2011年2月23日水曜日

川柳でんでん太鼓 田辺聖子

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浪速(なにわ)のおばちゃん文士、田辺聖子さんの「川柳でんでん太鼓」(講談社)を読んだ。

小説現代の昭和58年の10月号から60年の7月号にかけて連載されたものを本にまとめたものだ。約800句ほどの川柳にそれぞれ田辺屋の女大将の解釈が添えられている。

田辺屋の女大将が選んだ川柳はどれも、それは愉快で抱腹絶倒ものから、苦々しくも悲痛、怒り心頭に至るものまでの人間の感性の豊かさが披露されていて、よくぞ皆さんいろいろと、詠ってくれているものだと感心させられた。無粋な私には、どの句も雲上の文学作品に思えて、頭がくらくらするばかりだ。一つ一つを評することは不可能だ。ただ、ただ感服しながら楽しませてもらった。

浪速の美人作家・田辺聖子さんの文章が、実に愉快で、大阪弁で、タナベセイコワールドをイカンなく表現されているのにも、感心、感激させられた。頭の切れる大阪の女子(おなご)はんには、かないませんわ!と言いたいところだ。

遅読で、遅読で、嫌になるほど本を読むのが遅い私が、今回は猛烈なスピ-ドで読んでしまった。どの句も、恥ずかしくなるほど狭量な私の感性の隅っこを、爪楊枝のようなもので擽(くすぐ)られた。気持ちがよかった。

その中から、幾つかを紹介したい。これらは、唯、私にとって面白かったり、痛快だったり、極めて同情したものであって、作品の良し悪し、優劣を言っているわけではない。くれぐれも、繰り返しますが論評できる知識も能力も持ち合わせていない。

女の人に、偽(いつわ)られたり、田辺聖子さんが仰るチメチメとされると、私の感性は異常に反応するようで、選んだその①とその②はその類のものだ。その延長線上に、少し趣(おもむき)は変わるのですが、男女問題においては同じ係累かと、おまけ、その④を追加した。

見事に鈍感な私でも、女性に関することに関しては異常に反応し易くなっているようだ。こんなことにナッチャッタのは、生まれながらの性癖か、成人になってからか、老境に入ったからか、どこで、私はこのようになってしまったのだろうか。

その③は、もうこれは私の「怒りの世界」でもあって、一旦、このような文章を目にしたならばそう易々とは引き下がれない。一生拘ります。そんな訳で、鶴彬(つるあきら)さんコーナーを、たっぷりとらしてもらった。誰もが、この人の作品は一読する必要があると思うのです。

以下、細字は筆立ち名人の女狐か女狸か?田辺のおばちゃんが、本に書いている文章のままです。

 

その①

いじめ甲斐ある人を待つ胡瓜(きゆうり)もみ  (田頭良子)

は、女のおかしさであろう。この「いじめ甲斐」がいいのだが、これは、姑(しゅうとめ)が嫁をいじめると解してはこの句はワヤになる。

無論、女が男をいじめるから、楽しいのである。

その男は人がよく(お人よし、とは少しニュアンスがちがう)少々のことでひがんだり、青筋たてていきまいたり、すねたりしない。何を言われてもニタニタしている。コタえてないのやろか、ともっときつく言葉でチメチメしても、それがかえって彼を面白がらせる。それは双方、お互いに好意をもち合っているからであろう。

好きなんである。

早く言えば。

そういう男にごちそうしようと胡瓜もみを刻んでいる。女の心うれしさというものは、まあ何と言えばよかろう。これは佳句(かく)である。

ついでに言うが、女に言葉でチメチメされて、つい同じように応酬する男はあかんのです。女は男女平等を口で唱えながら、やっぱり男性神話を信じているところがある。男は寛容で度量ひろくて、小事にこせつかず、頼り甲斐あると思いたい。だから女がウソついてもいちいちそれをあばき立てたりせず、チメチメしていじめても、ニタニタと看過していただきたい。よけい図にのっても、よしよしと言っていただきたい。

田辺のおばちゃん、チメチメされてとはなんじゃいなあ。チメチメしていじめる? 田辺先生、見本を見せてください--田辺ファンより。

 

その②

いつわりを庇(かば)うかたちで足袋を履く   (窪田久美子)

足袋を履くときは背を丸め、かがまらないとコハゼがはめられない。ソックスなら、突っ立ったまま、足を曲げてはけるが、足袋は体を曲げねばならぬ。

それを「いつわりを庇う」と表現した手腕は凡ではない。

女がよむと、どことなし、思い当たるというような、ドキッと一閃(いっせん)する鋭さがある。

しかく、女はみな、大なり小なり、いつわりにみちみちている、もっとも善なるいついわりもあれば美しきいつわりもあり、猛毒のいつわりもあれば、毒にも薬にもならぬいつわりもあるが、まあ大体に於いていつわりを持っとらん女は居(お)りませんな。

 

その③は、----。小林多喜二は「蟹工船」で世間によく知られたプロレタリア文学の代表的な作家だが、川柳にもプロレタリア作家がいたことを、私はこの本で初めて知った。

その作家というのが、鶴彬(つるあきら)だ。「飢えた胃袋で直感する」プロレタリア川柳作家だ。彼は一連の作品によって検挙され、獄死する。

小林多喜二ほどに鶴彬の獄死を知っている人は少ないと思われる。それは川柳という分野だったせいだろうか、と田辺聖子先生は仰っている。学校の教科書などで、短歌や俳句と同じ扱いで取り上げられたことなど、聞いたことがあろうか。

21歳、鶴は金沢第七連隊に入営。陸軍記念日(3月10日)に連隊長の訓辞を聞いて質問するという、前代未聞(みもん)のことをやらかす。一叩人(いつこうじん)氏の『反戦川柳人・鶴彬』に「かってみない勇気ある行動」とあるのもおかしいが、命令と服従で成り立っている軍隊で、新兵が連隊長に質問するというのは反軍行動である、重営倉へ収監され、結局4年余りを軍隊にとられた。

今まで幾度か書いてきたが、世間の人の川柳観は、日常卑近の野鄙(やび)な題材を面白おかしくまとめるもの、あるいはポルノまがいの狂句をさすもの、または新聞の時事川柳によくあるニュースを、五七五にしただけの、「はあ、そうですか」というほかない作品、---そんなものが川柳で、下世話(げせわ)にくだけた、ひまつぶしのお遊び、と思っている人も多いようだ。

田辺のおばちゃんは、怒っている。 ヤマ

本に出てくる順に、片っ端から転載させていただくことにした。そうして、句を連ねていくと、長詩のようになった。感動しました。

 

その③

手と足をもいだ丸太にしてかへし

高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲(びやう)

屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい

出征の門標があってがらんどうの小店

万歳とあげていった手を大陸へおいて来た

胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき

 

タマ除(よ)けを産めよ殖(ふ)やせよ勲章をやらう

稼(かせ)ぎ手を殺してならぬ千人針

ざん壕で読む妹を売る手紙

 

玉の井に模範女工のなれの果て

みな肺で死ぬる女工の募集札

ふるさとは病(やま)ひと一しよに帰るとこ

修身にない孝行で淫売婦

お嫁にゆく晴着(はれぎ)こさへるのに胸くさらせてゐる

ふるさとへ血へど吐きに帰る晴衣(はれぎ)となりました

吸いにゆくーーー姉を殺した綿くずを

売られずにゐるは地主の阿魔(あま)ばかり

 

働けばうづいてならぬ●●●●のあと  注「ごうもん}が該当すると推定される

 

仇(かたき)に着す縮緬(ちりめん)織って散るいのち

日給三十五銭づつ青春の呪(のろ)ひ織り込んで

 

神代から連綿として飢ゑている

これしきの金に主義一つ売り二つ売り

銀座裏残飯(ヅケ)を争う人と犬

 

暁(あかつき)を抱いて闇にゐる蕾(つぼみ)

 

半島の生まれ〈連作〉

半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる

内地人に負けてはならぬ汗で半定歩(筆者注・日本人の賃金の半分)のトロ押す

半定歩だけ働けばなまけるなとどやされる

ヨボと辱(はづか)しめられて怒りこみ上げる朝鮮語となる

鉄板背負う若い人間起重機で曲がる背骨

母国掠(かす)め盗(と)った国の歴史を復習する大声

行きどころのない冬を追っぱらはれる鮮人小屋の群れ

 

しゃもの国綺譚(きたん)〈連作〉

昂奮剤射たれた羽叩(たた)きてしゃもは決闘におくられる

稼ぎ手のをんどりを死なしてならぬめんどりの守り札

賭(か)けられた銀貨を知らぬしゃもの眼に格闘の相手ばかり

決闘の血しぶきにまみれ賭けふやされた銀貨うづ高い

遂にねをあげて斃(たお)れるしゃもにつづく妻どり子どりのくらし

勝鬨(かちどき)あげるしゃもののど笛へすかさず新手(あらて)の蹴爪(けづめ)飛ぶ

最後の一羽がたふれて平和にかへる決闘場

しゃもの国万歳とたふれた屍(しかばね)を蠅(はへ)がむしってゐる

をんどりみんな骨壷となり無精卵ばかり生むめんどり

をんどりのゐない街へ貞操捨て売りに出てあぶれる

骨壷と売れない貞操を抱え淫売どりの狂ふうた

 

おまけ、その④

おまけです。特別に追加したのは、どうしてもこの川柳をこのコーナーに写し置きたいと思ったのです。その真意って? だからって、今度会ったときに私の目の奥を覗き込まないでくださいね。こ、こ、だ、け、の、話、、、、、、だからね。

愛咬(あいこう)やはるかはるかにさくら散る   『時実新子(ときざねしんこ)』

愛咬の美しい歯形はその一つ一つがさくらの花片と化し、まなかいを散りまがう。夢の瘢痕(はんこん)はさくらなのか、さくらは目くらむ恋のうつつの吹雪なのか、裸身におしあてる愛の印判。かぐわしきエロスが匂い立ち、心を振盪(しんとう)させる。そしてまなうらいっぱいにさくらは散る。

田辺のオバチャン、ようそんなに恥ずかしい文章をスラスラ書けるな!感心です。田辺のオバチャンに会いたいと思う。 ヤマ

注 まなかい=(眼、間、目交い) まのあたり

   まがう=(紛う) 入りまじる

   かぐわしい=(芳しい、馨しい、香しい) かおりがいい かんばしい

だだ、ダ、だ~ん、萎(しな)びた男ども、目が醒めたか!!!

2011年2月21日月曜日

ネット世代が動かした、エジプト革命

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チュニジアのジャスミン革命の次はエジプト革命だった。いずれの革命も、主役は市民だが、大いに活躍したのはインターネットだった。市民デモの中核メンバーは幾人もいるのでしょうが、ネットを駆使しての仕掛け人、二人のことが紹介されていたので、20110215の朝日・朝刊の記事をダイジェストさせてもらった。

 

これは革命だ 確信した。

エジプトデモ、呼びかけた30歳

思いもしない大群衆

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その一人、アフマド・マヘルさん(30)。

1月25日のエジプトの祝日「警察記念日」にデモをしようと計画したのは、昨年12月のことだ。「威張って国をだめにしている張本人が警察官。その記念日なんてお笑いぐさだと訴え、失業問題や貧困に関心を集めようと思った」という。大学で土木工学を学んだ。就職口はなかなか見つからなかった。選挙は不正ばかり。友人らと3年前、賃上げや民主化などを訴える「4月6日運動」を立ち上げた。インターネットの交流サイト・フェイスブックなどで呼びかけ、デモを始めた。だが、デモをしても警官の方が参加者より多かった。

1月25日のデモも「二、三千人くればいい」と思っていた。フェイスブック上の別のグループも、この日のデモを呼びかけていた。

そこに同14日、チュニジアでベンアリ政権が倒れた。デモ呼びかけへの賛同者が突如として増え始め、7万人を超えた。ネットの威力に、改めて驚いた。

25日。1万人は優に超える市民がカイロ中心部タハリール広場に集まった。最初の「若者に仕事を」「汚職を追放」といったシュプレヒコールは、いつの間にか「独裁政権打倒「ムバラク追放」に変わった。

26日、27日とデモを続けながら次の手を打った。イスラム教金曜礼拝がある28日の大規模デモの呼びかけだ。政権側は携帯電話とインターネットを遮断したが、メンバーが各地に走り、デモのことを知らせた。午後1時過ぎ、金曜礼拝を終えた人々が、各方面からタハリール広場に向かった。「ガルベーヤ」という伝統的な服を着た貧しい農民や労働者、ジーンズ姿の若い女性、家族連れ。その多くは、これまでのデモで見かけたことのない顔ぶれだった。

マヘルさんは腹をくくった。「チュニジアを見て、人々の勇気に火がついた。これはもはや抗議活動じゃない。革命だ。この流れは、だれにも止められない」

今月11日午後6時過ぎ、ラジオでムバラク退陣を知った。

マヘルさんは言う。「デモは、まだ続けるよ。エジプトが自由で民主的な社会になるまで、僕らは闘う。あきらめない。これまでも、いつか変化はくるとずっと信じていたのだから」

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(ひび割れたムバラク大統領のイラスト 越田省吾撮影)

 

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(戦車に上り写真を撮る子供たち 越田省吾撮影)

青年の涙 ネット世代動く

もう一人、インターネットを通じて決定的な役割を果たしたのは、ワエル・ゴネイムさん(30)。

検索サイト「グーグル」のドバイ駐在社員としてインターネット技術に精通。匿名で立ち上げたフェイスブック上のグループ「ハレド・サイード連帯」で1月25日のデモを呼びかけてエジプトに帰国したところを、拘束された。

「ハレド・サイード連帯」は、昨年6月に北部アレクサンドリアのネットカフェで身分証明証の提示や所持品検品を拒否したために警察官の暴行を受けて死亡し、圧制による理不尽な犠牲の象徴となった28歳の青年の名を冠した。フェイスブック上の賛同者は70万人を超えている。

ゴネイムさんは、釈放された今月7日夜、テレビ局のインタービューで、自分の呼びかけたデモで命を落とした若者たちの写真を見て絶句。「僕は安全なところからキーボードを叩いただけだ。英雄は街頭にいるあなたたちだ。権力にしがみつくやつらが悪いんだ」と泣きながら語った。

これが共感を呼び、映像サイトのユーチューブに転載され、フェイスブックでは「僕らはゴネイムを信じる」という新たなグループができた。参加者が減りつつあったデモが、匿名をかなぐり捨てた青年の涙で、息を吹き返した。

10日のデモが初参加だった医師タレク・ワヒドさん(26)は「ワエルさんのような有能なエジプト人が母国を愛して行動している。デモに参加して殺され、けがをした人々もいる。自分も何かしなければと思った」と話した。

無党派の若者主体の民主化運動グループ「4月6日運動」もデモ動員の土台を作った。2008年4月6日、北部の工場であった賃上げストに連帯したフェイスブックなどで呼びかけたのを原点とする。中心となる学生らはその後、複数のデモにかかわり、一定の経験を積んできた。賛同者の多くは「ハレド・サイード連帯」と重なる。

治安当局に拘束された大学生(23)は「どこの国にカネをもらった」「お前はイスラム過激派か」と尋問を受けた。「ネットでデモを知り、加わった普通の若者が中心だということを、体制側は理解できていなかった」と話す。

「エジプトは、本当の民主主義を知らずにきた。僕らの世代は、こんなことができるなんて想像すらしなかった。世界に通じる価値観を求め、それを実現する知識も持つ若者たちの新しい精神は、宗教や世代の違いを超えて伝わったよ。多分、最後にはムバラクにもね」

カイロ=貫洞欣寛、古谷祐伸

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(タハリール広場でムバラク退陣を祝う人たち 越田省吾撮影)

 

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(犠牲者になった人たちの写真が立てかけれている 越田省吾撮影)

20110213

朝日・朝刊

社説/エジプト革命

自由と民主主義の浸透を

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若者たちが立ち上がり、それに市民が合流した。20年続いた強権支配は18日間で崩れた。民衆の支持を失った権力者の哀れを印象づけたエジプトのムバラク大統領の辞任だった。

前夜に演説し、辞任を否定した。ところが翌日、副大統領から退陣を発表されることになった。

100万人の市民が連日、カイロのタハリール広場に集まって「大統領の辞任」を求めた。デモが全国的に広がってはもつはずもない。20世紀末の東欧を思い起こさせる民衆革命である。

強権支配の下で言論の自由はなく、政府批判には秘密警察が目を光らせていた。政府に腐敗が広がり、若者たちは、有力者のコネがなければ満足な就職もできない。

若者たちの希望を奪ってきた体制だった。それだけに、大統領辞任に歓喜するエジプト国民の思いは世界に伝わった。しかし、辞任させて終わりではない。大変なのはこれからである。

軍が全権を握ることになった。

民政への移行が火急の課題となる。民主国家として生まれ変わるために、憲法の改正と総選挙が必要だ。

そして新しい政府では、軍が政治に介入したり、軍人が大統領や閣僚になったりするこれまでの仕組みを、改めなければならない。

憲法や選挙法などの整備に若者を含めて国民の幅広い参加が必要である。

国民の間に、自由と民主主義を浸透させる作業が必要だ。選挙ひとつとっても、これまではテレビは与党の選挙運動だけを放送し、野党の選挙運動に様々な制約が課された。金権選挙が横行し、議会の圧倒的多数を与党が占める一党独裁体制が続いた。

民主化支援で、欧米の国々は政府や非政府組織(NGO)が草の根的な取り組みまで積極的にかかわっている。

日本も及び腰にならず、準備段階から専門家を派遣し、エジプトの民衆とともに民主化に取り組むNGOの活動を支援するなど、積極的な取り組みを進めたい。

カイロには、アラブ連盟の本部がある。エジプトはアラブ世界の調整役であり、中東和平の仲介でも重要な役割を担う。エジプトの民主化の達成に国際社会が支援すれば、アラブ諸国や中東にとってもモデルになる。

チュニジアで1月に始まった民主化の動きは1ヶ月でエジプトに及んだ。強権支配が横行する中東で、この動きは止めることができない。

民主化に抵抗し、権力にしがみついたムバラク大統領の見苦しい姿は、中東の指導者たちに、直ちに民主化にとりかからねばならぬという教訓を与えたと期待したい。

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(タハリール広場で投石に使われた石を片づける市民たち 越田省吾撮影)

2011年2月19日土曜日

何年ぶりの銭湯だろうか?

何年ぶりの銭湯だろうか、と感慨深げに湯船に浸かっていた。

今、個人的なちょっとした事情で一人暮らしをしている。その寝食の場には、アメニティの何もかもが整っているのですが、唯、風呂だけがないのです。

そんな不自由を解消しようと、弊社の隣にあるスポーツクラブの会員になったのです。今更、手足を上げ下げして筋肉をつけたり、尻を振ったりする心算はなかったのですが、サウナと風呂が魅力だったのです。施設の利用規則がいくつかあって、それでついつい足が遠のいていった。そして、私が向かったのは、やはり昔馴染みの銭湯だった。

以前、銭湯に行ったのは何年前のことだろう、大学4年生の時、カッチャン風呂に最後に行ったのが、銭湯に行った直近になる。と、すれば、約40年前のことになる。10年一昔と言うが、、、ええ、そんな昔のことになるのか!!

カッチャン風呂の正式な屋号は伏見湯(東京都西東京市東伏見)だった。可愛い娘さんが番台に座っていて、そのことだけが楽しみで通った。そのカッチャン風呂のお姉さんはサッカー部の先輩と結婚した。私は、妹さんのファンだった。ただ、私たちはニッコリ微笑みを交わすだけの特殊?な関係。その銭湯の在った所は今はマンションにかわっている。

サッカー部に所属していた私は、グラウンドの隣にあるクラブハウスの浴室をよく利用した。が、この浴室を利用するには、先輩よりも先に入ることができても、気兼ねをしなくちゃナランかった。後になればなるだけ湯が汚れ、ついつい入りたくなくなる。泥だらけの体にくっついて持ち込まれた砂は、いつまでも湯船の床にジャリジャリと溜まっていた。

そして、時間に余裕があるときは、この風呂に入らないで、先ほどのカッチャン風呂に行った。私は、田舎で育ったものだから、大学に入るまでは、銭湯の経験は薄かった。高校があった宇治市で、一度か二度ぐらいだろう。人前で素っ裸になったのは、数少ない銭湯と、修学旅行などでみんなで大きな風呂に入ったぐらいしかなかった。

大学時代のクラブハウスの風呂での1コマを思い出した。この風呂はいつも汚れていたのですが、絶えず新しい湯が加えられているので、みんなが入浴を済ませて、それからしばらくすると、砂は除かれないものの、湯は澄んでくる。ゆっくり入れる者にとっては好機なのです。そんな時機を見計らって、私はよくこの風呂を利用していたのです。なんせ、タダなんですから、貧乏人の私には有り難かった。

練習を終えて、寮で十分休んでからクラブハウスの風呂に出かけた。管理人の藤間のオヤジが栓を抜く前に入らねばと急いだ。更衣室でトレーニングウエアーを脱いでいると、浴室から歌声が聞こえてきた。誰も居ないと思っていた。テレビドラマの忠臣蔵の主題歌を歌っている奴がいる。私は静かに覗き込んだが湯気でよく見えない、が、察しはつく。一人で、メガネをかけたまま、目を閉じて、歌詞にウットリ、曲調に身を委ね、大声で、他人を寄せ付けない雰囲気があった。きっと、アイツだ。まさか、誰かが進入してくるとは、思っていないのだろう。

ドアを開けて、そいつを確かめたら、案の定、1年後輩の広島・国泰寺高校出身の松若だった。入学したばかりの1年生だ。現在は、マツダ工業の偉いさんになっていることだろう。オーい、松若、どうしたんだ? 松若の目には涙が溢れていた。おい、どうした? 顔が変にゆがんでいた。お~い、松若、何を考えていたんだ? 彼の口から出た言葉は、この歌が好きなんです、だけだった。それから、より大きな声で、怖い顔して再び歌いだしたのです。何に彼は思いを馳せていたのか、私には解らない。広島で、歓送会をしてくれた友人、恩師のことを思っていたのだろうか。それとも家族のことか、彼には似合わないけれどまさかの恋人?のことでも思い出していたのだろう。我々は多感だった。そんな青春時代のことを思いだしてしまった。

田舎では、農繁期などは家庭風呂でさえ毎日沸かすわけにもいかなくて、近所の家に風呂を貰いに行ったり、逆に、私の家に近所の人が風呂に入りに来ることは、しょっちゅうでした。

第二常盤湯

(これは、銭湯業協会の写真を勝手に使わせてもらったのですが、このおばあちゃん、写真と全然変わってない、可愛いおばあちゃんだった)

今日初めて行った銭湯は、保土ヶ谷区帷子町の第二常盤湯という。第一常盤湯は保土ヶ谷区の峰岡にあったのですが、その方は戦災で燃えてしまったのですが、この第二の方は戦災を免(まぬが)れたようです。昭和27年に建て替えられたそうだ。商店街の道路から1,5メートル幅の脇道を30メートルほど入ると、そこにこの銭湯があった。番台から上品なおばあちゃんが、可愛い声で、いらっしゃいと迎えてくれた。

昔馴染みの、情趣溢れた銭湯で、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の一場面のようだ。

何もかもが古びていているが、けっして不衛生ではなく、きちんと管理されているのが微笑ましかった。きっと、このおばあちゃんが、せっせせっせと、掃除しているのでしょう。床は奇麗に拭き磨かれている。おじいちゃんの姿は見えない。娘夫婦か、息子夫婦の誰かが陰で手助けをしているのだろう。洗い場も奇麗だ。タイル壁には定番の富士山ではなくて、京都・竜安寺の庭のような、枯山水が描かれている。このような絵模様は珍しい。黄色いポリの洗面器の底には、赤い字でケロリンと書かれていた。懐かしいーーーー、ニンマリしてしまった。

私以外は、きっと通い慣れたお客さんなんだろう。きょろきょろしているのは私だけだ。ここの銭湯の贔屓客は、それぞれマイボックスがあてがわれていて、そこにタオルや歯磨き、石鹸など私物を預けている。蓋は開きっぱなしなので、大事な物は入れることはないだろうが、仕事からの帰りなどに寄るには便利だろう。

第二常盤湯第二常盤湯

入浴料は450円也でした。サウナに入って、30円で買った石鹸で、風呂に入っていなかった5日分の垢を落とした。一度石鹸を塗りつけたタオルで全身をこすった。そして同じようにもう一度全身をこすった。頭も石鹸でごしごし洗った。頭がフケだらけだったのだ。それが気になって風呂に強く入りたくなったのです。足の指と指の間も洗った。こんなところを洗うだけで、なんでこんなに気持ちよくなるのだろう。

とりあえず、久しぶりに行った銭湯が嬉しかったのです。

2011年2月17日木曜日

鳩山氏側からの反論を乞う

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鳩山 由紀夫

鳩山由紀夫氏が首相の座を降りる時に、次回の選挙には出ませんと言った。それを聞いた私は、そりゃそうだろう、この首相の任期中の失政のヤマは、辞めるぐらいのことを言わないと、国民は許してくれないだろう、と思っていた。人様に顔向けできない、まして沖縄県民に対しては、尚更だ。

そしたら舌の根の乾かぬ内に、辞めるどころか、政府の要人として、中国やロシアを訪問して、今後も議員活動を続けると言った。内政の失敗の総括もしないうちに、外交で仕事をしているようなパフォーマンスをやってくれた。民主党の創設者としての矜持だけはお持ちなようだ。

むさ苦しくて、邪魔で、目障りなのに、かっては民主党の党首であり内閣総理大臣であった故に、氏の活動の報道は、並みの議員扱いではない。やはり、記者は否応なしに注目する。扱いも大きくなる。

小沢一郎

そして、昨今、氏は何をほざいているかと言えば、小沢一郎の政治資金規正法の虚偽記載について、当初小沢氏は、国会の場で説明しますと言っていたのですが、その後政治倫理審査会なら、出席します、と言い代え、それから出席する時期が予算国会が始まる前とか、後ならばとか、言を何度も変転させた。最後には、何処にも出席しません、ときたもんだ。先月末、検察の不起訴を覆して検察審査会が起訴議決し、強制起訴された。そして公判が進められる段取りになっている。民主党常任幹事会で、党員資格を判決が確定するまで停止する処分を15日に決めた。

このような民主党内での小沢一郎と執行部のやり取りを、鳩山氏は執行部による小沢一郎イジメだと言い張った。この問題を、いじめ、とか言って憚らない。この男はどこまで狂っているんだろう。

そして、ここにきて「方便」発言だ。米軍普天間飛行場の移転先を、「国外、最低でも県外」を目指すとアピールして政権交代を果たした。が、それは無理なことだと認識して、元通りの辺野古案に回帰した。その際、「学べば学ぶほど」「海兵隊の抑止力を知った」と。そして抑止力という言葉を使用したのは「方便だった」と発言。何も解ってない、アホな首相だ。「国外、最低でも県外」案は、「一笑に付されていた」と言い、外務省や防衛省では全然相手にされなかった、とも言ってのけた。馬鹿か。政府の最高責任者が、何てことだ。民主党の政治主導という掛け声はいいけれど、裸の王様だと笑ってなんかいられない。

決定的なことは、米国に最初から私自身が乗り込んでいくべきだった、と言った。当たり前のことではないか。自ら乗り込むか、代理を送り込みながら電話ででもオバマ大統領と直談判することだって可能だったはずだ。緻密な日常の仕事をサボって、絵空事を公約にしてします、もうアホか馬鹿を通り越して、狂人としか思えない。

民主党の創設者と、軒先を借りて母屋を掻っ攫おうとした者が、2人して民主党を壊そうとしている。壊した方がいい、と思う。党としての目先と将来ビジョンを併せ持たないままに、スタートしてしまった未熟な党だ。

鳩山氏に対する怒りはつのりばかり、さりとて文章にできないもどかしい日々の最中(さなか)に、今朝の朝日新聞は社説で鳩山氏の発言を取り上げてくれた。

鳩山由紀夫さん、今後とも議員活動をなさるなら、この朝日新聞のあなたに対する批判に、答えて欲しいと思うのです。

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20110216

朝日・朝刊

社説/鳩山氏の発言

「方便」とは驚きあきれる

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「最低でも県外」という公約を果たさなかったばかりか、その理由として米海兵隊の抑止力を挙げたのは「方便」に過ぎなかったとは。

沖縄における背信をさらに重ねる行為以外のなにものでもない。

鳩山由紀夫前首相が沖縄タイムスなどに、米軍普天間飛行場の移設問題に対する政権当時の取り組みを語った。

鳩山氏は昨年5月、自公政権が決めた名護市辺野古案に回帰した際、「学べば学ぶにつけ」沖縄に海兵隊が存在することで米軍全体の抑止力が維持できるという思いに至ったと説明した。

しかし、インタービューでは「辺野古に戻らざるを得ない苦しい中で理屈づけをしなければならず、考えあぐねて『抑止力』という言葉を使った」と、後付けの理由であることを認めた。

沖縄県民はすでに県内移設ノーの固い民意を示しているが、今回の鳩山発言で政府への不信を一層深めるだろう。辺野古移設を確認した日米合意の存立を揺るがしかねない事態である。

菅直人首相は基地負担の軽減や経済振興策を通じ、沖縄との信頼関係を築き直したうえで、何とか地元の理解を得たい方針だが、その道のりはさらに険しくなった。

鳩山発言への見解を問われた菅首相は「沖縄の海兵隊を含む在日米軍全体として、我が国の安全、地域の安定に大きな役割を担っている」と繰り返した。このような紋切り型の言葉が沖縄県民の心に届くはずがない。

菅政権が引き続き日米合意の実現を目指すというなら、海兵隊の抑止力や沖縄駐留の必要性について根本から、丁寧に説明し直すことが不可欠だ。

今回、改めて鳩山氏の稚拙な政権運営の実態が浮き彫りとなった。

成算のないまま沖縄県民に期待を抱かせた。政治主導の看板とは裏腹に、外務・防衛両省の壁を突き崩せなかった。首相として関係閣僚を束ねるリーダーシップも発揮できなかった。対米交渉にも本気で当たらなかったーーー。

鳩山氏は、政治家としての言葉の軽さをこれまで繰り返し露呈してきた。氏個人の資質に最大の問題があることは言うまでもない。しかし、そこに民主党政権の抱える構造的な欠陥が凝縮して表れている側面も否定できない。

言いっ放し、やりっ放しではなく、錯綜する利害やもつれ合う議論を解きほぐし、説得し、ものごとをまとめ、決めていく能力の不足である。

菅首相は一連の政治プロセスを深刻に省み、二度と失態を繰り返さないよう教訓をくみ取らなければいけない。

今年前半に予定される訪米時には同盟深化の共同声明も発表される。

菅首相の強調する「日米基軸」を、沖縄に基地負担を強い続ける免罪符にしてはならない。今度こそ本気で沖縄の負担軽減に向き合うべきである。

2011年2月15日火曜日

ムバラク大統領辞任

20110114、チュニジアのベンアリ前大統領が国外に追いやられるように逃げた。23年間も続いた強権政治を民衆の力がねじ伏せたのだ、見事な民衆革命だ。その民衆革命を国の花になぞって、ジャスミン革命と呼ばれるようになった。民意、民衆の力をみくびった為政者を葬ったのだ。

今度は、20110214、エジプト・ムバラク大統領だ。

各国の民衆革命後、中東の国々、北アフリカ、特にアラブ諸国がどのような情勢に推移していくのか、気になるところだ。混乱するのか、安定するのか、不安は付き纏うが、自国のことは自国の叡智と努力で何とか安定化して欲しいと思う。

アメリカ・イスラエルやイスラム圏の安全保障環境が一時的には混乱するのだろうが、どうか、穏便に民主的な手法で国が、地域が治まって欲しいと思う。

この類のニュースに、私の血は異常に滾(たぎ)るのです。先天的に無謀な私は、後先(あとさき)のことよりも、このような混乱が愉快に感じるのです。でも、そんなことに糠(ぬか)喜びしているわけにはいかない。これからが肝腎。どうか、革命後の政治のリーダーには頑張ってもらいたい。二度と、革命前と同じようなファラオ【国民を虐げる圧政者】の誕生はご免だ。

民族や宗教、主義主張は変われども、誰もが平和を望んでいるのです。平和第一主義でその政治を司って欲しいものです。俺を裏切らないで欲しい!!!

 

20110212の朝日新聞・朝刊の記事から

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(タハリール広場で11日、ムバラク大統領の退陣を求めて気勢を上げる市民たち=越田省吾撮影)

【カイロ=貫洞欣寛、古谷祐伸】エジプトのスレイマン副大統領は11日、ムバラク大統領が辞任し、軍の最高評議会に権限を渡したと発表した。ムバラク氏は10日夜(日本時間11日朝)にテレビ演説し、大統領としての権限をスレイマン副大統領に移譲すると発表。同時に、大統領としての地位にはとどまる意向を示していた。だが、即辞任を求める大規模デモが11日も起き、激しさを増したことなどから、辞任を決断したとみられる。

中東の地域大国エジプトで5期30年にわたり強権支配を続けてきたムバラク氏が大衆行動によって追いつめられ、退陣したことは、今後の中東各国の情勢に大きな影響を与えることになるとみられる。カイロ市内では発表直後、一斉に車のクラクションが鳴り、タハリール広場のデモ隊は歓声を上げて大騒ぎになった、

一方、エジプト軍最高評議会は11日、声明を発表し、①混乱収束後直ちに非常事態令を解除 ②総選挙の結果に関する不服申し立て受理 ③憲法改正 ④自由で公正な大統領選挙の実施 ---を保証するとした。さらに、権力移行が完結するまでは市民の要求に真剣に向き合い、デモ参加者を訴追しないことなどを確約した。

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(タハリール広場で10日、演説するムバラク大統領がスクリーンに映し出された=越田省吾撮影

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中東壮大な実験始まる

中東アフリカ総局長/石合 力

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サダト大統領暗殺、湾岸戦争、そして米同時多発テロ。「1」のつく年は中東世界で大乱が起こるといわれる。2011年が始まったとき、エジプト国民には9月の大統領選で二つの選択肢しかなかった。ムバラク氏の6選か、次男ガマル氏への権限委譲かーーー。わずか40日あまり後、民衆は自らの力で、どちらでもない選択肢を手に入れた。

チュニジアでベンアリ独裁体制を崩壊させた「ジャスミン革命」に続くエジプト民衆革命は、フェイスブックやツイッターや携帯電話でつながった「ネット力」が強権政治を突き崩す武器になることを改めて証明した。失業、腐敗、人権抑圧に対する若者らの「理由ある反抗」は世代を超えて国民を巻き込んだ。

一連のデモの間、タハリール広場は、縁日のようなにぎわいだった。即席のスクリーンでテレビに見入るひと。焼け焦げた治安車両の脇でサッカーに興じる少年。20代の女性は携帯電話で記念撮影をしていた。被写体は「これがムバラク政権の墓場だ」と書かれたゴミの山だった。

ジャスミン革命は、権力に従順だった中東アラブの民衆意識を決定的に変えた。自由と権利を求める人の波は戦車にも治安部隊の銃にも勝てる、という自信を与えた。

30年前の大乱以来、「現代のファラオ」となったムバラク氏は、その意識変化に最後まで気づかなかった。ネットと携帯を遮断し、治安部隊で一度は強制排除したが、力で抑え込もうとすればするほど、デモは広がった。「携帯電話の女性」はもう、怖がってはいなかった。

中東アラブ諸国に限らず、強権支配を続ける国の指導者は、ネットを活用した民衆革命の波がいつ来るのか、気が気でない日々が続くだろう。

「ムバラク後」のエジプト政治は、与党の翼賛体制からムスリム同胞団を含む複数の野党勢力が参加する新たな形を模索する。

だが、その行方は必ずしもバラ色ではない。長年の抑圧で、ただちに政権を担える野党勢力は存在しない。イスラム勢力の政治参加が突出すれば、アルジェリアやパレスチナ・ガザ地区の二の舞になりかねない。強固な治安組織が解体されなければ、新たな独裁が顔をもたげてくる。

親米アラブ穏健派の代表格だったエジプトの激変が、地域の安全保障環境に影響を及ぼすことは間違いない。民意が新政権にストレートに反映されれば、従来の親米路線が維持されるとは限らない。イスラエルは、安保政策の見直しを迫られるだろう。イランは「イスラム革命」輸出の好機とみている。権力の空白に乗じて、国際テロ組織アルカイダなど過激派の動きが活発化する恐れもある。

一連の政変は、口先で民主化を促しながら、過激派の伸張を防ぐという名のもとに強権支配を容認してきた欧米各国の矛盾も浮き彫りにした。人びとが訴えた自由の拡大や、貧富の解消をどう側面支援していくのか。日本には、どのような役割があるのか。

エジプトのジャスミンが、本当に花開くかどうか。それは、中東世界の今後を左右する。強権を崩したネットの破壊力を、民意をくみ取る創造力に転化できるかどうか。大乱の年は、中東全体の壮大な実験が始まる年でもある。

2011年2月12日土曜日

甘夏蜜柑が鈴なりだ

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イーハトーブの果樹園では、甘夏蜜柑が鈴なりに生った。

私の果樹園の名前を、私の勝手で宮沢賢治さんにつけていただいた。賢治さんは、宇宙の何もかもを愛した人だ。私如きちっちゃな石ころ見たいな人物の素行を許していただける筈だ。その名は誉れ高い「イーハトーブ果樹園」です。

年末に様子を見に行ったところ、実が余りにも沢山生って、何本かの枝は今にも折れそうだった。間引きしなかったことが悔やまれた。いずれも、昨年のものより小粒だ。どの実も、確実に熟す段階に入っていた。一昨年は3個、昨年は14個が採れた。今年は、50個近く生っていた。幾つかは落下していた。落下を見つけたら、収穫の時期にきているのだ。

蜜柑の生態で、実が熟すと落下を促すシステムがきちんとあるんだろうと思う。熟すと実と枝の接合部分に離れやすくなるように、その接合部分に何かが発生したり、消失したりするんだろう。

お隣の方にも声を掛けた。胸を張って、自由に採って食べてくださいねと。いつも雑草を刈って貰っているのです。盆暮れのビールを届けるだけでは、心苦しいかった。

一緒に蜜柑を採りに行こうよと誘ってものってこなかった孫・晴は、私が20個ほどビニール袋に入れて車に戻ってくると、オウーと驚いて見せた。彼の想像の域を超えていたのだろう。

昨年、夏には桃、無花果が生って、秋には栗、柿、ブルーベリーが生った。甘夏蜜柑を採り終えた。金柑がいっぱい生っていて、熟するのを待っている。金柑がとりわけ好きなんです。子供の頃から、「金柑、皮食って、実やろうか」と口癖だった。豊穣じゃ、豊作じゃ。

上の写真は、収穫の途中で写真を撮ることを思いついたものです。

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蜜柑を採り終えて、他の果樹をチェックして廻った。寒いとか、風が冷たいとか言いながらも、誰もが春を待っている。梅一輪、一輪ほどの暖かさ、だ。そうだ梅の木も植えなくてはいかん。

栗の木の下に、植えた覚えがない水仙が5,6株、花を咲かせていた。水仙の花に目が釘づけになった。そろそろ、フキノトウでも顔をだすのではないか、今年見つけたら、天ぷらにしてやるぞ、そんなことを考えていたので、水仙の花は不意打ちだった。

ネットで拾った情報を書き加えておく。ギリシャ神話で、美少年ナルシッサスが水面に映る我が姿に見とれ、そのまま花になってしまったのが、水仙だということです。英名はnarsissus。自分の美貌に酔いしれる人をナルシストと呼ぶのもここからきているのでしょう。

水仙は、この果樹園の中で一番最初にに春を告げている。むやみやたらに、嬉しくなった。確実に春が近づいてきているのだ。

ここに居ると必ず、幸せな気分になるのです。今回も、幸せな気分は裏切らなかった。

2011年2月11日金曜日

アゴタ・クリストフ/道路

20110211、ブレヒトの芝居小屋でお芝居を観てきた。

 

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この劇団と私は、40年以上のお付き合いになる。学生時代、芝居小屋の隣町の東伏見に住んでいて、テレビドラマの脚本家の牛さんにこの劇団に連れて行かれたのが、お付き合いの始まりだった。

お芝居の内容については、後記に委ねる。劇団代表の入江洋佑さんとその息子さん・龍太と私の写真を撮ってもらったのでここに、貼り付けた。洋佑さんと息子・龍太の顔を広く昔の友人達に紹介したくて、私が無理無理に企画したものです。実は、入江親子のその後の顔を見たいという、私の友人からの要請でもあったのです。

息子と親父がそっくり、と言うことは世間にままあることだけれど、じっくり、この写真をお楽しみください。公開することを快諾していただきました。カメラマンは、この芝居小屋によく付き合ってくれる仕事上の友達だ。この友人は戯曲を読むのが楽しいと言い、昔は戯曲しか読まなかったと言う。私には戯曲を読みこなすだけの能力がない。

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20110211 19:00~

『道路』

原作/アゴタ・クリストフ

訳/堀 茂樹  演出/三由寛子(育成対象者)

主催/(社)日本劇団協議会  制作/東京演劇アンサンブル

平成22年度文化庁芸術団体人材育成支援事業「次世代を担う演劇人育成公演」

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私にとって、アゴタ・クリストフさんは、今回初めて遭遇した作家だ。昨今、私が気にかけている運命的な「めぐりあい」になった。やはり年齢のせいか、この年になって、知り合いになったり、初めて知る事物や事象には、どうも運命的なものがあるように思えてならないのです。 

それにしても、今日、日本は全国的に意味のよく理解できない「建国記念日」だ。未だに私にはピーンとこない。祭日としての盛り上がりもない。馬鹿な右翼だけが、車を連ねて、意味もなく拡声器で我鳴りたてている。何を言っているのか、サッパリ解らない。日本書紀に神武天皇が即位したとされるのが紀元前660年2月11日、かっての紀元節だ。また、大日本帝国憲法が発布されたのも1889年のこの日だ。よく解らないのと、どうでもいい、この二つの記念日と理解していいのだろうか。

この日本の「建国記念日」に、アゴタ・クリストフの「道路」の芝居を観ることは、私にとって新しいもう一つの記念日になった。

「道路」は道路を、今まで通りではなく、豊かな未来を夢見ることではなく、過去を清算するものとして、お芝居にした。その主張は現在の日本では反権力だと言われることになるのだろう。そして、今日、私にとっては反建国記念日になってしまった。コンクリートから人へという民主党のスローガンは政権奪取一年目で兜(かぶと)を脱いだ。

アゴタ・クリストフは、21歳の時にハンガリー動乱から逃れるために夫と共に、スイスに亡命した。そこで習得したフランス語で小説を書き始めた。成人してから習得したフランス語なので、デビュー作の「悪童日記」はそのぎこちない文章がかえって、独特の作風に仕上がり、好評を博した。文体は、叙情的な記述を徹底的に排除して、事実を客観的に表現している、とアマゾンの作品紹介で知った。この「悪童日記」は、後日必ず近いうちに読む。

でも、今日の芝居は「道路」だ。

芝居の良し悪しを評することは、私にはできません。そんな能力を培ってはいない。でも、劇団の幹部連中も、考える余地は大いにありそうな表情をしていた。お芝居の原点をもう一度確認することではないだろうか。芝居の要素は、そういっぱいあるわけではない、限られた少ない要素で、意図して物語を作る。その中に、強いメッセージを込める。この芝居に付き合ってくれた友人は、ちょっと退屈そうだった。

ハンガリー出身のフランス語作家、アゴタ・クリストフに挑んだ東京演劇アンサンブルの若手たちのやる気に喝采。 私にはできることは、それまでだ。若手演劇人の今後の活躍に期待しよう。

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(あらすじ  パンフレットより)

ある「未来」の一時代。

地球はすっかりコンクリートに覆われている。

そこにあるのは道路ばかり。ほかには何もない。

人びとは道路で生まれ、道路で生きる。

彼らは徒歩で、車のために建設された道路を通行する。

自動車は遥か昔に機能しなくなり、残骸と化し、打ち捨てられ、「休憩所」と呼ばれている。

人類は原初的な状態に戻ってしまい、われわれの文明のことは、「伝説」を通じてしか知られていないーーーー。

その不思議な世界へ、高速道路設計者である「三つ揃えの男」が迷い込んでくる。

彼は道路で、様様な人物と出会う。

昨夜、市長のレセプションで出会ったはずの女歌手と庭師。

なぜ高速道路を歩いているのか。

出口はどこなのかと三つ揃いがたずねるが、ちんぷんかんぷんの答えしか返ってこない。

さらに、太陽、星星がかって頭上にあったのだという伝説を信じる「暗い女」。

それを否定する「明るい女」

赤ん坊のふりをした少年。

本を読めば宇宙の秘密がわかるといいながら『創世記』を朗読し始める「学者」。

突然道路を逆走してくる「逆行男」。

怖い、怖いと逃げ惑う人々の中に暴力的に出現する「野獣たち」----。

人びとは強制的に歩かされているのだろうか。

それならば、何者に強制されているのだろうか。

それに対する答えは示されず、登場人物たちは、前へ前へと歩き続ける。

 

「原初的な状態」とは何か。

人びとは歩きながら食べ物を探している。

食べ物とは、どうやら死んだ人間らしい。

出口がどこにあるのか、誰も知らない。

しかし、実は誰もが出口を探している。出口がどこなのか教えあうものはいない。

徹底的なコミュニケーションの喪失。言葉の喪失。

そんな悪夢の世界を歩き続けた三つ揃いの男は、

高速道路は人間のために作られた物ではない、と気づき、神に祈る。

「コンクリートの迷路から出してくれるのなら、ぼくはもう道路なんかいっさい建設しないことをお約束します!」と。

すると、奇跡が起こるーーーーー。

 

コンクリートを突き破って生えてきた一本の木。

それを見守る「狂人」は、出口はここなんだ、コンクリートを壊すのを手伝ってくれ、と叫ぶ。

「道路では、どんなことも起こらないとはいえないがね、たいていのことは起こらないし、確実なことなんて一つもないよ「。

 

アゴタ・クリストフの絶望の言葉なのか、希望の言葉なのか。

 

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全体主義の幻影

渡邊一民(わたなべ・かずたみ)

仏文学者

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東欧の文学を理解することはむずかしい。東欧諸国は第二次大戦中ナチス・ドイツの統治下におかれ、大戦終結とともにソヴェトに事実上支配され、そうしたクビキから解放されるには、ベルリンの壁の崩壊を待たなければならなかった。その間半世紀にわたって人びとに君臨したイデオロギーは、ファシズムとコミュニズムという相対するものだったとはいえ、人びとはあらゆる自由を奪われ恐怖につき動かされ、「だれもが囚人であるとともに看守である」(トドロフ)ことを強いられていたのである。そうした悲惨な状況は、たとえば、アンジェイ・ワイダの映画「カティンの森」に端的に示されている。そういう全体主義体制下にあってなお自由に語ろうとする人びとは、西欧に亡命し、あるものは異国の言葉フランス語で、あるものは祖国に残したものに累のおよぶことを恐れ難解な言語を駆使して、表現しなければならなかった。そのような亡命作家として広く知られているが、ミラン・クンデラとアゴタ・クリストフだと言っていいだろう。もっともいま述べたような理由から、たとえば1984年のクンデラの「存在の耐えられない軽さ」は、作中で史的事実と舞台を正確に現実から借りながらも、つねに作中人物を突きはなしあくまでもアイロニカルに描きだし、他方86年のクリストフの「悪童日記」は、いっさいの史的事実と場所と時間とを捨象し、子供の感覚にとらえられたことだけを忠実に記録していくのだ。

『道路』は1976年に発表された作品である。高速道路がドイツでも、ソヴェトでも、完璧な支配体制を保障するものとして、おびただしい囚人の人海作戦によって建設されたことはよく知られている。そして舞台に現出するのは、太陽が一面のスモッグに覆われて緑が失われ、方々に廃車が放置され、人びとを強制的に歩かせるだけの、出口がなく一方通行しか許されない道路ーーーそれはゴダールの映画「ウィークエンド」の幕の降りたあとの場景のようにわたしには思われた。

とはいえこの劇が、エコロジーなどほとんど人びとの関心を引かなかった1976年に、ハンガリーの亡命作家によって書かれたということを忘れてはならない。それはとりもなおさず、全体主義体制下のハンガリーでは、こうした終末観がひそかに人びとによって共有されていたということだろう。『道路』は、いってみればこの劇に感銘を受ける2011年のわたしたちの抱く危機意識を、30年以上先どりしていたのにほかならない。そしてわたしは、今日のグローバリズムの終焉ののちにわたしたちが未来に想像するものが、全体主義体制下で苦しみつづけた人々の終末観と重なりあうという事実に、慄然たる思いにとりつかれざるをえない。前世紀でおわったはずの全体主義が、かたちをかえてふたたびわたしたちのかたわらに忍び寄っているのだろうか。『道路』はさまざまな問題を投げかけずにはおかない。