2009年12月27日日曜日

神に裁いてもらおうよ

昨夜、夢をみた。夢の中で、私は法廷にいた。

裁判所は、広い草原の丘の上にたった1棟だけ、ぽつ~ンと建っていた。周辺には、住宅も牧舎も建物は何もありません。深い霧に包まれていた。昼間なのに、建物の灯りが外に少し漏れていた。

私は被告席に、傍には、私の会社のスタッフが浮かぬ顔をして座っていた。裁判官がたった一人、真正面の席に座っていて、その前には書記官の女性がいて、コンピューターを前に、議事録をとっているのでしょう。原告は右側に、被告は左側に、裁判官と向かい合うように座っていた。電灯は点されているのですが、部屋の中なのに靄(もや)がかかっていてお互いの顔がぼ~っとして、輪郭がはっきりつかめない。

私は会社の代表者として出席している。被告席に座らされているなんて、どうしても実感が湧いてこない。私が育った長閑な田舎では、けっして豊かではなかったが、泥棒も人殺しも、そんな悲しい事件など起こったことがない。他人を騙すなんてことも、聞いたことがない。他所では凶悪な犯罪が日常的に起きているんですよ、と聞かされても嘘だと思っていた。そんな山間谷間の田舎で育った私が、こともあろうに、被告席に座っているなんて、一体、何が起こったと言うのだ。私が、私の会社が何をしでかしたというのだろう。亡くなってしまったけれど、父や母が、こんな私を見たら、戸惑うことだろう、こんな席に座るためにお前を育てたわけではない、と叱りながら悲嘆にくれるだろう。

原告は、何かを主張していた。口角に泡を吹かし、髪を振り乱し、大いに息巻いているようだが、薄いカーテンの向こうにいるようで、ぼんやりとしか見えない。私には何を主張しているのかさっぱり理解できない。確かに言葉を発しているのでしょうが、私の耳には、理解できる言語としては、届いてこない。頭を抱えて何度も考えた。一体全体、私が、私の会社が何をしたと言うのだろう。

原告は自分が受けた損害や被害を裁判所に訴え出て、裁判官がその罪の深さや償いの量を見計らって、被告に課すのが裁判なのでしょう。被告には、思わぬ重い罰を下されることもあるし、予期せぬ罪から解放されることだってある。

裁判官は静かに、私の顔を心配そうに見ていた。

原告は5人だった。2人は中年の女性で3人は男の大学生でした。誰もがかって見たことのある面々だったが、どこで会ったのか憶えていない。大学生が、裁判に訴えているのは、ただ、単に学習のためなのだろうか。原告になって、裁判を持ちかけたのには理由がある筈なのに。

中年の女性たちには、楽しい家庭があるのでしょう。大学生には、勉強して有為な社会人になって欲しいと願うばかりだ。

裁判官の表情が見えない。意思の通じない長い抗論がだらだら続いたが、どうしても争点がはっきりしないのです。争点が噛み合わない。原告が訴えている内容が、被告である私には理解できないのです。

そうこうしていると、私にはさっぱり理解できない理由が解ってきた。それは、原告自身に損害や被害に対する認識が薄いのだろう。薄いからこそ、私に、被害を及ぼした張本人に対して、訴える力が弱いのだ。又、訴えている内容にも後ろめたい思いがあるのではないだろうか。ズバッと核心をついてこない。

裁判官が口を開いた。裁判官の表情に赤みがさしてきた。

「この事件については、私が判決を出す前に和解を薦めたいのです。が、両者はいかがかな。あなたたちが、和解への作業を進められないようでは、私には考えがあります」。私は依然として訴えられた内容が解せないので、判断しかねていた。

突然、原告に向かって、裁判官の口が爆裂した。「私の法の裁きの前に、神の裁きを受けて来て下さい。そうしたら、もう一度審理することにしましょう。原告と被告人、いかがですか」。

私たち原告と被告は、裁判官の忠告に従って、早速神の裁きを受けるための準備に入りました。

尿意を感じて、私は目が覚めたのです。

2009年12月22日火曜日

オシムの言の葉を、思い起こせ

サッカーの日本代表の監督である岡田武史氏の考えていることは、私はよく理解している。岡田監督は前監督のオシム氏がチームに求めたことをよく理解している。そこに自らチームに求める戦法、戦術を加えながら、岡田ジャパンを作り上げることに懸命になっている。いい結果を出して欲しいと願っている。

この時期になって、私が敬愛するオシムが、かってジーコから監督を引き継ぐ際に語った言葉を今、ここで再確認しようではないか。私のファイルにあった資料を掘り返して読むと、もう一度、この言葉を我々は噛みしめた方がいいのではないか、と思った。早速キーを叩いた。

「日本人は自分たちがトップの仲間だと勘違いしている。できるサッカーとやろうとしているサッカーのギャップがあり過ぎる」。

圧倒的な個人レベルの高さがなければなし得ない、自由な発想のサッカーを求めたジーコ監督の方向性に疑問を投げかけた。日本には日本に適したサッカーがある。それがオシムの考え方だった。

「身長を伸ばせないし、補えないものはある。それなら違う方法でステップを踏むのが正しいこと。背の高い選手をそろえてもうまくいくとは限らない」。

体格やフィジカルがすべてではない。それは小柄な選手が多い千葉で実践した「考えながら走る」の実績が証明している。

「日本人特有のいいものがあり、日本の道を見つけることが大切だ。日本人の特徴を生かせるメンバーを集めてやるべき」。

オシムが口にする「勤勉さとスピード、敏捷性こそが日本人の武器だ」。

----------------------------------------

そして、先日クラブW杯の決勝があった。対戦は、スペインのバルセロナとメキシコのエストゥディアンテス。結果は、延長戦の末にバルセロナが制して優勝、5億円近い賞金を持っていった。この試合を振り返って、日本代表の岡田監督のコメントが新聞(朝日・朝刊・スポーツ)にあったので、転載させていただいた。

岡田監督が語った。「スペインサッカーの魅力は、理想の美しいサッカーと勝つサッカーの両方を求める価値観を国民やメデイアが共有しているからだろう。以前は自分の中でもこの二つは別だったけれど、それが一緒になってきた。今のメンバーならできると思っている」、と。

ここでは「美しいサッカーと勝つサッカー」と表現しているが、こんなスマート言葉ではなく、オシムは上の欄のような実際的な言葉で語った。『「できるサッカーとやろうとしているサッカ」ーのギャップがあり過ぎる』だ。このあり過ぎだと言ったことが、今では、岡田監督にはそれ程の差もなく感じられてきているのではないだろうか。選手も然りだ。

先日、カターニャの森本貴行が言っていたことが頭から離れない。「このチーム〈日本代表チーム〉は動いていれば、ボールが出てくるンです」。この言葉、なんと、頼もしい言葉ではないか。次回のワールドカップにおいて、上位に食い込める可能性はある、がそのハードルは非常に高い。だからこそ、ワクワクさせる。これこそが、サッカーなのだ。

2009年12月18日金曜日

昨日は、漢字デーだった

昨日は珍しく目新しい漢字に出くわす機会が多い日だった。「珍紛漢紛」って、こんな漢字だったの?、「卓袱台」ってやっぱり表形文字?。ちゃぶだいは知っていても、卓袱台は知らなかった。「熟柿」は表象文字か、郷里のことを思い出すいい機会を作ってくれた。

 

★珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)

フランス革命秘史ナントカを読んでいたら、突然、アントワネットちゃんが言うセリフが珍紛漢紛だ、ということで、この状況を表現するのに漢字四文字が出てきて、字の並びから「ちんぷんかんぷん」とは読めたが、こんな字を当てるのか、と瞬間、納得できなかった。自宅に帰って、ネットで調べてみたら、意味は言っていることがわからないことで、珍紛漢紛の漢字が使われることが多いとあった。そして、この「ちんぷんかんぷん」には、珍糞漢糞、陳糞翰糞の四文字述語が当てられることもあると書かれていた。

★卓袱台(ちゃぶだい)

昔と言ってもそう遠くない以前、明治から昭和の40年代ころまで、日本家屋の居間には必ずあった。座卓、現在用語では座敷用テーブルです。木製のもので脚が4本あって、片付けやすいように折りたためるようになっていた。丸形、正方形、長方形のものがあった。折りたためないと、卓袱台と呼ばないとも聞いたことがある。食事などの一家の団欒、友人親戚が遊びに来てくれての談笑にも卓袱台をはさんでおこなわれた。夜になると、居間は寝室にも代わることもあったので、その時には卓袱台は脚を折って片付けられた。テレビドラマの「寺内貫太郎一家」の親父が、なにかの拍子で頭にきてひっくり返すあのテーブルのことです。「時間ですよ」にも、撮影用のセットでは不可欠な家具であった。「巨人の星」でも、息子・星飛雄馬の言動に激怒した父・一徹も、しょっちゅう卓袱台を引っくり返していたことが、懐かしい。褒められない日本の親父の一原型?か。小津安二郎監督作品にも、セットされた家具のなかで重要な役割をしていた。「卓」が何故「ちゃ」なんだ、と思って日本語大辞典(講談社)の卓袱台を見たら、「ちゃぶ」は「卓袱」の中国語の音から、と書かれていた。

 

★熟柿(じゅくし)

夜、讃岐うどん屋さんで、うどんを食う前に酒を飲もうと思って、店長お勧めのモノをくださいと注文した。店長は熟慮、あなたは色んな酒を飲んでくれているのですが、これは初めてでしょと焼酎の瓶を見せてくれた。真っ赤なラベルに熟柿と書いてあった。この字、読めますか?、の質問に、私はじゅくしでしょ、と答えると、店長さんは、よく読めたねと感心してくれた。熟柿=じゅくし、で憶えているわけではないのです。郷里、熟した柿の実が、葉が落ちて裸になった柿の木にポツウ~ンと寂しげに取り残された光景が頭のなかをかすめた。その柿を日常的に「じゅくし」と呼んでいたので、そのまま、その名前を言ったまでのことなのです。だから、私はこの熟柿を国語学的に読めるのではなく、山野の風景の一事物の呼び方として知っているだけのことなのです。私の郷里では、渋柿を赤くなってきた頃を見計らって採り、皮を剥いて干柿にするのです。その干し柿の名は、宇治田原町特産=古老柿(ころがき)です。その際、なっている柿を全部採るのではなく、鳥の為にいくつかは残しておくのです。鳥は野菜や果物に巣食う虫をとって食う重要な役割をしてくれるのです。悪い鳥もいるのですが、ここは百姓のおおらかさで、まあいいんじゃないの、ということだろう。鳥さん用に残しておいた柿でも、全てが鳥に食われることもない。食われ損なった柿が、外気が冷えて霜が降り出した頃には、果肉がゼリー状になって、甘味を増し、結晶したようになるのです、これが熟柿なのです。山猿の私にとって、アケビと並ぶ大好物でした。明治、森永、グリコ、雪印がいくら頑張っても、この食感、味は出せません。

赤くなった渋柿を採って、米の籾殻(もみがら)の中に入れて置いて、熟すのを待つこともしました。でも、味では木にくっついたまま自然に熟したモノには、負けました。

★落花生(らっかせい)

お歳暮に八街産落花生をいただいた。有難うございました。私は、どの送〈贈)り主にも受け取った礼状を出しているのですが、経済が最悪の状況下ですから、お気持ちはとっても有り難いのです、が、どうか、今後はお気遣いなさらないように、と一言添えているのです。

その頂いた落花生の箱の中の八街産落花生の紹介文に、落花生という名前の由来というか、何故このような名前がついたのか、その説明書きがあったので、つい熟読してしまった。その説明書きから、抜書きを思いついたのも、私の会社の社員に、落花生が土の中にできるということを知らない者が幾人もいたからなのです。

明治の初めにわが国に導入された作物です。

落花生は土の中にできる作物で、花が咲き終わるとしぼんで地面に垂れ下がり、花の根元から子房の柄が長く伸びて地中に入り、先の方にさやができます。この花が落ちて実が生まれるところから、落花生の名前がつけられた、とのことです。

2009年12月13日日曜日

年末恒例、朝日&住生の創作四字熟語

今の時季、朝日新聞の天声人語では、恒例で下のような類の小文を著している。毎年、楽しみにしているのです。この一年の世相を振り返って、住友生命が創作四字熟語を募るのです。

その創作熟語を利用した天声人語の文章の巧みさに感心させられてきた。マイノートに書き留めておきたいと、そのときは思いついても、ついつい忘れてしまう。世知辛い年末なのに、今回は、マイコンピューターに保存して置く機会が持てたことに感謝する

ーーーーーーーーーー

20091211

朝日・朝刊

天声人語

ーーーー

有権者の抜きはなった刃が日本の政治を袈裟懸(けさが)けにした。これぞ「一票両断」。住友生命が募った年の瀬恒例の創作四字熟語に、一年を振り返る名作迷昨が多く寄せられた。

寒空の炊き出しで今年は明けた。派遣切りや雇い止めで仕事を失った人々が「断雇反対(だんこはんたい)」を叫んだ。夏の選挙で永田町はひっくり返る。「政権好待(せいけんこうたい)」が実現したが、、新政権の「鳩世済民(きゅうせいさいみん)の手腕はいかに。

新型インフルエンザが上陸すると、店頭からマスクが消えた。日本中が「顔面蒼白」となって、来訪の外国人も驚いた。うつされてはたまらないと、通勤電車も人ごみも「一咳触発(いっせきそくはつ)」でピリピリする。予防したくてもワクチンは足りず、切歯扼腕(せっしやくわん)ならぬ「接種待腕(まつわん)」がなお続く。

高速道路の「千円」は功罪が半ばした。喜々として「遠奔千走(とおほんせんそう)」する人もいれば、「千車万列」の大渋滞にプロの運転手は泣かされ、客をとられた鉄道も船も泣いた。暦の魔術で初の「秋休五日」(シルバーウイーク)となったものの、どこもかしこもやはり渋滞。

司民参加」の裁判員制度が始まり、「判官判民」の裁きに市民感覚がにじみ出た。白昼の天体ショーは「皆祈日食」で晴天を待ったが悪石島は無情の雨。米国では旅客機が川に奇跡の不時着。「一機冬川(いっきとうせん)」の機長の離れ業が喝采を浴びた。

この人を忘れてはいけない。石川遼君めあての「一目遼戦(りょうせん)」のギャラリーでゴルフ界はわいた。国宝の阿修羅像展も長蛇の盛況となり、多くの人が「阿美共感(あびきょうかん)」した。ゆく年に、忘れ得ぬあのまなざしが、ふと胸をよぎる。

2009年12月12日土曜日

この前田の短いコメントに感動した

MX-3500FN_20091214_131811_001

Jリーグの年間表彰式「2009 Jリーグアウォーズ」が7日、東京都内であり、最優秀選手賞〈MVP)は鹿島のMF小笠原満男(30)が初受賞した。主将としてチームを史上初の3連覇に導いた統率力が評価された。小笠原の真骨頂は、早い攻守の切り替えだ。相手をなぎ倒して球を奪い、好パスで流れを変える。「危機を、一瞬で好機に」と本人が志す動きは、チームが逆境の時ほど研ぎ澄まされる。朝日新聞紙上における中川文如記者の記事をお借りした。私も、小笠原の受賞については、十分納得している。チームの大黒柱としての風格がある。新聞のスポーツ面に、小笠原がMVPのトロフィーを小脇に抱えた大きな写真が載っていた。来季は、4連覇とアジア制覇をねらうと言ってのけた。

ーーーーー

得点王として、20ゴールを挙げた磐田ジュビロの前田遼一が表彰された。日本選手としては02年の高原直泰(当時磐田、現浦和)以来7年ぶりらしい。

その隣に前田の短いコメントがあって、その短いコメントのなかに、前田の日常の心意気が痛いほど解って、思わず、このコメントを保存しておかなくっちゃ、とキーを叩いた。

前田ー「先輩のおかげ」

日本選手で5人目(6回目)の得点王に輝いた前田。「ここにいられるのは中山(雅史)さんや高原(直泰)さんとプレーできたから」と切り出した。ともに磐田黄金期を支えた先輩FWだ。「でも2人と違って(中心選手として)リーグ優勝、W杯に出場したことがない。肩を並べたい」。今後の前田の活躍を見届けたいと思う。私の後輩、林義規が長年監督をして、トップレベルのチームとして頑張っている、東京は暁星高校の出身だ。文武両道の学校だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

20091208 朝日・朝刊 スポーツ

潮 智史 

鹿島 変わらぬ「伝統」

ーーーーーーーーーー

5年連続で最終節までもつれたJ1の優勝争い。3連覇もさることながら、鹿島の強さにうならされるのは96年の初優勝から、98,00,01,07,08,09年とコンスタントに勝ち続けていることだ。普段の練習から球際の争いを厳しくし、パスの精度を10センチ単位で研ぎ澄まし、結束と献身を重んじる。細部を突き詰める精神性をサポーターは「ジーコスピリッツ」と呼び、選手は「伝統」と表現する。5日の浦和戦でも猛攻を落ち着いてかわしながら、攻め手を探ってひたひたとゴールに迫った。押し込まれた前半を0-0で終えた時点で試合は鹿島ペースだった。

緩みのない守備から仕掛ける速攻と勝負強さ。一貫したスタイルは、ピッチ上で実際に監督役も担っていたジーコを含め、7人のブラジル人監督が作り上げてきた。あまりに手堅くてときに面白みに欠けるほどだが、彼らの仕事ぶりを見ていると。「変わらない強さ」に思い至る。

日本人は勝てば、次には何か新しいものを求めたがる。常に進歩しないと落ち着かない性分だ。鹿島でも優勝した翌年に新鮮味を求める日本選手に対し、「当たり前のことをきちんと身につけろ」と反復練習を強いる監督が結果をだしてねじ伏せてきた。小難しい戦術論を持ちかけても、「最後にものを言うのはあきらめない気持ちとチームの結果だ」と答える。サッカーをシンプルにとらえている彼らは余計なものをそぎ落とし、ただし、肝心の土台となる部分に妥協は許さない。勝つすべを心得ているのだ。

日本代表の岡田監督が横浜マ監督だった当時、00年から6年にわたって鹿島を率いたトニーニョ・セレーゾ監督のチームづくりにあきれていた。「毎年、同じことを忍耐強く繰り返してチームを作り上げる。私には到底まねできない」と。王国ブラジルの奥深さである。(編集委員)

2009年12月10日木曜日

太宰はやっぱり、嘘つきの天才だった

MX-3500FN_20091214_131853_004 

学生時代、太宰の小説を古本屋さんに出回っているものなら、なんでもかんでも読み漁っていた。貧乏学生だったので、新刊本は買えなかった。そして昭和48年、24歳で某電鉄系の親会社に入社して、初任給を貰えたら、一番に買うぞと決めていたのが筑摩書房の太宰治全集全12巻(昭和46年、新刊として発行)だった。新品全巻で1万円ぐらいだった。活字が大きくて読みやすかった。初任給が5万5千円、手取りが4万8千円。本屋さんから、届きましたから取りに来てくださいと連絡を受け、財布を持たない私は、お金を裸で握り締めて向かった。本を受け取り、代金を誇らしげに支払った。本は重かった、心は晴れ晴れだった。何だか、自分が成長したような気分になれて嬉しかった。

当時、太宰のどの小説も何度も読み返していた。そのなかで、「津軽」は別格だった。太宰の作品のなかで、一番好きなのがこの「津軽」だ。太宰が、30年ぶりに乳母だったたけを訪ねて行く。探しあぐねて、やっと孫(?、子どもじゃなかったと思っているのですが、かん違いかも)が通っていた国民学校の運動会の会場で再会するのですが、この場面で私はいつも金縛りになってしまうのです。

「津軽」のクライマックスの舞台は、陽が燦燦(さんさん)と照りつける運動会の会場で、健康色に彩(いろど)られ、久しぶりに会った太宰と乳母、お互いに会いたくて会いたくて、晴れやかで、自然で、屈折のない交情、純粋で崇高な愛、そんな愛に溢れた状況だった。

作家は物語を創作するものだとは、よくよく理解しているのですが、私小説風に書かれているものだから、ついつい太宰の本当の本当のことを、本当のことだから尚更具体性を伴って、文学的に素晴らしい作品になっているのだ、と思っていた。昨日まで、たけさんと再会した時の状況は、本に書かれたそのものだったと、思ってきた。

ところがじゃ、実際は本に書かれたのとは、随分違ったようだ。その内容については、後の方の新聞記事に委(ゆだ)ねる。虚構という字を好んでよく使った太宰さんに、私は立派に騙(だま)されていたことが、今日の新聞記事で、知った。やっぱり、太宰は天才だったんだと、再発見させられた、ニンマリ、にんまり。こんなに、ころりんと騙される幸せもあるんだ。太宰のことが、ますます憎たらしいほど好きになっていく。

昨日〈20091209〉、太宰治全集で「津軽」を走り読みした。最後の最後のところで、太宰は嘘をつきました、と告白している文章があった。私には、そこまで読解できていなかったようだ。その部分をここに転記しておこう。---《まだまだ書きたい事が、あれこれあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。》 最後にきて、付け足しのように虚飾を行わなかったなんて、言わなくてもいいことを敢えて言っているのは、私は虚飾を行いましたってことだったんだ。どこまでも、憎めない作家だ。

☆新聞記事を丸ごと転載させていただいた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下、20091208 朝日新聞夕刊 

ニッポン 人・脈・記 漢字の森深く⑩

太宰はこの字を追った

ーーーーーーーーーーー

太宰治は今も人気作家だ。生誕100年を迎えた今年は、漢字検定ならぬ「太宰治検定」までできた。

こんな問題がある。

〈私には、また別の専門科目があるのだ、世人は仮にその科目を「  」と呼んでいる〉

空欄に入るのは漢字1文字。出典は「津軽」だ。戦時中に故郷の青森県を旅してつづられた小説で、代表作の一つとなる。この「専門科目」について〈人の心と人の心の触れ合いを研究する科目〉とも書いている。

答えは「愛」。

「津軽」の最後で、太宰は子守のたけと再会する。愛という字を太宰流に描けばこうなる、という屈指の名場面だ。

MX-3500FN_20091214_131853_005

越野タケ

たけは本名越野タケ。大地主だった太宰の生家へ13歳で奉公した。幼い太宰をかわいがり、深い影響を与える。嫁いでから11人の子を産んだ。

小説で太宰は、たけを探しあぐねた末に国民学校の運動会で見つけ、〈生まれてはじめて心の平和を体験した〉。一緒に行った竜神様の桜の下で、たけが語る。〈お前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていた〉

太宰と同郷の文芸評論家相馬正一(80)は戦時の勤労動員で結核を患った。「このまま死ぬのか」。戦後、太宰の「人間失格」を読み、心をつかまれる。

高校教師をしながら太宰研究に打ち込み、のちに優れた評伝で名をなす。タケに何度も会い、思い出話を聞いた。

「あの有名な場面がほとんど虚構と知った時は、いや、本当にびっくりしました」

太宰は再会した国民学校で、実はタケそっちのけで知り合いの住職に酒をふるまわれていたという。竜神様でもタケと言葉をかわしていない。

相馬はこの住職からも再会の表情を明かされ、こう考えた。

「太宰は母にかわいがられなかった。タケさんの姿を借りて育ての親という像を作り、安心立命を得たかったのでしょう。再会シーンは願望なのです。愛をめぐる虚構の天才ですね」

ーーーーー

「津軽」が書かれたころ、太宰に恋している女性がいた。戦後の小説「斜陽」の執筆を助ける太田静子だ。太宰が1948年に別の女性と入水する7ヶ月前、太宰の娘、のちの作家太田治子(62)を産む。

MX-3500FN_20091214_131853_001

太田治子

治子もタケに会っている。大学生だった66年、太宰を取り上げたテレビ番組の仕事で津軽を旅した。相馬が親切に案内してくれた。68歳のタケは、悲しいくらい腰が曲がっていた。

「あんた、わしの孫だ」

手をつかまれた。「その力の強かったこと。それでいて、浜辺に咲くハマナスの花のように上品なおばあちゃんでした」

治子は自宅に帰って泣いた。

「ママ、私、生きていてよかった」。出生のことで悩んでいた自分を、太宰ゆかりの人たちが温かく迎え入れてくれたから。

「津軽」は太宰文学のなかでも治子の好きな作品の一つだ。

「タケさんと再会する場面にフィクションはあっても、父の心にうそはありません」

タケは上京して、太宰の墓参りをしたことがある。再会した時と同じアヤメ模様の紺の帯を締めて。83年に85歳で亡くなり、今月15日が命日になる。

ーーーー

治子は1枚の和紙を大切にしている。自分が生まれた時、太宰が名前の1字を取って名付け、したためてくれた。

〈この子は私の可愛い子で、父をいつでも誇ってすこやかに育つことを念じている〉

この肉筆に見る愛の字は、柔らかく、かわいらしい。

治子は今年9月、「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」を著した。母の日記を読み、2人の愛と向き合う日々。心は重くなったが、やっと父と母のありのままの姿を見つめることができた。これからは、詩人金子みすずの詩のように、明るい方へ生きていこうと思う。

一つの漢字に、たくさんの物語がやどっている。その森は深く、人を魅了してやまない。

(このシリーズは文を編集委員・白石明彦、写真を八重樫信之が担当しました。文中敬称略)

2009年12月8日火曜日

菅平が遠くになりそう

パラディス イン 相模原 014

12月3日、自宅を04:45に出発、車で菅平に行ってきた。環八、関越、上信越道の上田・菅平で高速道路を下りた。144号線、406号線を通って、菅平入り口に08:00に到着。

数年前に買った別荘を手放すことになったのです。経済不況の真っ只中、少しでも流動資金を確保したいので売却することにした。今まで別荘の管理をしていただいていた香さんに、お礼の挨拶をしなくてはいけないと思いついたのです。香さんは、我々の別荘の前の道路を隔てた向かい側でペンションを経営されているのです。ペンションの名前は「じゃじゃ馬山荘」です。

売却にあたっては、売主である弊社は宅建業者でもあるので、買主さんに交付しなければならない書類を須坂市役所で取得する必要がある。建物の設備のチェックもしなければならない。長野地方法務局での仕事は、インターネットと郵便で事足りたので、時間は短縮できた。

保有していた期間はたったの3年半だったけれど、社員や社員の家族、友人には数々の思い出を演出してくれた。夏に冬に、建物が大きいのでグループで利用できたのです。

私にとって、この別荘には格別の思いがあったのです。菅平という土地柄だ。私の精神と肉体、を鍛えてくれたのは、ここ菅平の母校のグラウンドだったのです。元々、根性のある方だったのですが、その根性にさらなる磨きをかけてくれた。丈夫だった体に鞭を打ち、なお一層頑健な体に鍛えてくれた。大学4年間の夏合宿、疲労、苦痛、汗と鼻汁、よだれにまみれて過ごしたサッカーのグラウンド。昼間は真っ赤な太陽と砂ほこり、夜には清澄な風、冷たい水、美しい星と空、柔らかい布団。

パラディス イン 相模原 016

早稲田大学菅平グラウンド

エリートと呼ばれる部友たちに囲まれ、励まされ、実際に足や手、首を引っ張り回されて、何とかみんなの足かせになりながらも頑張れた。感謝している。走っている後ろから、ぐいぐい押されたこともある、決められた時間内に走りきらないといけないのです。

技術も体力も、みんなとは同じようにはいかなかったけれど、なんとかやり通せたことで、私は、私の大人としての一歩を踏み出せたと思う。私の秘(ひそ)かな自信にもなった。大人としての行動の原理原則をここで、身につけたのだ。

そんな足手まといのサッカー部員が、練習だけではなくて金銭に関しても部友に多大の迷惑をかけたのです。4年間の部費踏み倒し、寮費踏み倒し、みんなで酒を飲みに行っても、清算する段になって、私だけは割り勘に参加できなくて、一人食い逃げ飲み逃げ?蚊帳の外状態だった。こんな男を大目に見て、手放しで許してくれた先輩、同輩たち。浪人中、ド方仕事で貯めた資金から、入学金と4年間の授業料を差っ引いて、その残った金額を4年間48ヶ月で割った額が送金されてくるのです。が、その額はみんなの半額、3万円だったのです。目を瞑(つぶ)って付き合ってくれた。心優しい後輩にも恵まれた。感謝しても、感謝しきれない。迷惑をかけたことが、卒業後も気になっていて、事あるごとにそのことが思い起こされ、いい気がしなかったのです。

そんな折、この別荘を買わないか、とかっての会社の同僚だった佐から持ち込まれたのです。即、買うことを決意した。私には思惑があったのです。日本の各地から、サッカー部の合宿に馳せ参じてくる卒業生のために、現役の選手と同じ合宿所では酒は飲めないし、夜遅くまでの談笑は許されない、それならば卒業生みんなのたまり場にでもなれば、こりゃ喜んでもらえるだろうと思い巡らしたのです。今までの不孝を許してもらうのに、こりゃ打ってつけだ。

 パラディス イン 相模原 020

ダボス山(スキー場」

 

「じゃじゃ馬山荘」さんに挨拶に行った。ご夫婦は以前にも増して元気だった。ご主人さんは72歳でピアノ歴は長く、奥さん75歳で2年前からドラムを叩き始めたとのことでした。月に2回、先生が来てくれるのだそうだ。先日、老人達のダンス大会があったのですが、150人の前でドラムを叩いてきましたと、上機嫌だった。その曲はジャズなど洋楽ではなくて、50年ほど前の「東京ラプソデイ」なんですから、笑っちゃいますよね、と。それから、ペンションの仕事を、あなた達と会った頃、やめようと思っていたのですが、最近昔のお客さんが思い出したようにパラパラ来てくれるようになって、やめられなくなっちゃいました。苦笑していた。でも、商売抜きなので、いつまでも居ていいよ、なんて調子でやっています、と仰っていた。私たちも今まで、色んな人のお世話になってきたので、これからは、みなさんにお返しをしながら、生きようと話し合っているのです。奥さんの顔は少し赤みがあって、つるつるしていた。可愛い紀州犬の子犬がいた。人懐っこくて、私にくっついて離れなかった。

それから、須坂市役所に向かおうとしたのですが、どうも母校のグラウンドが気になって、今度ここへやって来るのはいつのことやらわからない。見納めにはしたくないが、ここでグラウンドをもう一度網膜に焼付けておかなければ後悔する。思い出がセピア色になりかけていた。誰もいないグラウンドは、小雨が降るなかにひっそりと静かにたたずんでいた。悲しそうにも寂しそうにも見えた。グラウンドを前に、当時のことを思い出そうとしたが、40年以上も前のことだ、激しく熱いものは湧き起こってこない、とにかくグラウンドも私も、今は静かだ。当時もそうだったが、今も菅平は私には、他人行儀でよそよそしい。温かく迎えるという風情ではない、冷たく厳然と立ち向かっている。容赦しないぞ、とでも言いそうな気配だ。

追慕、菅平は遠くなりにけり、だ。

なんだか、物足りない。静かに、ボーウッと眺めるだけで、このまま、帰るわけにはいくまい。過去の激情が蘇ってくるのではと期待したのに。畜生、俺はどうなったんだ?。そうだ、それならスキー場のダボス山にでも登ろう。学生時代、朝に、昼に走って登った。制限タイムに入れなかったら、罰が用意されていた。突然、この体を痛めつけたいという欲望が、キリギリと湧いてきた。脂肪で弛(たる)みきったこの体を苛(いじ)めるのだ。一気に走って登ろう、ぜえぜえ、息を吐きながら。40年前の、合宿中の激しい練習の痛苦の一部でも、この私の肉体に蘇らせるのだ。

でも、ーーそれは無理だった。走るどころか、ゆっくりゆっくり歩いて登るのが精一杯だった。息は荒れない、乱れない。学生時代には、韋駄天のように駆け上り、下りはめっちゃめっちゃスピードをあげて、足元に何があろうとも、牛の糞があちこちにあったのですが、そんなものへっちゃらに無視して駆け下りた。今、私はゆっくりとゲレンデを振り返り振り返りしながら登っている。小雨が頬に冷たい。何日か前に降った雪が頂上付近に少し残っていた。頂上から、パノラマのような景色を見渡した。遠くには山が連なり、近くにはあちこちにグラウンドやスキー場、畑が視野いっぱいに広がっている。

そして須坂市役所に向かった。用を済ませた。

会社に戻ったのは、17:00だった。