2010年12月12日日曜日

天声人語、創作四文字熟語

毎年年末恒例の住友生命の四文字熟語だ。確か、去年もこの天声人語をこの私のブログに使わせてもらった。マル写しで。優秀な人がいて、よくぞよくも上手いこと考えたものだと、感心させられた。私にも一つと試みたけれど、愚かな私には何も思い浮かびませんでした。

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天声人語

ウィキリークスにやられた米政府が「公電泥棒」と叫んだかどうかはさておき、たいていのことは漢字四つで表せる.海老蔵さんの一件は「殴顔無値(おうがんむち)」か「親系酔弱(しんけいすいじゃく)」か。以下、住友生命が募った年末恒例の「創作四文字熟語」で今年を顧みる。

まずは森羅万象のはやり物。「辛辣万食(しんらーばんしょく)」とばかりに食卓を席巻したのは食べるラー油。見渡す限り萌え萌えの秋葉原で輝いた「四萌八萌(しほうはっぽう)」はAKB48。呟(つぶや)きを飛ばすツイッターは「流呟飛語(りゅうげんひご)」とまとめられた。

龍馬ブームは紀貫之にあやかって「土佐日記」。500メートルを超えた東京スカイツリーは、早くも「全人見塔(みとう)」の観光地になった。映像の奥行き、飛び出し、臨場感の三位(さんみ)一体で売る「三見立体(さんみ)」の3Dテレビも評判に。

グアム行きの構想は奇想天外だったのか。普天間放置の「棄想県外」に沖縄県民の怒りは募る。中国漁船が体当たりしてくる「船嚇諸島(せんかく)」の事件は検察も巻き込んだ。特捜には期待したいが、事件を作る「独創検事」は困る。

畜産宮崎を襲った口蹄疫で29万頭の牛豚が処分された、ああ「諸牛無情(しょぎゅう)」。古色蒼然のお役所仕事で「戸籍騒然」、所在不明の超高齢者が後を絶たない。花鳥風月も鳴く「夏長秋欠(かちょうしゅうけつ)」の猛暑に、八百屋の店頭は「市場菜高(さいこう)」。腹ぺこの野生動物が街をうろつく「群熊闊歩(ぐんゆうかっぽ)」も。

バンクーバーは「遠金五輪(とおきん)」だったが、南アフリカのW杯は盛り上がった。「芝地団結(ピッチ)」の日本代表に、われら「不眠蹴球」。過労か寿命か、勝敗を当てまくって昇天した「百発蛸中(たこちゅう)」のパウル君も忘れがたし。

2010年12月9日木曜日

夕映えとは、粋やなあ!

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私、62歳です。

今、加賀乙彦氏の「夕映えの人」(小学館)を読書、進行中です。何故、この本の題名が「夕映えの人」なのか、半ばまで読み進んで、やっと作者の意図が分かってきた。この本の作中の主人公は、男ばかりの4人兄弟の長男。家系を先祖から次代に引き継ぐ仕事を、例えば墓守などは、その時の代表者として行なわなければならない。年老いた父母の世話を最高責任者として全うしなければならない。これらは、長男として家長としての仕事でもあるが、それ以外にも何かと負うものが多い主人公だ。そんな主人公の日ごろの仕事は、私立の病院長なのですが、60歳台にのっかって、先ずは自分や夫婦の高齢化による心身、周辺環境の変化を本の中で考察し始める。考察する材料には事欠かない。余計なことかもしれないが、この本も、何とかオフの105円コーナーで買ったものです。念のために、一言添えさせてもらった。

主人公は60歳になって、それから、何かにつけて60歳の感慨に耽りだす。

1970年代には、「熟年」という言葉が生まれた。1985年に厚生省が、50代、60代の中高年に代わる言葉として「実年」という言葉を作ったが、今では余り使われていない。60代を「老年」とは呼ばないようにしているようだ。それでも、ぴったりした言葉が見つからないので、各氏がそれぞれに「時雨(しぐれ)族」、「夕暮れ族」とか「濡れ落ち葉族」なる言葉を発明した。

何年か前にできた後期高齢者医療制度では、65歳から74歳までを前期高齢者といい、75歳以上を後期高齢者だと名づけた。後期高齢者って、もうそろそろ人生終わりだってことか。そんな馬鹿な。この年齢区分名の無慈悲な役所仕事に国民から不評を大いにかった。

かって、この私のブログでも書いたが、作家・佐江衆一さんは老いさらばえていく父母のさまを「黄落」という題で本を書かれている。

そこで、この本の著者・加賀乙彦さんは、「老年」に代わる言葉として、命を大切に扱う医事従事者でもあるがゆえに、持ち出してきた言葉は静かで豊かな老いのイメージ、「夕映え」だった。夕映えと聞いて、私は心穏やかで幸せな気分になりました。同じお医者さんでも、ちょっとH(エッチ)な作家の渡辺淳一さんとは、出てくる言葉は違うんですね。

本のなかの文章をそのまま、ここに引用させていただく。

作家・加賀乙彦さんは、このように著した。《斜陽に照り映える物の姿は、立体的でもっとも美しく輝かしいんだ。調べてみると夕暮れ前の黄ばんだ日光に照らされた、夕映えの美を日本の古典はちゃんと表現している。色うるわしく、はなやかに、きよげなりとね。夕映え、いとめでたしともいう》

かくして、私も、色うるわしく、はなやかで、きよげで、いとめでたき「夕映え族」ってことかな。

20101210 夜、読了。加賀乙彦氏ご自身の夕映え時の、自叙伝ではあるまいかと察しながら読んだ。氏の立派な人格性が文字になっていて、エラク感動しました。最後の代々子さんのドラマチックな出来事は、感涙に咽(むせ)び泣きました、と言ったら大げさ過ぎるか。だから、読書は止められないんだ、と再認識した。

2010年12月8日水曜日

頑張れ、W大女子サッカー部

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毎週、日曜日の朝一番の仕事は、相模原の北里大学病院前にある、弊社が運営するホテルに行くことなんです。その名はパラディス イン 相模原です。ホテルの周りの落ち葉を箒で掃く、生垣の隙間に生えた雑草をとる、掲示物や表示物が、適当であるか、一通りグルっと周ってから、イートインコーナーでコーヒーを頂き、日経、毎日、スポーツ各紙を読む。それから予約状況をチェックする。そして、しばらく皆の働きを見ながら、何か相談ごとはないか、意見はないか、とスタッフに尋ねるのです。そして9時過ぎにはホテルを出て本来の業務のために、天王町に向かうのです。これが、最近の日曜日の午前中の行動です。

事務所に戻って、予約のチェックをしていたら、そこに予約の電話が入った。日曜日の朝、それも午前の08:30の予約。お客さんはどんな人なのだろうか、と私の耳はダンボになった。受け応えしている女子社員の関さんは、もうベテランのスタッフだ、任せて安心。

ええ、? わ、、せ、だ、、だい、がく、あ、、し、き、しゅう、、、きゅう、ぶさんですね。お泊りになるのは、1月2日。ハイ。10名様以上だと団体割引がありますので、と言って部屋ごとの料金を説明していた。夕食はやっていないのですが、希望があれば弁当を用意させていただきます。1000円のものと1500円のものがあります。あ、そうですか1000円のものでいいんですね。それから、何やら案内を終えて、有難うございました、と電話を置いた。

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この応答を聞いていて、これは早稲田大学ア式蹴球部女子のことだと解った。受け応えをしている関さんに、このホテルの社長は昭和48年卒の早稲田のサッカー部だったのですよ、と言ってみてくれと傍から小声で耳うちした。

こんな、巡り合せに驚きながらも、嬉しかった。大学では、サッカーとそれに付随することしかやってこなかったこの俺には、サッカーが唯一の私の誇りで、その関係者が、ずうっと後輩だけれど、この私達が経営しているホテルに宿泊の予約を入れてくれたことに、偶然とは言え、二重にも三重にも、嬉しかった。

長岡義一監督は、私が入学した時(昭和44年)には日立製作所のセンターバックをやられていた。福島廣樹コーチは私が1年の時の4年生だった。

泊まってくれる日の夕食の時か、翌日の朝食時には顔を出してみようと思っている。当然、試合には、応援にかけつけなくてはいかん。大事な後輩たちだ、それに大事なお客さんだ。試合は、1月3日・全日本女子サッカー大学選手権・キックオフは10:30。準決勝戦で対戦相手は、武庫川女子大学だ。先日マネージャーの北さんに、勝負はどうですかと尋ねたら、心配御無用です、という感じで話してくれた。自信満々だった。

まいど、おおきに、や。

2010年12月7日火曜日

あなたのうんこになりました。

この夏、弊社で取得した住宅を解体する前に現場確認に行った。その時、部屋の隅っこに積まれていた何冊かの詩集に目が留まり、そのなかから5冊を頂いてきて、私の仕事場の机の斜め前のラックにしまっておいた。集英社、「日本の詩」全28巻のなかから5巻です。真っ赤な背表紙で格好いいのです。かっての住民が捨てていったものだ。中原中也、三好達治、高村光太郎、金子光晴、島崎藤村らのものだ。このラインナップは流石(さすが)でしょう。

昨日の夕方、仕事をそろそろ終わろうかと、缶ビールのプルタブをプシュッと空けながら、金子光晴集を手にとった。がっちり詩が詰まったその本を、適当にパラパラめっくていて、ハッと目に付いたのが、この詩だった。何も、今、私はこの詩の「僕」のような状況に居るわけではないが、この詩を非常に気に入った。この感覚は「うんこになった僕」に共鳴した、と言った方が近いかな。変にこの詩に惹き付けられた。ついには可笑しい、と笑ってしまった。この「僕」に私はほのかな親近感をもってしまい、友人になりたいと思った。そして「僕」と私が、この恋人とのよ・し・な・し・ごと(由無し事)を話し合って盛り上がっている様子を夢想した。

金子光晴「もう一つの詩編」より

恋人よ。たうとう僕は、あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壷(くそつぼ)のなかで、ほかのうんこといっしょに、蠅がうみつけた幼虫どもに    くすぐられている。

あなたに残りなく消化され、あなたの滓(かす)になって、あなたからおし出されたことに、つゆほどの怨(うら)みもありません。

うきながら、しづみながら、あなたをみあげてよびかけても、恋人よ。あなたは、もはや   うんこになった僕に気づくよしなく、ぎい、ばたんと出ていってしまった。

彼女に振られたのだろうか。二人は何かで気まずくなった、彼氏のせいだろうか、彼女の気ままか、離(はな)れ離(ばな)れになった二人。彼氏はかっての恋人を慕(した)いながら、彼女の周辺から去りがたく留まり、未だ冷めやらぬ恋心を癒しつつもまだまだ想いは果てていない。

方(かた)や彼女の方はと言えば、そんな彼氏の心模様などに、ちょっとした思慮もなく、微妙な葛藤もなく、何もなかったように普段の生活に明け暮れている。彼と、かって恋愛していたことなど、きっと、嘘のような生活なのだろう。彼女は、「僕」をうんこにして捨てた。すっきりしたもんだ。

男は立ち直りが遅く、女は立ち直りが早い。これって、俺と「僕」の女性に対する共通の偏見かあ?

うんこになってしまった「僕」よ、うんこの身になり果てた自分に甘えるな。

糞壷から勇気をもって蘇れ。

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2010年12月5日日曜日

渡部良三、「小さな抵抗」

詩人の石井逸子氏が「息を殺して読んだ」歌集があると語ったその歌集は渡部良三の「小さな抵抗」だ。その記事が載っている新聞の切れ端を手に入れた。包み紙に使われていた朝日新聞の切れ端だ。いつの新聞か解らないが、夕刊のようだ。この新聞記事を読んで、この渡部良三という詩人に興味をもった。先ずは、その新聞記事マル写しから始めよう。それから渡部良三をもっと知りたくてネットを探ったら、この「小さな抵抗」の一部が「Shirasagikaraの日記」にあって、これもそのまま頂戴した。有難うございました。

渡部は44年、中国・河北省の戦線で、生きている捕虜5人を銃剣で刺し殺す訓練を拒否した。歌集はその折の心境や戦場の現実を鋭くえぐりだす。

〈纏足(てんそく)の女(おみな)は捕虜のいのち乞えり母ごなるらし地にひれふして〉

〈鳴りとよむ大いなる大いなる者の声きこゆ「虐殺こばめ生命を賭けよ」〉

キリスト者の渡部は「大いなる者の声」を聞き、命令を拒んだ。すさまじいリンチ。

〈血を吐くも呑むもならざり殴られて口に溜まるを耐えて直立不動〉

渡部はこれらの短歌をありあわせの紙片に記し、軍服に縫い込めて46年に持ち帰った。

「あの時、---銃剣を大地に叩きつけ、ましぐらに走り、刑台に縛されている捕虜の前に双手(もろて)を広げて殺すなと叫び、立ち塞(ふさ)がるべきであったのだ」

虐殺命令を拒否してなお、渡部は、心に深い悔恨を刻んでいた。渡部と会いたいと思い、10月に手紙を出した。ほどなく届いた返事には「年齢も満88歳と8ヶ月」であり、一昨年秋に「胆のう炎をわずらい全摘オペ(手術)」を受けた、「ご容赦を」と書かれていた。(編集員・上丸洋一)

渡部良三は1943年、学徒動員で入隊。1944年4月、当時22歳。彼ら新兵(48人)の前に中国兵捕虜5人(共産八路軍)が引き出され、訓練と称して彼らを刺銃剣で刺し殺すことを上官から命令された。度胸試しの刺殺だ。これに不服従。「敵前抗命」(処罰は銃殺刑に相当する)だ。以後、渡部は「赤付箋付きの兵隊、要注意人物」とされ徹底した差別とリンチを受けることになった。

渡部の父渡部弥一郎は、基督教独立学園の創設者でもある鈴木弼美とともに、1944年治安維持法のかどで逮捕され、獄中生活を余儀なくされている。この父の言葉「信仰も思想も良心も行動が伴わなければ先細りになってしまう。沈黙が信仰を守ってくれると考えることはおごりだぞ」。そんな言葉を胸に出征したのだろう。

苦難の中にあった彼らを支えるべき、当時のキリスト教会は何をしていたのか。大半の教会は、日本の戦時体制に協力していた。主だったプロテスタント教会は「日本基督教会団」に統合され、神宮を遥拝し、日本の戦争勝利を祈っていた。日本の過ちをとりなす、預言者的な性格を忘れ、偶像崇拝の罪を犯し続けた。

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「Shirasagikaraの日記」より

1992年 渡部良三『小さな抵抗』

「刺突の模範俺が示す」と結びたる訓示に息をのみぬ兵らは

深ぶかと胸に刺されし剣の痛み八路(パロ)はうめかず身を屈(ま)げて耐ゆ

屍(しかばね)は素掘りの穴に蹴込まれぬ血のあと暗し祈る者なく

虐殺(ころ)されし八路と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや

新兵(へい)ひとり刺突拒めば戦友ら息をのみたり吐くものもあり

鳴りとよむ大いなる者の声聞こゆ「虐殺拒め生命を賭けよ」

「捕虜殺すは天皇の命令(めい)」の大音声眼(まなこ)するどき教官は立つ

信仰(しん)ゆえに殺人〈ころし〉拒むと分かりいてなおその冠を脱げとせまり来

酷(むご)き殺しこばみて五日露営の夜初のリンチに呻(うめ)くもならず

かかげ持つ古洗面器の小さな穴ゆしずくのリンチ頭(ず)に小止みなし

炊事苦力(クーリー)行き交いざまに殺さぬは大人(たいじん)なりとぞ声細め言う

2010年12月4日土曜日

普天間は、県外移設しかない

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沖縄知事選が、20101128に投開票され、現職の仲井真弘多氏(71)が前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)らを破り、再選を果たした。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設問題に関しては、仲井真氏は「県内にはない。日本全国で普天間の解決策を見出していただきたい」と語った、と朝日新聞は報じていた。

かっては、仲井真氏は辺野古への移設を条件付で容認していた。が、今回の選挙では、一転「県外移設」に路線変更した。伊波氏は一貫して「国外移設」を訴えた。両者とも「県外移設」については同じ。ただ、仲井真氏には変節の経緯が胡散臭い、先の衆議院選挙を見て、県内には受け入れられないとする民意が多いと判断したのだろう。知事に留(とど)まるには、路線変更しかないと。このズルそうな胡散臭い人間に民主党はすがろうとしている節がある。民主党は、この知事は使えるとでも思っているのだろうか。でも、民意はそれを決して許さないだろう。

民主党の鳩山由紀夫氏は、日米合意を知りながら、まさか知らなかったってことはないだろうが、移転先は国外、最低でも県外と言って衆議院選挙に勝って、民主党政権の初代の首相になった。日本の安全保障や抑止力としての沖縄の存在、その基地による被害の甚大さを考えたことはあったのだろうか。結果的に、沖縄県民の心を弄(もてあそ)んだ。数々の鳩山首相の失政の締めくくりは、この沖縄の人々の心を馬鹿にしたことだ。新聞記事では遠慮がちに沖縄の人々の心を軽視したなんて表現していたけれど、軽視じゃない、馬鹿にしたのだ。沖縄の人たちを大いに怒らせることになった。

ところがどっこい、やはり民主党の新政権に早々と米国が突きつけたのは、日米合意の実施だった。こんなことは、解っていた筈だよね日本の首相の鳩山さん、菅さん、ときたもんだ。菅首相は難しい顔で本当に納得したのか、しなかったのか、オバマ大統領と日米合意に基づいて行動することを確認し合った。

そして、今回の沖縄知事選挙に政権与党の民主党からは、公認でも推薦でも、候補者を立てることはできなかった。立てられなかった。政権与党の候補者が立てられなかったことに、何か党としてのコメントがあったのだろうか。民主党が、党として発したのは、党員に対して地元候補者への応援に規制をしたことぐらいだ。この選挙についての、党としての考え方は、最後まで聞けずじまいだった。

沖縄にも、普天間基地移設反対の人々はいる、日米合意を尊重しようとする人々はいる。政権与党として日米合意を尊重しようとするならば、当然党の考えを持つ候補者を、自党の公認もしくは推薦候補として、民の声を聞くべきではなかったのか。今回の選挙が盛り上がりに欠けたのは、普天間基地移設反対の人たちが、声を上げるチャンスがなかったからではないか。

そして、昨日20101202、仲井真知事が菅首相に会って、この知事選で公約に掲げた「県外移設」を主張した。首相は、米軍普天間飛行場を名護市の辺野古湾一帯に移設するのは日米合意なので、理解をして欲しい、と意見交換がなされたと朝日新聞は報じている。

投票者のほぼ全員の意見は、普天間飛行場の移設は、国外か県外かのどちらかなのだ。移設反対、日米合意に従うべきだと投票した人の数は把握できていない。政権与党の考え方「日米合意を基づく移設を行う」を民意に諮(はか)らなかったことをどう考えているのだろうか。かって、辺野古への条件付で容認していた人たちも、仲井真知事もかってそうだったが、こぞって県外移設になびいていった。

もう、日米合意の見直しをやるしかない、絶対県内移設はありえない。民意が許さないだろう。

それともかってのように琉球国として、独立しましょうか。

2010年12月1日水曜日

北朝鮮、韓国に砲撃

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写真は読売新聞より。23日、北朝鮮の攻撃を受けた延坪島。島内の港では島民たちが立ち上がる煙を見つめていた=聯合AP

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日本から海を越えた一番近い国、韓国。北朝鮮が韓国に砲撃した。戦争だ。こんなことが、身の回りで現実に起こった、私には初めての経験だ。哨戒艦撃沈とか飛行機爆破とかは以前にもあったことだが、民間人が住んでいる住宅街を爆撃するなんて、私には到底考えられないことだ。大変なことをしでかしてくれたものだ。

私が大学4年の時、24歳、1972年に韓国に行った。その時のことを思い出したので、少し触れてみたい。韓国に行ったのは、日本に一番近い外国で、当時、私は大学のバリバリの体育会のサッカー部に所属していたのですが、サッカーでは韓国代表に日本代表がいっつも負けていて、我々と同じ世代の韓国の大学のサッカーがどんなものなのか、実際に自分の目で確かめたかった。日本が勝ったことも引き分けたこともあったのですが、私の分析では韓国が体力的、戦術的にもいつも勝っていた。試合に賭ける執念でも韓国は勝っていた。私が所属していた大学のサッカー部は、高麗大学と毎年親善試合をしていて、こっちも勝ったり負けたりだったのですが、日常の練習がどのようになされているのかを見たかった。旅程は10日間、使える費用は総額3万5千円。翌春、就職したのですが、初めてもらった給料の手取りが5万円だったので、3万5千円はさほど少ないということではなかった。東京から下関までの往復は、キセルが絶対条件だった。下関から関釜フエリーに乗って釜山に入った。韓国のオバチャンが、日本からの荷物をいっぱい背に担ぎ、両手にいっぱいぶら下げて乗り込んできた。ペチャクチャペチャクチャ強烈にうるさかった。商売熱心で気丈夫なオバチャンたちだった。キムチのせいか、ニンニクのせいか。渡航費は往復だと1万円。往復券を買うと1割引で9千円だった。早朝釜山港に着いた。

釜山からは日本の対馬が見えた。釜山の何とか公園には、日本からやってきた豊臣秀吉の軍を追い払った李氏朝鮮軍の大将の銅像が日本に向かって建っていた。釜山港や釜山駅が見下ろせた。この何とか大将と伊藤博文を撃ち殺した安重根(アン・ジュングン)は、憎っくき日本との抗戦の歴史に残る韓国の英雄なんだろう。その公園は釜山市民の憩いの場だった。教科書で習った文禄、慶長の役がこれだ。釜山からソウルまでは、列車・統一号に乗った。釜山の駅長さんが鳥取の出身者で、私に日本語で釜山の町の事情やソウルへの行き方、ソウルの町のことを話してくれた。それも駅長室で。ソウルのミョンドン(明洞、このような字を当てるのではなかったか)で、当時の反抗詩人、キムジハ〈金芝河)がよく酒を飲んでいたと謂われていた酒場で、彼の血、反軍、民主化の血は俺にも流れているんだ、そんな気障なことを口走りながら、マッカリー(濁酒)をあおるように飲んだ。店では、韓国の大学生とも話ができた。梨花女子大だったか、奇麗な女学生もいた。キムジハの長編詩「五賊」を読んで、私はイカレてしまっていたのです。反共法で逮捕されたが、その後も度々逮捕されたが、軍事政権下において言論弾圧には屈しなかった。韓国の学生からは、キムジハの話は聞き出せなかった。感心が薄いことに、何だか、肩透かしを食わされた思いだった。

午後だったか午前だったか、ソウルの町の上空に飛行機が現われ、ウ~ウというサイレンが鳴って、歩道を歩いている人は物陰に隠れ、車は路肩に止めて黄色い旗を揚げていた。往来には人っ子一人もいなくなるのです。飛行機は新聞社のもので、敵機に擬(なぞら)えた。建物にも、一番高い位置に黄色い旗が取り付けられていた。何しろ記憶は薄れているのですが、思い出せるだけ思い出してみよう。私も皆と同じようにビルとビルの間に隠れた。そうすること20分ほどで、敵機もどきは去っていった。人はぞろぞろと物陰から出てきて、車は旗を下げて走り出すのです。

その時に初めて、韓国は戦・争・状・態にあるのだということを知った。まだ戒厳令が出ていたのです。高麗大学のサッカー部のなかにも、徴兵を終えた人もいた。夜も外へ出るのには、時間制限があったように思う。10時か、11時以降は外出はできなかった。マッカリーが飲みたくて、薬缶で酒屋に買いに出て、旅館のおばさんに叱られた。

飯を食いに食堂に入ったら、女の子が私のオーダーを聞きながら、私の髪の長い頭を見ながら不機嫌な表情をするので、どうしたんだ?というような顔をしたら、その彼女が言うには、長髪はナンバーテンだと言うのです。男として、ナンバーテン。男として私の姿が、最悪だと言うのです。長髪は格好悪いのだ。韓国人なら、もう立派な国賊モン扱いだ。

朝、ホテルをチェックアウトして、これから何処へ行こうかと考えながら、うろちょろ道路を歩いていたら、警官が私の傍に寄ってきて、確か「パルリー」と言いながら、本気で怒っているのです。怖くなって、警察の目から逃げるように、その場から離れました。それは、急げと言うことなんだよ、と帰国後友人に教えてもらった。ゆっくり歩くことも許されない国だったのです。少し前、横浜でAPECが開かれ、横浜には警察官がそこらじゅうにいて、横断歩道で立ち話でもしようものなら、走ってきて早く通り過ぎてくださいと言っていた、あれと一緒だ。

バスで板門店に向かって高速道路を走っていた。軍隊か警察によってバスは止められ、乗り込んできた兵隊か警察官に取調べを受けた。身体検査をされた。銃器を持っていた。表情は怖くなかったが、それでもこのようなことに慣れない日本人にとっては、クワバラだった。板門店は異様な警戒感に包まれていた。盗むようにカメラを北に向けて撮った。北朝鮮の兵隊が銃をこちらに向けて立っているのが小さく見えた。その後、板門店は観光の名所になり、今は、今回の北朝鮮の韓国への砲撃事件で、板門店には近づき難くなっているようだ。

高麗大学の本校があるグラウンドに着いたら、此処はサッカー部が使っているグラウンドではないと言われ、事務局へ行って、サッカー部が毎日練習しているグラウンドを教えてもらったのですが、肝腎のサッカー部は今、地方に遠征中と言われてしまった。韓国語が喋れないために、事前にそのような情報を得ることをしなかったのです。

それから、数日ソウルの町を徘徊した。いろんなことがあったが、ここまでにしておこう。又の機会があるだろう。

私の大学時代の友人・金さんの叔父さんは横浜市の石川町に住んでいて、金と私がそのお宅にお邪魔をした時のことです。今から15年ほど前のこと。叔父さんが金に話しているのを聞いて、驚いたのです。「イサオ〈金のこと〉、来月ポサン団(墓参)として韓国へ行くんだが、怖くて、恐ろしくて心配しているんだよ。殺されるんじゃないか。帰って来れないんじゃないか」、とそんな話を真顔で金に話していた。この会話を私はその時は理解できなかった。墓参団で韓国に行って、何故、そんなに怖がることがあるのかと。後で、金の説明してくれたことによると、叔父さんは朝鮮総連の仕事の一部を手伝っていたので、韓国政府からは、注意人物と見られていないかと言うことだった。1948年、私が生まれた年だ、朝鮮半島が二つの国に分かれて、東西冷戦で、政治的にも対立する羽目になってしまった。市民生活のレベルでもこのような不幸が生まれていることを、初めて知った。祖国の分裂がこのような家庭内にも不幸の影をさしていたのだ。東西冷戦の犠牲だ。韓国系の民団(在日本大韓民国民団)と北朝鮮系の朝鮮総連(在日朝鮮人総連合会)は対立していた。金は叔父さんに、建物の角を回るときには少し注意した方がええですよ、大きく回れば大丈夫ですよ、と半ば冗談の心算で言った言葉を、叔父さんは真剣に聞いていた。

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韓国大延坪島で24日、北朝鮮の砲撃によって被害を受けた海兵隊官舎の前で報道陣を制止する韓国軍の兵隊=ロイター

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20101124、25の朝日新聞・朝刊1面の記事をそのまま転載させていただいた。

2兵士死亡、住民も負傷

大延坪島(テヨンピョン) 陸地砲撃は休戦以来

【ソウル=牧野愛博】韓国国防省によると、北朝鮮南西部の黄海南道に駐屯する北朝鮮軍が23日午後2時半過ぎから、韓国の大延坪島やその周辺海域を断続的に砲撃した。同日午後3時40分ごろまでに数十発の砲弾が撃ち込まれ、韓国軍に死者2人、重軽傷者16人の被害が出たほか、民間人が少なくとも3人負傷した。韓国軍も応援措置として対岸の北朝鮮軍陣地に砲撃80発を加えた。

1953年に朝鮮戦争が休戦した後、北朝鮮軍が韓国領土の陸地を直接砲撃したのは、今回が初めて。今秋、南北離散家族の面会事業などで緊張が緩和しかけていた南北関係は再び緊張し、北朝鮮核開発を巡る6者協議の行方にも大きな影響が出そうだ。

大延坪島は、海上の軍事境界線に相当する北方限界線(NLL)挟み、北朝鮮から南に十数キロ。北朝鮮の海岸砲による砲撃で市街地など島内数ヶ所で火災が起き、民間家屋60~70軒も破壊された。島内には民間人1100人以上が住み、韓国軍約500人が駐屯しており、民間人は島内の施設や本土へ退避した。

現場海域では韓国軍が22日から演習をしていた。北朝鮮は国連軍の設定したNLLの有効性を認めていない。朝鮮中央通信によると、北朝鮮軍最高司令部は、砲撃は韓国軍演習への対抗措置だとして「我々の領土を侵犯すれば、無慈悲な軍事対応打撃を加え続ける」と警告。先に砲撃したのは韓国だと主張した。

韓国の李明博(イミョンバク)大統領は23日午後、緊急の外交・安全保障関係閣僚会議などを開き、「状況が悪化しないよう万全を期せ」と指示。同夜には韓国運合同参謀本部を訪れ、「民間を無差別に攻撃した重大な事態だ」と強調。北朝鮮が再び挑発した場合、通常の対応の枠を超えて応戦する考えを示した。

韓国統一省は同日、25日に予定された南北赤十字協議の無期限延期を発表した。

韓国軍は、砲撃が朝鮮戦争の休戦協定などに違反すると判断、北朝鮮軍の砲撃陣地に集中的な反撃を加え、「相当な被害を与えた」とした。周辺海域一帯に、局地挑発に備えた軍の防衛準備態勢を最高基準に格上げして発令。空軍機も現場海域に待機させた。

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「村全体が萌えている」

【ソウル=箱田哲也】「村全体が燃えている。真っ黒な煙で何も見えない」---。北朝鮮から砲撃を受けた韓国・大延坪島の島民たちは23日、韓国YTNテレビの取材に当時の生々しい状況を語った。

「船に乗り込もうとしたところで砲弾が落ちてくるのを直接見て、逃げた。まだ目の前に真っ赤な火柱が立っている。今は橋の下に約20人の住民と避難している。道路にはだれ一人としていない」

島の生まれと言う40代の男性は、電話口で話した。「子供が学校にいる。心配だ」「村が廃墟になった。震えている。早く島を出たい」

砲撃は白昼、何の予兆もなしに始まった。50代の男性は「『これは訓練ではない、実戦だ。すぐに避難しなさい』という放送を聞き、近くの学校に逃げてきた。ここから見えるだけで10軒以上の家が燃えている」と話した。

「みんな『戦争が起きた』と言い合っている」。被弾した集落に住むイ・ジョンシクさんは、「一発落ちるたび、すごい衝撃だった」。

ソウル中心部から100キロ以上西の黄海に浮かぶ大延坪島は、「住民千数百人の大半が漁業か農業で生計を立て、ふだんは静寂に包まれている。

付近海域で交戦があるなど、いったん南北が衝突すると緊張が走る「海の火薬庫」のような地域ではあった。だが40代の男性は「これまでとは全く違う」と語った。

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20101128の朝日の社説より

朝鮮半島

米中、そして日本の役割

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

緊張の緩和と危機の管理へ、米国と中国が果たす役割が大きい。

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

だが、これだけでは、中国に集まる国際社会の厳しいまなざしを満足させるものではあるまい。

北朝鮮が砲撃した韓国領の島から遠くない黄海で、きょうから、米国と韓国の合同軍事演習が始まる。北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。

北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

北朝鮮は「挑発を敢行するなら、2次、3次の強力な物理的報復を加えることになろう」と反発している。北朝鮮への一定の圧力は必要だが、再び軍事衝突を招かないような冷静な運用と対応が求められる。

今年は朝鮮戦争が開戦してから60年だ。北朝鮮は砲撃の後、朝鮮戦争で戦死した中国の故毛沢東主席の長男の生涯を描いた中国のテレビドラマを放映したり、墓前に閣僚らが献花したりして、中国の歓心を買うような行動を見せた。

とはいえ、北朝鮮の今後の暴挙中国は強くいら立っているに違いない。演習名目とはいえ、ひざ元の黄海に米軍の原子力空母まで来させることになり、心穏やかではなかろう。

中国は今年、金正日総書記の訪問を2回も受け入れ、友好を演出した。経済やエネルギー、そして食糧の面で気や朝鮮の生命線を握ってもいる。

そんな中国も、北朝鮮の核実験やウラン濃縮の開始を防げなかった。その影響力に限界があるが、世界で急速に存在感を高める中国は、それに伴う責任も果たすべき大国である。より強い説得に当たってもらわねばならない。

米国も今回の事件による危機を押さえ込むために、中国との高官協議の実現を探り、これまで以上に中国の影響力行使を求めている。近く、日米韓の外相会談も開きたい考えだ。

米国は中国とともに朝鮮戦争の当事者でもある。それだけに、東アジア地域の平和と安定の確保にとりわけ重い役割がある。米中の首脳同士をはじめ、あらゆるチャンネルを使って緊張緩和に努めてほしい。

そして、日本は「中国頼み」「米国任せ」にとどまってはならない。

日本は、国連安全保障理事会の非常任理事国だ。北朝鮮情勢は、東アジアで最大の安全保障問題であり続けている。安保理などの場で、北朝鮮に国際社会の一致したメッセージを出すよう積極的に動くべきだ。

韓国では、北朝鮮への強硬論と戦争の不安が交じり合い、社会が揺れている。日本は韓国に思いを致し、安定回復に向けて連係を強めたい。

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20101130 朝日朝刊・社説

朝鮮半島  米中が対話の環境作りを

「対話と協力を通じて努力し、人道支援mp惜しまなかったのに、返ってきたのは、核開発と哨戒艦爆沈に続いて島への砲撃だった」

韓国の李明博大統領が昨日、国民向け演説でそう憤ったのも無理ない。

哨戒艦事件で兵士46人が犠牲になった。今回の砲撃は民間人を含む4人の命を奪い、多くの民家を焼いた。

いま最も大切なのは、更なる衝突を回避し、緊張を和らげることだ。当事者はむろん、関係国はそのための知恵を絞らねばならない。

中国政府が、6者協議の代表による緊急の会合を呼びかけた。

6者協議は本来、南北朝鮮と日米中ロが参加し、北朝鮮の非核化、米朝や日朝の関係正常化をめざすものだ。中国が提案したのは、核問題を扱う正式な会議ではない。「最近半島情勢に複雑な要素が現われている」といい、6者で意見交換をしたいという。

北朝鮮に影響力を及ぼすよう求められている中国が、真剣に動いていることを世界に示す。対話を提案しているとき、北朝鮮は新たな挑発をしづらくなるだろうーーー。6者協議の議長国である中国が、そう期待しての提案かもしれない。

事態好転の糸口を探ろうという狙いはわかる。だが、今いきなり6者代表が集まって、現実的な成果をあげられようか。

韓国は「まだその時期ではない」と反応している。米国も、北朝鮮が「態度の変化」をはっきり示すことが先決だとする立場を明らかにした。

韓国は「まだその時期ではない」と反応している。米国も、北朝鮮が「態度の変化」をはっきり示すことが先決だとする立場を明らかにした。

日本もそれに同調している。北朝鮮は行為の責任を認めるなど、先にすべきことがある、という姿勢だ。

北朝鮮は、韓国の挑発が砲撃の原因だと反論している。新たな核開発につながるウラン濃縮施設の公表や軽水炉の開発のほか、核実験の準備ととられかねない動きも見せている。

これでは、6者が顔を合わせたところで平行線に終わる。だが、何もしないままでは、緊張と膠着状態が続く。北朝鮮の核をどうするかも、いずれ本格的に打開する必要がある。

局面を転換させる大きな力を持っているのは、やはり米国と中国だ。

一昨日、クリントン米国務長官と、中国外交を統括する戴耒国国務委員が電話で話し合った。戴氏は「重要なときに中米が建設的役割を積極的に果たさねばならない」と語った。

その通りである。両国が対話の環境づくりに協力して努めてもらいたい。

米国は日韓との外相会談を開く意向だ。中国は近く高官を訪朝させると観測されている。北朝鮮を説得し、各国を調整する。米中のそんな取り組みがあってこそ、6社が会える素地ができる。この戦略に沿って日本も、朝鮮半島の緊張緩和に貢献すべきである。