私の兄貴の長男・清が奥さんを連れて、20101219、横浜の我が家にやってきた。私の実家の頼(たの)もしい後継者だ。郷里は、京都府綴喜郡宇治田原町。大学で、私が私の故郷を紹介するときには、酒は美味いし姉ちゃんは奇麗な寒村貧村だと言ってきた。この甥は私が大学3年生の時に生まれたので、今年私が62歳、甥は40歳になる。甥の息子・リョウが東京の杉並で暮らしているようなのだが、金がなくなったら、不安な声で無心の電話があるだけで、どんな仕事をして、どんな処で暮らしているのか、心配になって、そんなことを確かめにやって来たそうだ。清ヨ、立派な親父をしているではないか。そんな甥っ子の行動が、叔父さんには嬉しいのです。
昨夜20101217、甥夫婦にリョウは、弊社が運営している相模原にあるパラデイス イン 相模原に泊まった。
時代が変われば、何もかもが面白いように変わるものだ。心配なのでやって来たという甥・清、この本人だって、若い頃は、父親である私の兄に随分心配やら苦労をかけたものだ。仕事が忙しい兄に代わって、私の父もよく面倒みた。尻を追いかけた。お前だって、随分兄貴に迷惑掛けたではないか、との私の詰問には、俺は金では迷惑掛けてヘンで、ときたもんだ。そう言えば、色んなことにキリキリ舞いをさせられたけれど、生活はきちんと自立していたことは確かだった。当時、久しぶりに実家に帰った時に驚かされたのは、古い農家の庭先に不似合いな大きなコンクリートミキサー車が、家屋の庇ぎりぎりに停まっていたことだ。
父は私達の家族の将来を考えて、昭和の30年代から40年代、聞いたことのない金融機関からお金を借りて、田畑を買っては耕作面積を増やしてきた。当時のその金融機関は、国策で田畑を購入する農家を資金的に援助していたようだ。食糧増産政策の一環だろう。そして現在の甥の時代は、離作する農家が増えて、その断念した田畑を借り受けて、耕作面積を増やしているのです。一団の茶畑があって、その一画の管理が放棄された時には、周辺の田畑に虫が飛び散ったり病気が広がったりで大変悪い影響を及ぼすことになる。耕作を放棄する農家は隣地の所有者に先ずは相談が持ち込むことになる。
今夏の異常な高温で、米の味は美味くならなかった、とぼやいていた。甥の嫁・泰ちゃんは味は、古米の方が美味しいですよ、と言っていた。あんなに暑い夏だったのに、人は直ぐに忘れて、今は冬の入口だ。お茶は、価額が大暴落やった。特に高級茶の値下がり率が顕著だったので、俺は茶の葉を伸ばすだけ伸ばして、量で勝負したんヤ、臨機応変、そしたら量は圧倒的に多く生産できたお陰で、売上げは昨年並みをキープしました、と少し自慢げに話していたのが、頼もしく思われた。農家によっては、去年よりも一千万円も売上げが少なかった家(うち)もあったそうだ。
農閑期の仕事として竹炭も作っている。数年前から仲間たちと取り組みだして、試験を繰り返してきたのですが、ここに来て、やっとビジネスとして成り立つように育ってきたと言っていた。昨年この炭焼き窯を見せてもらった。窯作りの工夫や数々の苦労の歴史を聞かされた。作業場には、空きの缶ビールが転がっていて、ビールを飲みながらの勉強会を繰り返していたのだろう、と羨ましく想像してみた。
このように、私の実家は、父、長兄、甥ときちんと専業農家を後継できた。これからは、この甥の息子次第だが、私には、ヤ・マ・オ・カのDNAが脈々と生き続けていくさまを、見られるのは至福の思い。故郷(ふるさと)は、まだまだ近場にあって、遠くにはいきそうにない。
故郷での出来事、私の兄弟のこと、親戚のこと、私の友人達のことの話に華が咲いた。つまらない些細な出来事でさえも楽しく聞けた。よく来てくれたぞ、甥っ子の清と嫁の泰ちゃん。甥の子供・リョウも我が家について来た。彼とは、新横浜マリノススタジアムでのトヨタカップの決勝戦以来だ。6~7年前のこと。彼は今、二十歳。青雲の士だ。私が学生時代、「二十歳の原点」とかいう本が売れていたことを、由(よし)もなく思い出した。私が東京の高田馬場の大学に入学したのが20歳だった。
私の育った、宇治田原の里のご紹介
未分類 窶髏 山岡保 @ 2006/11/21 08:55
私の育った、宇治田原の里のご紹介。
宇治平等院の裏を流れる宇治川をさかのぼっていくと、天ケ瀬ダムがある。源流は琵琶湖だ。川に沿ってダムを見下ろすような道が蛇行している。この道こそ、その昔、ここで紹介している私のふるさとの、京都、大阪に通じる唯一の出入り口でした。高校には、マフラーをカットしたホンダのスーパーカブに乗って、レーサー気取りで、通った。もう少し川をさかのぼっていくと、宇治川は、瀬田川と田原川に分かれる。その支流である田原川に沿った道を進むと、我がふるさと、宇治田原町に入ります。河岸段丘の少しばかりの平地を、山々がぐるりと取り囲んでいる。
ここで私は生まれ、20歳まで過ごした。
(2006年10月14日 京都新聞の記事より)
和みのまち
大規模集団園を造成
京都府綴喜郡宇治田原町は今年町制50周年を迎えた。田原村と宇治田原村が合併で宇治田原町が誕生して半世紀。住宅や工業団地の開発が進む町はいま、茶文化をキ-ワードにした(和みのまち)を目指している。
府南部のほぼ中央東に位置し、人口1万249人(10月1日 現在)。南東部に修験の山・鷲峰山がそびえ、中心部を田原川が流れる。町内各地区には由緒ある寺社や史跡が多く、豊かな歴史を今に伝える。また、緑茶製法の発祥の地として、町挙げて茶を通した国際交流など茶文化の発展に力をいれてきた。
史跡・伝統 豊かな歴史 今に伝え
古くは奈良と京都、近江を結ぶ要所だった宇治田原町は、由緒ある寺社や史跡をもち、文化財が数多く残る。同町で国の重要文化財に指定されている八件のうち、禅定寺所有は七件を数える。本尊(木造十一面観音立像)、平安時代―江戸時代の同寺伝来の古文書「禅定寺文書」などで、藤原道長から頼道に伝えられた領地が同寺に寄進されたことなどが文書に残るという。正寿院(同町奥山田)の「木造不動明王坐像」も国の重要文化財で鎌倉初期の仏師、快慶の作とされる。
神社では、こぶとりの神で知られる猿丸神社(同町禅定寺)が有名で、緑茶製法を開発した同町出身者の永谷宗円を祭る茶宗明神社もある。
一方、各地区には今も古来の風習が伝わる。落ち武者の隠れ里とされてきた高尾地区に女人禁制の小正月行事「縁たたき」が残り、奥山田地区には、「ねりこみばやし」が代々受け継がれている。酒を飲ませたウナギを滝つぼに放流する一風変わった雨乞い行事は、湯屋谷地区で毎年開催される。
農林業
日本緑茶発祥の地である宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が「永谷式煎茶」を生み出して以来、茶作りの歴史を積み重ねてきた。町内に広がる茶園の総面積約二百三十ヘクタールで、生産農家は約五百七十戸。年間の生産量は約四百トンに上る。春の茶摘みの時期には茶園のあっちこっちで、青々とした茶の芽を摘み取る摘み子たちの姿が見られ、初夏の新茶作りの最盛期には、町内の製茶工場から茶の甘い香りが漂う。
緑茶と並ぶ同町の特産品が「古老柿」だ。皮をむいたつるのこ柿という渋柿を山里の寒風にさらし、甘く柔らかな「古老柿」に仕上げる。晩秋のころには稲刈りの済んだ田んぼに古老柿作りための柿屋が立ち並び、何万個ものつるのこ柿が干してある風景は、昔から続く宇治田原の風物詩だ。
町は本年度から、町内に大規模な集団茶園を造成する事業を始めた。移りゆく時代とともに、茶業を取り巻く環境も変わってきたなかで、緑茶発祥の地として茶文化を支え続けてきた町は、これからも茶の歴史に新しいページを付け加えていく。
教育・文化
宇治田原町は「地産地消」をキーワードに、地元産の食材を生かした食育に力を注いでいる。新茶のシーズンには、町立保育園や小学校の子供達が町内の茶園で茶摘を体験し給食には新茶を使ったかき揚げや茶の芽の炊き込みご飯など、郷土色豊かなメニューが出る。小学校では、茶やキュウリなどの生産農家を講師に招いた授業や休耕田を利用した米の栽培体験など、学校と地域が一体となって食の大切さを学んでいる。茶を通した国際交流も盛んで2004年から茶発祥の地といわれる中国雲南省との交流事業を進めている。04年からは町内の三小学校の児童が摘んだ茶を同省に贈り、友好を深めてきた。食を通してふるさとの文化に親しみ、茶を通して世界の文化を知る試みが続いている。
産業
緑豊かな茶畑に囲まれて、平屋の工場が立ち並ぶ宇治田原工業団地。1988年、府内初の民間開発による工業団地としてオープンした。総面積約80ヘクタールの広大な敷地の中に、約50の製作場や工場が立ち並び、府内有数の工場団地に発展してきた。オープン当時は金属プレスの工場が多かったが、時代とともに業種も移り変わり、今は紙加工や印刷技術、食品関係の工場が多く入居している。半導体部品や精密機械の組み立てなど、先端技術を支える企業の進出も目立つ。
同工業団地に隣接する緑苑坂地区にも、2002年に緑苑坂テクノパークがオープンした。約10ヘクタールの敷地には学校給食共同調理場や印刷工場などが入居し、現在も新たな企業が工場を建築中だ。
産業の発展が進む一方で、同町は環境保全の取り組みにも力を入れている。今年8月には、町内に生息する府の絶滅寸前種や絶滅危惧種などの野生動植物800種の生態をまとめた(宇治田原町レッドデータブック)を発行した。地域に残された豊かな自然という財産を町はこれからも守っていく。