2011年7月12日火曜日

今日は、孫の参観日だった

20110712 私の次女の長男・晴の小学1年2組の授業参観に行ってきた。

今日は、娘も娘のダンナも仕事で行けないから、ジジイ、代わりに行ってくれないか、と娘から強い要請を受けた。内心、こういう依頼を待っていたのだ。嬉しい要請だ。定時の13:40よりも20分も前に学校に着いた。

自分の4人の子どもが通学している間、私は仕事にかまけて、学校の行事にはほとんど顔を出したことは無い。妻任せだった。だからと言って、子ども達に対して決して無責任ではなかった。

子供の頃から、学校は私にとって、大好きな場所だった。やすらぎの?それとも憩いの?兎に角楽しい場所だった。自由で楽園のようでもあった。誰よりも早く行って、誰よりも遅くまで居た。小学校では、先生に大いに甘えさせてもらった。中学、高校時代はクラブ活動を終わってからもグズグズと、先生に追い払われるまで学校に居た。勉強のよくできる子どもではなかったが、学校が楽しくってしょうがなかった。何故か、どの先生も私を可愛がってくれた。学校は私にとって、特別の場所だったのだ。

私が社会人になってからも、祖母は、タモツは学校から帰ってくるときは、いっつも裸だったなあ、と話していた。小学生の時は、野道を服をぐるぐる回しながら、中学の時は、自転車のハンドルに服を巻きつけて、裸で、玄関に入るなり、腹減った、が口癖だった。祖母は、冬には餅を夏には握り飯を用意して、夕飯までの私の空腹を気遣ってくれた。

このように学校好きの私なのだ。

教室では子ども達が父兄を待ち受けていた。先生は、新卒間なしの若い可愛い女の先生だ。先生は子どもに、父兄に対して、コンニチワと挨拶を促した。やはりピカピカの1年生で、体はこじんまりとしてヒヨコだ。壊れそうで、危なっかしい。学校というものに、まだ馴染めなくてちょっと不安げにしている子もいた。大声を張り上げるような行儀の悪い子は居なくて、みんな静かにしていた。1教室は28人。参観に来た父兄のうち、母親は14人、ジジイは1人、祖母は1人だった。

授業は算数で、モノを数える勉強だった。10以上のモノを数える場合には、10を一まとめにすると、10以上のモノを数えるのに、早く確実に数えられる、という勉強だった。晴は、先生の質問に毎回手を上げて、2回答えるチャンスをもらった。いつもの、やんちゃな晴ではなく、ぼそぼそと、泣きべそをかいているような声で答えていた。

授業の最後に、これで算数のお勉強を終わります、とみんなで声を合わせてお辞儀をしたのですが、クラスで一番体の大きな我が孫は、教室のド真ん中で、お辞儀のことはすっかりそっちのけで大きな欠伸(あくび)をした。他の子ども達は、気付かなかったようだが、先生は、きっちり見逃さなかった。先生の孫に注がれた厳しい視線に、ジジイは肝を冷やした。

この子達は、誰もが、どのように育っていくのだろうか。強く逞しく、健康に育って欲しいと思う。

そのためには、大人は、戦争のない、誰もが住みやすい世界を作らなければならない責任や義務があると如実に感じた。生きがいのある生活を保証する環境作りだろう。

子どもは国の宝物だ。

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(最近の晴選手、左はショウマ君)

2011年7月7日木曜日

「パラディスハウス」とは

最近、彼方此方(あちこち)で、御社の社名をどうしてこのような名前にしたのですか、と聞かれることが度々あったので、此処で当時を振り返って整理をしてみた。思い起こせば、限られたスタッフにだけは話したものの、取引をしていただいている関係者の皆さんに、その名が生まれるべきして生まれた、根拠というか、根拠になった理念をじっくりと、話さなかった浅墓さを今になって恥じている。

後ろの方で説明しますが、パラダイムシフトという言葉に込められた思想こそが、弊社が新しい時代へと進化する住宅を究め続ける拠りどころだと思っている。

中村社長が、「昨日の延長線上に今日があるのではなく、もっと十年、百年、三百年の未来を見据えての提案を心がけて進もう」と常日頃、言っていることは、この社名の命名に込めた創業者としての誓いでもあるのです。

 

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☆社名のパラディスハウスは、

「パラダイム シフト ハウス」=「Paradigm hift House」の

下線部分だけを呼ぶ(読む)ことにしたのです。

英語表示は、Paradi.s House とした。ロゴは上の通りだ。

 

 

先ずは、パラダイムとは、Wikipediaより。

社名を決めるのにその発想の源(もと)になったパラダイムは、「模範」「範例」を意味する言葉として、科学史家トーマス・クーンが科学革命で提唱した概念だ。ところが、クーンが考えていたパラダイムは、自然科学における概念だったが、その後、クーンの意図に反して、社会科学の概念として広く使われ、一般的には拡大解釈された内容で使い出された。

 

次に、パラダイムシフトとは、Wikipediaより。

拡大解釈された「パラダイム」は「認識の仕方」、「考え方」、「常識」、「支配的な解釈」、「旧態依然とした考え方」などの意味合いで使われている。

広義でのパラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられているため、厳密な定義は特になく、「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」、「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイデイアにより時代が大きく動くこと」まで、さまざまな意味で使われている。

狭義には、その時代や分野において主流だった(問題を抱えている)古い考え方に代わり(その問題を解決できる)新しい考え方が主流となることを指す。

私たちが、住宅産業に携わってからの40年足らずの間にも、小さく、大きく、世相の変化が目まぐるしい。価値観の変化もすさまじい。その変化に対応していくのは当然としながらも、歴史の大きな変化に見間違うことなく、真に科学的でありたい 

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四つ葉のクローバー

三つ葉のクローバーは、それぞれ希望、誠実、愛情のしるし。四つ葉となると、もう一つ幸福が加わることになる。そして、四つ葉を見つけた者には、幸運が訪れるという伝説がある。

緑色はまさしく植物です。よりよい生活の環境づくりには緑、植物が欠かせません。緑に溢れた森や植物を見て、人は心の安らぎを覚えます。日頃のストレスが解消され、気持ちを落ち着かせてくれます。信頼や安全のイメージカラーだ。

2011年7月4日月曜日

オーストリアは憲法で反原発

20110531の朝日新聞・朝刊/国際版

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オーストリア反原発加速。

「2015年までに輸入電力も脱原発」

完成以降30年も未稼働の原子炉

フクシマを機に見学殺到

このようなタイトルで、今のオーストリアの原発政策と、現在の政策に至るまでの経緯をまとめた記事が掲載されていたので、それをそのまま転載させてもらった。他に、ネットで仕入れた情報も付け加えた。福島原発事故の検証にも来たIAEA(国際原子力機関)の本部はウィーンにある。

オーストリアのツベンテンドルフ原発が完成して、その稼動の可否を、78年に住民投票で問うた。結果、過半数(反対が50,47%)といってもわずかな差で否決され、憲法にまで付け加えられるようになった。

その翌年(79年)にスリーマイル島原発事故が起こった。旧ソ連、現ウクライナのチェルノブイリ原発事故が発生したのは、86年のこと。

99年、連邦憲法に「オーストリアで核兵器を製造したり、保有したり、実験したり、輸送したりすることは許されない。原子力発電所を建設してはならず、建設した場合にはこれを稼動させてはならない」の項が盛り込まれた。

また、EU内の原発を有する国々に対しては、「ストレス・テスト」と、その結果の公表を求めている。「ストレス・テスト」とは、天災やテロを想定した原発の耐性審査だそうだ。原発保有国に囲まれているオーストリア1国だけが、核を廃絶しても、地続きの隣国からの事故が発生すれば、元も子もないことになるからだ。

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ツベンテンドルフ原発の内部を案内するフライシャーさん=玉川透氏撮影

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ドナウ川沿いに建設されたツベンテンドルフ原発

 

憲法で原発建設禁止をうたうオーストリアが「反原発」の動きを先鋭化させている。老朽原発を抱える旧共産圏の国々に囲まれ、西欧諸国の中でもひときわ危機感が強い。そこの福島第一原発の事故が火をつけた形だが、エネルギーの確保に原発が欠かせないとする中・東欧諸国は「ヒステリー」と冷ややかだ。

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菜の花畑が広がるのどかな風景を抜けると、100メートル超の排気筒がそびえる巨大な施設が姿を現した。ウィーンの西約30キロのドナウ川のほとり、「世界一安全な原発」と呼ばれるツベンテンドルフ原発だ。

福島第一原発と同じ沸騰水型炉。170万世帯への電力供給力を秘めるが、実は一度も稼動していない。完成直後の1978年、反対運動の盛り上がりを受けて国民投票が行なわれ、わずか1%未満の差で「お蔵入り」が決まったからだ。

建設費を含め約10億ユーロ(約1200億円)を費やしたとされる施設には、ドイツから原発技術者が訓練に訪れるか、テレビドラアマの撮影ぐらいしか出番がない。最近は、管理棟の一部を小学校の仮校舎として貸し出していた。(追加=山岡 眠り姫と一部では言われているそうな。

半ば眠ったような施設を取り巻く状況は、福島の事故後に一変した。原発のことを知りたいという人たちが、原子炉の内部も見られる週1回の見学ツアーに殺到。「多い時は、定員の4倍の申し込みがある。年末まで予約でほとんどいっぱい」と、案内係のフライシャーさん(53)は驚く。

同国では消費電力の約60%を水力、約30%を火力発電で賄う一方、約6%は近隣諸国の原発による電力を輸入している。だが、福島の事故の直後の世論調査の高まりを受け、政府も風力や太陽光などの代替エネルギー開発への助成を拡大する法案を発表。2015年までに原発による電力の輸入に全く頼らなくするとの目標を掲げた。

また、原発を持たない他の欧州諸国などに呼びかけて「反原子力会議」を発足させ、5月25日のウィーンでの初会合にはポルトガルやギリシャ、アイルランドなど計11カ国が参加。欧州全体の脱原発をめざす「反原子力宣言」を採択した。

欧州連合(EU)は福島の事故を受け、域内の全原発の安全性検査実施で合意した。だが、原発は地球温暖化対策に有効だとする基本姿勢に変わりはなく、脱原発が「国是」のオーストリアには生ぬるく映る。

同国のベルラコビッチ環境相は朝日新聞に「フクシマの惨劇は、原発から安全な再生可能エネルギーに移行する時だと教えてくれた。EUだけに任せてはおけない」と話した。

 

周辺諸国は推進譲らず

ウクライナを含む中・東欧7カ国で稼動する原発は現在34基で、多くが70~80年代に建設された旧ソ連型だ。こうした老朽原発が国境を挟んで数百キロに点在していることも、オーストリアを神経質にさせている。

中・東欧の原発の安全対策に詳しいウィーン天然資源・応用生命科学大学のウオルフガング・クロンブ名誉教授(67)は「この地域の原発の多くが活断層の近くに位置し、耐震の安全性が疑わしいものもある」と指摘。ほとんど川沿いにあることから、「地震で上流のダムや堤防が決壊すれば、巨大津波に襲われた福島と同じ事態に陥る恐れがある」と警告する。

だが、各国に原発推進路線を変える様子はない。ドナウ川沿いの地震多発地帯に原発2基の増設を計画中のブルガリアは、欧州委員会などの指摘を受けて6月末まで計画を一時凍結したが、安全性に問題がないと分れば再開する構えだ。

6基が稼動するチェコのネチェス首相も「原発は経済の自立に不可欠で、運転中止はあり得ない」。増設を計画するスロバキアやルーマニアなども、原発推進路線に「変更はない」と口をそろえる。

こうした旧共産圏の国の多くは今も、ロシアから冷戦時代のパイプライン網で天然ガスなどの供給を受けている。一方でたびたび供給停止の憂き目にあっており、エネルギーの「脱ロシア化」に原発は欠かせないという事情がある。

西欧諸国には、原発を風力や太陽光などの代替エネルギーへの「橋渡しの技術」(ドイツのメルケル首相)と位置づける向きもあるが、代替エネルギーの開発には膨大なコストと時間がかかる。中・東欧の国々は経済危機で資金が不足し、電力供給の多くを原発に依存するエネルギー体制も確立しており、そう簡単には転換できない。

チェルノブイリ事故を体験しながら、現在も15基が稼動するウクライナのアザロフ首相は「金持ちの国だけが、原発閉鎖の可能性を議論できる」と地元メデイアに語った。 (ツベンテンドルフ=玉川透)

 

オーストリアの原発政策

78年にツベンテンドルフ原発の稼動が国民投票で否決されると政府は計画していた7基の建設を断念。国内での原発建設を禁じる法律が制定された。86年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故で国民の「原発嫌い」は決定的となり、99年に原発建設禁止などが憲法に明記された。

 

ところが、どっこい、このツベンテンドルフ原発は、1、000枚のの太陽パネルを備えた太陽光発電所に生まれ変わったようです。この7月24日に操業を開始、年間18万キロワット/時の電力を提供する予定だということをネットの記事で知った。

不用になった設備や部品は、ドイツの沸騰水型原子炉に売却、空いたスペースをドイツの原発従業員向けの研修用として貸し出し、資金調達を図るらしい。操業に際して、200人の従業員が採用された。今までは、先の方の記事で紹介されていたフライシャーさん一人で管理を任されていた。

2011年7月2日土曜日

サッカー少年の無念さを想う

愛媛県内の公立小学校で、当時小学5年生だったサッカー少年が、校庭に置いてあるゴールに向かって、フリーキックの練習をしていた。蹴ったボールはゴールの上を越して、門扉を越えて、道路に転がり出た。

生憎、そこに通りがかったバイクの男性がそのボールを避けようとして、転び、足を骨折した。この男性はその後、認知症の症状が出るようになって、翌年には、食べ物が誤って気管に入ることなどで起きる誤嚥(ごえん)性肺炎になって、亡くなった。

ボールを蹴った少年に過失があるかが問われた訴訟の判決が大阪地裁で言い渡された。

「ボールが道路に出て事故が起こる危険性を予想できた」として過失を認定した。少年側は「ボールをゴールに向けて普通に蹴っただけで、違法性はない」と主張したが、判決では「蹴り方によっては道路に出ることを予測できたと指摘。「少年は未成年で法的な責任への認識はなく、両親に賠償責任がある」と断じた。男性には元々脳の持病があったことや、入院したことによって生活が一変したことが、次の病気に影響を与えたと認められたようだ。少年の両親に対して、請求額5千万円に対して、男性の遺族等5人に計1500万円を支払うように命じた。

このことが掲載された20110629の新聞記事を読んで、被害者の男性を気の毒に思った。さぞかし辛い日々を過ごされたことだろうと察する。

が、方やサッカー少年のことも、私には痛く胸に堪(こた)える。私だって、私の息子でさえこんな事故は十分に起こり得たことだと思ったからだ。学校の敷地と道路との間には、柵、それも子どもの蹴ったボール程度ならば越えないような柵や網が、何故、備わっていなかったのだろうか。蹴ると道路に出る可能性があると予測できるならば、ボールが越えないように柵を設けることが、小学校の敷地として必要条件ではなかったのか。学校側にもその責任はあったのではないのか。

サッカー少年だけに責任を求めるだけで、いいのか?

私の40余年前の学生時代(W大ア式蹴球部)のことを、即、思い出した。少年のことが他人事のように思えないのだ。私が20歳から24歳まで、名門といわれる大学のサッカー部に所属させてもらったものの、その技術、体力に、同僚たちとは大いにレベル差があって、その差を詰める努力を懸命にした。みんなと同じ練習だけでは、いつまで経っても置いてきぼり。負けん気の強い私は、大学の4年間のうち3分の1は、一日9時間はグラウンドにいた。甲斐あって、4年の時には試合の半分は出場させてもらった。大学選手権優勝、関東大学選手権の2冠に多少なりとも貢献できた。

みんなが練習を終わって風呂に行くのを尻目に、グラウンドに残ってボールを蹴ったり、ドリブルをしたり、吊るしたボールにヘッデイングを、何度も、何度も繰り返した。そんな時、よく付き合ってくれたのが、金ちゃんだった。金ちゃんは1年生にしてレギュラー、超エリート、私はゴミ扱いだった。

サッカーのグラウンドとグラウンドホッケーや馬場とは道路を挟んでいた。両方のグラウンドの道路との境には5メートルほどの金網があって、背丈10メートル以上もある樹木も植えられていて、その枝葉で隙間がない。

私と金ちゃんは、練習に飽きると、10メートルもあろうかと思われる樹木の上を越すようにボールを蹴っては、その挟まれた道路を歩く女性に向かって、ちょっとちょっと、お嬢さん、ボールを取ってくださいなあ、と声を掛けるのだ。転がったボールを見て、大体の女性は、ニッコリ笑ってくれるだけで、ボールを追いかけるような人はいない。ニッコリ笑ってくれた女性と、何かを話す取っ掛かりを作ろうとするのですが、なかなかできなくて、ただ、ニッコリ微笑返しを受けるだけの、ただそれだけの遊戯だった。二人だけの秘密の楽しみごとだった。

こんな馬鹿なことで遊んでいたのだ。

この馬鹿な大学生の遊戯で、私が蹴ったボールを、サッカー少年の時と同じように、道路を通りかかった人が避けようとして、転倒、それが原因で怪我でもされたならば、この時こそは、我々二人は、傷害をしでかしたことになる。これこそ、正真正銘の犯罪だ。危険防止のために作られた金網や樹木を、それを認識した上で、ボールを蹴り上げたのだから。

私にとって、幸いにして災難は生まれなかった、が少年にとっては、さぞかし無念だったことだろう。

2011年6月28日火曜日

小沢一郎、今こそ働き時だぞ

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小沢一郎、元民主党幹事長。岩手4区で衆院選14回当選の実力議員だ。

幹事長時代に自党の金を自由に遣って子飼いを増やし、その可愛い子飼いたちに囲まれながら、実力者として、小沢グループなる郎党を組み、何かをやらかしてくれるのかと期待をしても、聞こえてくる話題は政事ではなく、内紛の火起こしばかりだ。

東北地方、宮城、岩手、福島の3県は、東日本大震災の災害で大変な事態だ。地震と津波、それに東京電力福島原発事故による放射性物質の拡散が続いている。

この危機、国難を勇気と英知を結集して危機を乗り越えなければならない、と小沢一郎氏は公式ホームページで述べている。が、果たして、小沢氏が言う国難に対して、まして生まれ故郷で選挙地盤でもある岩手県、東北地方が困っている状況を、誰よりも解っている筈なのに、何を、どのように、政治的な行動をしたのだろうか。今こそ、小沢氏の働き時だ。

有史以来の困難な事態にもかかわらず、小沢氏は仕事をしていないなあと思って、どうにも不愉快な気持ちでいたら、私の憤懣を朝日新聞の編集委員の星さんが、一人小沢氏だけの問題ではなく、民主党の問題として著してくれた。

我が意を得た、この文章をこの欄に拝借させてもらうことにした。

20110629 今日は弥生台から天王町の会社まで歩いた。距離としては12~14キロメートルあるのだろうか、3時間かかった。道中、こども自然公園の入り口に、民主党の看板が無傷のまま、整然と掲げられていて、そのスローガンを読んで笑ってしまった。これも、なにかの記念にでもなるだろう、とカメラにおさめた。

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20110625

朝日朝刊

編集委員・星 浩

政治、考

民主党の弱さ  黙々と汗かく人が少ない

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国会の会期延長をめぐる被災者そっちのけの小競り合いには、うんざりしたので、別の話題を書いてみたい。

「政権交代」で沸いた熱い夏から2年になろうとしている。この間の民主党政治のどこに問題があったのか。財源なき財政支出など、政策に不備があった。小沢一郎氏の政治資金問題と分派活動、鳩山由紀夫、菅直人両氏のリーダーシップ不足ーーーー。さらに深刻なのは、与えられた任務を果たすフォロワーシップとも呼ぶべき 「政治の作法」が欠けていることだと思う。「作法」にうるさかった竹下登元首相の語録を引きつつ、民主党の現状を考えてみよう。

 

▲汗は自分でかく。手柄は人にあげる。

例えば原発の再稼動問題。菅首相は浜岡原発の停止要請を発表し、得意満面だった。一方で点検の済んだ原発の再稼動に向けた地元自治体との話し合いは、海江田万里経済産業相に委ねている。竹下流であれば、停止要請といった目立つ仕事は経産相に任せ、首相は地元との折衝に汗を流すだろう。菅氏の「手柄は自分」の体質が、民主党全体に及んでいないか。

「謹慎」すべき鳩山氏が大事な局面にしゃしゃり出てくる姿に、多くの国民はあきれ返っている。鳩山氏側近の松野頼久元副官房長官が、税と社会保障の一体改革を話し合う党の調査会で執行部批判を繰り返していた。鳩山政権の迷走で党に迷惑をかけたのだから、鳩山氏と共にしばらくは静かに身を処し、裏方の仕事に徹するべきだろう。黙々と汗をかく人が少なすぎる。

 

▲世間の評価は自己評価の半分と心得よ。

自分が80点の仕事ができたと思っても、世間から見たら40点というケースがある。人の評価は難しいのだ。

平野博文元官房長官、小沢鋭仁前環境相、樽床伸二国会対策委員長らの中堅議員が次の代表選出馬に意欲を見せているという。ちょっと待って欲しい。もっと重要閣僚や党役員などを経験し、国家観や政策実行力について、ある程度の評価を受ける必要がある。平野氏の自己評価は甘すぎないか。民主党が苦境にあるいまは、中堅議員は腰を落として、地道な仕事に力を傾ける時だ。首相を選ぶ代表選なのだから、手を挙げればいいというものではない。

民主党は、この2年間を真剣に反省し、体質を根っこから改めなければならない。それができないなら、菅首相を代えて新首相を選んでも、自民党と大連立を組んでも、民主党は行き詰るだろう。

2011年6月27日月曜日

やっぱり6月は、太宰だ

(サクランボ 。 上の写真はネットWikipediaから無断で拝借した。太宰が好んだ桜桃(おうとう)ってサクランボのことですか、誰か、教えてください)

毎年、梅雨になると太宰のことで胸騒ぎする。三鷹・禅林寺での6月19日の桜桃忌がやってくるからだ。太宰治の消息が13日(19480613)の深夜11時半以降、判らなくなった。玉川上水下流で19日に遺体で発見されたが、確か、1909年の6月19日生まれだから、満39歳の誕生日に発見されたことになる。今年は東日本大震災があってか桜桃忌のことがあまり話題に上らなかった。

20110614 横浜市緑区三保町に宅地開発用の土地情報が寄せられたので、現地に向かったが、いつもの癖で、情報をくれた川崎の不動産屋さんとの待ち合わせまでには、たっぷり時間に余裕があった。

こういうときに時間潰しを兼ねて利用するのが、何とかオフという古本屋だ。今回の店は、緑区三保町交差点付近だ。店に入るなり、足先は105円コーナーに自然に向く。この何とかオフの古本チェーン店は、店によって置かれている本が違っていて、その違いを確認するだけでも、それなりに楽しいのだ。

そこで、目に留(と)まったのが、太宰という文字だった。受験浪人時代から大学1年生頃までの3年間、それはそれは熱心に太宰、坂口安吾、織田作之助、田中英光、壇一雄、井上光晴、山岸外史などを集中的に読んだ。著者・太宰治の本は、105円コーナーには並ぶことはない。しばらく彼のことはご無沙汰していたなあ、なんて考えると無性に懐かしくなって読みたくなった。昔の虫が今でも生きていた。

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そんな心境の私が居並ぶ本の中から見つけたのは、太宰治の名前を書名に使った本だった。松本侑子氏の「恋の蛍」、副題に「山崎富栄と太宰治」。新田次郎文学賞受賞とある。

「恋の蛍」、書名にも使われた蛍の、今は盛りの時期だ。危なっかしく静かな光を出して、生きている間は命がけで燃えるような恋をする、そんな蛍たち。一度目に入ってしまったら、手にとって確認しないわけにはいかない。太宰を夢中になって読んだ40余年前の自分に戻っていた。

太宰と一緒に入水自殺した山崎富栄のことを書いた本だ。勿論、御代は105円。大学生時代に、山崎富栄の日記をもとにした「愛は死と共に」(石狩書房)を読んだ。この本は彼女が太宰を思う心像を遺書のように綴ったもので、その時は独りよがりの気持ちをよくもそこまで書くなあ、ぐらいにしか感じなかった、が、今回の本で、富栄が生真面目で、純粋で、思索的な人柄、文学的な教養と育ちのよさ、芯の通った凛とした女性だった、ことが偲(しの)ばれた。

富栄の生い立ちから兄(姉)弟のこと、父母のこと、たった10日間だけの新婚生活、夫の戦死のこと、とりわけ日本で最初に文部省認可のお茶の水美容洋裁学校を創立した、立派な教育者だった父・山崎晴弘のことについては興味をもった。明治の東京に生まれ、日本の美容教育の近代化、自らの立身出世を目指して孤軍奮闘しながらも、軍国主義と戦争に巻き込まれ、一切を失った。この元校長を人間的に敬慕する卒業生たちが日本全国に散らばった。晴弘の生きてゆく支えにもなった、

この父と娘を含む山崎家族は、大正デモクラシィー、関東大震災、第二次世界大戦、東京大空襲、疎開、敗戦、動乱の世から戦後の時代まで生き抜いてきた。やっと、戦後の民主的で自由な時代を迎えて、美容学校再建の担い手にと父が望んだ富栄は、太宰との心中で散った。

この本で、富栄を深く知ることができた。

後の方でまとめるが、富栄のことが、彼女の名誉を傷つける内容が、あたかも事実かの如く著述され、その嘘がこの本で明らかにされた。それにしても、立派な著作家たちが、何故、そこまで、富栄のことを事実に反してまでも、かくも悪く著したのだろうか?残された山崎家の肉親たちが、そのことで、どれほど辛い思いをしたかという事実を、この有名な作家たちは、どのように感じていたのだろうか。

野田宇太郎は「六人の作家未亡人」で、富栄のことを酒場女、と唾棄した。臼井吉見は「太宰の情死」で、知能も低く、これという魅力もない女だった。文学好きなどという種類のものでもなかった、と。また「展望」では、人気作家との恋に夢中になっていた女が、その独占の完成のために、強引に太宰を引きずっていったさまを、ありありと想像することができたのである、と。村松梢風は「日本悲恋物語」で、引き揚げられた太宰の死体には、首を絞めて殺した荒ナワが巻きつけたままになっていて、ナワのあまりを口の中へ押し込んであった。つまり情死の相手の山崎が太宰の首を絞めて殺したあとで一緒に入水したものと推定された、と書いた。中野好夫は「志賀直哉と太宰治」で、山崎某女の日記などに見れば、頭の悪そうな、感傷過剰症の女である、と。

 太宰が敬愛していた井伏鱒二と仲のよかった亀井勝一郎からは、根拠もないのに、富栄が青酸カリを飲ませたのだとか、富栄が太宰の首を絞め殺したのだとも書かれた

 鎌倉長谷で富栄ら三人で共同経営していた美容室に客として通っていた梶原悌子は、2002年に「玉川上水情死行」という評伝を上梓(じょうし)した。執筆の動機は、「親しかった富栄の死後、文壇の人々が根拠のない噂や憶測で富栄を中傷し、卑(いや)しめた文章を発表している」のを読んで、「太宰につき添って死んだ富栄が憐れで、一人でも多くの人に本当のことを知らせたかった」(あとがき)からだった。

友人が、この本をざあ~と読んで、一言、この男、太宰治はずるい奴だと言い捨てた。とんでもない奴だ、と。

果たして、富栄は太宰との愛が本当に幸せだったのだろうか。昭和22年5月3日の日記より、彼女の心のうちの一部でも覗(のぞ)かせて頂いて、この稿は終わりにしたい太宰は死にたかったかもしれないが、富栄まで死ぬことはなかったのではないか。それにしても、男はアホで、女は難解だ。

先生は、ずるい

接吻はつよい花の香りのよう

唇は唇を求め

呼吸は呼吸を吸う

つよい抱擁のあとに残る、涙

女だけしか、知らない

おどろきと、歓びと

愛(いと)しさと、恥ずかしさ

2011年6月25日土曜日

オッサン、順番は守ろうよ

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20110625のことだ。格安商品のエアコンを何とか手に入れようと、1ヶ月前から作戦を立てていたが、結論は、毎週週末(土)の新聞の折込チラシに掲載されている得だしの商品に目星をつけて、その店の開店前に行くことだ、これしかないと腹をくくった。このような商品は必ず数量限定なので、早い者勝ちだ。

私は、弊社がある天王町の隣駅前にある、某電気製品量販店に行くことに決めた。開店時間は多分10:00だから、30分も前に行けばいいやぐらいな気持ちでいた。一度会社に出て、スタッフに事情を言って、出かける心算だった。

そんなことをみんなに話していたら、経営責任者の中さんが、ヤマオカさん、そんな30分前なんて甘いですよ、今から、直ぐにでも、新聞と本を持って行くべきですよ、と尻を叩かれた。椅子でもあれば、持って行くと待つのには都合がいいですよ。8時15分頃のことだ。

アドバイスを背に聞きながら、直ぐに支度をして出かけた。店の前には8時30分着。開店時間は9時半だった。幸い3階の入口には私が一番乗りで、その後30分ぐらいの間に、10人は集まった。この店の建物の入口は、1階と3階だ。私は3階の入口にいたが、ここからは見えない1階の入口の様子が気にかかる。どのぐらいの人だかりがあるのだろうか、ちょっと心配だった。

9時15分に建物の入口が開いて、館内の店の前までは進むことができて、その店の入口で、整列して待った。そうこうしていると、店の係員の人が来て、整列している人たちに整理券が配られた。

私が5番目に並んでいた。係員が無造作に整理券を5枚配ろうとした。本日のエアコンの販売台数は限定の5台だったからだ。私は5番目なので、購入できる資格は得ることができたワイと一先ずは安心した。

係員が私の前に券を差し出したら、後ろの方からオッサンの手が伸びて、その手が整理券を握り締めたではないか、私は黙ってはいない、おいおい、俺だよ、順番は俺だよ、と言って、そのオッサンから係員に券を取り戻してもらった。真の受け取り資格者の私に整理券が渡された。オッサンは、さすがに拙(まず)いなと、反省したのだろう、気まずそうに去って行った。

手にした券をよく読むと扇風機、13、800円と書いてあった。係員に、私が買いたいのはエアコンなんですよ、この券は扇風機のものなんですねと確認するや、先程のオッサンにこの整理券をあげなくては、と思って係員を呼んだ。階段付近でオッサンが見つかって、先程の気まずさはケロット忘れたような顔で現われた。

エアコンの売り場に行ったのは、私が1番でほぼ同時に3人が申し込んでいた。今日の目玉商品は扇風機だったのだ。きちんと着飾った老婦人や、私よりもきっと金持ちだと思われる紳士も整理券をもらっていた。金持ちほど、倹約するものだろうか。勉強になるなあ。

ただ、それだけのことですがね、年をとっても、浅ましくなく、ずるくなく、上品は無理でも下品にはなりたくないもんだ。

私の家(うち)には、7月1日、取り付けに来てくれる。当方は、お金を用意しておくだけだ。

帰り道、こんなことが以前にもあったなあ、と考えていたら、三女・ソが小学生の3,4年生の頃、タマゴッチを買い求めるために横浜駅前の三越百貨店に二人で出かけた、その時のことに思い当たった。当時、タマゴッチの人気が爆発的で、品不足だった。予(あらかじ)め、販売店と販売個数、販売日が知らされる。私たちは、三越に決めていた。正月の少し前か少し後だった。大勢の人間が開店と同時にエレベーターを使わずに、5階か6階のおもちゃ売り場を目指して一目散に駆け出した。私ら父娘のダッシュは他を圧倒、ダントツにトップグループだった。

そんなこともあったのだ。今日のことで、20年ほど前のことを懐かしく思い出させてくれた。