2015年1月24日土曜日

昔の写真を残して置こう


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   昭和48年度 関東大学サッカー選手権優勝後の記念写真
            賞状をもっているのが、私だ。

20140515から4か月は病院ぐらし。
10月に退院してから現在も療養に苦しんでいる。

弊害事故というのは、梯子に身を置いて高い木の枝を切っていた。
それからが大悲劇、発生。
4,5メートルの上からアスファルトの路面に頭から落下したのだ。
何日間の高次脳機能障害で意識不明。

それから、よくぞここまで頑張れたものだと、ナースさんたちは感心してくれた。私の悪態についても大目にみていただいたーーーー感謝。
退院後すぐに会社に通い始めた。会社に出ても、やれることは、ゆっくり、ボチボチ。それならば、と思いついたのが、自己使用の机を整理するのが精一杯だった。
目につくもの、どれもこれも馴染みの濃いものだが、これだけは残して置きたいと思うものが多々あった。

先ずは我々が大学4年生の時に撮ったサッカー部同期らの写真、それに加えて関東大学サッカー選手権に優勝して、入賞式を終えた後の我が大学の記念写真。
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            昭和44年入学した同期生たち


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1972年の関東大学サッカー連盟の選手証だ。この選手証さえあれば、どこで試合があろうが、無償で入ることができた。

以下、インターネットでお借りした。



JFAシンボルマーク

ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏(やたがらす)と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。
旗の黄色は公正を、青色は青春を表わし、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現しています。(日本サッカー協会のサイトより)

 
 
JFAのエンブレム

三本足のカラスは、1931年(昭和6年)6月3日の理事会で採用されたもの。三本足のカラスは中国の古典では日の神(太陽)のシンボルといわれ、日本でも神武天皇東征の時、「ヤタガラス」が天皇の道案内をしたという伝説もあって、日中の故事から、ボールを押さえたカラスは日本のサッカーを統治指導するものと考えられた。

 
日本サッカー協会のシンボルに八咫烏(ヤタガラス)が使われているのはなぜだ?
日本代表の旗やユニホームに付けられているシンボルマークが3本足のカラスであることは皆さん知ってますよね。
 なぜ3本足のカラスなんでしょう?
 その理由をこれから説明します。
 日本にサッカーを紹介し広めた功績者に中村覚之助(かくのすけ)という人物がいます。
 東京高等師範学校の学生でありながら、米国の「アッソシェーション・フットボール」を翻訳(ほんやく)して明治35年ア式蹴球部(しゅ  うきゅうぶ)を設立しました。
 これが日本における現代サッカーの本当の始まりと言われています。
 もともと明治6年(1873年)には日本にサッカーが伝わっていたのですが、この当時はラグビーのルールが混在し、純然たるサッカー ではなかったようです。
 そしてこの中村覚之助は明治39年に29歳の若さで亡くなります。
 その後日本サッカー協会のシンボルマークは昭和6年に図案化されます。
 その発案者は、当時の東京高等師範学校の内野台嶺(うちのたいれい)教授を中心とする人たちなのですが、実は内野教授は明治39年頃の蹴球部員だったのです。
 中村覚之助は神様のように慕われたらしく、内野教授はマークの図案に中村覚之助の故郷である和歌山県那智勝浦町の渚の宮神社のシンボルである八咫烏を取り入れることにした。というのが現代では有力な説になっています。
 八咫烏の「咫」は長さの単位で1咫は約18cmになります。それ1字では「あた」と読み、「八咫(やあた→やた)」では「大きな」という意味になります。八咫烏とは、大きなカラスという意味で、3本の足を持つカラスとして描かれます。
 『古事記』や『日本書紀』には、カムヤマトイワレビコ(のちの神武天皇)が東征の途上、天から遣わされたヤタガラスの道案内により熊野・吉野の山中を行軍したということが記されています。勝利へ導く縁起の良いカラスなんですね。
 カラスの足を三本足とするのは、陰陽五行思想によるものてで、二は陰数で太陽にふさわしくなく、陽数である三こそが太陽にふさわしいと考えられたことが理由のようです。八咫烏は太陽の象徴とされていました。

 
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              私が4年生の時の全メンバー
 
早稲田大学の革マル
革マル派の学生組織は、長年にわたり早稲田大学が中心的な拠点校としてきたが、大学側は同派の影響力を排除するため、1995年7商学部自治会の公認を取り消し、2005年3には社会科学部自治会の公認を取り消した。

また、革マル派が主導する早稲田祭実行委員会が、長年にわたって早稲田祭の収入や助成金を同派系の偽装サークルに1000万円単位で横流しするなどの行為を行っていたことから、大学側は1997から2001まで早稲田祭の開催を中止し、同派系の偽装サークルの公認も取り消した(この際公認を失ったサークルの一つに早稲田大学新聞会がある)。

これにより同派は資金源を失った。
このため、革マル派が教職員の自宅を盗聴する事件を起こすなど、大学側と革マル派との対立が激しくなったが、対立は大学当局側の勝利に終わり、革マル派は一時期早稲田大学からほぼ排除された。

最近ではサークル活動などを通して学内で一定の活動を展開している。とはいえかつてのような影響力はほとんどない。
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瘋癲(ふうてん)の革マルだった。
皆が就寝に入ったころに、デモの深夜組として出かけた。
指示の伝達仲間はクラスに何人もいた。
騒乱を終えた翌朝、東京の何処からでも友人A、友人Bを回って、寮の起床時間までには戻った。

私の主張は年間の授業料の値上げ反対、日本政府のへりくだりの無い政策を望んだ。 
1972年にはあさま山荘事件が起こった。私の頭にも雷が響いた。
在学の4年間は、左翼の政治思想、サッカー、貧乏や貧困に対する耐乏。
勉強の力不足は堪えるだけ耐えた。















2015年1月23日金曜日

ジイジイの体は、確実に好くなっている!!

退院後、9月中旬から月末までの半ヶ月、会社への出社時には妻が送ってくれた。

帰りは社長だった。
ところが、10月からは自分で歩きだした。
昨日20150119の毎週月曜の恒例の会議で、事故日より1年めの5月16日までは、私のサボリを許して欲しいとお願いした。

私の頭はそれほど緊張しているのだ。
自宅からの距離は5キロを上回る、所要時間は50分で徒歩数は8000歩。
往復だとその2倍になる。トコロガドッコイ、この2,3日に、不思議なことが突然にやってきた。

2015の1月中旬。朝、出社での道どりに足取りが急に早く軽くなったこと、帰途、自宅に着くまでの500メートルを、軽いステップ、速足で歩いても苦にならなくなったのだ。
ところが、この速足とかには気を使わなくてはイカン。
元々、運動好きの私にとって、天啓のプレゼントと思ったが、この感覚は危険なのだ。

それまでの出社は、国道1号線や旧東海道線を交えた手短いコースだった。
ところが、今年になって、県立保土ヶ谷公園を通り越すようにした。
会社への往(い)き帰りのありふれた寂しい街並みの散歩だけでは、面白くない。
生まれも育ちも、山や谷、田畑のなかで育った、山育ちの俺だ。

公園内だけでも1~2キロ、大小の樹木がたっぷり、プールやテニスコート、子供の遊び場の中を遊歩道がくねくねと整備されている。

権太坂とこの公園への坂を入れると、上り下りの激しさは横浜一番。
こんなに寒いのに、長く裸木だった枝に、小さな幼芽のふくらみが見える。白梅の花は大きな木に少しだけ咲いている、紅梅は満開だ。

写真:空から見た保土ケ谷公園
              県立保土ヶ谷公園


県立保土ヶ谷公園の概要

種別
運動公園
開設面積
34.0ヘクタール(都市計画決定面積 34.0ヘクタール)
設置年月日
昭和32年4月9日
所在地
横浜市保土ケ谷区花見台・明神台・仏向町
公共交通機関
  • 「横浜駅」西口から、「保土ヶ谷駅西口」行バス30分「保土ヶ谷野球場 前」下車
  • JR「保土ヶ谷駅」西口から、「横浜駅西口」行バス10分「保土ヶ谷野球場前」下車
  • 相鉄線「星川駅」又は「和田町駅」から、徒歩15分 主な施設
    硬式野球場 (収容14,817人)、軟式野球場、少年野球場、テニスコート(9面)、サッカー場(天然芝)、ラグビー場(人工芝)、体育館、プール(屋外)、運動広場(200メートルトラック)、オートテニス、ピクニック広場、梅園、かながわアートホール、噴水広場、植物見本園、駐車場
    問い合わせ先
  • 保土ケ谷公園管理事務所 : 電話 045(333)5515/ファックス (045)333-7901
  • かながわアートホール : 電話 (045)341-7657/ファックス (045)341-7617                                                                               頭?と言っても、脳のことだけれど、これはドーモ如何?? 白黒つくにはまだ時間がかかりそうだ。

  • でも、だ!! 頭以外の確実な回復が診られることを、この書で著したかった。
  • この他に、両手以外は100%オッケーだ。
  • 右手の肩辺りからの筋肉の痛みは、まだまだ残りそう。事故勃発が5月16日なので、1年目まではかかりそうだ、とお医者さんから言われている。
  • 大、中、小の筋肉があって、大と中の筋肉の痛みはなくなりつつあるのだが、小さくて細い筋肉だけは、いまだにチリチリと痛みが消えない。
  • チリチリだけれど、疼痛は強度。夜中、布団の中での寝返りにギクット起きてしまう。ところが、左手は大、中、小の大の筋肉が痛んだようだが、小、中の筋肉以外の痛みは既になくなったように感じている。
  • 2月28日の病院ではお医者さんによく聞いてみよう。この医師は、事故日の1年目までは私が責任をとると言ってくれている。 





  • 2015年1月15日木曜日

    孫の納骨を終えた

    20141220、15年か20年前に得た墓地に、二女夫婦にとって二番目の子供を納骨した。

    私にとって6番目の孫だった。
    お坊さんは横浜市南区の浄土真宗の寺院から来てもらった。
    保土ヶ谷区権太坂を最期の地と思っていたので、住宅以外にも墓地が必要だと妻は考えた。
    JR東戸塚駅から徒歩で20分足らずなので、私だけなら自宅から40分。墓の筋向いには、動物たちの霊園もあって、私が自宅で愛して愛したゴンもこの墓地にいる。

    少し前に、小さな命は星空に向かった。
    亡くなった人には戒名があるのだろうが、孫と書かせてもらう。
    私が幼少のころ、お世話になった人々のお墓参りを思いついて、孫の出産の少し前、京都府綴喜郡に出かけた。
    その時偶然にも、東山の峰の上空に、生まれてくる孫の名前に考えていた物が目に入り、直ぐ二女にメールした。
    二女は何だか、異常に不思議がってくれた。

    今日は、小さな骨を丁寧に扱うお坊さんの手ほどきに恐縮した。
    雨は朝からどんどん強く降ってきた。
    参拝客は猛烈に多かった。
    孫の父母、それに母の兄弟とその相手方とその子供たち。
    父の友人で長年の先輩。
    父の弟。私たちは祖父母になる。総勢は15、6人になろうか? お坊さんの説教の一言一言はよく理解できなかったけれど、嬉しかった。
    涙が流れた。

    墓前には、色とりどりのはち切れんばかりの花が添えられた。私の田舎では、葬儀に使われる花は、穏やかな緑っぽい物が多かったけれど、今日の孫の納骨は、そんなことは知るものか?と言わんばかりだった。
    僕は、涙を唯流すだけ、孫の名前を静かに呼び続けた。これしかできなかったのだ!!
    父母の悲しい表情は、当然と言えば当然なのだが、墓石に埋められた孫の兄の悲しみは、全ての人の心に響いた。小学4年生の長男・晴が、初めて見せた苦渋の涙だった。

    2014年12月11日木曜日

    俺さまの能力は50%ダウン?

    今年の5月15日正午。
    私は新しく買い込んだ中古住宅の庭に大きく立ち上がった樹木の先端部分をチェーンソーで切ろうと思って、梯子に身を置いて作業していた。
    ところが、何事にも腕自慢なのに、今回は、下手の下手の極(ごく)下手を見せてしまった。

    何かの不調子で、5、6メートルを落下した。
    落ちた場所はアスフアルトの道路。見事に頭からズド~ン。
    何が原因で、どのように落ちたのか、詳しく分かったのは、退院後、社長から写真と、コメントを受けてからだ。

    退院したのは9月の中ごろ、それから担当医師の3回目の診断を12月6日に受けた。
    この医師は入院後の私の不作法に関わらず、丁寧に説明をしてくれた。
    1回目は、診断室に入るなり、早稲田のサッカー部のヤマオカさんだ! どうかねえ!!。聞かれた内容は優しかった。

    2回目の医師は、厳しい口調で、いつになったら治りますか?と聞いたことが、頭に来たのかどうかは解らないが、アンタ、ちょっと勘違いしてませんか、この傷は治るか?治らないか?ではなく、死ぬか生きるかということなんですよ。
    気を長くして堪えることですと、強(こわ)い診断だった。

    そして3回目の6日の先生は、私のことを非常に優しく付き合ってくれた1回目の先生だ。
    先生,いつごろ治るでしょうか?の質問に、1年後の5月には何とか?決着はつくでしょう。
    それでは、100%、元のままになるのですか?

    このことについての返答は、それは絶対あり得ません。
    上手く言って、70~80%の復元。最悪の場合は50%だなあ、、、、だった。
    私は、子供の頃から、見栄を張る癖があって、実力が50しかないものを100に見せびらかして、常々優位の状態にいることで、何とか頑張ってきた。
    今回の件でも、元々は見栄を張っていたものだから、75%から80%のダウンになろうが、50%のダウンになろうが、そんなことは知っちゃいない!! 俺には俺だけの力がある、、、、、、だった。

    全身の筋肉や骨の問題は、何とかジュワジュワによくなりかけている。
    ところが頭の痛さは許してくれない。

    2014年12月6日土曜日

    おんな達で、ゲェーラァ♡ゲェーラァ

    東戸塚駅から保土ヶ谷駅に向かって2キロの範囲内に、山岡系4家族が3年前から別々に住むことになった。
    ジジイの私にとっては、思いも寄らぬ楽しいことだ。
    この喜びは、私以外の者たちも同じだ。
    今年の5月16日に滑落事故を起こし1週間の気絶状態、それからの1週間はナース裏での緊迫。

    それからは4か月近い入院生活。
    諦めることなく、立派に元のままになりかけている。
    こんな不埒な事故のおかげで、頭は少し狂いだしたような気分がしないでもない。
    私が権太坂1丁目に引っ越してたのは昭和50年を過ぎてチョボチョボ、東戸塚の駅は営業していなかった。開業したのは55年からだ。

    信濃一里塚



    東戸塚駅に2、3分で着ける絶好の地に、長男が妻と二人の孫で暮らしている。
    今年の夏からだ。
    駅のホームからも見られるほどの近さで、万一、驟雨にやられても、そんなことはへっちゃらで、エエ!!、そんな具合だ。
    新築の一戸建を大いに探したようだが、海外に派遣されることが多いので、マンションの方がいいと決めた。
    豪華過ぎるマンションで、私にとっては恥ずかしい想いだ。某大手会社の新築マンション。駅前なのに、低層だ。





     保土ヶ谷から戸塚に向かう途中に有名な「権太坂」がある。
    だらだらとした坂道を登って行くがそれほど苦しい坂ではない。

     「権太坂」では、少し街道をそれた所に「投込塚」があり、この辺りで行き倒れた東海道の旅人を葬ってある。
    そには花が飾ってあり、行き倒れた人を今でも丁寧に祀ってある。
    しかし、「投込塚」とは極めてストレートなネーミングだ。

     「権太坂」の名前の由来は、坂の名前を聞かれた耳の遠い地元の老人が、自分の名前を聞かれたものと勘違いし「俺の名か? 俺は権太だ」と答えた。
    そこからこの名がついたという、うそ臭い説がある。
    しかし妙に真実味も感じる。名前の由来には別の説もある。

     「権太坂」から「信濃坂」に抜ける。途中には立場のあった境木地蔵尊前や信濃一里塚がある。

     
    権太坂、境木地蔵
    境木地蔵尊


    権太坂改修記念像
      


    二女夫婦と孫、それに私たち夫婦の家  三女夫婦宅
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    そこから、旧東海道を江戸に向かって歩いて、10分から15分のところに、私たち夫婦と二女夫婦、それに小4年の男の子が住む本陣? 本家本丸がある。
    此奴は孫のなかで唯一の男の子。

    戸塚宿~信濃坂~信濃一里塚~境木地蔵~権太坂。と続く。
    此の家の道路の筋向かいに、三女夫婦の家。外壁が痛んできたので、現在外壁を塗り替えている。
    201412中に完成だ。

    私が工事費の一部を叩(はた)いたのはジジイの攻めの、奥の手だ。

    それから200メートル上部には、長女夫婦と二人の孫が住んでいる。
    この家は、弊社が知恵を振り絞り、住空間にしても建材にしても、この地区では負けることはない。
    土地の面積は140坪。設計士は30年来の友人でもあるS氏だ。
    2階の屋根部分を支える梁はW字型の奇抜なものだ。
    朝陽、昼間の天空からの明かりが否応なしに入ってくる。

    土地代金に建築代金、それに諸経費をたすと結構な金額になるが、それは土地の購入者で建築の発注者なら、しかたがないことだ。
    南面には、広大な芝生が、この時期に関わらず勢いよく茂っている。
    その庭には、京都に住む長女の祖母が、孫の名前の由来にもなった楓(かえで)を植えてくれた。





    2014年12月1日月曜日

    今年の「銀河鉄道の夜」は、7人で向かった



    2014 12 23(天皇誕生日)

    15:30からの「銀河鉄道の夜」を観に、東京都練馬区関町の東京演劇アンサンブルの芝居小舎に行ってきた。
    此の季節、どうしても抜けない宮沢賢治の精神。
    毎年、劇団員が私に知らせをくれるのだ。
    私は招待客として、もう30年も経つことになる。

    銀河鉄道の夜』(ぎんがてつどうのよる)は、宮沢賢治の童話作品。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。
    作者逝去のため未定稿のまま遺されたこと、多くの造語が使われていることなどもあって、研究家の間でも様々な解釈が行われている。

    今年の横浜市保土ヶ谷区権太坂地区のメンバーは、私たち夫婦と孫の3人、長女夫婦に孫が2人の4人組、合計7人組だ。
    私にとっては、懐かしい物語を観る思いなのだが、私以外の人々は際(きわ)立った掘っ立て物語を観る気持ちでいるようだ。

    劇場で貰った銀河鉄道の夜のパンフレットに、一度だけ葉山のソニーの健康保養施設でお会いしたことのある広渡常敏さんの文章があった。
    広渡さんの知り合いが私の知り合いだった。
    今回で15回の観劇になるのだが、広渡さんの話は聞くものの、現人物を理解していなかった。ここにその文章を転記して、彼の人並を知ってみたい。



    稽古場の手帳(1994年公演より)
    なにかいいことありそうな そんな夜  広渡常敏

    クリスマス公演の『銀河鉄道の夜』は今年で13回となる。
    1982年の2月に都民芸術フェスティバルの公演として、この芝居の初日をあけた。
    この年の暮、こどもたちへのクリスマスの贈りものにと、ブレヒトの芝居小屋の『銀河鉄道の夜』がはじまった。
    来年は1995年、戦後50年を迎える。
    戦後は終わったなどといったバカな政治家もいたが、それが終わっていないことを近年ますます痛感させられる。
    ---この50年をどのようにぼくが生きたか、たぶんルーズチェンジのバラ銭のようなものにすぎないだろうが、ぼくなりにこの50年を回想する。
    明日からの仕事にとりかかるために。
    なにかいいことありそうなーーーーそんな気がする。

    赤くやけたニクロム線をみつめていた。
    聖降誕祭前夜ーー今宵世界じゅうは踊っている。
    だが俺たちはイモを焼いてインターナショナルの気分をぼくが初めて感じた夜。
    さつま芋の輪切りをコンロの上に並べていた。
    敗戦三年目の1947年のイブ。ぼくは20才か。

    博多湾からの風が吹き通る城跡に建ったバラックの電気店の宿直のアルバイトをしている友人とぼくの二人。
    冷たい風が吹き込んで、芝居仲間の女子学生がやってくる。
    安吾の堕落論どう?というようなことをいう。
    安吾をやろう。
    でも賢治は?『銀河鉄道の夜』をやろうよ。
    難解だよあれは。映画ならぬ、舞台はムリよ。
    ーー遠い昔を思い出すが、いま、ぼくらは『銀河鉄道の夜』を上演しているのだ。

    『銀河鉄道の夜』のお前の舞台なんか見たくもないよ、賢治の文学からのイメージを壊されたくないから。
    古い友人の一人がズケズケぼくにいう。
    見てもらわなくっていいよ、でもちょっときくけど ”おかあさんのおかあさん”ってどういうこと? イメージ、イメージなんていう奴にかぎって、”おばあさん”だろうなんていうにきまっている。

    賢治文学のイメージを舞台に表現するなんて不可能だし、演劇の仕事でもない。
    芝居は芝居でしかできないことをやるんだ。
    『銀河鉄道の夜』を書くことを通して、賢治がたどった”作品行為”に相対(あいたい)の、演劇としての”作品行為”をつくりだすことなんだとおもう。

    四国の山の中に『銀河鉄道の夜』という酒がある。うまい! まさに”玉壷の泳”といいたい酒だ。これはほとんど賢治狂の親方が創った酒で、流石!といいたい。
    それがどのくらいうまいか、飲まなければわからない。
    飲めばわかる。大江健三郎さんのふるさとに近い町に行けば飲める。

    (1994年12月14日)

    2014年11月9日日曜日

    Wア式の神さんを愛(いつく)しむ

    賀川サッカーライブラリー Home > Stories  >


    早稲田の“主” 工藤孝一(上)
     
    昭和44年、 私が早稲田大学のア式蹴球部に入部したときに、グラウンドに大学のサッカーにどうしても相応しくないジジイがやってきて、私に対して激しい批判をしてク.ダ.サ.ッ.タ!!それは実も蓋(ふた)もない、ド,ロ,ド,ロのけ,ち,ょ,ん,ケ,チ,ョ,ンのものだった。

    ところが、不思議なことに、その激しさに寧ろ快い思いをした。例えば、紅白試合の最中に、審判にホイッスルを鳴らせ、杖をついた工藤さんがよれよれとして私の所に寄ってきて、ヤマオカとか、京都からやってきた糞五月蠅(くそうるさ)い男よ、お前の技術でもやれることはある。

    相手に自由にやらせないことだ。
    それこそが、君がやれる唯一の仕事だ。
    このジジイの息子が私と同期だったので、親父がサッカー部の神様なら、同期の息子は神様の息子になる。

    下の文章は賀川さんの早稲田の”主”工藤孝一(上)のものを拝借させてもらった。
     

    早稲田の“主” 工藤孝一(上)

    日本のサッカーが現在の“かたち”になるまでに、そのときどきに、あるいはその後の時代に影響を及ぼし、“いま”につなげた人たちを紹介しているこの連載では、ここ6ヶ月はメキシコ・オリンピックで日本の銅メダルに貢献した釜本邦茂と杉山隆一について述べました。今回は少し時間をさかのぼって、早稲田大サッカー部の名監督、工藤孝一(1909~1971年)です。
    日本にプロフェッショナルの組織が生まれるまで、最も多く日本代表を送り出した大学は早稲田。1936年(昭和11年)のベルリンの奇跡を演じた16人中10人、1964年(昭和39年)の東京オリンピックには17人中5人、 1968年(昭和43年)メキシコ・オリンピックでも16人中5人と、世界のひのき舞台で成果を挙げた代表に最も多くプレーヤーを送り込んだ早大は、ほかの競技と同様に、日本サッカーのなかでの最大勢力の一つだった。そして工藤監督は、その早大の“主”(ぬし)であり、精神的支柱だった。
    東北の岩手の生まれで、早大でサッカーに熱中し、大学での後年はマネジャーとなり、卒業後は監督としてチームに費やした。戦中、戦後の一時期、故郷に戻って、岩手のサッカー発展を計ったが、やがて東京・東伏見の早大グラウンドの近くに居を移し、生涯、早大のサッカー指導にかかわった。名利にとらわれず、ひたすら早大とサッカー一筋の人生は、名監督、名コーチといわれる多くの指導者のなかでも、稀有な存在として、早大だけでなく、古いサッカー人の心に強く残る人だった。








    選手からマネジャーに

    工藤孝一は1909年(明治42年)2月4日、岩手県岩手郡川口村(現・岩手町)に生まれた。小学生のときに盛岡に移り、盛岡中学に入学し、野球などのスポーツに取り組むようになる。1927年(昭和9年)に早稲田の高等学院に入ると、サッカーに熱中する。
    日本のサッカーは大正の末期にビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンの指導を受けて、関東でも関西でも技術が大幅に進歩し始めていた。
    そのチョー・ディンの直弟子の玉井操が、1927年当時、早大のキャプテンだった。工藤は2年生のとき、旧制インターハイに出場し、野球の経験を生かしてGK(ゴールキーパー)で活躍、優勝している。旧制の高等学校の大会に、私立大学のなかで唯一、早大の予科ともいうべき早稲田高等学院(略して早高といっていた)が出場していたのは、いまから考えれば不思議だが、早稲田の鈴木重義の申し入れと主催者の東大の新田純興たちが了解したからと伝えられている。そのインターハイで早高が優勝したことで、チョー・ディンの指導の効果が注目され、チョー・ディンの全国巡回指導が始まったことも付け加えておこう。
    早大(商学部)に進んで、ポジションはCF(センターフォワード)となったが、体が小さく、決して器用ではなかった工藤は、やがてマネジャーとなる。
    このころ監督やコーチがいるところは少なく、早大もキャプテンとマネジャーが相談して練習法などを組み立てていたから、マネジャーは単なる雑務だけでなく、練習で笛を吹き、選手の進歩を眺め、試合のメンバーを決めるのにもかかわっていたようだ。
    大学2、3年の2年間をマネジャーとして働いた工藤は、サッカーの技術、戦術の指導に打ち込むようになり、卒業すると生命保険会社に勤めたが、間もなく転職、同盟通信社(現・共同通信社)の運動部記者となり、早大ア式蹴球部(サッカー部)の監督となった。
    小石が飛んでくる猛練習


    マネジャーとしてグラウンドで笛を吹くようになった大学2年、1931年(昭和6年)には、川本泰三、高島(鈴木)保男、立原元夫、堀江忠男たちが加わり、次の年には加茂健、佐野理平、関野正隆たち、さらにはその翌年、加茂正五、笹野積次、西邑昌一たちが加わって、早大の黄金期が始まる。
    工藤監督は、これら個性の強いプレーヤーを猛練習で鍛えた。「弱気なプレーや小器用な技術は好まず、強引な体当たりをする選手を重用した」とは同期の井手多米夫年(昭和8年卒業)の話だが、体力の限界いっぱい、フラフラになるまで練習し、時には石を投げ付けるという監督の指導には、排斥運動もあったらしい。しかし、そうした強い指導力が、早大を骨太で、勝負強いチームに育てていった。
    それまで、関東大学リーグは東大が強かったが、工藤監督の下で、早大は1933年(昭和8年)に覇権を奪い、以来4年連続優勝した。
    1936年のベルリン・オリンピックには16人の代表選手のうち早大から10人が選ばれた。これは、2年前のマニラでの極東大会で関東、関西から選抜した選手で編成したチームの成績が悪かったため。個人技の優れた顔ぶれを集めるよりも、まず組織力を優先しようと、当時、日本で最も強かった早大を主力にしたのだった。
    工藤孝一はこのとき東大の竹腰重丸とともにコーチとして、代表選手団に加わった。
    主力の早大の選手一人一人の特性を知っている彼の能力が必要だったのはいうまでもない。慶応、東大、そして朝鮮半島から加わった金容植(普成専門)の選手たちとの組み合わせが成功して、対スウェーデン戦(3-2)の逆転勝利を生む。その後、工藤は日本サッカー協会の機関紙『蹴球』に“我等(われら)は如何(いか)に戦ったのか”と題する詳細なリポートを送っている。
    名選手・裵宗鎬

    そのころ日本の一地域であった朝鮮半島は古くからサッカーが盛んで、普成専門や延喜専門といった専門学校は、早大や慶応などと互角にわたり合い、優秀な選手を輩出していた。ベルリン・オリンピックの代表となった金容植(故人)は後に韓国サッカー界の“神様”として尊敬された名選手で立派な指導者だったが、一時期早大でボールを蹴ったこともある。1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)には裵宗鎬(ペ・ジョンホ=故人)が早大に入学し、次いで李時東(故人)も加わった。工藤監督の力強いサッカーへの追求と彼らのプレーが合致していたからだった。裵宗鎬――私たち世代は「ハイさん」と韓字を日本語読みにしていたこのプレーヤーは体格がよく、ドリブルもシュートも素晴らしかった。
    東西対抗に出場した西軍のGKで私より2歳年長の小畑儀宏(故人)が、裵さんのPKの強さに「蹴ったと思ったら、もうネットに入っていた」と語ったものだ。
    その裵宗鎬が1941年の早大ア式蹴球部のキャプテンになるのを承認したもの、工藤孝一監督だった。大戦直前の関東大学リーグで早大は、東大とともにリーグ1位となり、優勝決定戦も引き分けで両校優勝となった。朝鮮半島の出身者を主将にすることに懸念する向きもあったらしいが、早大サッカー部では、このことに誰も異論はなかった。もっともサッカーが上手で、統率力のある者が主将という、いまから思えば当たり前のことだが、それが通りにくい世にあっても、早大には工藤イズムが1本の芯となっていた。裵さんもまた、早大のキャプテンであったことが、終生誇りであったという。



    工藤孝一・略歴


    1909年(明治42年)岩手県岩手郡川口村(現・岩手町)に生まれる。
    1921年(大正10年)盛岡市桜城小学校を卒業、岩手県立盛岡中学に入学。
    1926年(大正15年)盛岡中学卒業。
    1927年(昭和2年)早稲田大学第一高等学院に入学、サッカー部へ。
    1929年(昭和4年)第6回全国高校選手権大会(旧制高校のインターハイ)で早稲田高等学院が優勝。
    1930年(昭和5年)早稲田大学商学部に入学、サッカー部へ。
    1933年(昭和8年)早稲田大を卒業、大同生命大阪本社に就職したが、同盟通信社運動部記者となり、早大サッカー部監督を引き受ける。
    1936年(昭和11年)ベルリン・オリンピック日本代表コーチに就任。
    1944年(昭和19年)召集、家族は郷里の川口村に疎開。
    1945年(昭和20年)復員。
    1947年(昭和22年)盛岡に移り、盛岡一高など県内の中学、高校、社会人チームを指導。
    1950年(昭和25年)岩手県サッカー協会設立、会長となる。
    1952年(昭和27年)東京・東伏見の早大グラウンドのそばに店舗併用の住宅を構え転居。以後。早大サッカー部にかかわる。
    1957年(昭和32年)早大監督となる(以後8年間)。
    1959年(昭和34年)早大・体育局講師に(以後10年間)。
    1960年(昭和35年)日本代表チームの戦後初の韓国訪問に副団長として参加。
    1961年(昭和36年)早大が海外遠征。
    1964年(昭和39年)東京オリンピック大会競技役員に。
    1966年(昭和41年)病に倒れる。早大監督を退き、チーム相談役に。
    1971年(昭和46年)9月21日死去。同23日、東伏見サッカーグラウンドで早大蹴球部葬。


    ★SOCCER COLUMN
    グラウンドでの葬儀


    工藤さんの葬儀は、早稲田大学ア式蹴球部葬として、同期の井出多米夫が葬儀委員長となり、亡くなった2日後の1971年(昭和46年)9月23日に行なわれた。まずベルリン・オリンピック代表たちが、次いで卒業年度の順にOBたちが棺を手渡し、早大の学生がグラウンドまで運んだ。ベルリン当時の監督の鈴木重義、早大OB、ライバルだった慶應をはじめ、多くのサッカー人が集まった。グラウンドの中央、キックオフ・マークに棺を置き、センターサークルを囲んで『都の西北』を歌った。棺を覆う白い布とサッカー部旗だけ。名利を追わず、ただ早稲田とサッカー一筋を貫いたこの人を送るのにふさわしい、簡素で心のこもった別れだった。
    日本サッカーの魂
    『日本サッカーの魂 追憶・工藤孝一』(発行・工藤孝一記念誌作成委員会、岩手県盛岡市本町通2丁目8番5号)が出版されたのは、1997年(平成9年)9月20日だった。
    その2年前、盛岡一高のOBが集まり、岩手県の生んだサッカーの大先達、工藤孝一の没後25周年にあたって、追悼・記念誌を作ることになり、部会誌作成委員会が設けられ、早大ア式蹴球部OB会など関係者の協力で編集、発行した。
    『日本サッカーの魂』はA5判変形、318ページで、早大の仲間でベルリン・オリンピックで活躍した川本泰三、加茂健や、早大で指導を受けた川淵三郎Jリーグチェアマン、八重樫茂生、釜本邦茂、松本育夫らメキシコ・オリンピックの銅メダル組の寄稿をはじめ、親族、故郷・岩手の友人や後輩たちが文章を寄せ、さまざまな角度から「練習のオニ」であり「戦術家」であり「選手の素質を見る目」のあった工藤さんを偲(しの)んでいる。


    (月刊グラン2002年7月号 No.100)