2011年5月15日日曜日

原子力発電も地産地消だ

(3月20日、「エア・フォート・サービス」の無人飛行機によって撮影されたもの。左が4号機、右にあるのが3号機)

東日本大震災の津波で甚大な被害を被った東京電力福島第1原子力発電所は、2ヶ月経っても未だに鎮まるどころか、今日0515現在、まだ最悪の状態から脱出できていない。20110512の朝日新聞によると、東京電力は、3号機でも取水口付近の汚染水を防ぐために設置されたシルトフェンスの外側の海水から、海洋に排出できる国の基準の濃度の1万8千倍のセシウム134を検出したと発表した。2号機からは高濃度の汚染水が漏れ出たことはあったが、3号機で確認されたのは初めてだ。

今回の事故で、つくづく原子力発電所が摩訶不思議な代物だということが、国民全ての人が全身で理解した。摩訶不思議というのは、一つ間違えれば、人間の叡智で制御できないからだ。原子力発電の安全神話は崩れた。今月の11日の朝日新聞・天声人語で紹介されていたものをここに加える。ある科学者はかって、放射能を撒き散らす核実験について「地球の一点から全世界が汚染できるとは誰も考えつかなかった」と語ったそうだ(武田徹{私たちはこうして『原発大国』を選んだ」より)。

20110513の朝日新聞で、社会学者のウルリッヒ・ベックさんが、近代社会が生んだ限界のないリスクに関して、原子力だけではないが、気候変動やグローバル化した金融市場、テロリズムなども同じような性格のリスクにさらされていると言い、そのリスクのことを次のように語っている。「人間自身が作り出し、その弊害の広がりに、社会的、地理的、時間的に限界がない大災害です。通常の事故は、たとえば交通事故であれ、あるいはもっと深刻で数千人がなくなる場合であれ、被害は一定の社会グループに限定されます。しかし、原発事故はそうではない。新しいタイプのリスクです」。

政府もここに至って、今後の原子力発電行政の見直しを始めたらしい。検討する内容は、決まっている。先ずは、今稼動している原子力発電所が安全かどうかの点検だろう。その後、点検や改善や、改良、新技術の開発 が試みられるのだろうが、それよりも何よりも、絶対安全な原子力発電が可能なのだろうか。本当に想定外だったのかという論議はさておき、(想定外のことが発生しようが)どうにでも、コントロールできるものでないと、不安だ。その不安が払拭されて安全が保証されないようでは、原子力発電所は、作ってはいけないのではないか。

国策として、原子力発電に頼るという今までの行政の見直しが必要だ。国民投票で国民の意思を確認することは必至だ。

近年、食物や衣料その他で、地産地消運動が盛んだが、原子力発電を真に望むなら、絶対地産地消でなければならないのではないか。住まいの近くに原子力発電所があるべきだ。たとえ東京といえども、人口が集中していようが。そのためには、大気を汚さない、住民を危険に絶対さらさない。当然、発生した廃棄物もその近くで処分されなくてはならない。

その使用済み核燃料廃棄物の処理場、それから再処理技術の確立や再処理場の確保もできないまま、原子力発電に猛進した結果が、こうだ。福島第1原発の貯蔵プールには事故時、4546本の使用済みの核燃料があった。東芝、日立、三菱らの原子力発電施工会社と各ゼネコンだけが、巨利を得てきたのではないか。虚構の安全神話を振り回しながら。

そんなことを雑感する日々だった。

ところが、どっこい、変なことが起ころうとしていることが判明した。そのことが、今回のこの稿のメインテーマだ。

私が最近の日々思っていたこととは全然逆のことが行われようとしている。モンゴルに日米が、核廃棄物の処理場を作るというのだ。モンゴルには行ったことがないので、本当のモンゴルの素晴らしさを知らないのですが、あの奇麗な青い空、緑の草原をイメージすると、なんだかイヤな話題だなあと思う。日米が、自国内では処分場が確保できないので、他所の国に捨てるというのだ。その昔、首都圏では住民から集めた糞尿を近海に投棄していたことを思い出した。ただ、糞尿は化学物質ではなかった。

内容は、毎日新聞の記事に頼ろう。

核処分場・モンゴルに計画ーーー日米、昨秋から交渉

【ウランバートル会川晴之】経済産業省が昨年秋から米エネルギー省と共同で、使用済み核燃料などの世界初の国際的な貯蔵・処分施設をモンゴルに建設する計画を極秘に進めていることがわかった。処分場を自国内に持たない日米にとって、原子炉と廃棄物処理とをセットに国際的な原子力発電所の売込みを仕掛けるロシアやフランスに対抗するのが主な狙い。モンゴルは見返りとして日米からの原子力技術支援を受ける。だが、東日本大震災による東京電力福島第1原発事故で日本政府は原子力政策の抜本的な見直しを迫られており、「核のゴミ」を第三国に負わせる手法に批判がでそうだ。

ここまでキーを叩いてきて、ふと思いついたことがある。今後、実用化を目指している「高速増殖炉」のことだ。これは、どんなもんなんだろう。まだまだ、心配の種は尽きない。

2011年5月10日火曜日

安部公房「砂の女」を読んだ

安部公房、「砂の女」を読んだ。

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私が中学生だったか高校生のときだったか、「砂の女」の映画を宇治で観た。宇治東映か宇治松竹のどちらかの映画館だった。この2館は並んでいた。私はマセタ少年だったようです。

監督・勅使河原宏、出演者・岡田英次、岸田今日子、音楽・武満徹、撮影・瀬川浩、脚本は作家安部公房自らが担当したので原作に忠実だ。作品は各部門において数々の賞を獲得した。音楽も評価が高かった。

何故、観ることになったのか。映画館の前に掲げられたポスターが刺激的だった。砂にまみれた男女が裸で絡んでいる絵柄だったのですが、成長とともに誰もが通過する、特に思春期の男の子が女の体に特別興味を持ち始める、そういう筋合いの物ではなく、そのポスターから、子供心ながら、何か惹(ひ)かれるモノを感じたのでした。私の知らないこと、大人だけにしか解らない、何かが匂う。エッチ風なのに大真面目な雰囲気が、これって、ちょっと可笑しいぞ、そんな直感です。今から50年程前のことなんですが、不思議な感覚はよく憶えている。だが、結果は、エッチも糞も何も解らなかった。

そして、大学生になってこの本を読んだ。

この本の新刊書を、当時赤貧の身だった私には、相当値段が高かったが、なけなしの金で買った。読もうと思ったのは、子供の頃映画は観たものの、よく解らないままだったことを思い起こしたからだ

かって読んだ本は、整理の行き届いてない本棚からは探せなくて、何とかオフの105円コーナーで見つけて、読み始めた。あらすじを後ろに纏めたが、読後感想を書き上げることができなかった。頭の固い私には、このような不条理な物語を理解する脳細胞が乏しいようです。頭の中でモヤモヤしている状態を文章化すればいいのでしょうが、適切な言語が浮かばない、上手く文章が綴れない。この己の読書〈解〉力のいつもながらの貧困さに愕然とした。50年前と何も変わってない、成長してないことに痛感した。

あらすじーーー

物語の舞台はほとんどが、砂の穴の中の一軒家、砂がぽろぽろ崩れて埋(うず)もれそうな家の外と内、そして村人が立ち寄る穴の上。

主人公は新種のハンミョウを採取するために砂丘にやってきた教師。寡婦が住む家に滞在するように村民からすすめられ砂に埋もれかかった不思議な家に足を入れた。その家は、蟻の巣のような、穴の中の一軒家だ。村のどの家も同じように砂に埋もれかけていた。一夜明けると、地上との唯一のつながりである縄梯子が外されていた。男は、閉ざされたのだ。

村の家々は、上方から降る砂や壁から崩れる砂を、常々掻きださないと、家は埋もれてしまい、次から次へと他の家にも被害が及ぼすことになる。そのためにも、人手の少ない寡婦の家には助っ人が必要だった。

砂の中の生活に追いやられた理不尽を理解できない男は、何とか抜け出す方法を思案するが、妙案は浮かばない。そんな男に気を使う女は、男にすがりつこうとでもしているのだろうか。頓着した風も見せず、女は砂を掻きつづける。そして、そのうち男も女と同じように砂を掻きはじめた。協力しだした。

登場人物は、男と女以外は、彼らが掻いた砂を軽自動車で運んだり、水、タバコ、新聞などを届ける村民数人が全てだ。

読書は、丁度今日(20110502)で道半(なか)ば。本は新潮社、全218ページのうち110ページめだ。難しい、遅々として進みが悪い。読むことを暫く休むことにする。頭のティータイムだ

砂ってなんだろう。土でも石でもない、砂を噛むような味気なさって日常的に使うが、今回は味気なさどころか、恐怖をもたらすものとして主人公を悩ませる。砂は風によって紋を描き、その模様はどこまでも美しい。砂の一粒一粒は個体で無機的だが、砂丘になると全体が有機的に動き出す。固体でありながら、流体力学的な性質をもつと作者は言う。

深呼吸して、読書再開。

太陽はじりじり穴の中の一軒家を照りつける。喉が渇いて、もうどうしょうもない状態に追いやられている。それでも、働けば、砂を掻けば水は届けてくれる。火の見櫓の監視人が見張っているのだ。水を届けてくれた村民にコミュニケーションを取ろうとするが、聞き耳を持ってくれない。

だが、男はめげずに、脱出の具体的な準備に入る。こっそりロープの準備をし始め、女からは、部落の地形などを聞き出した。そして逃亡実行の夜がきた。昼間アスピリンを飲んで充分に睡眠をとった。一人で働かざるを得なかった女はさすがに疲れて帰ってきた。その上に、男はなんだかんだと女を疲れさせぐっすり寝かせることに成功する。

屋根の上に上って、ロープの先に鋏を結びつけて、穴の上部に投げること数回。そのうちに鋏が鉤(かぎ)になって地上の俵にひっかかった。ロープで地上によじ登って、脱出成功。海岸線と思われる方面に逃げた。

自由の身にになったものの、夜の真っ暗闇の中、道や方向が解らなくて迷う。穴の中で女と過ごした幾日間のことが腑に落ちない。自分の位置が解らぬままにさ迷っていると、柔らかい砂地に足をとられ、どんどん体が深みに吸い込まれ、ついには下半身がすっぽり埋まって身動きできなくなった。

やがて村人達に助けられ、再び、女の家がある穴の中に吊り下ろされた。男は烏を捕まえる罠を作った。砂の中に桶を埋めてその表面に新聞を敷いて、その上に煮干を置いて、周りを砂で隠した。烏を捕まえて、足に助けを求める手紙をつけて逃がすんだ、と無為とも思われる行為でやり過ごす。

男は村人に海を見せてくれと頼むと、その交換条件に女との交接を見せてくれと言われ、穴の上から松明(たいまつ)を掲げ、太鼓を鳴らして、囃し立てられる。男は困惑しながらも、女を家の外に引きずりだし必死に襲い掛かった。女は逃げ惑う。

烏の罠を開けてみたら桶に水が溜まっていた。これは毛細管現象で、砂が周囲から水を吸い上げたのだ、とこれからは水を配給されなくても生きていけるんだと望みをつなぐ。

女は腹痛を訴え、村人に穴から医者に連れ出される。

男は一人取り残された。縄梯子はかけたままだったので、穴から外に出てみた。見たかった海が、見えた。逃げようと思えば、自由に逃げることは可能だったが再び穴に戻った。

一人になった男は、烏を捕る罠を眺めながら、心情を吐露する。

その吐露した言葉を映画の台詞のまま、ここに再現して、彼の心情を想う=『別にあわてて逃げ出したりする必要はないのだ。私の気持ちは貯水装置のことを誰かに話したいという欲望ではちきれそうになっている。話すとなれば、この部落の者以上の聞き手はまず有り得ない。逃げる手立てはそれから考えれば良い』

男の表情はかってなく、明るい希望に満ちていた。

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この本に添えられていた三島由紀夫の書評を此処に書き写す。

詩情とサスペンスに充ちた見事な導入部、再三の脱出のスリル、そして砂のように簡潔で無味乾燥な突然のオチ、----すべてが劇作家の才能と小説家の才能との、安部氏における幸福な統合を示している。日本の現実に対して風土的恐怖を与えたのは、全て作者のフィクションであり寓意であるが、その虚構は、綿々として尽きない異様な感覚の持続によって保証される。これは地上のどこかの異国の物語ではない、やはりわれわれが生きている他ならない日本の物語なのである。その用意は、一旦脱出して死の砂に陥った主人公を救いに来る村人の、「白々しい、罪のないような話しっぷり」一つをとっても窺われる。一旦読み出したら止められないこと請合いの小説。

2011年5月8日日曜日

こどもの日に思ったこと

今日は「こどもの日」だ。

1948年、私が生まれた年に、「子どもの人格を重んじ、子どもの幸福を図るとともに、母に感謝する」を趣旨として、5月5日を子どもの日と制定された。

この制定の趣旨にある、子どもの人格や幸福のことと母に感謝するということが、そりゃ両方とも大事なことは解っているのですが、子どもの日だから子どものことだけにしておけばいいものを、両方共一緒くたに纏めたのは、何故なのだろうか、と思った。趣旨を説明する文章にしては、ちょっと無理しているなあ、と感じる。

でも、子どもには母が居て、その母にも母が居る。

ある国会議員がテレビ番組の中で、制定した当時のいきさつを、「子どもが生まれて育つ上で、どれほど母親の役割が大きいか、ということを考えてもらうためにも、せめて、こどもの日ぐらい母に感謝するということを盛り込もう、ということになった」と披露した。このことをネットで知った。

こんなことに、何故(なにゆえ)に私が拘るのか、かって、弊社のスタッフの和さんと私が会話した内容が頭から離れないからだ。

会社での仕事中のことです。女性スタッフの和さんが、椅子に腰をかけて、俯(うつむ)いて、机の下の引き出しから何かを探し出そうとしていた。彼女の側に立って電話をかけていた私は、彼女の後頭部の白髪の多さに気づいてしまった。

和さん、白髪が増えたなあ、と臆面もなく失礼なことを言ってしまった。そうしたら、和さんは、「そうなんですよ、白髪が増えちゃいました。でもそんなことに構って金を使うぐらいなら、年寄りに美味いものでも食ってもらえれば、と思っているんですよ」と元気よく言い返された。

このことを聞かされた私は、顔面にパンチを食らわされたおもいだった。彼女は、高齢で認知症が始まった母と病弱な父、中学生の元気な男の子と暮らしている。

和さんは、親に今までのことに感謝しているんです、できるだけ元気で長生きしてもらいたいと思っている。私は親の世話を元気にすることで、息子は元気になるようにおもうのです、と言う。

なるほど、子どもが元気に健やかに育つためには、母が自分の両親を元気にさせることなんだ。母の両親は母に感謝し、息子は母に元気をもらい健やかに育ち、そして感謝する。

こどもの日制定を国会議案に提出した議員らはこのように、子どもの健康と幸福、母に感謝することの絶対連鎖を、趣旨の中でどうしても避けられなかったのだろう。

2011年5月7日土曜日

こどもの日、うちはよもぎ湯だ

初老の私には、菖蒲湯はキツイ、やはりよもぎ(蓬)湯がお似合いだ。

5月5日のこどもの日には、五月人形を飾り、鯉のぼりをあげたり、ちまき(粽)や柏餅を食ったり、そして菖蒲湯に入ることになっている。我が家でも、今までは家人が用意してくれた菖蒲湯を何も考えずにつかってきた。

この菖蒲湯は江戸時代からは民衆の間でも習慣になったようだ。菖蒲を尚武とかけたらしい。こどもの日、とりわけ男の子の成長が、強く逞しくあって欲しいと願う日。菖蒲の葉は細く長く、武士が携える刀に似ている。

ところで、尚武とは=武道、武勇を重んじること。

今年は、私の身の周りに変化があって、そんなわけで、ス-パーの店頭に菖蒲が並んでいるのに気づいて、改めて、菖蒲湯ってなんだっけ、何是(なんぜ)こんな物を風呂に入れるんだと思い巡らして、それなりに思い当たっても、今まで何十年と利用してきた割りには、感慨が浅いことに今になって感じた。

それは、菖蒲という植物に馴染みがないこと。それに、私は女の子3人と男の子1人を育てたのですが、なにも取り立てて、男の子の健やかな成長を祈るなんてことに抵抗があった。その後知ったことだけれど、尚武という文字を見ただけで毛嫌いする私の感性も加わったことが原因だったようだ。

私の田舎〈京都府綴喜郡宇治田原町)では、こどもの日の頃、よもぎのシーズンでもあって、野良仕事に忙しい母にかわって祖母が、頻繁によもぎ湯をしてくれた。

よもぎは宿根草で、畑などでは少し油断すると、どこからか忍び寄ってきて、それがどんどん根茎を伸ばして、農作物を育てる百姓にとっては厄介者です。それほど馴染みのある草なのです。

祖母は、よもぎのシーズン中、数回、よもぎ団子や草餅を作ってくれた。祖母の作ったものは、何でも日本一美味かった。一度に沢山作るので、暫らくはおやつは絶えなかった。少し経つと表面が硬くなるが、火鉢の炭火でゆっくり焼くと、香(こう)ばしいよもぎの香りが、家の中に充満して、皆の心や体を癒してくれた。家族の顔が微笑ましく見えた。

私は、よもぎ湯を作るために、一週間前によもぎを刈ってきて、ベランダの軒下に陰干しをしておいた。そして、こどもの日の翌日、こどもの日の当日では菖蒲湯と張り合っているようで、避けて、よもぎをタオルに包めばいいんですよ、と友人のアドバイスに従って湯に浸した。

いっぱいエキスを出せ、と風呂に入ってよもぎをタオルの上から揉んだ。翌日の朝風呂、よもぎの栄養分が煮汁のように出たようで、湯は薄く黒ずんでいた。香りが浴室を満たしていた。

薬効が高く、身近な薬草で、通称「万能薬草」と言われているらしい。栄養価も高く、健康食品でもある。草餅、よもぎ団子が代表的だ。香気は邪気を払うといわれ、昔から魔除(よ)けに用いられ、ストレス解消、安眠をもたらす。血行を促進させるため肩こり、神経痛を和らげる。

菖蒲湯は精神論的で、よもぎ湯は健康志向の実用的?

以前、20110426の『蓬(よもぎ)を食べる』でも書いたのですが、沖縄のそば屋さんでは、「ソーキそば」によもぎをふりかけて食べていた。店のテーブルには笊(ざる)に入れたよもぎが置いてあって、それを自由にふりかけていた。ソーキとは豚の軟骨です。私はラーメンと思ったけれどラーメンではなく、ソーキそばと名前にそばがつくが、麺はそば粉を使わないで、100%小麦粉で作る沖縄独特の製法による麺だ。沖縄では、よもぎが豚並みの重要な食材だ。

こどもの頃、私の家では牛を飼っていて、牛のえさに近所の野原で草を刈ってきて食わせるのですが、その草を刈るのが長兄の仕事で、私はそのアシスタントでした。兄が間違って、鎌で手や指を切ることが度々あったのですが、その際、兄はよもぎで切れたところを包み込むようにして止血していたのを思い出す。よもぎには殺菌、止血収斂(しゅうれん)作用のあるタンニンが多く含まれているということを、12,3歳の兄が、よくも知っていたものだと、今さらながら驚かされた。今度郷里に戻ったときに兄貴に確かめよう。

今日20110507は、ゴールデンウイークで私の唯一の休日だ。

よもぎ湯に、昨夜入って、今朝入って、昼にも入った。昼には、墨を薄めたように黒くなりかけていた。

そこで、また思い出したことがあるのです。よもぎ湯だけでなく、番茶を入れた風呂にも入ったことがあった。あれは、我が家のオリジナルだったのだろうか。兄貴に聞かなくてはならないことが、もう一つ増えた。

2011年5月6日金曜日

先輩、八重樫さんが亡くなった

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(朝日新聞より。パスを送る八重樫茂生さん。1968年12月22日、東京・国立競技場)

私が夢遊病者のように早稲田大学ア式蹴球部で、のたうちまわっていた4年間〈1968~1972年)に、大先輩・八重樫茂生さんはよく、東伏見の我々の大学のグラウンドに顔を出してくれた。当時、彼は、日本サッカーリーグの古河電工に所属していた。紅白ゲームに参加して、当然私も参加していたのですが、何やら、こ難しい先輩だなあ、という印象だった。

確かに、当時のサッカープレーヤーとしては、何もかも身に付けた、優秀なプレーヤーだった。彼の足跡は、偉大な成果を残した。早稲田大学でも、古河電工でも、日本代表選手として、メキシコ五輪においては銅メダル獲得した日本代表チームの主将を務めた。

彼が所属したどのチームでも、チームの大黒柱を務めた。人望もさることながら、サッカーに対する愛着と意志の強さが彼を支えていたのだろう。

彼と同年代の選手やチームを後ろでサポートした関係者に言えることは、日本代表を少しでも世界レベルに比肩されるまでになって欲しいという共通の思いを強く抱いていたことだ。皮肉屋の私は、それゃ到底無理だ、と悲観していた。

当時の野津謙・日本サッカーー協会会長の要請を受けて、ドイツから日本代表のコーチに来たデットマール・クラーマーが、サッカーの基本の基本をがっちり教えて、その教え子たちは真面目に忠実に学習、体得した。その教えを、メキシコ五輪で花を咲かせることができた。生真面目な日本人には、ドイツ人のクラーマーとは相性がよかった。八重樫さんたちはクラーマー学校の優等生だった。20110504の朝日新聞の記事で、メキシコ五輪においては、八重樫さんは初戦のナイジェリア戦で相手のラフプレーを受けて負傷、その後の試合には出られなかったことを知った。それで、八重樫さんの訃報を兼ねたスポーツ面での評伝のタイトルは、伝説の主将 不滅の銅、とあった。

クラーマーの申し子が、立派に育ったことは、これはこれで、とっても有難かったのですが、逆に、このクラーマーの教えが、長年、日本サッカーの金縛りにもなったのではないだろうか。

私が大学生だった時、三菱企業グループがスポンサーのダイヤモンドサッカーという番組があって、ヨーロッパのサッカーの試合を毎週、週末夕方に放映されていた。この番組がサッカーを愛する者たちに与えた影響は大きかった。この番組が、サッカーのもつ本来の魅力、妙味、醍醐味、近年ではファンタスチィックという言葉を使うこともあるが、どれだけ多くのサッカーファンの心を虜(とりこ)にしたことか。

当時の私たちは、頭の中ではダイヤモンドサッカーを楽しく理解しながらも、目の前のサッカーでは、八重樫さんのような大選手が、手をとり足を操って、こうしてこうするんだ、なんぜここでこうしないんだ、サイドキックはインステップキックは、なんぜそっちへ走らないんだ、なんぜそんなところにいるんだと指導する、そんな基本的な定則に縛られていたように思う。

個人技を磨くことは、チーム力の核になる想像力や、イメージしたことを活かすことになる。指導を受ける側の私たちは、既に新しいサッカーに目覚め、新しい指導を求めていた。

そういうことで、八重樫茂生先輩は、一時代築いた立派な選手だったけれど、余りにも自己主張の強い性格から、あに図らんや、新しいサッカーへのブレーキ役にもなってしまったのではないか。だから、指導者としては長くやってもらっては困る、と危惧していたら、彼ご自身、そんなことは他人に言われなくても、お分かりだったようだ。

その後、八重樫さんのプレースタイルが、好(い)いにつけ悪いにつけ、どのチームにも模範になった。彼ののポジションから好選手が輩出したのは、日本人の特質もあるのだろうが、八重樫さんの功績でもあると確信する。

黄泉(よみ)の国へ旅立った八重樫先輩、大学での紅白試合中のことです、私のパスが余りにもヘンチョコリンだったことに、呆(あき)れ果てた表情をされたのです。確かに私のキックは、コースにしても強さにしてもまずかった。でも、あんなに口うるさいあなたが、何故、得意の、こうしてああして、と言ってくれなかったのですか。

大丈夫です、40年も前のことです。ますます隔世の感ありのサッカーの発展は続くでしょう、天国から今後もお確かめください。

八重樫茂生先輩は、今の日本のサッカーの土台を築かれた立派な人材だった。

2011年5月3日火曜日

今度は、そら豆ご飯だ

先日、天王町駅前の八百屋さんの店頭にそら豆が並べられていて、どのように食えばいいのか、メニューを思いつく前に、躊躇(ためら)いなく買った。帰宅の電車の中、このそら豆君と睨(にら)めっこをしていたら、望郷の思いにかられた。

  

  (そら豆の豆果)        (豆果の中のそら豆)

年のせいだろうか、此の頃、昔のことを思い出すことが多くなった。生家は農家だった。このそら豆を見たときも、私の生家の畑で育てられていたそら豆や数々の野菜のこと、村を囲むように連なる山と峰、農家の家並みがぽつ~んぽつ~んとあって、そのなかに、人里離れた我が家のたたずまい、田や畑、野原の風景が蘇(よみがえ)る。父に怒られながら、畑の中を近所の悪がきどもと、走り回っていた。

そら豆やえんどうは、母が畑から採ってきたものを、鞘(さや)から豆を取り出すのが私の仕事だった。鞘というのは日常語のようで、正式な学名は当然知らないが、ネットでは豆果と表現している。住んでいた村は、山間(やまあい)谷間(たにあい)の里で、シーズンの進み具合は他所よりも少し遅れていたようだ。味わったのは、春の終わりから初夏にかけての頃だと思う。

縁側や濡れ縁に腰をおろして少しづつ鞘をむくのです。いつも、やわらかな日差しを受けていたような気がする。苦になる仕事ではない。母に仕事を言いつけられて、嫌だなんて一回も言ったことのない素直な子供だった。父や母、祖母までが一所懸命に野良仕事をしているのを知っていたからだろう。

そら豆の鞘は大きいのに、少しだけの豆しか取れなくて、内心がっかりしながら、母にこれだけだったよと話しても、ありがとうと言いながら、当然のように台所に持ち去った。そら豆は、鞘を割って豆を手でつまんで取り出すのですが、えんどうの場合は鞘を開けて、並んでいる豆を親指の爪の部分で、へらのようにしてかきだしたものです。

茹でたそら豆を、ビールと焼酎と日本酒のつまみにして、美味しくいただきました。懐かしい故郷(ふるさと)の味だ。今日の一日に、感謝。

     (茹でたそら豆)

そら豆を、今日(20110502)も買った。

今回はそら豆ご飯を作るためだ。

茹で方は、地面より上になるものは、お湯に入れてから茹でて、地面より下になるものは、水のうちから入れて茹でる、これが原則らしい。今回のために、新しく学んだ知識だ。

そら豆は地面より上になっていたものだから、湯にいれてから茹でること2分、この間に塩と酒をいれると青臭さがとれると言うが、こんなところで酒なんか使えるか、と思って、私は塩だけを入れた。酒は人に飲まれるために造られているのだ。茹でたものを笊(ざる)にあけて、これで茹でる行程は終わり。

ご飯の方は、もち米を何割か入れるなんてネットのレシピではそうあるが、もち米なんか持ち合わせがない、当然無視した。鍋に、カツオの出汁(だし)と醤油を少したらしただけで、電気炊飯器のスウイッチをオン。

炊き上がったご飯に茹でたそら豆を混ぜて、出来上がり。どうだ?俺の調理に文句あっか?

一人で食っても、美味かった。二人でも、三人でも一緒に食う連中がいれば、もっと美味かったのだろう。このそら豆調理のてん末を友人に話したら、豆の殻〈豆果〉を剥(む)かないとアカンよ指摘され、俺の田舎では食えるものは何でも食うのが流儀なんだ、と言ってやった。

はみ出し原稿=私の長男・草の長女の名前が「そら」なのです。可愛くって、可愛くって、ぐっと抱きしめたい気持ちが、どうも今回は、そら豆ご飯に向かったようだ。弊社の財務担当の古さんのお孫さんも「そら」ちゃんで、こちらは男だそうだ。

(注)写真は3枚ともWikipediaさんより無断拝借)

炉心溶融 原発どうなる

今日は、20110503(憲法記念日)。世間はゴールデンウイークとかで、行楽地へ向かう人や帰省する人たちで、日本中、大いに人は移動中だ。

おい、お~い、今日は憲法記念日だ、ぜ。

どれだけの人が今日のこの日を認識しているのだろうか。そういう私も、ちょっと前に、カレンダーを見て確認したところだ。偉そうなことは言えない。

そんな休日の今日、弊社は大半のスタッフは休みを取っているのですが、一部の人間は出社している。仕事上、会社は完全に一人も居ない状態にはできないのです。だから、私は出勤している。が、少し業務をサボらせてもらって、このブログのためにキーボードを叩いている。

キーボードを叩きながら、後で、日本国憲法の前文だけでも読まなくてはイカンなあ、と一度(ひとたび)そんなことを考えてしまうと、今、やっぱり今日こそは、この前文に目を通してから始めるべきだ、と思い直した。よって、この前文をここに掲げた。3度、読み直した。

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上の図面は、朝日新聞の記事のものです。

ここから、炉心溶融の話です。

このゴールデンウイークのちょっとゆったりした時間を利用して、この妖怪野郎=原子力発電の炉心溶融のことについて、20110418の朝日新聞・朝刊【科学】で詳しく説明した記事が載っていたのを、ここにその記事を転(盗)載させていただいた。毎度、お馴染みの確信犯のヤマオカです。

このマイ備忘録に収めておけばいつでも、確認できるではアリマセンカ。

以下新聞記事のまま。

チェルノブイリ原発事故と並ぶ人類史上最悪の原子力事故として歴史に刻まれることになった東京電力福島第一原発事故。1~3号機では炉心溶融(メルトダウン)が起きたと考えられている。いったいどんな現象なのか。どんな困難が伴うのか。

東日本大震災の発生から約18時間後の3月12日午前8時36分、福島第一原発1号機の炉心の水位計は、燃料棒の上端部を意味する「0」を示した。

水位はさらに下がり、燃料棒が露出。その7時間後、原子炉建屋の上部を吹き飛ばす水素爆発が起きた。

炉心の核燃料は、運転停止後も放射性物質の崩壊で発熱しており、冷やし続けなければどんどん熱くなる。「冷却がなくなれば炉心は必ず溶融する。この現象はけっこう速く進む」。シビアアクシデント(過酷事故)研究の専門家で前原子力安全委員の早田(そうだ)邦久さんは話す。

炉心の約45%以上が溶融した1979年の米スリーマイル島(TMI)原発事故後、炉心溶融の研究は世界で進んだ。米国は炉心を溶かす実験もした。

 

2800度 燃料溶け出す

約1200度以上になると燃料被覆管の合金と水蒸気が化学反応して水素が発生する「水・ジルコニウム反応」が活発になる。これは発熱する反応で、温度は加速度的に上昇し、短時間で合金の融点(約1800度)を超える。約2800度になると燃料が溶け出す。

TMI事故では、燃料棒露出は緊急停止の約1時間40分後。それから30分程度あとに燃料が溶融し始めた。原子炉に水が入ったが冷却しきれず、高温になった被覆管や燃料が崩れ落ちて、がれき状の「デブリ」になったと考えられている。

デブリができてからも過熱や溶融が進み、約1時間半後には溶けた燃料が圧力容器の底に落ちた。格納容器内で水素の爆発的燃焼も起きた。

福島第一も燃料棒が長時間露出。1、3号機は12、14日に水素爆発で建屋が壊れ、2号機も15日に水素爆発とみられる圧力抑制室の損傷が起きた。この時点で、水素ができる反応がかなり進んでおり、炉心溶融が起きたのはほぼ間違いない、と過酷事故の専門家は口をそろえる。

米原子力規制委員会や、政府へ緊急提言した日本の原子力専門家16人も、三つの炉心はいずれも溶融し、圧力容器の底に落ちていると見ている。

炉心が溶融すると、極めて扱いにくい状態になる。

燃料ペレットと被覆管には、核分裂反応で生まれる膨大な量の放射性物質を閉じ込める役割がある。その機能がほぼ完全に失われる。

福島第一では燃料が壊れないと外に出ないプルトニウムやテクネウムも土壌や汚染水から検出された。ただ、環境への放出量は全体のごく一部で、原子炉内にまだ大量の放射性物質が残っているとみられている。

もし圧力容器の底に落ちた溶融体が十分に冷却されなければ、その一部が格納容器へ漏れ出す可能性がある。制御棒や計測器の貫通部など弱い部分が通り道になると考えられている。

過酷事故の専門家は、いざという時のため、漏れた溶融体と格納容器の底が触れて起きる「コア・コンクリート反応」も研究してきた。早田さんによると、欧州で計画中の新型炉には、圧力容器から漏れた溶融体を受け止めて冷却する「コア・キャッチャー」という安全装置が装備されているという。

 

 

塊に変化 冷却困難

1~3号機の圧力容器の底の現状はよくわからない。注水による冷却が続き、底部の温度も100度台になっているので、今も溶融体全体が溶岩のように溶けているとは考えにくい。

しかし、溶融が止まったとしても燃料の発熱は止まらない。冷却を続けなければ再び過熱して、原子炉から大量に放射性物質が漏れる恐れが高まる。

燃料棒の形が崩れていったんデブリや塊になると、体積あたりの表面積が小さくなり、冷えにくくなる。塊になった溶融体の外側が先に冷えて酸化物の層(クラスト)が形成される現象も知られる。そうなれば内部はいっそう冷えにくくなる。

圧力容器の温度はまだ安定しない。原発の過酷事故に詳しい社会技術システム安全研究所の田辺文也所長は、「冷えて固まった塊の中に、まだ溶けた状態の高温の部分が残っている可能性がある」とみる。   【安田朋起】