2015年8月16日日曜日

昭和天皇の「大東亜戦争終結に関する詔書」

1954年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、社団法人日本放送協会(当時)にてラジオ放送された、昭和天皇による終戦の詔書が、新聞やインターネットなどで知り得たことをここに拝借させていただいた。

 

玉音放送

(原文)

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日

内閣総理大臣鈴木貫太郎

 

 

   (現代語訳)

私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。

私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。

そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けて           いるものである。先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すよ    うなことは、もとより私の本意ではない。

 しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。

 それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。

 私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。

 考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。

 私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。

 まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。

 

 

背景

ポツダム宣言の受諾決定

太平洋戦争大東亜戦争)に於いて日本の敗色が濃くなっていた1945年(昭和20年)8月上旬、6日の広島への原爆投下、9日未明のソ連対日参戦、同日の長崎への原爆投下を受けて、政府内部では1945年7月26日イギリスアメリカ合衆国中華民国の連合国3国の首脳により発されたポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。

9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議では、鈴木貫太郎首相はじめ米内光政海軍大臣及び東郷茂徳外務大臣天皇の地位保証(国体護持)を条件として、阿南惟幾陸軍大臣及び梅津美治郎参謀総長はさらに幾つかの条件を付けた上での降伏を主張した。

午前10時から断続的に開催された会議が終了した後、鈴木首相は天皇臨席の御前会議として再度最高指導者会議を招集した。10日午前0時から宮城内御文庫[1]地下の防空壕において開かれたこの御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定された。

連合国軍への連絡は午前6時45分から中立国であるスイス及びスウェーデンの日本公使を通して行われている。スイスルートは、駐スイス加瀬俊一公使よりスイス外務次官へ手交、スウェーデンルートは駐スウェーデン岡本季正公使より、スウェーデン外務大臣へ手交された。この時に、東京とスイス・スウェーデンの間で交わされた一連の電報は、国立国会図書館の「ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」において閲覧することができる[2]

陸軍内の動揺

御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」(「日本の無条件降伏」ではない)という項目があり、陸海軍は組織存亡の危機にたっていた。午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべきだと匂わせた幕僚に対し、陸相は「不服な者は、まずこの阿南を斬れ」と陳べて沈静化を図った。

8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は連合国の回答を放送した。この中では日本政府による国体護持の要請に対して、「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする」と回答されていた。外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「隷属するものとす」であると解釈し、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唱える声が多半を占めた。不満を持つ将校達の指導者格であり阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は、阿南に終戦阻止を求め、さらにそれが無理であれば切腹せよと迫っている。

午後3時から開催された皇族会議の出席者たちは概ね降伏に賛成したが、同時刻の閣議および翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。閣議において最後までポツダム宣言に反対していたのは、阿南と松阪広政司法大臣安倍源基内務大臣の3名であった。しかし、午後3時の閣議においてついに回答受諾が決定された。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。阿南陸相は「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、一同を解散させた。

8月12日

午前9時、近衛歩兵第二連隊第一大隊が完全武装で宮城(皇居)に入城する[3](その後宮城(皇居)から出ることなくクーデターに参加)。

8月14日

東京国立近代美術館工芸館
(旧近衛師団司令部)

午前7時に陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長の会談が行われた。この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南もこれに賛同した。一方で鈴木首相は陸軍の妨害を排するため、御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍民の要人数名を加えた会議を招集した。会議において鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけると述べて会議は散会された。同じ頃竹下中佐及び畑中少佐は、陸相及び参謀総長に否定されたクーデター計画案に替わる代案「兵力使用第二案」を練っていた。

閣議が始まった午後1時頃、社団法人日本放送協会会長大橋八郎内閣情報局に呼び出され、「終戦詔書が天皇陛下の直接放送となる可能性があるので至急準備を整えるように」と指示を受けている。

午後3時過ぎ、畑中少佐は東部軍管区司令部の田中静壱大将に面会を求めた。彼は東部軍のクーデター参加を求める予定であったが、入室した途端に田中大将に一喝され、萎縮して一言も喋らぬまま帰途についている。昭和天皇による玉音放送の録音は午後11時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤(玉音盤)は徳川義寛侍従に渡されて皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。

8月15日

玉音盤
厳密には、放送で使用されなかった1回目の録音のもので、
NHK放送博物館で保存されている。

決起

午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁及び放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。

井田中佐と椎崎中佐は、近衛第一師団司令部において第二総軍参謀白石通教中佐(森師団長の義弟)と会談中であった森赳師団長に面会を強要しクーデターへの参加を求めた。井田の記録によると、森師団長は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束したとされる。井田中佐はこの言葉を聞き一時部屋を退出したと述べている。

入れ替わりに師団長室に入った畑中少佐は、しばらくすると部屋を出てきて、この日別件で近衛第一師団司令部を訪れていた航空士官学校上原重太郎大尉及び同志である陸軍通信学校窪田兼三少佐を引き連れ再度入室した。畑中少佐は無言のまま森師団長を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺した。同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺された。森師団長と白石中佐の殺害の詳しい経緯については、窪田少佐が東部憲兵隊で聴取を受けた際の聴取記録が残っており、概ね明らかである[4]

宮中占拠


ウィキソースに
近作命甲第五八四號の原文があります。

この殺害後、師団参謀の古賀秀正少佐は畑中少佐が起案したと考えられる近作命甲第五八四号を各隷下部隊に口頭下達、近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。ただし古賀少佐がクーデター計画にどの程度積極的に関与したかについてははっきりとしていない。また、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。宮内省では電話線が切断され、皇宮警察官たちは武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は第二大隊長北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸内大臣は金庫室などに隠れて難を逃れた。

井田中佐は水谷一生参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区第十二方面軍)のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官及び高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森師団長の殺害を知り畑中少佐らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。芳賀連隊長はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打されている。宮城を離れた畑中少佐は第一中隊の占領する放送会館へと向かい決起の声明の放送を要求したが、職員の機転によってこれは防がれた[5]

鎮圧

日が昇ってすぐの午前5時頃、東部軍の田中軍司令官が自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めた。連隊長のそばに居た近衛第一師団参謀石原貞吉少佐は東部憲兵隊により身柄を保護された(逮捕されたのではなく、石原は当日夕方には師団司令部に復帰している)。

午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。その頃陸相官邸では阿南陸相が自刃した(「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もあり[6])。竹下中佐は陸相印を用いて大臣命令を偽造しようと井田中佐に示唆したが、井田は既にクーデターの失敗を悟っていた。

田中軍司令官は乾門付近で芳賀連隊長に出会い兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらに宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝えた。これを境にクーデターは急速に沈静化へと向かった。このとき既に畑中少佐らは断念しており田中大将が鎮圧したという俗説は誤りであるとの説もある。放送会館では東部軍からの電話連絡を受けた畑中少佐が放送を断念し、守衛隊司令部では拘束されていた下村情報局総裁らが解放された。午前8時前には近衛歩兵第二連隊の兵士が宮城から撤収し、宮内省内の地下室に隠れていた石渡宮相と木戸内大臣はここを出て御文庫へと向かった。

2枚の録音盤は皇后宮職事務室から運び出され、無事放送会館及び第一生命館に設けられていた予備スタジオへと運搬された。運搬に際してもいかにも正式な勅使らしい偽物を仕立てつつ、本物は粗末な袋に入れて木炭自動車で運搬するという念の入れようであった。最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐と畑中少佐は宮城周辺でビラを巻き決起を呼び掛けた(佐藤大尉と藤原憲兵大尉が撒布したとの証言もある)が、午前11時過ぎに二重橋坂下門の間の芝生上で自殺した。また古賀参謀は玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自殺した。

午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われた。

上記のようにクーデター首謀者中の生存者である井田中佐および稲葉中佐等の証言では、自分達より階級の低い自殺した畑中少佐が森師団長殺害以降のクーデターを主導したと示唆されている。

その他の動き

他にも、「皇軍の辞書に降伏の二字なし」として徹底抗戦を唱え、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとして、尾崎嘉男上田雅紹村中諭川島吾郎など勤労動員中の横浜高等工業学校の生徒達によって編成された「国民神風隊」が、同日の午前4時30分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、鈴木首相や平沼騏一郎枢密院議長、木戸内大臣、東久邇宮稔彦王らの私邸にも火を放った。

戦後

事件鎮圧の功労者である田中東部軍管区司令官は、8月24日の夜に拳銃で心臓を打ち抜き自殺した。田中司令官は戦時中に宮中への空襲を許したことなどに責任を感じており、24日に発生した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐や予科士官学校生徒による川口放送所占拠事件の解決を気にした行動であった。

近衛第一師団参謀の石原貞吉少佐は、8月15日に発生した水戸教導航空通信師団事件の一部である上野公園占拠事件に際し、第十二方面軍参謀神野敏夫中佐からこれの説得役を依頼された。これは水戸から上京した部隊の指揮官岡島哲少佐が、石原少佐の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子だった縁による。8月19日に東京美術学校に赴いた石原少佐は、説得に納得しない林慶紀少尉によって拳銃で射殺された。石原少佐の遺体は同夜近衛第一師団司令部配属憲兵の境芳郎憲兵曹長により収容された。戦後になり石原少佐は勲四等に叙せられ、靖国神社にも合祀されている。

一方、森師団長殺害のキーパーソンであり、また兵力使用計画に関与した井田中佐は、15日に陸軍省で自殺する決心を固めていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。戦後は電通に入社し、総務部長及び関連会社電通映画社の常務を勤めた。戦後の31年になり離婚して岩田に復姓している。同じく兵力使用計画に関与した稲葉正夫は防衛庁戦史編纂官を経て防衛研究所で研究員を勤めた。

事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法及び刑法に違反する行為を行なったにもかかわらず、敗戦とそれに伴う軍組織の解体などの混乱により、軍事裁判にかけられることも刑事責任に問われることもなかった。

2015年8月13日木曜日

7番目の孫が、誕生した!

私たち夫婦の4番目の子供に、初めての子供が生まれた。

直系の孫としては7番目になる。
長女に2人、長男に2人、二女に2人、そして今度の三女の仔だ。有難いことに、どの孫にも些少な悲しみごとはなく、唯、嬉しいことのみ。
大きく伸び伸びしていて、これからの時勢はオイラに、私たちに任せておけ、こんな顔つき。
言葉使いだって、仕種だって、そのようになりそう! 何とも言えぬ喜びで、青空に飛び上がりたくなることもあるし、時には海の底をどこまでも深く泳ぎたくもなる。

昨日、娘と孫が病院から自宅に帰ってきた。
この4番目の私の子供は、父の私だって、何が?どうして?そうなっちゃの?と驚くほどイイ仔なのだ。
山岡版「珠玉の瓦礫に在るが如し」か? 
先生に対する応対の仕方などは、兄弟のなかで、ガントツ? ピカイチ? 友人たちとのお付き合いについても、他の者にも慣(ならわ)したい、そんな変わり身のない程変チョコリンな!好人物だ。

小中高、それからの美術系の専門学校での生活について、我が家以外にも肝を冷やした人が多かった。勉強、スポーツ、趣味、美術に関する興味は、天下一品の親分肌だった。

20150812(水)、昨夜8時頃、目をぱっちり開けたので観に御出(おい)でよと呼ばれて、道路向かいに住んでいる爺(ジジイ)は参会、孫との会話を楽しんだ。

お前のお父さんは帰りが遅いので、それは、しょうがないよね。帰ってきて、顔を見てぐじゅぐじゅ言っていたら、寝不足になっちゃよねーーーーーーーー、とか、何とか言いながら遊んでいたら、玄関ドアがガタ~ンと開てーーーーー「ただ今」だった。 ーーーー孫の父がいつもの時間よりも4時間も早く、帰ってきた。

どうしたんだ?の質問に彼が答えたのが彼風(ふう)で家の中は華やいだ。
社内で毎夜続く会議において、彼はそこで話題になった布や皮、金具を仕入れる担当なのだが、今日より2,3日前からはその提供会社がお盆休みに入っているので、私は「お役は御免」状態になっちゃいました。
余り、会社では言えないことなのですが、嬉しい次第ですわ!!

2015年8月6日木曜日

あんなに嫌だった防大グラウンドだ

20150805、定例のお休み日。

休日は相変わらずの農耕地に行くことにして、そこで逞しく働いた後、横須賀市走水にある防衛大学校のグラウンドに向かう予定だった。但し、この予定は前日までのお話。この農耕地というのは、衣笠に2か所あって、果樹を育てている。2か所とも、10年以上前に取得したものだ。荒地に鍬を入れ、草を採り、雑木を除いた。小さな草さえ根から捥(も)ぎった。

 

飛行機上から撮影した防衛大学校

防衛大学校

防衛大学校、50年前なら、こんな大学からどういう幸運が得られようとも、行くものか、と決めていた、その大学のグラウンドに向かった。今日は大学の後輩の「大林」君が、教諭として教え子を引率してきた。今じゃ、大和地区にある公立高校の体育の先生だ。神奈川県の教諭としては、日本代表チームとしての経験もある、貴重な人材だ。守りには強く堅く、攻撃には逡巡で果敢。大学を卒業して何年も経つ私には、入部当初にウイングのエリアから体で相手を先ずは殺し、そして長刀(なぎなた)を天守閣に擲(なげう)つ、その姿に感動した。何から何まで不思議な後輩で、目も触れられない程、恐ろしかった。

その彼が学校のクラブに入部したのは、今から50年前。私が卒業して数年後のことだ。このときの奴らのプレーが堪らなく愉快だったので、私はすっかり虜(とりこ)になってしまった。とくにその中でもこの男、「大林」がド外(はず)れて、こっ酷(ぴど)く抜けていた。その集団が、絶えることなく、閏(うるう)ことなく、エネルギーを発しまくった、その勢いに私は嵌(は)まり込んでしまった。

その嵌まり込んだ風情は、試合を観に行くことだけでは、スマサレメエ。彼達が主催する宴会にも度々出かけた。ジンギスカンや秀吉や野武士たち、のた打ち回る連中の宴会は凄まじいものだった。我が大学においても、掛け替えのないものであったろう。私も、当然準員のひとりだった。そんな仲間のボスが「大林」君だった。

学校を卒業して日立製作所に入社した。日本の代表選手として出場したゲームには必ず観に行った。だって、この男は俺の男だぐらいに思っていたからだ。それから転職、神奈川県の教職員の試験を受ける前に、我が家で前祝をした。そして受かった。

 

彼のことを「大林」君とか、いろいろ表現しているが、嘘八百と思ってもらいたい。先輩として彼の誇りを守りたい。

2015年7月30日木曜日

サッカーが好きだった!!

早稲田大学大隈講堂

                     都の西北大学

 

45,6年前、都の西北大学? に在学中は、唯、只管(ひたすら)サッカーをするためだけだった。勉強をするためにその大学を選んだわけではない。何とか、入試という障害を乗り越えられたのは、千中八九のマグレだった。私の高校サッカーは、平等院では名高いが、サッカーでは鄙(ひな)びた地域だったので、大学に入って思いっきり優秀な戦果を得られるなんて、想像もできなかった。思いつきでさえ、できなかった。勉強だって、それぁ難しい勉強に手は出せなかったけれど、私にやれるだけのことは、やった。専門的な部分は× 端折った分野について手当り次第に本は読んだ。

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入部当初、技巧は貧しく、技量も素人にチョビット髭(ひげ)が生えた程度で、大学時代の成果なんて露ほども想像できなかった。だが、、、でも、、、希望はあった!、、、全日本に幾つかある大学のなかで、チャンピオンになることだった。当然、そのチームの一員として出場することは、絶対条件だった。ところが、どっこい、不(あん)に図(はから)ず、4年生になって、昭和48年の全日本大学サッカー選手権と関東大学サッカー選手権の2冠を得たのだ。試合には、出場させてもらったこともあるが、観覧だけのことが大半だった。優勝した夜は寮の電話を無料で使わせてくれた。郷里の父や母にことの重大さを輪にかけて熱っぽく話したけれど、う~ん、ヘ~ と生返事が返ってくるだけだった。

入部できたのは京都の山城高校出身の山本和尚?さんのお蔭だ。同じ京都の出身だということで、親密感?なのか、先輩に対する面影が気に入ってくれたのか、明日にでも荷物を持ってきなさい、1年生は強制的に入寮してもらうからね、ときた。実は、強制入寮なんて決まりを知らないものだから、10日ほど前に学校の傍にあるアパートの入室契約をしたところだった。アパートに帰って、サッカー部に入ったこと、強制的に入寮しなければならないこと、を大家さんに話した。自力で大家さんと契約していたのだ。10日間は、現実に過ごさせてもらった。気兼ねしながら話した私に、入室料も礼金も敷金も、ええわよ、あなたにはお金が要りそうに見える!! 気にしなくてもいいから貰ったお金は全額返しましょう!! 愉快なおばあちゃんだった。

 

宇治橋上流

          宇治川

私の郷里は京都府でも極南の京都府綴喜郡宇治田原町。

日本緑茶の発祥の地。茶摘みの頃には、小学校と中学校のカリキュラムは特別版に急変わり、授業は午前中で終わった。午後は生家の茶摘みの手伝いをした。午後3時頃には、町役場の大拡声器で当時の流行歌を流してくれた。老若男女(ろうにゃくなんにょ)、周辺のことなどお構いなしに、その歌を大きな声で歌った。摘み人としては、近所の縁戚関係者は当然だけれど、東北地方から来てくれた人も多かった。小さな村だけれど、お茶の季節には人は増えた。

製茶工場の窓から流れ出る新茶の香りは、子供にもいい気分にしてくれた。生産者がその効率を重んじる一括製茶工場では、いろんな家族が集まるので、私にしてみれば余所のオジサンの顔を見ることが楽しかった。

 

永谷宗円肖像画

浅蒸し煎茶=名前の通り「煎じる茶」の意味を持ち、煮出すことによって成分を抽出させていたとされているその昔、まだ赤黒い色をした煎茶をなんとか美しい緑色のお茶にできないかと、江戸時代の中頃。宇治の永谷宗円と言う人が現在の煎茶の元となる青製煎茶を15年という歳月をかけて開発したと言われている。甘みと渋みのバランスが良く、後味がさっぱりしているーーーーさくらんの森発行 「さくらもち」より。

琵琶湖からの湖水は、瀬田川を通じて宇治川になり、淀川になる。宇治川の湖岸には大きな桜が多く立ち並んでいた。高校時代、桜の花の咲 く頃、桜電車(サクラデンシャ)がお酒を呑んだオジサンやオバサン、綺麗な着物の娘さんが、我らを楽しませた。古都の趣に花を添えた。しかし、高校に通いだした頃に、天ケ瀬ダムを創ることになって廃線になった。私の目の前で工事は進んだ。大林組のこの工事を嘆いた。

宇治田原の南地区から宇治川の上流にさす田原川にも思い出がいっぱいだ。冬以外には魚や虫を採って、騒いで、泳いだ。私は、泳ぎに関しても優秀だった。ウグイ、鯉、鮒や亀が群れをなしていた。宇治川に流れる少し前に深い谷風の水域があって、自殺者も度々生まれる危険な地域だった。こんなこともあった、私の次兄が岸に辿り着こうとすると、仲間たちに苛められた。岸に捕まろうとする手を遮ったり、頭に手をかけて水中に潜らされた。そんな時、私は泣きながら必至でそんな邪魔者に刃向った、苦言で暴力、馬鹿にした。

保、エエか?お前は故郷に錦を飾ることはない。東京で好きなように働けばいいのだ。保、もう一つお節介だ、乞食の子でも三年もやりとげれば、三年生になるんだよ、心配するな。

小学校、中学校は狭い田舎のこと、勉強のことは一切苦にならず、通学することが楽しくてしょうがなかった。山井(やまあい)の田舎は狭かった。勉強が出来ようが不出来な成績を貰おうが、平気の平左エ門だった。そんな暢気なことを、何時までも続くものではなかった。高校進学が迫ってきたのだ。いつもは50人クラスのなかで15番くらいで暢気(のんき)だったのだが、公立高校の受験資格はクラスで5番くらいまででないと、先生は受けさせてくれなかった。それからの私は違った。負けん気をだして、ちょっと真面目に勉強すれば、2番や3番に入れた。これを、父や母に話すと驚天動地、異常に喜んでくれた。やっと、ここで、他の人はそれほど勉強していなかったことが、、、判ったのだ。

それからの学園生活については、言うことなし、万事うまくいった。それからの受験勉強についも、欲をかいて言うことなし。大学に入ってからのサッカー生活が好いのか悪いのか、グチャグチャのブッチャぶっちゃ、頭を巡らすことなど一歩も一著も不出来だった。サッカーのサッカーができていなかった。少しスピードをあげてのランニングさえできなかったのだ。サッカーの能吏や豊かな知識を持っている人にとって、私のことなど「ヘ」みたいな、あばずれだったことだろう!!


2015年7月26日日曜日

冥王星

20150720 朝日新聞の天声人語から

太陽系の8人きょうだいは普通「水金地火木土天海」と順に並べられる。「木土天海地金火水」と並べることもできる。前者は太陽に近い順で、後者は大きさの順だ。どちらの末尾にも9年前までは「冥」の文字がついていた。

一番遠くて一番小さい惑星だった冥王星である。月より小粒な「末っ子」が格下げされて準惑星になったのは記憶に新しい。そのときの本紙社説の見出しは趣があった。「冥王星 地球は君を忘れない」。折りしも米国の探査機が冥王星への旅に出たばかりだった。

その「ニューホライズンズ」が、9年半、48億キロの旅をへて冥王星をかすめる最接近に成功した。送ってきた画像には、漆黒の空間を背に、氷でできた3千メートル級の山の連なりが写る。人類が初めて目にする荒々しい素顔だ。

探査機は、冥王星を発見した米国の天文学者クライド・トンボーの遺灰も載せている。米国人が見つけた唯一の惑星とあって、米の学者は国際会議で格下げに反対した。三つの小ぶりな星を加えて12人きょうだいに増やす案も登場するなど白熱した。

降格という処遇ゆえに話題性は増し、「君を忘れない」の長途の旅がロマンと感傷をかきたてる。探査機はそのまま飛行を続け、太陽系のいわば「村はずれ」である外縁の天体を観測するという。

任務を終えた後は、人類のメッセージを携えて太陽系から遠ざかっていく。故郷の青い惑星に高度な文明がある。その証しである。地球をむさぼり、痛める文明でありたくはない。

2015年7月16日木曜日

オジサンが野戦に戻ってきた!!

大事故を起こした昨年の5月16日から、1年と2か月が経つ。

心身が悲苦や辛痛に貫かれ、そのことを今更文字にすることは避けたい。今筆はそんなことよりも、「明日に向かって撃つ」的なメッセージを書いてみたいと思った、のだ。ヤ・マ・オ・カ 的 に、根性丸出しで生きてみたい。

糞っ垂れ!! そりゃぁそう、だ! 俺の千早振(ちはやぶ)る狼煙(のろし)が、この1年間でどこかに消えてしまった、雲散霧消ってことか?。魂が痺れ骨は屑になるほど悔しい。もう一度、もう一度、ここらで魂に炎を灯したい。お髭(ひげ)の塵(ちり)を払う男になりたくない。

何故、こんなことを言いたいのか? って聞かれても、賢人に会ってお節介を受けた訳ではない。

市井は相も変わらず、桁違いのことが発生したわけでもない。66歳まで平左衛門でやってきた。大事故から、何ら変わったことはない。だが、不思議なのだーーーー、今までに普通に感じていたことがここにきて、極めて感じやすくなりだした。

スポーツを観る目が変わった。スタジアムでの競技者の競技に無性に早く強く高く感じる、その優美さに惹かれる。技巧にも目が奪われ過ぎる。これらの感性が、俺の満身を狂わせるようにバタバタと羽ばたかせる。

そして女学生に憧れる目だ。強い女や優しい女、妖しげで五月蠅(うるさ)い女にも惚れる。小学生の生徒から老人まで、見開いた瞼が何かに恐れるように、閉じることはない。麗しい感動に身を焦がし、それ以上に心は啓(ひら)かない。

強い男にも弱しげな男にも、悔しいけれど優しい男にも惚れる。

 

20150715 朝日新聞(夕)

広島県出身で、東京にある大学に通う女性は、10日に初めて国会前デモに参加した。拡声器に合わせて「戦争反対」と口にしてみた。涙があふれ、言葉を継げなかった。「おじいちゃんやパパの苦しみがあって、多くの人のむごい死があってやっと平和が訪れた。何でこの時代に、国会前で戦争反対とさけばんといけんのじゃろ」。祖父は戦後20年間中国で拘束され、「最後の帰還兵」と呼ばれた。1937年に召集され、中国で活動するスパイに。終戦後も上官の命令で中国人を装い任務を続けたが、58年に中国当局に逮捕された。迫害された家族は極貧生活を送った。長男の逮捕、妻の自殺未遂。悲劇は、78年におじいちゃんが釈放されるまで続いた。

 

 

2015年7月6日月曜日

何年?ぶりなのか、熱烈早慶サッカー定期戦

 WASEDA UNIVERSITY ASSOCIATION FOOTBALL

2015年(平成27年)7月1日(水)

19:00 キックオフ

等々力陸上競技場

 

昭和44年に早稲田大学ア式蹴球部に入部させてもらった。させてもらった?、って、そりゃそうだ、それほど私には実力がなかったのだ。当時の4年生の1,2年生を担当する新人監督が、京都の山城高校出身だったので、私の実力など何の考慮もせずに許可してくれたようだ。私の高校時代には、早稲田大学は有力な社会人チームに勝っていた。3年生の時、正月恒例の天皇杯にも、東洋工業に勝って早稲田は優勝した。そんな早稲田にどうしても入って、みんなとサッカーを味わいたかった。早稲田大学以外の学校にも、a,m,w,にも受けてみたが、最初から入学なんて考えていなかった。

昭和49年の全国大学サッカー選手権大会と関東大学サッカー選手権には優勝できた。私は、ゲームに出たり入ったりの珍しい選手だったけれど、唯一の誇りだ。

 

20140516、仕事上の大事故以来、ホンの一塊(ひとかたまり)の楽しみがこの定期戦を観戦することだった。今回は66回目だ。再び、早慶戦の雄叫びをこの体で味わいたいと思った。体は老化して弱体化しようが、それが勇士の老いぼれだとは、そう簡単には、、、ス、マ、サ、レ、メ、イ。樹木の高い所から、アスファルト道路に頭から直下、脳をやられてしまった。結果、脳を使って働くことが出来なくなった、高次脳障害って奴だ。

  第64回早慶サッカー定期戦 2013年早慶戦サッカー in東京 - パスマーケット  第60回早慶サッカー定期戦

昨年の1年じゅうは恥かしくて、人にも言えない心情に苦しめられていた。意識不明の1週間後、ほぼ1年間は入院生活。悔恨や信条・信念から抜け出ることなんて、それ程難しいことではない筈なのに、心根をグジュグジュにさせられていた。シッカリと歩くこともできなかった。私にとって、学生時代の4年間は、学ぶことではなく、サッカーをやることだった。

新しい年を迎えて、不思議な友人のマサと孫と3人で観に行こうと決めていた。孫やマサと、楽しく遊ばなくなっていたのを、此処で思い出した。ここらで、一緒に観ないと、もう終わっちゃうじゃないか?俺だけが、異常に長生きできることはない?