2015年5月17日日曜日

KANO~1931海の向こうの甲子園~

約40年前に巣立った学校から毎月届けられる学報を、真剣に読むのを楽しみにしている。

以前には、書のどの文章も蟻の糞を探すかのように好んだ。ところが、つまらぬ事故のせいで、人性の良し悪しや、考えることや想像する力が弱ってしまった。確実に、弱体してしまった。この事故というのは、今回の稿では、もう触れない。幾ら考えても思考する力は蘇らない。

そのように無力化した私に、不思議に力が湧く記事を見つけた。この記事を何とかブログ化しようと思いついたが、構成は勿論、文節から分詞、爽やかな枕詞に尻に火が付く言葉まで出てこない。

悩んでいた。

 

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2015年5月5日火曜日

糞垂れ! 俺は何をすればいいのだ!!! このgwに

                           お世話になっている新百合ヶ丘の病院

 

思えばそろそろ1年になろうとしている。昨年の5月16日の昼間のことだ。

庭木の頂上部分の枝整備をやっているうちに、バランスを失って4~5メートルの高さからアスファルト道路に落ちた。弊社の仕入れ物件だ。頭蓋骨で直撃。乱れた枝並を少しでもカッコウーをつける心算だった。事故後の約1週間の意識不明状態から、やっとここまで回復した。高次脳機能障害ってやつだ。5月20日には、お世話になった医師の診断をうけることになっている。医師の診断は何となく解っている。内容次第では、再診の可能性もある。

外傷はそれなりに治ってきたが、頭脳の構造については、自ら、十分に治っていないことも分かっている。

このままで、どれだけ頑張れというのだ!

 

今日(5月4日)は、会社の留守番は社長さんがやってやると言われたので、盆暗(ぼんくら)な時間を過ごすわけにはいかない。ならば、リフォーム前のマンションに出かけて、古くなったクロスをはがす仕事ならば、俺の器量で十分だろう、昼飯も食わずに出かけた。私の腹の減り方は尋常でない。それは横に置いて、ベランダから見える住宅街に人影が見えないのが不安だった。

助け舟もなく孤軍で頑張ることには慣れてはいるが、行楽地では家族連や恋人たちが大いに御愉しみなのだろう?それはそれで大いに、結構。でも、俺の心はどうして、どうして?晴れないのだろう。

そんな私に気がかりな文字が脳の芯にバシバシ入る。その言葉を拾っておこう。

①戦後70年の節目に行われた日米首脳会談で、オバマ米大統領と安倍晋三首相は、「不動の同盟」として安保協力を大幅に広げていくと確認した。新戦略で安保での負担共有を他国に求める米国に、「積極的平和主義」を掲げる安倍政権も呼応することになる。日米の安全保障は一体化を深め、歯止めの見えない時代を迎える。

②ナチス・ドイツが連合国に降伏してから8日で70周年になるのを前に、メルケル独首相は2日、国民に歴史と向き合うよう呼びかけた。「ナチス時代を知る責任ある」。歴史に終止符はない。我々ドイツ人は特に、ナチス時代に行われたことを知り、注意深く敏感に対応する責任があると訴えている。

③同氏はまた3日、4万人以上が犠牲となった独南部のダッハウ強制収容所の解放70周年式典で演説し、「ナチスがこの収容所で犠牲者に与えた底知れない恐怖を、我々は犠牲者のため、我々のため、そして将来の世代のために、決して忘れない」と語った。

 

 

日曜に想う(ヒトラーを清算した熟慮と自省)

ここから本文です2015年4月26日(日曜日)朝日新聞の総合2に題字の内容で、特別編集委員の富永 格が書かれていた。やはり気になって、眠り眼(まなこ)が吹っ飛びれてしまいそうな気力で読んだ。

 119763023087716411143.jpg  アドルフ・ヒトラー     hitorar.jpg

案内板ひとつで、70年前のベルリンに飛ぶのは難しい。ブランデンブルク門の南にある総統防空壕(フューラーブンカー)跡。アドルフ・ヒトラーが最後の100日を過ごした地は、ありふれた駐車場に姿を変えていた。

ネオナチの聖地になるとの懸念を説き伏せ、詳しい位置が公表されたのは9年前だ。「過去と向き合い、伝える責任がある」と。年表に見入る男性(41)は「特段の思いはない。これはもう歴史ですから」。あたりでは小鳥がさえずり、春の光が揺れるだけだ。

東からソ連軍、西から連合軍が迫る1945年春、ヒトラーは56回目の、そして最後の誕生日を迎える。野戦用ジャケットを着たまま側近と夕食を共にした総統は、独り読書にふけったという。砲撃の音が近かった。

4月30日午後、ヒトラーは前日に妻とした33歳のエバ・ブラウンと自決、後継に指名された腹心のゲッペルも妻子を道連れに後を追った。

独裁者の遺体は、ベルリンを占領したソ連軍の手で葬られた。ところが70年、ソ連と東独の秘密警察が掘り出し、焼却のうえエルベ川に散骨する。これまた将来、心酔者が墓前に集まらないようにという用心である。

痕跡までが危険視される男を権力の座に押し上げたのは、ほかならぬ自由選挙だった。28年、国会に初挑戦したナチスへの支持は限られたが、翌年、米国から大恐慌という神風が吹く。

第一次大戦の報いを背負うドイツ経済は、米国資本の徴収で沈んだ。工業生産は3年で4割減、労働者の3割、600万人が失業する。苦しむ大衆をとらえたのが、反ベルハイユ(戦後)体制、反ユダヤの宣伝だった。

ナチスは30年の選挙で躍進、32年には4割近い選挙で第一党となり、翌年政権を奪う。ここまでの物語は国民との合作、あとは独り舞台である。

ヒトラーの流儀は排除弾圧だけではない。娯楽と宣伝目的のラジオ普及、アウトバーン(高速道)建設や軍需による雇用拡大、ベルリン五輪、フォルクスワーゲン(国民車)構想ーーーー。硬軟両用の施策で民心を取り込み、盤石の翼賛体制を築き上げた。ここに教訓が横たわる。独裁志向の人物や集団にひとたび託せば、彼らは言論を封じる一方で甘言を弄し、国を意のままに操るだろう。選び間違えたツケはいずれ国民にまわる。少なくとも暮らしで、ともすれば命で。

懲りた欧州では、扇動の弁舌はそれだけで怪しまれる。とりわけヒトラー清算にかけるドイツの決意は絶対だ。

独北部で、アウシュビッツ強制収容所元職員の裁判が始まった。簿記係だった被告は93歳。4年前には91歳の元看守に有罪判決が下されている。怖いほどのけじめである。

良き職人に再生すべく、ドイツは欧州統合に従い、リーダーになった。周辺国との関係でも94%が「うまくいっている」と考える(日本は46%)。単純な比較は戒めたいが、たゆまぬ自省があってこその到達点だろう。

先ごろ87歳で亡くなったドイツのノーベル賞作家、ギュンター・グラス氏が、死の直前スペイン紙の取材に語ったという。「我々は同じ間違いを犯す恐れがある。夢遊病者のように世界大戦に突き進むかもしれない」と。

同氏の代表作「ブリキの太鼓」は、台頭するナチスの狂気を少年の冷徹な目で描いた。ナチ親衛隊員だった過去を告白したのは晩年である。ガウク独大統領は「彼の作品は人々を動かし、熟慮へと導いた」と悼んだ。

熟慮は自省に至る。胸中で書いては消し、読み返して改める教訓の数々。同じ過ちを繰り返さすよう、たとえば政治、教育、メディアはどうあるべきかを自問する精神作業である。

我が国もまた、扇動と迎合の果ての地獄を経験した。歳月は非情だが、せめて世代を超えて語り継ぎ、思いを巡らせよう。肌が知らない教訓は、面倒でも頭で迎えに行くしかない。

2015年4月2日木曜日

気骨な才媛の勤め先を訪問した

3月27日の金曜日の昼、20年前弊社にも勤続したUさんに会いに出かけた。10年近く働いてくれた。彼女の働き場所は横浜地下鉄の上永谷駅前だ。

先日、私の二女が産んだ子供のお祝いに、どんな動物のお産に必要な物?を持って来てくれた。そして、その後、1週間後再びまたもや同じ品を?持ってやってきてくれた。彼女は、見かけが良く頭が良く、働き者だ。何よりも根っからのスポーティなのだ!

Uの会社で、二人の今までのオツキアイを話すことは、万巻の書に十分値する、と子供時代の友人は言っていた。その熱いオツキアイの話をここに、書き揃えてみよう。余りにも熱い内容だったので、聞き捨てするわけにはいかない、、、、、、のだ。

彼女は生まれつきのスポーツが大好き人間。私は昭和49年に全日本大学サッカ選手権で優勝した。二人は双葉関係?双葉蒼(ふたばあおい)似ということからこの稿は始まる。

茨城県のとある街で生まれた。理想とする人物像は、スポーツができて勉強もできる、そんな女学生だった。ところが、高校生の時にスポーツ虫が暴れ出し、そのエネルギーはハンドボールに向かった。生まれながらの性格から一所懸命に頑張るのは、当然と言えば当然。彼女が出場している試合風景を、ある電気会社のハンドボールの監督が観て、その監督さんに呼ばれることになった。俺の会社で、一緒にハンドボールをやろうよ、という具合だ。

Wikipediaより、、、ハンドボール (handball) は、7人ずつの2組がボールを相手のゴールに投げ入れて勝負を競うスポーツである。走・跳・投という運動における基本3要素を求められ、さらにボディコンタクトという格闘的な要素も含まれる総合スポーツであり、ダイナミックなシュートシーンやスピーディな試合展開が魅力となっている。

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大学進学も諦められない夢だったが、今は勉強よりもスポーツだ、とこの監督に身を委ねた。思い通り、お世話になったチームは、国内では高順位に居るだけに練習は激しかった。筋肉や神経は破裂寸前、破滅まっしぐら! なんとか、精神状態だけは正常に維持していくことが先決。私のコ・ン・チ・ク・シ・ョ・ウ魂を、私を育ててくれた父母や祖父母、友人、近所の人々、学校の先生方に表意したかった。

寮生活は凄まじいものでした。1階、2階、3階とはそれなりに住み込む人間は違っていて、上階へ行けば行くほど居丈高、精神がキュウキュウすることもあった。精神はゴロゴロに丸く納まった。工場で働くことはほとんどなかったけれど、練習時間の多さや凄まじさでは、さすが○□△●■▲電気と言われるだけあった。練習場に屋根や壁がなければ、猛烈な血しぶきが吹っ飛んだことだろう。 

そんな激しい生活の9年目に、胸に病気が発生した。今まで通りの練習はできなくて、しょうがないからマネージャでもやれと言われた。今までの充実した日々ではなかったので、毎日が苦しかった。

こんなことでは、どうすることもできないではないか?その解答として、アメリカで語学を学び、此処でも又、我を忘れて学ぶことだ、と決めた。臥薪嘗胆、腹をくくった。この想いに心は揺さぶられた。完璧には学びとることはできなかったが、過ごした数年間は夢のようなものだった。

帰国して何をやるかと考えたが、私のような勉強好きの頑張り屋の就職さきは、これしかないと思われるものはなかった。世評や日本の経済状況から、不動産や建築を扱う宅地建物取引業と建築業が華々しくて、専門的な仕事を扱う土地建物取引主任や設計士などが話題になった。これしかない、と決めた。

この場に及んでもやる気が湧いて、この決戦に挑もうとするのは、イット、イズ、ナチュラル、フォー、ミーだ。

土地建物取引主任資格に受かってから、入った会社は横浜駅の傍。社長の最終学歴はは東京大学の何とか学部で、彼には彼なりの事情があったようで、決して甘い生活をしていなかった。そのうち二級建築設計にも受かった。東戸塚に面白い会社があるんだよ、社長と専務が早稲田大学で、やることなすことが奇抜過ぎるんだ、とよく話していた、そこで私を知ったらしいのだ。それから、彼女の頭に私たちのことが噴出した。

そんなことでわが社のことを、こっぴどく知るようになった。それからの私たちのお付き合いは、誰もが入り込めないほど激しい交流を重ねた。

仕事のことは言うまでもないが、仕事以外のことでもアーでもない、コーでもないと話した。

昨年の5月16日、私は4~6メートルの高さから、アスファルトに落ちて気絶をした。4日間の気絶状態。そんなニュースを知ったならば、そう簡単に顔を出せないことはよく理解できるが、今年になって、ヤマオカは比較的にうまく生き延びたそうだよ、と聞いた。魔法の卵をいっぱい持って、二女の次男誕生を祝いに来てくれた。ついでに、俺も傍にいれば、尚、ケッコウだったのだろう。

 

 

 

 

 

 

2015年3月15日日曜日

息子との貴重な宴会に酒鬼が!!

3月7日の土曜日の夜、7時半ごろから、権太坂に住む二女家族と東戸塚の駅前マンションに住む長男家族との宴会をやった。狙いは、青森県八戸のLNGから久しぶりに帰ってきた長男家族を迎えるためだ。賢妻と小さな女の子2人は、長男を迎えに雪の国に行っていた。三衣一鉢、雪の中でのプレーを楽しんだようだ。

お父さん、日本には面白い所がいっぱいあるよ、こんな所でいつまでもぐずぐずしている場合ではないよ! 八戸での仕事中に、入社10年のご褒美をもらったようだ! とご本人は自覚自賛。会社のやることは好いか悪いかしらんが、面白いことをしてくれるんだ。1か月の丸々グータラ休み。

俺は、昨年の怪我の後遺症、宴の半ば、早く布団に入っていた。そこにビビラービーラ、我が携帯電話に警戒オア豪快音?。逃げようたって、逃げられない。丁丁発止、含みのあるねちっこい音。発信主は!そう簡単には切ってくれない。瞬間、この発信源は何処からだということぐらい、瞬間的に分かった。

奴らだ。あのサッカー部の後輩たちが、試合後の酒惚を振らしたようだ(カナシイ、でもヨロコブ)。この俺が出席していないことに、奴らは怒りだしたのだ、、、、(ワライ、そしてクヤシイ)。みんなと話す内容の悉くは、私の回復力に対するご褒美だ!! 次回は必ず出席することを誓った。

1年に1度、静岡、神奈川、山梨で我が大学のサッカーの後輩たちが催す同窓会だ。私よりも後輩がメイン。過去の思い出に花を咲かせ、温泉につかってお酒をいただく。もう30年は続いていることだろう。この日、4試合して4試合とも勝ちましたとは、どうしても信じられない話だ?

俺だって、早くみんなに会いたい。

ところが、私の頭は回転しない。事故発生の5月16日になれば発生後1年になる。脳の回転はかっての50%まで復活さえすれば、御の字だと医師から言われている。その、イイ方までいかなくっちゃ。体の一部一部が、思いのまま動かない。少しの動きだけで、細かい神経がビリビリする。

 

2015年3月12日木曜日

6人目の孫、力強く生まれた!!

平成27年2月23日(月)、私の4人いる子供の2女が、真夜中1時ごろ、3050グラムの男子を安産した。2女にとって二人目の男の子だ。この出産を、一番喜んでいるのが長男の晴、そして父、そしてそして母だ。私にとっては、6番目。7番目は3女から今年の8月に予定している。

この2月23日というのは私の妻の父(義父)と同じ。亡くなって20年以上経つことになるが、私にとっては好い義父だった。2女の1年前の出産では、私たちには思いも寄らないことが起こって、楽しく過ごすことができなかった。そのことがあって、今回の出産の全てのことは、神奈川県立こども医療センターにお願いした。子供は極めて健康で、生まれてくるや沢山飲んで、沢山寝る。私の周りの子供を産んだ経験のある者さえ、これは驚天動地!と驚いている。

 

先日CFを観ていたら、下のような文章に気づいた。生まれてきた子供の父母や兄、私たち祖父母にとっても、良い記事かもしれない、と思いきや?書き留めた。

○基本性格=警戒心が非常に強く用心深いので初対面の人等には猫をかぶって接したりします。しかし、いったん警戒心がとければ自分の素を出してきますので、最初と慣れてきてからの印象が結構違ったりします。意外と行動力がある人で勘も鋭いので、仕事やギャンブルなどで大きな結果を出すことができますが、警戒心が強すぎてすぐに行動に移らないことからミスミス大きな得を逃してしまうようなことも多いようです。考え過ぎて損をするタイプです。
知り合ったばかりの頃はまったくそのような印象がない場合が多いですが、結構世話を焼くのが好きな人でもあります。とにかく気心が知れるまではこの誕生日の人の評価をすることはやめておきましょう。

○金運=ギャンブルなどでもしっかりとした裏打ちがあってから初めて賭けるなど、非常に用心深いやり方が目立ちます。そのようなやり方ですから当然大儲けはできません。基本的に財布の品もは締めがちですが、出すべき時はそこそこ出します。ケチと普通のはざまといった感じでしょうか。

○健康運=体調が悪い時は悪い方にしか行かず、良い時はとことん良い方向に進んでいきます。良い方向に進んでいる時は良いのですが、体調が悪い方向に進んでいる時はしっかりとした自己管理が必要となって気ます。どうにも体長の流れに流されやすいようですので、自分の生活習慣などしっかりと見極めて普段から自己管理して行きましょう。

○2月23日が誕生日の男性の恋愛傾向=小心者なので気に入った人がいてもなかなか自分からアプローチすることができません。しかも、何とか相手に自分をアピールしようとしてもうまくいきません。アピールとアプローチがド下手です。ですが、根気強くアタックし続けることができる人ですから、しっかりとした誠意をもって相手に想いを伝え続ければ結果はついてくるでしょう。自分の恋の不器用さは、誠意でカバーです。もっとも、その前にストーカー扱いされたら潔く引きましょう。ストーカーは犯罪です。
うまいこと交際が進んでいけば、プロポーズは大胆なことができるでしょう。もっとも、大胆なプロポーズができるくらいに気心が知れていないと、結婚を申し込むようなことはしないでしょうが。
結婚後は愛妻家かつ子煩悩なアットホームパパとなること間違いなしです。

2015年3月8日日曜日

ジジイの頭は、本当に大丈夫か?

平成27年3月18日(水)の午後。 昨年5月16日に怪我をした私を、当初から今に至るまで、お世話になっている病院に行くことになった。担当の医師は、脳神経外科のプロ医師だ。

毎週月曜日の8時半頃から3時間、さかのぼる1週間の仕事の報告と管理、これから1週間の全ての物件の作業の打ち合わせをするのだが。私にとって、そんなことも重大な御愉しみの一つだ。知らないことを知る、これからやることを再検討。何もかもが面白いのだ。

ところが、先週の会議を終えたあと、頭全体が重たく感じて、何故か体温が熱く感じた。熱くなったからと言って、頭の一部分が強く激しく、鋭利に痛さを感じるわけではない。鈍痛(ドンツウー)と言えばいいのだろうか?静かに重く感じるのだ。こんな感じがこの2か月、ずうっと同じ。

まさか、ある日?のある時間?に、ポツ~ンとこの世を去り、あの世に逝ってしまうってことはないだろうな? と。夜中、目覚めした時に思うようになってしまった。

怖い、怖いぞ。何があるのか解らない。言いだしっぺの素性も、幽霊の思惑も何も解らないのが、コ・ワ・イ・のだ。

2015年3月5日木曜日

ボーン・上田賞、朝日新聞の杉山記者に

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(紛争下のマリからニジェールに逃れてきた子供たちと杉山記者=2013年5月、中野智明氏撮影)

 

さすが、朝日新聞報道部!! 

こんな記事を見せてくれるから、”好いこと悪いこと”騒がれ五味三昧(ごみざんまい)”の朝日新聞だけど、好きなんだ。

国際報道で優れた成果をあげた記者に贈られる今年度のボーン・上田記念国際記者賞に、朝日新聞国際報道部の杉山正記者(39)が選ばれた。杉山記者はアフリカで絶えない紛争の最前線に迫り、人々の怒りや絶望、悲しみ、希望といった思いを読者に伝えてきた。

この後は、2015 2月21日朝刊の記事を丸写しだ。

 

 

上田賞に輝いた杉山記者より、「事実に近づくために」

在任中の3年でパスポートの100ページ以上がスタンプで埋まった。紛争現場の取材は20回以上を数える。内戦状態の中央アフリカでは、レイプされた8歳の少女が「叫んだけど誰も来なかった」と言った。ソマリアなどでイスララム過激派組織の戦闘員だった人々にも会った。憎悪と絶望が渦巻く。悲惨な状況を書き、記事が載っても人々の痛みは消えるわけではない。私は複雑な思いを抱えていた。

では、なぜ現場に行くのか。伝聞や間接情報に頼りきれば、本質を見誤る場合がある。自分が見たものを積み重ねて書いていくのが、事実に近づく唯一の方法だと思う。理不尽に命を奪われた人たちの無念家族の悲しみは、遠いアフリカで公表された死者の推計数字では伝えられない。

紛争では場所を変えれば被害者と加害者が逆転することもある。そして、「勝者」が憎悪を決め、ストーリーを作ってしまう。「勝者」と「敗者」のどちらかに偏らない、一つの側面だけではないものを伝えようと思えば、現場取材を重ねるほかないと思っていた。

ただ、どんな取材をしようと、無事に帰れなければ最大の失敗だ。自分だけではない。通訳など一緒に働く現地の仲間の安全が大切だ。危ない場所は日々変わる。地元の信頼できる人たちから最新の情報を集める。通る道、泊まる部屋の位置など細かい点にも気を配り、労力の大半をかけた。そして、焦らない。一定の安全を確保できないと判断し、直前に入るのをやめた現場はたくさんある。

今回、評価を頂いたのは紛争関連の記事だが、そのテーマにとどまらず、国内外で、書かれる側の痛みを考えながら、顔が見える記事を書き続けたいと思う。

 

ボーン・上田記念国際記者賞とは

報道活動によって国際理解に貢献したジャーナリストに贈られる賞。報道を通し日米交流に尽くしたマイルズ・ボーン・UP通信社副社長(当時)と上田碩三・でんつ電通社長(同)を悼んでつくられた。米国のピュリツアー賞にならい、日米ノメディア有志が資金を出し合い、1950年に「ボーン国際記念賞」として始まり、78年度の賞から現在の名称になった。

 

南スーダンなど紛争地取材

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杉山記者は2011年から昨年までアフリカに駐在。等身大の姿を伝えようと、22カ国を訪れた。昨年の記事の内容の一部を紹介する。

1月26日付と28日付の朝刊では民族紛争下の南スーダンの実態を報じた。

激戦地ボルでは無数の遺体が放置され、市民は自動小銃やチタで武装していた。農家のフィリップ・アチャックさん(32)は「家族を守るために銃を持っている(敵対民族)は絶対に許さない」と言った。

市場は破壊され、略奪されていた。洋服店を営むビオル・マシュさん(24)は、叔父を殺され、「ここまでやられて民族の和解などできるものか」=図中①と語った。ボルノニアル・マジャック市長は「人道援助が全く届いていない」(同②)と訴えた。

4月6日付朝刊では、「民族対立で80万~100万人が殺されたルワンダの大虐殺から20年を機に、悲しみを乗り越えようとする人々の姿を報じた。

シャンタルさん(46)は当時、民兵に襲われた。赤ん坊の双子と逃げたが捕まり、一人は棍棒で殴られて死んだ。もう一人は9歳の妹が抱えて守ったが、妹はナタで切られて死んだ。

シャンタルさんは、民兵から次々と性的暴力を受けて妊娠し、女の子が生まれた。夫は「どういうことがあっても自分の子だ」(同③)と言い、「父の子」の意味の「ウワセ」と名付けた。19歳になった学生ウワセさんは6年前、出生の経緯を聞いた。「何度も死のうと思った。しかし、両親の愛情を考えると前に進もうと考えた」(同④)

武装勢力「ボコ・ハラム」による女子生徒らの誘拐やテロが多発するナイジェリア。5月27日付朝刊でおびえる人々をルポした。

北部のカノでは、商店主のスティーブン・ヌウォゴさん(43)が爆破テロで12歳と8歳の娘を失い、「娘たちは勉強が大好きだった。テロが娘たちの、私の未来を奪った」(同⑥)。

別の爆破テロ後に建て直された学校に机はなく、子供たちは床に座って学んでいた。女子生徒ラビ・アラソンさん(15)は「襲撃は怖いが、勉強を続けて家族や社会の役に立ちたい」。

イスラム宗教学者タウフイック・フセイン師は「人々には『ボコ・ハラム』と言うだけで、狙われて殺されるという意識が強い。口に出すだけでも恐怖を覚える」(同⑥」と語った。

(上記に記載された期日は、朝日新聞の東京本社最終版のもの)