨苦にみちた過去は明らかだが、それを愛らしい仔犬のふるまいが癒してくれるのである。こうなると仔犬はたんなる犬ではなく、何かの化身のようにさえ見え、この場景全体に慈悲の光が漂いだすような気がしてくる。

 

こんな文章を読んでいると、陽だまりでうとうとまどろんでいるいるときのような幸せな気分になるのです。

中野さん、有難うございます。無断転載違反覚悟の確信犯、山岡です。

 

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(上の写真は、三女・ソが作った『造形』です。向かって左はツバサ、右はポンタ。真ん中はゴン、2年半前に死んだ)

2010年5月13日木曜日

選手も監督も、狂え!!

サッカー日本代表の岡田武史監督は今月10日、ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会(6月11日開幕)に臨む日本代表23人を発表した。選ばれたメンバーを見て、今の現状ならば、これでしょうがないのかと思う気持ちの中に、どこかツマラナい気持ちが消え去らない。ワクワク(沸く湧く)してこないのだ。私は、この一年、守備で中澤や闘莉王を脅かす選手、狂ったような攻撃的MFやFWが、突如として現われてくるのを楽しみに待っていた。

中村俊、長谷部、本田、遠藤、松井の5人はそれなりの個人技は持っているものの、自ら崩せる技量はまだまだ充分ではない、それでも無理して無理してシュートを放すこと、そして、連携してどれだけ相手布陣を崩せるか、トリッキーな場面をどれだけ作れて、その瞬間、瞬間にできた隙間をボールという刃先で切り込めるかだ。内田、長友は後ろから、横、裏にどれだけトリッキーな局面を自ら作り出せるか。攻撃の層を厚くして変化を持たせ、相手守備の少しの綻びを突くこと、これしかない。相手ペナルティーエリアに近付いた時、日本の選手が何人その近くに位置しているか、必ず相手守備にコントロールされていないこぼれ球が、思わぬ方向からころがってくるものなのだ。層を厚くしていなければ、このボールは狙えない。クリーンシュートなんか、絶対ありえない。

かって磐田でプレーしたこともある今ブラジルの代表監督を務めるドウンガーは、チームメイトを怒鳴りつけ、司令官としては強烈だった。あんな司令官を私は初めて見た。初めて見た時、この男は狂っていると感じた。そして彼は、着実に磐田の屋台骨を作り上げ、最大の功労者になった。このような強い司令官がこの代表チームに欲しい。仲良しクラブでは、第一次予選、1勝もできないだろう。選ばれたメンバーの中から、狂った司令官に誰でもいいから、名乗りを上げてくれ。私は、このチームの司令官は本田が、一番適任だと思う。彼が、相手を制するためのイメージを描けて、それを理性的に説明できて、自らそのモデルになり得るプレーができたならば。本田なら、狂った司令官になれる。稲本にも、その素質は充分持ち合わせている。どうかね稲本君、ここらで一発、君の総仕上げとして大いに狂ってみないか。中村俊や遠藤、中澤では無理、今までと何ら変わらない。岡崎、君は刃(やいば)だ、大鉈(おおなた)を振るのは無理だ、鋭い刃先で素早く突っつくんだぞ。

応援しようとしている人間も必死なんだ。

守備においては、前線エリアで相手攻撃の芽を摘む、相手攻守の切り返しに必死で喰らいつく、層を厚くする、これらを忠実に行なうためには、冷静沈着な神経と強靭な体力が必要だ。ここ一番というピンチに体を、どれだけ大胆にはれるか、もう1センチ近くに、もう1秒速く、判断よくプレーできるか。

私はこの一年、狂ったような選手の出現を待っていたと言えば、何だか変なように聞こえるが、簡単に言えば、今まで見慣れてきた日本代表のメンバーではなくて、イメージをカッ飛ばすようなプレーを秘めた選手が現われて欲しかったのです。異質な個性を持った選手のことです。この段階ではテクニックよりも、速い、強い、恐(こわ)い、うるさい、しつこい、疲れを知らぬ体力、高い、相手の懐深くに入れる、なりふり構わずシュートする、こんなことを自然にこなせる選手だ。

変わり映えのしないいつもの選手達で、どれだけ、今までと違う試合運びができるというのだ。でも、選らばれたメンバーでやるしかない、やる日は時々刻々と迫っている。チームが変になっていることを全員がしっかり認識して欲しい。一般的な表現をするならば、全員が火の玉、相手の虚(きょ)を衝(つ)く、これしかない。選手達は、自分たちのよく通じ合う言葉で、コミュニケーションを図って欲しい。

先ずは岡田監督こそ狂って欲しいのだ。あなたが狂わなくて、どうしてこのチームを変えられるか。

後ろの方に朝日新聞のうるさ型記者の記事を転載させていただいたのですが、編集委員の潮智志さんのは「日本人の欠点が武器に」と題した深耕記事だ。私は日本人の日本人らしさの良さは欠点につながることも大いにある、と心配している。

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朝日新聞朝刊(20100511)の写真を利用させていただいた。朝日新聞の熱烈な読者に免じて

お赦しください。

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20100512

朝日朝刊

記者有論

サッカーW杯の日本代表へ

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日本人の欠点が武器に

その① 編集委員・潮智志(うしおさとし)

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サッカーの日本代表チームはオランダ遠征を行なった昨秋をピークに調子を落としたままだ。代表チームの難しさは、1,2ヶ月に数日集まって試合をしてはまた解散する、時間の短さにある。そのたびに積み上げてきたことを忘れていては、チームづくりは遅々として進まない。特に海外組みや主力が不在のときは、そんな繰り返しだった。W杯常連国ほど直前合宿で一気にチームをまとめ上げてくる。対戦相手に応じた具体的な戦略を落とし込む作業を含めて、ここから岡田武史監督の真価が問われる。

岡田監督のチームづくりは、過去の代表チームと出発点が異なる。自身が12年前に挑んだ98年W杯を含めて、これまでは世界と比べて劣っている部分をどうやって補うか、という発想だった。

本当にそうなのか。岡田監督は「個人の体格やパワーではかなわないから組織力で補おう」という前提を問い直すことから始めた。単調な無駄走りが多いと言う欠点を逆手にとって運動量で相手を圧倒できないか。日本人ならではの俊敏性や機動力は、セオリーを無視してあえて狭いエリアでこそ有効ではないか。そこで生まれたのが現在のスタイルだ。日本人の特性を明確な武器として持ち出したからこそ、どんな結果と内容を導き出すのか興味深く、何が通用して、しなかったかという評価を次に生かせる点で意味を持つ。

この2年半の間、岡田監督が徹底してやってきたのは選手へ問い続けることだった。物議を醸したベスト4という目標設定もその一つ。日常のトレーニングと試合で、あと一歩前へ、もう0,3秒速くという積み上げなくして世界に近づく方法はない。「こんなプレーで4強に入れるのか」という理屈抜きの自問自答を選手自身に促した。監督が「本気でベスト4を目指してみないか」と選手に問い掛けたのは08年9月。「やってみます」と最初に反応したのは3人だった。監督から見て、その人数は増えたり減ったりしてきた。「本気」を保ち続けた選手はどれだけいたか。直前合宿の重要性が増す一方で、問われるのは06年のW杯ドイツ大会からどんな時間を過ごしてきたのか、ということでもある。

その4年前、代表はばらばらのまま敗れた。「監督は何も授けてくれない」と選手は嘆き、試合中にベンチを見て指示を求める選手に「プレーするのは君たちだ」とジーコ監督はいらだった。もともと選手を戦術にはめこむ指導を得意としてきた岡田監督は「それではチームは伸びない」と気づいている。だからこそ、「自分の判断でリスクをとり、生き生きとプレーしろ」と問い掛け、背中を押し続けてきた。

代表チームは、その国の風土や社会、教育、価値観などを映し出す。W杯でベンチに助けを求めるような姿は願い下げだ。

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頑張るだけでは限界も

その② 編集委員・忠鉢信一(ちゅうばちしんいち)

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岡田武史監督になって日本が初めて負けた2008年3月のW杯アジア3次予選のバーレーン戦で、「日本のサッカーはどこへいってしまったのか」「これは迷走の始まりかも知れない」と書いた。W杯本大会の出場権をつかみ、南アフリカへ向かう23選手が決まった今も思いは同じだ。

「日本の良さを生かしたサッカー」に近いものがピッチ上で実現されたのは前任のオシム監督が率いた07年9月の欧州遠征が最後だ。絶好機が訪れるまで徹底的にパスを回し、守る相手を走らせて消耗させ、試合の後半以降、相対的な動きの量の多さで圧倒するという試合運びを、当時のチームは意図的に展開した。得点力に難がある日本代表だが、パスをつなぐ力は国際的に見ても高い。得意を生かしたサッカーが完成の途上にあった。

岡田監督の発想は違う。自分たちが走る量を増やして相手を上回ろうとする。「がんばる」が美徳の日本人が受け入れやすい方針だが、非効率的で駆け引きを忘れがちになる。日本人の良さというより弱点が引き出されている。岡田監督の日本代表に出来不出来の波がある理由はこれに尽きる。

最近の不振とあいまって日本代表の評価は近年になく低いものの、勝負は何が起こるかわからない。だが勝ち負けという結果以外にW杯で何を得られるだろうと考えると、現状ではあきらめに近い気持ちだ。

1998~2002年にトルシエ監督が取り組んだ「自動化された連携プレー」は称賛された一方、自由の抑圧という批判も出た。その後06年までのジーコ監督が「自主性」を強調すると、組織の意思決定やスター選手のエゴがテーマになった。「考えながら走る」など名言の多いオシム監督の哲学は関連本の出版が今も続く。いずれもサッカーの枠を超えた議論になり茶の間や居酒屋の話題としても広がった。

岡田監督が掲げる目標を巡る議論は、好き嫌いや信じるかどうか以上の深みを見せていない。「W杯4強」は途中の到達度を測れず、目標に近づく過程で自信を積み重ねられないもどかしさがある。脳科学や心理学を引き合いに語る「無心の状態」という理想も手ごたえをつかみにくい。岡田監督が日本人の良さと考える「ハードワーク」「アグレッシブ」も同じ。現象としておきる体力勝負が日本人の得意ではないから、勝つためのアイデアとして壁に当たる。

今からでも目標を定め直すべきだろう。「日本のサッカー」を語った「岡田サッカー」で独自色を求めるより理にかなった基本を徹底した方がいい。なぜなら結果から多くを学べるからだ。正攻法で格上と当たるのは不安だが、将来、本物の「日本の良さ」を見つける土台にきっとなる。自国開催以外のW杯で日本は5敗1分け。一足飛びを狙っても得られるものは少ない。

2010年5月10日月曜日

宇治田原への帰省、望郷編その②

私の黄金週間(ゴールデンウイーク)初日の5月2日、金さんの自宅を後にして、宇治田原に向かった。金さんの所へ来る時に気付いたのですが、京滋バイパスが整備されていて、名神高速道路の瀬田東インターから寝屋川までは、約20分ぐらいで来た。かってなら、宇治からでも1時間はかかった。今度はその逆行だ。寝屋川から宇治田原への道中を、車窓から懐かしい景色楽しもう。

同伴者の竹さんが、関西には関東で使っているパスモやスイカに代わるもので、「イコカ」というカードがあるらしいんです、とか何とか言っていたので、JRの何処かの駅に寄ってあげようと思っていたのですが、金さんとのビールでその思いつきは雲散霧消。この話を自宅に戻って、三女のソに話したら、福岡では「スゴカ」らしいよ、ときたもんだ。

母校である京都府立城南高校の前を通った。2、3年前に廃校になった。どこかの学校に吸収されてしまったのです。まさか、あの誉れ高く、美女は生まれたが天才だけは生まれたことのない、スポーツも全て弱かった、世にも稀少な学校だったのに。消極的には、校内での立ち食い弁当だけは、ちょっとばかり有名だったかも。

弁当の話題になったので、少し脱線させてもらう。翌日(3日)に43年ぶりに会った城南高校のサッカー部の後輩が、奥さんに私を紹介するのに、この人は元気な人で一人でもサッカーの練習をしていたんだよ、いっつも弁当を2個持ってきていましたよね、アレには驚きました、なんてことを言っていた。そんなことすっかり忘れていた。

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実家に着いたのは午後の3時頃だった。甥の嫁・ヤが迎えてくれた。甥は畑仕事に出かけていた。

先ずは、建替えられた実家を軽くチェック。内装や設備はホテル並みだ。二世帯住宅なので間取りや部屋割りについてはヤの担当だったが、もう一つの世帯の奥方もなかなか手強くて調整には苦労したらしい。車を実家に置いたまま、垣・サ・アに会うために南区名村(在所の名前です。私の実家は南区切林亥子〈いね〉)に向かった。

途中、大辻百貨店に寄った。

いつもは、店番をしているハルエちゃんに見つけられて声を掛けられるのに、この日は店は閉まっていた。店主の善さんは糖尿病を患っていて今は留守ですと言われた、私はそれ以上のことを聞けなかった。以前から病気が悪化していることは聞かされていたのです。店主の娘さんもお店を手伝っているようだった。

私が小学生のときには、冬や春、夏休み、休日には必ずこの店の手伝いをした。少しだけれど、小遣い稼ぎをしていたのです。大人になって現在のような仕事に就いた、その商売心の源泉は、この大辻百貨店にある。仕事を終えてご飯をご馳走になって、テレビを1時間ほど観て自宅に帰るのでした。当時、我が家にはテレビがなかったのです。大辻百貨店と名前は大きく謳っているけれど、内容はどこにでもある雑貨屋さん。その後、こんな小さな町にも割と大きなスーパーが進出してきて、大辻百貨店のやり繰りは大変だろうなと心配する、それでも頑張っている善さん一家に熱いエールを送ろう。この店は、私の経済人としてのルーツでもあるのですから、これからも頑張って欲しい。

大辻家を辞して名村に向かったのですが、途中に岡の藪という処があって、そこに城南高校のサッカー部の1年後輩・原がサッカー部の卒業名簿に記載されていることを、もう何十年前から知っていたのですが、何故、宇治に居た原がこんな処にどうして居るのか、誰にも聞かなかったし、知ろうともしなかったのですが、この日はどういう風向きか、積極的に確かめたい欲望に駆られた。

時間的に余裕があったこと、酒の勢いが冷めていなかったせいかも。恐る恐る、出られた奥さんに私の素性を説明し、この家の主は、私の知っている原さんではないかと尋ねた。奥さんは、原とは竹馬の友で、そのまま夫婦になられたようで、高校で1年先輩の私のことは、よく聞かされていました、と言ってくれるではないか。でも、本人の原は外出中だった。明日、時間がとれれば、再度お寄りしますと言って、失礼した。

公民館の前を通った。

この公民館で私たち夫婦は38年前、結婚披露宴をしたのです、と竹さんに説明した。結婚式は、一の宮神社でユニークな神主さんが神事を執り行ってくれた。誓詞もあった。私たちよりもう少し先輩たちの時代には、結婚披露宴のために多額のお金を遣わないように、公民館を利用する運動が、農協の青年部で起こったのです。私は、それを真似たわけではないのですが、少しの費用でできるだけたくさんの人に来てもらいたかったのです。百五十畳ぐらいの畳敷き込みの部屋なので、詰込めば幾らでも人員は収容できた。宴席は丸いテーブルを数箇所配置、そのテーブル毎に父の尋常高等小学校の同級生の魚屋〈屋号は魚留(うおとめ)〉が、煮焼きした海老や鯛を並べ、それ以外の料理といえば、親戚の方々の協賛品でそれはそれは豪勢な盛付けだった。畳なので、招待客は、酔っ払っては寝っ転び、目が覚めたら料理に口鼓を打つ、宴会は牛の涎のように続いた。大学の友人のマサなどは、ごちゃごちゃ言っているかと思いきや、気がついたら鼾をかいてのご就寝、起きだしては歌を歌った。舞台つきだったので、歌を歌うときは歌手になったつもりで、義妹の琴演奏も見栄えがして好評だった。

コバの家にも寄ってみた。

トントンと玄関扉を遠慮なく叩いた。オーという返事と共に懐かしい顔で私たちを迎えてくれた。中学校時代はバレー部だった。コバの家は貧乏だった。父親は早くに亡くなり、母は子育てで精一杯、田畑や財産があったわけではない、田舎では現金収入を得る働き場もないのだ。そんな環境の中で、コバと姉はよく育ったものだと思う。コバは、中学校を卒業して京阪宇治交通というバス会社に就職した。コバの母は、その時ホッと一息ついたことだろう、その実感は幼い私にも痛いほど理解できた。コバが車掌をしているときに偶然に乗り合わせた時は、ラッキー、目配せだけで無銭乗車だ。それほど、彼と私の間には強固な友情関係があった。私が2年間の浪人から脱け出して、東京に向かって実家を発つ朝、餞別の品として万年筆を持って来てくれた。少ない給料のなかから、私好みの品選びをしてくれたのだろう。母とコバの前で憚ることなく万年筆を握って泣いた。立派にはなれなくても、強く生きて母やコバを落胆させまいと決意した。

私が、大学を卒業して入った電鉄系の観光会社を足掛け10年勤めて、心に吹いた隙間風と共に退社した。その時気休めのために帰省して最初に訪ねたのは、私の父と母がいた実家ではなく、コバの家だった。

垣さんサっちゃんご夫妻のお宅に着いた。

垣さんは少し前に網膜はく離の手術をして、今日は外泊許可をとって一時的に帰宅されていた。でも、根っからの仕事人の垣さんは、野菜に水を掛けていた。今夜は酒が飲めないので、妹のアの処での宴会には行けない、すまん、と仰っていた。この垣さんの家というのは、私の母の実家なのです。

かって、この家には私の母のお姉さん(伯母)や母の母(祖母)がいて、垣さんは垣家の家長で、伯母の子どもだから私の従兄弟です。郵便局を定年まで勤め上げ、今は農業一本だ。私の父は病気になるまではこの垣さんに、事あるごとに何かと相談にのって貰っていた。先見性があり、常識派でもあるのだ。

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私の田舎では、毎年夏のお盆の時期に、薮入りで、母と私たち兄弟3人は、この垣家に泊りに来ていた。

薮入りは嫁が実家に里帰りして、日頃のご無沙汰を詫び疲れを癒すためでした。広くは、薮入りといえば1月16日と7月16日の閻魔様の縁日に、商家の主人が奉公人に小遣いを持たせて家に帰し、休みをとらせたのです。私たちの家と垣家は歩いて10分ぐらいの距離の処なので、何もお泊りコースでなくてもいいのではと事情を知らない人は思うだろうが、この薮入りには深い意味があるのです。

私の母はこの薮入りを非常に楽しみにしていた。我が家は父母と祖母、兄弟3人の6人家族だったのですが、父と母は夫婦喧嘩が絶えなかったのと、祖母は厳しい人だったのです。私には特別優しかったのですが。父は金融機関から資金を借り受け耕作面積をどんどん増やしていたことと、機械好きで次から次に新発売される農業用の機械を購入するので、家計は火の車でした。そんな状況下で母は過酷な農作業の手助けと家事を一手に引き受けていたので、心身ともその疲労は大変なものだった。でも、性格は生まれながら暢気なところもあって、なんとか緊張と疲労をうまい具合に調整していたのだろう。そんな母が一年のうちで最高にリラックスできるのが、この薮入りだったのです。

母は3人姉妹の真ん中だった。お姉さんや妹に囲まれて、会話に花が咲いていたかと思うと、今度は嘘のようにグーグーと惰眠を貪(むさぼ)っていたのが印象的だった。その寝顔を見て、皆で大笑いしものです。 薮入りに行った時には、垣さんは近所の池に鮒を釣りに連れて行ってくれた。クチボソやハヤ(ウグイ)、鯉も釣れました。伯母さんの、今日はすき焼きにしよう、の号令と同時に、アちゃんの自転車の後ろに乗せてもらって肉屋さんに、飛びっきり上等の肉を買いに行った。アちゃんの腰に両手を添えて、ちょっと恥ずかしい気持ちになったのでした。アっちゃんは垣さんの妹で、その頃は中学生だった。二番目の兄は、伯母さんの料理に文句を言っては嫌われていた。特に豆ご飯が大嫌いで、お茶碗の中のご飯を掻き雑ぜて豆を一つ一つを摘まみ出し、お膳の上に並べた時は、非常に拙(まず)かった、伯母さんはカンカンに怒っていた。伯母は相当頭にきたのだろう、その後、何度も伯母の口からこの話を聞かされた。二人の兄は、すぐに自宅に戻ったけれど、私はいつまでも帰らずに、垣さんの家から学校に通っていた。

この垣とアっちゃんの二人は私のことを弟のように可愛がってくれました。私には、情熱的に百姓に燃える一番上の兄と、気難しい理系の二番目の兄がいたのですが、兄弟三人揃って仲良く何かをしたとか、遊んだとかは不思議なことに一度もなかったのです。だからと言って、いがみ合っていたわけでもなく、他人のように三人三様独立して行動していたのです。まるでライバル同士のように。前の方で書いたように、私の父と母の関係、祖母の存在、それに殺伐?ではないが、淡々とした、味気のない兄弟関係。誰もが家族の雰囲気を和やかにする役目を果たそうとしない、親愛の情に溢れた気の利いた台詞が飛び交うこともなかった。そんなことに敏感だった私と疲弊していた母にとって、この垣さんの底抜けに明るい家庭の雰囲気は、私には楽しさを、母には癒しを与えてくれたのです。

実家では、百姓に真剣に取り組む家族の姿を見たが、垣さんの家では、生活の楽しみ方の知恵を学んだ。

 

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本日の最後の訪問先は、アちゃん宅だ。

アっちゃんは、垣さんの妹で私の従姉弟だ。この家は、アっちゃんが結婚する時に、夫の実家が提供した土地に夫婦が建てたものだ。私の母の若い頃の顔や体型が似てきたように思って、再三そのように言うと、アちゃんは嫌な顔をした。でも、似てきたんだからしょうがないじゃないか。殊更親近感が湧いてくるのです。この日もアちゃんの手作りの料理がテーブル狭しと並べられた。メインはアちゃんご自慢の鯖寿司だ。何回ご馳走になっても、変わらぬ美味しさだ。宇治田原で採れた米に肉厚の鯖。この鯖寿司と、私とアっちゃんの三角関係は長い歴史があり、今後も廃れることはないだろう。

枚方に住んでいるアちゃんの娘さん夫婦も子連れで来ていた。ご主人さんは測量士さんだ。山岡家からは、甥夫婦も参加してくれた。私の強い味方だ。私の、今置かれている、経済人としての状況を説明した。皆から励まされた。また、一緒にお邪魔した竹さんの紹介も皆にした。

最後の最後は、今晩寝床のお世話になる実家、建替えられた新築の家に戻ってきた。体中アルコール漬けで、何を話したか分らない。豚のような鼾をかいて、迷惑をかけたようだが、あしからず、スマン。

2010年5月9日日曜日

お父さん、何で吉岡先生なのよ

久しぶりの帰省を前に、私の所作は傍(はた)目にも、やはり浮き足立っているように見えたようだ。そりゃそうだろう、久しぶりに我が聖(生)地に帰るのだ、心も体も浮き浮きなのは極、自然なことだ。

田舎が、俺を呼んでいる、ぜ。

三女・花が、「お父さん、吉岡先生のお見舞いに行くって聞いたけど、いっつも吉岡先生、吉岡先生って言ってるけれど、いい先生は他にもいたでしょう、に」と聞かれた。

不思議なことなんですが、私の日常に起こる出来事がほとんど同時に、同じ内容や事柄が新聞や週刊誌上で、記事として見つけることがよくあるのです。今回も、三女に恩師のことを問われて、20100427の朝日朝刊の声(投書欄)に、東京都の小学校講師の男性が吃音の癖で嫌な思いをしていたが、高校の先生の温かい指導に恵まれてから、徐々に吃音が直った、という記事を見つけたのです。この新聞記事はこの稿の最後に転載させていただいた。

そこで、私にとっての吉岡先生問題に触れてみる。

吉岡由治先生は、中学校の体育担当の教諭だった。生まれも育ちも、我が家の近所だった。体育のクラブ活動では、野球と陸上部を担当されていた。3年生の時は、私は4組で、先生は5組のクラス担当でもあった。中学校の3年間は、吉岡先生からは保健体育の授業を受けただけで、直接親しくさせてもらったわけでもなかった。ただ、先生の行動する姿が私に対して、大きな影響を与えた。

その頃の私はどんな子どもだったのか、その辺りから書いてみよう。成績はまあまあ、悪くはなかった。高校進学用の一斉試験(きたおうじ?)が定期的に行なわれていて、その試験においては常時上位にはいた。高校進学も、希望する唯一の府立高校にはお墨付きをもらっていた。希望も糞も、公立高校はその学校しかなくて、毎年その高校には母校の維孝館中学からは25人前後は入学していた。そのように、入試は何とかクリアーするだろうが、私にはその先の先のこと、自分の将来への不安が常に付き纏っていた。こんな田舎育ちの私に、大都会で何が出来るというのだ。貧農の三男坊は、実家を出て、自らの人生を自らの力だけで生きていかなければならない、何をどのようにすればいいのだ、その精神的な重圧は、少年には相当なものだったように思い返す。不安を抱えながらも、漠然と将来に胸を膨らませ、青雲の志には覚束ないまでも、大いに夢見る少年だったのです。

2月になって、高校入試の日が近づいてくると、母は昼間の野良仕事で疲れているのに、夜中に布団を縫いだしたのです。上等の真綿を買ってきたとか言いながら。実は、私には近所の有力な茶問屋・矢から、中学を終えたら仕事に来てもらえないかと誘われていたのです。父母にとっては、高校に進学するのも、茶問屋に丁稚奉公にいくのもあまり違いはないようだった。大阪に店を出すためのスタッフを募っていたようです。先方にはその諾否は告げていなかったが、入試が駄目だった時は、きっと茶問屋行きになっていだろうが、両親の思いはこっちの方に傾いていたようだ。小学生の頃から、大辻百貨店の店員として、店番から、月掛け売りの集金や、リヤカーに日用雑貨を積んで在所を売り歩いたり、土用のアンコロの予約を一軒一軒回って受け付けたり、そんな商売好きな子どもの私に、茶問屋さんは興味をもったのだろう。生家とは遠い親戚にあたることも、両親には好都合だったのかもしれない。

私は、以前から地元の裕福な酒屋・田から、高校を卒業した頃に養子に来て貰えないかと、要請を受けていたらしい。この件で、父は鬼になって酒屋に怒鳴り込んだ。うちの大事な息子を、養子なんかにやれるもんか、と。そんな出来事をを他人の口から聞かされたのですが、我が父は頑張っているなあ、と感心させられた。私のことを思いやる父を、頼もしく思った。嬉しかった。私は、養子としては抜群の魅力を備えていたようだ。

不安だったのだ。これから、俺はどうなるんだろうか?

そんな危なっかしい精神状態の時に、吉岡先生は私の前に答えをもって現れてたのでした。先生の授業は、マアマア、ホドホドに楽しかったけれど、午後、授業が終わってクラブ活動の時間になると、それはそれは吉岡先生の行動が目を瞠るものに大変身するのでした。先生は、一心不乱、熱中、大人が何故そこまで熱くなれるの、私はそれらの光景に身も心も奪われてしまったのです。雨の日も、風の日も朝の練習から午後の練習、休みなしの毎日、正月の元旦も。愛嬌のある顔を真っ黒にして、運動場、教室、体育館を小柄な体で走り回っていた。どの体育クラブも成績は飛びぬけていい結果を残せなかったけれど、生徒たちも可笑しいほど頑張っていた。生徒から挨拶を受けると、必ず何かの冗談を返すのです。そんな先生の行動にヒントをもらったのです。

ちょっとばかり勉強できたからって、そんなことで、私は嬉しくもなんともなかった。

動こう、体を動かそう、一つのことに邁進していれば、その先に何か光明が射してくるかもしれない。そのように自らを追い込み精進した。結果、実り豊かではなくても、充実した日々を過ごすことができたら、それでいい。そんな時間の過ごし方を先生の行動から学び取ったのでした。最高の指導を受けたことになったのです。

そして、中学校ではバスケットボールに打ち込み、大辻百貨店でアルバイトに精を出し、兄ほど上手ではなかったけれど畑仕事や山仕事を手伝ったのでした。

高校ではサッカーと大辻百貨店、運送会社、メタル工場でのアルバイト。浪人時代は、ドカタだった。大学ではサッカーと数々のアルバイトに精を出した。

あらゆるアルバイトから社会人になるための重要な素養を身につけていった。何故か、勉強することは除外していた。この除外したことによる損失の甚大さは、大学の3年生の頃には気付いていたが、もう修正がきかなくて、ひたすら田舎の方に向かって「お父さんお母さん、卒業したら一所懸命に勉強しますから」、そのように詫びた。

 

この声欄の記事を転載させていただく。感動的なんだ。東京都北区にお住まいの59歳の小学校講師の飯塚修一さん。タイトルは、私の吃音、こうして治った。

幼い頃、私には吃音の癖がありました。特に、サ行とタ行の音が苦手で、小学生の時は国語の授業が苦痛でした。

中学生になって、駅の窓口で切符を買う時、サ行とタ行の駅名が言えず、顔中真っ赤になりました。周囲から吃音を笑われたり、からかわれたりするのが本当に嫌でした。

都立高に入学して間もないある日、国語の授業で音読の順番が回ってきました。私は覚悟を決め、読み始めました。最初の1行からもう駄目、つっかえつっかえです。2行目、頭の音が出てきません。教室は静まり返り、私は開き直りました。もういい、どうにでもなれ、どもってやれ。

一体どれだけの時間がかかったか、ついに私は2ページを読みきりました。異様に静かな教室で、先生は何事もなかったように穏やかに「はい次」と授業を進めていきました。

その日を境に、私の吃音は少しずつ治っていった気がします。そして私は、大学を卒業し、小学校教員になって三十数年間、子どもたちの前で話し続けてきました。

あの時の安食(あんじき)恒昭先生の温かいご指導に感謝しております。黙って待った、先生の仁術で吃音は治ったのです。

2010年5月6日木曜日

宇治田原への帰省、望郷編その①

2010、5月2日の早朝3時、権太坂を車で私の聖(生)地である京都府の宇治田原町に向かった。故郷(ふるさと)は、遠くにありて、、、と想い過ぎたのか、帰りたくなったのです。同伴者は、二女の婿・竹さんだけ。家族の誰もがそれぞれに用事があって、休みを揃って取れたのは二人だけだったのです。竹さんは、電鉄関係の電気工事を請け負っている会社に勤めていて、3月末で、大方の仕事はやり終え、新年度になったばかりの4月は、比較的に仕事が楽な様子だ。私の実家、実家と言っても建替えられた新築の家で寛いでいるときに勤務先の社長さんから電話があって、木(6日)、金(7日)も有給休暇でいいよ、8,9日は土、日曜日で休みだから。なんちゅう気の利いた社長さんやないか。電鉄系の仕事がメインなので、急に突発的な仕事が発生することがある、休める時にはできるだけ休んでおこうという算段のようだ。話は逸れますが、長女夫婦の自宅を一週間前に上棟したばかりなんですが、この家の電気工事はこの竹さんの会社で請け負ってくれた。幸せなことだと、草葉の陰ならぬ打ち合わせの隅っこで、そっと様子を窺っているのです。

竹さんは、以前に宇治田原で農業をしている、私の甥・清と一緒に旅行した際、もともと興味があった百姓仕事の手伝いを申し出たことがあって、この機会に是非実現させたいと思っていたようだ。この旅行というのは、昨夏、私の長男・草の嫁さんの実家=五島列島の宇久島に、長男が嫁を迎えに行くのに二女夫婦と子どもが便乗、そこに、甥夫婦も合流したのでした。長男の嫁の実家には、随分刺激的に迷惑をかけたようだが、それもいい思い出になったようだ。

今回の私の帰省の目的はと言えば、病床に臥している中学校時代の恩師・森先生のお見舞い、父・勝と母・ハの墓参り、長くご無沙汰している親戚の方々・垣、ア、サへの挨拶回りをしたかったのです。たったの一日だけど、野良仕事の邪魔でもさせてもらおう。

でも、そこは欲張りの私のこと、それだけでは満足できなくて、折角京都まで行くのなら、寝屋川に居る金さんに会わないわけにはいくまい。スケジュールに詰め込んだ。

昼、正午前に金宅に着いた。

早速、喉を乾すことなく缶ビールを空け続けた。金さんの三女のミと長女のヤが、お好み焼きを作ってくれた。ヤは元スッチィーで、スチュワーデスをこのように言いませんでしたか。ミはタイでのNPO活動で、オーストラリア人と知り合い、結婚。今はバースで住んでいると言っていた。ミから、久しぶりに俺のことをレッドマンや、と冷やかされた。ミが子供の頃、箱根での宴会で初めて冠名を付けられたのだが、その後もずうっと、彼女の前ではレッドマンになってしまったのです。

金ちゃんと、話すことは昔の学生時代のことばかり。お金がなくてもビールが飲みたくて、蕎麦屋(さんこうわん)の店の横に隠してあった1ケースを深夜ちょろまかしたこと、20本を二人では飲みきれなくて返しに行こうかどうか本気で悩んだこと、このことを二人っきりの内緒にしていたのに店の長男・イっちゃんは、ちゃんと知っていたらしい。だからか? イっちゃんは私にはいつも優しかったんだ。など、など、いつまでも品のいい話は出てこなかった。2年の時、大学サッカー春季新人大会で優勝した時の狂宴、宴会後の各人が精一杯あっちこっちで働いてくれた狼藉物語を懐かしく思い出した。私は、寮の集会室の畳にゲロまみれになって泥酔したまま、寝込んでしまったのだ。朝、目を覚まして顔を畳から離そうとしても離れなくて、必死で顔を離すとバリバリ畳の網の目が頬っぺたにくっきり、痛かった。ゲロが糊になって、顔を畳に張り付けたのだ。ますます、話の内容は品よくなるばかりか、下品になっていく一方だった。

金さんの母が亡くなって丁度1年が経ち、墓参りをしようと、4人いる娘さん達は金さんの家に総結集することにしたらしい。オーストラリア在住の三女とその息子、東京は品川から来た長女とその息子、二女・バと四女・マは未婚でそれぞれ東京から、今夜と明日に帰ってきょんね、と言っていた。明日はみんな揃って、信貴山に墓参りだ。学生時代の牛のシッポの料理以来、お邪魔する度に何かと食の面でお世話になった。気丈夫な、大阪のオバハンだった。強い女だったようだ。

2010 018  2010 031 2010 024

 

 2010 022 2010 032

 

保土ヶ谷バイパスー東名(町田インター)=東名高速道路=(豊田ジャンクション)=伊勢湾岸自動車道=(四日市ジャンクション)=東名阪自動車道= (亀山ジャンクション )=新名神高速道路=(草津ジャンクション)=名神高速道路=(瀬田東インター)=京滋バイパス=寝屋川

 

 

2010 013

車窓から、東名高速道路に迫っていた森の中の、綺麗な紫色の藤が見事だったのでシャッターを切ってはみたものの、写真には実物ほどの色が出ていなくてがっかりしたが、それでも、貼り付けました。藤は花が咲いた時だけ、その存在感を見せる。