2010年5月9日日曜日

お父さん、何で吉岡先生なのよ

久しぶりの帰省を前に、私の所作は傍(はた)目にも、やはり浮き足立っているように見えたようだ。そりゃそうだろう、久しぶりに我が聖(生)地に帰るのだ、心も体も浮き浮きなのは極、自然なことだ。

田舎が、俺を呼んでいる、ぜ。

三女・花が、「お父さん、吉岡先生のお見舞いに行くって聞いたけど、いっつも吉岡先生、吉岡先生って言ってるけれど、いい先生は他にもいたでしょう、に」と聞かれた。

不思議なことなんですが、私の日常に起こる出来事がほとんど同時に、同じ内容や事柄が新聞や週刊誌上で、記事として見つけることがよくあるのです。今回も、三女に恩師のことを問われて、20100427の朝日朝刊の声(投書欄)に、東京都の小学校講師の男性が吃音の癖で嫌な思いをしていたが、高校の先生の温かい指導に恵まれてから、徐々に吃音が直った、という記事を見つけたのです。この新聞記事はこの稿の最後に転載させていただいた。

そこで、私にとっての吉岡先生問題に触れてみる。

吉岡由治先生は、中学校の体育担当の教諭だった。生まれも育ちも、我が家の近所だった。体育のクラブ活動では、野球と陸上部を担当されていた。3年生の時は、私は4組で、先生は5組のクラス担当でもあった。中学校の3年間は、吉岡先生からは保健体育の授業を受けただけで、直接親しくさせてもらったわけでもなかった。ただ、先生の行動する姿が私に対して、大きな影響を与えた。

その頃の私はどんな子どもだったのか、その辺りから書いてみよう。成績はまあまあ、悪くはなかった。高校進学用の一斉試験(きたおうじ?)が定期的に行なわれていて、その試験においては常時上位にはいた。高校進学も、希望する唯一の府立高校にはお墨付きをもらっていた。希望も糞も、公立高校はその学校しかなくて、毎年その高校には母校の維孝館中学からは25人前後は入学していた。そのように、入試は何とかクリアーするだろうが、私にはその先の先のこと、自分の将来への不安が常に付き纏っていた。こんな田舎育ちの私に、大都会で何が出来るというのだ。貧農の三男坊は、実家を出て、自らの人生を自らの力だけで生きていかなければならない、何をどのようにすればいいのだ、その精神的な重圧は、少年には相当なものだったように思い返す。不安を抱えながらも、漠然と将来に胸を膨らませ、青雲の志には覚束ないまでも、大いに夢見る少年だったのです。

2月になって、高校入試の日が近づいてくると、母は昼間の野良仕事で疲れているのに、夜中に布団を縫いだしたのです。上等の真綿を買ってきたとか言いながら。実は、私には近所の有力な茶問屋・矢から、中学を終えたら仕事に来てもらえないかと誘われていたのです。父母にとっては、高校に進学するのも、茶問屋に丁稚奉公にいくのもあまり違いはないようだった。大阪に店を出すためのスタッフを募っていたようです。先方にはその諾否は告げていなかったが、入試が駄目だった時は、きっと茶問屋行きになっていだろうが、両親の思いはこっちの方に傾いていたようだ。小学生の頃から、大辻百貨店の店員として、店番から、月掛け売りの集金や、リヤカーに日用雑貨を積んで在所を売り歩いたり、土用のアンコロの予約を一軒一軒回って受け付けたり、そんな商売好きな子どもの私に、茶問屋さんは興味をもったのだろう。生家とは遠い親戚にあたることも、両親には好都合だったのかもしれない。

私は、以前から地元の裕福な酒屋・田から、高校を卒業した頃に養子に来て貰えないかと、要請を受けていたらしい。この件で、父は鬼になって酒屋に怒鳴り込んだ。うちの大事な息子を、養子なんかにやれるもんか、と。そんな出来事をを他人の口から聞かされたのですが、我が父は頑張っているなあ、と感心させられた。私のことを思いやる父を、頼もしく思った。嬉しかった。私は、養子としては抜群の魅力を備えていたようだ。

不安だったのだ。これから、俺はどうなるんだろうか?

そんな危なっかしい精神状態の時に、吉岡先生は私の前に答えをもって現れてたのでした。先生の授業は、マアマア、ホドホドに楽しかったけれど、午後、授業が終わってクラブ活動の時間になると、それはそれは吉岡先生の行動が目を瞠るものに大変身するのでした。先生は、一心不乱、熱中、大人が何故そこまで熱くなれるの、私はそれらの光景に身も心も奪われてしまったのです。雨の日も、風の日も朝の練習から午後の練習、休みなしの毎日、正月の元旦も。愛嬌のある顔を真っ黒にして、運動場、教室、体育館を小柄な体で走り回っていた。どの体育クラブも成績は飛びぬけていい結果を残せなかったけれど、生徒たちも可笑しいほど頑張っていた。生徒から挨拶を受けると、必ず何かの冗談を返すのです。そんな先生の行動にヒントをもらったのです。

ちょっとばかり勉強できたからって、そんなことで、私は嬉しくもなんともなかった。

動こう、体を動かそう、一つのことに邁進していれば、その先に何か光明が射してくるかもしれない。そのように自らを追い込み精進した。結果、実り豊かではなくても、充実した日々を過ごすことができたら、それでいい。そんな時間の過ごし方を先生の行動から学び取ったのでした。最高の指導を受けたことになったのです。

そして、中学校ではバスケットボールに打ち込み、大辻百貨店でアルバイトに精を出し、兄ほど上手ではなかったけれど畑仕事や山仕事を手伝ったのでした。

高校ではサッカーと大辻百貨店、運送会社、メタル工場でのアルバイト。浪人時代は、ドカタだった。大学ではサッカーと数々のアルバイトに精を出した。

あらゆるアルバイトから社会人になるための重要な素養を身につけていった。何故か、勉強することは除外していた。この除外したことによる損失の甚大さは、大学の3年生の頃には気付いていたが、もう修正がきかなくて、ひたすら田舎の方に向かって「お父さんお母さん、卒業したら一所懸命に勉強しますから」、そのように詫びた。

 

この声欄の記事を転載させていただく。感動的なんだ。東京都北区にお住まいの59歳の小学校講師の飯塚修一さん。タイトルは、私の吃音、こうして治った。

幼い頃、私には吃音の癖がありました。特に、サ行とタ行の音が苦手で、小学生の時は国語の授業が苦痛でした。

中学生になって、駅の窓口で切符を買う時、サ行とタ行の駅名が言えず、顔中真っ赤になりました。周囲から吃音を笑われたり、からかわれたりするのが本当に嫌でした。

都立高に入学して間もないある日、国語の授業で音読の順番が回ってきました。私は覚悟を決め、読み始めました。最初の1行からもう駄目、つっかえつっかえです。2行目、頭の音が出てきません。教室は静まり返り、私は開き直りました。もういい、どうにでもなれ、どもってやれ。

一体どれだけの時間がかかったか、ついに私は2ページを読みきりました。異様に静かな教室で、先生は何事もなかったように穏やかに「はい次」と授業を進めていきました。

その日を境に、私の吃音は少しずつ治っていった気がします。そして私は、大学を卒業し、小学校教員になって三十数年間、子どもたちの前で話し続けてきました。

あの時の安食(あんじき)恒昭先生の温かいご指導に感謝しております。黙って待った、先生の仁術で吃音は治ったのです。