2011年2月9日水曜日

永山則夫「無知の涙」から、多くを学んだ

弊社では、毎週水曜日が営業の定休日になっている。管理の担当者が出社しているだけなので、社内は極めて静かな一日だ。私は、と言えば午前中は会社の中で、何をするわけではない、とりあえずゴミの片づけから、周辺の整理整頓をする。場合によっては現場に出かけるか、それとも静かに本を読む。

今日は、以前に読んだ永山則夫の「無知の涙」を飛ばし飛ばし読み直した。やっぱり、かって感じたやるせない気持ちになった。

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

永山が1968年10月、東京プリンスホテルの敷地を巡回していたガードマンを射殺、それから、京都、北海道、名古屋と合わせて4人のガードマンやタクシードライバーを1ヶ月の間に次々と射殺した事件だ。19歳だった。恨みつらみのない、偶然行き当たった人をピストルで撃ち殺した。翌年から始まった裁判は、1990年に死刑が確定するまで、約22年間続いた。その間、獄中で書いた読書ノートが井上光晴氏が責任編集していた雑誌「辺境」に掲載された。それからです、私が興味を持ち出したのは。井上光晴氏を個人的に好感をもっていた。辺境を熱心に読んでいた。私の生活は、大学生活を終え、結婚して子供が生まれて、その子育ての過程と歩調を合わせるように裁判も進んだのです。

子育てを始めたばっかりの私には、永山の子供時代のことが関心のほぼ全てであったような気がする。永山は、人間に、母にさえぎゅっと抱きしめられたことが一度もなかった。公判のなかで明らかにされていく内容、時間の経過とともに繰りなす永山の周辺の人びとの営み、胸をキュンとさせられながら辺境を読み、裁判の経過を見据えていた。子供と親、とりわけ父と子、母と子、兄弟、身内、これらを取り巻く社会との関係をこの事件で、大いに考えさせられた。

裁判の終わりごろ、病床で伏している母を永山の代理で見舞いに向かう女性に、母にリンゴをむいてやってください、とお願いをした。永山はここにきて母を許したのでしょう。

読後、やるせない気持ちで、ブルータスのバックナンバーを何となくパラパラ捲(めく)っていたら、永山の住んでいた網走とは遠く離れたニュージーランドで、生息数がドンドン減っていくイエローアイドペンギンの写真を見つけた。

厳寒の地、網走。親に捨てられた子供たちだけで、隙間だらけの家に、乏しい食料、乏しい暖房、体をくっつけ合って暮らしていたその家と、この写真の家が勝手に私の頭の中でクロスしたのでした。ペンギンにとってこの家は、十分な憩いの場なのでしょうが、永山たちの家もこの程度の普請だったのではと思いを馳せた。外は、荒涼たる雪原。雪は古い家を覆(おお)いつぶさんばかりに降り、室内の奥まで雪が吹き込んでいたという。

午後は孫・晴を幼稚園に迎えに行って、それからは孫と一緒にサッカーをして遊ぶのです。が、今日は、プールに連れて行って欲しいと次女(晴の母親)から頼まれている。孫の水泳のレッスンが親の都合で、何日間は受けられなくて、その代替えのレッスンのためだ。

今は昼飯(ひるめし)後の休憩時間だ。2時半に幼稚園、3時半にプールだ。言われたように義務を果たさなければ、いいジジイになれない。私にとって、これが一週間の中で一番楽しい時間なのだ。

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ブルータス2006年9月15日号からこの写真を拝借しました。以下の紹介文もそのまま引用させていただきました。スマン。私はブルータスの熱烈な読者ですから、ちょっと多めにご配慮ください。

撮影されたのは、7月。南半球は真冬。その姿が残るわずかな生息地のひとつは、ここニュージーランドの南島。このペンギンさんの名はイエローアイドペンギン。現在、地球上に住むペンギンのなかで、最も数が減少している絶滅危惧種だ。

小沢元代表 強制起訴

菅首相や民主党の幹部、なんでこんな男にいつまで振り回されているんだ。

以下の文章は全て、2月1日の朝日新聞・朝刊からそのまま抜粋したものです。

やはり、これは後日のためにマイファイルしておかなくてはならない事件だと思っている。この、今、読んでいる新聞は、雑誌らと一緒に故紙回収トラックに乗せられていく運命にある。記事をいつまでも記憶に留めることができるほどの頭脳を持ち合わせていない私にできることは、キーボードを叩いて、備忘録に収めておくことだろう。

 

小沢元代表強制起訴

政治資金虚偽記載の罪

本人「無実、離党せず」

小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地取引で、東京第五検察審査会の「起訴議決」を受けて検察官役に指定された弁護士は31日、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で小沢氏を東京地裁に起訴した。市民の判断で政治家が強制起訴されたのは初めてだ。

昨年の1月に東京地検特捜部は衆院議員石川知裕、大久保隆規、池田光智の3元秘書を政治資金規正法違反容疑で逮捕し、2月に起訴。小沢氏については市民団体の告発も受けて捜査したが、不起訴(嫌疑不十分)とした。

市民団体はこの不起訴処分を不服として検察審査会に審査を申し立て、04,05年分の事件を担当した東京第五検察審査会は10年4月に「起訴相当」と議決。2度目の審査でも「起訴すべきだ」との起訴議決を10月に公表し、強制起訴が決まった。07年分を審査した第一審査会の議決は、強制起訴に至らない「不起訴不当」にとどまった。

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《解説》 有罪立証には困難も

検察が「証拠が足りない」と判断した事件を市民が翻す形で、小沢氏が「被告」となった。疑惑の解明に期待が集まるが、検察官役の指定弁護士が有罪を得るには困難も予想される。

審査会は、小沢氏に「報告した」とする元秘書らの捜査段階の供述を重視した。小沢氏の共謀認定には元秘書らの虚偽記載罪の成立が大前提になるが、捜査段階で自らの容疑を認めた元秘書らは起訴後に否認に転じた。小沢氏の公判でも調書通りの証言はしないとみられる。供述調書の信用性などが争われる予定の元秘書らの一審判決は秋までに出る見通しだ。この行方も小沢氏の公判に影響しうる。

検察の不起訴を翻し、市民の手で公開の法廷に進む強制起訴の仕組みだが、政治資金規正法違反罪は裁判員裁判の対象ではなく、従来通りプロの裁判官が裁く。証拠が十分かどうかについて、同じ法律家である検察に近い判断を下す可能性もある。

ゼネコンマネーの扱いも焦点の一つだ。検察は当初、土地の購入原資となった「小沢氏からの借入金4億円」を伏せた動機は、4億円に含まれるゼネコンからの裏金隠しだと見たが、解明できなかった。検察はそれでも裏金に執念を見せ、自ら起訴した元秘書らの公判では背景事情としての立証を裁判所に許された。指定弁護士は、4億円と裏金の関係を立証するかどうかについては「答えられない」と話しているが、「4億円の出どころ」に不自然さを感じていると見られる。

検察が「暴走」した郵便不正事件と違い、今回は検察が「自制」した事件だ。無罪が出れば、検察の判断をチェックする審査会制度のあり方も問われる(久木良太)

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天声人語

ジョークの宝庫といえば結婚である。哲人ソクラテス曰(いわ)く。「まず、結婚せよ。良妻を得れば幸せに、悪妻ならば君は哲学者になるだろう」。青木雨彦さんの『洒落た関係』から男のざれ言を続ける。

夫の証言。「新婚の妻は食べてしまいたいほどかわいかった。あの時食べときゃよかった」。もう一つ。「金曜に結婚すると不幸が起きるというのは本当ですか」。「もちろん」と劇作家のバーナード・ショー。「金曜だけが例外でいられるはずがない」。

最後のは、必然を言いたい時に応用が利く。「月曜に起訴されると有罪になるというのはーーーーー」と、問いを換えることもできた。検察の信頼が揺らいだ今は「いや、月曜には例外もある」と答えざるをえない。

その検察が諦めた小沢一郎氏の「疑惑」を、検察審査会が法廷へ押し出した。強制起訴された氏は検察嫌いの上、素人の検審が新聞やテレビに流されたと思っているのだろう。無罪を前提に辞職も離党もしない意向という。

民主党の幸不幸は、思えば小沢自由党との「結婚」に始まる。今や別居寸前だが、菅首相が「あの時ーーー」と悔やんでも遅い。たくさん生まれたチルドレンは多くが小沢氏につき、家を出るならそっちと言わんばかりだ。

被告席から政治闘争を構える「党内党」を背負い、ねじれ国会の針山を登る首相。今さら哲学者にもなれない。ソクラテスは「天下を動かすには、まず自ら動け」と諭したが、動きようがない。次々と降りかかる難題を前に結束すべき時に、ああ犬も食わない権力劇である。

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社説

小沢氏起訴/市民の判断に意義がある

民主党の小沢一郎元代表が、政治資金規正法違反の罪で起訴された。検察審査会の2度の議決をうけたもので、ふつうの市民が政界の実力者を刑事被告人の座に据えたと言っていい。

いったん検察が起訴を見送った事件だ。裁判の行方は予断を許さない。

起訴の権限は検察が長く独占してきた。足利事件のような大きな過ちもあるものの、有罪が確実に見込まれるものだけを起訴する運用により、有罪率99%という刑事司法を作り上げた。

それは一定の評価を得る一方で、裁判の形骸化をもたらした。検察が強大な権限をにぎることになり、独善的な体質を生む素地ともなった。

検察審による強制起訴はこれに風穴を開けた。検察がとってきた起訴と不起訴とを分ける基準や個々のケースへの対応は、一般の感覚と正義感に沿うものか。問い直す機会を市民が初めて得たと言っていいだろう。

今回問題になったのは政治資金規正法の解釈・運用だ。これまで検察は、収支報告書に実態と異なる記載があっても、ヤミ献金など重大悪質なものでなければ摘発対象とせず、また、実務担当者を超えて政治家本人の責任まで問うには、よほど確かな証拠が必要だという方針で臨んできた。

これに対し検察審は、規正法が目的に掲げる「国民の不断の監視と批判」を言葉だけのものにしてしまう。ずさんな記載のありように、より厳しい目を向けた。政治資金の流れの透明性を重視する姿勢は、検察が「小沢氏自身の関与を裏付けるとまでいえない」と判断した秘書らの供述を、積極的にとらえ直すことにもつながった。

裁判でこうした点がどう評価されるか、軽々に予測はできない。検察審をひきついだ指定弁護士の言い分が否定される可能性はあるし、訴追される側の負担にも配慮が必要だろう。

だが、国民が抱いた疑問をうやむやにせず、法廷という公の場で議論し、裁判所の判断を求める、その意義は、日本の政治や司法制度を考えるうえで決して小さくない。起訴イコール有罪といった決めつけはせず、冷静に公判の行方を見守りたい。

政治の側が早急に取り組むべき課題もある。今の収支報告制度は、秘書任せ・他人任せを容認する内容になっている。報告書に政治家本人の署名を義務づけるなど、自覚を促し、責任を明確にする仕組みに改めるべきだ。

小沢氏は、検察による起訴と強制起訴との違いを強調して離党などを否定した。その時どきで都合のいい理屈を持ち出し、国民に正面から向き合おうとしない姿勢には失望を禁じえない。

法廷で争うことと、政治家として責任を果たすことは別問題である。国会での説明すらできないのなら、自らしかるべく身を処すのが筋ではないか。

2011年2月7日月曜日

八百長力士を、重箱力士という。

今更、何をやっているんだ日本相撲協会さん。

大相撲の八百長問題で揺れる日本相撲協会は6日、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、大阪府立体育会館(大阪市浪速区)で3月13日に初日を迎える予定だった春場所の開催を中止し、八百長問題が解決するまで本場所開催を見合わせると発表した。特別調査委員会の調査で、何人かの力士は八百長を認めている。

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(春場所の中止について記者会見する放駒理事長。6日午後、両国国技館)

(竹田津敦史撮影、読売新聞)

読売新聞の一面では、「春場所中止」、「相撲史上最大の汚点」、「清瀬海も八百長認定」という題字が大きく印刷されていた。

牛さんの茶の間で、牛さんと私の2人は炬燵に入って、テレビの相撲中継を観ていたときのことです。観終わった取り組みが2人とも納得いかなかったのですが、私は語調を強めて負けた方の力士を責めた。余りにも、踏ん張ら無いままに負けたからです。あんなに簡単に負けてどうするんだ。やる気があるのか。ところが、牛さんは冷静に、ニコニコ笑って、大好きなネスカフェのインスタンコーヒーを飲んでいた。黒いラベルの普通の奴です。ゴールドブレンドなんかとは大いに格下の、当時、一番廉いインスタントコーヒーだったのです。

この牛さんに、私は大学時代に何かと強い影響をを受けた。テレビの脚本家だった牛さんはスポーツに関しては、どの競技においても、何でも知っていた。過去の名勝負、選手の出身地から学校、キャリア、それに彼には不似合いな艶(つや)っぽいゴシップまで、機会のあるごとに話してくれた。今から約40年前、1970年頃のことです。私は21歳だ。

そのとき、彼は相撲の八百長の話をしてくれたのです。山ちゃん、昔から、八百長をやる相撲取りのことを「重箱力士」と言うんだよ。八百長が必要になった時、空っぽの重箱の底にお金を入れて、風呂敷に包んで、八百長をやってくれる力士の親方にお願いに行くのが、慣例になっていたそうです。昔から、それはずうっと前から秩序としてあったのよ。テレビ局で、スポーツでも相撲を担当している人なら、みんな知っている。牛さんの発言は過激だった。牛さんは、亡くなって30年は経ってしまった。

今回の事件を知って「相撲の八百長」をネットで調べても、「重箱力士」というのは出てこなかった。牛さんから教えてもらった重箱力士というのは、そんなに普遍的な名称ではなかったのだろうか。

この問題が発覚したから言うわけではないが、相撲が何故国技なんだと、不思議に思う。相撲は国民にすっかり馴染みが薄まってしまった。プロレスやボクシングと同じレベルで興行的で、国技と謂われるほどの格式を感じなくなってしまった。この際、誰がどのように決めたのか知らないが、国技という表現はやめよう。

かって、朝青龍が大一番で勝って、ガッツポーズや両手を挙げて万歳の格好で勝利の喜びを表したことがしばしばあった。その所作は横綱としての格式がないと非難された。国技に携わる者は、なりふり構わずに喜怒哀楽を表すものではないのだ、と相撲有識者らは口を揃えて批判した。感情をぐうっと押さえ込んで、決められたしきたりに従う、それが格式なのだという。が、私はそれらの意見に納得できなかった。それに、相撲を神技とか、相撲を神の儀式にそぐわせるなんて、私には理解できない。

ガッツポーズのどこが悪いのだ。

そして税制面で優遇を受けられる公益法人からも下ろそう。

日本相撲協会そのものが、ガンなのかも。そのことも所轄官庁はチェックすべきだろう。

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人間は、転んでも何かを身につけようとする賢い動物だ。私もお陰さまで、八百長の由来まで勉強する機会を得たことに感謝。

Wikipedia(のまま)=八百屋は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)}といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れ渡り、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。

2011年2月6日日曜日

今更、旭日旗はないだろう

先月25日に行なわれた、サッカーのアジア杯準決勝の日韓戦で、日本のDF今野の手痛いファウルでPKを献上した。

前半23分、ペナルティーエリア内に送られたロングボールを朴智星(パク・チソン)と競り合った。今野のデフェンスは、相手に自分の体を密着させて自由にさせない、これは守備では当たり前のことだけれども、それが徹底しているからこそ、今野は日本代表には不可欠な選手なのだ。相手と移動しながら、走るコースに入ってしまったのとタイミングが少しずれたので、相手の肩を押すことになってしまった。そして、ファウルをとられた。相手は、韓国主将の朴智星、手強(てごわ)い奴だった。

PKのキッカーは、韓国チームのMF奇誠庸(キ・ソンヨン)選手。奇選手は現在、中村俊輔がかって所属していたこともあるスコットランド・セルティックの所属だ

それから、問題が発生した。

奇選手がPKを決めた後、仲間に囲まれながら観客席に向いて猿真似をしたのです。膨らませた頬を左手で猿のように掻(か)いた。その挙動が韓国内で、賛否両論がおこっている。猿の真似は、かって白人が黄色人らに対して侮辱する時にするポーズだ。韓国内では日本人を侮辱する際によくやるパフォーマンスらしい。

私は、この試合をリアルタイムで見ていなかったが、その猿真似を見ても、それが日本人を侮辱している仕草だとは気が付かなかっただろう。実際に日本ではその状況をとらえて放映されたのだろうか、私が見たニュースではそのような場面は見受けられなかった。

でも、この「サルのセレモニー」に対する批判は、日本国内からではなく、韓国内から上がった。

その批判に驚いたのか、心配になったのか、奇選手はツイッターで日本の応援席でサポーターを掲げる旭日旗(きょくじつき)を見て、僕の心は涙を流したとつぶやいたそうだ。頭にきて、ついこの行動に出たということだ。

国際サッカー連盟(FIFA)は、人種、宗教、国籍などあらゆる差別に対し、勝ち点の剥奪や失格処分を含む厳しい罰則規定を設けている。そのFIFAから罰則処分を受ける可能性が高まると、一転、それまでの主張を翻し、自身がプレーするスコットランドでサポーターに侮辱されたことがあるので、その報復だった、と矛先を変えた。

そうすれば、どうなるか、今度はイギリスで炎上(ネットで大騒ぎすることをこのような表現を使うらしい)中だ。それにイギリス最大発行紙のサンは、「ずうずうしいmonki」の見出しで、奇選手の発言を批判した記事を掲載した。

この奇選手の猿真似で、日本人のどれだけの人がその意味するところに気づいただろうか。寛容な態度を示したわけではない。日本人は気が付かなかったのだろう。

それにしても、今更、旭日旗とは驚いた。旧日本軍の連隊旗、旧海軍の軍艦旗でもあった、あの日章と旭日を意匠したものだ。韓国人ならずとも、日本人である私でさえも、その旗には違和感を覚える。かっては、軍用だけではなくスポーツの応援などにも使われていたようだ。でも、それは昔、古い憲法の時代のことだと思うが。1990年、イタリアW杯に行ったとき、イタリア人に何故、自分の国の旗を持ってこないのかと非難されたが、そのことには納得したが、まさか旭日旗を持って行こうとは、どんなことがあっても思いつかなかっただろう。

韓国の世論はこの猿真似について大まか、奇選手に対して批判的らしい。韓国の監督は試合後のインタービューで日本のチームの技量とまとまりを認め、祝福の言葉を述べた。

極端な例をここで出そう。私が所属していた早稲田大学は韓国の高麗大学と、今でも毎年恒例で交流試合をしています。私が入学したのは昭和44年、1969年。大学に入ったときに、先輩から聞いた話では、韓国内で各大学と5試合ほどするのですが、田舎の大学では早稲田が勝ったままで試合が終了して、両チームが向かい合って最後のお辞儀をした瞬間、ベンチに猛スピードで逃げ込むんだよ、だって、観客席から石が投げ込まれるんだよ、と聞かされた。ニックキ(憎い)、日本の大学め、と言うことらしい。そんなことが現実にあった。50年ほど前のことだ。

猿真似のことは、時間の経過とともに何らかに収束されるだろう。その後、奇選手も反省しているようです。

2002年日韓がW杯を共同開催した。日本はベスト16進出で敗れたが韓国は4強入りした。韓国は日本チームを応援し、日本は頑張る韓国チームに感動しながらエールを送った。新宿・新大久保のコーリアンタウンは赤いシャツで沸いた。ソウル市役所前の10万人にも上る真(ま)っ赤(か)な群集にど胆を抜かされた。私は、韓国の熱気が羨ましかった。

それから、9年が経った。日韓のサッカーを通じての交流が成熟の時代へと、新しい段階に入っているという実感がする。

あえてこの章の終わりに、10年前に起こった悲しい事件を追想しよう。2001年1月26日、東京・新大久保駅で、韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さんが転落した人を助けようとして電車に轢かれ、他の2人と共に亡くなった。

今更、旭日旗なんか持ち出すな。

2011年2月4日金曜日

独居老人の孤独を想う

昨夜は友人と打ち合わせを兼ねた食事会を、居酒屋でした。

私の話す内容に納得できない友人は、私を強く責めた。友人の言うことが余りにももっとも過ぎて、私は追い込まれていく一方だった。相手の気持ちが解れば判るだけ、私は気が滅入っていく。でも、それならば、いっそうの事、なんて自棄糞な気持ちは絶対避けなくてはならない。壊したくない。

私は気分がすぐれなかったのです、体調が悪すぎた。昼ごろから腹痛に苦しんでいた。極度に緊張すると、私はいつも急性の神経性胃炎を起こすのですが、今日はそうではない。友人は、カキのフライ、焼きそばを食って、焼きうどん食って、最後に鮭茶漬けを、目の前で美味しそうに食った。私は、友人の食いっぷりが羨ましかった。不思議な生き物を見るようでもあった、失礼。

腹痛は、朝、牛乳を飲んだときから始まっていたような気がする。牛乳が古かったわけではない。一緒に食った卵もそんなに古くない。牛乳を温めなかったからなのだろうか。友人は、お前の腹の中には、牛乳を消化する酵素がないんじゃないか、ともっともらしい理屈を言ってくれる。そして、ヤマオカ、牛乳は本来子牛が飲むものだよ、お前は何か大きな勘違いをしていないか?と病人に容赦ない。

22:00、帰宅して、着の身着のまま、外出着のまま布団にもぐった。痛みは引かない。新三共胃腸薬を飲んだがそう簡単には痛みは消えない。

私は今個人的な事情があって、一人暮らしをしている。

朝04:30起床と同時に洗面セットを持って散歩にでかけた。お腹がゴロゴロしていて気持ちが悪い。熱はあるのかないのか定かではない。友人にメールで空模様と気温のお知らせをしたのだが、曇っているからそんなに寒くない、と文字を刻んだのは、私の体に熱が少しあったからなのか。途中の100円ショップで、牛乳ではなく、納豆を買った。6個210円也。もう牛乳は買わない。歩数5,990歩、歩行距離3,8キロ、散歩の成果だ。大きな団地の帷子川に面した公園で、歯を磨いて、顔を洗った。いつもは冷たい水ですごく爽快な気分になれるのに、今日はお腹が痛くて気が重い。

それでも、05:15、朝食の準備にとりかかったが、この状態では何も食えないような気がして、粥も、鯵の塩焼きも、納豆も諦めた。そして布団にもぐった。

朝、会社に出社した。社員のA君は一昨日から持病の尿結石で激痛と格闘しているそうです。救急車で病院に行ったそうです。今日も休ませてください、と奥さんからの電話がありました。そんな報告を聞いて、私の腹の痛みも増してきたようで、私も休みをもらって、布団の中にもぐった。それから、4時間熟睡した。昨夜、痛みが激しくて睡眠不足だったのだ。疲れていることもあるのだろう。

昼過ぎ、経営責任者の中さんが、昼飯にと有名なお店のカツ丼を持ってきて、これでも食って元気をだしてください、と差し出されても、視線はそのカツ丼を避けた。カツ丼とは彼らしい。カツ丼を食えば、どんな状態の人でも元気になるとでも思っているのだろうか、不思議な人だ。肉こそが全エネルギーの源だと確信しているふしがある。寒くないですか、ドアーを閉めときましょうか、病院に行かれた方がいいんじゃないんですか、彼はどこまでも優しい人だ。

ありがとうと言いながら、静かに彼が去っていくのを待った。午後も同じように寝入った。

そこで、考えた。私も初老の域に入っている。幸いなことに友人やスタッフに恵まれているものの、一人暮らしを続けるには、絶対健康であらねばならない、と痛感したのでした。痛みが二日も三日も続けば不安は極度に増すだろう。

夕方になって、痛みは少しづつ引いたような気がした。苦しい2日間だった。

明日の朝、腹減った、と叫べればいいなあ。

2011年2月3日木曜日

今年の心構えは、、、、、。

毎年、私はそのときどきの会社の状態を考えて、この一年、社員が心がけなくてならない、心構えを紙に書いて、会社の彼方此方に張るようにしているのです。

昨年は、新しく書くことはできなくて、一昨年に書いたものを2年間続けて掲げた。一昨年と昨年は、会社の状況は変わらず、仕事に向かう姿勢も心構えも変わらなかったからだ。

掲げたものは、『愚直に、強い意志をもって、復活だ』。

 

そして、今年正月に書いたものはこれだ。

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年末年始にかけて、我々は大きい波にのまれた。だが、まだまだ波は静まり止まぬが、新たなスタート台に立てたことに、感謝しよう。常々驕(おご)ってはならない。大胆とはいかなくても、緩やでもいい、着実に復活しよう。支えてくださっている関係者の方々に恩返しをしなければならない。

そういうわけで、今年の我々は『慎み、感謝して、大胆に復活だ』にした。

2011年2月1日火曜日

ザックジャパン、アジアカップ優勝

下の文章と写真は、20110131の朝日新聞の記事をそのまま、転載したものです。

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(香川⑩らのユニフォームを掲げて喜ぶ日本の選手たち。ドーハのハリファ競技場、西畑志朗撮影)

日本一丸アジアの頂

カタールで行われたサッカーのアジアカップ決勝で、日本は29日、延長戦の末に豪州を1-0で下し、2大会ぶり4度目の優勝を飾った。控えを含め一丸となったチームワークは、ベスト16に進んだ昨年のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会以降、日本代表の色になりつつある。

「ヒーロー次々」

⑧MATSUI ⑩KAGAWA ⑫SAKAI ⑳MAKINO。優勝の歓喜に包まれる会場で、「いないはずの選手」が観客席に走った。

実際に走ったのは出場した選手たち。松井大輔(仏・グランノーブル)、香川慎司(独・ドルトムント)、酒井高徳(新潟)、槙野智章(独・ケルン)の4人はドーハに来ながら、けがで途中離脱した。彼らのユニフォームを身につけ、全員で戦った証を見せた。主将の長谷部誠(独・ウォルフブルク)は振り返った。「総力戦で勝ったことがうれしい。試合ごとにヒーローが代わった。そういうチームは強い」

日本代表は2006年のW杯ドイツ大会で、一つになれず、敗退した。逆に南アフリカ大会は、それを知るベテラン選手の献身があった。W杯後に初代表入りした細貝萌(独・アウクスブルク)は「サブにも役割があることを思い知らされた」と言った。メンバーが南ア大会と半分以上入れ替わっても、変わらない「一丸」への意識。W杯の遺産が受け継がれている。

実際、控え選手の意識は高かった。試合前、控え陣だけで「どうしたら途中からうまく試合に入れるか」、「ピッチにいる選手にどう声をかけるか」を話し合っていたという。初戦で控えだった岡崎慎司(清水)、猪野波雅彦(鹿島)、細貝が、その後の試合で得点。決勝の決勝点も、途中出場した李忠成(広島)が生んだ。李は「出たいという気持ちはずっと抑えて、まずチームのためだった。でもラッキーボーイになってやると思っていた」と話す。

そのチームのスイッチが入ったのは、初戦ヨルダン戦(9日)の後だった。世界ランク29位の日本は同107位の相手に終了直前、辛うじて引き分けに持ち込んだ。

翌10日、アツベルト・ザッケローニ監督が練習前、選手たちをグラウンド中央に集めた。昨年末の大阪合宿でも、ドーハーに入ってからも一度も見ない光景だった。監督は輪の中で約15分間、心構えを話した。「雰囲気が『アジアカップ』になっていない。やるべきことをやっていこう」

W杯は終わったのだ。アジア相手だからと簡単に勝てないのも歴史が証明している。選手たちの表情が変わった。「なめていたわけではないが、自信があった」と香川は反省した。「アジアは難しい」が取材の中でも選手の合言葉になった。選手だけで集まり、話し合うようになった。

戦術面で試合ごとに完成度を高めた流れも、日本サッカーには今後の指標となりそうだ。今回の代表は欧州クラブの所属が半分近い。短い準備期間で公式戦に臨まざるを得ない。多くの代表選手が欧州でプレーする強豪国なら、どこも同じだ。ますます欧州に渡る傾向が予想される日本には貴重な経験になった。

14年のW杯ブラジル大会へ、順調に歩みだしている。

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(延長後半4分、左足でボレーシュートを決める李忠成=西畑志朗撮影)

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社説

アジア杯制覇/この勢いでピッチの外も

決勝のゴールを決めた李忠成選手のボレーシュートは、胸がすく完璧な一撃だった。サッカーのアジアカップ決勝で、日本代表が豪州を延長戦の末破り、2大会ぶりに頂点を極めた。

昨年、南アフリカでのワールドカップ(W杯)で16強入りし、日本中を熱狂させた時を思い起こさせる、歓喜あふれる優勝だ。

舞台のドーハは日本サッカー界因縁の地である。1993年の米国W杯アジア最終予選、イラク戦で終了間際に追いつかれ、W杯初出場を逃した。「ドーハの悲劇」と呼ばれてきたが、そんな過去も一蹴した。

14年ブラジルW杯へ向け、チームを勢いづける価値ある優勝だ。

「素晴らしい団結力だ。成長しながら、団結しながら勝利をつかんだ」。ザッケローニ監督がこう話した通り、日本代表には、主力も控えもない強固な連帯感と厚い信頼感があった。

李選手は延長戦からの出場で、決勝点は代表初ゴールだった。彼に象徴されるように、代表経験の浅い選手の働きも主力に劣らなかった。李選手ら4人が今回、代表初得点を挙げている。

全選手に気を配る指揮官のこまやかさと的確な采配。そして監督の意をくみ、準備を劣らない選手の高い意識がかみ合っての栄冠と言える。

王座に返り咲くまで、楽な試合はひとつもなかった。退場者を出すゲームが2度、相手を追う展開が3度あった。準決勝ではここ5年半、5度の対戦で1回も勝てなかった韓国に対し、PK戦の末、勝利をもぎとった。

W杯で苦しんで得た自信と、まだ高みを目指せるという向上心。今の代表に満ちている前向きなベクトルが、苦闘を勝ち抜いた原動力だろう。

サッカーの本場欧州から見ても「遠いアジア」ではない。南アW杯で日本と韓国が16強入りしたように、躍進する国が増えている。アフリカが優れた人材供給源と目されたように、熱い視線がいまアジアに注がれる。

今大会、欧州のスカウトがこぞって有能な選手の動きを追った。中でも、日本の選手は小柄ながら俊敏で技量が高く、団結力にも優れる。そんな個性を改めて印象づけた。日本への注目は今後、従来以上に増すだろう。

ピッチ上で躍動した日本だが、大会直前に開かれたアジアサッカー連盟選出の国際サッカー連盟理事選で、田嶋幸三・日本協会副会長が落選した。22年W杯招致失敗に次ぐ敗戦で、サッカー界での発言力低下は必至だ。

東京五輪招致にも失敗したように、日本スポーツ界の国際的な影響力低下が著しい。世界での発言力が落ちている日本を象徴するようだ。

再度目指そうとしているW杯招致に向け、芝の外でも存在感を増す戦略が日本サッカー界には求められる。

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(後半、好セーブを見せるGK川島。中央は岩政)

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李、決勝弾 鮮烈ボレー

サッカー アジア杯 29日

最終日は決勝があり、日本は延長戦の末に1-0でオーストラリアを下して、2大会ぶり単独最多となる4度目の優勝を遂げた。2013年にブラジルであるコンフェデレーションカップの出場権を手にした。

日本は高さのある豪州の攻撃に押し込まれながら、GK川島の攻守など粘り強い守備で対抗。延長後半4分に、途中出場の李が永友の左クロスを左ボレーで合わせて決勝点とした。ザッケローニ監督は就任後、5勝3分け(引き分けに1PK戦勝ちを含む)で、最初の公式戦で初めてのタイトルを獲得した。

大会最優秀選手に本田圭が選ばれ、得点王は韓国のMF具滋哲(クジャチョル)が5点で獲得した。

MVPは本田圭

守勢に回ったときほど、本田圭の存在感は増す。接触プレーに強い豪州相手にひるむこともなくパスを受けては攻めの起点となった。「サッカーは『一番』が一番いい。でも個人的には悔しさの方が残った。個人でチームを救える存在になりたい」と話した。MV受賞については、「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」。その遠藤とは常に会話をもち、「優勝でみんなに箔(はく)がついた。自立したいいチームになる」と期待感を示した。

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流れ変えた「5分後」の交代

オーレ

延長の李のボレーシュートが試合のハイライトなら、ザッケローニ監督が後半最初に切ったカードが決勝点へつながる分岐点だった。

それは珍しい光景だった。後半の立ち上がりを見極めて、ベンチは動きの悪いMF藤本を外してDF岩政を入れようとした。ところが、ピッチの中で盛んにやり取りをした選手たちが、タッチライン際に立った岩政をベンチへと押し返す。5分ほど待って、結局、同じ交代が告げられた。

その5分で、交代の中身と意味合いはまるで変わった。最初の時点で監督が考えたのは「MFに厚みを持たせるために今野をDFからMFに上げよう」。布陣の4-3-3への並び替えを決断していた。しかし、今野自身が長くMFから離れていたことへの懸念を示した。選手の意を受けて、大会を通して効果的な采配を見せてきたイタリア人は柔軟に手を打つ。

布陣はそのままに、岩政を予定通り中央でケーヒル封じに専念させ、今野を左DFに長友を左MFに移して、手を焼いていた豪州の右サイドを二人掛りで封じ込める。左から右に回った岡崎はそれまでの守備の負担から解放された。一つの交代にいくつもの意味を持たせた。

後半に回り続ける悪い流れを断ち切った。押し込まれながら、日本は息を吹き返す。落ち着いた粘り強い守りから本田圭を経由して、左右の長友、岡崎が長い距離を走り始めた。カウンター攻撃から好機は増えていった。決勝点は左をしつこく突き続けた長友のクロスから枠をとらえたわずか3本のシュートから唯一のゴールが生まれたのは必然でもあった。

きめ細かい分析と約束事の多さの割りに、イタリア人の懐は深い。「最終的に決めるのは監督。でも選手のいうことを受け入れてくれる」と遠藤は話した。ピッチでの感触を優先させた選手の主張と、それを尊重した監督。大会を通じて築き上げた信頼感が王者の座を手繰(たぐ)り寄せた。(編集委員・潮智史)

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あんなきれいなゴール 一生とれない

自分自身でも驚く。美しいゴールだった。左サイドの長友からのクロスにあわせ、ボレーシュート。李は韓国から国籍を変えて4年。幼い頃から夢見た代表初得点は、優勝を決める決勝点だった。

日本代表で2試合目。延長前半、出番は初戦のヨルダン戦以来20日ぶりだった。試合に出てなくても「良いプレーをしている。気持ちを保ってくれ」とザッケローニ監督から言われ、「もう一度チャンスはある」と信じていた。

延長後半4分、ほんの一歩の小さなフェントで豪州のDFが大きく振られ、マークが空いた。ベンチで「相手は疲れている。ちょっとの動きで外せる」と分析していた通りだった。左足を振り抜くと、シュートは一直線でゴールへ。GKは一歩も動けなかった。「あんなきれいなゴールは一生取れない」

在日韓国人4世。国籍を替え、「イ・チュンソン」から「り・ただなり」になったのは2007年2月。北京五輪を目指す22歳以下日本代表の反町監督から興味を示されたのがきっかけだ。幼い頃から日本代表にあこがれ三浦(横浜FC)の得点後のパフォーマンス「カズダンス」をまねていた、普通の日本に住む少年。日本代表を目指すのは違和感はなかった。

国籍を変えても、日韓両国を大切にしている。日本の通名「大山」があってもあえて名字(みょうじ)で「李」を残したし、準決勝の韓国との対決は「(韓国代表にもあこがれていただけに)心が痛んだ」という。

「日本に生まれ、日本の文化で育ってきた。だから日本代表のメンバーとして優勝できて最高の幸せ」。この日は「日本人」としての喜びを爆発させた。(河野正樹)

 

長友、縦横無尽 完璧クロス

まさに獅子奮迅の活躍だった。左サイドを激しく上下動していた長友だった。後半11分の交代策に伴い、DFからMFに位置替え。持ち前のスピードを生かしてタッチライン際を駆け上がった。同21分には岡崎の頭にクロスを合わせ、もう少しで先制点という場面を作った。

決勝点を導き出したのは延長後半4分。ステップを踏んで抜け出し完璧なクロスを李に送った。0-0が続いた緊張感にも「これが僕らの成長。ぎりぎりの戦いをしてきた」。試合後、けがでチームを離れた香川のユニフォームを掲げた。「試合前に本人から電話があって、優勝したら持ってと頼まれていた」と明かした。W杯後にイタリアに渡り、進境著しい。30日にそのセリエAの舞台に戻った。「また厳しい戦いが始まる」と話した。

 

川島、好セーブ連発

20本のシュートを浴びて、水際で危機を救ったのは川島だった。絶体絶命のピンチは次から次にやってきた。

前半19分、CKから頭でつながれてキューウェルがシュート。枠に飛んだ球を右手指先に当ててかき出す。後半27分は、再びキューウェルの至近距離からのシュートを右足でセーブ。前に出たときの勝負強さを発揮した。

DFとの連係の悪さは決勝でも見られた。カタールとの準々決勝では位置取りを誤るなど安定感に欠けた。「ミスを引きずっていたら前には進めない。1点が試合を大きく左右すると思った。ゼロで終わらせてよかった」。常に強気の守備陣がほっとした笑顔を見せた。大会を通じて、監督から「信頼している」と声をかけられ続けた。「こういうタフな経験は実際してみないとわからないものだった」。実感のこもったひと言だった。

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(長谷部と抱き合う)

「日本のため頑張り 在日の新しい歴史を」

背中押した父との約束

サッカーアジア杯 李選手「人生最高の1ページ」

試合ごとにヒーローが生まれ、アジア王者に返り咲いたサッカー日本代表。決勝で貴重なゴールを決めたのは、交代出場の李忠成(25)。東京都西東京市出身の在日コリアン4世だ。活躍の陰に、父と交わした約束があった。

「お父さん、やったよ!」貿易業を営む父・鉄泰(チョルテ)さん(53)の携帯電話に李選手から電話がかかってきたのは、試合終了後まもなくだった。

興奮がおさまらない様子の息子を、父はねぎらった。「頑張ったかいがあったな。神様がボールくれたな」

李選手は今大会、初戦に交代出場したが、その後は出番がなかった。韓国との準決勝の前、李選手から鉄泰さんに電話があった。焦りをのぞかせる息子に、父は「頑張らんと、次呼ばれへん。あいつがいたらプラスになるって仕事しないと」と励ました。そして念を押した。「難しく考えるな。簡単にプレーしろ」。

鉄泰さんが「頑張れ」というのは、サッカーだけの意味ではない。日本と朝鮮半島の間で生きてきた者としての思いがある。「我々は周りと同じレベルでは認められない。いい時はいいが、だめだと必要以上に批判される」

李選手は以前、鉄泰さんと同じ韓国籍だった。韓国のユース代表の選抜合宿に参加したこともある。だが言葉は通じず、壁も感じた。日本国籍を取得したのは4年前だ。

北京五輪の日本代表入りを目指して日本国籍を選んだ時、親子は話し合ったという。「堂々と本名を名乗りながら、日本のために頑張る在日がいてもいい。一つでも在日の新しい歴史をつくろう」。

少ないチャンスをものにした息子を、鉄泰さんは誇らしく思う。「簡単にプレーを」というアドバイスを実践した決勝点。「ボールをいったん止めたりしたら入らなかったな」。

勝利の後、李選手は朝7時まで眠れなかった。パソコンの動画サイトで自分のゴールを繰り返し見続けたという。

ブログも書いた。「正直眠れません。僕の人生において最高の1ページを築けた日だったから」「『俺がヒーローになるんだ!』と、自分に言い聞かせながら常に自分を信じ続けピッチに入りました」

そして、スタッフやサポーターとともに「僕を常に支え続けてくれたアボジ・オモニ(韓国語で父母の意味)」に感謝の言葉を贈った。

「みんなの想いを乗せたシュートでした」 (舟橋宏太)

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李投入「論理とひらめき半々」

ザッケローニ監督一問一答(記者会見)

*よく眠れたかーーー

試合を振り返ってしまって寝付けなかった。優勝したから不満や後悔を言いたくないが、体調面でもっと準備してボールを保持するサッカーをしたかった。

*李を投入した判断はーーー

論理的な部分と感覚的なひらめきと半々。前田にセットプレーの守備で長身のジェデイナクをマークさせていた。それを外していいかという判断。チームのコンセプトと同じ勇気そのものだった。

*ーーー遠藤と長谷部を使い続けた。

先発を変えなかったのは土台を築きたかったから。代えがきかない選手はこのチームにはいない。ただ、二人はチームがどうあるべきかを早くから理解して周囲に伝えてくれた。さらに控え選手がここまで結果を出す状況は記憶にない。

*ーーー練習でも頻繁に選手に声をかけていた。

もともと私はコミュニケーションを取るタイプ。お互いにもっと分かり合いたいと思っていたからだ。

*ーーーアジアから世界に出て行く上で何が必要か。

勇気とバランスというコンセプトは同じ。あとは相手の特徴を踏まえて対策を立てていく。異なるタイプとやることで経験値は上がる。欧州にいる選手も多いので、海外で合宿、試合をやるのも悪くない。