2016年6月2日木曜日

虎杖(いたどり)って、知ってる?



このブログのタイトルの虎杖は、スカンポ、イタドリとも読むらしい。
子供の頃、どちらの名称も使っていた。

イタドリ(スカンポ)の佃煮~!

スカンポ、イタドリだって、おかずになるって、本当か?

この野草の植生と、料理法を雑誌の広告記事でみた。
記事では、恰(あたか)も珍しい植物のように扱われていた。
が、私のような田舎暮らしの者にとって、何故、あの野草をそんなに重宝がるのか?
と、不思議でしょうがなかった。

この広告記事というのは、スカンポの滋養を活かした食品だった。

昨日までは、ただの雑草のひとつに過ぎなかった。
あんな物でも食えば、この世の中、食えない物はないゾーーーーーーー、これは、食べ物のお天道様のお言葉だ。

子供の頃、この野草を引き抜いては、友人にゴミのようにぶち当てた。
この野草だって、非力な弾丸になった?

いやがらせ、だった。
私にとってこの草はただのゴミで、草にとって私は卑劣で卑怯な乱暴者だった。

田舎では、イタドリとかスカンポとか、勝手な名称を使っていたので、どちらが正式な名称で、どちらが変則的? もしくは非常識なのか解らない。
子供の私は、野原で皮をはがして、青白い身を食べた。
不味(まず)くはなかった。

ネットで、この野草のことを、その姿態から虎杖(こじょう)とか虎杖根とか言うらしいことも知った。
日本は実に文化的だ。


ネット情報より
 タデ科の多年草。山野に自生。高さ約1.5メートル。茎にはかすかな紅色の斑点があり、葉は卵形で先がとがる。雌雄異株。夏、白色または淡紅色の小花が円錐状につく。花が紅色のものを特に、明月草(めいげつそう)とよぶ。若い茎は酸っぱいが、食べられる。
東京の友人にこの草のことを尋ねても、知らないの一点バリだった。

6月1日に行われる京都貴船神社の祭礼。
もと陰暦の4月と11月の1日に行われ、4月の祭礼では、付近に生えた虎杖(いたどり)を採って、大きさや量を競い虎杖祭と呼ばれた。

「スカンポ」の画像検索結果 

イタドリの植生だ。
イタドリ/いたどり/スカンポ<春の山菜イタドリ・すかんぽ・調理方法・あく抜き・山菜・食べ方

摘み取って、並べてみた。


イタドリの胡麻和え

イタドリ(すかんぽ)のごまあえ レシピ・作り方 by サエコさん|楽天レシピ 

イタドリを鍋に入れて、さっと茹で、水を張ったボウルに取り出す。
イタドリの水気を拭き、塩と胡麻で和える。
食べる時に少し醤油を垂らす。


イタドリのお浸し

イタドリのお浸し

鍋で茹でたものを、醤油と辣油で炒めたもの。

2016年5月27日金曜日

紫陽花(あじさい)の季節だ!!

紫陽花の季節がやってきた。

Img_7855

5月が終わって、これからはワ~シィの季節だと、紫陽花の枝木に力が溢れている。
息吹(いぶき)っている♯ という奴だ。
元気盛りの私だって、これからやってくる暑気に負けるものかと♭ こっちも、気が張り詰まってきた。
冬の寒気にも夏の暖気にも、そうやすやす、心も体も許しません。

前のような文章を綴って、会社を出た。
ビールを飲んで、夕食のために食卓についた。
5月26日の19時半
テーブルの壁に近い部分に紫陽花の花が、ガラスの花瓶に入れられて置いてある。
真っ紫(むらさき)の紫陽花だ。
お~い この紫陽花はどうしたの?
未だ、季節が早いから、買うには髙かったでしょ?
この私の問いに、返ってきたのは、この花は長女の庭に咲いていたものなのよ。
いったい、この紫の原因は何だ。

土壌が、酸性度、アルミニウムイオン量は?
開花までの日数は?
これらのことは、後ほど調べなくてはならん!!
私の家から200メートルほどの近くに住んでいる長女夫婦の広い庭に咲いているものを、ちょっといただいてきたようだ。

紫陽花の花が咲くのは、6月に入ってからだと思い込んでいたので、嬉しさよりも、アッケにとられた。


生家の畑の周りで、よく咲いていた花は、春は桜、コブシ、サクラソウ、タンポポ。夏は紫陽花にカーネーション、アサガオ、ハイビスカス、ヒマワリ。秋は菊、コスモス、ツワブキ、キキョウだ。
ハイカラな花はないが、どの花も機嫌よく、体の調子はデッコウチョウ。
栽培方法は、さすがに山岡流で、我が家馴染みの無農薬で無肥料。
水をさすのも、御天候さまにおねだりのしっ放(はな)し。
言い方を変えれば、放(ほ)~り放(ぱな)し。
でも、、どの種類のどの花も、活き活きとして、実に山岡的に奔放なのだ。

何故、この内容を書きたくなったかというと、私の家と道路向いの三女の家に、紫陽花の緑の蕾の塊が大きくなってきて、その蕾からどのような色の花が咲くのか、楽しみにしているからだ。
怪我あがりの、今の私にとって、楽しみなんて、あれもこれもと、いっぱいあるわけではない。

生まれ育った京都府綴喜郡宇治田原町と、通学した府立城南高校の宇治だけが、私の20才までの生地だ。
その宇治に、下の写真にある三室戸寺とあじさい公園があった。

高校生のときに、気楽に参詣したことはあるが、その幽玄さに心が奪われた。
歴史の重みが静かで、深層。 
勇壮な森の入り口に毅然とある。
そのとき、その様を、実に不思議に思えた
だが、、、、、参詣したときに感じたこの幽玄さと、この不思議さを文字にできないのが、辛い。
私には、能力がないのだ。  


三室戸寺(みむろとじ)

Mimurotoji5544.JPG

三室戸寺
所在地京都府宇治市莵道滋賀谷21
位置北緯34度54分1.72秒東経135度49分9.10秒座標北緯34度54分1.72秒 東経135度49分9.10秒
山号明星山
宗派本山修験宗別格本山
本尊千手観音秘仏
創建年(伝)宝亀年間(770年781年)
開基(伝)光仁天皇
札所等西国三十三所10番
神仏霊場巡拝の道124番(京都44番)
文化財木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像、木造釈迦如来立像、木造毘沙門天立像(重要文化財)
京阪宇治線「三室戸」駅より徒歩15分





Img_7853

Img_7840

あじさい公園

あじさい公園のことは、このお寺のホームページを観ていただけば、何もかもよーくわかる。

1万株のあじさいが、杉木立の間に咲く様は、絵巻のようで素晴らしい景観だ。
50種、1万株の西洋アジサイ・額あじさい、柏葉アジサイ、幻の紫陽花「七段花」等が咲き乱れ、
「あじさい寺」とも称されている。

実に紫陽花の名所だ。

土壌の酸性度やアルミニウムイオン量、開花からの日数など、複数の要因が重なって色が変わるとされている。
その様子を「七変化」といわれている。


三室戸寺地図


2016年5月17日火曜日

何??、、、、、板東俘虜収容所


何!!  そんな板東俘虜収容所だったの?

板東俘虜収容所・ロケ地の門


日本軍の俘虜(ふりょ)となったドイツ兵の収容所が、驚くことなかれ、四国の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)にあったことを、ある小説を読んで、知った。

外国人俘虜の収容所があったことなんて、私には大きな驚きだった。

私は、京都府と滋賀県の国境、山奥の山奥で、教育なんてきっちり受けていなかった。
父からも母からも、ナーンにも教えられなかった。

よく調べると、日本の何処にもこの類の俘虜収容所はあったらしいが、この収容所はその運営に関して、特に、注目することが多かった。
施設の中だけのことではなく、管理者の日本人と捕虜との交流が、ミ!ン!シ!ュ!テ!キだった。
珍しいことに、地元の女性との恋愛もあった。

そこにきて、収容施設内での人間関係は、崇高でレベルが高かった。

村や町の人々との交流には、涙が溢れることが多々あって、私は人間が変わったように、ドイツと日本の両国の虜(とりこ)になった。
交流や運営が、公正で民主的、文化的、学問的で、食文化も先鋭だった。

このブログを書き始めた動機は、この小説の読後感想の心算だった。
が、そんなことよりも、想いもしなかった収容所の内容に心を奪われた。
これが、書き出しの源泉だ。

本の題名から、醸し出す内容が、融和で仄々(ほのぼの)とするものだったので、書店の中で10ページほど読んだ。

ところが、ドッコイ、不思議だった。
日本軍の持つ、強固で荒々しく緊迫的なものは、どこにも見えずに、美しい交流そのものだった。
悲哀っぽく、心身が鋳(い)たまる箇所は、なかった。

日本のどこにもある、古本を廉価で販売するチェーン店で、いい加減に買った。
東戸塚駅前の店だった。

こんな施設に、ちょ~っとも関心を寄せないまま、餓鬼大将からバスケットボール、サッカーと、少年から青年、成年になった。

そして、今や、悲しい老人になってしまった。
私は、昭和23年9月の生まれで67歳、日本国は敗戦後71年。

その私が、ここにきて、このショック。

今まで、何も知らないで過ごしてきたことが、嘘のような本当の話だ。

この小説は、潮出版社の「ハンスの林檎」、著者は村上政彦氏だ。
この書名の「ハンスの林檎」は、ドイツで長らく使われてきた私生活での標語?だ。
それは後々、解説させてもらおう。

ハンスの林檎
「ハンスの林檎」

板東俘虜収容所

収容所長の松江大佐


以下は、ネットの記事をそのまま参考にさせてもらった。

徳島県、旧板野郡板東町の「板東俘虜収容所」を読んでいただければ、詳細に知ることが可能です。

第一次世界世界大戦期に、ドイツの極東根拠地の中国の青島(チンタオ)で、日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名を1917年から1920年まで収容した。

この収容所は2年と10か月使用された。



指揮棒を持って強烈な個性で指揮をとっているベートーベンの心像。
ベートーベンの「第九」交響曲は、1918年6月1日、板東において日本で初めて演奏された。


概要

1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。

収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後は大佐)。
松江大佐は、捕虜らの自主活動を奨励した。

今日に至るまで日本で最も有名な捕虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で、友好的な処置を行ったとして知られている。


先の小説では、ドイツ人捕虜と日本人の交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまで両国の発展を促したと評価されている。




板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生産工場も有し、農園では野菜を栽培。

また捕虜の多くが志願兵となった元民間兵で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。

彼らは自らの技術を生かして製作した”作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。

文化活動も盛んで、同収容所内ノオーケストラは高い評価を受けた。
今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。

建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている。




金銭

戦時中、日本にいたドイツ人民間人らは、経済活動は禁じられていたものの、生活の自由は保障されていた。

彼らは捕虜となったドイツ人らに援助委員会を介しての物品、金銭援助を行い、本や楽器のための寄付活動も組織した。

捕虜たちは階級差はあるものの、日本兵と同様に給料を受領。
更には周辺地での労働や、親類、以前の勤務先からの振り込みなどを通じてお金を調達した。

1917年までドイツ政府は将校に月給とクリスマスボーナスも支給していた。

収容所内には日本人が経営する売店もあり、彼らは自由に買い物ができた。
また収容所を出入りする商人からも同様に買い物ができ、アルコール類も生活必需品と同様に入手可能だった。
板東収容所内にはレストランも完備されていた。



連絡手段

手紙や小包は没収、破棄されることもあった。
郵便物の発着送は検閲官の管理下にあったが、手続きは大変煩雑であった。

発送は許可されたものはわずかで、規則を順守する形で送られるか、もしくは郵送手段が全て禁止されていた。
使用言語が日本語・ドイツ語以外のもの(ハンガリー語など)は郵送は認められなかった。


文化活動

演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなどが結成された。
彼ら捕虜の多くが、もともと民間人の志願兵であったため、技術を生かして様々な自治活動を行った。

彼らは収容所内の自治活動に参加。
菜園管理や動物の飼育、厨房(酒保)やベーカリー(パン屋)も経営していた。

また、捕虜らに向けた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われた。

収容所内に設けられた印刷所では、その他にもディ・バラッケ、『(兵営)や(兵舎)の意味』と呼ばれる瓦版(ニュースペーパー)の刊行、語学教科書やガイドブック、実用書などが発行された。

音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行った


1919年12月末より翌20年1月末にかけて、ヴェルサイユ条約の締結により、捕虜の本国送還が行われた。約170人が日本に残り、収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んだ。

現在よく知られているユーハイムカール・ユーハイム)やローマイヤアウグスト・ローマイヤー)、そしてフロインドリーブなどは日本に残留したドイツ兵によって創立されたものである。

一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎された。収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられる。



※著者より、書名・「ハンスの林檎」について。
書名に”林檎”を用いたのは、ドイツを旅して、ドイツ人の生活に触れてみて、どの家庭でも、庭に林檎の木を植えていることは、地方によっては男の子が生まれた時に記念樹として林檎を植える風習があることだと知った。
ルターの「あした世界が滅びても、僕は林檎の木を植える」という言葉が実感できたことによる、とあった。















2016年4月29日金曜日

俺の頭が可笑しいのか?


俺の頭が可笑しいのか?  狂ってしまったのか!!
どんな内容がどのようになろうとも、他人に解ってもらうように、話がマ・ト・メ・られない。
何処かの何かの智能が頻拍しているようだ。

脳内が混雑して、表現方法が拙(つたな)く、これらを修理修繕するために、誰か? 何とかしてくれないか。
こんな、変なお願いを私がしているなんて、これも又、可笑しな話し、だ、ヨ。

高所から落ちて、頭を路面のアスファルトで強く打った。
私の脳の構造に、大きな変化が起こったのか? 
神経系統の乱調なのか? 
何かが大きく変ってしまった。

単純に変化どころでなく、変質してしまった? と思うしかない。この悲嘆ほど、心苦しいものはない。
悲嘆のネタの一つ一つを、掲げてみた。


先ずは勘違いが多過ぎる

体の老化か脳の退化で? 変質してしまったのだろうか? 
材料を灰汁(あく)抜きで話そう。
この頃、若い娘さんの美しさが異常に感じる。
服装から、化粧から、話し言葉まで、オジサンには美しく思えてしょうがない。

スカートの丈だって極端に短い。
馬鹿な振る舞い次第では、パンツ丸見えになることだってある。
ところが、娘さんは気丈にふるまっているのが、然(さ)も可愛い。

このことを、女房に話してみた。
女房は、お父さんはそんなことに気を使うことはないのよ、ほっとけばいいの、ヨ。
よっぽど、怪しげな子供がいた場合は、静かに、説得すればいいことだよ、貴方が心配することなんて、なあ~んにも無い。

会社に向かうときも、自宅に帰るときも、顔を見合す高校生の男女が仲睦まじく話している。
これまた悔しいのだけれど、なかなか、私の老婆心を慰めてくれる。

悔しい事ながら、会社の近所にある公園内のテニスコートでは、会社の同僚でも近所付きあいでもない人たちが、笑顔を絶やさずに、テニスを楽しんでいる。
声高らかだ。
筋肉の励みだって聞こえてくる。

俺だって、お前さんたちには負けないぐらいは、できるんだぞ!

かっては、年頃の娘さんだけに目を皿にした。
が、今は小さな子供から年とった人まで、掛け替えなく愛せる。
もう少し極めて言おう。
小さな子供から、年とった老人まで、私の好みは変わらない。

お金を鱈腹持っている奴よりも、綺麗な生き方をしている人を好む。
大きな舘(やかた)なんか、な~んにも羨ましくない。
悲しくても貧しくても、心の優しい人になりたい。

金持ち連中の嘘には敏感になろう。
清貧にこそ、真実がある。

眩しく煌く世界よりも、静かに佇むなかにこそ、安らぎを匂うようになってしまった。



我が家では、1年前から女房の母と同居している。
義母は88歳。

足腰が不自由で少し苦しまれているが、俺たちで何とか、まかないたいと思う。
母と娘、これあ、当たり前。


20160311-04

ネットで楽しそうなグループの写真があったので、お借りしました。

話は、増々進める。

街で見かける年をめされたオバサンが、実に綺麗なのだ。
顔立ちだけではなく、服装の吟味から、その振袖というとちょっと古典的かもしれないが、明るく軽やかで、ナント、ナント、年齢は驚くほど若く、感じる。

ヘヤースタイルも、よく、よく、気を使っているもんだ。
顏の美肌さ! これにも、頭が上がらない。
私が尊敬している私の母や父とは、随分変ってしまった。



山水画のような奥秩父連山 : 八ヶ岳高原アラカルト

今の子供たちは、山をどう思っているのだろうか。

まさか、山はドス汚(きたな)く、誰もがそう簡単に入山するものではないなんて、思ってはいないだろうな? 
聖山っと呼ばれている。

アケビがたらふく実り、何処も遊び場になってくれた。
登山道、樹木、土や風、空気に惚れた。
若い人たちは、山に高く登れば登るだけ、気風が高鳴る人でないと、入ってはいけないと思っているのだろうか。

私は、学生時代から、誰にも負けない山塊の士だった。
恥かしくもなく、ウンコも平気デできた。処理には、万知を活かした。
小便だって恐ろしくない。

女房と一緒に秩父の連山を駈けたときの情動は、それはそれは楽しいものだった。


大学時代。

都の西北のグラウンドで、体がガタガタになるほど頑張れた。
昭和48年に関東大学サッカー選手権と全日本大学サッカー選手権で優勝した。
2冠王だ。

技術や体力は貧弱だったので、5戦に1戦ほどしか出場できなかった。
でも、この喜びは並みのものではない。




スポーツ魂に燃える女学生。

かって、プロレスなどに女学生たちは身動きしなかった。
興味をもって、テレビや週刊誌、会場などに参加する人はいなかった。
私が高大校生のころは、興味どころか、興味をみせる者たちに冷たく当たった。
ワーとかグーとか、見苦しい嬌声に飽きていたようだ。

それほど格闘技嫌いの娘さんたちが、競技場に、今までのことが嘘のように駆けつけてきた。観衆も選手も、スポンサーも湧いて、湧いて、楽しみだ。


プロレスだけではない。相撲も他のどんなスポーツにも、観客席には美しい人がめっちゃ溢れている。




2016年4月13日水曜日

アオダモって言う木だった


その木の名は、アオダモだった。

今、私が住んでいる家に本気で住みだしてから、4年になる。

何じゃかんじゃと、公私共々あって、私が長年住んでいた家を二女夫婦に売却したことにした。
それからのことを、上手く話せば1日で、上手く話せなかったら7日はかかるだろう? それほど、波風が荒れ狂ったことになる。雨や風だけではなく、雷や波だって大いに荒れた。


それから、妻が、植木鉢に入れて楽しんでいた樹木がアオダモだった。
でも、彼女だって、名前や樹木の性格その他については、ナ~ンニモ知らないことだらけだった。
まして、私は壁の外状態だった。

庭が少ないので、大小の鉢に植えられている樹木や花を見逃してはいなかった。
でも、この樹木に関しては、次女の夫の良き先輩が呉れたとかで、何も、興味が湧かなかったと言えば、次女夫婦に嫌な想いをさせることになろうか。

何故、そのようなことをエラク牛馬(ぎゅうば)って、この稿で話そうかとしているのか? 
それには、深くも浅くもない、それなりの理由があるからだ。

名も知らなくて、性格も知らなくて、そんな植物をこの何年間見続けてきたのだが、その名前を会社までの道すがら,神奈川県立横浜市民公園の多種の樹木のなかで見つけたのだ。
小さいけれど多くの白い花が、咲いていた。今こそ咲き頃のようだ。

その花が、まさしく我が家の樹木と一緒ではないか? この驚きは凄(すさ)まじいものがあった。
樹名を記した看板が、幹に掲げられていて、大いに驚いたと言えば、笑われるか。
あんなにいい加減に樹木を見ていた私なのに、その樹木が有名な樹木だった!!とは
このページのどこかに我が家のアオダモを掲げたかったが、今、私の電子キャメラが故障で、なし得なかった。


どんな樹木、植物にだって知識家だったのに。
我が家の樹木は、いい加減な奴ではなく、それはそれは立派な奴だということだった。
育ったのは、山の中。
私の、樹木や野菜、草原についての知識は、一本はみ出したところにあると誇りに思っていたのだ。

下記のネットで知り得た内容では、日本の各所でも生えていますとのことだったが、2、3日前、偶々(たまたま)見かけだテレビ番組で、広大に茂っているのが中継されていた。
うちのあの樹木は、きっと、あいつだったのだ、と思いながら見ていた。

こんなことは、誰にも話すことなく、私の頭の中だけに、イキてイタかったのでは!!






アオダモ

  ネットで知った内容を、掲げさせてもらいたい。


日本では北海道から九州までの山地に広く分布している。南千島朝鮮半島にも自生している。街路樹や公園木として植樹されることも多い。
樹高は10-15m、太さは50cm程になるが成長は遅い。成熟した木の樹皮には地衣類が付着し白っぽい斑点模様ができる。葉は奇数羽状複葉で、3-7枚の小葉が対生する。小葉は10-15cmほどで淡緑色、周囲は波状小鋸歯がある。
花は春に咲く。円錐花序に白い5-6mmの小花を多数つける。両性花には雌蕊と2本の雄蕊、雄花には雌蕊がなく2本の雄蕊がある。
秋には果実が成熟する。長さ2-4cm、幅3-5mmほど、膜状の羽根を持つ翼果で風を利用し遠くまで飛ばす。

材質は堅く強いが粘りがある。そのため曲げることができ、このような特質を生かしてさまざまな用途で使われた。
日本では木製のスポーツ用品の材料、とくに野球で使われる木製バットの原料として知られる。他にスキー板やテニスラケットなどにも使用される。日本でのバット材としての需要は年間20万本以上あり半数は輸入材で国産材のほとんどはアオダモである。バットに使用するアオダモは、寒冷地産であればあるほど反発力と弾力性、耐久性に優れるとされる。そのため、日本産アオダモの主な生産地は北海道であるが、計画的な植林・伐採が行われなかったことから、バットに適した高品質な材の確保が困難になっている。2000年には行政、野球関係者、バット生産者が一体となってアオダモ資源育成の会が発足、資源を確保するための取り組みが行われている。
天秤棒、輪樏(わかんじき)などの器具材や機械材、家具材としても使われる。建築材として床柱などにも使用される。資源の枯渇とともにこれらの用途は減少している。
生木でもよく燃えることから猟師が薪として利用した。
枝や樹皮を水に浸すと、水が藍色の蛍光を発する。この水は染料として使われた。また、アイヌ(いれずみ)をするときの消毒に用いた。また、樹皮は民間薬としても利用された。主な成分はクマリン配糖体で消炎解熱作用、止瀉、利尿作用や尿酸を排出する作用があり痛風結石の治療などの効果があるとされる。






2016年4月8日金曜日

アケビを思い出した


アケビを思い出した。

あけびの実がなった 庭仕事ときどき読書 ― はるかの庭/ウェブリブログ  見たことを紹介します:あけびの実

アケビの実のこと花のことは、よく知っていたが、この植物を文字で表現するのに木通、通草とからしい?
何故に、この文字をこの様に使うのかは、後で、調べたうえで書き足す。

今、私のブログの話題が、何でこのアケビなのか、と思われたお人に一言。
このアケビの実と花を材にした写真を、会社の近くの喫茶店のトイレで観たのが、始まりだ。
この際、もう少し詳しく知ってもら甚(いた)くなった。

それほど、私にはアケビのことが、すっかり、忘れてしまっていたのです。郷里を去って東京で過ごすことになって、45、6年。一昔前とは言えないが、半昔?前。

そろそろ、アケビの花が咲く頃だったのだ。私のアケビ魂は、郷里の山野を追った。
私が、庭のように親しんだ郷里の山々。
今、どのような姿を為しているのだろうか。
そんなことを夢見、麗しく感じ入ったのは、私だけだろうか。

私がアケビを好んだ頃は、10歳前後。姿、形よりも味が不思議だった。
甘さがあって、少し苦味もあって、母が作ってくれる料理とは違った。
こんなものを黙って食っていいものか?それでも、食欲は幾らでも、盛り上がった。

樹木を矢のように登った。その姿は丸で猿だ。
沢山手に入れて、次から次に、仲間に分けてやるのが気持ちよかった。

それとも、アケビなんて誰も想像もできないのかな?

心底、この写真を観て、私はニンマリしてしまった。

この植物が、あの有名なアケビだとは、私のような田舎育ちで、山や野原を育ちの場にしなかった者でないかぎり、到底解らないだろう?  ちょっと、この実で遊んでみようか。

2、3日前に、友人から言われていたことが、残滓のように脳に残っている。
ヤマオカさん、高い所から堕ちてから、間抜けたヤマオカさんのブログが、頓珍漢な極貧状態なので、心配していたんですよ。
友人の、なんと情け深い志やこと。
そして、私は冴えない頭を棒(ぼう)に振って、この稿を書きだしたわけです。

ネットを観て、このアケビの弦を使った籠などの商品を知った。私には、食うこと以外なにも考えなかった。



アケビ花


以下は、ネットで得たものだ。私にとっても、未知なことばかりだった。

種子を包む胎座が甘みを持つので、昔から山遊びする子供の絶好のおやつとして親しまれてきた。
果皮はほろ苦く、内部にひき肉を詰めて油で揚げたり刻んで味噌炒めにするなど、こちらは山菜料理として親しまれている。
主に山形県では、農家で栽培され、スーパーで購入することができる。
また、東北地方などでは、新芽(山形県や新潟県などでは「木の芽」と呼ぶ)をやはり山菜として利用している。


日本国内で栽培されるものは、ほとんどが山形県産である。

2016年3月5日土曜日

子供の心親知らず


我が家も老人と一緒に暮らすようになった。



これは金箔

金箔。細字の内容は全てネットでいただいた。
金箔は金を微量の銀や銅とともに金槌で叩いてごく薄く伸ばし、箔状態にしたもの。紀元前1200年頃にエジプトで製造が始まったと考えられる。現在は真鍮からなる「洋金箔」も普及しており、本来の意味での金箔は「純金箔」として区別される。

金箔はおよそ1万分の1~2mmの薄さ。それは2g(10円玉の約半分)の金を、畳1枚分の極限にまで延ばした薄さです。金に微量の銀や銅を溶かし合わせます。99,99%の金は柔らかすぎ、箔になりにくいため、また色合いを調整するために加えます。
金と銀、銅を1300度に熱したるつぼに入れ、溶解させたあと、型に流して成形する。

それから、内容については解らないまま、ネットで知った言語を書き続ける。金合わせ、延金、澄打ち、引き入れ、打ち前、抜き仕事、箔移し。



神輿(みこし)

神輿は、通常、神道の祭りの際に、普段には神社にいる神霊が氏子町内、御遊所などへ、渡御擦るに当たって、一時的に鎮まるとされる輿である。御輿の巡行に、山車、鉾、だんじりなどの屋台が随行することもある。
ネットで以上の記事を見つけた。


今回の題名は、「子の心親知らず」だ。

子供の気持ちが親にわかってもらえないこと。年とった母の面倒をみなくちゃいけないことと、面倒をみる側の気持ちが、なかなか不調和では困る? そんな気持ちが、私の頭の一部に残っているようだ。

神輿の頃、60年前の私の田舎は百姓まっしぐらだった。
動力に頼ることなんて考えず、神輿は人の手と肩で支えた。
田舎のこと、1台の神輿を100人ほどの百姓等で担いだ。
真っ白な神着やタオルは汗で、ずぶずぶ。

私も中学生の頃、二人の兄と合わせて参加した。山岡家の黄金時代だ。
家族にとって、こんなに目出度いことはない。
作業を終えて自宅に帰ると、全身がガツ~ンガツ~ンに腫れ上がって、朦朧然とした死体、同然。自由に体が動かなかった。



これからが、義母のことだ。

昨年6月から、女房の母、私にとっては義母が、長年、京都の息子(長兄)の家に住んでいたが、我が家で住むことになった。

年齢は88歳、もうすぐに89歳。
足腰が不便でこれが、唯一の悩み。
何年か前に脳梗塞で、運動神経が傷められた。
それ以外にも、手足の一部が自由に動きづらくなったが、この件については、何とかやりきれそうだ。

今回の、義母の横浜移住には、深い理由、、、、、、、悲しい理由なんてない。
どんな家族にも家族なりの都合がある。
義母については、個人的にも家族的にも、いくら探しても、悲しく涙を流すようなことはない。

女房は母と18歳までは一緒に暮らし、東京の大学に入り、その後は私って奴の出現とアイナリ、東京での仕事が見つかり、随分久しぶりの同居になる。
当たり前のことだが、私にとっては、一緒に暮らすなんて初めてのことだ。

義母の実家は京都にあって、かっては指折りの金箔貼り付けの専門業者だった。
貼り付けるものとは、仏事や神事に使われる用具や品物。
流石に京都!仕事の量はこらえきれないほど豊だった。義母はお姫暮らし?だったのだろう?

例えば仏壇やお寺の装飾。家庭内では神棚や神さんに関する品々。
神社内の装飾に傷が発生して、遙か遠くに修理にでかけたことだって、少なくなかった。

横浜に住んでいる私だって、1年に1度か2度、工房を兼ねた義母の実家にお邪魔した。
その節、おおジィジィは一番偉い人の座るところで、只管、仕事をしていたのを憶えている。

義母の実家の一代目は、和歌山のとある村から、この仕事でやっつけてやろうと京都上がりをした。
夢に溢れた、創業者だ。
こういうのを寺侍(てらざむらい)と言ったそうだ。

そして二代目、その二代目には子供が生まれなくて、私の郷里の傍の田辺町から婿養子に入った。
この婿養子が三代目、遊ぶことなんていざ知らず、働くこと一辺倒!! そして、金箔の仕事にはまってしまった。
この婿養子が、義母の父だ。
亡くなる1年前まで、大将の座布団に座ったままだった。
その家庭にも子供が生まれ、おおジィジィと職人さん、職人さんを支えるおおババとの円満な家庭が営まれていた。

義母の実家は、貼り付けだけではなく金箔そのものも作っていた。
この稿の最初に書き上げたように、金箔の作り方には工夫があって、義母によく聞いても、その詳細を教えてもらえなかった。

解っているようだけれども、その真なる知恵を得ていないようだ。
江戸時代、金箔の製作は石川県が99%と一番多かった。
輪島などの漆商品に大いに必要だったのだろう?と勝手に考えた。

義母は、この金箔手作業の三代目夫婦から、長女として生まれた。
義母は結婚して、婚家は京都市北区紫野に。

長女に長男、二女が生まれた。
その子供たち。
長男は教師に、二女は南座の界隈で高級京料理店を夫婦で経営している。
肌が合わない?なんて言うと叱られそうだが、それ程立派な店だ。
何人もの友人、取引会社のスタッフを連れて行った。
ちょっとでも、売り上げに協力したいと思ったからだ。
ここで言う長女は、私の妻だ。

義母の夫は金融機関で働いていた。

お酒の好きな人で、お邪魔した時は、嘘のように和やかに付き合ってもらった。
それに、つまみは魚? 趣味は魚釣り、これも楽しい思いでばかりだ。
この家、とっても、とっても楽しい良家で、私には眩(まぶ)しくなるほどだった。
ところが、夫は64歳、40年ほど前に癌で亡くなった。
何事にも興味のある私のこと、もっと、もっとお話をしたかった。
悔しい限りだ。




ところで私のことも序に描き足したい。
生家は米とお茶の専業農家だった。

住所は京都府綴喜郡宇治田原町南だ。
祖母、父母、子供は男ばかりが3人。長男には百姓の跡取りになってもらいたいと思ってか?農業の仕方を丁寧に教え、結果、兄は自分勝手に働くことを面白がった。

次男と三男坊の私には野良仕事を教えることはない、と思っていたようだ。
次男は絵が上手で、算数と理科は超一流に出来がよかった。
だから、もう少し、時間をかければ、立派な学校に入学できたはずだ。

ところで、三男坊の私は、勉強は負けず嫌い。でも、でも、、、、能才なんて何もない。頑張るしかない、と決め込んでいた。
時間が経てば、それなりの学校に入学できる、、、、、、入学できないことはない、と決めていた。
中学三年生の時、5クラス250人ほどいた生徒の中から、15番目には入っていた。
一年生の時は100番くらいだった。
高卒後、気持ちよく入れる大学はなく、2浪した。勉強をしなかったから、当たり前のことだ。

2浪したわけは何だ? 
それは、サッカーのチャンピオンの学校に入学することだった、、、、からだ。

勉強は頑張ったら、なんとなる。
それよりもなによりも、サッカーを人並にやれるだけの耐力、筋肉を培うことだった。
その学校は? そうだ、早稲田大学しかないではないか。

そうと決まれば、このコースに邁進するしかなかった。
サッカーの実績は何もないのだから、これを邁進するは、大変なことだった。

1浪後、法政、明治、中央から合格通知をもらったが、早稲田からはいつまでも落葉が散る、、、、、蛮勇、ここにあり。
もっと、浪人することを拒まなかった。

それ程、偉そうに、他人さまに言える身分ではなかったのに。
それからの浪人生活が面白かった。
この面白かったことの一々を、今、此処で話すわけにはいかない。

ーーーーーーー  この稿は、(老人と一緒に暮らしたい)だ。



この稿の一番大事なことに触れよう。

何故、老人と一緒に暮らしたくなったのか?ということだ。

私は三番目の子供で、父と母から私たちのことは気にしなくていい、面倒は一番の兄貴に任せてあるから、お前は、京都でも、大阪でも、東京でも好きなところへ行って、好きなことをしていいんだ。
勉強もいい。好きなサッカーでもいい。
そんなことを、事あるごとに言われていた。

保(私の名前)、お父さんが1年に1度ある農協の農作物の品評会で、優勝することを知っているだろう。でも、保にお節介したいのは、足腰、首や頭が立派なものでなくていい、口に、不愉快な思いをさせなければ、もう、それで、オーケーなんだよ。

エエか?焦るな、ゆっくり、確実に実にすることだよ。

感謝したい。父母とも同じ年に癌で命を失くすることになったが、癌だと知ってからの私の看病の頻度は凄まじいものだった。横浜を夜中2時に出て、郷里には朝6時までには着いた。その繰り返しだった。

そして私の妻はどうだったのだろうか。今、彼女は長女でいながら、身重になった母に対するお世話が十分だったのだろうか、こんなことを悩みだしていたのではないか。

私だって、年長者のお世話が十分だっただろうか。ちょっとばかり、お金を貯めたってしょうがないだろう?少しばかりでも、喜んでもらえる方法や、手段はあるだろう。

そんなことを、この2~3年、考え続けてきた。