2008年3月29日土曜日

民事再生法はテロだ

先日深夜、当社の取引会社がインターネットで情報を公開した。その内容というのは、取引会社が、その日、取締役会にて民事再生手続開始申し立てを行うことを決議し、同日所轄裁判所に受理されたこと。その結果、弁済禁止の保全処分の発令を受けたので、カクカクシカジカのお知らせいたします、ということだった。それと、もう一つ民事再生手続開始の申し立てを行ったことから、取引会社に対する債権について取立不能又は取立遅延のおそれが生じましたのでお知らせいたします。そんな内容が、突然、インターネットで流され、翌日の新聞に電撃的に発表された。この手の情報公開は、昼間を避けて深夜にやることが多いらしい。夜陰に乗じる? おかしいぞ、こんな情報公開こそ、白昼堂々とやってくれ。

翌日早速、当社に事業資金の融資をして頂いている金融機関の担当者から、内容確認の電話があった。私には、寝耳に水の話だったので、これから正確な情報を入手して報告します、また当社と取引会社との債権債務についてもまとめて報告しますから、しばらくお待ちください、と言って受話器を置いた。早速、帳簿、契約書をチェックした。調査の結果、当社と取引会社との債権債務は、当社の主要事業にはさほど影響はないことが判明した。取引会社と当社の関係を知っている人には、心配をかけてしまった。友人が気になって電話をくれる。何人かの友人には、余分な気を遣わせてしまった。持つべきものは、友人だ。

民事再生はテロですよ。

懇意にしてくれている金融機関の担当者は、私が少し内容を話しただけで、テロですよ、なんて言葉を発して私を驚かした。それではこの際、テロについて学術的?な知識も、今後必要になるだろうから、ここで一つ学習してみることにしますか。

テロの語源をインターネットで調べた。テロリズムの語源は、フランス革命末期のロベスピエールの恐怖政治の「terrerur、テロール、恐怖」よりきている、とある。それでは、テロの定義はどうかというと、日本の国内においてもいくつかの法令でテロリズムに関する規定を設けている。自衛隊法81条の2第1項では、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で多数の人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊する行為」とある。不特定多数の個人間、あるいは社会に介在する「合意」に対して物理力やある種の表現をもって介入し、衝撃を与えることで混乱や狼狽を誘い、結果として明示的なり暗示的なりに拘束されてきた合意事項を破綻させることを目的とする。生命や財産の継続性は社会契約の前提であり、これを遮断することによって合意の継続を困難にする手法である。

インターネットによる学習はここまでにして、ここからは当社担当の金融機関の人の話に戻ろう。事業資金を融資している会社とは、コミュニケーションを密にしていると、その会社の内容が苦もなく分かるものなのです。事務所の中が、まず埃っぽくなる。清掃が行き届かなくなる。社長と連絡が取れにくくなる。社員の意気が上がらない、社員の口からは会社の批判や社長に対する悪口が漏れる。社長は、世間や役所や銀行に対して愚痴っぽくなる。そして怒りっぽくなる。そういう状態になると、金融機関は貸付金の回収に比重がかかってきて、事業は先細りの一途をたどり、結果的に息の根が絶えるのです。これが、企業の事業や財務状況が悪化していく一般的なプロセスです。金融機関に働いて居る者には、これが普通の貸し手と借り手の関係なのです。でも、民事再生はちょっと違うのです。

民事再生手続き開始の申し立ては、社員も知らないうちに行われることがよくあるのです。取締役会が開かれ、そこで決議され、限られた社員だけが秘密裏に書類の作成に入るのです。担当役員と限られた社員だけが、担当弁護士事務所に缶詰になって書類を作成する。会社は、いつもと変わらない状態で業務がこなされていく。危機的な状況にあるなんて雰囲気は、これっぽっちも匂わせない。あくまでも、平静に安穏な時間が過ぎていく。対外的には当然、社内的にも一切情報は一滴も漏らさない。そして、予定した日時に、ドカーンとくるのです。取引会社に何の相談もなく、藪から棒だ。平和な市民社会を、瞬時にパニック状態におとしめる、テロだ。取引会社の都合なんて、何の斟酌(しんしゃく)もなく。これこそ、テロですよと主張する金融機関の担当者の言辞は全く当を得ているように思うのは、私だけだろうか。

2008年3月22日土曜日

連帯保証人はキツかあ!!

先日、大学のクラブの後輩と横浜で会った。話は次の様な事だった。

後輩は大学を卒業して、父親が若い頃創業してその経営権のバトンタッチを受けた兄が社長をしている会社に入社した。生業は、魚産物の卸と小売だ。約30年前のことです。当時もその会社は経済的には大変だったのだが、父親はここで倒産するとたくさんの人に迷惑をかけることになるので、もう一(ひと)頑張りしようや、ということで、金融機関にも借金の先延ばしをしてもらい、兄弟がタッグを組んでここまでやってきた。この先延ばしの際に、会社の借入金に兄と弟である後輩が連帯保証をしたのです。当初は頑張ればなんとかなると考えていたのだろうが、その後世の中、流通とくに物販については根本的にそのシステムは激変した。昔ながらの魚屋さん、八百屋さん、雑貨屋さん、肉屋さんからは客離れがして、大駐車場を備えたスーパーやショッピングセンターに客は奪われた。私の住んでいる住宅地にある分譲当時からの商店街には、今、買い物客の人影はない。30年前、私がここに引っ越してきたときには、魚屋に寄って八百屋に寄って酒屋さんに寄って帰ったものです。魚屋さんに海産物を卸して廻っていた後輩の会社も、その取扱量がガタガタに減って、商売は、陽が翳(かげ)っていく一方だった。

そして、ここへきて、ギブアップ。2回目の不渡りを2週間前に出したのです。

私と後輩は実は1ヶ月前に後輩たちの同窓会で会っているのです。その1年に1度の同窓会というのは、後輩と前後して卒業した気の合う者たちが集まって、サッカーの試合を楽しんで、その後昔話に花を咲かせては、鱈腹酒を飲むのです。私にとって仕事関係以外では唯一楽しみにしている集いなのです。

後輩はその会の帰途、自宅に向かっている最中に、奥さんから電話を受けたのです。「お義兄(にい)さんがやってきて、会社が倒産することになった。会社は破産、俺も破産するのでT(後輩)に言っておいてくれ」と。突然の話でもあるし、事が重大すぎることに後輩の奥さんは驚いた。何が起ころうとしているのか、心配で心配で、とにかく夫である後輩に話さなくてはならないと思い、彼に携帯電話をかけた。そうだったのか。突然、そんな無茶な話ってないよな。自宅に着いて夫婦で話し合った後、私のことを思いついて、私に電話してきた。私は後輩たちの状況の詳細が知らされる前に、大好きな後輩だったから、つい気を許してしまい、開口一番怒鳴ってしまった。なぜ、そんな大事なことを、同窓会で会ったときに俺に言わなかったのだと詰めた。この類の処理では、時間との戦いが大事であることを日常の業務で私は知っているからだ。突然だったのだ。

このような事態になって、最初電話を受けてから2,3日後に横浜で、後輩夫婦に会うことになった。詳細に聞いて、私なりに今後の想定される手続きを話した。そして、永い付き合いの司法書士さんにも、アドバイスをもらった。この司法書士さんに会わせて、ガタガタしてもしょうがないから、落ち着いて事に当たりなさい、と安心するように言って貰うのが、私の作戦でもあったのです。奥さんにも、少しはリラックスしてもらえたようだと、私は満足した。懇意にしていただいている弁護士さんのなかで、黒田弁護士がこの案件には適していると考えて、弁護士事務所へ後輩夫婦を案内した。

弁護士事務所で言われたことは、私なりに想定していた内容と同じだったが、ここであらためて書き置くことにした。①連帯保証とは、保証人が主たる債務者と連帯する保証債務のことです。人的保証です。②催告の抗弁権をもたない。債権者は主たる債務者に対して催告をしないで、いきなり連帯保証人に請求することができる。よって、債権者の求めに応じて直ちに連帯保証人が主たる債務者に代わって弁済しなければならない。③検索の抗弁権をもたない。債権者は主たる債務者に対して執行しないでいきなり連帯保証人に請求することができる。④共同連帯保証人がいるからといって持分のみで良いと考えてはいけない。⑤但し、一括弁済したときには他の連帯保証人に対して求償できる権利は持っているが、権利を行使する前に自らが悲惨な状態に陥る危険性が高いということを認識する必要がある。⑥このような事態を想定するならば、決して連帯保証人になってはならない。ーーー①~⑥はインターネットにのっていた文章を引用させていただいたが、黒田弁護士から伺った内容もこの通りだった。

奥さんの真面目さが、私には新鮮でまぶしかった。永い間、このような生真面目な人を見たことがなかったような気がした。久しぶりだ。彼女は、筋肉がドンドン弱っていくという難病に罹った実父の長期にわたる介護を一手に引き受けてきた。数年前に父はなくなったが、その看護の献身ぶりには、後輩も感服したと言っていた。その間に夫婦仲は一時的に壊れましたと後輩は苦笑していた。その父が娘夫婦の住宅の庭に、生前大事にしていた庭木をプレゼントしてくれた。この家で、家族が悩んだり、励まし合ったりして暮らしてきました。子供もこの家で、私に叱られたり、褒められたり、子供等は私が言うのも変ですが、いい子に育ってくれました。この家は、そんなうちの家族の全ての証人でもあるのです。庭木はお父さんなのです。いつも、我が家を心配しながら、見守っていてくれているのです。そんなこんなで、私はこの家を絶対手放す訳にはいかないのです、と言い切った。彼女の強い意志に心が打たれた。

後輩は、どういう立場で経営に参加していたか分からないのだが、法人登記簿の欄に取締役と登記されていて、取引の相手先に専務取締役と肩書きされた名刺を差し出しているようでは、商法上も立派な経営者だ。例え、社長の補佐的な立場だったといえども。でも後輩は、社業が思わしくなくなってきたのを機に、社長と話し合った結果2年ほど前に会社を退社して、友人の会社に勤めを変えたのです。そして、後輩はかって取締役をやっていた会社のことはすっかり忘れて、自分に与えられた職場で頑張っていた。職場が変われば、今までよく似た業界にいたといえども、学ばなくてはならないものが多くあって、それなりに刺激があって生活は充実していた。今までの経験が活かせて、職場の若手社員には、先生役だ。

そんな矢先の出来事だった。そこで、後輩は連帯保証人たる意味を復習して、それなりに大体は理解できたけれども、この先予想される事態はいかに?頭のなかは不安だらけで、他のことは何も入らない。何も手につかない状態なのです、と赤信号を私に向けて点けてきた。

後輩の会社の借り入れ資金に関する連帯債務の内容を調べてみると、連帯債務を負う借入金は2行(アとイ)の銀行からのもので、アは多額だけれどもイは割りと少額だった。後輩の自宅にはイからの住宅購入資金のローンが借り入れた当時は1500万だったが、今では残高が600万円に減っていた。自宅の土地建物にはそのイのみの抵当権しかついていなかったのが、幸いだった。私はイの担当者に電話をして、後輩の家を買いたいので幾ら支払えば、抵当権をはずしてくれますか?と聞いてみた。その内容は個人情報なのであなたには答えられない、とのことだった。当然の話だ。私との電話を終えてすぐに、イの担当者は、後輩の自宅を訪れ、内容の全てを知るためにあれこれ情報を求めたらしい。後輩の兄の会社が不渡りを出したことは、金融機関なら当たり前に知っていて、自らの銀行もその会社からの回収の方法を考えていたのだろう。否、回収できないと諦めていたのかも知れない。でも、この後輩からは、少しでも回収できそうな可能性がある、とも考えていたと思われる。今後、当行からは、きつい表現で申し訳ないのですが、文書が次々に届きますからよろしく、とも言った。自宅の土地建物についている抵当権を抹消するには、残高600万円と、連帯債務されている金額を揃えていただかないと抹消できません、これが当行の結論です、と言い置いて帰った。連帯債務をしているイの借入金額は、前の方で少額だと書いたけれども、それは私の不動産屋としての一般的な考え方だけれども、リストラを受けての再就職、それも50半ばの給料では、それは大変な高額なものになる。その二つを加算した金額は、到底一度には返済できない金額だった。

う~ん、じゃ、どうするか?。後輩の奥さんはこの家を絶対離れたくない、放したくないと言い切る。私と後輩とは35年の付き合いだ。大好きな後輩だ。なんとかしてやりたい。

イは後輩がかって役員をしていた会社からは回収が困難になると予想しているだろう。が、後輩の身辺の状況から、後輩からはいくばくかの回収は可能だと目論む。時間が経過していくと、連帯保証人の資産、会社の資産が管財人の管理下になっていく。そうなると、後輩の自宅もガチャガチャになる。ガチャガチャになると言ったって、何も物理的に乱されるということではなく、権利関係において民事訴訟法の手続きに進んで行くということです。法的な手続きに入るということです。言い換えれば、利害関係者間の話し合いは、もうできないっということなのです。そうなったら、イの目論見は雲散霧消だ。イも焦っている筈だ。

私は、イにお伺いするためにアポイントをとった。どうか、早い時期に、私たちの提案に承諾していただきたい。時機を逃すと、御行の回収は目減りする一方ですよ。アが次の手を打ってこないうちに、やっちゃいましょうよ。私は熱く説得した。融資の担当者も支店長も、私の話を真剣に聞き耳を立ててくれた。抵当権を抹消して欲しい当方の提示額を、何とかあと少し伸ばしていただけないでしょうか?敵はなかなか諦めてくれない、どこまでも食い下がってくる。支店長は、後輩に詰め寄る。後輩は答えた。私の一存ではどうにもなりません、このたびのことは、私が原因を作った張本人なのですから。痺れをきらしたイ側は、解りました、あなたたちの提示額で本部に決裁を求めるべく稟議を上げてみましょう、ということになった。そうして稟議は予定通りで決裁され、本日、抹消登記を終えた。

ここで、やっと私が世間に問いたい本論に入れることになる。それは連帯保証のことです。私のような中小企業の代表取締役で、事業の前線部隊の隊長を任されている者にとって、会社の事業資金の借り入れに際して、その債務に連帯保証を求められるのが、原則になっているようで、私はそれなりに理解している。--のですが、この連帯保証ということについて考えてみたいと思う。

債務が続く限りいつまでも、いつまでも連帯保証は続くものなのですか?連帯保証人は、加齢、病気、怪我による身の回りの事情が変化することだってある。経済的事情も変化する。主たる債務者との人間関係も変化する。そんな事情の変化にもかかわらず連帯保証は厳然といき続けるものなのですか。連帯保証を降りたいと思いつたら、どうすればいいのですか?あなたでは連帯保証人には物足りなくなったので、代役を立ててください、と言ってくれるまで待つのですか。私には、もう連帯保証人が務まりませんと言って、聞き耳を持ってくれるのですか。

現在の金融システムでは、担保物件の評価が十分でも人的保証が求められ、連帯保証人にさせられることは、よく理解できます。物的保証以上の保証を人間(人的保証)に求めないで、その会社の内容に資金を貸す側の担保取りをすれば、済むことではないのか。何が何でも人的保証をなくせ、とは言ってはいないのですが。又、どうしても追加保証を求めたいときには、せめて保証人の有する資産の範囲内に限るようにすべきではないか。

2008年3月6日木曜日

どこまで、鈍感なんだ。

鈍感な会社ぶりを見事に発揮してくれたではないか。さすが、立派な会社だ。

今回は、日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会をめぐり、グランドプリンス新高輪が、いったん予約を受けた会場の使用を拒んだことだ。宿泊客の安全を重視し、会場の使用を認めた裁判所の判断に従わなかったことを、記者会見で説明した。あたかも、自分たちには,責められることは何もないのだといわんばかりに。会見したのは、プリンスホテルや西武鉄道を統括する西武ホールディングスの後藤高志社長とプリンスホテルの渡辺幸弘社長だ。

営業の窓口になった担当者は、当初予約を受ける際に、上司に報告して了解を求めたと言っているそうだ。担当者や上司は、週ごとの、月ごとの営業会議で報告して、その施設の最高責任者も承諾した上で、ことは進められだのだと思う。受付をした担当者は、会社に居ずらくなって退社した。正直な担当者をみんなでいじめたのだろう。この会社には、昔から「この野郎」と目星をつけらると、居られない雰囲気を醸し出すのです。ヒステリックに。日教組の教研集会では、毎年街宣車が多数駆けつけることは、誰もが知っていることだ。このことも、社内では当然議論された。その上で、内金を受領しているのです。それを、日教組側がどれほど混乱を招くか説明を事前に十分しなかったという民法上の説明義務違反があったなんて、よくも白々しいことを言うもんだ。裁判所が下した会場使用を認めた仮処分に対しても「正しいとは思っていない。日教組が11月まで何の説明もしてこないのは異常。裁判所にもそこを分かって欲しい」なんて述べた。社内ではそんなことにはなっていない。司法の判断をこれほど軽視していいものなんですかね。

私には、まずは日教組に対して謝罪をして、それからいろいろ検討した結果受けられなかったのだというならば、そういうこともあるよなあ、と理解に努めることはできたのだが。この会見は、むしろプリンスホテルが日教組に抗議しているように見えた。日教組が悪いことをして叱られているようだった。

何かが可笑しいぞ。

それからホテルは、日教組の組合員の宿泊も断っており、旅館業法の疑いももたれている。このことを知ったとき、ピ~ンと頭に思い浮かんだのは、元ハンセン病患者の宿泊を拒否して営業停止の処分を受けた熊本か宮崎の宿泊施設のことだ。この施設の責任者も当初は、何やら発言したのだが、ことの重大性を悟り、前言の誤りに謝罪し頭を深く下げた。この事件も、宿泊施設の運営に関っている者ならば、誰もが知っている。その後、この宿泊施設の運営会社は倒産したと聞いた。

この会社の恐ろしいことは、社会から批判を受けても平気の平左衛門でいられることなのです。謝罪することも過去に何回もあったけれども、そのどれもが、我が心其処にあらずの態(てい)で頭を下げた。他人事のように。

少し前のことを思い出してください。

この会社の創業2代目社長が、証券取引法違反で頭を下げた会見が印象深い。偉大な父親が創業して、一時的といえども世界一金持ちだったこともある会社を、俺は辞めるから、後はみなに任せると身を引いた、その無責任ぶりには、おったまげた。それからグループ内のプロ野球球団が野球協約違反で頭を下げたときのことです。これは太田秀和社長だった。私が宣伝部だったとき、となりのブーツがプリンスホテルの総務部で、彼は総務の仕事の一環として野球部の仕事をしていた。この太田社長も創業2代目社長も、アンタ本気なのか、と疑いたくなるほど平気な顔面(かおつら)で頭を下げた。本気で悪いと、反省しているのだろうか?

創業2代目がそうなら、関連会社の社長も推して知るべしだ。そして今回も、同じだ。

この会社は、私が学校を卒業して、夢を胸いっぱいに膨らませて入社した会社です。その会社の余りのくだらなさにイヤ気がさして、昭和59年初夏、9年7ヶ月お世話になって退社した。隙間風が吹いたのです。某電鉄会社の親会社でした。観光レジャーにおいて、その事業展開に凄まじいものがありました。私はその拡大されていく事業の宣伝を担当するセクションに5年程従事したのです。宣伝部に配属された当時は、目につくもの、やること、全てが興味や関心をそそるもので、仕事の内容については楽しくてしょうがなかった。上司からは訳のわからないほど怒鳴られ、取引会社の担当者からは気の毒がられ、後輩からは激励され、心ある先輩からは同情され、それでも元気に頑張っていました。私の出身は京都府でも琵琶湖寄りだったので、近江地区でオープンするホテルの宣伝物の担当を命じられたときには、深夜12時ごろまで働いた。面白かった、楽しかった。仕事をさせてもらって、給料もらって、申し分なかったのですが、---。その宣伝部時代に、プリンスホテルの社長さんの渡辺幸弘さんと同室で仕事をしたのです。その渡辺社長が、今回の日教組との経緯の説明をするための記者会見に現れたので、懐かしい思いが吹っ飛んで、ああ、やっぱりなあ、と口ずさんでしまった。渡辺社長だけでないのですが、この会社ではコンプライアンス(法令順守)、「世間の常識」についての意識が希薄なのです。入社して、中間管理職、上級管理職、役員に上り詰める過程で、学習をするということが抜け落ちたままで進んで行く、世にも珍しい会社なのです。そのパターンを創業2代目社長が、学生時代の仲間と偏狭な論理を基に作り上げた。外部からの賢者も、サポーターも求めなかった。最後は惨めな裸の王様になるのです。

今から振り返って、思い返せば上司と名のつく人間たちは、何かに追われていたような気がする。幹部は魔物に取り憑かれていた。単細胞人間が、みんなを単細胞化していった。その魔物の存在に脅えていた。その魔物は、その会社の創業2代目社長さんのことだ。

2代目は、偉大な創業者の良いところは習わないで、くだらないことばかり猿真似をしていました。例えば、女をあっちこっちに囲うことや、会社の施設を個人的に使って憚らない。調整区域内では社員研修所としてしか許可が得られなかった建物は、壁が大理石で本宅用として居住に使われている。お前たちは、何も考えなくてもいいのだ。考えるのは、私だ。こんな調子で箱物だけを、ドンドン作り続けた。ソフト面はお構いなし。私が2年間働いた事業所では、支配人は、皿も、テントの色も、テーブルさえも自ら決めるのではなく、創業2代目社長に判断をあおいだ。俺は、与えられたものをキチンと守るだけでいいのだと、定年まで堅く勤めあげた。そこの支配人は、戦歌を歌いだしたら社員の誰をも圧倒 した、めでたい御仁でした。こんな人しか生き残れない会社だったのです!!

上記の内容を公開した翌日に、以前プリンスホテルに勤めて辞めた友人に会った。これからは、彼が話してくれたことです。JRのとある駅の構内に建築したホテルの責任者が、開業に際して、近隣で同業者でもあるプリンスホテルに挨拶に行かれたそうだ。そしたら、JRの責任者は、応対したプリンスホテルの支配人の腕輪が余りにも目立ったので、私は驚きましたと言っておられたそうだ。「なんじゃ、あれは?」とは言っていないそうだが、私にはそんな言葉がなんとなく聞こえてきそうだ。私には興味がないのですが、お坊さんが使っているような大きな数珠のようなものです。ヒスイを材料にして幸運にあやかりたいとか、マグネットのようなもので血流をよくする効用があるとか、結構流行っている、あれです。私には偏見があって、あれは普通の人は身につけないもんだ、と思っていました。日本のビジネス社会では、初めて会うと、まずは名詞を交換するのが慣わしです。その時に、大きな数珠まがいのものを見せられたら、相手は戸惑うことぐらい、考慮しなくてはいけないのではないか。この支配人は、先にに書いた戦歌を歌いだしたら、誰をも脱帽させる支配人とは、大学のクラブの先輩と後輩の関係だ。こりゃ、しょうがないのかなあ。



2008 2 28朝日朝刊 社説

プリンスホテル 少し勇気をだしたなら

「日教組(日本教職員組合)に会場を貸すことはけしからんと知らしめることが一つの目的。我々が迷惑だという理由で貸すのを断念したとしても、それはそれで結果が出た」

これはある右翼幹部の言葉である。

東京のグランドプリンスホテル新高輪が日教組に教育研究集会の会場を貸すのを断ったことは、右翼団体の思うつぼだったのだ。街宣車で騒音をまきちらし、威圧的に走り回れば、集会をつぶせるという悪い前例を残してしまった。

そうしたことをプリンスホテルはいくらかでも反省しているのかと思っていたのだが、そうではなかった。ホテルの社長や親会社の社長が初めて会見し、「ホテル側としての安心安全を考えることも同義的責任」と述べ、会場使用を断ったことの正当性を改めて主張した。

会場に使わせよ、という裁判所の命令についても、プリンスホテルは「正しいとは思っていない」と述べ、命令を無視したことの非を認めなかった。

ホテルの周辺に街宣車が押しかければ、泊り客や結婚式の客だけでなく、周辺地域にも迷惑となる。当日は多くの学校で入学試験が予定されており、道路が封鎖されれば、会場に向かう受験生らが混乱する。それらが、いったん受付た予約を取り消した理由だった。

ホテル側の心配はわからないわけではない。しかし、社会の一員として考えてもらいたいことがある。

ホテルに影響があるにしても、悪いのは日教組の集会ではない。我がもの顔で走り廻る街宣車こそ、批判されるべきものだ。右翼の横暴に屈すれば、集会を開けるところがますます少なくなってしまう。それは健全な社会とはいえない。

ホテル側は「集会の自由」について「民間に会場提供を強制するものではない」と主張している。そうだとしても、言論や集会の自由とはまったく無関係という顔をしていいのだろうか。

ホテルが挙げる混乱についても、裁判所は「日教組や警察と十分打ち合わせをすれば、防げる」と判断した。

世の中の理不尽な行為に対しては、警察の協力を得て、立ち向かう。日本を代表するホテルの一つであればこそ、そうした姿勢を示して欲しいと思うのだ。

ふだんは、日教組に辛口な新聞も含め、多くのメディがプリンスホテルの姿勢を厳しく批判したのも、著名なホテルの社会的責任を重く見てのことだろう。

驚いたのは、集会参加の教師等の宿泊予約も取り消していたことだ。ホテル側は「会場使用と一体」というが、風紀を乱す恐れがある場合などを除いて宿泊は拒否できない。旅館業法違反の疑いが濃いと厚生労働省が述べたのも当然だ。もしプリンスホテルが右翼の横暴に対して少しの勇気を見せたなら、広く社会の共感を呼び、応援する市民や組織も出てくるだろう。それは健全な市民社会に勇気を与えることにもなるはずだ。

2008 2 29の朝日朝刊 天声人語にも取り上げられた。以下の通り

司法判断に従わず日教組の教研集会に会場を貸さなかったグランドプリンスホテル新高輪に、東工大の橋爪大三郎教授が喝。「いったん約束したら、体張っても客を守るのがホテルの責任ーー近所の迷惑とかと言い始める江戸時代の発想では困るのだ」

2008年2月26日火曜日

ハンドボール。五輪予選やり直し

世にも珍しいことが起こった。北京五輪のハンドボールのアジア予選が、不自然な審判が原因でやり直しをすることになって、現実にやり直しが行われた。こんな前代未聞の出来事が起こったのです。そうしたことがあって、私が尊敬するセルジオ越後さんが新聞紙上にコメントを出した。さすがにセルジオさんらしいコメントだったけれども、競技をやってきた者には、理解できただろうが、なかなか難しい内容でもあった。そして数日後、朝日新聞の社説でもこの問題に触れた。二つの記事を読んで、全体の問題点、反省点、競技の理想の姿、競技の本質が明らかにされた。

本題に入る前に、私が知っているセルジオ越後さんの素顔の一部を紹介したい。

20年程以前、私が今住んでいる保土ヶ谷・権太坂の地元自治会の要請で、子供のサッカーチームの指導をしていた時期がありました。対象は自治会内に住んでいる小学生でした。当初、自治会役員が予定していたコーチが、朝寝坊したり、突然キャンセルしたりするものだから、代わりの人間を探していたところに、私に白羽の矢がたったのです。日本サッカー協会の催事としてセルジオ越後さんのサッカー教室が相模原で行われ、子供たちを率いて参加したことがあったのです。そのときに、セルジオ越後さんは、私でさえ見たことのない足技を披露して、受講生の誰をも目を点にさせた。そして楽しい、ウイットに富んだお話をしてくれた。

これからは、セルジオ越後さんのお話です。「私が小さかった頃には、塾は勿論、テレビゲームもゲームボーイもなかったので、私には有り余る時間がありました。暇人(ヒマジン)でした。その時間をサッカーというよりは、ボールを蹴ること、フェント、ボールの止め方に工夫をこらしたのです。誰もがやったことのないやり方を思いついて、それをいつでも、どんな状態のなかでも出来るように、なんかいも何回も繰り返し練習をしました。そして、私のヒマジンは、もう天才的ヒマジンになっていたのです。天才的ヒマジンを自負していました。学校の行き帰り、お買い物の行き帰り、家の中、道路で、野原で。ボールを頭で、肩で、胸で、背中で、足の甲、裏、内と外そのどちらでもない部分で、ボールを地面に落とさないようにリフティング。そうして、大人からも先生からも、私は天才的ヒマジンと公言されるようになったのです」。

私より1年先輩の脇 裕二さんは日本サッカーリーグで藤和不動産に所属していた。藤和不動産が天皇杯で優勝したときのキャップテンを務めた。その試合をテレビで観戦していたのですが、彼の奮闘振りは凄まじいものがあった。前線に最後尾に、重要な戦機に必ず出没していた。その彼が、セルジオ越後さんのボールのキープ力を、褒めていた。アイツからは絶対ボールを奪えない。ひとたびアイツがボールをもつと、二人がかりでないとボールをとれないんじゃ。そのサッカー教室では、10人ほどの子供からも狭いミニサッカーコート内を逃げ切ってみせた。

①朝日朝刊 セルジオ越後 サッカー解説者(元プロサッカー選手)

セルジオ越後

ハンドボール 勝つために何をしてきたのか

「中東の笛」で五輪アジア予選がやり直しになり、、日本で無名なスポーツだったハンドボールが思わぬ形で脚光を浴びた。クウェートの王族がアジアハンドボール連盟を牛耳っていると言われるが、もともとスポーツは、「権力」と切り離せない関係にある。バレーボールの五輪出場権をかけた大会が、日本という固定された国で開催されるのも、興行的な力がそうさせており、これも、一種の「権力」と言えるのかもしれない。

今回は、ジャッジ(審判)の問題なので大ごとになったが、ジャッジミスはスポーツの世界ではよくあることだ。サッカーの日韓ワールドカップで、ベシト4に進んだ韓国に有利な笛があったのは有名な話だ。

「中東の笛」は、たまたまではなく、長年の常識と言われているが、負けた側がジャッジを問題にしても、説得力がない。この間、韓国は何度も五輪に出場している。問題の本質は、「日本はなぜ勝てなかったのか」ということである。ジャッジミスがあっても負けないほどの実力をつけるべきで、そのために何をしてきたのか、ということが本来問われるべきである。

ハンドボールが無名スポーツに甘んじてきたのは、企業スポーツというアマチュアのままだったからではないだろうか。プロとアマの違いは「けじめ」にある。負ければ関係者が責任をとるのがプロの世界だ。プロ化すれば発言力もついてくる。

今回の騒ぎは、日本のハンドボールを変えていく大きなチャンスである。このエネルギーを利用し、協会が先頭に立って新たな運動を始めるべきなのに、ハンドボールをどう育てたいのか、という理念が伝わってこないのは残念だ。メディアにも責任がある。やり直しの日韓決戦をあれだけ盛り上げておこながら、その後の国内リーグの扱いはわずかだけ。ワイドショー的にハンドボールを利用した、と批判されても仕方ないだろう。

今回の事態は、日本のスポーツ文化の問題点も映しだした。私は06年夏から、アイスホッケー・アジアリーグの日光アイスバックスのシニアディレクターをしている。資金難で撤退した企業チームを受け継ぎ、プロチームとして存続させるために、スポンサー獲得などを無償で手伝っている。スポーツ記者からは「なんでアイスホッケー?」とびっくりされたが、そんなに不思議なことなのだろうか。

日本には「種目文化」の後遺症があると思う。学校での部活動は、「自由にスポーツを楽しむ」ことが許されず、一種目しかできない「貧しさ」がある。学校以外でスポーツを楽しむ機会もまだ少ない。だから、やったことのあるスポーツしか興味を持てなくなり、違う種目は敵とさえ思ってしまう。ハンドボールもアイスホッケーも、スポーツはみんな面白い。そうした当たり前のことを気づかせてくれるようなスポーツ文化を育てないといけない。

「日本は縦割り社会」と言われているが、シポーツこそ横割りにつながるべきだと思う。大企業に頼る企業スポーツでは、横へのつながりは生まれない。その役割を果たす組織として、地域でクラブを育てていくべきだ。地域がスポーツでつながり、みんなで助け合って苦労していけば、すそ野は自然と広がるだろう。

「宿題」がいっぱいあることがわかったことが、今回の一番の収穫ではないか。中東の王族の力の大きさを嘆くよりも、自分たちの努力不足をまず問い直すべきである。

②朝日朝刊 社説 ハンドボール

対話のパスで対立ほぐせ

こんな泥沼の争いはスポーツに似つかわしくない。そろそろ打開の道へとかじを切るべき時だろう。

ハンドボール界の国際連盟とアジア連盟の対立のことである。

騒ぎの発端は、「中東の笛」と呼ばれる不自然な審判だった。国際連盟は北京五輪のアジア予選をやり直した。その結果、男女とも韓国が五輪の出場権を得て、敗れた日本は世界最終予選に回ることになった。中東の国々などはやり直し予選への参加を拒んだ。

アジア選手権が17日からイランで始まる。これに対し、国際連盟は来年の世界選手権のアジア代表選考会とは認めないことを決めた。アジア連盟が大会の運営権を手放さず、審判の選定も自分たちでおこなうと譲らなかったからだ。

一連の動きで、アジア連盟のかたくなな態度は異常という他ない。だが、ここにきて微妙な変化も出ている。

やり直し予選に出場した日本と韓国に対し、アジア連盟が決めた処分は罰金千ドル(約10万8千円)と警告だけだった。資格停止などの厳罰を科す構えを見せていただけに、予想外の軽さである。追加処分もにおわせてはいるが、本気かどうかはわからない。

アジア連盟は、クウェートの王族アーマド会長が率いている。アーマド氏はこの騒ぎで、「日本は信頼できない」といい、2016年の東京への五輪招致は支持できないと発言していた。だが、これも事実上、撤回した。

国際オリンピック委員会(IOC)は国際連盟を支持している。孤立するアジア連盟は、強気の態度とは裏腹に手詰まりというのが現実の姿だろう。

ここで日本はどうすべきなのか。

処分に従う必要がないのは言うまでもない。国際連盟も早くからアジア連盟の処分は無効だとの判断を示している。

大事なのは、日本ハンドボール協会がきちんと意見を主張し、仲間を増やしながら、アジア連盟の体質を変えていくことだ。今回、韓国と手を携えてアジア予選のやり直しを実現させた経験も役に立つだろう。アジア選手権が世界選手権の予選でなくなっても進んで参加し、多くの国々と対話を重ねたい。

不思議なのは、静観している日本オリンピック委員会(JOC)の態度だ。アーマド氏はアジア・オリンピック評議会の会長を兼ねているので、ことはハンドボール界だけの話では済まない。

東京への五輪招致に真剣に取り組むというのなら、言うべきことは言ったうえで、アーマド氏を取り込むぐらいの指導力を発揮したらどうか。

日本ではあまり注目を浴びることのなかったハンドボールが、今回の騒ぎで大きな関心を集めた。テレビ中継もされたやり直し予選で、選手の俊敏な動きに引き込まれた人も多かったろう。

今こそ対立をほぐして再出発することがハンドボール界に求められている。

2008年2月23日土曜日

今の不動産事情をまとめてみた

昨年 8月。今まで聞いたことのない「サブプライム」問題が、突然天から降ってきた。なんじゃ、サブプライムちゅうのは? アメリカの、信用力の低い低所得者向きの住宅ローンのことだ、と聞かされた。信用力が低い?とか低所得者向け?って、それ差別用語じゃないのか。それが、どうした? その内容が分からないままに、あれよあれよという間に我が日本の地価が下落し始めた。神奈川県でも、9,10,11,12月と地価は5%~15%下がった。8月以前に企画した商品が、商品化されたときには、もうそのときには住宅購入層には受け入れられない価額になってしまった。我社は日常業務において、そんなことはとっくに認識していたが、不動産仲介会社のスタッフはもちろん、その会社の管理職でさえ理解していなかった。我社は新しい市場で新しい商品を作り出そうと懸命に努力したけれども、地価が下がり続けている環境下では、なかなかいい成果は出せなかった。でも、この頃は我社が活躍の場にしている地域でのことですが、地価は落ち着いたように思う。

今回の地価の変動で、社員の教育にはいい材料になったのではないかと思っている。我社の管理職以外の社員は、社歴も浅く、こんなに変動するのを初めて経験したのです。2006 12 23発売の週刊ダイヤモンドでは「地価狂乱」を特集、まだまだ地価は上がります、東京はまだまだ買える、そんな記事が満載。そして、2007 12 15発売の週刊現代では「不動産バブル崩壊で平成大恐慌」を特集した。同時期に週刊ダイヤモンドでは「ゼネコン断末魔」を特集した。たかだか、1年間にこの激変ぶりだ。

この短期間にこれ程の激変なので、建売やマンションのように企画から商品化までに時間がかかる事業 はどの会社も苦戦を強いられた。事実、マンション専業のグレイス住販、アジャックスが最近倒産した。

この4~5年、地価は二極化して、東京の全域、横浜の主要な駅に歩ける地域、とくに山手地区、湘南地区、鎌倉、葉山が上がった。その他の地域では顕著な動きはなかった。例えば、湘南地域の藤沢市鵠沼松ヶ丘は去年の春には坪単価140万円ほどしていたのが、今では110万円まで下がった。この価額なら流通する。東戸塚駅から歩いて10分以内なら、やはり坪単価140万円はしていた。が、最近では115万円位だろう。このように地価は、下げ止まりをした、と私は考えている。

アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪をひく。

2006年まで続いたアメリカの住宅ブームは低金利に支えられていた。家計が抱える住宅ローン残高は積みあがっていたが、毎月の利払い負担はそれほど増加しなかったために住宅ブームは長期化した。しかし、2004年から2006年にかけて行われた利上げ政策の影響を受けて2007年以降一転して住宅価額の下落基調になり、住宅価額の上昇を前提にしていた借り手のローン返済が滞りだした。デトロイトでは住宅の差し押さえ率が4,9%だそうです。全米の平均は4%。デトロイトでは、ほぼ20軒に1軒は差し押さえられていることになる。超異常です。そしてこの住宅不況はアメリカ経済の全体に必ず大きな影響を及ぼすことになって、我が日本にもこれから何年も影響を与えることになるのだろう。

先日、三井関係の不動産会社の代表取締役会長の講演を聞いた。その講演者に不良債権化している住宅の債権を、アメリカなら力があるのでみんな買っちゃえばいいじゃないですか、日本がかってバブルがはじけたときに破綻した銀行を国営化したようにすればいいじゃないですか、と尋ねた。講演者は、君はいいことを聞くね、が事態はそんな簡単じゃないんだよ、と前置きしてその深刻さを説明してくれた。優良な債権は配当が低いので金融商品としては魅力がもの足りない。その配当を少しでも良くするために、サブプライムの貸付債権を証券化したものをサンドウィッチにして売り出したことにあるのですよ、と。

悪貨は良貨を駆逐するってやつですか? まあ、そういうことかな。

信用度の低い家計向き不動産担保貸付が、厳正な審査もしないでドンドン貸せば、結果どうなるかぐらい想像できた筈なのだ。そしてその貸付債権を証券化して、世界を駆け巡った。東京の某信用組合が50億とか、60億とか買っていたというではないか。でも、欧米の金融機関に比べて、日本の金融機関の不良債権はたかが知れている。それにもかかわらず、なぜ日本の金融機関が不動産融資に慎重なのか。理由は、バブル再来を恐れた金融庁が、日本の金融機関に不動産融資の自主規制を暗に要請したからである。

過去には、1990年初頭、不動産バブルを冷やすため、大蔵省は不動産業界への融資を絞る「総量規制」を実施した。これで一気にバブル崩壊の坂を転げ落ちた。

そして今、各金融機関が融資の出し渋りが始まった。どの金融機関も、不動産の評価を厳しくしたり、社有在庫の量をみながらの融資だ。

神奈川県内においては、もう既に地価の下落機運は沈静化しているように思っている。この2~3年の最高値から10%から15%を引いた金額なら、物件は売れているのです。我社は今、懸命に新しい市場での新しい商品作りを行っていることは先に書いた。売れているのです。先月も、今月も売れている。新価額でなら。そこで、我社のスタッフには今所有する物件を、できるだけ早く損をしてでも処分することだと言い続けている。そして新しい商品を早く作ることだと発奮を促している。

昨年6月の建築基準法の改正で、建築確認がなかなか取得できなくて、工務店、不動産屋は、大変だった。このことについては、後日書き足します。

「天龍の改革」から学べ

こんな記事を提供してくれるから、新聞を読み続ける習慣は絶えないのだと思う。読み終えて、どうして古紙回収にまわすことができようか。ファイルするしかないと思って転載した。この天龍さんの行動が、当時の色々な問題を惹起したのだろう。

稽古をつけてやるといって、殴る蹴るのリンチで若い力士が亡くなった。この部屋の前親方・時津風親方が先月逮捕された。亡くなってからの親方の嘘八百の言辞と振る舞い、相撲協会特に理事長の情けないほどの不適切な行動、結果、警察や司直のお世話になるような最悪の結末だ。横綱・朝青龍の相撲協会や親方、ファンを馬鹿にした行動。それを監督できない親方(元・朝潮)と理事長(元・北の潮)。

その以前、覚せい剤使用、八百長事件については未だに、協会はうやむやに葬ろうとしている。それに、何で相撲が国技なのだろう?

08 2 17(日)朝日朝刊

私の視点 団体役員・伊藤昭一

伊藤・€・€一

大相撲 「天龍の改革」から学べ

日本相撲界は昨年には朝青龍の帰国問題、今月には力士が急死した事件で時津風部屋の前親方が傷害致死容疑で逮捕されるなど大揺れだ。相撲界をよくするためにも過去の相撲界の歴史に学ぶ必要がある。いささか古いが、力士「天龍」が目指した相撲界の改革の経過を振り返ってみたい。

事件は1932(昭和7)年1月6日に起こった。出羽海部屋の十両以上の力士32人が、一人も欠けることなく関脇力士だった天龍の飛びかけに応じて終結し、部屋を出た。そして日本相撲協会に次のような改革案(骨子)を提示したのである。

① 会計を明瞭に ②興行時間の改正 ③一般大衆のために入場料を安くする ④相撲茶屋の廃止 ⑤年寄制度の廃止 ⑥養老金制度の改革 ⑦地方巡業制度の改革 ⑧力士の生活の安定 ⑨冗員の整理 ⑩力士の共済制度確立

14日から始まる正月場所が間近に迫っていた。返答を先延ばしにしようとする協会との話し合いは決裂し、天龍たちは「大日本相撲協会」の組織を作って別に興行を開催した。天龍、わずか29歳の時である。

その興行は従来の取り組みではなかった。当時としては珍しいトーナメント制とリーグ制を併用したり、お好み挑戦試合を行ったりするなど、実に工夫をこらしたものであったという。

この相撲界の分裂は確かに問題であったらしく、当時の新聞も「天龍事件」として報道している。天龍たちの行動を好意的に見る人ばかりでなく、反体制的な行動だとして、様々な妨害もあった。

そこで天龍たちはやむなく東京から大阪に本拠を移した。そしてここでの興行を6年間にわたって開催したが、やがて解散のやむなきに至った。

天龍についてきた力士の一人ひとりのその後の手だてをし、ある力士には相撲協会に復帰させた、そしてもう一人の指導者であった大関「大ノ里」とともに満州に渡り、その地の青少年の指導にあたった。

私は天龍こと和久田三郎が生まれた浜松市と同郷である。その生家にも極めて近かったが、500軒ほどあるその地域で天龍のことを知っている人はほとんどいなかった。

たまたま天龍のおいがその地域で健在で、私は天龍のことを聞く機会を得た。さらに天龍が戦後になって著した自叙伝も見つかった。それを読むにつけ、戦前だというのによくこのようなことを考えて実行に移したものだと感心するだけであった。そうするうちに相撲界の不祥事である。私はその業績を出来る限り明らかにしたいと思った。

天龍の示した改革案は、相撲協会の運営の不透明さと、当時の力士が「使い捨て」であったことを明らかにしている。今この改革案をみてもその新しさは失われてはいない。国技である相撲の伝統を守りばがら、日本相撲協会を発展させるための改革とは何か。

天龍が目指して果たせなかったことを協会はいま一度、かみしめてほしい。

2008年2月4日月曜日

福も鬼も、内へ来い!!

2月3日は、節分だ。

今までは、大豆の煎り豆を「福は内、鬼は外」と言いながら、家の内外にまいたものでした。子供が小さかった頃、自宅のチャイムを鳴らして帰宅を知らせると、女房が走ってきて、私はにわか作りの鬼にさせられ、子供等から豆の集中攻撃を受けるのでした。鬼の面をかぶった私に、「鬼は外」と。それから、去年は孫に「鬼は外」と言って豆を投げられた。豆をまくことで邪を追い払う。早く冷蔵庫のビールを飲みたいのに、一通り怖い鬼を演じないと家に入れてもらえない。私は、いつも(邪)鬼だった。

私の代わりに犬のゴンが鬼役を引き受けてくれたこともあった。鬼の面を紐で結びつけられ豆を投げつけられた。その豆を拾い食いしてお腹をこわし、ゴンは引退した。ゴンにとっては、人間こそ鬼だったのではないのか。優秀な犬だったから、馬鹿な人間どもにも、嫌々ながらもよく付き合ってくれた。

でも良く考えてみると、「鬼は外」ばかり言われ放しでは、余りにも鬼は可哀想ではないか、と思うようになった。鬼さんだって、たまには皆と楽しく過ごしたいと思っているのではないのか。歳のせいかな。私は、今年で60歳だ。

今夜は「福も鬼も、内へ来い」と掛け声をかけようと思っている。

私の田舎、京都府綴喜郡宇治田原町の節分には、住宅や農機具小屋、牛舎、蔵、便所(かって、水洗ではなかったので別棟になっていた)の入り口と出口に、ヒイラギの枝の先に生の鰯(いわし)の頭を刺して、掲げるのです。鰯の本体は焼き魚として夕餉のおかずとしていただいた。ヒイラギの葉には棘のようなものがあって、鬼を嫌がらせるのです。鰯の頭は臭くて、鬼が近寄りたがらない。このようにして、鬼から、我々の生活を守ろうとしたのです。