2014年1月12日日曜日

初詣

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神明社 社殿前

神奈川県神社庁より拝借

 

営業部のスタッフは4日から働いているが、管理部の仕事始めが6日なので、みんなが揃った6日の朝、9時過ぎに天照大御神(おおみかみ)を祀る神明社に初詣にでかけた。

本家がが伊勢神宮だとしたら、相模国一の宮が寒川神社。横浜地区では、同じ神を祀る神社としては、神明社が最も由緒の古い神社だそうだ。

各自神殿の前で、お祈りした。私は社員と社員の家族、仕事でお世話になっている方たちのご加護をお願いした。会社は堅実に、確実に、誠実に運営しますので、静かに見守っていてくださいと宣誓した。欲深いことは何も申すまいと腹に決めていた。

お参りを済ませ、通常の業務に入った。

 

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業務に取り組む心構え、スローガンは昨年と同じだ。

・強い意志

・広範な知識

・大胆な行動

次女夫婦にエールを送る

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた


シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた


風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ

 

野口雨情の作詞で、中山晋平作曲の童謡だ。野口雨情の2歳で亡くなった次女の鎮魂歌だったと学生時代に知った。風、風、吹くな、なんて弱気でどうするんだ、風なんか、君の屁で、ふっ飛ばしてやれ。

師走の終わりに、次女夫婦にも悲しいことが起こった。

子供の頃から親しんできたこの歌を、今、この歳になって、悲しく歌うなんて、運命の悪戯(いたずら)にしては、酷(ひど)過ぎる。独りっきりになると、気づかないうちに口ずさんでいるのが、、、、実に滑稽だ。

次女らに気の利いたことを言ってやれない、してやれない、そのもどかしさが、私を苦しめる。そんな折、天声人語を読んでいて、新聞に親しまぬ彼女たちに、この天声人語の一文を献上しようと思いついた。

 

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朝日・天声人語

一昨年、97歳で亡くなった詩人の杉浦平一さんに、「通過」という詩がある。たった3行の作品だ。〈急行にのって駅を通過するとき ベンチに腰かけている人がチラリと見える その人を私のように 思う〉。

自分の人生は急行ではなく鈍行列車のようなものだ。そんな感懐だろうか。この詩の内容を紹介しながら、脚本家の山田太一さんがきのうの本紙オピニオン面で語っている。「ぼくは、各駅停車の駅にいる人が、豊かでかっこよく見える」と。

プラスとされる価値でなく、マイナスとみられることが実はしばしば「人間を潤している」と山田さんはいう。「災害や病気を経験している人とそうでない人とでは、人間の差が生じていると思います」。長年、漫然と日々を送ってきた身には、ぐさっと刺さる言葉である。

艱難(かんなん)、汝(なんじ)を玉にす。仮に、そんな経験を封じられたらどうなるか。英国の小説家オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』。舞台は未来の「ユートピア」である。人々は試験管で「製造」される。厳しい階級社会だが、薬や教育によってだれも不満や疑問を持たず幸せに生きる。

一見楽園でも実はがんじがらめの管理社会。外からきた「野蛮人」はその本質を見抜き、統治者に向って言う。「わたしは不幸になる権利を求めているのです」。病気になる権利も、不安や苦悩に苛(さいな)まれ、それらすべてを要求する、と。

生きるのは実際、楽ではない。鈍行でいいから、えっちゃらおっちゃら行ってみよう。

2014年1月10日金曜日

望郷編 その3 吉岡先生の2

体育の成績が、牽引力になった。

年の瀬の15日、中学時代の恩師、吉岡由造先生の仏壇の前にいた。奥さんと長々と先生との思い出を話し終えて、お別れの挨拶をすませ、一人とぼとぼ田舎の道を歩きだした。懐かしい道だ。歩きながら考えたのは、先生が何故に私を可愛がってくれたのだろうか、私に一体、何故、あんなことを言ったのだろうか、ということだった。深い謎だ。

小学校は絶好調で過ごした。絶好調とは、自分にとって最高に気分よく過ごせたということで、その絶好調が、傍目(はため)、先生たちにはどのように映っていたのか、それは私には解らない。元気で、元気でどうしょうもなく、元気に過ごした。最高の気分だった。友達ができて、先生は日毎に知らないことを教えてくれる。教えてもらったことを家に帰って家族に話すと、みんなは喜んで聞いてくれた。

そんな子供が、そんな調子で中学校に入学した。絶好調は小学時代と変わらない。バスケットクラブに入部した。同期の入部に山岡保、福井保、奥村保と保が3人揃ったのが可笑しかった。体育クラブに入部したせいか、体育の授業は面白くて、この教科だけは真剣に授業を受けた。飛び跳(は)ねていた。先生が吉岡先生だった。

だからと言って、誰よりも足が速いわけでもなく、どの種目でも格段に秀(ひい)でていたわけでもなかったが、兎に角、体を使ってグラウンドや体育館で行う運動が快感だった。それだけのことだった。

通信簿の体育の評価が飛び抜けて良かったのには、本人も吃驚した。な~んだ、俺よりも優秀な奴がいるのに、みんなはどうしたんだろう?

そして、2年生になった頃、担任でもない吉岡先生から、「君も学校の先生になれるヨ、もう少し勉強に気合を入れて大学を目指しなさい、期待しているヨ」と言われたのだ。先生の意図はどこにあったのか、突拍子もない事を言われて、一瞬戸惑った。先生は何故、そんなに元気なんですか?という私の質問に、その的(まと)外れの返答として、このように言われたのだ。気に留めていただいていることが、嬉しかった。

父や母からは、中学校を卒業して高校に進学するのもよし、就職するのもよし、お前の好きなようにしていいと言われていたので、青天の霹靂、いきなり大学への進学を勧められたので面食らった。よく解らなかった私は、先生の言葉をそのまま鵜呑みにして、誰にも話さなかった。我が家においては、学業成績が悪かろうが良かろうが、大した問題ではなかった。当時、私の田舎では高校への進学熱が高くはなかった。

それから、ちょっとは勉強するようになった。ちょっと勉強すると嘘のように成績が上がった。みんなは勉強をさほどしてなかったのだろう。体育は勿論、算数、国語、英語、社会、理科は5段階の5に、生まれつき感性やセンスがなく、音楽と図工はどうしても普通の3~4をうろちょろ。成績が上がれば自信もつく、反則ばかりとられて嫌になりかけていたバスケットボールの練習にも一所懸命に励めた。

普通の成績だった私に、どうして先生は、君も先生になれるよ、大学を目指しなさいなんて言ったのだろう。いくら考えても謎だ。

生きているうちに問い質(ただ)したかった。

2014年1月8日水曜日

望郷編、その3 吉岡先生

20131215、横浜に帰る朝、吉岡先生の奥さんのご自宅を訪ねた。3年前に先生が亡くなられた時には、仕事の都合で駆けつけられなかった。亡くなる1年前に、病院にお見舞いに行ったときには、体だけではなく精神的にも弱っておられた。先生は、中学時代の恩師、体育の先生だった。大学への進学を大いに勧めてくれた。受験浪人中、度々お邪魔してお酒をご馳走になった。

先生は、野球部と陸上部の顧問をしながら、学校の全ての体育クラブの総括もされていた。クラスの担任ではなかった。

私たちの学校は、どのクラブも特別に強いことはなかったが、スポーツの盛んな学校で、私が所属していたバスケットボール部の休みは、年間を通じて3日もなかった。放課後、休日でも運動場や体育館は各クラブの活動で大賑わい。私はバスケットボール部員で、バスケットボールそのものに悩みを持ちながら、それでも今はやるしかない、と決め込んでいた。私が気合を入れてプレーすればするほど、ファウルをとられた。相性が合わなかった。

吉岡先生と呼んでいるけれど、実は奥さんの籍に婿養子に入られたので、姓は森田。その新しい苗字に慣れない私は、いつまでも、吉岡先生と呼んだ。死因は、多年の大量の酒飲による多臓器機能不全による疾患だ。それほどまで酒を飲むようになった理由は、いろいろ思い巡らすことはできるが、今回はそのことには触れない。仏壇に妻が用意してくれた品を供えた。

20131213同窓会、墓参り 067

壁には、先生の遺影と当時の野田佳彦総理大臣が、先生の長年に亘る教育者としての功労に対して、褒美なのか感謝状なのか、大きな賞状が掲げられていた。奥さんは、遠慮がちにこんなものをこんなところに飾って良いものか、と大いに悩んだけれども、勇気をもって飾ることにしたのよ、と仰っていた。事実、親戚の者から嫌味なのか、僻(ひが)みなのか、心無い声を聞かされたと、奥さんは嘆いていた。

実は、私が大学に行くために田舎を去った頃から、先生は強度のアルコール依存症になった。現役時代、酒魔にとり憑かれた先生を学校に家から送り出し、教育委員会に通っていた時には自殺をほのめかされ、小学校の校長で職を辞めるまでは、悲嘆に明け暮れる惨憺たるものでした、と述懐されていた。他人には言えないけれど、ヤマオカさんなら聞いてくれるよね、と先生の酒を飲んで酔っ払ってのだらしない行状を、涙をこらえて話してくれた。内助の功なんて、そんなものではなかった。でも、時間の経過と言うのは有難いもので、今では、お父さんを恨んではいません、あんなお父さんだったからか、反面教師だったのでしょう、子どもたちはいい子になりました。

ところが、私の中学時代の吉岡先生は、ムチャクチャ輝いていた。年がら年中、校内を生き生きと活動していたのに、感銘を受けたのだ。こんな大人になりたいと思った。何故?そこまで頑張れるのだろう、か?一日中グラウンドにいるので、顔は真っ黒だった。

ところで、気安く「吉岡先生」と言っているが、小学校から大学まで数多くの先生にお世話になったけれど、心底、先生と敬意を込めて言えるのは、大学時代のクラブの監督だった堀江忠男教授と、この吉岡先生の二人だけだ。欠陥だらけの吉岡先生と、人格的にも完璧で、畏(おそ)れ多い雲上の人、堀江教授。二人の先生から、学ばせていただいたことは、大だ。

二人の先生が鬼籍に入られる前に、もう少しいい教え子でありたかったと思う。

2014年1月3日金曜日

今年は、W杯ブラジル大会だ!!

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今年の6月15、20、25日(現地時間は、14、19、24日)、日本はサッカーファンのみならず多くの国民にとって、熱い日になりそうだ。

サッカーをこよなく愛している私にとって、首を長くして待ちに待つ日々、地獄を見せられて悄然とさせられるのか、欣喜雀躍、天国を見せてもらえるのか、ウ~ン、それが問題だ。

20131224の日経新聞で、FIFAマスターを終了した元日本代表で、04年のアジアカップと06年ドイツW杯で日本代表の主将を務めた宮本恒靖氏が、トークショーで語った内容が記事になっていた。宮本氏は現在、日本サッカー協会の国際委員だ。組み合わせ抽選会が行われた後の1208の、これも日経新聞のスポ-ツ欄で、日本が1次リーグで対戦するチームの分析記事を見つけてファイルをしておいた。

話は少しずれるが、宮本氏の日本代表でのプレーについては、私は終始不満だった。

サッカーが好きだと言っても、外国のチームの戦力の詳細な情報まで持ち合わせていない。孫の持つ知識にも到底及ばない。よって、世界のサッカー事情に知見ある宮本氏の談話や新聞記事をダイジェストして、本大会に備えたい。

日本が決勝トーナメントに進出するためには、絶対に相手チームのエースを抑えること、失点を極力少なくすることだ。

そのためには、DF陣だけではなく、全員が危機感を共有すること。1人で無理なら2人、2人で無理なら3人で囲い込む。カバーリングを重層で行う。ボールを持つ相手を追い回して効果的なパスを出させないこと、最終ラインでは相手巧者の技を安全確実にどの程度制せられるか、が鍵だ。

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6月15日(レシフェ) コートジボワール戦

アフリカ予選を5勝3分けの負けなしと安定感ある戦いを続けてきた。中心にいるのがFWドログバだ。体の強さや驚異的なバネを持つ母国の英雄。チェルシー(イングランド)で数々のタイトルを獲得してきたその存在感は35歳の今も健在だ。トゥーレ兄弟ら「黄金世代」と呼ばれる仲間とともに最後のW杯になる可能性が高い。

宮本:「トップレベルの選手が多い。ドロゲバは35歳で全盛期とは違うが、強さもうまさもシュート力も健在。ワントップのドロゲバに対し、日本はCBが強めに当たって前を振り向かせず、ボランチと挟み込みたい」。

:「逆に守備はけっこうルーズ。CBの2人が細かい動きにあまり強くなさそうなので、日本のワントップがうまく動いて、相手を混乱させることができるのではないか」

:「日本は90分間集中力を保って規律よくできるが、コートジボワールは70分良くても残りの20分でいきなりレベルが落ちるときがある。日本はそういう心のすきを突くべきだろう。最初から飛ばして先制点を取れれば」

 

6月20日(ナタル) ギリシャ戦

伝統の堅守は今回も変わらない。欧州予選では組み分けに恵まれた部分もあるが、10試合でたった4失点だった。逆襲速攻の中心となるのが1トップのミトロゲル。トラップやフェントなどの足技もあり、カウンターの仕留め役は適任。ルーマニアとの欧州予選プレーオフでは2試合3得点。大舞台に強いだけに、日本にとってはやっかいな存在になる。

宮本:「日本のように90分間頑張れる。守るべき時に守り抜く力もある。ただ、本来ならDFラインをペナルティーエリアの手前ぐらいで止めておいた方がいいのに、CBが少し下がり過ぎるところがある。CBとボランチとの間を突けばチャンスはあるのではないか。中盤の選手もスライディングで止めにくるので、ドリブルや早いパス交換で崩すと反則をもらえてFKをもらえるチャンスが生まれる」

:「もちろんカウンターは危ない。欧州のトップチームのカウンターのスピードはJリーグと全然違う。アスリートとしての能力がすごく高い」

:「ミトログルはワントップでサイズがあり、右足でも左足でもシュートを打てる。何でもできてスケールが大きい。でも、トップスピードに入るまでに少し時間がかかる。日本は、オフサイドに掛けたり、うまく駆け引きして特徴を出させないようにしたい」

:「CBのパパスタソプーロスはマンマークがとても協力。日本のワントップはマークされないように、もう一人のCBのところに行って、この選手にはカバーリングをさせる方がいい」

 

6月25日(クイアバ) コロンビア戦

シード国。世界ランキング4位。南米予選をアルゼンチンに次ぐ2位で突破。1次リーグ突破の最有力候補であることは間違いない。怖いのは予選13試合で9得点のFWファルカオ。何でもできる万能型だが、ゴール前に飛び出すスピードと、人垣の間を絶妙にすり抜ける緩いシュートのうまさは特筆もの。今大会屈指のストライカーの一人だろう。

宮本:「力があるし、選手層も厚い。南米開催ということを考えると、グループ1位になる可能性が高い。ファルカオはペナルティーエリアの中で強さを発揮する。自分の長所を自分でよく知っているので、ポストプレーでもシンプルにボールをはたいてまた動きなおす。華麗ではないが、ボールをいいところに置いてしっかり足を振って流し込む。正統派のストライカー。日本はシュートを打たれるときに間合いを詰めておくなど、しっかり応対してほしい」

:「ボランチのサンチェスもすごく効いている。ボールをつないでしっかりと堅実なプレーをする。フィジカルの強さを生かしたデフェンスもある。CBのペレアはスピードを生かしたカバーリングで、1対1で抜かれそうになっても最後に追いついてタックルする。日本のワントップの選手は2人のCBのうちこの選手にマークされておいた方がいいだろう」

荒ぶる魂が、吼える

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20131220 私の一番身近なところで、小さな命が果てた。悲しい師走になってしまった。

泣いても泣いても、体のどこでこれだけ大量の涙が作られるのか。いつまで経っても枯れない、人体の謎だ。このような時に、何をして?気を晴らすかは経験的に身につけている。

軽症のときは、身辺の整理整頓と掃除で気分転換を図る。学生時代はスポーツだった。部員が揃っての練習を終えてから、とんでもない特別メニューを考えて自らに課した。社会人になってからも基本的には変わらないが、肉体労働で体をくたくたになるまで追い込むことだ。肉体を虐(いじ)めて追い込めば、私の魂が荒ぶる、野生的に吼える、そして、やがて精神は静穏になる、これが私の習性だ。このようにして、何度もピンチを乗り越えてきた。

そして今回思いついたのは、住宅の解体作業で体に鞭打つことだった。港北区で仕入れた土地には古い住宅が残っていて、この家を壊して、土地だけの売却も視野に入れているが、それよりも、建売住宅として販売したいと考えている。

年の瀬の27、28、29日の3日間を解体作業で過ごすことを決めた。この解体作業こそ復活の糸口だ。スタッフは経営責任者の中さんの義弟のスチィーブ君と私の二人だ。彼は30歳になったばかりの若者だ。解体と言っても、柱や梁などの主要な構造部分はプロの解体業者さんにお願いすることにして、私たちは建具、床、天井、壁と、建物に施された付着物などの撤去だ。

それでも、大きなバールやハンマーを振るうことは多く、私たちには充分過酷な作業だ。かって、同じような作業を何度も経験したが、今回は、加齢のせいか体に堪(こた)えた。屋根裏、天井からの土ぼこり、土壁のため粉塵の多さにもまいった。

初日、二人は無我夢中で働いた。捗(はかど)った。年はとっても、私は平均的な一人前の仕事はできる。もう一人のスタッフのスチィーブ君は、一人で二人前の仕事をこなす。3時間みっちり仕事に没頭、二人で三人前の仕事の成果に満足した。が、私は疲れていた。

そして二日目、同じように夢中で働いた。前日よりも、力任せの仕事は減って、細かい部分の撤去作業だ。建物内の壁はなくなったので、室内の全体が見通せるようになった。

作業中振り向くと、スチィーブ君が猛烈に働いていて、その気迫に圧倒された。私だって負けてはいないぞ、と自らを叱咤。が、疲れは増すばかり、休もうと話しかけても、彼はただ笑うだけで休もうとはしない。階段を壊そうとしたが、構造がよく解らなくて手のつけようがない。仕事を始めるときに決めていた終了時間よりも、1時間半も長く仕事をすることになった。

こなした仕事の量の多さにもう少し感動的になっても、いいのに、、、、、、私はただ終わりだ、メシだ、とスチィーブ君に告げるばかり。

家の周りには廃材で溢れた。

年の瀬、隣家にも気兼ねをしなければならない、と考えて予定していた29日の作業は休みにした。体の各所の筋肉が痛いことも中止の理由だ。スチィーブ君は仕事をしたがっていた。正月気分を吹き飛ばすためにも、仕事始めの1月4日には、解体を始めることにしよう。

大晦日の夜、鮟鱇(あんこう)鍋。来年はいい年にしたい。

2014年1月2日木曜日

大楠山に登ってきた

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この数年の私の初詣は、大晦日の夜七時前後に自宅から歩いて出かけ、カウントダウンの始まる前に着いて、新年を迎えていた。次女夫婦と孫、孫のサッカー友達とその母親らと一緒だ。行き先は、寒川神社や鶴岡八幡宮、川崎大師だった。

昨年の年末に、私の身近で悲しい出来事があって、今年は初詣の代わりに山へ行くことにした。山にだって、谷にだって神様はいるだろう。第一希望の丹沢連山には雪が積もっていて断念した。次女の婿の竹ちゃんと孫の晴も一緒に行きたいというので、それならば、以前から気になっていた大楠山に行こうと、前日に決めた。大楠山に決めたことを知らせるメールで、次女にお握りを作って欲しいとお願いした。横須賀市の広報には「おおぐすやま」で、日常使っている「おおくすやま」ではなかった。

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20140101の朝、9時頃に次女に東戸塚まで送ってもらった。山行は、私、竹ちゃん、晴の男衆3人だ。

JR横須賀線の衣笠駅に10時過ぎに着いて、そこから歩き出した。竹ちゃんは駅構内のコンビニで、ビールと「氷結」とツマミ、晴にはジュースを買った。歩き出して、早速缶ビールの栓を開けた。衣笠運動公園、城北小学校を右に見て、大楠山はあの辺りですよ、なんて指をさしながら、気楽に歩を進めた。

そのうち、大楠山入り口の看板があるだろうと、多寡を括(くく)りながら歩いていたが、それらしき道案内はなかった。衣笠中学校を過ぎ、疎水に沿って進んだ。横須賀市立しょうぶ園の告知板があったので、大楠山の方向だけは確かめられたが、山への入り口らしきところが見つからず、戸惑っているところに、粋のいい3人の男の人が私達を追い抜いていこうとした。その時、私はこの人達も大楠山を目指しているものと察知、どちらを目指されているんですかと尋ねたら、オオクスヤマと答えが返ってきた。

よかった、この人達について行けばいいのだ。缶ビールは空になり、「氷結」に手をつけた。間もなく、大楠山入り口の看板があった。民家の間を縫うように走る狭い道をてくてく進んだ。そのうち山道に入り、登山道は整備されていた。一気に深山幽谷の趣だ。人里が急に遠く感じられる。上から下りてくる大勢の人たちに出くわした。今日はと挨拶をし合った。

小川があって橋がかかっているところで、硫黄の臭いがした。晴が最初に気づいた。川底の近くに山の斜面から3本の管が出ていて、その管の下には白いペンキでも塗られたようになっていた。竹ちゃんは、川底に下りてその白いものを手にとって臭いを嗅いだ。これはSの臭いだと、叫んだ。なるほど、阿部倉温泉が近くにある。

晴が前を歩きながら藪から棒に、ジジイ、元旦と元日はどう違うか知ってる?と聞かれた。学のない私は、そんなもの字が違うだけで、どっちも同じ様に使っていいんだ、と言い張った。冷静な晴はジジイを諭(さと)すように、元旦と元日は全く違う意味です、元旦の「旦」の下の「一」は水平線を表していて上の「日」は太陽を表しているのです、太陽が水平線の上に上ってきて、太陽が水平線から離れるまでを元旦と言うのです、太陽が水平線から離れてしまうと、元旦ではなく元日なんです、と教えてくれた。晴に教えてくれた、クラスの担当の山田先生に感謝。ガンタンはうちの会社の社長の名前です、では孫の質問の答えにはなってない、どこまでも馬鹿なジジイだ。

山頂に到着したのは、正午頃。1時間半か2時間かかったことになる。頂上では、家族連れの人たちが十数人休んでいた。

2013- 023

東京湾と相模湾が一望だ。三浦半島最高峰の標高242メートル。低い山だが、周囲に高い山がないので、ナイスビューだ。展望台と、NTTの大楠無線送受信所の鉄塔が2基ある。丹沢連山、房総半島はよくわかったが、空は青空なのに富士山や伊豆大島はよく見えなかった。眼下には尖(とんが)ったり、凹(へこ)んだりの三浦半島の入江や岬が面白い。

関東百名山の百番目の山だ、とウィキペディアにあったが、何が百番目なんだ?

下山して県立塚山公園に向った。この公園までの道のりが長かった。

横浜横須賀道路の横須賀インター入り口のコンビニで、晴が男用トイレで、私は女用のトイレで脱糞。悪しからず、急がねばならなかったのだ。アイスクリームを竹ちゃんが買ってくれた。

2013- 027

 

 2013- 025

 

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この三浦按針の墓のことも、以前から見てみたいと思っていたので、大願成就、よかった。京浜急行の安針塚駅に着いたのは午後の3時頃だった。道中、晴にはジョン万次郎のことを話してやったが、間違って話してないか、馬鹿なジジイは心配になった。