2012年1月13日金曜日

準Vチーム 研ぎ澄ました戦術光る

20120101に行なわれた天皇杯サッカーでは、J2のFC東京が同じくJ2の京都サンガFCを4-2で下し、初優勝をした。そして、0109の高校サッカー選手権では、千葉の市立舟橋が三重の四日市中央工に延長の末、2-1で破り、9大会ぶり5度目の優勝を果たした。J2同士の天皇杯での決勝戦は初めてなのではないか。

この二つの決勝戦は見応えがあった。今シーズンの総決算の試合として、サッカー気違いどもには、失望させない好試合だったのが、何よりも嬉しかった。

そこで、朝日新聞の潮 智史氏は、この二つの決勝戦から、決勝戦では負けた京都サンガと四中工の両チームの特徴を分析、解説しているので、この記事は注目すべき内容だったので、下の方に転載、マイファイルさせてもらった。

先に行なわれたJリーグでは、昨年までJ2で、今シーズンJ1に昇格したばかりの初年度に、柏レイソルは強豪たちをなぎ倒して優勝した。このことも、頭の隅っこの確認袋にしまっておかなくてはならない。

この二つの大会から、多くを学んだ。

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20120101 京都サンガ 天皇杯準優勝

潮氏が指摘していることは、それ程目新しいことではない。

元日本代表監督のオシムが、口酸っぱく走ることを基本のキだと教えた。これは、走ればチャンスがひょんなところで生まれること、それも攻守の切り替えのときこそ、その効果がてきめんだと。それを、岡田ジャパンは、理解していて、このことを徹底した。そして、外人相手の体力差をカバーした。海外のクラブで、試合に使われている選手の岡崎慎司、長友祐都、香川真司、内田篤人らは、この攻守の切り替えを理解し、言い換えればボールを奪われた時の動きが評価されて、所属チームの監督は彼らを使っていると思う。潮氏が取り上げていることは、これに通じる。

攻守の切り替えに、この両チームは殊更徹底した。その徹底の仕方にはそれぞれにその個性を巧く活かした。市立船橋は市立船橋らしく、京都サンガは京都サンガらしくだ。その活かし方については潮氏の分析、解説通りだ。

京都サンガについてだけは、ここでもう一言申し上げたい。強さの秘密のことだ。

身贔屓(みびいき)の批判を覚悟で記している。注目すべきは、どこのチームも真剣に取り組んでいることだけれど、下部チームの育成のことだ。育成の組織や運営、プログラムは各チーム苦心、腐心しているのは、よく聞く。

今シーズンの活躍を目の当たりにして、感じたのは京都サンガの若手の台頭だ。どのチームよりも、突出している。2011年より、山田俊毅、駒井喜成、伊藤優太、下畠翔吾らがユースからトップチームに昇格した。彼らと同学年の宮吉拓実は2008年にプロ契約して、堂々とトップチームのFWで頑張っている。欠かせない選手になっている。彼は1992年生まれだから、現在は19歳だ。そして、今回、高校生の久保裕也が2種登録選手でありながら、天皇杯では3試合に出場して3得点の大活躍だった。

きっと下部組織の育成システムがうまく稼動している証左なのだ。それに、詳しく調査しなければならないのだが、直感で思うのは、出場選手の平均年齢の低さだ。これも、育成システムが功を奏している結果だろう。京セラ、立命館大学、京都サンガの三つ巴で、高校生をサポートしている。勉学と学費は立命館宇治高校、寮と寮費、食費は京都サンガが全面的に負担。練習はサンガタウン城陽にある人工芝グラウンドで、京都サンガのプロの指導を受ける。

ちょっと話は逸れる。

私が京都府立城南高校のサッカー部だったとき、担当してくれた体育の先生で監督なのか部長なのか、世話をしてくれたのは岡本先生だった。先生は、京都サンガの前身の前身の京都紫光クラブの重要な選手だった。キーパーだった。先年なくなられた。岡本先生は旧京都学芸大学特修体育科を卒業して、我が校のサッカー部の面倒をみてくれた。私が秘かに狙っていた大学だった。先生は、釜本、二村、辻先輩など、我が大学の先輩がメンバーの全京都チームのキャップテンだった。当時のキーパーとしては秀逸だった。私の憧れのサッカー選手だった。

それに、宇治は私の高校があったところ。まして、宇治高校と言えば、今でこそ立派な立命館大学の付属と言うことになっているが、私とは人に言えない深い関係ができてしまった。今なら笑い事で済まされることなんだが。私は、故郷の中学校の当直のアルバイトをしていて、思わぬ仕事を請けてしまった。このことは、墓場まで持ち込みますから、もうこの話はなかったものにしてもらおう。

城陽市に育成強化部のグラウンドがあると聞く。この城陽も、私の故郷の隣町だ。

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20120110

朝日・朝刊

準Vチーム 研ぎ澄ました戦術光る

編集委員・潮 智史

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9日、震災の年のサッカーシーズンが幕を閉じた。心躍らせたのは全国高校選手権の四日市中央工と天皇杯の京都。いずれも持ち味を出しながら、決勝で敗れ去った者たちである。

四中工には「3秒コンセプト」なるものがあった。

ボールを失った瞬間から3秒間、1人が奪い返しに走り、周囲は第2、第3の網を張り巡らせて襲いかかる。体に染み込ませた出足の速さで次々とボールを奪い返した。相手が前がかりになったスキを突いて好機につなげる発想だ。

京都はさらに大胆だ。

アイデアマンの大木監督は「攻めは広く」という原則を逆手にとる。ボールをとった選手にあえて味方が寄っていく。敵も味方も近い窮屈な状況でボールを失うのは織り込む済み。相手が攻めに転じる前に再び奪い返して局地戦を抜け出す。えさをまいて相手をおびき寄せ、置き去りにする繰り返し。決勝の公式記録には、こぼれ球を3度拾って先制点につなげた経過が記されている。意図的に、逆襲を仕掛ける状況を作り出すわけだ。

両者に通じるのは、攻守の切り替えの速さを研ぎ澄ました姿。泥臭いハードワークも徹底すれば立派な武器だ。別物と分けがちな攻めと守りを限りなく一体化させる。マイボールの状況を白、相手が持つ時を黒とすれば、どちらのボールでもないグレーの状況を白に近づける。四中工の樋口監督は「体力の強さに対抗するために求めてきた」とその狙いを明かした。

高校選手権で気になったキックのつたなさにも触れておきたい。中長距離になると途端にパスの精度は落ちる。決定力不足というのは、それ以前にキック力不足ではないのか。戦術練習に走り、当たり前の技術やハードワークを置き忘れていないだろうか。これもプロと高校生に共通している。

2012年1月12日木曜日

いざ、鎌倉攻めだ

20111231(大晦日の夜) 鎌倉攻めのベースキャンプは保土ヶ谷区権太坂の竹ちゃん宅だ。

竹ちゃんとは、私の次女の旦那さまだ。今年の初詣は鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝することにした。歩いて行く、全長約20キロ。

鎌倉武士の守護神だ。今年は、肝っ玉を据えて、鎌倉武士らしく毅然と生活に業務に勤(いそ)しみたい。

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竹ちゃんは、朝から自宅で年越し蕎麦を打った。いっぱい作って、身内に配った。当然私にも、食った後、土産にもくれた。腹が減っては戦はできぬ。

18:00 竹ちゃんお手製の年越し蕎麦をご馳走になって、19:30に保土ヶ谷区権太坂の自宅をスタートした。

今月の末には、この家を解体する。改築することになったのだ。今度の施主は、私ではなく次女夫婦だ。どいつもこいつも、不景気面(づら)下げやがって、景気よくバ~ンと建て替えようぜ、と次女が宣言した。あざやかな、世代代わりだ。

去年は独りで天王町から川崎大師まで歩いて行った。酔っ払いながら。一昨年は、竹ちゃんと二人で、保土ヶ谷区権太坂から相模国一の宮の寒川神社だった、当然歩いて行った。このように自宅「から歩いて、初詣をするようになってから、今年で4年目。どれも片道約20キロ前後だから、歩くには適当な距離だ。

今年は、私と竹ちゃん夫婦と小学1年生の晴(私の孫)、それに晴の学友のショーマとその母が同行することになった。1行は6人。余りにも、私が徒歩による初詣の楽しさを強調するものだから、靡(なび)いてきたようだ。楽しいのは、誰だって楽しい。真夜中の街や山は、昼間とは違った相を見せることがある、それが面白いのだ。子どもらには楽しい思い出になる筈だ。時には、人間以外の動物や鳥に出くわすことがある。早朝の鳥の鳴き声は気持ちいい。

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鶴岡八幡宮は、明治維新までは神仏混淆の寺院で、正式には「鶴岡八幡宮寺」といわれ、仁王門、薬師堂、鐘楼などの仏教施設もあったが、明治の神仏分離令で仏教施設はことごとく排除された。

大分県宇佐市の宇佐神宮と京都府八幡市の石清水八幡宮とともに、日本三大八幡宮の一つに数えられている。京都府八幡市は、私が通っていた高校の学校区内だ。一度参詣したことがあって、焼いた雀(すずめ)の串さしが売っていた。骨ばっかりだったけれど、美味かったかな?

ここで一息。

ところで、八幡宮とは? Wikipediaによると八幡神を祭神として祀る神社で、日本各地にある。総本社は宇佐神宮であるそうだ。それでは、八幡神とは、社名の鶴岡は地名? そこが知りたくなる。

八幡神とは=Wikipediaによると、八幡神は、清和源氏をはじめ、全国の武士から武運の神として崇敬を集めた。応神天皇と同一とされる。日本で最初の神仏習合神で、八幡大菩薩とも呼ばれる。

「幡」とは、神の寄り付く旗を意味する。「八」は数多いこと。

鶴岡とは=地名か?

神社への道は、私の考えていたコースに、竹ちゃんのGPS機能付きの携帯電話のナビによるチェックで、かつ相談しながら進もうということになった。全長約18キロ。子供連れで、トイレ休憩をたっぷりとって、1時間4キロのペースで歩いて所要時間は4時間と想定した。一昨年の真夏に私が独りで歩いた時は、歩いている時間は3時間位だったが、休憩に1時間以上とられたのだ。距離の割には辛かったのだ。

権太坂の自宅→旧東海道→環2境木→平戸立体→環2中永谷→地下鉄下永谷駅→日限山→舞岡公園→飛石→JR京浜東北線本郷台駅→横浜栄共済病院→(環4号線)→鎌倉女子大学→(鎌倉街道)→大船警察署→小袋谷→JR横須賀線北鎌倉駅→建長寺→鶴岡八幡宮

晴 186

道中、晴はご機嫌で、舞岡から北鎌倉辺りまで、学校での生活のあれこれを、仔仔細細にわたって話してくれた。朝、家を出てから、夕方児童保育が終わるまで。決められた予定にそって、やること、やらなければならないことを話してくれた。次女にも教えた分数の話で、孫が意外に理解力があることに驚いた。それは、晴が4分の1の50%はねえ、と言い出してから始まった。4分の1の50%は、分数では8分の1になることを、目の前に指で円を描き、その円を円心から4つに切り、それを半分づつに8つに切ったら、どうだ? そしたら、彼は解ったと言った。

鶴岡八幡宮の正面玄関、三の鳥居に着いたのは、新年を迎えるカウントダウンの最中だった。元旦を迎えて10秒後に鳥居をくぐった。源平池をまたぐ太鼓橋を渡った。そこには、もうすでに大勢の参拝する人たちが本殿に向かって待たされていた。多分、5、000人はいたと思われる。これから1時間ほど、そろりそろりの牛歩だ。

よく周りを見渡すと、牛歩の連中のほとんどが若者で、それも20才代から30才代と思われた。私のような60才代の老人はいなかった。我々の世代こそ、この世にもまれにもまれ、神社に足を向けたくなるのではなかったのか。私らの年代の者には時間が早過ぎるのだろう。それに、若い連中の奴こそ、この世の中、不安なのかもしれないな。そうでもなく、夢を追っているから、早く来たのか?

嫌われ者の私は、若者たちに、お前ら、こんな所で、何をしているんだ、もっとやらなくてはならないことがあるだろう、と言いたくもなる。ここは、口にチャックした。龍のぬいぐるみをまとった若者たちの仮装集団の一人に、君たちはどういう仲間なんだ、と尋ねた。彼らは早稲田の学生たちで、ネットで知り合った仲間同士だった。やっぱり、今はネットによる伝達で仲間ができるんだ、と納得した。

そこで、ショーマの母が貧血で救護室に避難した。年末の繁忙の疲れがでたのだろうか。

舞殿を左に迂回して大銀杏(イチョウ)の折れた幹の年輪を横目で見て、本殿への大石段を上る。折れた部分は地面すれすれに綺麗に切りそろえてあった。鎌倉幕府三代将軍源実朝はこの銀杏に身を隠していた甥の公暁(くぎょう)に、斬殺された。公暁は、実朝の父、二代将軍源頼家の子どもだ。この銀杏は、平成22年3月10日の強風で根元から倒れた。惜しまれた。根元ですっぱり切られていたが、その切り株からはいくつもの芽が1メートル近く伸びていた。

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本殿前の階段にたどりつくまでに2箇所で、混雑による事故を防ぐために人数制限用の遮断機があった。線路の踏み切りの遮断機のように上から棒ではなく紐が下りてきて、人の群れを切り割(さ)く。警察官が監視。警察の報道係りの人が、足元や坂のことをハンドマイクで注意をしていた。

孫と娘夫婦は、私の後ろで何をお祈りしようかと相談していた。私の会社は、昨年、いつもの年と違う烈風を受けた。それでも、その烈風も終息に向かっている。そして、新たな局面にチャレンジをし始めた。そして、今年だ。思いは多々ある。私は、家族のこと、先輩後輩友人とその家族、会社のスタッフとその家族、我々の会社を各方面からサポートしてくれている人たちとその家族、取引会社の担当者とその家族、みなさんの健康と、仕事がますます繁盛するようにお祈りした。

娘たちがふんだんにお賽銭を投げ込んでいる前で、私は賽銭なしでひたすらお祈りした。きっと何万人と訪れるであろう参拝者の中で、私ほど多くのお祈りをした者はいないのではないか。欲張りな私を、幸運に恵まれなくても結構ですが、突如とした予期せぬ不運だけはできるだけ少なく、避けられるものなら避けてくださいな。

参拝を終えて本殿から下りた。順番を待つ参拝者の群れは、比較的減っていた。我々が列に参加した頃、カウントダウンの前後が一番混んでいたようだ。それからは、異常でない並みの多さ?で続くのだろう。

腹が空いてきたことと、寒さで、私と竹ちゃんは酒を求めた。私はもつ煮込み600円、ショーマはじゃがバタ500円、竹ちゃんはおでんアラカルト。晴は何を食っていたっけ?

晴 189

その間、次女は、救護室で休んでいたショーマの母を迎えに行った。全員揃ったので、境内を後にした。段葛(だんかずら)を歩かないで、若宮大路を通って鎌倉駅に向かった。若宮大路は、源頼朝が妻、政子の安産祈願のために北条時政に命じ、京都の朱雀大路を模して作らせたものだ。段葛はその遺構だ。造営されたときは海まで続いていたそうだ。段葛のことはよく知っていたので、竹ちゃんに知ったかぶりして話す心算だったが、その機会はなかった。

鎌倉駅を02:??に乗って、俺たちは東戸塚駅から権太坂、ショー-マ母子は保土ヶ谷駅から狩場。

今年も、多難なことは予想される。みんなと連帯を深め頑張ろう。

孫とズーラシアに行ってきた

.20120103(火)。正月の三日目だ。

今日は午後から、次女夫婦の長男・晴と横浜動物園ズーラシアに行ってきた。

さあ、世界の動物のふるさとを歩こう、とパンフレットにあった。

ズーラシア 064

晴にとって、見慣れた動物よりもこのように遊ぶのが嬉しいようだった。

 

晴は午前中は地元のサッカーチームの初蹴り、午後は両親に仕事があって、ジジイである私が子守を頼まれたってことだ。

何をして遊べばいいのか思案の末に思いついたのが、ズーラシア見学だった。開園以来、評判が高いことは多くの人から聞かされていたが、私は一度も行ってないので、良い機会になった。私が、野毛の動物園に子どもを連れて行ったのは、20~30年ほど前のことになるのだろう。

このズーラシアという愛称は、ZOORASIAとは動物園(ZOO)と広大な自然をイメージしたユーラシア(EURASIA)の合成語で、平成8年に市民公募で選ばれた、とズーラシアのホームページで知った。

今まで、仕事で付近に行ったことは何度もあった。子どもたちが学校の行事で行って、その感想を何度も聞かされた。そして、子どもから何度も誘いを受けたが、仕事が忙しいとか、なんだかんだと言い訳をしながら行こうとしなかった。そのうち、子どもたちは大きくなって、動物園の話題は遠ざかった。仕事が面白くて、仕事よりも面白いとは、どうしても思えなかった。

そうして、今回のズーラシア見学ということになった。

ズーラシアの駐車場入り口近づくと、晴は急に元気になって、解説を始めた。ゲートをくぐると、左の方に色んな動物の模型が、あっちこっちにあるんだよ、と言っている間に、その模型の群れを見過ごした。

同窓会 073

立体駐車場はいくつかあって、私は自分が車を止めた所を、注意深く記憶しておかなくてはと、駐車場番号とか棟はどの辺にあるのか、難しい顔をしているのを横目にして、晴は大丈夫だよ、解っているよ、と平気の平左衛門だ。東京は池袋の地下の大駐車場で、自分の車を見つけられなくて、困り果てたことがあったのだ。

アイスと縫いぐるみを買うんだ、と見終わってからの方が楽しそうだった。晴は何回、此処へ来たんだと尋ねると、8回は来ているよ、だった。こりゃベテランだ。晴は小学1年生。

 同窓会 087 同窓会 140

一般の大人600円、子ども(小学生)200円。駐車場1000円

元々、未開の丘陵地だったのを、その地形をいかして作られていた。動物の棲息している地域・気候帯別に、それぞれの環境を再現していた。動物の故郷(ふるさと)の特徴ある風景が作られているってことだ。それは以下のようだ。いただいたパンフレットのまま紹介しておこう。

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*アジアの熱帯雨林=東南アジアの熱帯雨林を中心とした環境を演出したゾーンです。アジア固有の動物や南国を思わせる植物、時折発生する霧やアジア独特の文化に囲まれて、動物の世界へと誘われる最初のゾーンです。

インドゾウ/カンムリシロムク/ボルネオオランウータン/ボウシテナガザル/マレーバク/スマトラトラ/ウンピョウ/オナガザル類(フランソワルトン・ドゥクラングール・ダスキールトン)/シシオザル/インドライオン

 

*亜寒帯の森=北極圏などの極地や山岳地帯、はるかはるか北方の森(タイガ)を演出したゾーンです。厳しい寒さを生き抜く人々の文化に触れることもできる。

ゴールデンターキー/レッサーパンダ/キジ類/ウォークインバードケージ/ユーラシアカワウソ/オオワシ・カモメ類/フンボルトペンギン/ミナミアフリカオットセイ/ホッキョクグマ/トウホクウサギ/シロフクロ

レッサーパンダの前では、女性の飼育員の人が、レッサーパンダについて説明をしていた。体重5キロほどのレッサーパンダが、なんとウンコを2キロもするって話だ。消化の悪い笹を、それを十二分に消化しきれない結果、体重のほぼ3分の1にあたるウンコをする。そして、そのウンコの臭いを嗅がせてくれたのだが、この臭いが、なんと緑茶のような上品なものだった。

 

*オセアニアの草原=まばらに点在するユーカリと草木。オーストラリアの乾燥した草原をイメージしたこのゾーンには、まったく生態の違う2種類のカンガルーが暮らしています。

アカカンガルー・エミューなど/セスジキノボリカンガルー

 

*中央アジアの高地=中国の山岳地帯かあらモンゴル平原のステップまでを一気にめぐることができます。

テングザル・チベットモンキー/トール/モウコノロバ

 

*日本の山里=日本人と動物たちが共存していた頃の、緑豊かな日本の里山を演出したゾーン。

コウノトリ/ツル類/ツシマヤマネコ/ニホンアナグマ・ホンドタヌキ/ホンドキツネ/ニホンツキノワグマ/ニホンザル

 

*アマゾンの密林=アマゾン川流域の沼地からジャングル、そしてアンデスの山脈までを演出したゾーンです。高床式住居や草葺小屋の休憩所がアマゾンの人々の生活様式を伝えます。

オオアリクイ/オセロット/コモンウーリーモンキー/ヤブイヌ/メガネグマ

 

*アフリカの熱帯雨林=アフリカ大陸中央部に広がる熱帯雨林を演出しています。ここには、20世紀になって初めて発見されたキリンの仲間であるオカピなどの希少な動物たちが暮らしています。

アフリカタテガミヤマアラシ/オカピ/ジャングルキャンプ/アカカワイノシシ/チンパンジー

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オカピ

Wikipediaから知識を頂戴した。オカピとは、「森の馬」を意味するそうだ。。脚の縞模様が美しく、森の貴婦人と呼ばれている。20世紀に入ってから初めてその存在が確認された珍しい動物。体型からシマウマの仲間と思われがちだが、キリンの先祖に近い動物。準絶滅危惧種だ、

 

友人に、今日は、俺、初めてズーラシアに行ってきたよ、と話すと、彼は、あれは動物虐待だよ、俺の前ではその話をするなっ、と言葉に怒気が込められていた。それでも、あそこは、それぞれの動物が元々生活していた環境を作っているそうだよ、むしろ観客がその生活を盗み見するようにできてるんだ、と言っても、それでも虐待に違いない、ますます彼は本気で怒り出した。動物を虐待する動物園を、今すぐ閉鎖しろ!友人は、私の前を去るときに、もう一度叫んでいた。

帰って、カメラを覗いてみたが、動物と動物の名前が一致しない。直ぐに忘れてしまうもんだ。今度、行ったときにはメモすることが肝腎だと反省。ぼっけと見過ごすには、もったいな過ぎる。

2012年1月11日水曜日

50年前に卒業した、中学校の同窓会だった

 

(京都府綴喜郡)宇治田原町立維孝館中学校

昭和38年卒の同窓会だ

このブログを書くに、個人情報は無視した。この同窓会を、出席できなかった奴から、レポートしてくれと言われたので、撮ったものをそのまま公開するしかないではないか。仲間の一部から批判が出ても受けましょ。その折は、よろしく。

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1月8日 12:00受付開始

宇治 花やしき(塔の島前) 0774-21-2126

73944

男子・13000円  女子11000円

幹事・森田市治 前田恭子

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維孝館中学校

同窓会では、書き残すような特別なことは起きなかった。平和な宴会だった。六十巻の懐かしい物語だ。

50年前の、みんなの面影を追っては、同じ学び舎で机を並べ、体育館やグラウンドで過ごした様子が思い出され、頭の中では思い出が、走り巡った。一般的に言う、走馬灯のようだ。

これからの稿は、あのときの中学生活のあれこれを想起したことを交えて綴ってみた。だって、この宴会で話したことは、全て昔の思い出話だけだったんだ。

1クラス47人、5クラスだったので、卒業生は全員で230余人。今回の出席者は60人。担任の先生は、山、オ、宮、森、吉先生だったが、森、吉の両先生はこの2年間の間に亡くなられた。

私はこの同窓会には、2度目で約40年ぶりだ。中学校を卒業して10年後の、大学を卒業して西武鉄道の持ち株会社に就職した頃、初めて出席した。その後、ずうっと気にはしていたのだが、仕事にかまけて参加することができなかった。

会場に着くと、世話役が受付をしていた。

直ぐに目についたのが、清さんだ。中学のときもそうだったが、彼はいつもこのような役を自然に担ってくれる。ありがとう、とお礼を言うと、いっつもこのような役をやらされているんや、ありがたいわ、と言ってくれた。彼は野球部で、温厚な性格の少年だった。大きな声を張り上げたり、下品なことは一切しなかった。

前さんが、山岡さんのことを、絵をよく描いているあの人(桝のことだ)が最近会ったときにあなたのことを話していたわ、と私の顔を覗き込んできた。横浜でのたうち廻っている私のことを、故郷の野辺で何を噂していたんだろう。噂話の材料にはこと欠かない男だけれど、ここまで辿り付く噂は、どのようなものなのだろう。桝は俺の実情に配慮しながら話してくれたようだ。

司会の中さんの進行で、先ずは亡くなった先生や同窓生に黙祷を捧げた。中さんは消防署に勤めていたので、黙祷、始め、黙祷、止(や)め、と声を掛けるのも消防隊風だ。

中は、小学生のときから、体力的には優秀で、いいガタイをしていた。本領を発揮したのはソフトボールのバッターとして、その能力は凄かった。長距離バッターだ。中学時代はハンマー投げの選手だった。

幹事の森さんの挨拶は、頭のハゲも立派に進んでいるだけあって、挨拶の内容にも磨きがかかっていた。きっと地元で、あれやこれや役を仰せつかっているのだろう。中学時代から、人望の厚い少年だった。野球部員でもあった。横浜から、ヤマオカが来てくれた、と皆に報告してくれた。私は、みんなに頭を下げて、元気なオジサンを印象付けようと胸を張った。

俺にも苦しいことがいっぱいあって、泣きそうになることもある、とは久しぶりに会ったみんなには言えなかった。此処は、堂々としてなくてはイカン。私の顔を不審そうに、怪訝そうに、不思議な奴を見るような目つきの人もいた。私のことを正確に思い出していなかったのでしょう。

そしてオ先生の挨拶、山先生の音頭で乾杯(かんぱ~い)をした。

後は、シッチャかメッチャかの飲めや喋れやの大宴会だった。

料理はさすが、宇治の高級料亭・「花やしき」だ。郷の口の並薬局の並の母親の妹か姉が、この料亭の女将さん、と教えられた。それにしても、料理が余り過ぎて、横浜なら袋やケースに詰めて、持って帰れたのに、悔しい限りだった。

オ先生は英語の先生だった。それまでの英語の先生は荒先生で、この先生の英語はヒヤリング能力に乏しい私にも、東南アジア系発音で聴き取りやすかったが、このオ先生の英語は、実に聞き取りづらかった。本物の英語に近かったのだろうか。大学受験に、今のようにヒヤリングが受験科目にあったならば、私は駄目も駄目、チンプンカンプンだったことだろう。

どのテストにおいても、採点後のテストを生徒に配った後、先生は、今度のテストでサボった奴は、「ヤマオカ!!」と教壇の前まで私を呼びつけて、桜の棒で、コツ~ンと頭の天辺を叩くのだった。私は苦笑し、先生は気持ち良さそうに、皆はゲラゲラ笑った。何故か、毎回、私がこの洗礼を受けていた。今回、この話を先生にしたら、全然憶えていなかった。やられた方は、いつまでもしつこく憶えているもんだ。

山先生は、理科の先生だった。私は理科が大好きで、学校の授業は物足りなくて、自宅では難問の問題集をこなしていたので、授業には身が入らなかった。それでも、山先生の黒板に書く字の巧さに感心していた。漢字の書き順が丁寧で、高校に行ってからも、習字のときには先生の書き順を思い出しながら書いたもんだ。

同窓会 098

谷さんはソフトボール部だった。私が中学時代、淡い恋心を抱いた初めての女性だ。

20年ほど前にこの同窓会の名簿を作り直して、荒木の福と谷さんに渡したことを憶えている。その日は、福の自宅を兼ねた茶問屋で、美味い宇治茶をご馳走になってから、谷さんの嫁ぎ先に行った。

福とは中学時代はバスケットボール部で、高校生になってからはサッカー部で一緒に活動した。高校生のとき、二人でホンダのカブに乗って伏見ミュージックにストリップを観に行った。女性のモノがよく解らなかった。名前も同じ「保」だった。1年間ほどでサッカー部を辞めた彼は、ワルとエレキバンドのグループに流れていった。

その後、彼とは帰郷の際、城陽の彼の馴染みのスナックによく行った。私に金を借りたかったようだ。そして何年か後に自殺した。

谷さんは高校を卒業して役場に勤め始めて、間もなく今のご主人さんと結婚した。当時、私には、谷さんの夫になる資格はなかった。私は大学で、サッカーと先の見えない格闘をしていた。何も知らないうちに、請われるままに結婚したことを、悔やんではいなかったが、何となく他の選択肢もあったのでは、と思っている節が見られたが、そんなことはない、そういうのが本当に、幸せなケースなんだよ、と言った記憶がある。普段は夫婦二人っきりだが、正月や夏休みには、子ども夫婦や孫が来てくれるんやわ、この正月は12人やった、といとも楽しげだった。いいおばあちゃんをしているようだ。

玉さんは、教育長の娘さんだった。高校に入ってからも、私のサッカーの試合には、友人を何人も引き連れて応援に来てくれた。今は、顔がぽっちゃりになって、表情も優しくなって、いいお母さんをしたんだろう、と思った。

ソフトボール部の吉さんは、奇麗な人だった。でも、私は、女の人の顔をそんなに美醜を気にして見る方ではなかったので、会話の少なかった人のことは余り憶えていないよと言ったら、今さんに、あなた、こんなに綺麗な人を知らなかったの、と本人を前に叱られた。

アヤちゃんの家と、私の生家とは遠い親戚同士だ。小さいときから、何かと顔を合わせていた。でも、一緒に遊んだことはなかった。養子さんを向かえて頑張っていたことは聞いていたが、何やら悲しい出来事があったようなのだが、それを未確認だったので、その事には触れなかった。本当はゆっくり話したかった。

 同窓会 081

 バスケット部のキャップテンだった塚さん。寿司屋を経営しているとは、偉いもんだ。昔の可愛い坊や然とした表情はなく、包丁一本を晒しに巻いた生活は、さぞかし厳しいのだろう。顔も口調も寿司職人だ。寿司を握る職人は、気風(きっぷ)が好くなくては、ネタまで腐ってしまう。いつまでも、その気風を忘れないでやってくれよ、キャップテン。

種さんと言うよりも、松っちゃんだ。長年、地元、郷の口の郵便局で働いて、今は、宇治の何とかに週3日ほど仕事に行くんだと言っていた。松っちゃんとは小学生のときから仲がよかった。いじわるとか、人が嫌な思いをするようなことは絶対しない子だった。彼の母親の顔もはっきり憶えている。赤い郵便局のバイクで走っているのを、帰郷の際、よく見かけた。

この郵便局には、私の従兄弟の垣の清ちゃんや、同窓生の福さん(善ちゃんの奥さん)も勤めていた。この郵便局の窓口で、私の父親や母親が、わからんちんなことを言って、随分悩ましたこともあった。

 同窓会 105

 

名村の森さんは、利発な子どもだった。魚屋さんの娘さんだった。4人姉妹の3番目。バスケット部だ。勉強も良く出来た。当時、ピアノを弾ける人は私にとって、異星人だった。後記の吉先生は、彼女の義理のお兄さんに当たるのだ。彼女の口からも、先生批判の舌鋒は鋭かった。今でも、その利発さは衰えていない、表情豊かにみんなと会話を楽しんでいた。

郷の口の森さんは、親子二代に亘っての自動車屋だ。表情は変わらず、穏かだ。子供の頃と全く同じだ。私の席の後ろの方に座っていて、先生に質問されて答えられなくても、微塵も動揺しなかった。大人(たいじん)だ、子どもにして既に達観していたのだろうか。

安井は宇治田原のお茶の製茶場の経営者の一人だ。この製茶場は売上げも相当なもので、その購入客を訴求するための宣伝チラシの制作を統括していると言っていた。費用対効果のことを考えると難しいと苦労話もしていた。

高校卒業の後は、大学でのことか、そのことは確認しなかったが、演劇に走ったらしい。私も、東京演劇アンサンブルという劇団とは、長く深い付き合いなので、その世界での苦労は、どの役を担うにしても並大抵のものではない。彼は、演劇で何を担当しようとしていたのだろうか、俳優、演出、脚本、運営。この辺りの話をもっとしたかった。

禅定寺の谷のオヤジと私の父は同級生だった。中のオヤジもだ。谷の生家は肥料やプロパンの販売をしていた。

 同窓会 096

郷の口の高さんはバスケット部。背が高かったので、大活躍していた。エースだった。

生家は家電屋さんだった。教室での席は、いつも後ろの方だった。今回、顔を合わした時、私は不覚にも、あなたのことを知らないと言ってしまった。彼女にひどく叱られた、ヤマオカさんは私に気があったではないか、と。そうか、今でも多情多恨で苦労は尽きないけれど、幼少のそのときにすでにその性情の兆しはあったようだ。

同窓会 091 

荒木の芦は、医者のお父さんを早くに亡くして、母と兄の三人暮らしだった。小さい頃、日本脳炎か、何かで小児マヒを起こし、どちらかの足をびっこしていたが、運動をすることで完全に克服した。ソフトボールでピッチャー役を自分のポジションのようにしていた。勉強のよくできた子どもだった。同窓の芦、俺、馬、戸の4人は、何故か揃って二浪することになった。当時、二浪までは普通だった、と認識していた。彼の兄と私の次兄は同じ年だった。

この4人は、それぞれ個性があって、進路も目指すことも違っていた。私は、巧くいけば、強い大学のサッカーチームに所属したいと思っていた。できたら、早稲田だった。芦が立命館大学の4年生のときだったろう、当時長髪のスポーツ選手が珍しくてそのことの新聞記事を、大学生協の食堂で見つけた。サッカー界には長髪の選手が出てきて、古河の荒井、大学のサッカー選手の中では、早稲田の山岡などは、髪を紐で結んでいるぐらいだ、そんな記事だった。掲載した大阪日日新聞とかの新聞を送ってくれた。

この4人で、母校・維孝館中学校の宿直をアルバイトした。吉先生の計略だ。先生は、宿直室ではなく、自宅で女房を抱いて寝たかったのだ。持ち回りで、先生たちの代わりに当直したのだ。アルバイト料は一晩幾らだったか記憶にない。当直の夜は、本来勉強しやすくなるだろうとの吉先生の計らいだったけれど、酒を飲むことを覚えることになってしまった。一生の不覚?それともなるようになったのか。

卒業後、住民の糞尿を扱う役所に勤めて、給料が他の役所よりもよかったのは、それは臭い、汚いの特別な職務なので当然と言えば当然なのだが。俺は彼に苦言を吐いた。現場の人は大変だが、お前は机に向かっているだけで、臭くも、汚くもないではないか、それは可笑しいぞ、と。

今さんは、ソフトボール部の過激派だ。同窓会の当日は、彼女のことをはっきり思い出せなくて、嫌な思いをさせてしまった。彼女のことを思い出せない私を、痛烈に罵倒した。スマン。彼女は、宴会に対しても、激しい言動で盛り上げてくれた。二次会もそうだった。彼女の周りには厳戒体制が必要と思われた。

同窓会 090

馬は、私の結婚式で世話役をかってくれた仲間の一人と結婚した。洋子ちゃんという京都は西鴨の女性と縁があった。中央大学時代には、私の大学のサッカー部のグラウンドにも来てくれた。卒業後は日本でパン業界最大手のヤマザキに入社した。もっと出世する道もあったのだろうが、彼は彼なりのサラリーマン生活を選んだ。彼は自分の能力をわきまえていた。

小学生のとき、よく勉強のできた子どもだった。児童会の重要なポジションを担っていた。何役だったか、忘れた。クラスでは、私の後ろの方の席だったが、先生の質問に、手を真っ直ぐに高く上げて、もじもじする私を圧倒した。こんなに自信をもって、生きられたらさぞかし楽しいだろうな、と羨ましかった。生家は、老舗のお菓子屋さんだ。お兄さんが経営責任者、二番目のお兄さんとお姉さんが、裏の工場で和菓子を作っていた。彼の母は、私が買い物に行くと喜んでくれた。だから、母親にババト(馬の生家の店の屋号)に行ってくれと言われるのが嬉しかった。

二年間の浪人生活時代は、4人とも、心中落ち着けなく、不安だった。しょっちゅうミーチングしていた。烏合。それでも、4人は、試験の傾向と対策なんてそっちのけ、あそこのあの娘(こ)はどうだこうだと、女性のことばかりを話して、時間を過ごした。

小のことは、今回の宴会でも、いの一番に私に反応してくれた。私らが小学6年生の頃だったか、彼は私の頭をバットで殴ったのだ。心配しなさんな、教室が荒れていたわけではない、ソストボールの試合をしていたとき、私はキャッチャーで彼はバッターだった。彼は、ボールを打とうとしたとき、ボールのスピードが遅かったから、タイミングを計るために後ろに下がって打ったのだ。そのときのキャッチャーの私は、遅いボールに前のめりに構えた。そして、私の頭は、彼の振ったバットに当たったのだ。

頭の中は真っ暗、真っ暗闇に星がキラキラいくつも輝いた。暫らく、ホームベースに蹲(うずくま)った。多分、5分ぐらいは動けなかった。暫らくして、頭を撫ぜても、血が出ていない。目をぱちくりしてみたが、風景がぼんやりながら見える。どうも、大したこともなさそうだ、と自覚したときは嬉しかった。蹲っていたときには、これは取り返しのつかないことになってしまった、と心配だった。その日、担当の中村先生におんぶして貰って、自宅に帰った。そのときの先生の背中の温もりは今でも、はっきり思い出せる。

そのバッター、小を見つけたとき、その話をし出したら、彼にもよっぽどのショックだったのだろう、よく憶えていた。ニコニコして、私の話を楽しい御伽噺でも聞いているような顔だった。

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同窓会 086 

230余人の同窓生のなかで、私はハルと一番長く付き合ったし、彼女にとっても、私との付き合いはきっと一番長いと思う。そして、これからも、彼女との付き合いは続くだろう。それほどの仲なのだ。彼女とは、遠い遠い親戚の仲でもある。

私が小学3年生だった頃から、近くの大辻商店で、春、夏、年末年始の休暇にアルバイトをしていた。大辻商店は雑貨屋さん。大辻さんも、ハルも、私も、遠い親戚付き合いだった。小遣い稼ぎということもあったが、家族のみんなが働いていて、私も働きたかった。ならば、百姓仕事を手伝えばよかったのではと、言われそうだが、百姓仕事は幼い子どもにとって、なかなか、参加するには難しかった。ハルとはその大辻商店で働く同僚だった。

彼女の仕事を同僚として助けた。彼女に、お金の計算の仕方、お釣りの出し方、お客さんとの接触の仕方を教えた。私は私で、この店の利益を、売り上げを伸ばすことに、小学生以上の働きをしたことを自負する。当時、月掛けが普通だったので、その集金の回収率は、経営者の善さんを驚かせた。また、リヤカーに、洗剤や歯ブラシ、その他の日常品を積んで行商に出かけた。私の顔を見当てた人は、何かを必ず買ってくれて、村を一回りすれば持ち出した商品はほとんど売り切った。

それから、私は大学に行くために宇治田原町を離れることになったが、帰郷の際必ず寄るのだが、この店に顔を出すと必ずハルがいて、近所の出来事や、同窓生たちの動静を色々と話してくれた。

同窓会 085

禅定寺の沢さんは、よく勉強のできる人だと聞かされていたが、私と会話をした記憶がない。今回も話す機会に恵まれなかった。

並薬局の並の端正な顔立ちは、ちょっと私らのように平凡ではない。男前と言えばそうなのか、私には彼のような端正な顔立ちの友人はいなかった。深く付き合ったことがことがないので、彼の人格その他を論じることはやめよう。

同窓会 079

岩山の谷さんは、俺よりも一足先に東京の大学に行った。私の父は京都大学と東京大学と日本大学は知っていて、難しい日本大学によく入ったもんだ、と誰かから聞いてきて、すこぶる感動していた。私が入った大学の名前は、何度教えても憶えられなかったようだ。私が入学した学校を案内して、新幹線で東京駅を去るときでも、私の大学をあの大学と言っていた。

彼は野球部。みんなに好かれる人物だった。今回、私に名刺をくれたが、何を何処で、働いているのか話せなかった。残念だった。

 青さんは着物姿だった。バスケット部だ。元々子供の頃から痩せていたが、青さん、ちょっと痩せ過ぎやで、と失礼を省みず、そんなことを言ってしまった。子どもの頃、彼女は、綺麗な母と二人で生活していた。私のもつ家族のイメージとは違って、何か不幸めいたことを、子ども心に感じていた。彼女も綺麗だったので、さぞかし、彼女のお父さんもきっと男前だったのだろう。お父さんはどうしたのだろう、なんて考えていた。

同窓会 077

荒木の岡さんのことは、未だに思い出せないままだ。年をとってから美人になる人もいる。チャーミングな女性だった。私は、女の人とはそれほど親しくはなかったので、正直女の人の顔はよく見なかった。

老中の森さんは、私の生家の近くに住んでいる。背丈が低くて可愛い顔が印象的だった。

同窓会 087

垣は、長距離が強かった。野球部でもあった。なんで、あんなに速かったのよ、と質したが、頭をひねっているばかりで、何も答えてくれなかった。昔のそんなことには触れて欲しくないようだった。でも、それにしても速かった。宇治田原町から京都府の大会に出た、珍しく優秀な長距離選手だったのだ。

同窓会 094

榎は、静かな生徒だった。言葉遣いといい、その所作も品があって、きっと豊かな上品な家庭の息子さんだったのだろう。

同窓会 102

奥は、消防署職員だった。同窓会の当日は、彼は我々の宴会場の隣で、消防署の新年会をやっていて、その会を終えて即、この同窓会に馳せ参じてくれた。そこで、鱈腹飲んできたのか、来たときには随分気持ち良さそうだった。二次会のカラオケ会場では、彼は綺麗な玉さんを捕まえては、人が羨(うらや)むような。濃厚なダンスをしてみせた。相手をさせられた玉さんは、戸惑っていた。

俺はこの時間になって、大学時代の友人の金の所へ行かなければならないことに気づいた。みんなにさよならも言わずに、こっそり出て京阪電鉄の宇治駅に向かった。気持ち好く、酔っていた。

写真には写ってないが、私の記憶にくっきり残っている男がユキノブだった。苗字が出てこない。彼は野球部でピッチャー、エースだった。維孝館中学校は田原小学校と宇治田原小学校の卒業生が揃って全員が行くのだが、中学に入学する時には、互いの卒業生を気にするものでした。私にとって、一番気になっていた奴が彼だった。

会ってみて、直ぐに気分のいい奴だと思った。こいつなら、女の子にもてるのは当たり前だと納得した。それから、教室の中でも、先生の質問に答えられないことがあっても、巧い具合に処理していた。

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同窓会の翌日のこと。

恩師・吉岡由造先生が昨年、年末に亡くなった。そのときは仕事が極端に忙しい時期だったので、葬儀には参列できなかった。

病気が病気だったこともある、ご本人の生来の性格にも問題があったにしても、身内の人たちからは、余りよく思われないまま亡くなったことが、不肖の教え子には、気の毒にも、不憫にも思えた。療養の態度が良くなかったらしい。

お前は遠くに居るから、それに実態を何も知らないから、そんなにのんびりしたことを言っていられるんだよ、周りの人は大変だったようだよ、と友人に叱られた。

3年前に病院にお見舞いに行ったきり、最後の挨拶のないままだったのが、この正月、気になってしょうがなかった。

それで、今回の同窓会のために帰郷した折、数人で挨拶にご自宅を訪ねた。が、留守だったので、又の機会に先延ばしをすることになった。先生に縁の深い連中で、奥さんを囲ってプライベートな偲ぶ会をしようと、勝手に連絡をしないまま計画したのだ。前もって、奥さんに連絡したら、断れることが大体想像ついていたから。私は、一番可愛がられていた。

生の供養には、酒があって、過去の思い出話でもあれば、奥さんは突然のことだから、しょうがないわねと許して貰えるんではないかと、この年になって、その失礼ぶり、荒唐無稽ぶりは増すばかりだ。面の皮が角質化したようだ。そのように行動して、この計画は頓挫した。

2012年1月4日水曜日

頂点はゆずれない、女子サッカー

いきなり朝日新聞(20120101)のはからいだ。

昨年のW杯ドイツ大会に続き、今年のロンドン五輪でも金メダルを狙うサッカー日本女子代表「なでしこジャパン」、と最大のライバルになるのが五輪3連覇を狙う米国だ。

急成長を見せている川澄奈穂美(26)と、世界の点取り屋と言われる米国のアビー・ワンバック選手(31)が、紙上での対談をした。

ワンバックさんは王者・米国チームで一番コワイ選手だ。川澄さんは昨季のなでしこリーグで得点王になり、最優秀選手にも選ばれた。

二人のコメントを紙上から乱暴に部分的に抜粋した。

ワンバック~

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過去2大会でも優勝しているので、ロンドンでも金メダルを防衛したい。まずは五輪予選を勝ち抜かなければならない。今は、予選突破が一番の目標です。現世界王者の日本が一番のライバルになる。それからスウエーデンも、私たちと同様フジカルが強くスピードもある。

日本は過去10年間、決定力さえあれば侮れないチームになると言われ続けてきた。でも、ゴール前やペナルティエリア内では礼儀正しくしているようで、シュートも打たないし、リスクも冒さなかった。そんな中で、点を取ろうと意気込む若手が出てきた。それが日本のチームを変えたのではないか、と思う。

緊張に打ち勝つことが大事になる。W杯決勝の前半では何人かの選手が緊張していて、最初の20分間までにものにしておくべきチャンスを決めることができなかった。今度は最初から強く激しくプレーしたい。

 

川澄~

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日本は世界のFWと比べると、1人で打開する力はまだ足りない。その代わりにチームとしてかみ合っている。みんなが献身的にチームのためにプレーできる。

ワンバック選手はすごいだけではなく、「いい人オーラ」も出ている。W杯決勝で日本が勝った後、悔しいはずなのに、沢さんのところに行って、「あなたを誇りに思う」って伝えていた。あのスポーツマンシップはすごいし、かっこいい。

なでか負ける気がしなかった。なんでだろう。根拠があるわけではないんですよ。延長戦でワンバック選手に勝ち越し点を決められた後、永ちゃん(永里優季)と2人でキックオフをしました。私が「このくらいの方が楽しいよね」って言ったら、永ちゃんも笑いながら「うん」と言ってました。最高に楽しかった。疲れなかったし、ずーっと試合をしていたいと思った。不思議な感覚でした。

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それにしても、なんちゅうことだ。

勝ち越されて、それでも川澄と永里が「このくらいの方が楽しいよね」、「うん」と会話を交わしてしてキックオフをしたなんて、俺にはどうしても考えられないことだ。余裕ではない、火事場の糞力? 開き直りでもない、これって、ちょっと奇妙すぎる。私たちが不思議千万な感慨に陥るのは極、当然だとしても、当の本人たちが不思議な感覚だったとは、全く不思議だ。こんなことは、今まで聞いたことがない。

そして、なでしこは猛烈に反撃に出た。そして神業(かみわざ)的な沢のシュートが生まれて、同点に並んだ。この沢のシュートは、右足のアウトサイド。蹴ったボールは、アメリカの守備陣の選手の腰部分に当たって、コースを変えた。アウトサイドのキックだったので、相手はコースを抑えられなかった。それに、スピードのあるボールが腰辺りにきたら、どうしても避けられない。当然、キーパーもコースを読めなかった。

あの時は、彼女等は純粋に戦うことを楽しんでいたのだ。

対談から少し外れるが、あのドイツW杯決勝戦のPK戦で日本が勝利した瞬間、日本チームは一斉にベンチに走り出したが、独り、アメリカの健闘を讃えるために、敗戦に打ちひしがれるアメリカチームに寄り添った宮間あやの姿や、今回のこの紙上対談で知ったことだが、ワンバックが沢に、「あなたを誇りに思う」と祝したことに、スポーツの持つ凄さ、崇高さを感じる。

万感!!スポーツの魅力に圧倒された試合だった。

2012年1月2日月曜日

雑煮に初挑戦だ

鎌倉の鶴岡八幡宮への初詣を終えて自宅に戻った。缶ビールを飲んで焼酎を何杯か飲んで、寝て目が覚めた。年は家に戻る前から変わっている。酒の酔いが冷め切らないまま、ようく確認したら、今日は正月の1月1日の元旦なんだ、その10:30だ。

布団の中でまどろみながら、今年最初の日の朝食は、どうしても雑煮でなければならない、と考えた。ようし、雑煮を作るぞと意気込んだ。が、毎年正月に用意されたものを食することはあっても、具体的に、自ら作るということになると、何をどうすればいいのか、咄嗟には思いつかず、じっくり整理しながら考えた。年末に特別な食事の準備はしていなかった。

鎌倉からの帰途、空は曇っていたが、今、朝陽が部屋の奥まで差している。

サントリー ザ・プレミアム モルツ黒ビールのプルトップを開けた。新年を祝って、会社のスタッフに、会社を支えてくれている皆さんに、先輩後輩友人たちに、それぞれの家族に、そして私自身にも乾杯!! 格別、うまい。

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明けまして、おめでとうございます。今年もよろしく。声を出さずに大きく吼(ほ)えた。

調理を前に風呂に入って、湯上りに、スポーツウエアーの上にセーターを、その上に母校のサッカー部のユニフォームを着た。気合を入れたのだ。これ、私のいざというときの儀式だ。それから、ちゃちゃん、ちゃちゃん、ちゃちゃちゃあ~ん、ちゃ ちゃ ちゃん ちゃ~ 母校の校歌を口ずさんだ。

さて、冷蔵庫の中の在庫は? 倉庫にしているパイプスペースの中には何があったか? スープは各地で色々あるようだが、私が育った田舎(京都府宇治田原町)では白味噌仕立てだ? 味付けはいつも使っている昆布とかつおのだしの素で大丈夫だ。

主たる具は根菜だなあ、じゃが芋、人参、里芋、大根はある。早速、カレーのときのようにカットして鍋に入れた。暮れに使わなかった鱈(たら)の切れ身も入れた。牛蒡(ごぼう)があったのに見逃した。水を入れて煮出したが、この作業を始めてから、どうしても気になってしょうがないことは、汁(つゆ)をどうするかだった。取り掛かった時は、漠然と澄まし汁をイメージしたが、白味噌がちらちらして納得できない。雑煮を正月に作るなんて、予定になかったから白味噌は買ってない。だからといって、代用に普通の合わせ味噌を使うと、ありふれた味噌汁になりかねない。

白い汁のイメージから豆乳を思いついた。料理を一休みにして、豆乳を近くのスーパーで買ってきた。煮上がってきた鍋を覗いて物足りなさを感じたので、明日の晩飯用のおでんから、さつま揚げとがんもどき、はんぺんを適当に取り出して加えた。そこに焼き豆腐も入れて、牛乳も少し入れた。

塩とだし、豆乳を入れて加熱。切り餅を入れて電源を切った。豆乳は煮込むと分解してしまう。見た目は、立派な白味噌仕立ての雑煮のようだ。味は抜群、味付けは手馴れているんだ。

どうでしょう、私のお雑煮は?

ご飯は生家から送られてきた玄米だ。

写真を撮っておけばよかったが、失念した。見た目は、酒粕(さけかす)汁のようでもあった。

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白味噌お雑煮をお分かりにならない方のために、京都・九重味噌製造さんのネット広告の「白味噌お雑煮」を拝借しました。白味噌を購入の際には、是非、九重味噌製造さんのものをお買い求めください。

2012年1月1日日曜日

「X’mas」って、なんだ?

仕事で移動中の車の中、急に思いついて運転中の中さんに、中さんよ、クリスマスが何で「X’mas」なの? それにXって一体何や、と疑問をぶつけた。

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(Wikipedia  キリストの降誕のお祝いに東方の三博士が来訪した様子を描いたカード)

中さんは、奥さんも子どもたちもクリスチャンなのだ。彼は無宗教。彼は何かと知識が豊富で、私が日常疑問をもったことに、いつも的確に答えてくれる。それに英語が堪能だ。今回もいつも通り、彼に不躾(ぶしつけ)に疑問をぶつけた。

ところが、何でも明解に答えてくれる中さんが、暫らくの沈黙の後、何なんでしょうねと言いながら、自分のパソコンで調べだしたら、色んなことが解りだした。私たちが今まで大きな過ちをおかしていたことに、今さら気づいた。

クリスマスは、イエス・キリストの降誕を祝うキリスト教の祝日だ。「神の子が人となって生まれてきた」ことを祝う。

だから、無宗教の我々の誕生日には、ケーキにローソクを立てて、ハッピー、バースデイ、ツー、ユウって合唱するが、クリスチャンたちは12月25日に、ハッピー、バースデイ、ツー、Jesus(ジーザス)って歌うらしい、と聞いた。成る程と首肯。

クリスマスの英語表記はChristmasで、「Christ(キリスト)のmas(ミサ)」だ。

そして、Xmasとも表記する。このときのXはChristの略字で、X’masのような英語はない。

Xmasの文字を見た日本人の誰かが、この綴りにはどうしても納得ができなくて、何かが抜けて、何かが欠けて、間違っているんではないかと思い込んだ。そいつは、アポストロフィの「’」を入れて、X’masを勝手に作り出した。それからは、ご覧の通りだ。子どもの頃、百貨店の装飾や商店街のショーウンドウなどでも、X’masは使われていた。

X’masは実に日本人的な細工の産物だった。これは一連の和製英語と考えた方がいいようだ。そのことに、今まで疑問を持ったことはない。

序に言わしてもらえれば、年末のこの時期のLEDの光を使ったイルミネーションことだ。

大型で大量のイルミネーションが各地の商店街や大通りを、不思議な空間に変えて、非日常感を楽しませてくれている。それはそれなりに面白い企画なのだ。

そこで、ちょっと勘違いしたオッチョコチョイも出てきた。静かな住宅街の中で自分の家の周りに実に下品な仕掛けをしているのを見受けることが多くなった。嫌が上にも見せ付けられて、暴力的とは言わないが、その光の装飾は個人主義的過ぎるぞ。可愛い、ホッとするような飾り付けなら兎も角、下品の上塗り競争だ。これも先に書いたX’masと同様、間違っています。

友人にそんな話をしたら、今年はそれでも大人しい方だよ、この2,3年の調子で増えていったら、俺だって怒り出すところだった、と言うではないか。

自分の家の中なら、如何様に何をしようが勝手 なのです。気をつけましょ。