2016年11月24日木曜日

横浜に雪が!!


 横浜に雪が!!


樹木が紅葉した公園で雪が降り続いた=24日午前8時39分、東京都練馬区の光が丘公園
(林紗記氏撮影)


深夜(11月23日の夜~24日未明)から、雨がしっかり降っていた。

2階で一人寝なので、ガルバリュムの屋根に当たる雨音は、私だけには強く感じられた。
雨を受けるクッションがリズム的なのだ。
ときには安寧に、脳の端くれが落ちついてないときには、五月蠅(うるさ)いのだ。

畜生、糞くらえ。
朝から雨なら、悔しいけれど辛抱するしかない。
と、深夜から早朝にかけてそう思っていた。
まだ11月だ、この雨が雪になることはない。
そんな気持ちで、パジャマを脱ぎ、歯を磨いた。

ところが、朝飯を食っている最中に、その雨に雪粒が混ざってきた。
そして、その雪が霙(みぞれ)状態のまま、すっかり中身の濃い霙になった。
その後、霙が雪になったり、霙のままだったり。
昼飯前には、雪や霙は少しになって、昼過ぎにはすっかり止んだ。




ネットで、「ゆき女」のイメージをいただいた。


歌手の新沼謙治さんが、「津軽には七つの雪が降るなんて」、と歌っていたが、果たしてどんな種類の雪だったのだろう?
その歌は、「津軽恋女」だ。

愛に生き、恋に生きる津軽恋女は、枕乱して引いていく。
こんな歌だった。
こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪、みず雪、かた雪?
それでも、今日のこの雪は、春待つ氷雪なんてものじゃない、だろう。

ところで、横浜の雪はどんな雪だったんだ。
こんなに早くに雪が降るなんて、どういうことだ? と疑問は残った。

夕刻、自宅に帰って朝日新聞・夕刊を読んで、今日の雪の内容を知った。。
雪の要因は、偏西風の蛇行が強く、大陸から真冬並みの寒気が東日本にかけて流れ込み、零下3度以下の寒気が南下したことが大きい。
ここに、本州の南側を通る「南岸低気圧」が加わった。
24日も、東京・伊豆諸島付近の前線を伴った低気圧が東に進み、この低気圧によって雨雲が発生。雨から雪に変わった。

東京で11月に初雪が観測されるのは、1962年以来54年ぶりで、記録的には早い初雪となった。
横浜、甲府市でも54年ぶりだ。
ただ、地上までの空気の層によって気温が異なるため、地上に到達するまでに雪が解けてしまうこともある。
24日の午前6時の都心の気温は1,9度。
こうした条件が重なったことが、54年ぶりの初雪になったのだろう。

2016年11月22日火曜日

白瀬探検隊


白瀬探検隊(2016 11 21 朝日新聞朝刊)を
そのまま転写した。

白瀬探検隊のことは、25年前ほどの日々、神経をピリカン、体は膠着状態にして、全ての出版物を読みまくった。

このような探検者の探険物に、私の頭は気が狂いそうなほどだった。
本田勝一の探検物や、冒険物を読んでいて、この白瀬物に加わってしまった。
書物にでてくる内容の全てを、学校の教科書のように読み漁った。

今日(11月21日)の朝日新聞・朝刊に、白瀬中尉の南極点を目指した際の記録映画の記事が載せられていた。

私、今、少し体の調子がよくないので、記録されていた上映会に参加できないのが、血が煮え滾(たぎ)るほど悔しい。
かってなら、参加者のだれよりも、気合を入れて見に行ったことだろう。

私は、他の記事に見向きもせず、その記事に狂(繰る)ってしまった。
「クルって」を表現するのに、どちらの「狂う」、「繰るう」を使えばいいのか、本気で、私の頭は可笑しくなったようだ。

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これからは、下線までの文章は紙面のままだ。


百年前の南極動画 デジタル復元





白瀬探検隊が撮影 無声記録映画  (東京で24日上映)





白瀬陸軍中尉率いる探検隊が、100年余前に日本人で初めて南極点を目指した際の記録映画を、東京国立近代美術館フィルムセンター(東京都中央区)がデジタル復元した。
24日に上映される。
46分で日本最古の長編記録映画でもある。

白瀬隊は、南極点への初到着を果たしたノルウェーのアムンゼン隊、2番種の英国スコット隊と競い、1912年1月28日に南緯80度5分までたどり着いた。
その地を「大和雪原」(やまとゆきはら)と名付けた。
この快挙を当時、動画で記録していた。



同年に公開されたオリジナルのフィルムは現存しないとみられるが、フィルムセンターによると、探検出発から20周年の30年に、探検隊関係者が複数のフィルムを集めて、無声映画「日本南極探検」を作ったとされる。
白瀬は探検に要した多大な借金の返済のため、映画を上映し、講演して各地をまわった。

フィルムセンターは約9年前、白瀬隊の支援者だった村上俊蔵氏の遺族が所有する「日本南極探検」のフィルムを見つけた。
35ミリで5巻851メートルあり、40年に内務省の検閲を受けた記録もあった。

探検隊員らの顔ぶれ、ペンギン、南極上陸から帰国までの映像のほか、後援会長だった大隈重信の屋敷での壮行会、「開南丸」出航の様子も入っていた。

一部オレンジや青に染調色が施された可燃性ポジフィルムのため、フィルムセンターは最新のデジタル技術で傷を消し、不燃性フィルムに復元して、当時の色調で着色も一部に施した。

24日は午後3時から7時からの2回、フィルムセンター2階大ホールで上映される。
定員310人(各回入れ替え制)、一般520円、高校・大学生・65歳以上310円など。
問い合わせはハローダイヤル(03・5777・8600)へ。
上映の前と後に、復元にかかわったフィルムセンター研究員の講演もある。

(中山由美)

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以下は、2010年12月30日の私のブログからーーー
 



白瀬矗(のぶ)の名に、胸に高鳴りが

探検はロマンだ。未知の分野であればあるだけ、そのロマン度も高まる。

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20101221の朝日新聞・夕刊に「南極探検100年、白瀬の伝言」の記事が掲載されていた。
題字は「苦難の道のり 世界が評価」で始まっていた。
この白瀬陸軍中尉の名を、新聞の一コーナーと言えども、目にしてしまった以上、私の胸の高鳴りはどうしても抑えようがない。

かって集中的に白瀬に関するものや、アムンゼン、スコットなどに関連する探検本を読み漁った時期があったのです。
今から20年程前のこと、私が40歳頃のことでした。

新聞記事を読んで、私は探検モノにちょっとばかり知識があることを、密かに自負していることに赤恥したものの、この胸の高まりはどうにもおさまらない。

新聞記事にはスペースに制限があるので、そんなにノタリクタリとは書けないのはよく解っているのですが、他にも知っていることが「私」にはいっぱいあるので、皆、聞いて、みんなもっと聞いて、状態になってしまっていた。
またまた不遜、恥ずかしい限りだ。

とっかかりは本多勝一さんの本「アムンゼンとスコットー南極点への到達に賭ける」(出版社・教育者)だった。

本多さんが所属していた京都大学探検部の指導者で精神的主柱の今西錦司さんを知り、この今西錦司氏の個性の魅力にはまった。
その種を蒔いたのが西堀栄三郎、学問の分野は違えども生態学研究センターの井上民治、最後は国立民族博物館を創立した梅棹忠夫。

この人たちの研究論文は読めないし理解できないが、エッセイや記者との会話を文章にしたものに触れて、一時期彼らに現(うつつ)を抜かした。
東京を中心とした中央に対する在野の意地が感じられ、京都府出身の私には彼らの活躍が快く感じられた。勝手に親近感を持っていた。

それから、ここにたどり着くのです。共同通信の記者だった加納一郎さんの訳したスコット隊の生存者であるアスリー・チェリー・ガラードの探検記「世界最悪の旅」(出版社・中央公論新社)だ。

戦中に発行された、この本を読んで尻に火が点いた。
それから、アムンゼンの先輩ナンセンの「フラム号 漂流記」(加納一郎訳)。
興奮しまくりの勢いのまま、これらをまとめた加納一郎著作集全5巻を手に入れた。
そのときの感動は忘れない。

探検に興味のある方は、どうか私にお申し出ください、貸し出します。
探検とは何かを生涯説き続け、極地研究と啓蒙に尽くした加納一郎氏、この全5巻は私の脆弱な精神構造を強く支えてくれているのです。

精神的に落ち込んだり、苦しくなったとき、引っ張り出してきて、端々をつまみ読みする習慣が身についてしまった。

苦しい時の--------、神ならぬ、加納一郎氏であり、ドフトエフスキーさんだのみだ。
1巻=極地の探検  2巻=フラム号漂流記  3巻北海道の山と雪  4巻=自然のなかで  5巻=世界最悪の旅(5巻のみが、我が書庫に見つからず)



2016年11月21日月曜日

牡蛎をいっぱい食べたゾ

牡蛎をいっぱい食べたゾ

平成28年(2016)11月16日

10:45~

 
横浜市金沢区の「海の公園 かき小屋」へ、新鮮な海産物をいっぱい食いに行った。



横浜市金沢区海の公園10  海の公園内
シーサイドライン八景島駅改札を出て右方向、3分。
屋外104席(テーブル 26)
屋内80席(テーブル 20)
犬同伴席16席
コンテナ席には、4人掛けのテーブルが4卓入っていて、最大16人で個室利用が許されている。



行ったのは、我が家の3人だけ。
我々夫婦と、妻の母。
義母は89歳。
我々夫婦の子供か?孫の一人でもいれば、もっともっと楽しかった!

我が家の道路向かいに住んでいる孫は、風邪のために欠席。
年齢は1歳4か月の女の子。
私にとって、7番目の孫だ。
この子とその母親が一緒に行く予定だったのに。
病欠とは、とっても辛いワ~
両親が働いているので、昼間は保育園。
この子の可愛らしいことを述べるには、このブログぐらいでは、何もかも足りない。

さあ~て、小屋でのお話に入ろう。
色んな種類の魚産物が山のように置かれいて、そこからお好みの品を選び出して、お勘定を済まし、真っ赤な炭火の囲炉裏の網にのせて、いただいた。

選び抜いた品物は、★三陸産かき(牡蛎)、★いか(烏賊)、★三陸産ホタテ、★サザエ、★イワシ丸干し、★とり手羽、★乙舳汁(おっともじる)、★かき飯などだ。


車のハンドルをもたない私の左手には、ビールのグラスと日本酒の瓶。
私にとって、この手の舞台は、堪らなく好きなのだ。
妻の顔はウ・ラ・ヤ・マ・シ・イ印(じるし)。
年取った義母だって、旺盛な食欲を発揮、その嬉しい表情に感動した。

 
 

2016年11月9日水曜日

政子の井戸


政子の井戸


昭和49年(1979)、学校を卒業した。


昭和53年(1983)、学校を卒業して入社した会社の都合で、当時横浜駅前で一番高かったビルの20階にある不動産会社に転勤になった。
入学が他人(ひと)よりもおくての私は、27歳だった。

昭和54年(1984)、イラン革命に端を発する石油の供給危機で、日本経済は大いに狂いだしていた頃で、会社の方でも、方向転換を大いに狙っていた。
第二次石油危機とも呼ばれた。

手持ちの不動産を、できるだけ早く、多く、売り逃げたかったのだろう。
私にとっては、そんな環境が面白くてしょうがなかった。

お世話になった会社は、神奈川県においては、鎌倉、逗子、横須賀で戸建やマンションを、嫌と言うほどハゼに売り出しをやっていた。
これらの資源は、先代が、戦後のドタバタ時代に、多くを取得していた。
売り出しでは圧倒的にボリュームが多く、他社の人間からは、羨ましがられた。
私は、お客さんの住宅資金、今まで住まいにしていた戸建やマンションの売却を担当するセクション、仲介部に配属された。

私は、いつもの負けん気強さを発揮して、誰よりも誰よりも多く仕事をこなした。

住宅に関しては、様々な法律、条例をマスターしていないと、賢い社員になれないし、いいお客さんに対して喜んでもらえない。

その法律、条令らとはこのようなものだ。
これを、陰日向関係なく理解し、きっちり説明できないと、アカン垂れになってしまう。
建築基準法、宅地建物取引業法、国土利用計画法、宅地造成等規制法、
区分所有法、民法、刑法。

私は、社内で優秀な営業社員だけでなく、いつでも、何があっても、独りで生きていくだけの知恵や方策を身につけていた。
田舎育ちの一匹狼だ。
同業他社からの友人も増えていた。
学校に入る前からドカタ稼業になれていたものだから、このような仕事は一人前。


昭和58年、会社の仲間と保土ヶ谷駅界隈のドライブ中、今回の「政子の井戸」を発見した。
「御所台の井戸」とも言われていた。
なんだ、こりゃ?

政子さんのことは、受験勉強で大いに親しくなった御仁(おひと)だ。
JR保土ヶ谷駅を戸塚方面に1号線を100メートル程進んだところに、細い道で横浜清風高校へ向かう道があり、その道の入り口にある。
この坂道を、旧金沢街道(かなざわかまくら道)のいわな坂(石名坂、磐名坂、石離坂と諸説がある)と言われている。

あの源頼朝の北条政子さんのことか?と同乗者に話しても、色よい返事は返ってこなかった。
私は、受験勉強で、日本史に関しては、どんな問題が出されようと95点以上は稼げるだけの力を身につけていた。
英語は70%、日本史はほぼ満点、国語は70%をとれるだけの実力を身につけていた。
ぶっちゃけた話、英語や国語で多少失敗しても、日本史で100%とれば、何とかなる。
これが、私の受験戦略だった。


北条政子。

伊豆の国の豪族だった北条時政の長女の北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室になった。
どこで、どのような縁があったのか、正室とは奥さんのことだ。
頼朝が1192年に鎌倉に政権を樹立すると、御台所と呼ばれ、頼朝の死後は尼御台、最後には尼将軍とか女将軍とか称され、抜群の力をつけた。
私が受験浪人だったときに、鎌倉幕府ができた年のことを、「1192をイ・イ・ク・ニ作ろう鎌倉幕府」として憶えた。

社会の先生が、政子が自陣の兵への演説で、「頼朝公の恩は、山よりも高く、海よりも深い」を、意味深長に話したことが、印象深い。

ここで、何故、井戸?なんだろうと考えた。
綺麗な人だったのだろう、お化粧をしたのか、身についた汗を拭き切るためだったのか?
別嬪さんで、色香たぐわしい人だったのだろう。
力をつけた女将軍のことだから、政子が来たからには、地元の民衆は騒ぎたてたのだろう。

その後、天皇や将軍が保土ヶ谷宿の軽部本陣に立ち寄った際には、この井戸の水で料理を作った。


 政子の井戸 その2



それから、20年後。


7年前のこと、私の勝手な都合で、一時的に住んでいた横浜市泉区のアパートのそばに神社があって、馬頭観音の碑が建てられてあった。

相鉄線の「弥生台駅」から、歩いて10分。
木が幾つも樹立していて、小さな森になっていた。
神社の名は、横根稲荷神社。

その森の一番奥まったところに本殿があって、その脇に碑が建てられていた。

近所の老人に神社の話を聞いたところ、昔、ある女性が使った井戸がかってあったのですよ、だった。

早とちりの私は、政子の井戸が、ここにもあるんだ、とかん違いをしていたようだ。



むかし、木曾義仲の夫人、巴御前は女武者として義仲とともに勇名をはせていました。
しかし、寿永3年(1184)に近江で義仲が敗れると捕われの身となり、和田義盛に引き取られて、義盛の本拠地三浦で暮らすことになりました。
そして建歴3年(1213)の合戦で義盛も敗れ、巴御前は木曾へと落ち延びていきました。
途中、横根稲荷神社で一夜を過ごした巴御前は、境内にある鎌倉石と七沢石で囲われた古井戸の水を化粧の水として使ったと言われています。
その後、この井戸は「横根の感念井戸」といわれるようにな泉区役所掲示による横根稲荷神社の由緒です。



2016年11月1日火曜日

金閣寺炎上

金閣寺炎上

三島由紀夫の著作・「金閣寺」は、1956年(昭和31年)に新潮社からは出版された。
私は、それから20年後に読書した。
金閣寺は、京都府京都市上京区金閣寺町にあった。

学校を卒業して2年、結婚した年だ。
主人公の心模様は、難しい文字で綴られていた。
それでも、この本に関しては、三島由紀夫の不思議な虜(とりこ)なった。
大学時代の私は、「いじけた左翼ぶり青年」だった。

そして、今年2016年の10月。
100円でも買える安売りブックストアーで、水上勉の「金閣寺炎上」を手に入れて読了。
この本は恐ろしいほどのノンフイクションで、気合を入れて、入れて読んだ。

仕上がるまでに、書き始めてから26年とか29年掛かった。
目くるめく?詳細な記述に、読書の初めは、頭が痛くなった。
水上勉の、生まれながらの修練か?なんて言うと、叱られそうか。

水上勉は福井県本大飯郡本郷町(現:おおい町)生まれ。
放火した林承賢は、京都府舞鶴成生で生まれ育った。
水上が舞鶴で、教員として勤めたころに、林に会っている。
同じく仏教徒をめざしていたので、それなりに意識していたのだろう。


三島由紀は人間のいわゆる美意識を金閣寺炎上事件に見たが、水上勉はそこに人間を見た、とある評論家は述べていた。

三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。

この金閣寺の炎上事件を、三島由紀夫は「金閣寺」を水上勉は「五番町夕霧桜」を書いている。



鹿苑寺金閣(臨済宗相国寺派の別格地)




足利義満 (室町幕府3代将軍)


鹿苑寺金閣は、国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上。
私の生まれは、1948年(昭和23年)なので、生まれて2年後に炎上したことになる。

国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。

林承賢は、寺の裏山で「カルモチン」を飲んで自殺を図ったが、一命を取り留めた。
大谷大学予科 中国語学科1年生。

彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。

逮捕当初の取り調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。
しかし、金閣寺炎上では、実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており、得度を授かった僧侶よりも事務方が幅を利かせていた。

寺の運営は、金銭欲を持たず自身を無にする禅寺修行が行われず、拝金主義であった。
林には、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。


 焼失直後の金閣寺 (昭和25年7月2日)


1956年(昭和31年3月7日)、結核と重度の精神障害により、京都府立洛東病院に入院中に、26歳で亡くなる。その後、この病院はなくなった。





2016年10月20日木曜日

仕事、気配りチェック

弊社の「お仕事、気配りチェック」
  
ちょっとした事件が発生したので、弊社の社内に張られている標語のことを思い出した。
その標語のことは下の通りだが、今までに、何度も書き換えようと思った。
この標語を、何度、読んでも、読んでも、最初に書いた時の心情が、上手く表(あらわ)れてない。

実は、この標語を、100%満足していなかった。
標語?
それは、スタッフの仕事っぷりを看守、察知、そして監守、激励するスローガンだ。
簡単に言えば、キ・メ・ゴ・トだ。

何もなければ、こんなことなど、どうでもよかったことなのだろう?
生まれつき、私の性格はネチッコイのだ。



今からひと昔前と言や、2005年だ。
株価は2003年が大底(おおぞこ)。
それから2008年位に向けて、全体相場が盛り上がり、アメリカの不動産バブルに新興国の隆盛。

ここらで、日本経済の復興の歩みに、安心感が出てきた。
それでも復興の反発力はなかなか辛抱強く、リーマンショックの後の戻りがあって、為替は円高に動き、欧州の債務危機もようやく突破したと言われた。

私は、そんな環境での弊社の経済状態が気がかりでしょうがなかった。
正月には、毎年、私の決められた仕事があった。
新年における、標語の書き換えだ。
ところが、何故か? モジモジしてしまうのだった!!

弊社の社員宛の「お仕事、気配りチェック」を筆で書いて、壁に張り付けることだ。
他人に見てもらって、堂々と胸を張れるほどのモノを書けなかった。
でも、出来上がりは兎も角、私の心根(こころね)だけは、誰よりも強靭で辛抱強く、激しいものを持っていた。




2003年 1月1日の午後

会社には誰もいない。
一人っきりだ。
鎮静な社内だけど、孤独な私を温かめてくれているように感じ。
慣れない手書きのため、出来上がった標語は、見事な悪筆ぶり。
そんなことには無頓着なのが、私の特徴。

この時に仕上げたものを簡易な額に入れて、壁に張り付けた。
その内容は次のようなものだ。

     ①強い意志
 
  ②広範な知識  
 
     ③大胆な行動


ここで、これらの一つ一つの意味と、それに関しての吾輩の思惑を書いてみる。

①の「強い意志」とは

社員の皆に対して、弊社の法人としての品格、品性を高めて欲しい。
理解される宅建業者でありたい。
卑(いや)しくも、業者として辱(はずかし)めるような言動を発したり、行ってはならない。

弊社の商品である中古住宅の法的な知識を、何もかもよく理解して、判りやすく説明をすること。
この精神を強く持って欲しい。

建築基準法
宅地建物取引業法
国土利用計画法
都市計画法
宅地造成等規制法
区分所有法
集落地域整備法
消費者契約法
民法
刑法



②広範な知識とは

物件の売買、賃貸について発する諸問題を、整理して、判りやすく関係者に納得してもらうこと。
発生する費用の明解さ、必要とする時期。
それに必要な諸書類。

物件の周囲の崖や川や電柱から影響を受けるもの。
嫌悪、もしくは好評な建造物の性格。
天然的に影響を受ける内容。



③大胆なな行動

①・②で、確信をもった内容については、躊躇することなく、勇気をもって、大胆に関係各社の担当者、お客さんに、言葉や書面で表現して欲しい。
このことこそ、関係者、お客さんに最大のメリットを受けてもらうことになる。

諄(くど)いようですまないが、もう一度繰り返す。
弊社にとって、言い辛いことこそ、大胆な行動で、言動して欲しいと言うことだ。

上の三つの標語を限りなく正確に行ってもらうために、情感にも条件をつけた。
慎み深く、感謝して、奉仕することだ。
精神的に豊かになって、きっちり業務に励みたい。


Kabocha.jpg  
写真と関係なく、11月7日は立冬だ。
初めて、冬の気配が感じられる。




2016年10月8日土曜日

今こそ 高橋和巳

今こそ、高橋和巳


朝日新聞 文化・文芸

2016 9 26 月曜日の朝刊



破滅文学、苦悩教の始祖と呼ばれた。
全体性をつかもうと格闘し続けた。

作家・高橋和巳氏は、1931年、大阪市生まれ。
日雇い労働者の多い西成区で育つ。
太平洋戦争の空襲で実家と零細工場を焼失。
1949年、京都大学文学部に入学した。
そして、5年後、10年後に人気作家になった。

26日の朝日新聞・朝刊で、並み居る作家の紹介の後に、高橋和巳さんの紹介記事が出てきたことに、吃驚した。
私にとって、高橋和巳は今、此処に一緒に暮らしている作家だった。
こんな状態で紹介される人になってしまった。

彼の作品を、大学を卒業してから数年間、読んで、読んで、読みまくった。
それから30~40年、恥ずかしながら、あれほど愛して愛して、魂が狂うほど好きだった氏のことを、恰(あたか)も忘れ去ったように過ごしていたことを、悔(くや)んだ。
それほど、仕事が楽しかったのだ。

頭脳が辺境な私の読書歴は、実に偏狂だ。
大学に入る前から卒業するまでは、新戯作派、無頼派と呼ばれていた作家の作品ばかり読んでいた。
太宰治や坂口安吾、織田作之助 田中英光、山岸外史、壇一雄たちの著作物だ。
前記の作家以外にも、何人もの作家のものを読んだ。
アホの馬鹿読みだった?のだろう。

私の生まれは、1948年、昭和23年。
劣等生の私が、2浪の果てに大学に入ったのが、1968年。
2年間、皆よりも遅れたものだから、サッカーだけではなく、ただ、皆の邪魔にならない程度に練習をするだけで、大変だった。
今年の9月23日で、68歳。

大学時代はア式蹴球部(サッカー部)に所属したものだから、勉強の怠慢さは当然の当然。
身辺に勉強のことを話し合う仲間や友人さえも、いなかった。
勉強しないのが、「当たり前だのクラッカー」、、、、、、だ。
吉本新喜劇の、お馴染みの当たり言葉。
幾ら下手くそでも、サッカーは愉しかった。
何度、ヤマオカ、荷物を担いで、田舎へ帰れと言われたことか。

代表的な本は、
・「悲の器」
・「邪宗門」
・「わが心は石にあらず」
・「日本の悪霊」
・「わが解体」
・「孤立無援の思想」
・「憂鬱な党派」
・[堕落」ーーーーだった。


社会人になって、最初に購入したのが太宰治の全集、その数年後に高橋和巳作品集を買った。
私の自慢の、買い物だ。
太宰治の全集は3度読みなので、これは人生の記念樹にと想って買った。

高橋和巳の作品集は、よっぽど張りつめて読んだのだろう、か? 
どの本のことも詳細に憶えていないのが、恥かしい。




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これからの文章は、全て新聞に書かれていたものの転載です。
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2014年に 『邪宗門』で始まった河出文庫の高橋和巳作品の復刊が、没後45年にあたる今年、『憂鬱なる党派』 『悲の器』と続いている。

『邪宗門』は戦前・戦中に弾圧された宗教団体が、戦後、世直しのため武装蜂起し、政府とGHQ(連合国軍総司令部)に鎮圧される物語。
『憂鬱なる党派』は1950年代の左翼運動の分裂を背景にし、『悲の器』は自らのスキャンダルに法をもって戦う刑法学者が主人公だ。

社会思想史研究者で京都精華大学専任講師の白井聡さん(39)は、少し前に高橋作品と出あい、感銘を受けた。
『永続敗戦論』の著者らしく、「敗戦と革命の挫折」に思いをはせた、という。

「対米従属批判は60年安保の頃までは盛んだったが、経済的成功とひきかえに不問に付されていく。
安保法など戦後の総決算が迫られている今の課題は、この時代に根があったと改めて痛感しました」

社会に肉薄「求道者の文学」

もう一点、白井さんが刺激を受けたと話すのは、人間社会の実相に肉薄する作家のまなざしだ。
権力はいかに複雑な構造に支えられているか。
同じ世界観をもちながら、どんな卑俗から思惑から亀裂は生じるのか。
この夏の都知事選で敗北した野党共闘を見るにつけ、政治と人間への冷徹で豊かな想像力の引き出しを持つことが、市民の側にも不可欠だと思ったという。

政治思想史研究者で放送大学教授の原武史さん(54)も、学生時代に読んだ『邪宗門』の衝撃が忘れられない。壮大なスケールで描かれる『虚構の戦後像』。
マルクス主義の影響がまだ強い中、宗教という土着のものに根差した変革をめざす着想も斬新だった。

促されるように、大学院では、小説のモデルとされる宗教法人大本の本部に、資料収集のために滞在する。
国家への反乱は架空の物語だが、大本の歴史の中で、天皇制や国家神道に対峙したとみられる要素があったことを知った。

「政治と宗教の問題を掘り下げていく自分の研究を、決定的に方向づけた小説です」

一般には難解な点も多い。
でも生前退位問題はじめ天皇制について考えることが重要ないま、作品の問題提起は古びていない、と原さん。

「阿修羅」のごとく悩み続け

すぐれた中国文学者でもあり、母校の京大へ赴任した高橋は、全共闘運動に一定の支持を表明した。
教員の権威主義や知識人の欺瞞に自覚的だった。
やがて学生との板ばさみに苦しみ、39歳の若さで病死する。
葬儀には多くの若者が弔問に訪れ、「思想的事件」と言われた。
「自己指弾」の文学がたどり着いた悲劇と惜しむ論評もあった。

だが批評家の若松英輔さん(48)は、そうした現象的な作家として語られすぎたことが、三島由紀夫と並ぶスターで文学史に残る力量ある作家を「過去の人」にしてしまった理由の一つとみる。

高橋の作品世界の神髄とは「求道者の文学」だと、若松さんは言う。
人間と人間を超えるもの。
語り得ることと語り得ないこと。
時代と永遠。
理想と現実ーーーー。

「ままならない問題の『あいだ』に立って苦しみ抜いたからこそ、宗教を、外側からだけではなく内面の海、実在をもって描き、沃野を切り開くことができた。彼の作品を政治運動や時代の文学置き換えてはいけない。
同時に、あまりに形而上学的に受け止めてもいけないと思います」

個人の実在から世界の成り立ちまで。
「生涯にわたる阿修羅」としての思索の往還が、全体が見えない時代を生きる私たちを、静かに鼓舞する。

(藤生京子)

高橋和巳の憂憤ーー33回忌に

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 高橋和巳の死を知ったのは、軽井沢のホテルだった。
 不安をぬぐいきれぬまま、連休を利用して出かけたつましい家族旅行の旅先。
 急遽、鎌倉・二階堂のお宅の通夜に駆けつけ、泣きくずれた。
「悪かったわね。あなたに本当のこと言わなくて・・・・」
 高橋たか子さんは毅然としていられた。
 肩を叩かれ、私は絶句した。

 
入院先の病院には、同人雑誌仲間の井波律子や古川修と見舞いに行ったのだが、その病状がすでに絶望的であることなど、もとより何も知らされていなかった。

 
 花々に埋まれ、高橋さんは永遠の眠りについていた。
 野辺送りの日、その顔は白く静かに映え、棺に打つ釘音が五月の鎌倉の風にむなしくひびく。やがて斎場で、白骨の一片をつまみながら、私は高橋和巳の死をしだいに確認していた。

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 三十九歳という若さで生き急いだ高橋和巳とは、いったいわれわれにとって何だったのだろう。
 一九六二年、第一回文藝賞『悲の器』で華々しくデビューした高橋和巳は、その翌年、立命館大学文学部講師を辞職。上京して念願の作家生活に入り、『憂鬱なる党派』『散華』『邪宗門』『我が心は石にあらず』『堕落――あるいは内なる曠野』『日本の悪霊』『黄昏の橋』などを精力的に発表する。

 絶望、破滅、堕落、暗黒の下降意識に沿ったモチーフの根源を、高橋和巳はひたすら殉教者のように負った。登場する主人公たちは、いずれも栄光ある国家、社会、組織から宿命的に弾劾される。いや、自らの選良忌避の告認である。ゆえに追放され、地獄の苦悩と叫喚に引き裂かれる。
 われわれはいつも滂沱の涙を流しながら、その小説を読んだ。
 なぜだったか。

 思うに、終世、高橋和巳はやみがたい憂憤に駆られたまま、そこに言動のすべてを収斂させていく。孤立の憂愁と褐色の憤怒。
 その日本的ラディカリズムというべきものが、内なる感覚のくすぶりを挑発し、静かに熱狂させていた。

 一九六七年、恩師の吉川幸次郎博士の強い招聘で京都大学文学部助教授に就任。
「小説も、一種の念力で書くものでね。その念力さえ涌いてくれば、もうこっちのものさ」
 花形作家はよくそう言った。

 学生として大学の研究室を訪ね、大阪・吹田のマンションに遊びに行き、気がつけば同人雑誌『対話』復刊に、私は加わっていた。高橋さんが鎌倉から京都に舞い戻っての月例の読書会は、熱気が入っていった。   そして、生駒・宝山寺前の旅亭での夜を徹した文学論は白熱した。花札に熱中して、三日間、丹前にくるまり、夜も昼も無心に札を引いたこともある。

 やがて、若者のアイドルとなった高橋さんは、全共闘運動とともに尖鋭苛烈な時代の最先端に突き出される。だが、病に倒れ、入院。京大紛争の中で、その内的葛藤を綴った最後の著作が『わが解体』となった。

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 通過儀礼でもあるまいに、大学自治なるものの幻想と虚偽に立ち向かう青年たちに、高橋和巳は新たな政治的実践者としての全存在を賭ける。それは文学の自己指弾、自己処罰としての営為でもあったのだろうが、大学闘争の過程で、義に近い人間関係を重んじ、道義性を深くうつたえ、人間それ自体の変革を説く高橋和巳は、常に蒼白に身を奮わせて迫る。会議、集会、団交、デモ。路上に火炎瓶が炸裂し、学生たちは血を流し、バリケードが築かれる。
 だが、全存在を賭けないお祭り好きの学生たちは興ざめし、孤立と高揚の裂け目がさらに深まる。

 にもかかわらず、高橋和巳は無上に優しかった。泣きたくなるほど、切ない魅力を持っていた。祇園のお座敷に上がり、
「お前に、このお姐さんの美しさが分かるか」
 と酒をぐいぐい飲みながら言った。いや、美しさが分かるかということよりも、この時、高橋さんは私をダシにいったい何を企んでいていたのか。

 また、先斗町の飲み屋では、
「キラリ光った流れ星、燃えるこの身は北の果て、姓は高橋、名は和巳・・・・・」
 と唐獅子牡丹もどきに、音程はずれの『網走番外地』を歌ってくれもした。
 だが、まもなく、夜明けの仮寓で嗚咽し、不規則な生活もたたって脇腹の激痛に苦しむ。大学の教授会にボイコットされて孤立無援の中で鎌倉に帰り、病床で喘ぐその姿を見るのは無上につらかった。

 末期ガンを知らされた梅原猛先生は、病院に見舞いに訪れた時、
「こういうことで腹を切ったんですが、これで、もう自分の業は終わったと思うんですね」
 と高橋和巳は手術した腹部の無残な傷跡を見せながら言った、という。
 聞かされ、凄いことだと私は思った。
 高橋さんは、おそらくその死を覚悟しながらも、本来のあるべき自己の純粋な内面の文学を書くことを悲愴に決意していた。

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 その後のモーレツからビューティフルな高度消費社会、イデオロギー対立の冷戦構造の終焉、また、バブル後の今日の不透明な社会状況の中で、あの憂憤の高橋和巳が、もし元気に生きていたとしたら、どう対応し、変容し、どのような作家的成熟を果たしていたのだろう。

 むろん、あの六〇年代から七〇年代に向けて疾走した極限と葛藤の高橋文学が、ふたたび熱狂的に迎えられるということは、おそらくもうあるまい。だが、それにしても、作家の個性や言動は、もっとつややかに語り伝えられてしかるべきであろう。

 幸いにも、良友に巡り会い、百愁安慰す。
 友愛の詩型を慄然と説く福島泰樹は、高橋和巳に献じる魂の告白として、第十八歌集『黒時雨の歌』を上板。また、藤井省三はひと夏の軽井沢の山荘で、『堕落』における中国皇帝の意味を備えた黄色の傘の存在と文芸評論のあり方について論じ、日本ペンクラブ獄中作家委員会のあった帰りの酒席などで夫馬基彦は「愛読しましたね。あの情念に魅かれましたからね」と言い、そして、小嵐九八郎とは大宮・氷川神社際の雨の夜の料亭で、蜂起には至らずと酌み交わしたことなど、決して忘れることはできない。
 孤独な薄明のリングで、いまなお、高橋和巳は熱っぽく語られつづけている。

 五月、切なく、苦しい。
 われら憂鬱党、同士数人、その夢と志を秘めて、いまだ健在。高橋和巳三十三回忌。一壺をかかげ、初夏、高らかに献杯。
 
『図書新聞』2002年5月25日号