2017年10月21日土曜日

懲役人の告発

我が家のさみしい改築で、本棚を移動し併せて本の整理もした。
これから、もう一度読みたくなると思わる1000冊だけを残して、それ以外の本は古本屋に売ったり友人にプレゼントした。
残された本の題名を読んで、妻と子供だけでなく、孫までが、ジジイの読んでいる本は何是、こんなに暗いものばかりなの、と驚く。
言われてみて、それなりに暗い題名ばかりなのに、私だって驚いた。そんなことはしょうがないと諦めて、再読を始めている。
暫らくは、新刊書には手を出さないと腹を決めた。

今は「懲役人の告発」だ。著者は椎名麟三
  送料無料/状態良/昭48発行 懲役人の告発 椎名麟三 新潮社/aa5607

昭和の40年代の初めごろに出版されたものだから、読んだのは、私が社会人になって、そんなに日が経っていない頃だ。
この本で、今になって大騒動しているのは、田舎に居た時に私にくっついて離れなかった枡が呉れたことだ。枡は去年、死んだ。
俺はバスケット部、枡はバレー部。3歳か4歳の後輩だ。
その彼が、昨年、ぽっくり死んだのだ。病状のことは、何も知らされていなかった。
20年前帰郷した折、田舎では少し高地になっている高尾(こうの)まで
生家から散歩した。高尾は、平家の落人が住みついた村落だ。
病み付きのように歩く彼は、山岡さん、俺は苦しいよと悲鳴を上げていた。その頃に、どこか遣(や)られていたのだろうか。
それが体のどこかの調子の悪さが原因だったなんて、露ほども想像していなかった。
それからも、彼が電話をくれる度に、横浜へ遊びに来いよと気楽に誘っていた。振り返ると、その度にどこそこが悪いんですと訴えていた。他人の健康のことに、厭に無関心なのが、この俺なんだ。
悪いことをしたものだと、謝っている。その枡とのことは、きっといつか話す機会があるだろう。

大学のクラブ活動で苦労、切磋琢磨していた私に、何とか、苦しい人の話を主題にした物語を読ませて、何とか元気にさせようと思ったのだろう。
体力も技術も生半可な私なのに、頑張ることは頑張っていた。
そして、偉そうに誰彼構わずに、お前も頑張れよなんて、気楽に言っていた。
しかし、私の現実は余りにも残酷だった。部の誰よりも技量が無かった。だが、精神力は人一倍強かった。
実はこの本を現在読んでいる最中だが、表紙の裏部分に枡の人名の署名があった。
この署名を読んで、約50年前から去年までのことを腹這いになって思い出した。
選りによって題名「懲役人の告発」には吃驚した。
当時、興味深く読んだことだろうが、内容については記憶はない。
学生時代にあっちゃこっちゃのデモに参加しては、苦しい顔をしていたことに彼は気を揉んでくれたのだろうか、それにしても、この本の題名だけは記憶があった。
枡は俺に、本の力を借りて、絶望、罪、虚無に喘(あえ)ぐことの大きく強い意味を教えようとしたのだろうか。
クラブでの活躍については、精神的には克己、自尊心を鼓舞していた。

この物語の最後の表現が、この物語の重大なことを述べている。
本書より。
焼き場の林はそこに見えていた。だがおれは重く曇った空が立ち枯れして死んだ木々の何百本という槍のようにとがった梢に、鋭く刺されているのを見ていたのである。
この焼き場の風景は、この世の終わり、終末の風景を意味している。
この光景が、小説の半ばで出てくる「墓場」や「首のない黒い犬」のイメージとして理解すればいいのだろうか。難しい。

主人公の交通事故がこの物語の初めだ。
主人公のおれは、かって交通事故で12歳の少女を轢(ひ)き殺した。金属労務者だった。
執行猶予なしの懲役4か月の刑を受けた。
おれは「その時、おれは死んだ」と観念した。その罪の悔悟のまま、人生への絶望と共に生きることを覚悟したのだろう。
刑務所を出たものの、今の生活は暗澹たるものだ。こんなに汚れた社会とおれの人生はこのままの状態から抜け切れないのだろうか。被害者の家族には毎月ささやかな金額だけれど、迷惑料を払い続けている。
おれは本当の自由を見つけたいのだ。

物語の端々で多く「墓場」が出てくる。
墓場は死のイメージ、人生の終わりか。それと、「首のない黒い犬」がしばしば登場する。この首のない黒い犬から、人生の虚無の象徴、絶望の中、無味乾燥の日常生活にも慣れ、懲役人のような暮らしからどうしても逃げられない。
この首のない黒い犬が、物語の進捗するなかで、主人公のおれの前に現れる。
墓場、首のない黒い犬の出現が、物語の行く末にどうなるのか危ぶまれる。
それよりも、気が引き込まれるのは本の題名「懲役人の告発」の懲役人だ。確かにおれは懲役人だけれども、小説の本筋は決して懲役人ではない。
懲役が言葉通りの懲役ではなく、懲役がイメージする社会やそれぞれの人間にとって、人生が悲惨なのだと問いかけてくる。
おれの人生は懲役みたいなものだ。

筋道はそれほどややこしい話ではない。単純なものだ。
おれの父兄弟は不思議、奇天烈な関係だった。
戦前は、家父長制のもとで、育った兄(おれの父)は戦後、株の投機に失敗し、公金にも手を出し、役場から免職された。馴染みの小料理屋のおかみと小さな駄菓子屋をやっている。福子はこのおかみの連れ子だ。貧乏だった。
一方、弟(おれの叔父)は、両親の放任によって卑屈になっていた。が、金属加工の町工場を作り成長していた。
おれは、交通事故後、この叔父さんの工場で働いていた。
事故前には恋人がいて、違う工場で働いていた。
どういう訳か、兄嫁が産んだおれは、弟夫婦の工場で働くことになった。
それから兄嫁の子供の福子は、弟夫婦が見受けしていた。
福子は、兄嫁の連れ子。
そのうち兄弟関係の仲が悪くなり、福子を兄夫婦が、自分たちに返せと言い出した。
その返せの意向は強く、何かの哀しい出来事が起こらないことを心配していた。

弟がおれを、福子を追い求める兄から救うために、福子のボデーガードをさせた。
ところが、おれが気づかないうちに、兄が学校にいる福子を連れ出し、行く方が解らなくなった。泊まりの旅館にて、父が自分の子供である福子を強姦した。福子を殺して、警察に自首すると言う。これはどういうことだ? 何故だ。
兄弟の実家に連れていかれた福子は、今度は弟に空気銃で殺された。何故?どうして殺したんだ? 何故だ?。
そして、弟は川に入水自殺をした。どうして殺したんだ? 何故だ?。
この「何故?」の意味が解らない。

福子の葬儀。
遺体をパンクしたリヤカーに載せ、畑の道を、白痴の子供が読経に合わせて、間の抜けた「ソーレン、ヤーイ」の声と共に行列した。

現実の不条理を前に、人間はどのように救われるのだろうか。
行き場のない人生を、どのように突き進めるられるのか。