2014年1月28日火曜日

望郷編その5 最後は三十三間堂だ

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この望郷編の最後は、三十三間堂に出かけたことだ。

西念寺にある義父の墓参りを終えて三十三間堂に向かった。正式には蓮華王院(れんげおういん)という。

鴨川の流れをぼんやり眺め、七条通をぶ~らぶ~ら、余所見(よそみ)をしながら歩いた。50分から1時間ぐらいかかったかもしれない。小雨が降ってきたが、着替えはあったので、新撰組の近藤勇だったか、"春雨じゃ濡れて行こう" だ。今は冬、氷雨(ひさめ)っていう奴か?

東山連山の峰々に虹が出た。歩行者の視線は山に向いた。東の山から下りてきたハイカーさんらと一緒に振り向いて眺めた。「虹」っか!!、と、次女の数日後に迫る出産のことを考えていた。6番目の孫だ。母になる私の次女は、生まれてくる子の名前に、虹の一文字を考えている。

東西に走る七条通を東に歩いて行くと南北に通じる大和大路通にあたる、その角に、七条通を挟んで北側に京都国立博物館、南側に三十三間堂がある。観光バスが数台停まっていた。アメリカ人の高校生と思われる団体や、地方からのお年寄りの団体が多かった。団体の引率者の説明を盗み聞きしながら観覧した。

小学生か中学生の頃にも、学校の遠足か何かで来ているので、その雰囲気は蘇った。静寂の中にじとっと歴史の重さを感じた。仏像たちの数が圧巻、さながら仏像の森だ。その一体一体の形の不思議さにも魅(ひ)かれるが、それらの総量がなす空間は、異状だ。中央の中尊千手観音坐像を囲うように前後10段の階段状に1001体の「十一面千手千眼〈せんじゅうせんがん〉観世音像が並ぶ。

見たことのない人は、早く見てくださいな、私にはこの不思議さを著す言語を持ち合わせていない。

創建当時、後白河上皇は院政の立場で、血の気の多い武士ども、平清盛や源頼朝らと、丁々発止と渡り合っていた。保元、平治の乱では武家の力を利用して、朝廷内における地歩を固め、武家政権との共存を目指した。混乱の時代、民衆も武士も朝廷も、穏やかな治世を求めていたのだろう。上皇は仏教を厚く信奉(しんぽう)していた。

三十三間の間は、我々が日常的に使う長さを表す単位の間(けん、1.818メートル)ではなく、社寺建築において柱間の数を表す。

 

いただいたパンフレットから説明と写真をここに使わせてもらう。

 

日本唯一の千体観音堂

正式には蓮華王院〈国宝〉といい、長寛(ちょうかん)2年(1164)鳥辺山麓(とりべさんろく)(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁(いんぜいちょう)「法住寺殿(ほうじょうじどの)」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し、文永(ぶんえい)3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700余年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋(いりもや)・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル。正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。また、見落としがちだが境内・南の通称「太閤塀(たいこうべい)」と呼ばれる築地塀(ついじべい)と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である。

 

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無限の慈悲・千体の観音立像

中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(重文)、合計1001体がご本尊。正しくは「十一面千手千眼〈せんじゅうせんがん〉観世音」といい、当院の像は檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手に表現される。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、他の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年かけて復興された。

 

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国宝雷神と風神像

堂内両端のひときわ高い雲座(くもざ)にのった風神と雷神像は力強く躍動的。古代人の自然や天候に対する畏(おそ)れや感謝の心が、空想的な二神を創造し、風雨をつかさどり、「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰された。太鼓を打つ雷さまと風の袋をかかえた風の神というイメージを決定づけた鎌倉彫刻の名品〈国宝〉である。

 

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国宝観音二十八部衆像

観音像の前列と中尊の四方に位置する変化に富んだ28体の仏像〈国宝〉は、千手観音とその信者をまもるという神々でインド起源のものが多く、その神話的な姿が迫真的に表現されている。技法的には檜材の「寄木造り」で、仏像の手や顔を別々に刻んで接着し、漆を縫って彩色(さいしき)仕上げをしたものである。目にはより写実性を高めるため、水晶をはめ込む「玉眼(ぎょくがん)」という技法が用いられている。

 

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楊枝(やなぎ)のお加持(かじ)と通(とお)し矢(や)

「楊枝のお加持」は毎年1月中旬に行われる当院最大の縁日で「頭痛封じ」にご利益(りやく)があるといわれる。境内は無料公開され、全国から約2万人が群参する。お堂の西庭では、終日、古儀・通し矢(江戸時代に外縁で行われた弓の競技で、堂内に残る多数の絵馬はその記録)にちなむ弓道大会が催され、特に成人を迎えた女性たちの晴れ着での競技は、いまや正月の風物詩となっている。

 

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曇空、閉門の4時で、巷間、夕闇が急に迫ってきて、東寺まで足を伸ばそうと思っていたが諦めた。

その後は、京都駅前タワーでウドン(うろん)を食ってビールを飲んで、京都駅構内探索と京都駅前タワーの地下で風呂に入って、たっぷりと時間調整をした。風呂は意外にも空いていた。

2014年1月17日金曜日

詰めが甘くなる理由の1つ

日経新聞の武智幸徳氏が、20140110の日経新聞・朝刊スポーツ欄、「アナザー ビュー」で、長年、ドイツをメインの舞台にして、選手の海外挑戦やチームの海外遠征の仲介等の仕事をしている近江孝行さんから、日本とドイツのサッカー事情の違いなどヒヤリングしたものを、記事にしていた。

私は高校、大学とサッカー部に所属して、まじめに活動した。大学の卒業年度には、全日本大学サッカー選手権、関東大学サッカー選手権の2冠を獲得する栄誉に輝いた。私のたった一つの自慢だ。40余年前のことだ。

記事は、近江さんが、ドイツの練習環境や育成部門の指導内容について、日本と比較して話していた。その会話の内容が、みんなには「目から鱗(うろこ)落ち」級だろうが、私にとっては、前々から感じていたことだった。

私のサッカー漬けの日々も、下の記事のようなことを当然のように教えられ、受け入れ、練習ではそのように忠実にプレーしてきた。

昨今の日本代表の守備の甘さの元凶は、この辺りにありそうな気がする。

日本の選手はボールにアタックに行かずに間合いを取って見ることが多い。それが相手を十分に制御できていないようにドイツのコーチには見える。小さい頃から「簡単に飛び込むな、という指導を受けているせいかもしれない」と近江さん。

技術、戦術、判断、いろんな武器の土台としてまず「1対1の戦い」に勝つことをドイツは求める。日本は正面衝突を避けながら数的優位な場所に追い込んで最終的に数の力でボールを奪い取ることを教える。身体能力の低さを知恵と工夫でカバーするそんな身の処し方が、「消極的」「戦えない」となって叱声の対象になる。

 

ところが、試合では、、、、、

私が大学時代にFBをやっていた時には、私の後ろにはスゥイパー役の全日本代表の後輩がいて、私がマークしている相手がパスを受けようとすると、私は素早く限界まで、無我夢中で、それでも安心して間合いを詰めた。そのためには、試合の流れの先を早く読み取り、1歩でも早く動き出すことが、肝要だ。私には、様子を見て間合いを詰めるような余裕はなかった。相手が確実にボールをキープすると、もう私の技術ではどうにもならないので、詰められるときにできるだけ詰めたのだ。

それが、うまくいったのだ。

万が一、間合いを詰め過ぎて、私がフェントをかけられて、ちょんと外されても、相手の懐深くアタックさえしていれば、相手がボールコントロールを少しは狂わす、後ろに控えたスゥイパーが、すかさずカバーリングをする。二人で守り切る暗黙の了解があった。ヤマオカさん、どっちつかずだけはやめてくださいね、と言われていた。

そして、2冠を取ったときに、部員のみんなに言ってはばからなかった。それは、俺程度のプレーヤーが活躍するようでは、大学サッカーのレベルは低過ぎる、その認識を持たなアカンで、と。

2014年1月15日水曜日

望郷編その4、墓参りはこれで終わり

20131215 横浜に戻るために実家を12:00に出た。朝からは、中学校の恩師の吉岡先生の仏壇に挨拶をしてきた。

JRと京阪電車の宇治駅かJRか近鉄の新田辺駅まで送ろうと、甥は言ってくれたけれど、時間はたっぷりあるので、ゆっくりゆっくりこの田舎を楽しみたいと断った。一人でぶらぶら歩きたかった。

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左・田原川 右は高尾〈こうの〉への道からの眺め

 

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宇治田原町高尾地区 水を飲んでいるのは後輩の桝君

 

久しぶりに味わう故郷だ、できるだけ多くの山の気のこもった空気を吸って、できるだけ多くの山々の姿を眺めておきたかった。バス停に向かって歩いていくと、役場の裏を流れる田原川にぶつかる。橋の上から河原を眺めていると、子どもの頃の私が蘇る。春から夏にかけて、笊(ざる)や籠(かご)や網でハヤ、フナ、ドンコ、ザリガニ、ゲンゴロウを捕った。芹(せり)を摘んで帰って母に喜ばれた。魚捕りに飽きたら、石を投げて水面(みずも)を滑らせたり、潜って遊んだ。泳ぎに飽きたら河原で寝転んだ。

こんな町にもスーパーマーケットができていて、買い物客がちらほらいた。かって役場の前にあったバス停はもうそこにはなく、向かいの家で車を洗っている人に教えてもらって、新しく設けられたバス停まで、来た道を戻った。スーパーの隣は祖母、父母たちが眠る墓がある宝国寺だ。墓参りに来た時に、そこにバス停があることは気づいていたが、まさか、このバス停が宇治や新田辺に向かうバス停だと思いつかなかった。

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高尾からの帰り道

 

宇治へはよくバスに乗ったことがあるので、その日は青谷経由の新田辺駅行きに乗ることにした。新田辺駅の駅前のロータリーには一休和尚さんの像があって、その像の前で同志社の大学生らがたむろしていた。

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一休和尚  

 

今回の最後の墓参りだ。

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京都の高倉通り五条下るところにある西念寺で、妻の父のお墓参りをした。京都駅から歩いて15分ぐらいの近さだった。道に面した商店には、仏具店や骨董品、着物の反物を広げている店が多く見られた。仏具店といっても、さすが京都だ、僧侶用の着物や履物、僧侶として身にまとう小物なども多く並べられていた。やっぱり、これらの品物も売っているんだ、と認識した。

義父の眠る墓は周囲の墓石よりも一段と大きく、古く、威容だった。何代ものお骨が入っているのだろう。卒塔婆の小さいのに、私の名前とその日付を、住職さんは筆でさらさらと書いてくれた。お花を買って墓前に供えた。甥っ子の嫁が用意してくれたお線香を焚いた。

義父の葬儀の日、私は4番目の子どもを抱いて、葬儀に来た人々の群れの外で、僧侶たちの読経を聞いていた。23~25年前のことになる。ガンが原因だった。

義父はお酒が大好きな人だった。時々、好きな酒の肴を市場で買ってきた。大阪の銀行に勤めている時でも、早朝、毎日日本酒を1.5合ほど、コップになみなみと注いで、それを飲んで会社に行っていた。傍目には、一切変調や異常は見られなかった。初めて、その光景を見たときは吃驚した、銀行では、始業前に屋上で全員揃って体操をすることになっていて、義父だけが汗まみれで体操している様子が、他の行員からは不思議がられたようだ。支店長さんだけは、その由を知っていた。

体の不調を訴えだしてから、病院を転々とするのだが、ガンとは知らない義父に、どこの病院の医師も、酒が原因ではないと思いますよと言ってくれた。義母の気遣いに、医師も発言に配慮してくれた。どの医師も義父の体の状態の全てをお見通しだった。義父は、せめての気休めのつもりだったのだろうか、妻や娘には、お父さんの病気は酒を飲み過ぎたからではないらしいよ、と弱弱しく言い訳をしていた。何故か、酒は「万長」を好んで飲んでいた。

自分の生い立ちや、幼少の頃の家族のことに関しては、何も話してくれなかった。話したくなかったようだ。私のことも、突っ込んで聞いてこようとはしなかった。

晩年は、地元の商工ローン会社に勤め、その会社の上場準備室長として上場を果たし、その後は業務の拡大を重ねる繁忙の日々を過ごし、その繁忙中に亡くなった。それからの20年後の会社の果てを知らないまま亡くなったのは、彼にとって、良かったのかもしれない。商工ローンは運営において世間からこっぴどく叩かれた。

2014年1月13日月曜日

あそこに、渡し船があるんですよ

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3~4ヶ月前のこと、経営責任者の中さんと、横須賀市の浦賀湾に添って車で走っていたら、運転中の中さんが、この辺に船着場があって、向こうの岸まで渡し船が出ているんですよ、と話しかけてきた。その時は、視界の隅っこに乗船場のようなものを確認しただけで、それほど感心は向かなかった。

ええ~、今どき、そんな悠長な!! この辺りで、渡し船なんて本当にあるの? 半信半疑、その程度の反応だった。

歌謡曲で名高い、矢(や)~♯~切(ぎり)~♭~の~渡(わた)~ア~し~、なら、歌は下手だけれど、名前だけは知っている。葛飾柴又から江戸川を渡って千葉に着く、東京唯一の渡し船だ。

そして、今年の1月6日の朝日新聞の朝刊・横浜版に、”渡し船に乗ってロトロ当選祈願、叶神社が人気”のタイトルで、半年前に中さんが話題にした渡し船のことが、叶神社と合わせて記事になっていた。私の目は、急に色めき立った。なむ!! あの渡し船のことだ。

その記事をダイジェストさせてもらった。写真も全て新聞掲載のものを使わせてもらった。

 

横須賀市の浦賀湾を挟み、渡し船で結ばれる東西の叶(かのう)神社。西の神社の勾玉(まがだま)を東の神社のお守り袋に収めると、恋愛や友人関係、仕事での良縁に恵まれるといわれる。最近では「叶」を「ロト」と読み、宝くじの当選祈願の地としても人気を集めている。

勾玉は水晶、ヒスイ、メノウの3種類。

鳥居近くの船着場に向った。「ポンポン舟」の愛称で親しまれる渡し船は約300年の歴史がある。150円を払い、のどかな湾の風景を2分ほど眺め対岸に到着。東叶神社は勝海舟が咸臨丸で渡米する前、航海の安全を祈願し、絶食した地だ。

(前田伸也)

2014年1月12日日曜日

初詣

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神明社 社殿前

神奈川県神社庁より拝借

 

営業部のスタッフは4日から働いているが、管理部の仕事始めが6日なので、みんなが揃った6日の朝、9時過ぎに天照大御神(おおみかみ)を祀る神明社に初詣にでかけた。

本家がが伊勢神宮だとしたら、相模国一の宮が寒川神社。横浜地区では、同じ神を祀る神社としては、神明社が最も由緒の古い神社だそうだ。

各自神殿の前で、お祈りした。私は社員と社員の家族、仕事でお世話になっている方たちのご加護をお願いした。会社は堅実に、確実に、誠実に運営しますので、静かに見守っていてくださいと宣誓した。欲深いことは何も申すまいと腹に決めていた。

お参りを済ませ、通常の業務に入った。

 

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業務に取り組む心構え、スローガンは昨年と同じだ。

・強い意志

・広範な知識

・大胆な行動

次女夫婦にエールを送る

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた


シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた


風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ

 

野口雨情の作詞で、中山晋平作曲の童謡だ。野口雨情の2歳で亡くなった次女の鎮魂歌だったと学生時代に知った。風、風、吹くな、なんて弱気でどうするんだ、風なんか、君の屁で、ふっ飛ばしてやれ。

師走の終わりに、次女夫婦にも悲しいことが起こった。

子供の頃から親しんできたこの歌を、今、この歳になって、悲しく歌うなんて、運命の悪戯(いたずら)にしては、酷(ひど)過ぎる。独りっきりになると、気づかないうちに口ずさんでいるのが、、、、実に滑稽だ。

次女らに気の利いたことを言ってやれない、してやれない、そのもどかしさが、私を苦しめる。そんな折、天声人語を読んでいて、新聞に親しまぬ彼女たちに、この天声人語の一文を献上しようと思いついた。

 

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朝日・天声人語

一昨年、97歳で亡くなった詩人の杉浦平一さんに、「通過」という詩がある。たった3行の作品だ。〈急行にのって駅を通過するとき ベンチに腰かけている人がチラリと見える その人を私のように 思う〉。

自分の人生は急行ではなく鈍行列車のようなものだ。そんな感懐だろうか。この詩の内容を紹介しながら、脚本家の山田太一さんがきのうの本紙オピニオン面で語っている。「ぼくは、各駅停車の駅にいる人が、豊かでかっこよく見える」と。

プラスとされる価値でなく、マイナスとみられることが実はしばしば「人間を潤している」と山田さんはいう。「災害や病気を経験している人とそうでない人とでは、人間の差が生じていると思います」。長年、漫然と日々を送ってきた身には、ぐさっと刺さる言葉である。

艱難(かんなん)、汝(なんじ)を玉にす。仮に、そんな経験を封じられたらどうなるか。英国の小説家オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』。舞台は未来の「ユートピア」である。人々は試験管で「製造」される。厳しい階級社会だが、薬や教育によってだれも不満や疑問を持たず幸せに生きる。

一見楽園でも実はがんじがらめの管理社会。外からきた「野蛮人」はその本質を見抜き、統治者に向って言う。「わたしは不幸になる権利を求めているのです」。病気になる権利も、不安や苦悩に苛(さいな)まれ、それらすべてを要求する、と。

生きるのは実際、楽ではない。鈍行でいいから、えっちゃらおっちゃら行ってみよう。

2014年1月10日金曜日

望郷編 その3 吉岡先生の2

体育の成績が、牽引力になった。

年の瀬の15日、中学時代の恩師、吉岡由造先生の仏壇の前にいた。奥さんと長々と先生との思い出を話し終えて、お別れの挨拶をすませ、一人とぼとぼ田舎の道を歩きだした。懐かしい道だ。歩きながら考えたのは、先生が何故に私を可愛がってくれたのだろうか、私に一体、何故、あんなことを言ったのだろうか、ということだった。深い謎だ。

小学校は絶好調で過ごした。絶好調とは、自分にとって最高に気分よく過ごせたということで、その絶好調が、傍目(はため)、先生たちにはどのように映っていたのか、それは私には解らない。元気で、元気でどうしょうもなく、元気に過ごした。最高の気分だった。友達ができて、先生は日毎に知らないことを教えてくれる。教えてもらったことを家に帰って家族に話すと、みんなは喜んで聞いてくれた。

そんな子供が、そんな調子で中学校に入学した。絶好調は小学時代と変わらない。バスケットクラブに入部した。同期の入部に山岡保、福井保、奥村保と保が3人揃ったのが可笑しかった。体育クラブに入部したせいか、体育の授業は面白くて、この教科だけは真剣に授業を受けた。飛び跳(は)ねていた。先生が吉岡先生だった。

だからと言って、誰よりも足が速いわけでもなく、どの種目でも格段に秀(ひい)でていたわけでもなかったが、兎に角、体を使ってグラウンドや体育館で行う運動が快感だった。それだけのことだった。

通信簿の体育の評価が飛び抜けて良かったのには、本人も吃驚した。な~んだ、俺よりも優秀な奴がいるのに、みんなはどうしたんだろう?

そして、2年生になった頃、担任でもない吉岡先生から、「君も学校の先生になれるヨ、もう少し勉強に気合を入れて大学を目指しなさい、期待しているヨ」と言われたのだ。先生の意図はどこにあったのか、突拍子もない事を言われて、一瞬戸惑った。先生は何故、そんなに元気なんですか?という私の質問に、その的(まと)外れの返答として、このように言われたのだ。気に留めていただいていることが、嬉しかった。

父や母からは、中学校を卒業して高校に進学するのもよし、就職するのもよし、お前の好きなようにしていいと言われていたので、青天の霹靂、いきなり大学への進学を勧められたので面食らった。よく解らなかった私は、先生の言葉をそのまま鵜呑みにして、誰にも話さなかった。我が家においては、学業成績が悪かろうが良かろうが、大した問題ではなかった。当時、私の田舎では高校への進学熱が高くはなかった。

それから、ちょっとは勉強するようになった。ちょっと勉強すると嘘のように成績が上がった。みんなは勉強をさほどしてなかったのだろう。体育は勿論、算数、国語、英語、社会、理科は5段階の5に、生まれつき感性やセンスがなく、音楽と図工はどうしても普通の3~4をうろちょろ。成績が上がれば自信もつく、反則ばかりとられて嫌になりかけていたバスケットボールの練習にも一所懸命に励めた。

普通の成績だった私に、どうして先生は、君も先生になれるよ、大学を目指しなさいなんて言ったのだろう。いくら考えても謎だ。

生きているうちに問い質(ただ)したかった。