2013年10月12日土曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト1

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そんなこともあったか!!

 

大学時代のクラブ活動を、あれこれ、思い出してみた。

体力、テクニックにおいて極めて稚拙な私だったけれど、よくも頑張ったよと2人は褒めてくれた。20131004の夜、同期の高と淀との会食中のことだ。高校時代にきちんとクラブ活動をしていなかった、それに、2年間の浪人時代のドカタ稼業で、スポーツにふさわしくない筋肉が徒(あだ)となり、足の裏を地面にべったり踏みつける癖がついて、これがサッカーにはよくなかった。

入部当初、私を含めて新入部員の数人はチームプレーを主とした練習メニューには、グラウンドマネージャーからヤマオカと誰々は外へ出て、キック板でボールを蹴ってろ、と言い放される。情け容赦なく追いやられ、仕方なくみんなの練習を見ながらひたすらボールを蹴り続けた。この処分はしょうがないと受け止めた。下手なんだから。こんなことが1年間は続いた。

キック板に向って的を定めて蹴る。キック板に左斜め右斜め、直角に向ってドリブルして蹴る。アウトサイドでインフロントで、たまにはループ。吊るされたボールにヘッデイングをする、少しボールを下げてボレーキック。

インターバルといって、ゴールラインから向こう側のゴールラインの100~110メートルを16秒で走り、1分間で戻ることを繰り返す、こいつが私には非情だった。10本をこなすぞと言われても、最初の3本くらいはなんとかクリアーしても、その次に入れないと、もうその後は、どんなに藻掻いても入れない。10本でみんなが上がって、私だけが居残り、タイムを計るまでもない、意識が朦朧。容赦なくスタートの笛は鳴らされる、ふらふらしながらスタートをきる、意識が薄れて、タッチラインから逸(そ)れ、近くのグラウンドの外の生け垣に頭もろとも突っ込むことがしばしばだった。顔はツツジの固い枝で傷だらけ、痛さは感じない。何本走ったか解らない。先輩たちは、つま先で走るんだよとか、ハーフェイラインまでダッシュすればなんとか入れるんだよとアドバイスをくれるのだが、余力がない、体を制御できない。夏の合宿では、1日の全ての練習を終えた後、一人居残りで108本走った日もある。1本走るごとに塚さんがバケツの水を頭にぶっかけてくれた。神の水だ。誰もいなくなったグラウンドに仰向けにひっくり返ったまま、我にかえるまで暫くの時間が必要だった。

雨の日の練習は楽しかった。テクニックのある選手は、泥んこのグラウンドを恨んだが、私にとっては、この時こそ、上手い奴のボールを掻っさらういいチャンスでもあった。ボールをキープするテクニシャンに、多少遅れてでも詰めることができたし、5、6メートル先からのスライデイングでも、ボールを奪うことができた。泥んこグラウンドは気持ちがいい。

練習の定休日の月曜日に、山岡と吉祥寺までよく走ったよなあ、俺よく憶えているよ。きっと一人では面白く無いので、同期の淀を誘ったのだろう。練習のない日だって私は休まない、気楽に自分勝手な練習に励めた。体力、とりわけ走力がなかったので、練習といえば走ること、グラウンドを走っていても面白く無いから、街中をどこまでも限りなく走り回ることだった。電柱と電柱の間を、全速力で走り、次は普通の走り、そして歩く、を繰り返した。疲れては腰をおろして街の風景を楽しんだ、そして歩いてまた走った。吉祥寺の井の頭公園、善福寺公園までは定期コース、たまには多摩湖へも遠征、周りを走った。

高には、4年間、部費と寮費の徴収で苦しめられた。補佐役のマネージャーから本物のマネージャーになったが、金欠未払いの私を、な、か、な、か、見逃してはくれない。いつまでも、しつこく追い回された。「罪と罰」の主人公の青年のようにこの高の頭を斧で叩き割ってやろうかとまでは考えたことはないが。でも、やっぱり、私には支払った記憶がないので、最終的には、高はきっと私をリストから外してくれたようだ、と密かに考えているが、怖くて確認できない。そんなこともあって、15年程前に、雀の涙ほどの寄付をさせてもらった。帳尻を合わせておかないと、死んだら閻魔(えんま)さんに、舌をペンチか何かで抜かれるそうだから。

遅れてクラブハウスの風呂に行くと、誰かが風呂で歌っている奴がいる。練習が終わる頃には一斉に皆が入るので、湯は泥色、浴槽の底には砂利がじゃりじゃり。入浴ラッシュ時から2時間程経った後は、人気(ひとけ)がなく、湯は澄んでいる。着替え室でジャージを脱いでいると、しんみりとテレビ番組の銭形平次の主題歌を歌っているのが聞こえてきた。そうっと静かに浴室のガラス戸を開けると、そこに後輩の広島からきた新入部員の杉老が、涙を溢れんばかりに流して、顔はぐっちゃぐちゃ。まずいものを見たようで、気まずかったが、どうしたんだと声を懸けた。山岡さん、広島の彼女のことを思い出したんです、と意外にあっけらかん。彼女と銭形平次とどういう関係があるんだと、聞いたが答えはなかった。

グラウンドの管理人の菊間のオヤジには可愛がられた。オヤジさんには高校生の娘さんがいたので、オヤジには何か思うところがあるようだった。そんなふしが見られた。心臓を患っていた菊間さんから、アルバイトでグラウンドの隅っこに生ゴミの捨てる穴を掘ってくれるように頼まれた。一穴(ひとあな)2000円だった。労働時間は3時間。直径3メートル、深さ2メートル。地表は関東ローム層で、ドカタ上がりの私にはいとも容易い作業だった。お金をくれて、その夜晩飯に招待してくれた。思いっきり食って、思いっきり飲ませていただきました。

グラウンドと菊間のオヤジさんの住まいを兼ねた管理事務所の間に、無花果(いちじく)が毎年大きな実がいくつも生るのだが、その無花果が熟すまでに私は内緒でちょうざいしていた。オヤジからは必ず、お前が採っただろうと、怖い顔で叱られた。私側の言い分は、これはグラウンドのものだから誰でも収穫する資格があるのだと、オヤジにしてみれば、自分の庭先の物は自分の物で無花果も管理の範囲内なのだと思っていたのだろう。熟するまでに、食われる前に食う、これ生存のための知恵だ。

3、4年生の時は、一日中グラウンドにいた。朝から昼までは、サッカーの体育の授業の助手をしていた。講師はサッカー部のコーチの吉さんだ。この吉さん、いい加減な先生で、雨が降ると必ず来なかった。私が授業に来た学生にサッカーのルールを教えて出席を取って、余った時間を学生たちに勝手にチームを作らせて試合をさせておいた、それで一丁上がり。吉さんは大学の体育の講師と喫茶店経営にサッカー部のコーチの三足の草鞋(わらじ)を履いていた。私に支払われるアルバイト料は、時給120円だったが、授業には2人の助手が必要だと吉さんが体育局に申告しておいてくれたので、2人分をもらえた。それでやっと時給240円也、これでも超割安で誰も引き受けなかった。

それからの昼間の1時間は、駅前の中華料理店吉葉で、皿洗いと飯盛り、メニューのオーダーを受けて、料理をテーブルまで運ぶアルバイトをした。お金をくれたが、それよりも嬉しかったのは、賄いつきというか、昼飯を只で、何でも思いっきり食わせてくれたことだ。これは助かった。サッカー部の連中が食いに来て、そのときの飯の盛りに苦心した。顔を見るとついつい盛りが多くなってしまい、それを店のおっちゃんが、おいおいヤマオカ、それはナンボナンデモ多過ぎるよ、たしなめられた。この仕事を終えて、13:00に再びグラウンドに戻った。

16:00頃、皆と一緒の練習が終わると、ほとんどの部員は風呂に出かける。クラブハウスの風呂か、銭湯だ。私や淀、他の数人にとっては、練習が終わってからこそが、面白い。誰にも迷惑かけなく、思いっきり好き勝手に、やりたい放題の練習が楽しいのだ。淀は、ドロップキックで50~60メートル蹴る、そのボールの受け役を担うのだ。ボールをトラップする際には、頭で、足で、胸で止め、自分のやりたい方向にボールを運び、そして思いっきり力を込めて大きく蹴り返す。右の足で、左の足で、高くゆるいボール、低く速いボール、これの繰り返し。

16;30頃、そうこうしていると付属高校の練習が始まって、そこに入れてもらって練習をする。紅白ゲームにも参加する。日没、照明のないグラウンドで全く見えなくなる時点が練習の終わり時だ。この付属高校からも大学のチームにやってくる者もいる。私の大好きな山梨県出身の志君もその一人だ。

たまには伏見湯にも行った。カッチャン風呂だ。カッチャンと呼んで憧れていた娘さんが番台にいる。嬉しいやら恥ずかしいやら。生活資金が慢性的に枯渇していたので、食うこと、古本を買うこと、酒を飲むこと以外に費やす金はなかった。銭湯の帰りに、卒業後も増々交流を深めるようになるマサが、ヤマオカさん、美味そうやなあと、2人は肉屋のショーウインドウに並べられている手羽焼きに熱い視線で釘付け。私に金がないことを百も承知なマサは、ニンマリとして、金はあるさかいに、といいことを言ってくれる。後輩に一番大きな手羽焼きを買ってもらって御機嫌だった。卒業したら、何かでお返しをしなきちゃイカンと思っていたが、未だにお返しをしていないばかりかお世話になりっ放しだ。

湯上がりのいい気分、東伏見駅の前の下り坂を寮に向っていたら、焼き鳥屋の店先から、菊間のオヤジが、ヤマオカ、飲んで行けと、私を見つけたときは必ず声を掛けてくれた。オヤジには持病があったので、ダラダラ飲み続けることはなく、ジョッキー2、3杯と焼き鳥5、6本を私にくれて、彼は帰っていく。焼き鳥屋の前を通る時、彼が店の入口付近にいるのを楽しみにしていた。いないときはがっかり落胆、いない方が普通なのに、いない彼を恨んだ。

金を使わないためにも読書に耽ることにした。デカダンから自然主義派、左翼系、手当たり次第に、古い文庫本を買って読んだ。学校からの帰り、高田馬場までの間に古本屋さんが何軒もあって、店先に並べられた1冊10円とか、10冊で100円とかの本を片っ端から買った。大学時代に読み終えた文庫本は優に1000冊は超えた。途中で読むのを止めた本もかなりある。

大きな大会が迫ってくる秋は寮内では禁酒、門限はいつも11時だった。3年生頃から、疲れた心身を癒すために、皆が寝静まった頃、湯沸しポットで酒を燗して飲んでいた。誰もが嫌って、近づかないバアチャン部屋で一人で寝ていた。寮の部屋は色んな間取りになっていて、2人部屋、4人部屋があった。バアチャン部屋は日当たりがなく一日中真っ暗だった。寮の建物全体はL字になっていて、バアチャン部屋はLの角部分にあった。一人で酒を飲んでいると、12時を過ぎて酔っ払った1年先輩の畑さんが帰ってくる。門限破りやで、と私にも禁酒の掟破りの負い目があるので、小さな声で話すと、戻ってきた説明に妙に筋が通っていて納得させられた。上手いこと言うものだと感心させられた。それは、俺は昨日の門限には帰ってなかったが、今日の門限には帰ってきているやろ、という言い訳だ。腑に落ちないが、まあ、ええやろう、だ。

このバアチャン部屋ではネズミがよく捕れた。布団の上を縦横無尽に移動するのを眠気眼で追う。ネズミ捕りを仕掛けたら面白いように捕れた。目の前でネズミ捕りに入っていくのを見ていた。餌は何でもよかった、酒のつまみにしていたエビセン。小さい手足の赤い指が可愛いく震わせて、お尻が実にセクシーなのだ。このちゅうチュウの声が、卑猥な音に感じられた。きっと私の頭の中も卑猥だったのだろう。朝の起床の体操のときにネズミの入ったネズミ捕りを持ち出す。体操を終わって、先輩の脇道さんがネズミ捕りをそのままをバケツの水に浸(つ)けて殺した。ちゅうチュウの声が耳から離れない。私は土に穴を次々と掘って埋葬した。

次回は「ア式蹴球部思い出アラカルト2」だ。

旧交を温めた

     

20131004、金曜日の夜、大学のサッカー部を4年間一緒に過ごした同期の淀と高と私の3人で、横浜から歩いて5分の季節料理店で、一献傾けた。我らが卒業したのは昭和48年、1970年のことだ。

淀はかってはJリーグのあるチームの社長さん、出身は兵庫県の進学校。高は東証上場の情報通信の製造ソフト会社の管理部門の幹部だった。実家は横浜駅を眼下に見下ろす丘陵の一番いい所にデンと構える大きな屋敷。築年数は約150年。お父さんも同じ大学の先輩で、ベルリンオリンピックの日本代表選手だった。私はと言えば、不動産会社の経営者の端くれ、主たる業務は、中古住宅のリフォーム再販だ。

淀にしても高にしても、彼らの卒業後の活躍においては、目を見はるものがある。比べて、私の方は恥ずかしい限りだが、ここに至っては後の祭り、何とか我が街道を進むしかない。これからだって、大挑戦は無理でも、ほどほどに無理したい。勇気無き者はグラウンドから去れ、だ。

今回の飲み会の私の大きな目的は、私が思いついたものの、果たして喜ばれるものかどうか、OB会の役員をしているご両人に意見を求めることだった。サッカー部の部員のための奨学金を私の雀の涙ほどの資金を寄付することで発足したいと考えたことについてだ。肩すかし、彼らからはこの件に関してはにべもなく、よろしく頼むわで終わってしまった。

後は家族のことと現在の仕事をほんの少し確認し合ったぐらいで、ほとんどの時間を昔の思い出話に花が咲いた。私は急ピッチで焼酎のお湯割りを作っては飲み、作っては、飲んだ。いい気分だった。

この3人は多くの仲間と一緒に、45年前に、新入部員として東伏見のサッカーグラウンドで出会った。それからの4年間は自分との闘いだった、貴重な鍛錬の日々だった。高はマネージャーの道に進み、淀はキーパーだ。彼たちの目に私のことがどのように映っていたのか、私のことをどのように考えていたのだろうか、それが興味深かった。

 

秋の夜長、学生時代のつまらぬことをこの機会に書き出してみよう、、、、。思いつくままのよしなしごとだ、、、、。

それでは、、、、、、、、、、、トウザイトウザイ。

思いつくまま、「W大ア式蹴球部思い出アラカルト」として、書き加えていきます。乞うご期待!!

奨学金制度

2013 9 24

 

早稲田大学ア式蹴球部

OB会長 川本章夫 殿

各役員、各理事のみなさん 

 

昭和48年卒  山岡 保

                  

                 寄付をさせていただくことについて

 

寄付金の総額・金・・・万円

支払い時期・2013 10 31までに、金・・・万円

        2014 10 31までに 金・・・万円

        2015 10 31までに 金・・・円

 

寄付をさせていただくことの趣旨と、寄付金の使途についての希望を述べさせてください。

私は昭和44年に2浪の末に入部させてもらいました。高校時代に、きちんとしたクラブ活動をしていたわけではないので、技術は稚拙極まりなく、体力は極端に不足していました。その貧弱さは余りに悲惨なものでした。それでも、何とか4年間を過ごすことができたのは、「早稲田大学ア式蹴球部」だったからだと感謝しているのです。その4年間に得たものは、サッカーの技術や知識は当然、先輩後輩同輩から、得難い、膨大なモノを獲得させていただきました。このモノって奴を、私の持つ語彙の量と筆力では著せません。部活動の周辺や超えたところでも、素晴しい友人知人にも恵まれました。これらのことに感謝して今回の寄付を思いついたのです。

4年生の時には大学選手権優勝、関東大学選手権優勝の2冠の栄誉に輝くことができたこと、この栄誉の一端をささやかながらも担うことができたことは、私の人生においてこの上ない喜びになりました。幸せ者です。その後、社会人になって、幾多の苦難に遭遇した際にも、大学時代を何とか頑張り抜いたことが大きな自信になり、その自信が支えになって冷静に対処できました。

卒業してから今まで、仕事にかまけて、OB会の活動に協力できなかったことに対する罪滅ぼしでもあります。

リーマン・ショック以降、荒波にもまれていた会社の経営が一段落して、最近やっと落ち着いたところです。再起を図るべき時期に入りました。

ア式蹴球部に何かで恩返しをしたいと考えるようになって、同期の工藤君と高島君に相談した結果、経済的な事情を抱えながらも入学入部を希望している者や、在学中の学生の資金提供者に経済的変動などの発生等で、生活費の捻出に困窮している学生らがいると聞いて、ささやかだが彼らの奨学の資金にしていただけたらと思いついたのです。

対象とする学生の選考や、奨学資金の運用方法は全てOB会にお任せします。一年に一度の運用報告を いただければ幸甚の至りです。

OB会の運営に日頃ご尽力を頂いている会長はじめ各役員、各理事のみなさまには感謝しております。今後共、ア式蹴球部がますます活躍してくれることを祈願して止みません。

この書状の基本的な文章を綴ったのは、私の65歳の誕生日の夜のことでした。

2013年10月1日火曜日

竹の花って

竹の花

20130929、弊社が、ある建設会社に経営参加するために、その打ち合わせに真鶴に行った。運転手は経営責任者の中さん、私は車中、後部座席で、眠気眼(ねむけまなこ)をこすりながら、窓外を何気なく眺めていたら、小田原の街中だったか、「竹の花」という信号に気づいた。

ナヌ? 竹の花って一体なんだ?と!! 本物の田舎者を自負している私でも、竹の花を今までに見たことがない。これはまずい。私の沽券に関わる問題だ。子どもの頃は、竹で竹馬や水鉄砲に紙鉄砲、竹とんぼを作った。筍(たけのこ)掘りもやった。このように、竹に慣れ親しんだこの俺さまが、知らないではすまされないと焦った、素早く手帳に竹の花と殴り書き、帰社して調べることにした。

この文章を綴っている最中に、スタッフに「竹の花」って交通信号を知ってるかと聞くと、信号は知りませんが、小田原に「竹の花商店街」「竹の花通り」がありますよ、と教えてくれた。やはり、小田原だったのだ。

上の写真2枚は、ネットから拝借した。

 

そうしたら、、、、、、、。

タケ(竹)とは、イネ目イネ科タケ亜科で、茎が木本(木)のように木質化する種の総称である。笹なども竹の仲間。多年草だ。

どっぷり田舎で過ごしたから、樹木や草花を十分に知り尽くしている筈だったのに、竹の花だけは確かめたことがない。

そこでネットで調べれてみると、面白いことに、竹の花が咲いた時には不吉なことが起きるなんて、ミステリアスな文章まで見つけて、俄然、関心が高まった。

竹の種類によって例外はあるらしいが、毎年花を咲かせるようなことはない。種子から発芽して、数十年後から100何年後かに花が咲いて、そのとき実を実らせるのだろうが、その後に一斉に枯れるらしいのだ。どうして枯れるのかは謎だが、一斉なのは、地下茎で多くの竹が繋がっているからだろう。その枯れた一団の竹林を想像すると不気味だ。そのようなことから、昔から不吉なことが起こる前兆などと言い伝えられる。

竹の群生を竹藪と呼んでいるが、丘陵地になっている藪の竹が全て枯れてしまうと、地盤を固めていた地下茎も枯れて、崩落しやすくなる。昔の人はこのようなことを心配して、竹の花が咲いたら不吉だと言ったようだ。

竹の不思議なことがもう一つある。それは、親木から株分けや挿し木したものも、親の竹の枯れる時期とまったく同じ時期に花を咲かせて枯れてしまうことである。親木から遠く離れた場所でも、環境の全然異なる場所に植えらても、1年もたがわずに、同じ時期に枯れるのである。

そう言えば、竹取物語も謎めいた不思議な物語だ。世界最初のSF小説だと言う人もいる。

2013年9月27日金曜日

ジャッキー・ロビンソン

昨日、私のこのブログで『「差別やめよう」大行進』を綴った。

そして今日、20130927の日経新聞の「春秋」は、ジャッキー・ロビンソンが人種差別と闘ったことを取り上げた、この文章もマイポケットに蔵(しま)いたくて転記させてもらった。春秋氏も天声人語氏には負けてはいない。蔵うを「しま」うと当て字にしてみたが、私のセンスは如何なもんですか?

 

ジャッキー・ロビンソン

20130927 日経・朝刊

春秋

黒人初の大リーガーといえば、第2次大戦が終わって間もない頃にドジャースで活躍したジャッキー・ロビンソンの名前が思い浮かぶ。実際には、19世紀に黒人大リーガーが誕生していたらしいのだが、人種差別の壁を打ち破ったのは何といってもロビンソンの功績だ。

その背番号42は大リーグの全球団に共通の永久欠番となっている。彼が大リーグにデビューして50周年にあたる1997年4月15日からのことだ。ただ当時すでに42番をつけていた選手は継続使用を認められた。それから16年。この番号を背負った最後の現役選手となったヤンキースのリベラ投手が、今季限りで引退する。

つまり来年から、42番をつけた選手がプレーすることはなくなる。もちろん4月15日の「ジャッキー・ロビンソン・デー」は例外だ。この日は逆に、すべてのプレーヤーがこの番号を背負う。大リーグの歴史にあって、ロビンソンの存在はそれほどに重い。すばらしいプレーの記憶に劣らず、卓越した人柄の記憶によって。

内外の反発を押し切ってロビンソンをドジャースに招いたリッキー会長が、初めて会ったときに口にしたと伝えられる言葉は、「やり返さないだけのガッツを持って欲しい」。人種差別に敏感という評判のあったロビンソンに、自制する根性こそ本物だと指摘したのだ。そして大リーグの宝が生まれた。

 

毎年4月15日の、ジャッキー・ロビンソン・デーには、かって球団に所属していたアフリカ系アメリカ人のOBたちが招待される。それは、ジャッキー・ロビンソンがアフリカ系アメリカ人の代表と認められているからだろう。そして、この日の試合は42番を背負った多くの選手たちで行われると聞く。

とりわけ、1997年4月15日はジャッキー・ロビンソンがデビューして50周年のこの日、ドジャースvsメッツのゲームで5回終了後、当時のアメリカの大統領だったクリントンが記念式典に参加し次の言葉を残した。「すべてのアメリカ人は、ジャッキーに感謝しよう。彼のおかげで、アメリカはより強く豊かな国になれた。次の世代の明るい未来のために、彼の遺産を大切にしていこう」と。時のアメリカ大統領に、ここまで言わしめたジャッキー・ロビンソンのプレーする雄姿をこの目で見たかった。

偉大な選手に尊敬の念を抱くのはどこの国でも同じだろうが、それにしてもこれほどに尊敬されるスポーツ選手は他に例がないのでは。人種差別に対して、静かに怒りをもって闘っていた。マーテイン・ルーサー・キング牧師やマルコムXと同じように語り継がれている。

上の春秋の中にもあるが、ドジャースのリッキー会長が、オーナー会議において15-1で否決され、それに、実力だけならもっといい選手がいたにもかかわらず、ジャッキー・ロビンソンの入団を決意したと、野球記者=ナガオ勝司の文章で知った。実力だけで評価したのではなく、「アフリカ系アメリカ人を代表できる、優れた人格者」だと判断したのだろう。

 

ジャッキー・ロビンソンの言葉より

 

「不可能」の反対は、
「可能」ではない。
「挑戦」だ!!

 

一流になれ、
そうすればものが言える。

 

もし、他人に何かの
インパクトを与えるような、
生き方が出来なかったとしたら、

人生などそれほど
重要なものではないと思う。

20130924 私65歳になりました

その日、私の生家では父と祖母が落ち着きなくそわそわしていた。65年前の今日、とりわけ祖母は、母が女の子を生むのを期待していた。ところが、期待を見事に欺(あざむ)くかのように、私の産声は、男で何か文句あるのか、と言わんばかりに大きかった。昭和23年9月24日の昼前のことだ。

長男、次男に次いで、三番目には女の子を強く望んだ祖母は、あからさまに落胆したそうだ。母は困ったが、母には罪はない。それでも、大学に入るまでの田舎暮らしでは、祖母は私を滅茶苦茶可愛がってくれた。生誕の地は、京都と滋賀の国境(くにざかい)、京都府綴喜郡宇治田原町南亥子(いね)78番地。父・勝治、母・ハナの三番目の子ども、三男坊だ。

気がついてみたら65歳! というのが正直な気持ちだ。何で、どうして、いつの間に?と考えても、光陰矢のごとし、毎年誕生日ごとに、年齢を確認していたのに、ここまできてしまった。朝一番、目に入れても痛くないほど可愛い孫・晴からは、お祝いのメールをくれた。

冷感症の行政省庁、厚労省は、65歳からは前期高齢者、75歳以上は後期高齢者、85歳以上を末期高齢者と呼ぶ。いかにも、死期が近付いてきたことの露骨な告知、そろそろお迎えがきますネ、そんな響きをもつ。この末期という用語は、世界保健機構(WHO)でも公式に使っているというが、英文ではどのように表現されているのだろうか。末期高齢者という言語が日常に使われていることに、ぎょっとしたのは私だけではないだろう。

総務省の発表では、今月16日の敬老の日の人口推計で、65歳以上の高齢者が3186万人、総人口に占める割合が25%に達した。4人に1人が高齢者だそうだ。医療保険では、前期高齢者医療制度に65歳以上75歳未満の人が適用される。当然、私も今日から対象者だ。

少し前までは、このブログでも何かにつけて、私のことを初老ですと紹介してきた。或る小文を読んでいて「初老」が気になって調べた。講談社の日本語大辞典で、初老のことを「もと、40歳の別称」「老年期に入る年ごろ」と教えられ、それまでの無知さに赤面したものだ。この40歳というのは、人生50年とか言われていた時代の名残りで、今はそうでもないが、それにしても65歳は立派な老人であることは間違いない。

お陰様で、全身丸々、隈なく異常なし、至って健康体。それでだ、これから、当面の5年をどのように過ごせばいいのか、と考える。5年は今までと変わらず活動できるとして、だが。会社勤めと、個人的な生活を如何に過ごすかってことだ。

会社においては、取締役会長の肩書をもらっているが、為すことは、経営者の一人として社長を支えること。細かくは、私が犯したミスを二度と社長が犯さないための番人役、スタッフが働きやすいように環境を整備する、中長期の経営計画策定、社内における円滑なコミュニケーションを確保することだ。

そして、仕事以外の生活においては、本を読み、拙い文章を綴り、果樹を育て、野菜を作ることにおいては、ますます進化したい。友人らとの交流を深めたい、4人の子どもの頑張りぶりと孫の成長を見届けるのも楽しい作業だ。

加えて、大学時代に、強い社会人になるための心棒になる部分を育ててくれたクラブに何らかのお返しをしたいことだ。特別にお世話になったア式蹴球部。恩返しなんて、気恥ずかしいが、何かで喜ばれることをしたいと考えている。来月4日、同窓で同期の高と淀と酒を飲んでの打ち合わせで妙案が浮かべばと楽しみにしている。淀は、かってJリーグのチームの社長さん、高は東証上場の某情報通信ソフト会社の幹部だった。

2013年9月26日木曜日

「差別やめよう」大行進

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20130923 朝日・朝刊

横断幕やプラカードを掲げ撤廃を訴え行進する参加者=午後、東京都新宿区、仙波理撮影

 

ヘイトスピーチに強い関心を持つ。

20130922 「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)など差別的な動きへの反対を訴える「差別撤廃 東京大行進」が東京・新宿で行われた。ツイッターなどの呼びかけで、約1200人が参加したと20130923の朝日新聞・朝刊の記事で知った。昨今のむき出しの民族蔑視に反対する行進だ。

記事によると、デモ隊の先頭は、黒のスーツ姿で「一緒に生きよう」などと書かれたプラカードを掲げた。1963年に米国でキング牧師が人種差別撤廃を訴えた「ワシントン大行進」がモデルだ。

この機会に、ネットでヘイトスピーチのことを調べて、その実態の醜さに肌寒くなった。私の一番嫌う話題だったからだ。

ヘイトスピーチって奴の言葉の意味は、hate(ヘイト=憎む、憎悪する、嫌う)+speech(スピーチ=演説、発言)からなるらしい。また、ヘイトスピーチとは、人種、民族、国籍、宗教、思想、性別、性的指向、障害、職業、社会的地位、経済状態、外見など、自分ではどうしょうもない事柄を抱えている人たちに対する憎悪や差別を正当化もしくは助長する発言のことをいう。

皆殺しとか、国外退去といった過激な言葉で在日韓国・朝鮮人を批判するデモが、東京・新大久保などのコリアタウンで繰り返されている。このように街頭をのし歩く連中がいるってことが不思議だ。不毛だ、そこから生まれるのは憎しみだけ。何で、そこまで敵意を表すのか、どうして、そこまで自分に気に入らない連中を排外しようとするのか。一人ひとりに聞き質してみたい。郎党を組んで行動するのではなく、一人では自分の主張ができないのだろうか。弱虫、馬鹿者だ。

私の悩ましい感慨を友人に話したら、ヤマオカさん、中国や韓国のネットでは凄まじい表現で日本人が虐(いじ)められているんですよ、その表現は、二度と聞きたくないほど非道(ひど)いものですよ、それに対する反抗とも思われます、右翼や国粋主義者らとは違います、と応えた。

韓国のマッカリ酒場でのこと。日本人のグループが、混雑している客席に分け入り、韓国の若者たちを睨み付け、「チャンコロ、日本軍のお通りだ」と言って座についた。日本語の解らない異国の人たちはポカーンとしていたが、隣の席の日本人には、何もかもが解っていた。

おかしいぞ、何とヘイトな表現?なこと!! 私は今まで何があっても日常、このような言語を使用すべきでないと心がけるが、このようにヘイトする奴とそれらの行動に反対する人たちが同じテーブルについて、互いに主張し合えないものか。

思考の浅薄な私の解決策は、ヘイトする奴らを強権を使ってでもやらせないようにするしかないと考えるが、この方法は、横暴だと批判されるのだろうが。いくら表現の自由を認めているといえども、絶対許すわけにはいかない、言語?同断だ。

 

憲法学者の桧垣伸次さんのネットにあった記事をここにダイジェストさせてもらう。日本ではヘイトスピーチを規制する法律はない。名誉毀損罪(刑法230条)、侮辱罪(刑法231条)が適用できる場合があるが、表現の対象が、人種民族などの不特定多数の場合は適用できない。

あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)4条が人種に基づく差別の煽動を禁止し、処罰することを義務づけているが、日本は条約加入に際し、4条について、言論の自由に抵触しない限度で履行する旨の留保を付している。

2002年、国会で人権擁護法案が審議されたが、翌年廃案、2005年には、人権侵害救済法案が提案されたが、審議が進んでいない。桧垣伸次さんもまた、表現の自由という極めて重要な権利を規制することにつながりかねないと、懸念されている。