2012年2月15日水曜日

紫煙と文士たち 林忠彦

 

20120215 今日は水曜日で、弊社の営業部の休日だ。

スタッフの細が、磯子区丸山で検討している物件を、朝一番で下見をした。それから西区境之谷の新築現場を見て、友人の和さんに、仕事で荷物を運ぶのにワゴン車を貸してくれと頼まれていたので、9:00に会社に着いた。

休日だけれど、川崎市麻生区東百合ヶ丘の中古住宅の売却の契約があるので、営業の佐だけは出勤だ。

MX-3500FN_20120218_082034_001

昼少し前に、新聞のスクラップを終えて、今日最大のイベント『「紫煙と文士たち」林忠彦 写真展』を観に、渋谷にある「たばこと塩の博物館」 4階特別展示室に向かった。

この写真家・林忠彦氏には、とりわけ作家たちのポートレイトを撮影したものに秀作が多いので有名だが、この写真展を主催しているのが日本たばこ産業の「たばこと塩の博物館」で、当然といえば当然のことなのかもしれないが、被写体の作家の多くが紫煙をくゆらせている。煙草屋としての煙草礼賛は当たり前だのクラッカーだ。実際に、昔、煙草の専売公社だったときに、彼に宣伝用の煙草を撮ってもらっていた。

どうも、この辺だなあ、煙草屋と文士と、この写真家の関係は。

私が大学生だった4年間、太宰治と織田作之助、坂口安吾、田中英光、それに檀一雄を徹底的に読み耽った。今回、この企画を知った時から、会場に足を入れるまではそわそわした気分だった。四(よっつ)昔前の、恋人に会う心境だった。

珠玉の小説「オリンポスの果実」の田中英光が、敬慕していた太宰を真似て、同じバー「ルパン」のカウンターの前で、健康的な表情で写っていたのが、印象的だった。そのカウンターで撮られた太宰は死んで、織田作も死んだ。同じ場所で撮ることを嫌がる林忠彦氏に、自分も同じ所で同じ様に撮って欲しいと田中英光は強くせがんだ。幼心をも併せ持つ大男だった。写真家は断れなかった。その後、田中英光は太宰の墓の前で服毒、手を切って自殺した。

田中英光は、早大在学中に、ボートの選手としてロサンゼルスオリンピックに出場している。向かう船上で知り合った走り高跳びの秋ちゃんとの淡い恋愛を小説にしたのが「オリンポスの果実」だ。この題名は、太宰が考えた。文学作品としての評価は私にはお構いなし、夢中で読んだ。私も同じ大学で、どっぷりサッカー部漬け、田中英光のような恋愛に憧(あこが)れていたのだ。ボートは気で漕げ腹で漕げ、だ。

林忠彦の写真として、この無頼派シリーズ以外も秀作揃いなのだろうが、私には、彼ら以外に関心がない。1時間ほど、彼らの写真の前、後ろ、横で、しゃがんだり、背伸びしたり。写真家の作家たちとの縁だとか、関係だとか、作家の性格や癖、撮った前後の様子、私生活の一部などの林忠彦氏の小文が添えられていた。

きちんと読んで、私の中に、長く眠っていた無頼派を眠りから覚めさせようと努力した。変な奴と思われないようにウロウロしては、彼らの前に戻ってきた。そんなことを何度も繰り返した。

CIMG8982

展示室内は、写真撮影は禁止されていたが、上の写真だけは、この椅子に座って撮ることはいいですよ、と案内されていた。

私は、写真を観に来た人に撮ってもらうわけにはいかないので、田舎から出てきたもんで、と1階の受付の女性に言って、撮ってくれるようにお願いした。快く了解してくれた。どうしても、記念写真にしたかった。

林忠彦。昭和を代表する写真家の一人だ。戦前から報道・宣伝写真のカメラマンとして活躍し、終戦後は混乱期の街頭やそこにたくましく生きる人々を捉えた写真、小説家などのポートレイトを撮影し、人気写真家として知られるようになった。特に戦後の文壇を賑わせた「無頼派」の作家たちの写真は、林忠彦の代表作として知られるのみならず、多くの人が思い浮かべる個々の小説家のイメージにもなりました。

銀座のバー「ルパン」の狭いカウンター席で時代を謳歌するかのような風貌の織田作之助や太宰治、雑然と散らかる書斎でレンズに対峙する坂口安吾の姿など、背景も含めて多くの人の記憶に残る作品群になっています。(たばこと塩の博物館のホームページより)

 

林忠彦さんのそれぞれの作家の写真に添えられていた小文は、朝日新聞20120203に広告の一部として載せられていたので、その文章をここに転載させてもらう。林氏の「文士の時代」から抜粋したと記されていた。

 

MX-3500FN_20120215_163705_001

織田作之助

織田作之助は、僕が文士を撮りつづけるきっかけになった作家ですが、彼が酒場「ルパン」に来はじめたころ、僕には彼が実に異様に見えました。言葉は大阪弁だし、当時珍しい革のジャンパーを着込んでいるし、それで長髪で、顔面蒼白で、なあんとなく昔の作家とちがうイメージがあふれていましたね。チラッチラッと気になって見ていると、やたらに咳き込む。ハンカチにパッと咳き込んで痰を出すと、血痰が出ているように見えたんですね。あっ、これはいけねぇな、と思いました。この作家は、あまり長くないから撮っておかなければ、と思いました。

 

 

MX-3500FN_20120215_163532_001

太宰治

ある日、織田作之助をバーのカウンターで撮っていると、反対側に安吾さんと並んで座っていた男が、ベロベロに酔っ払って、「おい、俺も撮れよ」って、わめいていたのです。うるさい男だなあと思って、「あの男は一体何者ですか。うるさい酔っ払いだなあ」って訊いたら、「あれが今売り出し中の太宰治だよ。撮っておいたら面白いよ」って、誰かが教えてくれたのです。四十年経って、いまだにこれが僕の代表作といわれているのは、なんとなく成長していないなあという気分があって、いつも気恥ずかしく思いますが、やっぱり写真っていうのは、ある程度、材料のよさ、モチーフのよさが決定するところがあるんですね。撮る側よりも写される側の力が強いっていうことの証拠でもありますね。本当に、この太宰治の一枚の写真ぐらい不思議な写真はありません。

 

 

MX-3500FN_20120215_163604_001

坂口安吾

部屋中、一センチはほこりがたまっていました。万年床で、綿がはみ出して、机のまわりは紙クズの山。そのなかに洋モクはどこにあるのかって懸賞がついたものです。でも、原稿の文字は実にきれいでした。さすが作家とは違うものだとぞくぞく興奮して、崩れそうな出窓の上に乗っかかると、グラッ、ミシミシって折れそうな音がしましたが、夢中になって撮りました。そのときのことは安吾さんが随筆に書いています。

 

MX-3500FN_20120218_082053_001

2012年2月13日月曜日

快晴、楽しい地鎮祭でした!

20120211 14:00から、私の二女夫婦の住宅新築工事の地鎮祭をとりおこなった。生気に溢れた地鎮祭だった。

この地には、2週間前までは私たちの家が建っていた。私の家が壊されて、そこに、今度は二女夫婦たちの家を建てることになった。建築主は竹ちゃんだ。施工会社は我が社パラディスハウス、設計者は長年の友人関口直史氏だ。

一昨年は、同じ設計者と同じ施工会社で、この現場から150メートル離れた所に、長女・実たちが家を建てた。施主は長女のご主人の森さんだ。

私の娘や息子たちとその相方たちは、建設的に力強く生きている。新しい、生命が生まれている。実に真剣に家族を、家庭を創りあげている。

PAP_0000

孫・晴、長男・草が加わっての記念写真

 

PAP_0006

私と中さん親子、関口氏はこの後仕事に向かった。  上下の写真は弊社・桜、撮影

 

猿田彦神社の神主さんによる地鎮祭だ。

猿田彦大神は、ものごとの最初に出現して万事「善いこと」へお導きになる大伸だ。天孫を導いた後、伊勢の地を本拠として国土の開拓を指導した、と猿田彦神社公式ホームページにあった。その大神さまに、弊社の工事担当者の桜は心酔していて、彼が担当する全ての企画において、この大神にお世話になっている。

PAP_0021

施主・竹ちゃん

 

先日、私らが長年暮らしてきた住宅の解体最中に顔を出した。壊されていく我が家を見て、何とも言えぬ寂寞(せきばく)たる想いで、暫(しば)し、呆然(ぼうぜん)としてしまった。

家人に寂(さみ)しいなあ、と声をかけたら、彼女は泣いていた。

PAP_0019

施工会社・中さん

 

それにしても、大勢の若い人たちが参加した地鎮祭だった。私は、この血縁集団の中で、か細い1本の間柱に過ぎないと実感した。もう、すっかり、脇役の脇役だ。家人は、老いては若い人に従わなくっちゃ、と言っていた。

この世代交代を喜べばいいのだろうが、複雑なおもいだ。

PAP_0003

孫・晴

 

二女の息子・晴が、翌日の音楽教室の発表会の打ち合わせのために、遅れて地鎮祭に参加した。その晴の送り迎えは、久しぶりに日本に帰ってきた長男・草が付き合ってくれた。

二人は、丁度、神事が終わって記念撮影も終わったときに戻ってきたので、二女は自分の息子・晴にもお祈りをさせたいと神主さんに申し出た。

気のいい神主さんは、付録というか、延長というか、再び大神さまに降臨を願って、きちんと正式な神式にのっとって、お祓いをしてくれた。

孫・晴は、全員衆目のなかで、恭(うやうや)しく頭を下げながら、神主さんの祝詞を「適当に、ぐじゃぐじゃ、言っているんじゃないの」なんて口走りながら、神妙な顔をしていた。

2012年2月12日日曜日

今度こそ相撲改革、北の潮親方

30日、任期2年満了による日本相撲協会の理事選挙が行なわれ、その後の理事会で、満場一致で北の潮親方(58)(元横綱 本名・小畑敏満)が第12代の理事長に選ばれた。

img1126621010005627

北の潮親方が、理事長在任中、2007年7月、時津風部屋で兄弟子や親方による集団リンチで序の口力士が死亡。この傷害事件で、元双津竜(前時津風親方)は愛知県警に傷害致死で逮捕された。

2008年9月、ロシア力士の大麻事件が世間の耳目を集めたなかで、事件の対応が批判の対象になった。責任者としての統治能力、自覚が乏しいと、理事長の座を追われるように辞任した。

継いだ武蔵川親方(元横綱三重ノ海)は、20105月に端を発した大相撲野球賭博問題で辞任、元東京高検検事長の村山弘義氏が代行、放駒親方(元大関魁傑)が理事長を継いで、今回の改選になった。この間に、何らかの改革の芽は生まれたのだろうか。表面的には何ら変わったようには見えない。

北の潮親方は、理事長辞任後も、、2011年4月には、弟子が八百長事件に関与したことを受けて、理事から役員待遇委員に降格した。

脛に傷だらけ、引責辞任が喉元を過ぎてもいない元理事長の北の潮親方だ。そのお方が、今回、理事長として再登板したというのだ。憤飯と言えば、叱られるかな。

現行の制度では、協会運営の人材不足はしょうがないのだろう。現役時代の最年少の21歳2ヶ月で横綱になったこと、幕内で最高優勝24回の成績が、投票する者にトラウマになってはいないだろうか。力士として残した成績は、他を圧倒するものがある。

再登板となった北の潮新理事長は、神妙な顔で記者会見を行なっていたが、果たして、相撲改革にきちんと取り組めるだけの統治能力が発揮できるのだろうか、その表情を窺いながら、不安を感じた。

先ず迫っているのが、日本相撲協会を公益法人へ移行するために年寄名跡(親方株)をどうするかといった問題だ。

問題が余りにも多くて、今後の改革には、相撲社会どっぷりの人たちだけでは、どうにもナランと思う。所管の文部科学省、知識人が加わった何とか委員会を発足して、組織を一旦、全てを壊わさないと、アカンのではないか。組織や運営方法の改編、親方株などに象徴される従来からの制度の見直しについて、下の新聞記事はヒントを与えていると思ったので、ここに転載、引用させてもらった。

日本相撲協会の「ガヴァナンスの整備に関する独立委員会」副座長の慶応大学教授・中島隆信氏が、20120207の日経新聞・33面「スポートピア」で指摘している問題点の、今後の行く末を見守りたい。

ーーーーーーーーーーーーーー

八百長を擁護するわけではないが、そもそも大相撲の魅力は白黒つけがたい「曖昧さ」にあると考えている。たとえば、力士のランキングを表する番付は、テニスやゴルフのようにはっきりした算定基準がない。

他競技に先駆けて導入したことで有名なビデオ判定もその一つだ。普通ならば勝ち負けがより明確化するはずなのに、物言いがついてビデオを参考に協議した結果、しばしば「同体とみて取り直し」となる。野球ならばフェアかファールか微妙なので「投げ直し」を命じるということだ。立ち合いにしても、陸上競技のようにスターターピストルが鳴るわけではない。両力士が呼吸を合わせて自発的に立ち上がり、初めて競技がスタートするのである。

こうした曖昧さは他のスポーツにはなく、文化的色彩の強い相撲ならではの魅力ともいえる。

しかし、望ましくない曖昧さもある。相撲部屋の師匠が勝負審判を兼ねているのはどうだろうか。監督やコーチが自分のチームの試合で審判を務めているようなもので、真剣勝負に対する公平な裁きが担保されているとは到底思えない。審判部の専権事項である番付編成は、審判員が自分の弟子に有利になるように昇降を決めているのではと疑われても致し方あるまい。

組織運営を見ても、協会の理事と師匠の兼務には問題がある。これまでの数々の不祥事は、協会による相撲部屋へのガヴァナンスが甘かったことが根本的な原因だ。率先して改善に取り組むべきなのに、今回も協会は相も変わらず従来通りの方式で理事選挙を実施した。

大相撲の良き曖昧さを文化的価値として認めてもらうためにも、あしき曖昧さを改善していく知恵が協会に求められている。

2012年2月11日土曜日

粋な計らいだ、日本サッカー協会

日本サッカー協会は、粋な計らいを企ててくれた。そのことに触れたい。

その1は

今年の全日本大学選抜チームの遠征で、インドネシアに行くことにした全日本大学サッカー連盟の判断のことだ。

私がかって所属していた大学は、長年に亘って立派な選手を輩出し、日本のサッカー界の屋台骨をを支えてきた。プレーのみならず協会運営においても然りだ。

40余年前のことだ。私が寝起きした合宿所のベッドの奥の収納庫の扉には、ワセダ、ザ、ファーストと落書きされていた。プレーヤーとして、日本サッカー協会の本部や地方のスタッフとして、後年、素晴らしく多大な功績を残した大先輩の、若かりし頃の野心がほとばしる落書きがあちこちに残されていた。若者らしい筆致で。私は、その息吹を感じながら、4年間を過ごした。

ところが、どっこい。それから20年後、我が大学はスピードを加速して、一部の上位から二部へ、さらにその下部リーグに転落した。短い期間の、あれよあれよの転落に、現役選手は当然、OBたちも青ざめた。

そのようなどん底時に、後輩たちと酒を酌み交わしては、私は大学サッカーとは斯(か)く斯く然然(しかじか)であらねばならない、と話したことを、今回の全日本大学選抜チームのインドネシア行きのニュースを聞いて思い出したので、この稿を書く気になった。

Jリーグが発足してから、多くの優秀な選手たちは大学へ進学しないでプロ契約をしてリーグに参加した。その結果、大学サッカーの存在が薄れた。そのような環境下でも頑張る大学、強化を進めた大学も現れ、溜飲したものだ。後に、大学のサッカーチームに所属しながらJリーグの試合にも出られるような制度が作られた。

大学でサッカーに没頭するということは、唯、単にサッカーをするだけではなく、政治や経済、法律、文学、理工など各分野で高等教育を受けながら、将来の教育者、指導者、立派な社会人になるための人材養成機関でもあるんだよ、と言い続けてきた。私は、大学の4年間で少なからず人格の重要な部分を育て上げてくれた。

そんな彼らを、学生だからこそ遠征を通じて学ばせたいことがある、との連盟の思いが粋だ。インドネシアは昨今の経済発展には目を見張るものはあるが、まだまだ発展途上国だ。そのような国を自分の目で見つめ、逆に、日本はどのように見られているかと感じとる。遠征中に、インドネシアの子どもたちを集めてサッカー教室を開催、指導に当たらせる、とも聞いた。中古のサッカーボールを土産に持って行く。欧米の先進国への遠征では得られないものを、きっと学びとることだろう。

 

その2は

8日、日本での開催が政府承認された女子のU-20(20歳以下)ワールドカップの会場を、決勝と準決勝は東京・国立競技場で行うが、それ以外の試合会場をFIFAの強い要望でもあったが、宮城や福島を候補地にする計画案を国際サッカー連盟(FIFA)に提出したことだ。開催日などはまだ決まっていない。

被災地の人々にサッカーの醍醐味を楽しんでもらいたいとの配慮と、地元経済の活性に少しでも役に立てればとの計らいだ。被災地の今までは、とりわけスポーツに縁の薄かった女性たちにも、頑張る日本の女子サッカーを見てもらいたい、との意図なのだろう。

この大会は当初、ウズベキスタンで開幕する予定だったが、FIFAのインスペクションの結果、準備等に不備が見受けられ、代替会場が健闘されていた。大会には大陸予選を勝ち抜いた16チームが参加する。

昨季、なでしこジャパンはワールドカップを制し、日本中を元気にさせてくれた。主将の沢穂希は、アジア人史上初のFIFA最優秀選手賞(FIFAバロンドール)を得た。その結果、日本女子サッカーリーグ(1部はなでしこリーグ。2部はチャレンジリーグ)の試合には多くのファンが駆けつけるようになり、俄然、注目度が上がった。

嬉しいことに、次代を担う若い世代が育っていることだ。日本での女子の競技人口は,まだまだ少ないけれど、Jリーグから受けた影響は大きく、ますます強くなることだろう。昨年のU-19アジア選手権で、日本は優勝している。

日本の女子サッカーの進化と人気の盛り上がりが続けば、サッカー文化がますます大きく花開くことだろう。期待したい。

今さら? 復興庁発足

下の文章は、20120210の日経新聞朝刊、3面(総合)の一部と1面(春秋)をそのまま書き写したものです。

復興庁発足について、後々のためにも、この記事を書き写して保存することには意義があると思った。

今さらっ、と思うほど対応が遅いのと、運営について不安な要素を抱えながらのスタートのようだ。成果は、終わってみないと何とも言えないが、どうか、スムーズに大いに被災地や被災された人々のために働いて欲しい。

ーーーーーーーーーーーーー

復興庁発足、「縦割り」の壁

省庁への勧告、強制力なし

被災地の要望に一元対応

 

東日本大震災からの復興の司令塔を担う「復興庁」が10日に発足した。

省庁ごとの縦割りを排し、被災地の要望を一括して受ける。9日には、岩手、宮城、福島の被災3県の来年度予算も出そろった。ただ、震災から約11ヶ月を経て誕生した同庁に対しては、権限などの面で力不足との指摘もある。復興事業の加速を必要とする被災地には「二重行政に陥るのでは」との見方は多い。

漁港は水産庁、土地のかさ上げは宮城県、下水道や上水道は市の担当部局ーーー。所管が違い、復旧に向けた意見調整に時間がかかるためだ。石巻市職員は「総合的な窓口があれば複雑な事業が前に進みやすい」と言う。

復興庁は3県の県庁所在地に置く復興局などを通じ自治体からの要望や相談を受ける。「ワンストップ(1ヶ所)対応につなげる」(藤村修官房長官)ことで復興を早めるのが狙いだ。復興交付金の受付や、税制で産業振興などを促す復興特区の認定も手がける。

しかし、本当に復興の速度を上げられるのか、被災地には疑問の声が多い。理由の一つは権限だ。被災地と各省庁の意見が合わない場合、復興相はその省庁に勧告できるが、強制力はない。

「2月中に具体的な対策に移していきたい」。前田武志国土交通相は9日の衆院予算委員会で、被災地で公共工事の入札が成立しない「入札不調」への対策に乗り出す方針を明らかにした。ただ人手不足から入札不調が頻発し、復興が滞り始めたのは昨年11月からだ。

こうした対応の遅れを復興庁に相談しても「所管省庁を本当に動かすことができるのか」(政府関係者)との懸念は強い。被災地でも「結局は復興庁と所管官庁の両方に働きかける必要があるのではないか」とみる。

復興支援金の配分では、政府方針と被災地の要望との食い違いを調整することが急務だ。事業総額2,3兆円のうち1月末時点でまとまったのは5千億にとどまる。1月に政府の東日本大震災復興対策本部の担当者が市町村を回り、事業を厳しく査定した。

全額国費で賄われるため、安易に使われないよう「チェックするのは当然」(復興本部)。だが自治体からは「国は自由度の高い交付金を配ると言っていたのに、今までの補助金と何も変わらない」との不満も漏れる。

 

「春秋」

明治初めの西南戦争、国内最後の内戦は、薩摩軍が率いた西郷隆盛の自決で幕を閉じたが、新たな闘いが続いた。凱旋した政府軍兵士にまん延したコレラだ。猛威をふるう疫病。その闘いの中に、ひとりの若い医師がいた。後藤新平だ。

後に大物政治家として知られる後藤は、若いころには西洋医学を学んだ。西南戦争ではコレラとの闘いで地獄をみた。その体験から、なにより予防を重んじ、病が起きたら迅速な対処が大切として「健康警察医官」の創設まで提言した。日清戦争では疫病のまん延を防ごうと、帰還兵への大がかりな検疫に奮闘した。

恐らく、こんな経験が行動を促したのだろう。関東大震災の直後、内相の後藤は東京大改造構想を唱え、わずか1ヶ月弱で帝都復興院を立ち上げた。自ら総裁になった。「計画が1日遅れれば、実行は百日遅れる」との焦り。そして「後世の子孫に再び同一の惨禍に遭遇させる危険」を防ごうという思いがあった。

東日本大震災から11ヵ月後、復興庁がきょう発足する。帝都復興院と比べてあまりに遅かったが、より重要なのは子孫のため、どんな実績を残すかだ。後藤の壮大な構想は財政不足や内閣総辞職でとんざしたものの、都内には昭和通りなど主要幹線、避難場所となる隅田公園など、その片りんはいまも残る。

2012年2月2日木曜日

復元納棺師  笹原留似子さん

20120131の朝日新聞・朝刊「ひと」を読んだ、瞬間、目頭が熱くなった。

東日本大震災で傷ついた遺体の顔を、元の通りに復元して納棺する復元納棺師、笹原留似子さん(39)の現地でのボランチア活動のことだ。

このような活動をして人がいることを、初めて知った。凄い。私の知識や想像力が、如何に偏狭(へんきょう)か、と思い知らされた。

昨秋、我が社のスタッフ・浅の叔父さんの葬儀で、浅は「おくりびと」の仕事を目の前で見せられて、映画そのものだったことを、感動しながら話してくれた。でも、私の知るところは、それまでだった。

そこに、この新聞記事だ。

この震災で笹原さんが手がけた遺体は400人を超える。津波による損傷は大きく、子どもらに親の遺体を見せられないで困った家族が多く、彼女の活躍は非常に感謝された、と知った。

笹原さんは、札幌の小学校の低学年だった時、通っていた教会で、バングラデシュで医療に従事していた長野の新生病院の医師・宮崎亮(まこと)さんから、バングラデシュでは多くの孤児たちが餓死していると聞かされ、使用済みの切手があれば、それでワクチンが買えて、子供たちの命は救われる、と教えられた。早速、通っていた小学校で大量に集めた古切手を宮崎医師に手渡して、驚かせた。

引っ込み思案だったこの少女は、この体験から大いに影響を受けたのだろう、その後は、巫女(みこ)になり、ホスピス病棟で末期患者を看取る仕事に従事し、そして、今の活動につながっていく。

★この記事はどうしても、マイポケットにしまい込みたくて、無断転載させてもらった。

 

震災犠牲者の遺体を復元し納棺してきた。 笹原留似子(るいこ)さん(39)

MX-3500FN_20120202_103531_001

震災で亡くなった約400人の遺体を復元し、納棺するボランチア活動を続けてきた。岩手県沿岸の遺体安置所で、死者に在りし日のほほ笑みを追い求めてきた。

全国でも数少ない復元納棺師。

表情を失った顔に元の笑みを戻す。心で呼びかけて顔に触れる。見えなかった笑いじわが出てくる。鼻の高さや眉毛の位置が分る。日々、人形で復元の技術を磨き、表情を探り当てる手を「ゴッドハンド」と呼ぶ人がいる。

損傷がなく、死後間もなくなら、20分程度で終わる。しかし、1週間も経つと厳しい作業になる。震災から43日後に見つかった遺体の復元には3時間かかった。

映画「おくりびと」の納棺とは異なり、遺族の参加を目指している。触れたい。添い寝したい。話したい。そんな希望をかなえるには復元がかかせない。培ってきた技術が、遺族と悲しみを分かち合い、寄り添う力になった。

岩手県北上市から被災地の安置所に出向き、活動を連日ブログで発信した。支援の輪が広がり、ほお紅や口紅が届いた。福島県から埼玉県に非難した小学生は150円の脱脂綿50グラムを送ってくれた。

30日、社会に貢献した人をたたえる今年度の「シチズン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、こうあいさつした。「お別れの場で、陰でお手伝いをした。遺族の深い悲しみが勇気に変わりますように」

(文・但木汎 写真・葛谷晋吾)

2012年2月1日水曜日

めだかの学校で、ハブ ア ランチ

20120131(火) 今日は1月最後の日だ。

経営責任者の中さんと、茅ヶ崎東海岸、寒川大曲の物件を見て、最後に小田原の物件の下調べをした。全て中古の住宅だ。小田原城の堀に沿った道を進むと小田原競輪場がある。何で、こんな所に競輪場があるんだ、不思議だ。物件はその直ぐ傍だった。今回は、物件のことには触れない。

昼飯のことを話そう。

この二人は、共に朝早く行動するパターンが共通していて、朝飯が早く、当然昼飯も早い。会社内での仕事の時は、11時にもなれば、二人は昼飯の準備に入る。弁当を持って来る時もあれば、安い弁当を買って来て、インスタントラーメンを添えて済ますこともある。二人は申し合わせたように、11時頃になると、流しで、ガスコンロや電子レンジの前で顔を合わせることが多い。

そこで、本日の二人の昼飯のことを公開しよう。

私は、今日は朝から遠くまで物件の調査に行こうと、前日、中さんから言われていたので、朝、弁当を作った。チャーハンの上に、薩摩芋と南瓜(カボチャ)の輪切りにしたものを2切れづつフライパンで焼いて、それをのせたものだ。

中さん用には、昨日、月曜恒例の昼のカレーの余ったご飯で、管理の和さんが焼きお握りにしてくれたのを、私がすかさず3個ゲットしておいた。ぎっちり握られた大きなお握りだ。

下見を終えての帰途、小田原厚木バイパスを通るので、その途中に「めだかの学校」がありますので、そこで昼飯にしましょう、と中さんが提案、私は鵜呑みした。

それからの中さんの行動が賢い?というか、実に要領がいいのだ。バイパスの入口に向かう道すがらにスーパーがあって、そこで、私の弁当と中さん用のお握りをチーンした。

そして、ご飯のお供のスープには、おでんの汁(つゆ)と考えて、スーパーの道路向かいのミニストップに行って、おでんの売り方をチェック。お客さんのオーダーしたものを店員がカップに入れる方式を確認して、それならば、中さんの目的は果たせず、諦めて戻って来たというのだ。

ファミリーマートがもう少し進めばありますので、そこへ行きましょう。ファミリーマートでは、自分が好きな物をカップに入れてレジに持って行って精算するというやり方なのだ。2人分の2カップにお汁をたっぷり、私にはダイコン1個75円、中さんはガンモドキ1個幾らだったか。かくして、安くて、温かくて、多くのスープを手に入れた。これ、中さんのマル秘の大作戦だ。

店員は、カップの中身を覗いて、ガンモドキの下には何か入っているんですか、といつも聞かれるんです、よ。ガンモドキだけです、と愛嬌たっぷりに微笑み返しすると、店員さんはそれ以上何も言いません。

そして、昼食の会場が「めだかの学校」。これも中さんの設定。確か、駐車場のスペースがあって、ベンチもあったように憶えているんですが。

めだかの学校は、小田原市荻窪の荻窪用水脇にあった。

120px-Odawara-City-Medaka-no-Gakko    120px-Odawara-City-Medaka-no-Gakko-Monument

めだかの学校の隣の庭園の石垣に尻をついて、昼飯にした。気温は低いが風がなく陽光が燦燦、昼飯は気分良く頂けた。

ところで、ヤマオカさんが食っていた弁当は何だったんですか?と、帰りの車の中で聞かれた。私は、チャーハンだよ、と答えると、キャベツが入っていませんでしたか、と聞くので、キャベツとニンジン、タマネギ、玉子を、ご飯と一緒に炒めたんだよと、言っても、どうも中さんの頭の中にあるチャーハンとは違うらしい。チャーシューも豚肉も、鳴門蒲鉾も入っていない。

こんな昼飯だったということです。ハイ、おわり。

 

Wikipediaより知識拝借

めだかの学校は、作詞・茶木滋、作曲・中田喜直の童謡。1950年(昭和25年)に茶木氏によって作詞され、1951年(昭和26年)3月、NHKのラジオ番組「幼児の時間」のコーナー「歌のおけいこ」で発表された。同年4月、NHKのラジオ番組「うたのおばさん」で安西愛子が歌った。

茶木が作詞したきっかけになったのは以下のようだ。

小田原市に在住していた茶木は、戦中は家族で箱根に疎開して難を逃れた。しかし、自宅が全焼したために、戦後はバラックのような家に住むことになり、食糧を確保するためにたびたび買出しに出た。

ある日、買出しのために息子と山を降りて荻窪用水周辺を通りかかると、息子がメダカを見つけた。息子が大声を上げるとメダカが姿を隠してしまったので、茶木が「あんまり大声を出すんで逃げてしまったんだよ」と言うと、息子は「大丈夫、またくるよ。だってここはメダカの学校だもん」と返答した。

 

(めだかの学校)

 

めだかの学校は 川のなか

そっとのぞいて みてごらん

そっとのぞいて みてごらん

みんなで おゆうぎ しているよ

 

めだかの学校の めだかたち

だれが生徒か 先生か

だれが生徒か 先生か

みんなで げんきに あそんでる

 

めだかの学校は うれしそう

水にながれて つーいつい

水にながれて つーいつい

みんなが そろって つーいつい