朝めしをご馳走になって、竹さんと甥・セは茶園畑の消毒に出かけた。
私と甥の嫁・ヤは自宅で暫く雑談を楽しんで、甥がやっている竹炭づくりの窯見学に連れて行ってもらった。百姓仲間の一人が始めた竹炭づくりを、ただの物見遊山で一人集まり二人集まり、今は8人ほどで本気でやっているらしい。竹炭づくりは、冬の農閑期の仕事だ。今の窯ができるまでに試行錯誤があったのですよ、各地の異なる土を持ってきて試してみた、窯の構造もいろいろやってみたのですが、失敗の連続でした、と甥。孟宗竹を使うのですが、この竹は私の田舎のそこらじゅうにあって、材料にこと欠かない。荒れ放題の竹林の整備と、竹炭づくりは一石二鳥でよくぞ思いついたものだ。
打ち合わせの小屋と、出来上がった竹炭を保管する小屋の2棟が、いかにも手作り風に建っていた。黒板には仲間の名前と予定が書き込まれていた。このうち真面目に来る奴は少しだけだそうだ。テーブルがあって、ビールの空缶がいっぱい散らかっていた。窯に火をつけたら、後は飲んでばっかりや。甥はいい仲間に恵まれていると思った。
ここで仲間達は、米作りのこと茶のこと、始まった大型の茶畑開墾事業をビール片手に自分の感じたこと学んだこと、教えられたこと、これからのことの情報交換を行なっているのだろう。
夜、夕飯の際、竹酢液を薄くして飲まされたが、強烈な臭いと味がした。喉の奥に液体の一部がくっついたのか、いつまでも気持ち悪さは取れなかった。家の周りに撒いたり野菜にかけて、虫が近づかないようにしたり、入浴剤になったり、殺菌や消毒効果もあるのです。竹炭は、本来の炭としての役割以外に、空気清浄効果、消臭作用、湿気吸収、カルキの吸着効果があるのです。今や、健康趣向の時代だ、よく売れるそうだ。
今回の帰省の大きな目的の一つに、父と母、祖母の墓参りがあったのです。祖母は私が結婚して2年目ぐらいで亡くなった。36年前のことだ。祖母は父や母には厳しかったのですが、私には特別優しかった。お通夜、酒に酔った私は、布団に寝かされた祖母の布団の中にもぐって寝た。おばあちゃんは、冷たかった。平成14年の2月に母が、11月に父が同じ年に同じガンで亡くなったのです。母享年81歳、父享年86歳でした。この年とその1年前は、2週間毎、1週間毎に見舞いに行った。死が日に日に迫ってきて、休日には居ても立っても居られなかったのです。距離にして片道450キロ、ドアからドアまで5時間はかからなかった。親を亡くして人間は一人前になる、とよく言われるけれど、父の葬式の夜、夢の中で父母にしっかり生きていけよ、と迫らて心臓がぎゅっと押しつぶされそうになった。父母の霊が、生身の私の中に忍び込んできて、私を励ましたのだ。その後、七回忌にも、会社の財務が緊急事態だったので参加できなかったのです。
報国寺だ。
父と母の思いではいっぱいある。高校進学、2年間の浪人生活、大学、就職について、何から何まで事後承諾で認めてくれたことは、私のようなちょっと我が儘な人間にとって、ありがたかった。父は、東京大や京都大、日本大学は知っていたけれど、私の入学した大学は知らなかった。卒業して入社した会社の関連の電鉄会社の名前も知らなかった。母からは田舎を出て上京する時、二つの約束をさせられた。その一つは、偉くならなくても、お金持ちにならなくてもいい、田舎ではお兄ちゃんが一所懸命百姓で頑張っているので、お兄ちゃんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ、それってどんなことをしたら泥を塗ることになるのと聞いたら、警察だけにはお世話になるようなことはしないでくれということだった。もう一つは、東京は何でも高いから、食事をする時は店の入り口に「めし」とか「定食」とか書いてある暖簾がぶら下がっている店に入りなさい、レストランとか綺麗な入り口の店は高いから入っていけない、と言われた。母の忠告を神妙に拝聴した。
何年か前に兄は墓石を新しくした。兄はトコトン山岡家の跡取りだ。代々継いで来た生業を、彼は全くの百姓然として、格好よく、少しも揺るぎなく山岡家を守ってきた。一番身近な者として、深く感謝する。天晴れなことに、立派な跡継ぎの息子を育て上げた、これも偉業だ。
田原小学校の校門だ。校門には維孝館と銘打ってある。田原小学校は昔、維孝国民学校と呼ばれていた。この維孝という名前はその後、中学校の校名に使われ、宇治田原町立維孝館中学校となった。両方とも、私の母校だ。担任だった先生はみんな思い出せる、小学校は川南、山本、中村、伊藤先生だ。中学校は、名前は出てこないが国語の先生、森本、山田先生だ。
自宅から小学校に通う時に必ず渡る橋があって、その橋の上から上流方面と下流方面に向かって撮った写真です。私が幼少の頃は、もっと川の水は豊富で、夏になると大人が大きな石で堰を作ってくれた。水かさを増した臨時のプールでよく泳いだものです。ここは、子ども仲間では初級コースでした。難関コースは別の川にあって、小学校の上級生になって挑んだ。唇が真っ青になるまで、体が冷えてブルブル震えながら、陽がかげるまで遊んだ。水際の草むらに竹かごを構えて、片方の足で、上方からガサガサ騒ぎ立て、休んでいる魚を追い立ててその竹かごに誘導するのです。捕れた魚は、ハヤ、フナ、ゴリ、ドジョウ、他にはタニシ、ゲンゴロー、ザリガニ、イモリなどだった。
昨日、寄った城南高校の後輩・原の家にもう一度行ってみた。彼は居た。奥さんも居た。43,44年ぶりだ。高校のときは、ちょっと二枚目を気どった静かな子だった。何で、宇治田原なの? と気になっていたことを聞いた。彼のお父さんは、この宇治田原の出身で、就職したのが宇治市役所だったので、土地の値段は安いし、職場にも近いので、ここにしたんです、もう30年以上住んでいます、と話した。美味しいお茶、コーヒー、甘味をご馳走になった。一通り、城南高校が廃校になったことや、共通の知り合いの情報を聞かされた。情報は貰い放しだ。さすが、30年も住めば、この宇治田原の人々とも随分濃厚な人間関係を構築しているもんだと感心させられた。私の友人、親戚、恩師とも仲良くやっているのには、驚いた。でも、二人の空白の何十年間のことは何故か話題にならない。狭い宇治田原の町では。何処の、誰が、何をして、どうなったか?一瞬にして、情報は行き届くのです。原はもう充分宇治田原の地元民だった。帰りには焼酎をくれた。
私は、彼の顔を見て喋りながら、45年前のことを思い出していた。サッカーは下手糞だったのに、朝の授業の始まる前、昼飯の後、午後の練習と、時間をみつけてはボールを蹴っていた。真剣だった。午後の授業が始まって教室に入っても、頭から湯気が立ち上り、先生に、ヤマオカ、ちょっと廊下で頭を冷やして来い、と言われ廊下をうろちょろしていたもんだ。皆からは、ゲラゲラ笑われた。いっつも元気印の私はみんなの人気者でもあったのです。特にBグループの女の子たちに。
練習が終わって、ホンダのカブに乗って宇治川に沿って帰るのですが、そそり立つ山からちょろちょろ水が流れる小さな滝があっちこっちにあって、蛍の季節になると、何万匹の蛍がその滝ごとに、山肌から離れた闇のなかに光を点して宙に飛び交っていたのです。まるで夢の中の世界だ。その中を、お尻を後ろに引いて背を丸めて突っ切って行くのです。これは、俺様だけが特別な経験をしているのだ、と思っていた。