2012年3月21日水曜日

春一番 吹かず

今日は、冬がそろそろ終わろうとしていている、20120322だ。一昨日の20日は春分の日だった。会社の窓から眺める日差しは春めいている。奈良・東大寺のお水取りが12日に終わった。私の祖母は、お水取りが終わったら、そろそろ春になるよ、と此の時期になると毎年口癖のように言っていた。

今日、弊社の営業部は定休日だ。私は午前中は会社にいて、友人とミーティング。午後は日差しが春めいてポカポカの一歩手前のホカホカ。こんな陽気こそ、大いに楽しまなくっちゃ、とイーハトーブ果樹園に直行、野良仕事に精励した。雑草取りに夢中、肌は汗ばんだ。それぞれの果樹は、小さな芽が吹き出す時期を静かにそっと待っている。それぞれの果樹に向かって、今年も頼むぞ、と話しかけた。こんなことでも、今の私にはたまらなく楽しい。もう少しすれば、芽は一気に萌え出すのだろう。

高知では、桜が開花したそうだ。

果樹園の隣のオジサンと、今年の春からの野菜作りの下打ち合わせをした。今の私は、仕事においてちょっと余裕のヨっちゃん状態で、此の春からは特別、農作業に励みますサカイにと宣言した。果樹と果樹の隙間にはまだまだ空き地があって、その空き地を利用して、瓜(ウリ)系の胡瓜(キュウリ)、冬瓜(トウガン)、南瓜(カボチャ)などを重点的に頑張ってみる心算だ。これ等は、痩せた土地でも逞しく育つ。手間をかけなくて、済むのだ。百姓の子せがれの知恵だ。他にも、色んな葉っぱ系を試みたい。肥料は、去年と同じように、友人から牛糞をもらってこよう。

長く厳しい冬がやっと終わりそうな此の時期なのに、どこからも「春一番」が聞こえてこない、そんなことを、急に可笑しいなあと思いだした。

ところで、春一番ってなんだったけ? と思いついたものの、春一番の定義を理解していないことに気づいた。気象庁によると、関東地方では今年、2000年以来、12年ぶりに春一番は観測されなかった。

「春一番」の意味を、Wikipedia のお世話になった。

これからは、チャンと覚えておこう。『春一番とは=例年2月から3月半ば、立春から春分の間に、その年初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風』。風速8m/s以上で前日よりも気温が上昇していることが条件のようだ。今年の立春は新暦で2月4日、春分は3月20日だった。

これで、来年からの「春一番」については、オッケーだ。

今度は”元寇”だ!!

新聞記事のタイトルは

「元寇船沈む長崎沖の海底 国史跡に

水中考古学 足りぬ支援」、だ。

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培風館 日本史精義

 

前回、秀吉の朝鮮出兵の新聞記事を見つけて、かっての受験勉強に使った参考書まで動員して文章を綴ったと思いきや、1ヵ月後の20120314の朝日新聞に、今度は元寇のことについての記事を見つけた。朝鮮出兵は1592年だから、元寇はそれより約300年前の1274年。今から730年前のことだ。私は、敏感に反応した。記事は編集委員の中村俊介氏のものだ。

元寇とは、文永の役と弘安の役のことだ。この二つの元寇が、これほどまでに凄まじい戦いだったとは、教室での授業では理解できなかった。

蒙古族の中から成吉思汗(チンギスハン)が現れ、あれよあれよと言う間にヨーロッパとアジアにまたがる大帝国を作った、国号を元と定めた。マルコ=ポーロが「東方見聞録」に、日本には金が多いことを記述した、これが日本征伐を目指した原因ではないかといわれている。

下の新聞記事にあるように、元、高麗、漢人の連合軍の軍船が4400隻が鷹島沖に沈んでいるという。兵も多いときには、約10万人が攻めてきた。なんと、数の多いこと。難を逃れて、引き返した船もそれなりにあっただろうから、この戦いの規模は相当なものだった。九州の彼方此方で、苦戦を強いられながら、何度も台風やら悪天候で助けられた。元連合軍は、陸上では強かったが水上ではからっきし駄目だったようだ。それに、軍の中枢や国内においても反対運動があり、次第に力を弱めた。日本は、まがりなりにも、北条氏を中心に結束して対処した。

秀吉軍が朝鮮に出兵した際に、彼らが朝鮮国内に築いた城の址が20箇所も、今も残されていると知って、戦の規模の大きさに驚いたのだが、今度は元寇に対する日本の反撃で、撃沈した元の軍船の数の多さで、再び昔の戦いといえどもその凄まじさに、またまた、驚いたわけさ。

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鷹島沖に沈む元寇時のモンゴル軍船の残骸=琉球大学考古学研究室提供

 

記事の一部=鎌倉時代に来襲したモンゴル軍船が沈む長崎県鷹島沖の海底遺跡が2月、国史跡指定の答申を受けた。海底遺跡では初めてだ。この海域では30年余りにわたって調査が重ねられ、昨秋には琉球大などの研究チームが730年前の「元寇」で沈んだ船体を発見。今年も水中調査を予定している。

鷹島沖の海域には元寇船4400隻の多くが沈むという。琉球大の池田栄史(よしふみ)教授らは音波調査で海底の異常地点を絞り込んで潜水。水深23メートルから船体の背骨となる竜骨や整然と並ぶ外板、たくさんの磚(せん)「れんが」を発見した。夏から秋にかけて再び調査を予定しており、元寇に詳しい佐伯弘次・九州大教授(日本中世史)は「日用品や武器類、未知の遺物もあるかもしれない」と期待する。

鷹島沖の調査は1980年に調査団が組まれてスタート。鷹島町教育委員会(現・松浦市)と九州・沖縄水中考古学協会(現・NPO法人アジア水中考古学研究所)に引き継がれ、「蒙古襲来絵詞(えことば)」に描かれる炸裂弾「てつはう」の現物が見つかったほか、部分的ながら船の部材や中国陶磁器、矢の束などが引き揚げられた。

現地には観光資源や地域活性化への期待も出ているが、簡単ではない。海水につかった遺物は脱塩や保存処理が不可欠で、専用施設もいる。

秀吉の朝鮮出兵

20120312の朝日新聞のアジア版で、秀吉が朝鮮に侵攻した時(1592~98)に築いた城の址(あと)が今も残っているという記事が掲載されていた。

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記事で、秀吉軍が侵攻のために城を20箇所も築いたことに驚いた。後の方で紹介する大学受験に使った参考書を読み直したら、なんと秀吉軍は約16万人の兵を送ったそうだから、大変な戦いだったことを改めて認識した。そのときの日本の人口は、何万人がいたのだろうか? 派兵の規模としては、相当大がかりで負担は重かっただろう。

新聞記事で扱われているのは、韓国南東部の蔚山(ウルサン)だ。上の写真では、山の頂上まで400年以上前に築かれた石垣が今も見える=西生浦倭城(ソセンポウェソン)

これより新聞記事の一部=(蔚山・中山晃) 城址は地元で「西生浦倭城(ソセンポウェソン)」と呼ばれる。「倭」は日本を意味し、日本で「文禄・慶長の役」と称する秀吉の出兵は、韓国で「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」と呼ばれる。旧暦の干支で「壬辰」の年に日本が始めた戦乱の意味だ。今年は60年に一度めぐる「壬辰」年。韓国人の知人らに聞くと「まず壬辰倭乱が頭に浮かぶ」と口をそろえた。韓国では「侵略者」としての日本は「倭政(ウェジョン)」と呼ぶ植民地支配期に始まるのではなく、秀吉の出兵にさかのぼる。

これは、秀吉軍による”文禄・慶長の役”のことだ、とは直ぐに答えられる。この戦の名は、記憶から絶対抜けない。だが、悲しい哉(かな)、知識はそれまで、だ。それ以上に知識は広がらない。

でも、今はちょっと時間的に余裕のヨっちゃんだ。本棚から受験時代に使っていた参考書を開いてみた。

昭和40年初版、私が使っていたのは42年第6刷発行。培風館「日本史精義」、著者・下村富士男 ¥560 を何度も何度も読んで、暗記した。今は、この参考書の内容のほとんどが記憶から遠ざかっているが、それでも、大まかには内容が蘇った。それにしても、参考書には詳しくチャンと書かれていたのには、驚いた。

ここに、上の参考書の186~187Pを紹介することにした。当時の努力の手垢が懐かしい。

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2012年3月20日火曜日

蕗の薹(フキノトウ)

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昨夜、蕗の薹(フキノトウ)を天ぷらにして食った。

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昨日、弊社の中古住宅のリフォーム工事の仕上がりのチェックに行って、物件の裏側の膨大な空き地で、フキノトウが芽吹いているのを見つけた。その物件とは、横浜市栄区の庄戸のことだ。弊社のホームページの販売中物件の項をご参照ください。

経営責任者の中さんが、入念に室内をチェックしている間に、能天気(ノウテンキ)な私は空き地でフキノトウを15株ほど収穫した。昨年、ワラビやフキ、ツクシ、ヨモギを無手勝流料理法で食ったが、フキノトウだけは摘み採る機会を失った。その雪辱戦の意気込みなのだ。フキノトウは、キク科フキ属の多年草。芽を出して、ツボミが花になるまでが、凄まじく早いのだ。

物件は、新鋭の設計士が腕を奮っただけあって、流石(さすが)緻密に設計されている。壁材は自然素材の珪藻土。各部屋の空間作りが楽しい。各部屋の配置、部屋とユーティリティーを結ぶ動線、台所とリビングの配置と機能性、それに外観がなんとも素晴らしい。庭もたっぷりのスペース、車4台は入る駐車場。物件としては、超優良物件だ。

天ぷらで食うのが一番美味しいですよ、と聞かされているが、灰汁(あく)抜きは必要なのだろうか、苦味はあるだろうが、それを取り除くために茹でたりしたら、本来の風味を楽しめないのではないか。それじゃ、水にしばらく漬けておくか、それはきっと効果ないだろう。出来上がったら、何をつけて食えばいいのだろうか、我が家には、塩だけはある。

色んなことが頭の中を去来するが、結果、オーソドックスに、いやストレートにやるしかない、と腹を決めた。考える前に行動するタイプなのだ。これは、もう世間でお墨付きのメニューだ、必要以上に心配することはない。

何だって、食えないものはない、とは私の人生訓でもある。中国人は四つ足のテーブル以外ならなんだって食ってしまうというではないか。

よく水洗いして、何重にも苞(ほう)に取り囲まれたツボミの周りを整理。フライパンを温め、水でこねた小麦粉に、フキノトウを一つひとつ入れて、炒めた。

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天ぷらにしたかったのだが、食用油がボトルの底にちょろちょろしかなかったので、貧乏人は貧乏人らしく、ささやかに油をしいて、その上にフキノトウを並べた。好い香りがした。これこそ、春の香りだ、と独り言。焼酎の濃い目のお湯割を、矢継ぎ早に飲んだ。

心配していた苦味は、快い程度。この苦味こそが大人の味だ、とこれも独り言。

 

追記

蕗の薹の「薹」という漢字を機会を作って調べなくてはイカンなあ。

2012年3月18日日曜日

東大寺法華堂の秘密

今年の1月、昨年末に亡くなった恩師を偲ぶ会と中学校の同窓会に出席するために帰郷した際、時間が少しあったので、奈良の東大寺まで足を伸ばした。小学生のときの遠足以来だから、50余年ぶりの大仏(だいぶつ)様とのご対面だった。急ぎ足の見物だったけれど、どの仏像様も心身ともに疲れていた私を十分癒してくれた。馴れ馴れしい鹿は、相変わらずだった。

そんなことがあって、親しみを再確認していた矢先に、日経新聞が「東大寺法華堂の秘密」のタイトルで上(20120226)、中(ー0304)、下(ー0311)の3回に分けて特集を組んだ。今回の特集の本意とするところの秘密部分には、私には知識がなく理解できないことばかりなので、肝心要(かんじんかなめ)のその部分には触れられない。

が、その特集で使われた各種の仏像の写真は、見る者に何かを感じさせてくれた。

折角だから、この仏像の写真と各仏像に関する解説文だけを、パクらせていただいた。けっして悪用はいたしません。ここに貼り付けをさせてもらって、身内だけで楽しませてくださいな。

仏様は、その視線、その表情から私の心を見透かしている。恥・ず・か・し・い・限りだ。

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不空羂策観音立像(ふくうけんさくかんのん)

奈良時代=8世紀、脱活乾漆造 漆箔 像高362,0センチ

法華堂の本尊(ほんぞん)。天平時代を代表する仏像彫刻。宝冠、光背が取り外された無垢の素の姿がかえってすがすがしく神々しい。今回初めて重量が量られたが、500キロ超。

 

 

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法華堂本尊と脇侍

法華堂旧内陣に立つ不空羂策観音。脇侍に日光・月光両菩薩(ともに国宝)を従えたこの姿はもう観ることはできない。東大寺ミュ-ジアムでは三尊を安置中だが、法華堂内の修理を終えた後は不空羂策観音だけが法華堂に戻り、塑像の両菩薩は免震構造完備のミュージアムにとどまるという。

 

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国宝 日光菩薩立像

奈良時代 8世紀 塑造 彩色 像高206,3センチ

 

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国宝月光菩薩立像

法華堂本尊の左右に立つ。須弥檀中央の八角二重基檀の上段に安置されていた。当初は極彩色だったという。日光・月光菩薩の呼び方は江戸以前の文献には出てこず、仏教に守護神として採りいれられたインドの梵天・帝釈天の像ではないかとされる。

 

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執金剛神立像

奈良時代=8世紀 国宝、部分、塑造、彩色 像高170,4センチ

法華堂本尊の背後の厨子に、北に面してまつられている。毎年12月16日に厨子の扉が開かれる秘仏のため、美しい彩色を今に伝えている。はげしい憤怒の相を鮮やかに写した造形美が見事だ。同じ塑像として手法的に日光・月光菩薩像との近親性がいわれている。

 

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戒檀堂四天王・広目天立像

奈良時代=8世紀、国宝、部分、塑造、彩色、像高162,7センチ

戒檀堂の四天王像と法華堂の執金剛神像、日光・月光両菩薩像は、かねて同一工房の同一時期の作とみられてきた。最近の調査で法華堂八角須弥檀上に四天王像安置の痕跡が見つかり、戒壇堂の四天王像が元は法華堂にあった可能性が高くなった。

 

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国宝 良弁僧正坐像(りょうべんそうじょう)

平安時代=9世紀、木造、彩色、像高92,4センチ 東大寺開山堂安置

良弁は東大寺の初代別当。高僧・義淵(ぎえん)を師として法相宗を学んだ。羂策院(今の法華堂)に不空羂策観音像を安置し、その北口には執金剛神像を持仏としてまつっていたという。その後、華厳経の研究に励み、聖武天皇に華厳経の偉大さを説き天皇のあつい帰依を受け、東大寺創建の基礎をつくった=写真 図録「奈良時代の東大寺」から複写(原版は奈良国立博物館)

 

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興福寺 阿修羅立像

奈良時代=天平6年=734年 国宝 脱活乾漆造 像高153,4センチ 興福寺蔵

光明皇后が母の橘三千代の一周忌供養のために発願・改像した八部衆立像の一つ。法華堂の本尊、不空羂策観音像より古様を示すとみられていたこの像が、むしろ時代が下がる可能性が出てきた=写真提供 飛鳥園

 

法華堂内陣

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本尊の不空羂策観音像、日光・月光菩薩、梵天、帝釈天、四天王、金剛力士像(いずれも国宝)などが居並ぶ法華堂内陣は、まことに壮観であった。秘仏の執金剛神像(国宝)は中央の本尊背後の厨子内に安置。本尊は東大寺ミュージアムから戻るが、これらすべてが一堂に会する姿はもう見ることはできない=写真提供 飛鳥園

2012年3月15日木曜日

地方版で、湧く旅心

20120224 自宅に戻る電車のシートの上に朝日新聞があった。前に乗った人が、忘れたのか捨てたのか、手に取って読んでみた。

紙面の配列は少し違うけれども、大きく扱われた記事の内容は、今朝、自宅で読んだのと同じだった。ところが、地方版まで読み進んで、この新聞は山口県で売られたり配布されている新聞だということに気付いた。

此の来浜の主は、今日、山口の潮風か山風か腹いっぱいに吸って、横浜までやってきた。筋金入りの長州ものとはいえ、グニャっと疲れている。

此の主を手にしていた奴は、仕事の出張で来たのか、その帰りか。年老いた病床の親の見舞いに来たのか、その帰りか。お忍びの旅にやってきたのか、その帰りか。そんなことを考えながら、山口東版の記事を読んでいるうちに、俺も、山口でも山口でなくても、何処でもいい、旅情を味わいたいと思った。旅愁? 酒があって温泉があって、これぁ、たまらんなあ。

山口で思い出したのは、大学のサッカー部の後輩の桃井君だ。常々明るく愉快な桃井君は山口高校卒で、今は山口県の教育委員会で頑張っている。偉くなっている、と聞いている。その後、山口高校出身者の何人かは、私の出た学校に来ている。私の長男が出た高校のサッカー部の監督さんも山口高校で、東京学芸大卒だった。私を、息子の父兄以上に親しくしていただいた。

息子の大学(東京理大)の同窓生のギンちゃんは、山口県庁で土木系の職員として精励している。入庁して最初の夏、離島のダムの管理を任されていたとき、大型台風で水かさが急に増してきたときの緊張ぶりを息子に伝えてきた。気の弱い彼にはよっぽど怖かったようだ。彼も、高校は山口高校だった。

此の新聞記事を拾い読みして、インナートリップとでも洒落込みますか。防府をささやかに楽しく彷徨(さまよ)ってみましょうや。

 

32ページ=地域総合

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33ページ=山口

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2012年3月13日火曜日

ドナルド・キーンさん

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本を読み出した大学時代に、三島由紀夫の本を読んでも、川端康成でも、近松門左衛門から松尾芭蕉、万葉集、源氏物語でも方丈記でも、文学、文芸評論において、日本人の評論家よりも、ドナルド・キーンというよく分らない人が、何かにつけて出現する。大江健三郎や安部公房の本で、苦労していた時にも、必ず何処かの何かで評論しているのを見つけて、私の読解不足を補ってくれた。このオヤジは不思議な人だな、とつくづくそう思っていた。

ところが、このオヤジさんは日本文化をこよなく愛しているアメリカ人で、無茶苦茶立派な人だと初めて知ったときには、本当に驚いた。その後雑誌や新聞で顔写真を見ても、アメリカ人の顔ではない、本当は日本人なんでは、と疑った。

日本人は日本文化の貴重さをもっと認識すべきだ、と叱る。源氏物語は原文で読めなくても、優れた現代語訳を読みなさい。日本文学をもっと読め、美しい日本の風景を眺め、日本を愛する心をもっと育(はぐく)め、といつも日本人を叱咤している。

今回の東日本大震災の復興について、都が焼けてしまったが、驚くべき速さで東山文化が栄えた応仁の乱後のことを例に、日本を愛する心こそが復興に寄与するだろう、と語っている。

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その日本文学研究者のドナルドさんが、20120308、日本国籍を取得したと聞いた。日本人としての本名は、姓はキーン名はドナルド。漢字表記では鬼怒鳴門。キーンさんが日本人になったことは、百兵千馬?の味方を得たようだ。

待ってましたとばかりに、朝日新聞・天声人語は彼を話題にした。

早速、マイ・ポケットにしまい込んだ。

 

20120310 朝日・朝刊

天声人語

偉人の親類ができたような心持である。日本文学者のドナルド・キーンさん(89)が、とうとう日本人になった。去年の入院で思い立ち、震災で決心したという永住と国籍取得。復興の頼れる助言者となろう。

誰にも、生まれついた性別と名前、民族や母国がある。それらを変えるのは、余程の事情か、偽れぬ思いがあってこそで、打算や好き嫌いで踏み切れるものではない。キーンさんの場合、国籍は日本への、最上級の愛情表現といえる。

18歳で手にした源氏物語の英訳本に始まり、太平洋戦争では米軍の日本語通訳を務めた。戦後は京都大への留学、川端康成や三島由紀夫らとの交遊に、文化勲章。人と「異国」を結ぶ運命の糸が見える。

「日本のことを考えない日は一日もなかった」「私が選んだのではなく、日本に私が選ばれたというのが人生の実感」「平凡な日本人になりたい」。この国に関する言葉には、深い知性と情がにじむ。

20年前、あるお宅の新年会で隣り合わせたことがある。お節などの雑談が面白くて、話を文学に振りそこねた。楽しいのがキーン流とみえ、日本名キーンドナルドには「鬼怒鳴門」の字をあてるそうだ。鬼が怒鳴る風情にはほど遠いが、これも先生らしい。

震災後、外国人の日本脱出が続いた。その人波をかきわけるように、来るべき人が、来るべき時に来てくれたと思う。卒寿の転身を、泉下(せんか)の紫式部や松尾芭蕉が、川端や三島が、筆を休めて喜んでいるに違いない。ようこそ、キーンさん。