今度は。従軍慰安婦問題です。
その次には、きっと、「朝鮮人強制連行問題」でごまかすのかな?
腹をすかした少年は、駄菓子屋に急いで駆け込んだ。店番のオジサンは客が来ないことに飽きたのか、うとうと居眠り中だった。少年は、店先に無防備に並べてあるパンを見つけた。見つけた瞬間に、行為の善悪を考える暇もなく、パックリ食ってしまった。ありゃあ、まずいことをしてしまった、と思った。同時に、オジサンに気付かれなかったことに安心した。じゃ、もう1個頂くとするか。パンを口に運び、その手で今度はでっかい飴玉を鞫曹ナポケットにしまった。ちょうどその時、オジサンは目を覚まし、口に頬張っていた少年は盗み食いを、見つかった。少年は、最初に食ったパンのこと、ポケットにしまった飴玉のことは、オジサンには言わなかった。この時、少年が犯した罪の全てを自白しなければ、事実を白日のもとにさらされることはない。そうしたら、どうなるか? 少年の陳述次第では、どうにでもなる危険性が秘めている。 パンはたった1個しか盗んでいませんよ、と罪の過小評価を求める。オジサンが居眠りしているのがいけないのですよ、と言っては、相手のミスを責める。そのうえ、オジサンには店をちゃんと守らまくちゃならない義務があるんですよ、と逆に責任追及する。発覚しなかった部分は秘める。そうして、時間が経過し、事件は風化する。
自民党周辺の懲りない人たちが、又ここで可笑しなことをやってくれちゃった。前の「パン泥棒少年」と同じことが、「南京大虐殺は幻だった」説に次いで、今度は「従軍慰安婦問題」だ。 以前に、私のこのブログで、「南京大虐殺はあったのか?なかったのか?ハッキリしてくれ」
をテーマにしたことがあった。
大虐殺はなかったが、あの程度は戦争においてはよくある範囲内ですよ。大虐殺はなかったが、南京事件はありました、とか。まことしやかに、臭い説が、紛々だ。私の信頼する友人の父は、私と友人を前に、後に写真で紹介されたようなことは事実として、私は見てきた、だから、何万人殺したとかいう人数については解らないが、凄かったことは、間違いないと、話してくれた。
たかだか70年程前のことです。万葉の時代のことを推し量って、あれこれ想像を巡らしているわけではない。 いまだに、南京大虐殺はなかった、たいしたことはなかった、とする右派言論人が多くいるのです。文芸春秋、すねかじり文筆族だ。
そんな矢先のことだ。
2日の朝日新聞の朝刊だったと思われるのですが、安倍首相のアメリカでの従軍慰安婦のことについての発言が、記載されていた。
瞬間、ヤバイと思った。安倍首相は記者団に、「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠はなかった」と語った。またしても、本音吐露か。どうも失言ではなさそうだ。大きな問題になりそうだと、直感した。本人は至って本気のようだから、尚更ヤバイと思ったのです。即、米国の主要メディアは、批判的に報じた。韓国、中国は不快感を露わにした。
「当初、定義されていた強制性を裏付ける証拠はなかった」とは、どういうことだ。強制性がなかったので、従軍慰安婦問題は何も各国から批判されることはない、とでも言いたいのだろうか。 強制性はなくても、好んで参加したわけではない。連れて行かれたのだ。誰が連れて行ったか、は問題ではない。軍が指導、管理の下に、女性たちは嫌々連れて行かれて、兵隊の相手をさせられた。小屋の前に長い列を作って、順番を待つ兵隊たちの写真を見たことがある。秩序を守るために、監視役の兵隊が、小屋の前に立っていた。この監視役に監視を命じたのは、部隊長か、この監視役よりも、上官だったはずだ。軍の組織ぐるみは当然だ。
この状態を、強制性がなかったからと言って、平気で、あたかも軍や、国家は罪がないかのように、言い切れるのはどうしてじゃ。
安倍君、君の人間性まで問われているんですよ。
そうこうしていたら、新聞が、このことに関する記事を載せていた。
従軍慰安婦問題で、軍の関与と強制性を認めた93年の河野官房長官(現・参議院議長)談話の見直しを論議していた自民党有志の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・中山成彬元文科相)は、8日、「数々の慰安問題に対する誤った認識は、河野談話が根拠となっている」との見解を盛り込んだ提言をまとめた。が、今回の安倍首相の「強制性」についての発言が、内外に波紋を呼んだことに配慮して、河野談話の修正要求は見送った。 なんじゃ、これは。
こんなことを考えている、国会議員の会があることに、驚いた。
この会の発足した時の事務局長が、安倍氏だった、とは。
安倍首相は、「当時、従軍慰安婦との言葉はなかった。とか、従軍慰安婦については、軍が組織的に関与していたとの証拠はなかった」と言った。何度も、頭の中で繰り返して確認していた内容なのだろう。脳に印字されていた。米国での記者会見において、すらすらコメントできたのは、脳に印字された文章が、口からそのままプリント・アウトされただけのことなのだ。
そして、米国で大きな反響があったものだから、「日本の~ 議員の会」は十二分に論議していた自分らの考えを、すぐに引っ下げるなんて、アホ(関西風)かと思った。関東風では、馬鹿丸出しってとこか。
2007年3月10日 朝日 社説
国家の品格が問われる
慰安婦問題旧日本軍の慰安婦について、「官憲が家に押し入って連れて行くという強制性はなかった」などと述べた安倍首相の発言の余波が収まらない。 米国のニューヨーク・タイムズ紙は1面で「否認が元慰安婦の古傷を開いた」として、元慰安婦たちの生々しい証言を伝えた。米連邦議会下院では、日本に対して公式謝罪を求める決議案が採択に向けて勢いを増している。 一方、国内では慰安婦への謝罪と反省を表明した93年の河野官房長官談話に対し、自民党の議員らが事実関係の再調査を首相に求めた。メディアの一部にも、これに同調する向きがあり、国内外で炎に油を注ぎ合う事態になっている。 何とも情けないことだ。いま大切なのは、問題は何が幹で何が枝葉なのか、という見極めである。首相発言の内容は、河野談話が出されて以来、それを批判する人たちが繰り返し持ち出す論理と似ている。業者がやったことで、日本軍がさらっていったわけではない。だから国家の責任はない、というのが批判派の考えだ。 今回、一部のメディアが「問題の核心は、官憲による『強制連行』があったかどうかだ」と主張したのも、それに相通じるものだろう。
しかし、そうした議論の立て方そのものが、問題の本質から目をそらそうとしていないか。
どのようにして慰安婦を集め、戦地に送り、管理したのか。その実態は地域や時代によって異なる。しかし、全体としては、植民地や占領地の女性たちが意思に反して連れて行かれ、日本軍の将兵の相手をさせられたことは間違いない。
河野談話が「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」と結論づけたのは、潔い態度だった。
細かな事実にこだわって弁明ばかりするよりも、民族や女性の人権問題ととらえ、自らの歴史に向き合う。それこそが品格ある国家の姿ではないか。
海外の誤解も指摘しておきたい。たとえば、米下院の決議案は日本政府が謝罪していないという前提に立っている。
だが、政府の主導で国民の募金によるアジア女性基金が作られ、元慰安婦たちに「償い金」を贈り、首相名で「おわびと反省」を表す手紙を渡した。
補償問題はすでに国家間で決着済みだとして、政府は女性基金という道をとった。私たちは社説で「国家補償が望ましいが、次善の策としてはやむをえない」と主張してきた。日本として何もしなかったわけではないのだ。
安倍首相は河野談話を受け継ぐと繰り返し「これ以上の議論は非生産的だ」と語る場面が増えた。だが、首相が火種となった日本への疑問と不信は、自らが消す努力をするしかない。
日本は北朝鮮による拉致を人権侵害と国際社会に訴えている。その一方で、自らの過去の人権侵害に目をふさいでいては説得力も乏しくなろう。