2016年1月11日月曜日

成人式は、今日!!

    
今日は1月11日。

成人式にお出かけのみなさん、おめでとう。狭い日本と言えども、気候については千差万別!昨日に式を行われた地域もあったことを、今朝のテレビは報じていた。



ネットに掲載されていた写真を使わしてもらった。

此処、横浜は、気温7度、3月初旬の暖かさ。西高東低、空は晴れ晴れ、雲一つもない。もう冬は終わったのか、と気を緩めるのは私だけだろうか。ところが北福岡では、この式のどんちゃんぶりから、きちがい成人式とか言われているそうだ。

二十歳になった人たちは、お祝いとこれからの人生の手運びについてのご享受を色んな人々から受けた。これらの先輩たちから、謙虚に学びとる日でもある。

子供時代を終え、自立し、大人社会へ仲間入りすることを自覚するための儀式(成人式)だ。激励、叱咤、教授それに、お祈り?のようなものまで、何でもかんでもありの目出度い儀式だ。

だが、全国的に馬鹿げた男と女の輩たちが、行儀の悪さだけではなく、嫌がることを平気で行うことがあって、これについて面白くない。世間の悩みのタネになっている。俺の前では、こんな奴らの、暴言やら乱暴を絶対に許さない。

ところで、約50年前のこの俺様の二十歳の日は何を考えていたのだろう?

京都から都の西北に、サッカーだけを真面目にやろうとやってきた。日本一実力ある大学チームに所属したかった。式は田舎の中学校の講堂。行き帰りのための新幹線の乗降料金だってもったいない!そんなことより、無駄な時間は過ごしたくなかった。そんなことよりも、新聞やテレビに映る成人式の光景が、どこか、私の知らない世界の戯言(たわごと)のように見えて、へえ~そんなこと、知るものか(怒)、と腹を括(くく)った。

そんなことよりも、グラウンでボールを蹴っていたかった。誰もいないグラウンで、独り、、、、、文句を言わないボールは、目出度い相棒だった。日に日に、ボールを蹴る回数は増えた。練習を終えて、管理人のオジサンのおごりで、東伏見駅前の焼き鳥屋でイッパイ御馳走になるのが、嬉しかった。

私がこの30年、読めば読むほど好きになった詩人二人の詩をここに、ネットからいただいた。茨城のり子さんのことは、東伏見に住みだしたときから、お母さんと思い、その後はお婆ちゃんと思って、詩を読んで暮らした。私の持っている詩集に彼女の「成人」の詩はなかったので、運よくネットで見つけた。

東伏見のグラウンドの傍の寮に住み慣れた頃、脚本家の牛さんに詩人の茨木のり子さんの家を教えられ、私は幸運にも得難い里に住むことを、大いに感涙した。それからは、東伏見は私の第二の故郷になった。


★ 成人の日に/谷川俊太郎

人間とは常に人間になりつつある存在だ

かつて教えられたその言葉が

しこりのように胸の奥に残っている

成人とは人に成ること もしそうなら

私たちはみな日々成人の日を生きている


完全な人間はどこにもいない


人間とは何かを知りつくしている者もいない


だからみな問いかけるのだ


人間とはいったい何かを


そしてみな答えているのだ その問いに


毎日のささやかな行動で


人は人を傷つける 人は人を慰める

人は人を怖れ 人は人を求める


子どもとおとなの区別がどこにあるのか


子どもは生まれ出たそのときから小さなおとな


おとなは一生大きな子ども




どんな美しい記念の晴着も


どんな華やかなお祝いの花束も 

 
それだけではきみをおとなにはしてくれない 

他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ

自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ

でき上がったどんな権威にもしばられず


流れ動く多数の意見にまどわされず


とらわれぬ子どもの魂で いまあるものを組み直しつくりかえる


それこそがおとなの始まり


永遠に終わらないおとなへの出発点


人間が人間になりつづけるための


苦しみと喜びの方法論だ





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『伝説』 茨城のり子


空の青さを見つめていると
空の青さを見つめていると
私に帰るところがあるような気がする
だが雲を通ってきた明るさは
もはや空へは帰ってゆかない
陽は絶えず豪華に捨てている
夜になっても私たちは拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことがない
窓があふれたものを切りとっている
私は宇宙以外の部屋を欲しない
そのため私は人と不和になる
在ることは空間や時間を傷つけることだ
そして痛みがむしろ私を責める
私が去ると私の健康が戻ってくるだろう
マックスフィールド・パリッシュ【星】
マックスフィールド・パリッシュ【星】
Kiss
目をつぶると世界が遠ざか
やさしさの重みだけが
いつまでも私を確かめている……
沈黙は静かな夜となって
約束のように私たちをめぐる
それは今 距てるものではなく
むしろ私たちをとりかこむ やさしい遠さだ
そのため私たちはふと ひとりのようになる……
私たちは探し合う
話すよりも見るよりも確かな仕方で
そして私たちは探し当てる
自らを見失ったときに──
私は何を確かめたかったのだろう
はるかに帰ってきたやさしさよ
言葉を失い
潔められた沈黙の中で
おまえは今 ただ息づいているだけだ
おまえこそ 今 生そのものだ……
だがその言葉さえ罪せられる
やがてやさしさが世界を満たし
私がその中で生きるために
【Kiss】
【Kiss】
生長
わけのわからぬ線をひいて
これがりんごと子供は云う
りんごそっくりのりんごを画いて
これがりんごと絵かきは云う
りんごに見えぬりんごを画いて
これこそりんごと芸術家は云う
りんごもなんにも画かないで
りんごがゆを芸術院会員はもぐもぐ食べる
りんご りんご
あかいりんご
りんご
しぶいか
すっぱいか
Wiliam Waterhouse
Wiliam Waterhouse
なくしもの
ごくつまらぬ物をひとつ失くした
無いとどうしても困るという物ではない
なつかしい思い出があるわけでもない
代わりの新しいやつは角の店で売っている
けれどそれが出てこないそれだけのことで
引き出しという引出しは永劫の目色と化し
私はすでに三時間もそこをさまよっている
途方に暮れて庭に下り立ち
夕空を見上げると
軒端に一番星が輝きはじめた
自分は何のために生きているのかと
実に脈略の無い疑問が頭に浮かんだ
何十年ぶりかのことであるけれど
もとよりはかばかしい答のあるはずがない
せめて品よく探そうと衣服の乱れをあらため
勇を鼓してふたたび室内へとって返すと
見慣れた什器が薄闇に絶え入るかと思われた
stokes
stokes
「夕焼け」から
ときどき昔書いた詩を
読み返してみることがある
どんな気持ちで書いたのかなんて
教科書みたいなことは考えない
詩を書くときは
詩を書きたいという気持ちしかないからだ
たとえぼくは悲しいと書いてあっても
そのときぼくが悲しかったわけじゃないのを
ぼくは知っている
リュートを弾く少女
リュートを弾く少女
うつむく青年
うつむいて
うつむくことで
君は私に問いかける
私が何に命を賭けているかを
よれよれのレインコートと
ポケットからはみ出したカレーパンと
まっすぐな矢のような魂と
それしか持ってない者の烈しさで
それしか持とうとしない者の気軽さで
うつむいて
うつむくことで
君は自分を主張する
君が何に命を賭けているかを
そる必要もない
まばらな不精ひげと
子どものように
細く汚れた首筋と
鉛よりも重い現在と
そんな形に
自分で自分を追い詰めて
そんな夢に
自分で自分を組織して
うつむけば
うつむくことで
君は私に否という
否という君の言葉は聞こえないが
否という君の存在は私に見える
うつむいて
うつむくことで
君は生へと一歩踏み出す
初夏の陽はけやきの老樹に射していて
初夏の陽は君の頬にも射していて
君はそれには否とはいわない
 【うつむく青年】
【うつむく青年】

一篇
一篇の詩を書いてしまうと 世界はそこで終わる
それはいまガタンと閉まった戸の音が
もう二度と繰り返されないのと同じくらい
どうでもいいことだが
詩を書いていると信じる者たちは
そこに独特な現実を見出す
日常と紙一重の慎重に選ばれた現実
言葉だけとか言えばそうも言えない
ある人には美しく
ある人には分けの分からない魂の
言いがたい混乱と秩序
一篇の詩は他の一篇とつながり
その一篇がまた誰かの書いた一篇とつながり
詩もひとつの世界をかたちづくっているが
それはたとえば観客で溢れた野球場と
どう違うのだろうか
法や契約や物語の散文を一方に載せ
詩を他方に載せた天秤があるとすると
それがどちらにも傾かず時に
かすかに 時に激しく揺れながら
どうにか平衡を保っていることが望ましいと
ぼくは思うが
もっと過激な考えの者もいるかもしれない
一篇の詩を書く度に終わる世界に
繁る木にも果実は実る
その味わいはぼくらをここから追放するのか
それとも ぼくらをここに囲い込んでしまうのか
絶滅しかけた珍しい動物みたいに
詩が古池に飛びこんだからといって
世界は変わらない
だが世界を変えるのがそんなに大事か
どんなに頑張ったって詩は新しくはならない
詩は歴史よりも古いんだ
もし新しく見えるときがあるとすれば
それは詩が世界は変わらないということを
繰り返し僕らに納得させてくれるとき
そのつつましくも傲慢な語り口で