2018年7月24日火曜日

私の母は染色をやっていたんですよ

昨日(20180720)の昼。
横浜駅東口にある立派なデパートの10階飲食店街の或る立派な京都料理店で、私と弊社の経営責任者の中さん、弊社の工事会社の責任者・向の3人で、ある人を交えて昼食会をした。このある人とゆうのが、弊社にとって掛け替えのない人なのだ。
ある人の弊社に対するお礼を兼ねての昼食会。
この後,文中ではある人を「この人」と言わせてもらう。

この人に業務上のお付き合いをしてもらって、約20年。
私が学校を卒業してお世話になった会社と、この人が一番最初に就職された会社が、実に縁のある者同士だった。
互いに、何とかエンペラーのグループ会社だった。
私がお世話になった会社の社長が弟で、この人が就職していた会社の総元締めが兄だった。
この兄弟は、異母兄弟。
そんな不思議な縁で、我々だって仲間立ちの早さと太さと長さ、それは「実在」なものだった。
この二人の成り立ちの最初は、彼が通っていた学校の傍でのファミリーレストランでのお茶だった。
私たちの現在やっている仕事の説明をした後、話した内容から、二人の関係を極めて深いものにしてくれた。今まで以上に輪が掛かった。
この話の内容については、多少秘密っぽい部分もあるので、此処では、著さないことにする。
それから、好いことや苦労話など、いっぱいあるが、これも今は避けたい。

中さんが今の弊社の業務内容を話してくれた。
この人は聞き漏らしなく耳を傾けてくれた。
よくやっていますね、と励ましてくれた。
大事なことはそれだけで、後の話は身の周りのヨタヨタ四方山(よもやま)話しで、和やかなものだった。

ここでも問題があるのだが、弊社にとって、この人は仕事を通じての最重要人物なのに、盆暗(ぼんくら)な私は、仕事の事なんてソッチノケにして、気の趣(おもむ)くまま、趣味や自分が特に面白く思っていることを、メリハリ無く喋り出して、面白く思ってもらえれば、急に激して会話は進んだ。
逆に相手が面白く思ってくれなければ、何ら得るものもなく、しょげ返ってしまう。

中さんが、弊社の会社の営業状態を話し、今までの仕事に就いての感謝を述べ、乾杯になった。
この人も心臓の何処かの故障があって、お酒を飲む量は少なくされている。
吾輩だって、樹木からの落下事故後、飲むお酒の量は少なくなってしまった。
それから、話題の全ては仕事以外のモタモタ四方山話しばかりだったが、それなりに、楽しいことばかりだった。
それぞれの趣味の話や、現実の商売の今後の生業。
ロシア・ワールドカップ(w杯)のこと、日本代表チームの出来栄え。
今後の監督の人選など。
折角だから、サッカーの代表選手選考の難しさや、チーム采配の難しいことを話したかったが、この話をサッカーの好く知らない人には困難だった。
巧く話せないほど、我が頭脳は進化していないようだ。

この人に、ところが、お父さんは、かってどのような仕事をされていたのですか?と聴いたら、かって戦争に関する物を作る会社に勤めていたと言うのだ。
麻なぞをメインにした種々の加工品を、戦争重機用として作る会社だったのです。
だから、兵役は逃(のが)れたのです。
そして、麻をメインにした加工品とは、斯く斯く云々(かくかくしかじか)です、そんなことだって、こんな場では興味が沸いた。

そこで次の段階突入。
私はこの人に対して、お父さんのことは良く解りましたが、お母さんはどんな人だったのですか?と問い質(ただ)した。
これからが、本ブログの本髄・本題に入ります。

この人は、「母は染色をやっていたのです」と応えた。
これから、私は全身に力が入った。
「え~、染色ですか? 染色だけではないのですが、染織家の志村 ふくみさんのことを、今、朝日新聞の文化・文芸欄で連載されていて、その文章に私は狂ったように夢中なんですよ」とまで言ってしまった。

そこで私は「志村 ふくみ」さんの朝日新聞に連載されていたものを思いだした。
何故、またこんな日に、こんな調子で、こんな文章を読んでいたのだろう。
不思議な縁が、こんなところにもあったのか?と面白かった。
この新聞記事を読んで、「染めること、染織すること」のことを少し解るようになったが、それでもその不思議さが、これまた余計に興味が沸いた。

機会があれば、もう少し勉強しなければならない。





1,2は古新聞に出してしまった。

3、「命がけ」。
志村 ふくみが染織の道に進むと、母はすごく一生懸命に積極的に関わった。自分が打ち込めなかったからこそ、娘に打ち込んだ。




4、「鈴虫」買ってくれたマリアさん
切迫した気持ちのなか、無我夢中で帯を織り上げたのは締め切り日の朝でした。そうして出品した帯は、第4回日本伝統工芸展で入選を果たした。
翌年は紬織着物「秋霞譜」が奨励賞を受賞。
そして1959年、紬織着物「鈴虫」で文化財保護委員会委員長賞を受けた。
新橋の芸者さんのマリアさんは着物は大嫌いだったが、会場で志村さんの着物を見て「これが私の着たい着物だわ」と言い、生活を切り詰めて購入資金をつくり、その年の最高の作品を買ってくれた。


5、それだ! きみ、本を読みなさい
近代陶芸の巨匠・富本憲吉からは、本を読みたいと言った志村さんに「それだ! きみ、本を読みなさい。文学を読みなさい」。
弟子に技術の優れた人が何人もいるけれど、陶芸以外の勉強をしなかったら、だんだん精神が痩せてきたと。
国立近代美術館京都分館(現・京都国立近代美術館)の館長として赴任した今泉篤男さんは、民芸や職人芸ということにこだわりすぎて、仕事がかたくならないように、と。



6、霧の嵯峨野が「ぼかし」を生んだ
1968年、志村さんは京都・嵯峨野へ移り住み、東京から養父母を呼び寄せて一緒に暮らし始めた。
養父が「晩年は京都に住みたい」と望んでいた。
83年には、自身の半生や色への思いをつづった「一色一生」が大佛次郎賞を受けた。
93年には「語りかける花」で日本エッセイストクラブ賞も受賞している。
エッセイを書いたのは(詩人・評論家の)大岡信さんに「何か書いてみないか」と言われた。




7、まさか長女が継いでくれるとは
京都・嵯峨野に移り住んでから、志村さんは藍の染料をつくる「藍建て」に取り組み始めた。
実母の豊は藍という色をとても大切にしていた。
近江にいたときは、藍を染める紺屋(こうや)があった。
京都に移って藍建てを始めたがぬつかしかった。
ところが、長は月の満ち欠けと藍との関係を見いだした。
新月のころに藍を仕込んで、満月のころに染める、そうすると、藍が安定する。


8、亡き石牟礼さんの声 ふうっと
石牟礼道子さんと親しくなったのは、1990年代、雑誌「週刊金曜日」での対談がきっかけ。
その後のやりとりで、石牟礼さんから天草を舞台にした新作能の構想を聞き、衣装制作を頼まれた。
それが今秋上演される「沖宮(おきみや)」だ。
村のため海に沈むあやの魂を、天草四郎の霊が出迎えるーーーーー。
上演の準備が進んでいた今年2月、石牟礼さんが闘病の末に亡くなった。
石牟礼さんとは、天草四郎の衣ハクサギを染めた水磦(みはなだ)色、いけにえの少女あやの衣は紅花で染めた緋色、と話していた。

















9、植物にいただく命思いだして
「沖宮」の衣装が完成した。
今の時代はあまりにもものが増えすぎて、便利になり過ぎて。
欲望に従って世の中が動いている。
それぞれのものの価値や尊さが、失われてしまっている。
だからこそ「沖宮」が必要なんです。
「沖宮」に託したメッセージは、13年に長女洋子さんと設立した染織学校「アルスシムラ」の理念とも重なる。
植物とか蚕とか、自然の力を私たちはいただいている。
それを自分の手で織って、身につけるとうのは大切なこと。
この思いを一生大事にしてください。
植物からいただいた命を一生思いだしてください」と言いました。