2009年10月18日日曜日

虹の岬

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著者・辻井 喬

発行所・中央公論社

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著者・辻井 喬と言えば、豪腕な政治家で西武の創業者でもあった堤康次郎の息子であり、セゾングループを育て上げた経営者でもあった。今は経営からは離れ、セゾングループとの関りは、唯一セゾン財団の理事長としてのみだ。経営者だった時には、その名は堤清二だった。この作品「虹の岬」で、谷崎潤一郎賞を受賞した。

私も、学校を卒業してから最初にお世話になったのが、かって西武鉄道の持ち株会社だった。その会社を退職してからも、西武の関連会社とは、仕事上お世話になる機会が多くて、堤清二(辻井喬)さんの名前は、しょっちゅう聞かされた。彼の人となりを社員の口を経て聞かされるものの、実際には会ったこともないのですが、彼の大学時代のこと、父・堤康次郎衆院議員議長の秘書として、文化性を取り入れたセゾングループの代表取締役として、それから詩人、小説家、文化人、評論家としての才智に凄く魅いられていたのです。

西武鉄道の堤義明氏については、会社からは9年半給料を頂き、現実に観光宣伝物についての決裁をいただく機会があったので、それ以外にも他の社員から色んなことを聞かされ、それらしきイメージはできていたのですが、セゾンの社長さんのことは、茫漠としたままだった。

その辻井喬さんの「父の肖像」(野間文芸賞)は既に読んだ。35年来の友人がその本を貸してくれた。そして今回のこの本「虹の岬」のことは、書名は随分前から知っていたのですが、手にとって読む機会はなかった。そして1ヶ月前、何とかオフの古本屋さんの105円コーナーで見つけた。躊躇うことなく何冊か買った中に入れた。

最初の2,3ページを読んでいるうちに、頭を過(よ)ぎった思いが、ページをめくればめくるほど、その思いが段々大きく確信に近いものになった。著者は学生時代から詩作などに才覚を見せ、それからは自らも起業し大成功を果たしたことなどが、本の主人公・川田 順と少し似ているように思った。それらが、次に記した妄想が沸き起こった理由の一つかも知れません。

ここからは、私一人の禁じられた妄想とでも片付けてもらいたい。著者にもこの本の主人公のような秘められた恋愛体験をおもちなのではないか、と着想した。著者の手鏡に主人公が映(うつ)ったのだ。そして、この本を書き上げようと決心されたのではないだろうか。スマン、繰り返しますが、これは私の妄想だ。この稿の読み人は、軽く、軽くに処理してください。が、詮索にストップをかけるのも、詮索を続けるのも、各自御随意に。そんなことを、想起させるほど、著者は主人公・川田順の愛情物語に入れ込んでいる。あっと言う間に読み終えた。熱心な読者のヤマオカにも、きっと老いの波が寄せてきているのだろうか。身を乗り出して読みました。

昭和23年の川田 順が恋に悩み自らの命を絶とうとした古典的事件が、急に、現在に艶(なま)めかしいものになって、読者に刺激的に迫ってくる。どうせ読むなら、読書の手法としては少し品には欠けるが、読者の雑念を行間に放り込んで読んだ方が楽しい。この老いらくの恋を、私の体の中に、うらやましく思っている虫が棲んでいるわけではないことを、ここに断言しておきます。

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さて、物語は終戦を挟んだ時期に、歌壇の重鎮だった川田順の老いらくの恋の巻でした。

この老いらくの恋を自ら、歌にしているので、それをネットで見つけた。本の中にも、歌はあちこちに出てきます。これらを詠めば、すっかり彼の恋愛がどういうものだったのかが、容易に理解できます。

 

*樫の実のひとり者にて終わむと思えるときに君現れぬ(歌作、研究中に出会った)

*相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるる(逢瀬の帰りか?)

*たまきはる命うれしもこれの世に再び生きて君が声を聴く(自殺未遂後)

【注、たまきわる=魂きわる、枕言葉で命や世にかかる。日本語大辞典 講談社】

*何一つ成し遂げざりしわれながら君を思うはつひに貫く(安穏な生活に戻って)

 

若き日の恋は、はにかみて

おもて赤らめ、壮士時の

四十歳の恋は、世の中に

かれこれ心配れども、

墓場に近き老いらくの恋は、

怖るる何ものもなし。  (「恋の重荷」序)

 

はしたなき世の人言をくやしとも悲しとも思へしかも悔いなく  (俊子)

 

げに詩人は常若と

思ひあがりて、老いが身に

恋の重荷をになひしが、

郡肝疲れ、うつそみの

力も尽きて、崩折れて、

あはれ墓場へよろよろと(「恋の重荷」)

【注、うつそみ=うつせみ(現身) ①この世の人 ②この世、現世)日本語大辞典、講談社】

 

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ストーリは、ネットに、当時の朝日新聞の記事や、他にも載っていたもので、充分理解して貰えると思ったので、それを借用させていただいた。

老いらくの恋(朝日新聞より)

昭和23年12月4日「朝日新聞」社会面トップの見出し、
「老いらくの恋は怖れず。相手は元教授夫人。
川田順は昭和11年まで住友コンツェルンの常務理事として実業界で活躍する一方、歌人としても『西行』、歌集『伎芸天』などの著作を多数持つ歌壇の重鎮であった。昭和14年妻和子が病死した翌年京都に移住し余生をひとり気ままに歌作、研究に打ち込んでいた。そのとき若く美しい人妻鈴鹿俊子と出会った。俊子が順の弟子となって以来二人の仲は急速に進展した。
   吾が髪の白きに恥づるいとまなし溺るるばかり愛 しきものを
   逢はぬ日を数へてさびし二日三日四日五日となりにけるかな
やがて秘密は露見。俊子は家を出て離婚が成立した。事態は望む方向へ進んだが、相手を欺きその妻を奪った罪の意識からは遁れられない。順は友人たちに遺書を送り自殺を図るが未遂に終わった。
   つひにわれ生き難きかもいかさまに生きんとしても生き難きかも
自殺未遂から二週間後、朝日新聞は、「夕映えの恋に勝利、川田順結婚を決意」と報じた。ときに順67歳、俊子39歳、まさに老いらくの恋であった。
翌年二人は結婚し京都を発って小田原市国府津に帰住、のち藤沢市辻堂に移り順はここで俊子の献身に支えられ安穏な晩年を送った。
   たまきはる命うれしもこれの世に再び生きて君が声を聴く
   何一つ遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く

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あらすじ(ネットにあった文章を転載させてもらった)

京都大学教授・森三之介の元へ、母親に言われるまま嫁いだ平凡な主婦・祥子が、住友本社の理事という地位を捨ててまで短歌の道を精進しようとした歌人・川田順と出会ったのは、昭和19年5月に行われた歌の会のことであった。夢見がちな祥子はロマンチシズムの心情を持つ川田に憧れ、敗戦後、新古今集の評釈を始めた川田の清書の手伝いをするようになる。だが、そんな妻の行状を三之介は快く思わず、川田の手伝いを辞めるように再三宣告した。しかし、彼女はそれを決して辞めようとしないばかりか、やがて川田との許されない恋に落ちていくのであった。姦通罪が廃止され、戦後民主主義が芽生え始めた時期とは言え、新聞や雑誌はふたりの・不倫・を報じた。一度は実家に身を隠す祥子であったが、実家にも居づらくなり、結局3人の子供を捨て川田の家に身を寄せることになる。やがて、三之介との離婚が成立した祥子は、川田への愛を貫こうと川田に身も心も捧げるも、川田は祥子に多大なる迷惑をかけたという思いから自殺を図ってしまう。祥子のお陰で一命を取り留めた川田は、その後、祥子と結婚。独立した長女・尚子を除く、ふたりの子供を京都から引き取り、掬泉居と名づけた関東の家で暮らすようになる。しかし、その生活は苦しいものであった。雑誌社へ原稿を持ち込むが、・老いらくの恋・と陰口を叩かれ、どこも相手にしてくれないのだ。そんな中、婦人画報の野口という男が川田に戯曲を書くように勧めてくれた。初めは演劇界にも受け入れられなかった川田だが、やがてそれも軌道に乗り、彼の書いた戯曲は歌舞伎座で演じられるまでになる。家の近くの岬に立った川田は、人生を振り返りひとつの歌を詠む。それは、何一つ成し遂げられなかった自分であったが、祥子を想う心だけは貫いたという意味の歌であった。