2018年7月26日木曜日

下らない、日大の「悪質タックル」!

下らない日大の「悪質タックル」として朝日新聞に記事が出ていた。
私ほど、この悪質タックルについて、冷感悪寒、冷ややかに侮辱した男はいないと思っていただいても、多いに結構なことだ。
それほど、私はスポーツ原理主義者なのだ。

私が大学に入学した50年前にも、某大学と某大学と某大学のことだ。
レスリング、登山、相撲、それ以外のクラブでも、批判を受けるような事件が幾つもあった。
それから、大学関係者や卒業仲間が集っては解決策を練り、再び起こさないように努力していた。そんな、体育会・運動部、暗黒の時代があった。
私が在学した学校は、万一良くないことが行われ場合は、OBを含めて現役選手らのチームとしての抜本策を考出、それから教授会、体育会による役員会によって、次の手が打たれる。

こんなアホみたいなことが、現実に行われた。
高校生ながらに、嫌な想いをしたことがあった。
私のような、田舎の田舎育ちの人間には、何のことやらわからなかった。

そんな人間だって東京にある有名な、日本一を誇る大学へ入りたくなった。
匠(たくみ)稀(まれ)な巧技を魅せてくれること、溢れるばかりの身体の強さを見せてくれる人と一緒にやりたかった。
そして、恥ずかしながら2年間の浪人の末、我らの大学こそ一番であれと銘じていた大学に入ることができた。
日本のサッカー史上、誇りの釜本邦茂を生んだ学校だ。
釜本を指導したのが、私の同期の父、工藤さんだ。
私を滅茶苦茶(めっちゃくちゃ)、ボロボロに教えてくれた老紳士、日本のサッカーの神様といわれた。
幾つかサッカーの強い大学もあったが、「我らの大学こそ一番であれ」を選んだ。

それにしても、私は2年間の素浪人によって、余りにも力が抜けていたと言うのか、サッカーの「サ」だって、できるほどもなかった。
ボールを扱う足技(あしわざ)だけではなく、唯、走ることだけだってできなかった。
他人と走行を競ったことなんてなかったし、サッカーそのものの試合だってやったことがなかったのだ。

頭の中だけ、サッカーを立派なチームでやることだけを夢見ていたにすぎなかった。
そんな私だから、1年生の3月、4月については、なりふり構わず走ることだけ。
それも、どんな走りをするか?どれだけ走るか? そんなことは構っちゃおれん。
それと、止まったボールを、どんな蹴り方とか、足の何処から蹴るとか、それも相変わらず気がねせず、兎に角、一所懸命にやるだけやることだった。
正規の練習をやった後、時間は幾らもあった。
その時間を、暗くなって仲間が居なくなっても、走ることはできた。
誰にも見られている訳ではないから、遅くたって恥じることはない。
早く走りたくても、走れないものはしょうがない。
いつか、なんとなく、この若輩者の俺だって、人並みに走れるようになるだろう、と勝手に思いを走らせた。
問題は、時間の経過と共に、蹴ることだって、ヘッデイングだって、走ることだって、タイミングを誰よりも早く感覚できれば、乗り越えられるだろう。
やるしかない、と決意した。

その後、5月以降のことはどうなるのだろう?

そんな私のことだから、年毎?月毎?なんて想像もできない。
そんなことよりも、1日、1日のことが一番大事なことで、勉強なんて考える隙間はなかった。
幸いと言えば、怒られるかも知れないが、4年間のうち2年間、大学はロックアウトされ、授業はされなかった。
ならば、俺だけの勉強を懲りずにやっておけば、糞のように時間は過ぎ去らないものだ。読書に励んだ。サッカーの時間以外、部員が何(なん)らかんだとやっている時間こそ、私にとっては貴重なものになった。
昼は、サッカーの基本の、基本の、練習、夜は自分のお抱えの勉強だ。
この成果か? 就職試験には割と好成績を採れた。
4年間のサッカーの実績は、私の口からは何とも言えないが、一般常識としての知識はそれなりのものを身に付けていたようだ。




2018年7月3日(火)付 朝日新聞の記事を転載させてもらった。

波聞風問(はもんふうもん)
編集委員・堀篭俊材(ほりごめとしき)


「悪質タックル」 組織の暴走ひとりごとではない
「アメフト部の悪質タックル問題、君はどう思う?」。
採用面接で聞かれる日本大の4年生たちに、ある学部のお就職指導の担当者はこうアドバイスしているという。
「『第三者委員会の報告書をみて下さい』と答えて」

就活生を気づかったわけではあるまいが、日大の第三者委は6月29日、中間報告書を発表した。
日大の選手が関西学院大の選手に危険なタックルをしたのは、前監督と前コーチの2人による指示だったとようやく認定した。

遅きに失した感もある。約1か月前、日大アメフト部が所属する関東学生連盟は調査報告書を出している。
「相手を潰すんで、試合に出してください」と申し出た日大の選手に対し、前監督は「やらなきゃ意味ないよ」と答えた。
この言葉を「立派な指示」と断じ、関東学生連盟は前監督らを除名処分にした。

上の指示が認められるのは珍しい。
不祥事の幕引き図る報告書の多くは、知りたい肝心の部分はあいまいにしてすませるからだ。

たとえば、公文書改ざん問題をめぐる財務省の調査報告書は、森友学園との応接録の廃棄についての「指示」をこう記している。

当時の理財局長は、国会で「交渉記録はない]「行政文書の管理ルール通り対応している」と答弁した。
その後で部下の総務課長に「文書管理の徹底を念押し」した。
ルールは保存期間を1年未満と定めていたため、総務課長は「適切に廃棄するよう指示されたものと受け止めた」。

「廃棄しろ」とはっきり言ったわけではない。ただ、「空気を読め」とばかり、個人に同調を求める圧力が組織ぐるみの暴走につながっていった。
「悪質アックル」はひとごとではない。

3年前、東芝の不正会計問題に対する第三者委の報告書は、経営トップが「チャレンジ」という表現で、決算数字の改善を求めたと指摘した。
「東芝には上司の意向にさからえない企業風土が存在していた」。
その「意向」に従った幹部や社員たちが、目標達成のために不正な会計処理をひたすら続けていた。

関東学生連盟の監事で、日大アメフト部問題の報告書をまとめた1人、寺田昌弘弁護士は「みんな一丸となり、同じ方向をめざす上意下達の軍隊的なメンタリティーは、戦後の復興や高度経済成長には効果的だった」という。

「成功したワンマン経営者の会社には、そのメンタリティーが風土賭して根づいていることが少なくない。
だが平成も終わる時代では、もはや通用しない」。
よしあしの見境なく、場の雰囲気を忖度させる風土が変わらないと、組織は再び暴走する。

日大の第三者委は大学のガバナンスの問題も調べる。
部活の問題にとどまらず、ワンマンのトップを生んだ巨大組織の病理にまで、7月中にまとまる最終報告書は斬りこめるのだろうか。

2018年7月24日火曜日

私の母は染色をやっていたんですよ

昨日(20180720)の昼。
横浜駅東口にある立派なデパートの10階飲食店街の或る立派な京都料理店で、私と弊社の経営責任者の中さん、弊社の工事会社の責任者・向の3人で、ある人を交えて昼食会をした。このある人とゆうのが、弊社にとって掛け替えのない人なのだ。
ある人の弊社に対するお礼を兼ねての昼食会。
この後,文中ではある人を「この人」と言わせてもらう。

この人に業務上のお付き合いをしてもらって、約20年。
私が学校を卒業してお世話になった会社と、この人が一番最初に就職された会社が、実に縁のある者同士だった。
互いに、何とかエンペラーのグループ会社だった。
私がお世話になった会社の社長が弟で、この人が就職していた会社の総元締めが兄だった。
この兄弟は、異母兄弟。
そんな不思議な縁で、我々だって仲間立ちの早さと太さと長さ、それは「実在」なものだった。
この二人の成り立ちの最初は、彼が通っていた学校の傍でのファミリーレストランでのお茶だった。
私たちの現在やっている仕事の説明をした後、話した内容から、二人の関係を極めて深いものにしてくれた。今まで以上に輪が掛かった。
この話の内容については、多少秘密っぽい部分もあるので、此処では、著さないことにする。
それから、好いことや苦労話など、いっぱいあるが、これも今は避けたい。

中さんが今の弊社の業務内容を話してくれた。
この人は聞き漏らしなく耳を傾けてくれた。
よくやっていますね、と励ましてくれた。
大事なことはそれだけで、後の話は身の周りのヨタヨタ四方山(よもやま)話しで、和やかなものだった。

ここでも問題があるのだが、弊社にとって、この人は仕事を通じての最重要人物なのに、盆暗(ぼんくら)な私は、仕事の事なんてソッチノケにして、気の趣(おもむ)くまま、趣味や自分が特に面白く思っていることを、メリハリ無く喋り出して、面白く思ってもらえれば、急に激して会話は進んだ。
逆に相手が面白く思ってくれなければ、何ら得るものもなく、しょげ返ってしまう。

中さんが、弊社の会社の営業状態を話し、今までの仕事に就いての感謝を述べ、乾杯になった。
この人も心臓の何処かの故障があって、お酒を飲む量は少なくされている。
吾輩だって、樹木からの落下事故後、飲むお酒の量は少なくなってしまった。
それから、話題の全ては仕事以外のモタモタ四方山話しばかりだったが、それなりに、楽しいことばかりだった。
それぞれの趣味の話や、現実の商売の今後の生業。
ロシア・ワールドカップ(w杯)のこと、日本代表チームの出来栄え。
今後の監督の人選など。
折角だから、サッカーの代表選手選考の難しさや、チーム采配の難しいことを話したかったが、この話をサッカーの好く知らない人には困難だった。
巧く話せないほど、我が頭脳は進化していないようだ。

この人に、ところが、お父さんは、かってどのような仕事をされていたのですか?と聴いたら、かって戦争に関する物を作る会社に勤めていたと言うのだ。
麻なぞをメインにした種々の加工品を、戦争重機用として作る会社だったのです。
だから、兵役は逃(のが)れたのです。
そして、麻をメインにした加工品とは、斯く斯く云々(かくかくしかじか)です、そんなことだって、こんな場では興味が沸いた。

そこで次の段階突入。
私はこの人に対して、お父さんのことは良く解りましたが、お母さんはどんな人だったのですか?と問い質(ただ)した。
これからが、本ブログの本髄・本題に入ります。

この人は、「母は染色をやっていたのです」と応えた。
これから、私は全身に力が入った。
「え~、染色ですか? 染色だけではないのですが、染織家の志村 ふくみさんのことを、今、朝日新聞の文化・文芸欄で連載されていて、その文章に私は狂ったように夢中なんですよ」とまで言ってしまった。

そこで私は「志村 ふくみ」さんの朝日新聞に連載されていたものを思いだした。
何故、またこんな日に、こんな調子で、こんな文章を読んでいたのだろう。
不思議な縁が、こんなところにもあったのか?と面白かった。
この新聞記事を読んで、「染めること、染織すること」のことを少し解るようになったが、それでもその不思議さが、これまた余計に興味が沸いた。

機会があれば、もう少し勉強しなければならない。





1,2は古新聞に出してしまった。

3、「命がけ」。
志村 ふくみが染織の道に進むと、母はすごく一生懸命に積極的に関わった。自分が打ち込めなかったからこそ、娘に打ち込んだ。




4、「鈴虫」買ってくれたマリアさん
切迫した気持ちのなか、無我夢中で帯を織り上げたのは締め切り日の朝でした。そうして出品した帯は、第4回日本伝統工芸展で入選を果たした。
翌年は紬織着物「秋霞譜」が奨励賞を受賞。
そして1959年、紬織着物「鈴虫」で文化財保護委員会委員長賞を受けた。
新橋の芸者さんのマリアさんは着物は大嫌いだったが、会場で志村さんの着物を見て「これが私の着たい着物だわ」と言い、生活を切り詰めて購入資金をつくり、その年の最高の作品を買ってくれた。


5、それだ! きみ、本を読みなさい
近代陶芸の巨匠・富本憲吉からは、本を読みたいと言った志村さんに「それだ! きみ、本を読みなさい。文学を読みなさい」。
弟子に技術の優れた人が何人もいるけれど、陶芸以外の勉強をしなかったら、だんだん精神が痩せてきたと。
国立近代美術館京都分館(現・京都国立近代美術館)の館長として赴任した今泉篤男さんは、民芸や職人芸ということにこだわりすぎて、仕事がかたくならないように、と。



6、霧の嵯峨野が「ぼかし」を生んだ
1968年、志村さんは京都・嵯峨野へ移り住み、東京から養父母を呼び寄せて一緒に暮らし始めた。
養父が「晩年は京都に住みたい」と望んでいた。
83年には、自身の半生や色への思いをつづった「一色一生」が大佛次郎賞を受けた。
93年には「語りかける花」で日本エッセイストクラブ賞も受賞している。
エッセイを書いたのは(詩人・評論家の)大岡信さんに「何か書いてみないか」と言われた。




7、まさか長女が継いでくれるとは
京都・嵯峨野に移り住んでから、志村さんは藍の染料をつくる「藍建て」に取り組み始めた。
実母の豊は藍という色をとても大切にしていた。
近江にいたときは、藍を染める紺屋(こうや)があった。
京都に移って藍建てを始めたがぬつかしかった。
ところが、長は月の満ち欠けと藍との関係を見いだした。
新月のころに藍を仕込んで、満月のころに染める、そうすると、藍が安定する。


8、亡き石牟礼さんの声 ふうっと
石牟礼道子さんと親しくなったのは、1990年代、雑誌「週刊金曜日」での対談がきっかけ。
その後のやりとりで、石牟礼さんから天草を舞台にした新作能の構想を聞き、衣装制作を頼まれた。
それが今秋上演される「沖宮(おきみや)」だ。
村のため海に沈むあやの魂を、天草四郎の霊が出迎えるーーーーー。
上演の準備が進んでいた今年2月、石牟礼さんが闘病の末に亡くなった。
石牟礼さんとは、天草四郎の衣ハクサギを染めた水磦(みはなだ)色、いけにえの少女あやの衣は紅花で染めた緋色、と話していた。

















9、植物にいただく命思いだして
「沖宮」の衣装が完成した。
今の時代はあまりにもものが増えすぎて、便利になり過ぎて。
欲望に従って世の中が動いている。
それぞれのものの価値や尊さが、失われてしまっている。
だからこそ「沖宮」が必要なんです。
「沖宮」に託したメッセージは、13年に長女洋子さんと設立した染織学校「アルスシムラ」の理念とも重なる。
植物とか蚕とか、自然の力を私たちはいただいている。
それを自分の手で織って、身につけるとうのは大切なこと。
この思いを一生大事にしてください。
植物からいただいた命を一生思いだしてください」と言いました。




2018年7月23日月曜日

鍛錬だぞ、山岡君!

   



この写真は、往還漫歩を終えて娘に撮ってもらったものだ、、、苦悶の表情。
顔に苦しさが残っているが、自分らしいと苦笑した。


今日201807022(日)の話だ。
22日自宅から東戸塚駅を通り越して戸塚駅まで。そして戸塚駅から東海道線を自宅までの約12キロを往還3時間で歩いたことをブログした。
今日は大船駅からの帰宅だけを考えていたが、やっぱり自宅・東戸塚・戸塚・東戸塚・自宅の往還徒歩にした。

ところが、今回からは徒歩という言葉を使わないことにした。「漫歩」にしようとした。
漫歩こそ、詩的で優雅で優諚(ゆうじょう)的、なんだか心が温まるような気がするからだ。
イヤイヤもっと厳しく厳歩とか耐歩とかは、どうですか?皆さん。
でも、矢張り人並に「漫歩」としよう。

自宅を出発したのは5:55、東戸塚駅西側を過ぎたのは6:27、戸塚駅西口に着いたのは7:27。
10分お休みをした。
7:40戸塚駅を出発して、第一パンの特売屋で大型の食パン(440円)を買って、自宅09:10着。
パン屋さんの前20分頃、娘に電話して、パン屋さんの前を通るのだが、欲しい物があったら言ってくれと話すと、食パンなら欲しいと返ってきた。
110円でちょっぴりのパンよりも、でっかくて440円ならば、とこっちの方に買い気が増した。
残れば、私だって月曜日の昼メシになる。火曜日だって、使えるではないか。
その通りになって、明日の昼メシはパンだ。
パンに塗るのは、我がイーハトーブで自作したブルーベリーのジャムだ。こんな嬉しい昼メシを食う俺様は幸せ者だ。毎年毎年収穫量が増えている。

日曜日の我が漫歩は、何かと都合の好いことばかりだった。
通学生、通勤者が少なくて歩く側には気配り少なく、散歩ならぬ漫歩している人は、私と2,3人だった。
それよりも、軽く走っている若者たちが10人ほど見た。
誰もが、みんな気分良く道を歩いたり走ったりしていた。完遊ってことだろう。
暑いとか陽熱(ひねつ)が凄いとか何とか言っている弱虫はいない。

散歩から漫歩にするなんて言ったが、もう一つこの漫歩について私自身の狙いが変わったことを此処に宣言する。
散歩なんて、なんだかチンピラしていているではないか。
もっともっと体育会的に、体を鍛える、弱みを無くす、向上的な体力の資力アップを狙いたいと思うようになった。
そんな考えには根拠がある。
此の頃歩くことによって、ダメージが少なくなったことを感じているからだ。
足腰の彼方此地(あっちこっち)に故障が発生しない。確かに、以前ほど歩くスピードは速くはないが、足音そのものはシッカリしている。
多少の痛みがあっても、痛みは、長持ちするすることなく、その日若しくは翌日までだ。
確実に健康化しているのではないか、と嬉しく思った。
明日もきっと愉しく徒歩通勤できそうだ。

ところが、この散歩を漫歩、もしくは体育会系のトレードもどきにまで発展するためには、力強い精神力が必要だ。
その精神力を鍛え、永く耐えるには、心・精神力が必要なのは解かり切っているが、それよりもそれよりも、衣装も大事なのだ。
衣装なんて、ちっちゃな問題だと笑うなかれ、失笑は許しませんよ。
昨夜、押入れを探し回って、大学時代、それからの0B時代に作った、サッカー仲間とのユニフォームの数々を見つけた。
余り古いのは周りの人の気分が悪くなりそうだから止めにして、比較的見た目の好いのを使うことにした。

2014年に、早稲田大学ア式蹴球部の創部90年を記念して作ったユニフォームを見つけた。創部は1924年。
1922年に行われた日本最初のサッカーリーグとなる「専門学校蹴球リーグ戦」に、東京帝国大学、東京高等師範、東京商科大学と共に早稲田大学が参加した。
このユニフォームを身につけたので、体は兎も角心もシャンと張り切れた。
でもこの類の衣類を身につけるのは日曜日などの休日に限るようにしよう。こんな物に目を奪われたくないのだ。
この胸の12番は、いっつも選抜に選ばれなかった私に相応しい番号だ。担当者に12番を命じた。
グジャぐじゃ文句を垂れるな、俺の必須で命がけの番号なのだ。

肝心要(かんじんかなめ)のことを書くのが一番後になってしまった。
小学校の頃から学校の授業でもよくやった、ラジオ体操をこの漫歩の途中において、交通信号待ちや一休みの時に、なりふり構わずに、気分の好い種目をやるように仕始めた。
後屈、前屈、上体を体側の左右に曲げる、フラフープをやる時のように腰を回転する。
この5年間、足腰が余りに痛みが烈しかったので、足腰以外の部分に気を回すことなんて、できなかった。

もっと嬉しいことは、激しく歩いてもその悪影響のことを心配しなくなったことだ。次の水曜日のコースを考えておかなければナラン。
下り坂を歩くと、なんだか腰に腰痛の弱い前兆が生まれるのだが、その痛みもその後大きくなるのではなく、静かに静かに沈んでいく。
消えていくこの症状を、私は有難いアラワレだと認識、これ以上、怖くはないと勝手に腹を決めた。




2018年7月20日金曜日

苦労なしでは、ご褒美はない!

7月18日のブログ「早朝だって炎暑だ!」で、自宅から戸塚駅までの往還徒歩にチャレンジしたことを、ちょっぴり寂しいけれど、本当はとっても嬉しかったことを書いた。
片道1万歩、往復で2万歩。徒歩時間は往還で3時間。
足腰はまだまだ、以前ほどには復活していないが、よくぞ此処まで回復してくれたものだと、頭の中では、至福感ではないがちょっぴり幸せだ。

実は今朝、自宅から会社までの徒歩通勤中に思いついたことを、矢張りこれも文字にして置くべきだ。

それは、今冬、寝床で腹筋の訓練をやっていて、ギックリ腰になってしまった。
何故だ? 腰の周りの筋肉を鍛えるためと決めていた、、、。否、言い過ぎかな。
少しでも筋肉のハリを穏やかにしたいと思って続けていた。
が、何是、腹筋の訓練中にギックリ腰なんかになるんだ。
そのギックリ腰の悪魔には大学の頃から、社会人になってからも、定期的に襲われていた。
それでも、何とか遣り繰りして治してきた。

それから、このギックリ腰が治った頃、今度は品の悪いヘルニア腰痛に遣られてしまった。
今年の2月か3月頃だ。
このヘルニアとの闘いについてはブログを読んでいただきたい。
このヘルニアと言う奴の痛みについては、なかなか私の作文能力では巧く表現できない。
兎に角、痛くて痛くて、今まで何度も味わってきた腰痛だけれど、これほどの痛みを味わったことはない。
体位を少し動かすだけで、目から耳から鼻から火が出そうな程の激痛が吹っ飛んだ。喉からだって、炎が突き出してこようだ。
心体の調子の悪さで、会社を休みたいと言ったことは、この50年、一度もなかったのに、涙ながらに会社に電話したことを、今でもよく憶えている。
30センチ程も体を動かすことができなかった。40時間、寝たっ切り。
殻を被(かぶ)ったように、ジッとしたまま。
一敗地(いっぱいち)に塗(まみ)るザ。さんざんに負けて、再び起つことのできない状態(史記)。
発生してから半年間は、十分その気持ちだった。

ところがどっこい、此の頃、運動を兼ねての徒歩通勤が愉しくなってきた。
会社までの往還については、もう半年以上も、なんだかんだ頑張っている。
往還1万5千歩、1時間40分。

これから、ブログの本髄に入る。

頭書にある自宅から戸塚駅までの往還徒歩をやりきって、それなりの体の辛(つら)さはあったが、意外と元気だと言うことが解った。
それだけでも、此畜生(コンチクショウ)、堪らなく吾輩は嬉しいのだ。
翌朝、目覚めた時、足腰その他の痛みを発見しようと試みた。
確かにいつもとは違う痛みが、彼方此地(あっちこっち)で発覚したが、その痛みは静かで穏やかなモノだった、
顏に、ニッコリマークが生まれたものだ。
でも、今日は会社までの徒歩を諦めてバスにしようと決めた。
安心して、もっと安心しての安全移動・運行・航行か?。
そして翌日から、自宅から会社への徒歩通勤を難なく続けられている。

調子に乗るわけではなく、次の日曜日は大船駅から自宅まで歩くことを目指そうとしている。
先日の自宅から戸塚駅までの往還徒歩と同じか? それ以上の規模かもしれないが、良くなりつつある流れを、停めることはできない。



2018年7月18日水曜日

早朝だって炎暑だ!

新聞やテレビ、ラジオで昼間の気温の高いことに熱中するが如く報じている。

どいつもこいつも、何誰(だれ)もが同じように喋っていることに、倦(う)んでしまったのだ。
神経痛なのか?ヒステリックなのか。

そりゃ、暑ければ暑いと、寒ければ寒いと報じるのは当たり前だのクラッカーだ。
そんなことに、只管(ひたすら)耳寄りになって~しょうがないだろう、と昨夜、蒲団の上で考えた。
よく寝入っている私に向かって、妻は「暑い暑い、寝れない」と独り言を言いながら怒っていた。

そこで、私は考えた。
皆と同じように、私は暑い暑いなんて騒いでなんて、居られない。
私の生まれながらの、我がままだ。
樹木からの落下事故で、高次脳機能障害に苦しむ私こそ、人並みに悩むことなく、頭脳に怒髪天(どはつてん)を衝(つ)くしかない。
後頭部が破裂するほど、ダメージを与えてしまえば、いい考えが生まれるのではないか、と考えた。
これこそ、障害者ならではの真骨頂。

そして18日、朝飯を食ったら、空(す)かさず、自宅から戸塚駅までの間を、往還徒歩をやろう。
何回か、歩いて行って帰りはバス、という経験はある。
今度は、足が腰が如何ほどに故障が発生しようが、やることはやるだった。
足腰だけではない、体の何処がどの様な故障になろうが、射(さ)しかざす日光や高温気風に負けずに能動的に歩行することを目指す。

自宅から東戸塚駅までは勤め人や学生、生徒の群れに混ざって進んだが、東戸塚駅から戸塚駅までは、駅に向かう通勤者や学生や生徒、群れをなして駅から遠ざかる人たちと混雑、混乱して歩いた。
自宅から歩いて1キロメートル辺りで、額と腹と背中には汗がびっしょり。懸命に汗をタオルで拭(ぬぐ)った。
狭い道路に、歩行者が溢れ、業務用の車両も多かった。
どんな状況の中でも、散歩姿の私一人のことは、類まれな複雑な野郎だと思われたでしょう。いわゆる変なオジサンだ。
もっと朝早いならば、粋な老人の散歩と思われたかもしれないが、この時期、そんな風流な奴はいない。

朝のニュースでは、東京・赤坂では既に28、7度ですとか話していた。
が、私の体感温度は、この横浜・権太坂で陽の射している場所で、充分に30度を超していた。
猛暑が酷暑になり、極悪熱の陽炙(ひあぶ)り状況になる。


往き
06:40、自宅を出る。
どんなに暑くなろうが、どんなに汗をかこうが、そんなことを考えてはいられない。
感無量。

07:09、3038歩。東戸塚西口

川上小学校前

大成建設株式会社、技術センター

07:34、5866歩。資源循環局入口。

藤井橋

富士橋

08:16、10、066歩。JR戸塚駅西口



還り
08:22、戸塚駅出発

吉田大橋、柏尾川。

元町

08:37、11743歩。元ダイエー、イオン解体現場

BRIDGESTONE,ブリジストン

柏尾町

不動坂 国道1号線(東海道)と県道瀬谷柏尾線の交差点。
益田家のモチノキ
大山道入口

ポーラ化成工業

ALSOK ,ALWAYS SECURITY OK

森紙業

08:57,13529歩。ヤマザキ製パン

赤関橋

品濃口

旧東海道

09:41、17657。品濃一里塚
慶長9年(1604年)徳川幕府は五街道を整備し、この宿場を作った。
日本橋から9番目の一里塚で保土ヶ谷宿と戸塚宿の間。
9番目の一里塚なので、4キロメートル*9=36キロメートル

10:15、19、648歩






2018年7月17日火曜日

乾貴示、ロシアW杯ブレイクスターに選出!

乾は、日本代表の象徴だ。
7/17(火) 7:02配信
GOAL
日本代表MF乾貴士が、『FIFA』公式の選ぶ「ロシア・ワールドカップで台頭したスター5選手」に選出された

ロシアW杯は15日に全日程が終了。フランスの20年ぶり2度目の優勝で、4年に一度のフットボールの祭典は幕を閉じた。

そして16日、『FIFA』は「ロシア・ワールドカップで台頭したスター5選手」を発表。左サイドで躍動して4試合で2ゴールを挙げ、日本代表を2大会ぶりに決勝トーナメント進出に導いた乾が選出された。

「大会前にレアル・ベティスと契約を結んだイヌイが日本代表の4試合で見せたプレーは、とても印象的だった。素早いパスと止まらないダイナミズムは、まさにクラシカルなサムライブルーの象徴だった。創造性、ゴール、予測不可能なひらめきで、輝きを見せた」

さらに『FIFA』公式の日本代表レポーターである鈴木英寿氏のコメントを掲載している。

「小柄であるにも関わらず、その判断力と正確さ、強烈なシュートがイヌイの武器であることを証明した。セネガル戦でも1得点を挙げて驚きを与えたが、ベルギー戦のゴールこそ大会に記憶されるものになるだろう。2点目のリードをもたらした強烈なシュートは、ブロンズ・メダリストを窮地に追いやった」

初のW杯で躍動した背番号14の活躍は、世界に衝撃を与えたようだ。以下、『FIFA』公式の選ぶ「ロシア・ワールドカップで台頭したスター5選手」。

■キーラン・トリッピアー(イングランド代表:4位)
■デニス・チェリシェフ(ロシア代表:ベスト8)
■乾貴士(日本代表:ベスト16)
■カスパー・シュマイケル(デンマーク代表:ベスト16)
■ジェリー・ミナ(コロンビア代表:ベスト16)

2018年7月13日金曜日

サッカーW杯日本代表の「敗退行為」は如何に?

新聞を読み始めたのは、幼少期それも小学校の2,3年の頃だった。
勉強のデキはマアーマアーだったが、スポーツについての関心?感心!量は莫大だった。
読めない字ばかりの新聞のスポーツ面、この紙面は見るだけで内容が解った。
題字と写真を観れば、何もかもが理解できた。
野球に相撲、柔道、その他の種目の大会があった翌日には面白、可笑しく書かれていた。
その紙面が堪らなく私を興奮させ、知った事項だけで充分幸せだった。

父の友人の影響で京都新聞を宅配されていたが、中学に入った頃に、私の希望で朝日新聞に変えてもらった。
南海ホークスの野村克也捕手の活躍をいつもいつも、もっともっと、知りたかった。
野村は京都府立峰山高校から、1954年テスト生として入団した。
私は京都府綴喜郡宇治田原町、同郷の隠逸だ、と言うと笑われるか?
それから、私は朝日新聞の虜(とりこ)になってしまった。
話題になった事件を、他の新聞がどのように記載していようが、余り気にならない人間になってしまった。
好いことなのか、悪いことなのか? 
お陰で、色鮮やかな種々の語句、話し言葉に聞き言葉、小節文節の作り方と割り振り、尊敬謙譲丁寧語、文章の巧拙などを知ることになった。

後日、これこそ笑われることかもしれないが、大学受験の国語の勉強のすべては新聞だった。
どんな文字の読み書きや文章の理解については、一切の問題集なんか手にしたことはない。古文、漢文は授業のみ。
新聞をどれだけ良く理解したかが? 受験の成否だった。


今回のブログは、殊(こと)にサッカーに関して、並々ならぬ記事を紙面に提供してくれる忠鉢信一さんの文章だったので、すっぽり盗ませてもらった。
朝日新聞編集委員、スポーツ部門。
彼の文章には、一般的なスポーツの記事の中で、サッカーのことについては、独特の威風がある。
私だって、巧(うま)くもないのに高校、大学とサッカーに絆(ほだ)されてきた。
でも、彼の意見に全て賛同、共感している訳ではない。
私にだって、ささやかな自論だって持ち合わせている。
スポーツを知らない人の生半可な意見や文章は、真っ平御免だ。
しょうがない、正気な本気の奴、又はスポーツ技術の猛者の文章しか読めなくなってしまった。

ーーーーーーーーーーーーーーー
20180612(木) 朝日新聞・オピニオン

  
スポーツ部・忠鉢信一(ちゅうばちしんいち)
スポーツ部・忠鉢信一

読者有論
サッカーW杯日本代表
「敗退行為」フェアーでない

4年に1度、サッカーの世界一を決めるワールドカップ(W杯)で、2018年ロシア大会に出場した日本は、1次リーグを突破し、2大会ぶり3度目の決勝トーナメント(T)進出を果たした。喝采の声は大きい。
しかし、決勝T進出を決めたポーランド戦の「勝ち進めるの敗退行為」と、その反響に危機感を覚えた。
サッカーを熟知した関係者や識者が、フェアープレーを軽視し、目的を果たせばどんな手段も肯定される、と力説していた。

0-1で日本が負けていたポーランド戦の終盤、他会場で同時に行われていた試合で、コロンビアがセネガルを1-0でリード。試合がそのまま終われば、日本とセネガルは勝ち点で並び、警告の総数で下回る日本が決勝Tへ進む状況だった。
西野朗監督は後半37分に長谷部誠選手を投入し、パスを回してスコアを維持することなどをチームに徹底した。

直後から賛否両論が起きた。
西野監督は「本意ではなかった」と述べ、選手に謝罪。
長谷部選手は「真実は結果の中にある」と話したが、選手の中にも異論はあった。

負けているチームがわざとパス回しをする違和感はだれもが感じたはずだが、世論は賛成派が目立った。
決勝Tに進むための負けであり、パス回しでスコアを維持する作戦は世界の常識と主張。他の試合結果に決勝T進出を委ねることが「賭け」でしかなく、試合途中で負けを意図することがフェアプレーに反する禁じ手であることから目を背けた。

国際サッカー連盟(FIFA)と日本ダッカー協会(JFA)は、負けを意図することがフェアプレーに反することを明確にしている。

FIFAのフットボール行動規範は「勝利はあらゆる試合の目的。
負けを目指してはならない」「試合終了の笛が鳴るまで勝つためにプレーしなさい」とある。
JFAサッカー行動規範には「どんな状況でも、勝利のため、またひとつのゴールのために、最後まで全力を尽くしてプレーする」と書かれている。
罰則はないが、故意のオウンゴールといった極めて悪質な行為が処分の対象になったことが国内外で過去にある。

JFAは「フェアで強い日本を目指す」と宣言している。
JFAはW杯が終わると、「テクニカルリポート」という報告書を作成し、全国の指導者を集めて開催する「フットボールカンファレンス」でその内容を解説する。
ポーランド戦で勝利を目指さず得失点差を維持した選択を、JFAはどのように総括し、指導者たちをどう受け止めるのか。

勝利とフェアープレーの両方で手本となるのは高度な要求だが、それに応えるのが日本代表の責任だと思う。
過ちを認めることもフェアプレー。結果がすべてなら、サッカーは文化にならない。