2007年7月4日水曜日

サッカーと,牛島さんとの邂逅


1946年、昭和46年 大学2年の夏。


当時の私の一日のスケジュールは、午前中体育の授業の助手のアルバイト、昼飯時は中華料理屋の吉葉で,皿洗いのアルバイト。午後は、1時から本番の大学のサッカーの練習だ。



授業の助手は、大学の体育局に雇われていることになっていた。1時間120円は余りにも安すぎるので体育局には二人雇っていることに申請してもらっていた。それでも、一般の半分だった。


講師は、毎度、お馴染みの吉田先生でした。吉田先生はサッカー部の先輩でコーチでもあったのです。吉田先生は、よくお休みになりました。そんな時、私が先生の代行をするのです。講義といえばグリーンハウスでルールの説明ぐらいで、他の時間は、全てチームに分けて、試合の繰り返し。


時間がきたら出席をとって、それで終わり。吉田先生は、終わり頃にちょこっと顔を出しては、「山ちゃん、悪かったね」なんてこと、ばっかりだった。


「今度、焼肉にでも、連れて行くよ」なんて、毎度、嘘のコテコテの上塗り。


雨の日は、必ず吉田先生は来なかった。雨の日は、出席した学生に簡単なルールの講義をして、出席カードを書かせて終わりにするので、私にも都合のいいアルバイトだった。



吉葉のアルバイトは、飯つき1時間500円、それを毎日2時間働いた。青島たちが飯を食いに来たときなどは、気をつけなければならないのです。「青ちゃん、よ~オ」「山岡 オ~お」とか言って、飯を盛っているうちに、飯の盛りは超大盛りになってしまうのでした。「や・ま・お・か、そりゃ、なんぼなんでも、ちょっと多過ぎないか」と、オヤジに注意されるのです。



大学の練習にしても、試合にしても始まるのは1時から。



大学の練習が終わりかけた頃、早実のサッカー部がやって来る。


大体、私、中野さん、一言さんは早実の練習に毎日参加した。たまには、金、砂田(途中で退部)、松若、が参加。



その日のことでした。


練習の終わりかけた頃、強烈な夕立になった。あまりの激しさに練習はいったん休んで、グリーンハウスの庇の下で高校生達と、雑談に花を咲かせていた。


いつまで待っても雨はやまない。イッツ レインズ キャッツ アンド ドッグ や。グラウンドは深さ5センチほどの水浸し。


待ちきれ無くなった松若が、ムッムッと気が狂ったように、グラウンドに出て行った、私も高校生も否応もなく連れ出された。


紅白ゲームをやろう、と松若は言い張ったのです。


面白かったのです、楽しかったのです。


大学の練習では、みんなに迷惑をかけてばかりの私にとって、高校生との練習は貴重なひと時なのだ。雨は雷鳴とともに容赦なくどしゃぶり。だれもやめようとしない。早実の連中にとっても、練習がもの足りない。悔しい、そう簡単には帰れない、暴れまくるしかない。


糞っ垂れ、俺は~サッカーが好きだ~ そんな色んな感情が雨をも跳ね返す勢い。皆が狂ったようにボールを追いかけた。


そんな光景をじっと見詰め続けていたオジサンがいた、そうだ。


私はオジサンが、そんなに興味を持ちながら、見ていたとは、全然気がつかなかった。


そんな出来事があって1ヶ月ぐらい後に、偶然そのオジサンとプールの横の道で出くわした。オジサンは私に、先日、「雨の中、楽しそうにやっていましたね」と声をかけられた。「たまたまグラウンドの前を通り過ぎようとしたら、雨のなか、あんなに強く雨が降っていたのに、すごく、楽しそうに試合をしているのを見ましたよ。私にとっても、あんな光景を見たのは初めてでしたよ、呆気に取られて、笑っちゃいました」、と話された。


その変なオジサンが、牛島さんという方であると、ラグビーの友人から知らされた。


それから、そのことがきっかけで、その後牛島さんと私は、一緒に彼方此方行動を共にすることになり、深い深い関係にあいなり候ってとこです。



牛島さんは危険な老人だった。政治心情はアナーキーだった。


私は、子供の頃から旧来の考え方や因習、規範、常識と言われているものに対して、何故か、素直に受けいれられない性分だった。ちょっとひねくれていたのかも。


おかげで、小学校、中学校では随分先生を困らせたように思う。そんな私と牛島さんが急接近するのに時間はかからなかった。毎日毎日、会った。その時々に起こった事件について、朝方まで討論したことも、まれではなかった。ほとんど毎日、会って、討論ばかりしていた。



牛島さんとお付き合いを始めた頃、牛島さんの仕事は唯一、TBSの15分番組で「幸せみつけた」の脚本書きだけだった。二人は貧乏人同士の深い連帯で結ばれていた。最初のうちは、脚本書きという生業は結構な職業だ、あんなもんで食えていけるなんて、最高や、羨ましいと思っていた。


でも、実際はそんな番組一つでは家賃の支払いだけでも、十分ではなかったようだ。大人一人、子供二人が普通に生活できる収入には不十分だったようです。その時の牛島さんの経済的困窮を如実に知ったのは、薄々、以前から推測はしていたが、息子のYが起こした事件に関わって、初めて実態を知ることになる。



お金を持ってないことについては、みんな共通していたが、とりわけ俺と牛島さんは別格の貧乏だった。俺が牛島さん宅に行きだした時、娘のK子は幼稚園,Yは小学1年生。スカート姿のK子を、女の子らしいなとからかうと、牙をむいたライオンのように歯抜けの口を大きく開けて噛み付いて来た。


ラグビーの連中達によく肩車をして貰っていた、その時の彼女はとっても幸せそうに、俺には見えた。取り巻きは男ばかりで、誰もがK子を女の子としての取り扱いはしていなかった。


その後、日本女子体育大学の付属高校の女高生や,私の友人のコマツたちの女仲間が牛島家に来出したときは,さすがにK子は同性の親近感と気安さに嬉しそうだった。Yも皆から可愛がられ、俺達の話の輪のなかに常に居て、話題に上がったことに真面目に自分の意見を言っていた。


談論風発、話題もさまざま、口角に泡、時には激高の余り取っ組み合いになることもしばしば。


私たちが付き合いだした頃、牛島さんはどういう立場で関わられたのか東宝闘争のことを苦々しく話した。また、脚本を担当したTBSのドキュメント番組のごたごたで、一線から身を退いたことについては,昨日のことのように怒り出した。


保谷市の杜撰な疎水護岸工事の実態を関係者全て実名で放映しょうとしたらしい。


当然、然るべき手続きの上に進められていたので、社内での根回しは順調に進んで行っていると思っていたら、突然放映中止の知らせがきた。理由は何も説明なし。このショックから牛島さんは立ち直れなかった、と言った。


仕事を放棄した牛島さんを見るに見かねて、ささやかだけれども生活費の一助になればと、友人が、TBSの「幸せ見つけた」の仕事を用意してくれたそうだ。


昭和46年は、浅間山荘事件がおきた。日本中の人々がテレビに釘ずけ状態。連合赤軍とは何じゃ、こんな極悪な集団は絶対許す訳にはいかない。


成田空港建設反対闘争。


公害、熊本水俣病、イタイイタイ病、田子の浦。


北ヴェトナム軍大攻勢、アメリカ軍撤退。


沖縄本土復帰





毎夜、牛島さんの家に居たのは俺。金 昌克 西田。黒田さんは時々来た。時にはW大のラグビーのOBもやって来た。ある日、いつもののように何かで手に入れた食料を持って牛島さん宅を訪れた。


私が常用しているベッドに誰かが寝ていた。横向きの顔があって布団があって、その布団から30センチほど足が出ていた、頭から足までどうみても2メートルはある大男だ。卒業してリコーに入った井沢さんだった。彼は学生時代から全日本の代表だった。卒業してもふらりと牛島さん宅に遊びに来ていたんだ。



八百屋のTさんは牛島さんのことをちょっと違う角度から、心配してくれていた一人だった。


たしかクリスマスの夜のことだった。いつものように馬鹿話に飽きた牛島家族と私は寒い夜中を散歩していた。目的はない、唯 何か面白い事でも起こればいいのに、安穏と暮らす幸せどもが、困りそうな出来事が、でも被害は少なめに、こんな夜こそ起こればいいんだ。私たちは不穏な輩だった。


悲しい出来事は、何も起こらなかったけれど、牛島家には嬉しい出来事が起こった。台所の丸いテーブルの上の電灯を点けて、そのテーブルの上で最初に目にした物は、吃驚仰天、丸いお盆に盛られた寿司 寿司 寿司。


八百屋のTちゃんらしく、「Tより」とだけ記したメモ書きだけ。うおーと言ったか、わおーと言ったか、誰もが瞬間的に寿司を口に投げ込むように食った。


タメやん(当時、私はタメやん、と呼ばれていた)、Tちゃんはこういう人なんやと言い掛ける牛島さんの目は、感謝感激、歓喜でうるうる。


又、TちゃんはYやK子を自分のトラックに乗せて時々遊びに連れ出してくれた。女手のいない、大人ばかりに囲まれてさぞ退屈しているだろうと思っての献身的な行動。


牛島さんと交友関係があって、それなりに職業を持っていて、定期的に収入あると思われる人は少なかった。


金持ちは近づきたがらなかったのか、牛島さんが金持ちを避けていたのか、豊かさとは縁遠かった。そんな雰囲気が私を安らかにしてくれた。


警官の棍棒に頭を叩かれ、催涙弾に泣かされた。「神田川」を歌った、恋人が欲しかった。若く、未熟者の不安と焦燥。サッカーの過酷な練習を乗り越えてきた部友達との連帯。


牛島さんとの交流で得る平穏。こんな一切合財がその時のヤマオカ タモツの全てであった。


今年の1月(平成19年)、牛島さんの13回忌の法事を、K子と、私(サッカー)、飯尾昌克(旧姓・福田 サッカー)、西田英生(水球)、佐藤隆善(ラグビー)の5人で行った。随分、昔の話になった。