この夏、弊社で取得した住宅を解体する前に現場確認に行った。その時、部屋の隅っこに積まれていた何冊かの詩集に目が留まり、そのなかから5冊を頂いてきて、私の仕事場の机の斜め前のラックにしまっておいた。集英社、「日本の詩」全28巻のなかから5巻です。真っ赤な背表紙で格好いいのです。かっての住民が捨てていったものだ。中原中也、三好達治、高村光太郎、金子光晴、島崎藤村らのものだ。このラインナップは流石(さすが)でしょう。
昨日の夕方、仕事をそろそろ終わろうかと、缶ビールのプルタブをプシュッと空けながら、金子光晴集を手にとった。がっちり詩が詰まったその本を、適当にパラパラめっくていて、ハッと目に付いたのが、この詩だった。何も、今、私はこの詩の「僕」のような状況に居るわけではないが、この詩を非常に気に入った。この感覚は「うんこになった僕」に共鳴した、と言った方が近いかな。変にこの詩に惹き付けられた。ついには可笑しい、と笑ってしまった。この「僕」に私はほのかな親近感をもってしまい、友人になりたいと思った。そして「僕」と私が、この恋人とのよ・し・な・し・ごと(由無し事)を話し合って盛り上がっている様子を夢想した。
金子光晴「もう一つの詩編」より
恋人よ。たうとう僕は、あなたのうんこになりました。
そして狭い糞壷(くそつぼ)のなかで、ほかのうんこといっしょに、蠅がうみつけた幼虫どもに くすぐられている。
あなたに残りなく消化され、あなたの滓(かす)になって、あなたからおし出されたことに、つゆほどの怨(うら)みもありません。
うきながら、しづみながら、あなたをみあげてよびかけても、恋人よ。あなたは、もはや うんこになった僕に気づくよしなく、ぎい、ばたんと出ていってしまった。
彼女に振られたのだろうか。二人は何かで気まずくなった、彼氏のせいだろうか、彼女の気ままか、離(はな)れ離(ばな)れになった二人。彼氏はかっての恋人を慕(した)いながら、彼女の周辺から去りがたく留まり、未だ冷めやらぬ恋心を癒しつつもまだまだ想いは果てていない。
方(かた)や彼女の方はと言えば、そんな彼氏の心模様などに、ちょっとした思慮もなく、微妙な葛藤もなく、何もなかったように普段の生活に明け暮れている。彼と、かって恋愛していたことなど、きっと、嘘のような生活なのだろう。彼女は、「僕」をうんこにして捨てた。すっきりしたもんだ。
男は立ち直りが遅く、女は立ち直りが早い。これって、俺と「僕」の女性に対する共通の偏見かあ?
うんこになってしまった「僕」よ、うんこの身になり果てた自分に甘えるな。
糞壷から勇気をもって蘇れ。
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