2009年8月19日水曜日

金大中元大統領死去

以後、090819の朝日新聞・朝刊(1面、天声人語、社説、2面)を、丸マル転載させていただいた。

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1面より。【ソウル=箱田哲也】

金大中元大統領死去

85歳、韓国民主化を主導

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韓国を代表する政治指導者で、南北朝鮮の和解・交流や日韓関係改善に尽くした金大中(キムデジュン)元大統領が18日午後1時43分、多臓器不全のため、入院先のソウル市内の病院で死去した。85歳だった。7月13日から肺炎のため入院生活を送っていた。60年代から民主化運動のリーダーとして軍事政権に抵抗し、73年には東京で拉致されて九死に一生を得ながら、97年度に4度目の挑戦で大統領に当選、初の南北首脳会談を実現させるなど激動の生涯だった。

李明博(イミョンバク)大統領は「偉大な政治指導者を失った。民主化と民族和解に向けた個人の熱望と業績は、国民に長らく記憶されるだろう」と哀悼の意を表した。北朝鮮メディアは18日夜までに報道していないが、金養建・朝鮮労働党統一戦線部長ら党幹部が弔問に来る可能性が指摘されている。

金大中氏は在任中、対話をもとに北朝鮮の体質変化を目指す「太陽(包容)政策」を掲げ、北朝鮮の金剛山観光など南北事業を次々と推進。00年6月、韓国大統領として初めて訪朝し、平壌で金正日(キムジョンイル)総書記と会談して南北共同宣言に署名した。00年には民主化運動と南北和解への貢献が評価され、韓国人として初のノーベル賞(平和賞)を受賞した。

対日関係の改善にも功績を残した。98年10月、大統領就任後初めて訪日。故小渕恵三首相との日韓首脳会談で「日韓パートナーシップ宣言」をまとめ、過去の歴史をふまえつつ未来を重視する「未来志向」の日韓関係を訴えた。

日本の植民統治下の24年に南西部・全羅南道の荷衣島で生まれ、61年5月に国会議員に初当選。直後の軍事クーデターで政権を握った朴正煕(パクチョンヒ)大統領の独裁に反対し、71年の大統領選に野党から立候補。妨害工作の中で、朴大統領に95万票まで迫った。

73年8月、東京のホテルから突然拉致され、殺されかかったが、5日後にソウルの自宅付近で解放された。情報機関・中央情報部(KCIA)の関与が濃厚だったが、日韓両政府の2度にわたる政治決着で真相は闇に葬られた。07年10月、KCIAの後身、国家情報院の真実究明委員会がKCIAの事件への組織的な関与を認める報告書を出した。

79年10月、朴氏暗殺後、軍事クーデターで全斗煥(チョンドウフャン)が実権を掌握。

80年5月の光州事件の首謀者として、内乱陰謀の罪で死刑判決を受けた。日米など国際社会の助命運動で減刑、釈放され、米国で事実上の亡命生活を送った。

85年2月に帰国し、87年6月の韓国の「民主化宣言」直後に公民権を回復。同年末の大統領選で野党のライバルだった金泳三(キムヨンサン)と候補一本化に失敗し、軍出身の盧泰愚(ノテウ)に破れた。

92年の大統領選は与党入りした金泳三氏に敗北し、政界引退を宣言。

だが、95年に復帰し、97年末の大統領選で政敵だった金鍾泌(キムジョンピル)元首相と組んで与党候補を破り、98年2月から5年間務めた。

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天声人語

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国や民族の苦難の歴史が、ひとりの政治家の人生に深々と刻まれることがある。元韓国大統領の金大中氏は、まぎれもなくそうした人だった。「波乱万丈」という言葉でさえ軽く響く85年の生涯を、きのう静かに閉じた。

日本の統治時代に朝鮮半島南部の島で生まれた。以来、死刑判決などで5度にわたって殺されかけたという。6年を獄中で過ごし、40年もの間、軟禁と亡命と監視の中で生きてきた。その来し方は、平和と民主主義に守られて暮らす者の想像を超える。

3度目に死に直面したのが、1973年に東京で起きた「金大中事件」だった。白昼のホテルから韓国の情報機関に拉致され、5日後にソウルの路上に放り出された。軍政下の不気味な事件として、その名を日本人の記憶に刻むことになった。

大きな功績は、独裁体制を終わらせ、民主主義の定着に尽くしたことだろう。98年には勝ち得た民主主義の下で大統領になる。やはり政治犯から大統領に就いた南アフリカのマンデラ氏と並び称され、ノーベル賞にも輝いた。

筋金の入ったその生き方は、「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である」という欧州の古い言葉が重なり合う。圧政の中で人生に刻まれた幾多の傷は、闘いを挑んだ向こう傷として、今では誇らしい勲章に違いない。

愛妻家でも知られ、「私は生涯を通じて異性を本当に愛したことがない人には魅力を感じない」と述べていた。巨星は墜ちたが、生まれたばかりの雲になって、分断された民族の行方を見守っていることだろう。

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社説

金大中氏死去

日韓の新時代を開いて

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日本で最もよく知られた韓国の政治家ではなかっただろうか。金大中。元大統領が亡くなった。

韓国から見れば、金氏は自国の民主化や北朝鮮との平和共存とともに、あるいはそれに増して、日本との和解に心を尽くしたとの印象が深い。

歴史問題で日本の政治家らが不用意な発言をし、韓国は激しい反日ナショナリズムでやり返す。わだかまりも解けない。そんな関係を金氏は断ちたかった。植民地支配をじかに体験し、日本という国のありようを肌で知っているという強い自負と信念から、それを自らの課題としたのだろう。

大統領に就任した98年に来日し、当時の小渕首相と交わしたパートナーシップ宣言に、その思いは結実した。小渕氏が語った過去の反省と戦後日本の歩みを、韓国の大統領として初めて文書で評価し、未来志向の関係構築をうたい上げた。

韓国内に慎重論が根強いなかで、日本の大衆文化開放にも踏み切った。文化が活発に交流するようになって互いに隣国への関心が高まり、日本での韓流ブームにもつながった。

サッカーW杯の日韓共催をへて人の往来は格段に太くなった。65年の国交正常化時の年間1万人が、いまや「500万人時代」だ。経済の結びつきも強まり、すでに日帰り出張圏である。

任期後半に当時の小泉首相が続けた靖国参拝や教科書問題できしみはしたが、日韓の関係が質、量ともに格段に深まったのは間違いない。金氏が強いリーダーシップをもって果たした役割を心に刻んでおきたい。

信念の追求は、分断国家の南北関係でも発揮された。ときに融和すぎるとの批判も浴びつつ、北朝鮮を変えるには交流と協力を重ねて関与するしかないとの思いは一貫していた。「成功には『書生的な問題意識』と『商人的な現実地感覚』が必要だ」。本紙との会見でそう語ったことがある。金氏の政治姿勢は、それをまさに地でいくものだった。

執念の大統領当選のために、かっての政敵と手を結ぶこともいとわなかった。南北首脳会談の直前に北へ5億ドルの不正送金があったと後に明らかになった際、「北の政権は法的には反国家団体だが、和解協力の対象でもある。非公開に法の枠外で処理せざるをえない場合がある」と釈明した。

一方で現実の壁の高さに苦しみもした。金氏の期待に反し、北朝鮮は核やミサイル開発を続け、解決の展望はなお開けない。日韓関係も歴史や領土問題ゆえに一筋縄ではいくまい。

来年は日本が朝鮮半島を植民地にした「韓国併合」から100年。隣国との歴史を顧みる契機である。金氏が切り開いた道を踏みしめ、これからの両国関係を見据えたい。

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2面より。

死線越え続けた哲人

金大中氏  民族融和へ忍耐貫く

(本社コラムニスト=若宮啓文)

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不死鳥のような鉄人にして哲人の政治家ーー。アジアの民主化を象徴する人物が逝った。まさしく巨星墜つ、の感が深い。

「金大中」の名を日本中の人が脳裏に刻んだのは、1973年の夏。東京のホテルからこちぜんと姿を消し、5日後にソウルの自宅前に放り出された。韓国情報機関の仕業であり、船上から危うく海に投げ込まれそうになったが、九死に一生を得たのだと後で分かる。

このとき「たとえ下半身はフカに食われても、上半身だけでも生きたい」と願ったという金氏は、軍事独裁政権を率いる朴正煕大統領にとって、目の上のこぶだった。

71年の大統領選に善戦した後に交通事故を仕組まれ、一命をとりとめたが、生涯足を引きずる体となっていた。くしくも東京で拉致された日に発売された月刊「世界」で、「軍隊の発想はエネミー(敵)だけあってライバル(好敵手)というのがない」と軍事政権の本質を問い、民主化への情念を語ったものだ。

拉致事件の後、3年近くに及んだ獄中生活で激しい監視と孤独に苦しんだ。朴大統領の暗殺後にようやく訪れた「ソウルの春」もつかの間、軍人の全斗煥氏が権力を握るや再び逮捕。国家反逆者の汚名を着せられて一時は死刑判決も受けた。こうして何度,死戦を越えたことだろう。

だが真骨頂は、それでもついに民主化の中で権力の頂点を極めたこと。権力への執念は、時になぜこれほどかと思わせたが、大統領になって平壌を訪れ、南北首脳会談を開いて世界を驚かせたとき、ナゾの一端が解けた。

太陽政策は、これぞ北朝鮮を変える唯一の道だという強い信念に基づいていた。南北共同宣言で思いを実らせてノーベル平和賞も手にしたが、誤算だったのは北朝鮮の並はずれたしたたかさに対して、この政策が求める大きな犠牲と忍耐の精神に、味方が耐え切れなかったことだろう。

米国はブッシュ政権が北風を吹かせ、日本では拉致問題で空気が一変する。不信の悪循環が始まって、やがて韓国も保守政権に。そこに現実政治の大きな限界があった。地域対立や過去を引きずる保革対立など、国内に横たわる大きな溝を埋められなかったのも響いた。

南北会談から9年、この4月にソウルで金氏にインタービューした。ミサイルや核実験をめぐる様変わりにいら立ちながらも、「北は非常に扱いにくく難しい国だからこそ、忍耐が必要なのです」と語る口調に迷いがないのは不思議なほどだった。朝鮮戦争のとき北朝鮮に捕らえられ、初めて死のふちをのぞいて以来、憎しみよりも、民族和解と統一への強い願いが体に染み付いていたのだろう。

その精神は日本に対しても発揮された。98年の来日でも小渕首相と交わした日韓共同宣言は、両国の「和解」を鮮明にして歴史的だった。それだけに小泉首相の靖国神社参拝は裏切りに思えたのだろう、悔しさを最後まで口にしていたが、この共同宣言が放つ輝きに変わりはない。

熱心なカトリック信者だったが、中国などのアジアにこそ古くから民主主義の発想があったというのが持論。孫文のアジア主義にも通じる思想で、東アジア共同体構想に熱心だった。最愛の李姫鎬(イヒホ)夫人が差し入れた万巻の書を獄中で読み、後のIT立国につながる構想も考えた知力と胆力には驚くしかない。

何度かお目にかかるたびに姿勢を崩さず、流暢な日本語を使って熱い政治哲学を聞かせてくれた。大統領就任から間もないころ、激しい経済危機に見舞われて「反独裁で戦っていた時とは比べものにならない苦労だ」と苦笑いしていたのも記憶に残る。

乗り越え続けた死線だが、寿命には逆らえなかった。民族の行く末を見届けられなかったのが悔しいだろう。

 

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000613 南北首脳会談(平壌)

 

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1980年8月軍事裁判(光州事件の首謀者として)

 

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1981年国家保安法違反で死刑判決/清州刑務所

 

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1997年12月大統領選にて当選

 

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00年12月 ノーベル賞(平和賞)受賞

 

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02年3月 日韓W杯/小泉純一郎首相