2011年11月13日日曜日

カラスの奴、俺より先に食うとは

私が7年前に会社の前の空地に植えた柿が、赤くなってきたのを、カラスが狙っていた。このカラス、柿がようやく食い頃になるのを待っていたのだ。カラスは、鳥のなかでも最も頭のいい鳥といわれている。

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そして10月21日、このカラスに1個食われた。

空は青く、柿の葉は紅葉して、赤い実を突っつく鳥はムクドリがお似合いだ。実に秋の風情だ。 カラス君はどっこでもご活躍、我輩は、ちょっと見飽きてしまったよ。

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  ムクドリ

 

熟した柿を、下に落とさないようにして、郵便ポストの平らな部分に運んで、ゆっくり平らげたようだ。一部食い残しがあった。枝にぶら下がっている状態では、きちんと全てを食い尽くすことはできなかったようだ。

そして翌21日、2個目を側の飲み物の自動販売機の上に運んで、食っているのを、目撃した。 

俺様より、先に食いやがった。悔しがっていてもしょうがない、無策はイカン。何か対策を講じなくてはと思ったが、何てことはない、カラスに食われる前に食っちゃえば済むことだ、と結論した。

柿の実が色づきだしたので、会社の皆が皆、この小さな柿の木に群がったら困るなあと心配していた。そんな事態が起こる前に分配の鉄のルールを作らなくてはと考えていた。

私がここで注意しなければいけないのは、個人的な欲望をぐうっと抑えることだ。われ先の行動は慎もう。会社のスタッフを優先的に、その次にはスタッフの家族に分けてあげなくっちゃと考えた。私の個人的に所有するイーハトーブの果樹園の柿の木 にも、幾つかは生っているんだから、と 余裕綽々だ。

去年までは生ってもせいぜい20個ぐらいだったので、私が頂いた後は、カラスが喜ぶなら、1つや2つ、食われたって好いやと思っていた。実際には、奴等に5個くらいは食われたのだろう。スタッフに分配するなんて考えられなかった。

ところが、今年は100個ほど生った。豊穣だ。

早速皮を剥いて、皿に奇麗に盛ってみんなのテーブルを回ってみたら、意外や、割とみんなが喜ばないのに、驚いた。誰もが喜んでくれるものとばかりと思っていたが、柿の好きな人が案外少なかったのだ。

柿がみんなに好かれていないことを知って、しょんぼりする私に、ちょっと嬉しかったのは管理の和さんの一言だった。父が好きなんですよ、皮ごと丸かぶりしたいところだよ、と云ってました、と。

もう一人、我が社のコンピューター管理をしてくれているコウ君に柿をあげたら、喜んでくれた。彼は、祖父によく柿を剥いてもらって食っていました。祖父のことでも思い出していたのでしょう、と母親は云っていた。

11月3日、生っている柿を1個だけ残して、全部採った。今度は、カラスと私のお遊びだ。

カラスに意地悪を思いついたのだ。木の先っぽにある実は彼らには好都合のようだが、それなら、柿の木の枝と枝に挟まれた中ほどよりも低いところに、柿の実を残しておけば、それは、どのようにして食うだろうか。収穫には間がある柿を、選んだ。

羽を広げて枝から枝に移動するのはよく見かける。羽をすぼめて移動する時は、羽をすぼめたまま枝と枝の間を、上下左右、大きい体をどのようにして、どの程度の移動ができるのだろうか、それを見てやろうではないか、と思いついた。

本日11月14日、柿は赤く染まってきたが、カラスは寄り付かない。カラスの意地を見たいもんだ。

2011年11月7日月曜日

ひぇ、東海第二原発も!

茨城県東海村長の村上達也さんが、朝日新聞記者に語ったことが記事(20111026 朝日・朝刊)になっていた。

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48年前、日本で初めて原子力発電を成功させた、その自治体の首長は、記者に向かって、原発がもたらすカネとリスクについて熱く語られていたのだ。

その記事の冒頭で、私は思わず、ひぇ~と叫びたくなった。

内容は、今年の3月11日、村上達也さんが村長を務める東海村の日本原子力発電東海第二原発も、東日本大震災で起きた東電福島第一原発と同じようなことが起こる寸前だったということだ。

こりゃ、本格的に日本から原発をなくすしかない、と確信した。

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福島第一原発の原子炉建屋。右から4号機、3号機、2号機、1号機=12日午前11時3分、福島県大熊町 相場郁郎撮影

耕論

繁栄は一炊の夢だった

「東海第二」廃炉を

村上達也さん・茨城県東海村長/聞き手・山口栄二

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実は東海村の日本原子力発電東海第二原発も、東京電力福島第一原発で起きた「全電源喪失」の寸前でした。地震の影響で外部電源がすべてダウン。非常用発電機でポンプを動かして原子炉を冷却しましたが、1時間後に押し寄せた津波があと70センチ高ければ、海水は防波堤を乗り越えて、すべての冷却機能が失われていたかもしれない。

2週間後にその事実を知り、背筋が凍る思いをしました。東海第二の場合、20キロ圏内に75万人、30キロ圏内には100万人の人が住んでおり、県庁所在地の水戸市も含まれます。

此処からの村上村長さんの話が教訓的だ。

「原発がなくなったら村民の雇用をどうするか」「村の財政をどう維持するするのか」という議論も村内にはあります。

しかし、原発マネーは麻薬と同じです。原子炉を1基誘致すると固定資産税や交付金など10年間で数百億円がカネが入る。そのカネがなくなると、また「原子炉を誘致せよ」という話になる。尋常な姿ではありません。

福島のような事故が起これば何もかも失ってしまう。原発による繁栄は一炊の夢に過ぎません。目を覚まして、持続可能な地域経済を作るべきです。

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補講です。

この新聞記事の頭出しのタイトルで「一炊の夢だった」とある。この故事成語の「一炊の夢」をもう少し知っておきたくて、ネットで調べてみたら、意味の説明や用例、中国での故事の由来も紹介されていたけれど、私はその中で上杉謙信のことを材にした、この「一炊の夢」の説明を、この欄に引用させてもらう。

「四十九年、一睡(一炊)の夢、一期(いちご)の栄華(えいが)、一盃の酒」(上杉謙信)

越後の武将・上杉謙信は、生涯、戦いに明け暮れた。武田信玄との川中島の決戦は有名である。天下取りを目指す織田軍を、加賀で撃破し、信長を恐れさせた。関東平定へ進発しようとした矢先、病に倒れ、49歳でこの世を去った。

「戦功を競った一生も、一眠りする間の夢のようだ。天下に名を馳せた一代の栄華も、一杯の酒ほどの楽しみでしかなかった」

人生の目的を知りえなかったむなしさが漂っている。

2011年11月5日土曜日

書評、評者の文章にもほろり!

20111030の書評欄のことです。

毎週、日曜日の朝日新聞・朝刊の書評欄は、私の大好きなコーナーだ。日曜版にはふさわしい企画だと思う。色んなジャンルの読み本が、多士済々な書き手の労作、秀作が、全15段2ページに品揃えをして読者の来店を待っている。

私の好きでない著者の本や、嫌で苦手なジャンルの本の紹介は、無頓着にパスだが、掲載される本の3分の1は私が興味を惹くものだ。この欄に採用する本を探す作業も大変だと感心する。新刊を買う余裕がなく、目先の仕事に追われている私には、有り難い企画だ。

自由に遣える資金が少ないのは、私の個人的な至らなさで、何もここで恥を晒すこともないのだが、この稿は私の生活の一部の紹介でもあるので、不愉快な話題と思いながら書き足した。襤褸(ぼろ)は着てても心は錦。せめて書評でも読んで、少しは文化的に過ごしたいもんだ。

著者や出版社、本屋さんには申し訳ないのですが、買って、手にしなくてもこの書評だけで楽しいのだ。作家さん並びに出版関係者の各氏、各社殿、スマン。

その評者の筆力の天晴れさに、毎度感心させられている。

そこで、今週、とりわけ気に入った2冊の書評をそのまま新聞記事のまま転載させてもらうことにした。何故、この2冊を選んだかって、その1「句集 残像」は、評者の文章が巧いことに感心させられた。その2「絶望の国の幸福な若者たち」は、私にとっても若者のことは大いなる関心事だからだ。

私たちが若者だった頃、その時の大人たちもきっと、今と同じように若者のことを観察していたのだろう。私は、私たちはどのように思われていたのだろうか。

私の中学、高校、浪人時代は、東京にあこがれて夢と希望に溢れていた。大学時代、70年安保と授業料値上げ反対、学生自治会館の自主管理奪還の闘争で、私の大学の構内は一段と殺気立っていた。私はと言えば、そんな闘争を尻目に、サッカーに没頭していた。誰よりも下手で体力がなかったので、練習時間を増やすしかなかったのだ。

高校時代は、東京オリンピック、企業の公害問題、大学在学中には、大阪万博、卒業時には一次オイルショック、ニクソンショック、それから二次オイルショック、産業界はそれらを乗り越えようと必死で頑張っていたので、私もその気運の中で真面目に仕事に精励、経済のつまずきは幾つもあったけれど、でも総じて経済が成長しているのを実感していた。これらが、私が若者だった時代の背景だ。私は、何を考えて生きていたのだろう。

私にとって、日曜日は休日ではないけれど、何故か心にゆとりがある。

朝刊は、目が覚める4時には玄関扉のポストに配達されている。英国王室御用達の紅茶ではなく、廉くて、苦いインスタントコーヒーをすすりながら、読んでいる。

いつか、この欄に採用された本を読むことはあろうが、今はこの書評を楽しむばかりだ。

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その1は、「句集 残像」 山口優夢〈著〉

       評者・種村 弘 〈歌人〉 

山口優夢の第一句集である。

〈あぢさゐはすべて残像ではないか〉

紫陽花に特有の色や形が「残像」と表現されていて、なるほどと思わされる。「あぢさゐ」という旧仮名表記もどこか「残像」っぽい。でも、もしも本当に「すべて残像」なのだとしたら、我々は紫陽花の本体を一度も見ていない事になる。本体はどこにいるのだ。と、そこで奇妙な事を思いつく。じゃあ、「愛」とか「国」とか「私」とかはどうなるんだろう。もしかしたら、私はそれらの本体も見た事がないんじゃないか。

〈電話みな番号を持ち星祭り〉

「電話みな番号を持ち」に驚く。一見当たり前のようだが、ここから例えば「人はみな遺伝子を持ち」や「愛はみな宿命を持ち」が、心の奥に湧き上がる。「あぢさゐ」の句と同様に、僅(わず)かな数文字言葉が、読者の心から、より大きな何かを引き出してしまうのだ。

〈未来おそろしおでんの玉子つかみがたし〉

「未来」と「玉子」だけが漢字だ。「玉子」の中には「未来」の時間が詰まっている。いわば「未来」の塊のようなもの。それが「つかみがた」くて「おそろしい」のだろう。音読すると、字余りのせいで全体が早口になる。それが「おそろし」さと同時に奇妙なユーモアを感じさせる。

〈蜘蛛の巣にはげしく揺るるところあり〉

そこで怖ろしいことが起きている。にも拘わらず「はげしく揺るる」とのみ書かれる事で、怖さが増幅された。

〈投函のたびにポストへ光入る〉

云われればその通りだが、普通は気づかない。その理由は我々が「ポスト」の外側の世界に生きているから。だが、作者は「ポスト」の内側の闇に心を飛ばすことができる。その力が遺憾なく発揮された秀句を最後に引いておく。

〈心臓はひかりを知らず雪解け川〉

 

その2は、「絶望の国の幸福な若者たち」 古市憲寿〈著〉

       評者・中島岳志 〈北海道大学准教授〉

現在日本の若者は不幸だといわれる。格差は拡大し、経済成長も難しい。しかし、社会調査では意外な結果が出る。20代の実に7割が、現在の生活に満足していると答える。今の若者たちは、自分たちの生活を「幸せ」と感じているようなのだ。著者は、この奇妙な幸福感の源泉を探り、現在社会のあり方を模索する。

若者は本当に「幸せ」なのか。別の調査では、「不安がある」と答える若者の割合も増加している。若者の傾向は、「幸せ」と同時に「不安」を抱えているというアンビバブルなものなのだ。

では、なぜそのような事態が生じるのか。それは「将来の希望」が失われているからである。もうこれ以上幸せになるとは思えないため、若者たちは、「今、幸せだ」と答えるしかない。今よりも幸せな未来を想像できないからこそ、現在の幸福感と不安が両立するのだ。

若者は「自己充足的」で、「今、ここ」の身近な幸せを重視しているという。親しい仲間たちと「小さな世界」で日常を送る日々に幸福を感じているようだ。また、一方で社会貢献をしたい若者も増加している。最新の調査では20代の若者の約60%が社会のために役立ちたいと考えている。

ここでキーワードとなるのが「ムラムラする若者」だ。仲間といっしょに「村々する日常」とそれを突破する「ムラムラする非日常」を同時に求める心性が、多くの若者に共有されているという。しかし、非日常はすぐに日常化する。そこが居場所になれば、急速に社会性を氷解する。

著者は、それでいいじゃないかという。複数の所属をもち、参入・離脱の自由度が高い承認のコミュニティーがあれば、十分生きていけるじゃないかという。

しかし、現実には仲間がいるのに孤独や不全感を抱える若者も多い。賛否が分かれるであろう論争的な一冊だ。

2011年11月2日水曜日

またもや、バカ恒(つね)!

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またもや、株式会社読売巨人軍会長の渡辺恒雄(ナベツネ)氏に苦言を呈したい。

親会社のTBSホールデイングスが、株式会社横浜ベイスターズを持ち堪(こた)えられなくなって、昨年から身売り先探しに奔走していた。昨年は、住生活グループとの売却交渉が最終の条件のすり合わせができずに決裂した。

今年は、本気で売却を成立すべく、相手探しをしていたところに、ゲームサイト「モバゲー」を運営しているディー・エヌ・エー(DeNA)が名乗り出た。TBSの関係者はさぞかし溜飲と肩の荷を下げていることだろう。TBSの経営者には、スポーツに関する見識も覇気もない。売却話は大詰めを迎えているようだ。そろそろ、正式発表かと、噂されている。

買収に乗り出したディー・エヌ・イーは球団名にモバゲーを使いたがっているが、ナベツネは球団経営の努力をしないまま売名行為のために球団を購入する行為は認められないと発言した。このことに関してはオーナー会議なのか、何会議か知らないが、どうぞじっくり論議することをお勧めする。

このようなことを、新聞報道で知ったが、交渉の途中の何かと微妙な問題が発生しかねない状況下、まして他球団のことなのに、読売巨人軍のナベツネが、交渉の経過を記者らにべらべら話していることに、違和感を感じた。君はいくつもある球団の一役員に過ぎない身の上だよ。身の程をわきまえろ。自らの球界への影響力が低下していないことを誇示するかの如く、と朝日新聞の西村欣也記者は記事にしている。私も、全く同感だ。

買収の条件が双方折り合っても、オーナー会議の4分の3以上の同意を得なければ、新しく加入が認められないというルールがあるらしい。それほどの重要で微妙な問題なのに、正式に決まる前から、あれはイイ、これはダメだと言い切る、この男は、頭が狂っているとしか思えない。自分を何様だと思っているのだろう。

横浜球団の売却先にからむ、ナベツネの新球団名称問題についての発言はこれまでにして、今回のことがきっかけで、かってのナベツネに対する不快感が甦ってきた。

私は、サッカーを愛する世界中の幾億人と同じように、誇り高いサッカー人間の一人だと自負している。ほぼ半世紀に亘って、サッカーと付き合ってきた。私の高校時代は、日本代表がムルデカ大会(アジア地区の大会)に出場しても、いい成績がおさめられなかった。ドイツサッカー協会から派遣されたクラーマー氏の指導で日本チームは基本から学んだ。その甲斐あって、東京オリンピックでの健闘、メキシコオリンピックの銅メダルにつながった。その後しばらくは、日本サッカーの成長止まり感のする期間だった。

そんな息詰まり状態に風穴を開けてくれたのが、(社)日本サッカープロリーグの発足だった。

このプロサッカーリーグ、現在のJリーグに参加するチームは、企業の自社宣伝役を担うのではなく、地元に密着したチームであることを発足理念にした。日本で初めての試みだ。地元にサッカーを文化として根付かせたいとの願いがあったように思う。地元のホームグラウンドが、ファンの心の故郷の一部にでもなればということだったのだろう、と私は推察する。

日本サッカー協会は、球団のオーナーや役員には自分の企業のアピールよりもサッカーを地元に根付かせることで、企業としても存続できるように運営して欲しい、と申し渡した。

協会リーグ事務局は、球団の呼称を「地域名+愛称」を望み、スポンサー企業名を使わない。その指針に従って、各球団は横浜マリノス、大阪ガンバのように名付けて、各媒体もそれに従った。

ところが、正式名称は「ヴェルディ川崎」なのに、読売系の媒体では、表記、アナウンスを「読売ヴェルディ」として開幕から1994年まで事務局の意に反して使用した。当然、Jリーグチェアマンの川渕三郎氏と読売のナベツネはもめた。川渕先輩の頑(がぁ~ん)とした態度が雄雄しく天晴れだった。

ナベツネは、どうしてもJリーグ発足の理念を理解できなかった。彼は、企業名でもある読売をアピールしたかった。ところが、今は「モバゲー」を球団名の冠に使いたがっているディー・エヌ・イーをを売名行為だとののしっている。

球団を抱えたいと思うディー・エヌ・イーの創業者である代表者の意思の確認が重要だ。球団経営の方針を、横浜の地を、スポーツとしての野球を、ファンのことをどのように考えているのだろう。かって、横浜だったか他の球団だったかを買収すると名乗りを上げた消費者金融の武富士は、世間からも各球団の関係者からも冷たく扱われたことは、記憶にある。

ナベツネは今でも、野球界ではドンの心算で居るのだろうが、Jリーグにおいては自分の立場がない、何の相談も受けなかった、名誉欲強く、目立ちたがり屋、権威主義のナベツネにとって、自分抜きでリーグが発足されたのが、屈辱的だったのだろう。

ネベツネは、スポーツが文化なのだということを、理解できていない。ただ、読売新聞の購読者を増やすことしか考えていない、旧来の経営者だ。

だから、読売ではサッカーは丸でダメだった、野球もきっとダメにしてしまうだろう。

2011年10月31日月曜日

九電「やらせメール」問題

今年の3月11日の東日本大震災、その地震で発生した津波が、東京電力福島第一原子力発電所事故を引き起こした。当初、地震とそれに伴う津波の規模が想定以上だったと言われ、ならば、しょうがないのかと納得しようとした、が、これは、どうも想定以上のことではないということが、ここにきて解ってきた。天災に人災が加わった。因果応報。歴史を省みれば、そんなに未曾有の出来事ではないようなのだ。過去幾度となく、同程度の地震と津波が発生していたのだ。原発は必要と思われる対応を、思いつきはしてもきちんとなされていなかった。万全ではなかった。

28日、原子力安全委員会は解体して廃炉にするまでの工程表を示した。そしたら、燃料プール内の燃料は2014年ごろから、原子炉内の溶けた燃料は21年ごろから、原子炉と建屋まで解体して廃炉が完了するのには、30年以上かかるとの見解を示した。その間、臭わなく、目に見えない放射性物質は、密やかに我々の日常生活に迫っている。

さすが、原子力だ、後遺症も後片付けも途方もなく甚大だ。

今に至って、こんな発表を聞かされて、私の浮かぬ顔に暗雲の濃さが一段と増す。この30年間の廃炉に至るまでの作業にかかる費用は、まさか、我々がこれから払う電気代に含まれる? 税金?かと思うと、また、嫌な気分になる。

そんな暗い気分で、新聞の切抜きを整理していたら、見つけたのが九州電力の「やらせメール」だった。これは何も九電に限ったことではない。よく似た事件が、他の電力会社でも行われていた。その切抜きで保存していたものを、下の方に転載させてもらった。

九電の「やらせメール」の実態を著した朝日新聞の記事だ。

読めばなるほどと、納得する。中央や地方の政治家、経済産業省、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、電力会社の役員らのそれぞれの役割というか、¥マーク柄の衣服を纏った¥漬けの走狗たちの、互助的機能がよく理解できる。このやらせメール事件は、この仕組みの象徴的な事件だ。私のブログの歴史に刻み込まなくてはイカンと思った。

この恐ろしい原発に与(くみ)した奴らは、¥マーク酒を飲み、¥マーク旅行や¥マークゴルフ場にも行った。当然、¥マークタクシーに乗ってだろう。この¥は、元はと言えば税金であったり我々が支払った電気料金だ。国民の安全で幸せな生活なんて、そっち退(の)け、ただ¥マークに踊った餓鬼どもたちだ。

マスコミ各社も、原発の開発過程の闇の部分を、原発のもたらすであろう恐怖を炙(あぶ)り出せなかった。これは、マスコミの力不足だ。

 

20111022

朝日・朝刊

読者有論:西部報道センター/多田敏男

九電やらせ問題 電力改革に国民の視点を

 

「やらせメール」問題をめぐって九州電力が迷走している。問題発言から3ヶ月余り。取材していて強く感じるのは、国と佐賀県の顔色ばかりをうかがい消費者に背を向ける経営体質が改まりそうにないことだ。

そもそもの発端は、佐賀県にある玄海原子力発電所の再稼動に向けた6月のテレビ番組で、九電社員らが賛成意見をメールなどで投稿していたこと。これをきっかけに他の電力会社もやらせが見つかり、国や自治体の担当者が関与していたことがわかった。

九電から調査を委託された第三委員会は、やらせに古川康知事や県幹部らが関与していたことを認め、こうした県との「不透明な関係」を解消するよう求めた。お手盛りの社内調査では信頼回復につながらないから第三者に委託するわけで、不祥事企業は調査結果を踏まえて、どう出直すのかが問われる。

ところが、九電は14日にまとめた最終報告書で佐賀県の関与を否定。真部利応社長は記者会見で「(県の関与を否定した)社内調査の方が信用できる」と開き直った。これに対し、枝野幸男経済産業相は「第三者に依頼した意味がない」と厳しく批判した。

九電は知事を守るために、調査結果を曲げたとみられても仕方がない。普通の企業ならば売り上げが激減し、会社の存立自体が危うくなるが、電力会社は違う。電力の安定供給の名目で地域独占が許され、一定の利益も保証されている。消費者は電気の購入先を選べず、体質改善を促す手段が限られている。怖いのは幅広い監督権限がある国や、原発の運転再開のカギを握る立地自治体ぐらい。東京電力の原発事故で消費者の視線が厳しくなったのに、会社の体質が変わらない理由だ。

電力会社にとって、やらせは真部社長が「『白か黒か』でいったら白とグレーの間」と述べたように罪の意識は低い。報告書を県の関与を認めるものにあわてて見直すのも、監督官庁のトップに怒られたからだ。消費者や住民の信頼をどう回復させるかの意識が、経営陣には欠けている。

枝野氏は「国民の視点に対する感覚が理解不能」と批判するが、やらせには国も関与しており、早く幕引きして原発の再稼動につなげたい思惑も見え隠れする。九電だけの「けじめ」で終わらせず、独善的な体質の原点である地域独占を見直すなど、消費者目線の電力改革のきっかけにならなければ意味がない。

2011年10月30日日曜日

こんな悪の、新手口が

水曜日は我々業界では、休みの会社が多い。

でも、仕事熱心な弊社の経営責任者の中さんは、出勤して資金繰りやら、平素できない仕事を、休みの日こそ気兼ねなく出来るので、会社に出勤していた。私は、物件の下調べで会社にはいなかった。

コンピューターを立ち上げて、さあこれから仕事をするぞ、と勢い込んだ丁度その時、電話の呼び鈴が鳴った。朝一発目の電話だ、何かいいことでもあるのでは、と受話器を握って、モシモシと元気よく応えた。

電話を掛けてきた主は次のようなことをよどみなく喋り続けた。

その電話の内容は以下の通りだった。

私は、〇〇信託銀行と、かって消費者金融だった△△が合併してできた、ビジネスローンを専門に扱う会社の者です。今、合併を記念してのキャンペーン期間中で、各社さんに、とってもお得な融資をご紹介しているのです。月末が近づいていますが、資金の手当は大丈夫ですか?よろしければ、申込書をファックスしますので、書き込んでファックスで返してください。

こんな売込みだったのだ。

詐欺師

申込書には、多様なニーズにお応えするとタイトルにあって、来店不要、保証人担保不要、資金使途自由、融資額、審査は決算内容だけではない、と書かれてある。また、金利が年率1.3%~8.0%、保証料無料、40.000名様以上の実績があって、安心なローンだと強調している。

金利の低さに興味をもった中さんは、それじゃ申込みます、でも、私は今日は休みなので直ぐ退社するが、携帯の電話番号を教えておきますので、携帯に電話くださいと電話を切った。

それでも、申込書に記入してファックスした。30分も経っていないのに、早速その会社から携帯電話にかかってきて、前向きに取り組みますからということだった、がその日はそれだけで終わった。

翌日、中さんは仕入れ物件の融資を受けるために、東京の金融機関に自宅から直接出かけたので、昨日の件を、管理の藤さんに、昨日の内容をかいつまんで話し、その融資の手続きを自分に代わって担当者とよく打ち合わせて欲しいと伝えた。

ところが、藤さんが、その金融機関に電話をしても、電話に出た人には、昨日の中さんと担当者との話したことががチンプンカンプンで、話が通じなかった。藤さんは、その旨を中さんに伝えて、今度は中さんが担当者の携帯に電話を入れたら、弊社の社名を忘れているような気配はあったが、何とか昨日話した内容がお互いに通じ合い始めた。取りあえず、社内で、融資を突っ込んで検討してください、と再び念を押した。

そうしたら、中さんの携帯電話に直ぐにかかってきて、1000万円なら大丈夫ですよ、だった。すかさず、中さんは1000万円では足りないので、2000万円ならどうでしょう、と返したら、即、電話がかかってきて、2000万でもオッケーですと言って、2000万円の融資決定通知書がファックスされてきた。

ここへきて、弊社では可笑しいと考え始めていた。

通常の金融機関とのやりとりとは随分異なるからだ。まして、初めての取引先に融資を行う場合、金融機関は決算書や、在庫表、資金繰り表や、その他の書類を用意させ、面談して、会社の取扱商品や仕事の内容、代表者の資質や考え方を聴取されるのが、今までの通例だ。これはどうしても、臭い、クサイぞと察知した藤さんは、ホームページを調べて、その金融機関に電話で確認したら、実は、此の頃頻繁に自分たちの金融機関の名を名乗って、融資の勧誘を装う詐欺が行われているとの説明があった。その金融機関のホームページには、このような詐欺行為の実態を知らせるコーナーが出来ていた。

彼ら詐欺師らは、このような仕掛けをして、この先何をするのかということだが、彼らは、あなたの会社に融資することが決まりましたので、その前に、保証料や預託金を前もって振り込んでください、そのようなシステムになっていますから、と言ってくるのだろう。振込み詐欺の、新たな手法だ。

送られてきた申込書や融資決定通知書は、詐欺師らが材料に使った金融機関のものと全く同じもので、電話番号だけは違えていた。事務所の住所を知らせる案内はなかった。

そして、数日後、今度は日本を代表するリース会社系の信託銀行を名乗って、同じことを仕掛けてきた。

懲りない奴らだ。

2011年10月26日水曜日

子規さん、今、柿を食ってます

 

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柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

今日10月26日は、「柿の日」だそうだ。この句が生まれたのが、明治28年10月26日。

この句が誰の作品で、法隆寺がどこにあってどのような寺なのか、そんなことを何もしらないうちから、この句のことはよく知っていた。学校にも行かないうちから、諳(そら)んじていた。

兄が、この句を学校で覚えてきて、何気なく何度も楽しそうに詠むのを、知らない間に憶えてしまったのだ。私の田舎には柿の木がそこらじゅうにあって、柿が好きだったので、兄の口からでるこの句を我が物にしてしまったようだ。

兄に、その法隆寺(ホウリュウジ)というのは、報国寺(ホウコクジ)の間違いではないのか、としつこく聞き質して叱られた。我々の先祖の墓は生家の近くの報国寺にあったので、単に兄が間違っているのだと思っていたのだろう。

大学受験を控えての秋の追い込みの深夜、腹が減っては柿を食った。チンポ柿と言われる小さな甘柿を一晩で30個は食った。上京しての学生時代、毎年この時期になると、親元にせがんだのは、金ではなく「柿送ってくれ」だった。

そして、今、63歳の初老のジジイは、自前のイーハトーブ果樹園に3本、会社の敷地の前の方に2本、計5本の柿の木を持っている。そのうち1本は渋柿だ。柿だけは、正真正銘の自給自足を確立したかった。他にも、色々果物の生る木はあるが、此処は柿の木の紹介にとどめたい。

秋になって、食いたくなったときにはいつも傍にある、そのように万全な状況を作っておきたかったのだ。ところが、どっこい、むいた柿を大きな皿にのせて、スタッフに進めても、嫌いです、余り食わないんです、後でいただきますから、とそっけない反応の多さに拍子抜けした。ちょっと意外だった。柿が嫌いな奴が、この世に、それもこんなに私の身近にいるなんて、想像もしなかった。今の若者には、それほど好まれていないようだ。

私にとって、果物の中では一番柿が好きなんだけど。

どの柿の木も苗木を植えて約10年は経つだろう、今年は実りが豊かだ。そして、この柿を食うたびに正岡子規の句を思い出し、望郷の思いに誘われる。

私の郷里は五里五里と言われていて、京都から5里、奈良からも5里のところにある。今の時季、白秋の候とでも言うのだろうか。真っ青な秋空。柿を食うと、すっかり秋めいた山野や田畑に囲まれた我が家や草の枯れた原っぱ、ススキの穂、赤い実を2つ3つ残した柿の木が黒い陰を伸ばして、寂しそうに、ぽつうんと立っている、そんな郷里の風景を思い出す。

正岡子規の句で、明治28年10月子規が松山から、確か漱石の家を発って上京するときに奈良の法隆寺に立ち寄って、境内を散策、茶店で柿を食ったときに詠んだのだろうか。この時子規が食った柿の種類は、御所柿だそうだ。

それにしても、大した句を作ってくれたもんだ。この季節になると、私は、柿の実を枝からもぎ取るたびに、柿の木に向かって挨拶代わりに自然に出てくる、柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺。もうこの作用は日常的というか、条件反射になっている。

私の郷里は干し柿の産地でもある。古老柿(ころがき)と名付けて、宇治茶と並んで名産品になっている。晩秋、渋柿を母が、夜なべに一個づつ包丁で皮をむくのを手伝った。おかげで私は果物の皮をむくのが上手だ。イーハトーブの果樹園には渋柿も植えたが、まだまだ収穫には時間がかかりそうだ。

 

ネットで知ったことを書き添えておこう。

正岡子規は写生を唱えて近代俳句の祖と言われている。柿の句が他にもあったのでここに紹介しよう。

 

柿に思ふ奈良の旅籠の下女の顔

柿食うも今年ばかりと思いけり

 

余談だが、正岡子規は野球が好きだった、と何かで読んだことがある。意外だったので記憶に残っているのですが、これは、各自ご確認してくださいな。