2012年6月18日月曜日

Wの文字に、血が騒ぐ

ロンドン五輪代表最終選考会を兼ねた日本陸上選手権でのことだ。男子やり投げで優勝したディーン元気の胸のWが、私には眩(まぶ)し過ぎた!!早稲田大学現役の3年生。この大会の優勝とロンドン五輪代表をつかんだ。

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20120610 朝日・朝刊・スポーツ 男子やり投げで優勝したディーン元気=矢木隆晴撮影

 

20120610の朝日・朝刊の記事を参考にさせてもらった。

表彰式では、えんじのブレザー姿の日本陸上競技連盟会長の河野洋平氏から、賞状をもらった時も、胸にはえんじにWの白抜きだった。河野洋平も早大卒だ。

ここにきて、これから綴ろうとしている文章が、自己中心主義的でセクショナリズム的、偏狭なものになるなあ、と危惧したが、甘んじて進める。寛容な友人たちに感謝する。

すでに五輪参加標準記録A(82メートル00)を突破した2人が競り合い、ディーン元気(早大)が84メートル03の大会新で初優勝した。2人のうち、もう1人は村上幸史(ゆきふみ・スズキ浜松AC)だ。

村上は、2投続けて大会記録を更新、3投を終えて2メートル以上の差をつけた。ところが、デイーンの4投目が、84メートル03、村上の記録を8センチ上回った。「手拍子だと自分のリズムでいけないから」と、人差し指を立てて観客に静かにするように求めた。「自分の投げに集中できたのが勝因」。冷静さが僅差の逆転を生んだ。

20120610朝日・朝刊 スポーツ面に載ったものが、上の写真で、その写真を眺めながら、この文章を綴っている。この写真を観て、不覚にも涙ぐんでしまった。

このWに今でも鋭く反応する、変な私なんだ。

ここまで拘(こだわ)るのは、やはり、私が稲門会スポーツのOBの端くれだからだろう。

彼らのように優秀ではなかったけれど、40余年前は、胸にWのユニホームを着用してプレーしてきた。優秀な選手は勿論、私のようなウジムシのような選手にも、稲門会スポーツに所属した者は、当然と言えば当然なんだが、Wへの想いは強烈に身に付いた。私は、誰もが認めるウジムシだったが、この「誰も」とは、私の先輩から同輩、後輩のことだ、この熱い想いは誰にも負けまいと4年間必死で過ごした。

1978年12月3日、福岡国際マラソンで当時早大3年生だった瀬古利彦が、胸にWの白抜きしたえんじのランニングシャツでゴールのテープを切ったとき、私はテレビの前で号泣していた。私は30歳。トップを快走する瀬古選手に、涙ぐみながら「紺碧の空」で励まし、このままゴールしてくれと祈っていた。このときの、感慨が蘇ってきた。

正月(1日、2日)恒例の箱根駅伝でも、我が校の走者に向かって、喉が裂けんばかりの声援をおくってきた。

ディーンと村上ががっちり握手しているのをテレビで観た。村上は、12連覇中だ。09年の世界選手権では第3位の記録を持っている。ここで、先輩の村上は「悔しいけど、負けてすっきりした。僕にとって価値のある負けにしないといけない」と話した。この男も格好良かった。勝者のデイーンの優勝を祝ったその顔は爽やかだった。村上さん、デイーンのためにも、頑張ってくださいな。

20120619の新聞で、村上選手はロンドン五輪の主将を務めるとあった。

2012年6月12日火曜日

あなたのことは、知ってました

昨年、弊社の商品(中古住宅)を買っていただいたお客さんから、やっと住み慣れましたが、物件について知りたいことが発生したので、忙しいでしょうが、ちょっと時間をとってくださいとの申し出があった。

私は宅建業者の売主の立場で、センチュリー21のチェーン店の管理課長のオさんは宅建業者の媒介業者の立場で、買主の要望に応えるべく、買っていただいたお家(うち)にお邪魔した。

広い敷地に大きい建物。日当たり良く、周囲に緑が豊富で静か、住まいとしては秀逸の環境だ。相鉄線の最寄駅からは、歩いて20分。これだけの好条件で、販売価額はぐ~んと控えめだった。いい買い物をして頂いた。

リビングルームで、主人が現れるまで畏(かしこ)まって待っていた。その待ち時間に、管理課長のオさんが私に話しかけてきたことが、私には興味ある話しだったので、ここでそのことを書き記しておこうと思った。

ヤマオカさん、実は、私はあなたとは、10年以上も前にお会いしているんですよ、名刺交換をさせていただいたのですよ。あなたは、憶えていらっしゃらないようですが、私には印象深くて、よ~く憶えています。

お会いした場所は、栄区豊田の中古物件でのことです。私は、その週末に栄区でお家を探しているお客さんがいて、そのために数棟、案内する物件の下見をしていたら、その家にあなたが居たんですよ。それも、屋根に上って、2階のベランダや壁に水を撒いていたのです。あなたは、雨漏りのテストをしている最中だと言っていました。

その時に名刺交換したら、あなたの肩書きが代表取締役とあったので、吃驚したのです、とこれからどれだけの緊張した時間を過ごすことになるかもしれない、そのチョイの間に、そんな話をしてくれた。変な社長もいるもんだと、その時は不思議に思いましたよ、と付け加えた。

只、それだけの話なんだけれども、私には快い気分だった。でも、このような快い話ばかりではない。お叱りを受けたことだって、どれだけあったことやら。

私、63歳、まだまだ仕事は続く。

話が終わってお家を出ると、主人は、突然、庭で栽培している幾種類ものハーブ系植物の説明をしてくれたが、私が知っていたのはラベンダーだけだった。説明を受けたハーブ系よりも、主人が余り興味なさそうな蕗(フキ)の方に食指が動いた。主人さんが貸してくれたハサミで、晩飯用に初めは20本ぐらいくださいね、と言っていたが、採り終えたときには倍の40本はいただいていた。

慎み深く、誠意をもって、努力する。そのように生きなくてはイカン。

2012年6月11日月曜日

目をさませトラゴロウ

 

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東京演劇アンサンブル こども劇場

題名=【目をさませトラゴロウ】

作=小沢正

脚本・演出=広渡常敏

演出補=入江洋佑

音楽=林光

装置=岡島茂夫

照明=大鷲良一

効果=田村奈悳

舞台監督=入江龍太

制作=大田昭

 

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19:00~

ブレヒトの芝居小屋

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20120508。

ブレヒトの芝居小屋にお芝居を観に行ったのは、久しぶりだ。今年初めての観劇だ。今回はこども劇場。

孫の晴(長女の息子)と私の2人での観劇。やはり、我が血統は、男こそが、こういうことに関心をもつようなのだ。山岡一族の女系は、合理的で理性的、実利的で生活的、そのDNAが我が一族の大黒柱を貫いているのだ。

 

山の竹やぶにトラが住んでいた。名前はトラノ・トラゴロウといった。

トラゴロウはいつもおなかを空かせている。

トラゴロウが三番目に好きなのは居眠りすること。

そして二番目に大好きなのはにくまんじゅう。

でも一番大好きなのは、三番目に好きな昼寝をしているところへ、二番目に大好きなにくまんじゅうが転がってきて、それをパクッと食べること。

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トラノ・トラゴロウと晴、龍太

 

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入江洋佑さん

 

面白かった!! 

孫の晴も、客席のみんなも大喜びだった。なんと言っても、原作「目をさませ トラゴロウ」の物語の奇抜さにあるのだろうが、愛らしい熊のトラゴロウと他の動物たちが途方もない展開を繰り広げる、その俳優さんたちの動きが、子どもたちの目に楽しく映るように演出され、それが大いに盛り上がらせた。楽しかった。

特に、2人で操るぬいぐるみの激しい動きが、私には職人芸的に観えた。俳優さんに向かって、職人芸的だと表現することは、大変失礼なことぐらいは解っている。クマゴロウの浅井純彦さんと、熊谷宏平さんには、帰り際、ご苦労さんとご挨拶した。彼らの額には大量の汗が溢れていた。彼らの顔は誇らしげだった。

粗筋は割愛。本を読んで楽しんでくださいなあ。お貸しします。

芝居を観に行くと決めてから、原作の「目をさませ  トラゴロウ」の中古本をネットで見つけて、読んだ。新刊時には1200円もするものが、中古で520円、送料250円を入れて総額770円。売主は、長崎市のウイング書店だった。

この本屋さん、長崎市内のどんな商店街にあるどんな店なのだろう。本屋さんに売った人は、どんな人だったのだろうか。どんな店員さんが荷造りをしてくれたのだろうか、オバサンか娘さんか、堅物の頑固オヤジか。ネットでは、見ず知らずの相手と取引ができるなんて、今更ながら不思議に思うのは、私だけだろうか。

ジジイこと私は、瞬間的に2回読んで、孫の晴に回したけれど、此の本は、オジサンたち、大人たちにも、十分楽しめる本だ。この本をどのように芝居にするのか、それが楽しみだった。

先日、秋田県のクマ牧場で熊が脱出して、飼育係2人が襲われた事件が起こって、私らは、人間に危害を及ぼす可能性のある動物と人間との付き合い方について考えさせられた。人間と共存共生できる動物はよし、でも人間に危害を及ぼす可能性のある動物を、金を取って見世物にして稼ぐ、そんな発想は金輪際止めなくてはならん、と思われた。熊は、特に群れをなすことを嫌う性質らしい。そんな動物を食事も十分与えもせず、集団で監禁状態にすれば、あのような悲劇が起こったのも、何となく首肯できる。亡くなった人にはお気の毒だ。

舞台監督の入江龍太が、たまにはこのような芝居もいいでしょう、と話しかけてきた。入江親子と、孫の晴を挟んで写真を撮った。

 

芝居で使われた歌。

♪ まちがかわる日のうた ♪

あるあさ  目をさますと

まちが かわっている

サーカスからも  どうぶつえんからも

おりが なくなっている

そして どうぶつたちが

とおりを あるいている

だけど まちの人は みんな

へいきなかおを してるんだ

どうぶつたちが  まちを あるくのは

ずっと ずっと むかしから

あたりまえのことだった

とでも いうように  へいきなかおで

どうぶつたちといっしょに

あるいているんだ

そんな日が

はやく くるといいな

ほんとに はやく

くると いいなあ ほんとに

そんな日が くるといいな

はやく はやく

くると いいな

帰途、車の中で晴は、「まちがかわる日のうた」を口ずさんでいた。彼が喜んでくれたことに私も嬉しかった。練馬のブレヒトの小屋から丁度1時間で、権太坂に着いた。晴は母親に抱きしめられていた。

 

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さあ 「トラゴロウ」だ

著・入江洋佑

素晴らしくカッコウのいい芝居をお届けしたい。小沢正作の『目をさませトラゴロウ』だ。「目をさませ」題名からして、毎日の暗い日常に眠っているぼくたちを目覚めさせてくれるようだ。トラゴロウは少年のトラだ。煙草など吸って、ちょっと不良っぽいところもある。二番目に好きなものは肉まんじゅう、三番目に好きなのは眠ること。ところが、一番好きなのは、三番目に好きな居眠りをしているところへ二番目に好きな肉まんじゅうがころころ転がってきて、それをぱくっと食べることだという。つまり、運動的に全く異なる二つの欲望を同一時点で合同させるという弁証法とかいう論理とソックリな夢を持っているトラなのだ。

作者の小沢正さんは1960年、大学生の時に安保闘争のデモに参加しながら、新しい児童文学を試みた。それは、どうしても教訓的で濕り勝ちな日本の文学に、乾いてシュールな文体を創り出すことだった。そうして生まれた「トラゴロウ」だったが、お父さん、お母さんたちには評判が悪かったようだ。最初はあんまり売れなかったのだが、こどもたちが読んで、口から口へ広まってついにはベストセラーになった。こどもの鋭い感覚だけがつかまえられる世界が「トラゴロウ」にはあるのだ。そのあたりのことを優れた児童書を出版しつづけてきた理論社の小宮山量平はこんな風に書いている。

「(略)この本には、へんなことがいっぱいある。お父さんだってお母さんだってすぐにはへんじできない事がいっぱいある。

しかたがない。じぶんでかんがえるんだ。かんがえるっておもしろいことだぞ。

ーーーー作者は、そういってわらっている。いじわるだ。でも、こどもは、このいじわる先生のトラゴロウものがたりをよみながら、とにかく、じぶんでかんがえるだろう。じぶんでかんがえたこたえをみつけたこどもたちは、ほんとうに、きらりきらい目をかがやかせるだろう。それから、にっこりわらうだろう」

ステキな紹介文だ。

そんな硬質なスタイルの文学をどのように演劇にすることができるか。アンサンブルがこどもの芝居に挑む時の基本の精神について広渡常敏の一文がある。「(略)こどもの芝居にはぼくら芝居屋の理想主義があるのだと、これまでぼくは言ってきたが、理想主義の中身について考えよう。理想主義には芝居のいちばん大切なことがつまっている。俗なことばかしらんが、凛(りん)としたものがなくてはならん。ストーリーに負ぶさっておもしろおかしく、あるいは情熱や迫力で、こどもを集中させることなんかじゃない、凛! としたものだ。〈役〉を演じるだけじゃない、役者本人のこどもに対する理想主義がなくてはならんのだ。エスプリなのだ。エスプリ(esprit)は精神とか機知、才気というわけだが、精神性の高いビューティフルな感覚だ。たとえば〈人間は人間の未来である〉というのはエスプリのことばだ。普通の人はこんなことばはいえない。普通の人はこどもの芝居をやってはいかんのだ。勿論、こどもの芝居だけじゃない、おとなの芝居もやってはいかんのだ。おとなの芝居はストーリーや意味・内容で観客は見てくれるところもあるが、こども(特に低学年、幼児)の場合はそうはいかない。芝居の、役者のエスプリに直観する。エスプリの乏しい普通の人は芝居なんか演ってはならんのだと思う。いまさかんに論じられているトラウマ(外傷)も感じないだろうし、不登校になったこどものトラウマも感じないで、登校する〈よい子〉に安心するだけ、これが普通の人なのだ。

こどもの芝居について考えることは、芝居というものの、芝居する役者の、演出者、制作者の、最も大切な〈精神〉を考えることになる。」

『目をさませトラゴロウ』初日まで50日。小沢さんのシニカルな眼と、暖かいユーモアとギャグ、ぼくたちはそれをどの位乾いてできるだろうか。すごく上質なスクラップスティック(日本ではドタバタ喜劇と言われているがーー)にしたいもんだと思っている。

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ところで、話は変わりますが、、、、。

先日20120413に、この本を出版した理論社の元社長小宮山量平さんが95才で亡くなられたことを新聞で知った。

この小沢正さんの「目をさませ トラゴロウ」も小宮山さんの手によるものだった。

最初の本を出すまでは、誰もが無名の新人。小宮山氏は、新人の発掘名人で、見いだされた作家はいずれも生き(息ではないな?)の長い健脚の書き手になり、ずうっと走り続けている。

この小宮山氏に発掘された作家と作品を後の方に列挙した。私には縁の浅い本ばかりだが、いつかできるだけ読んでみたいと思っている。児童文学者の今江祥智(いまえ・よしとも)さんが小宮山氏を悼む文章を朝日新聞に寄稿していて、その中で知った。

「星の牧場」の庄野英二、「けんかえれじい」の鈴木隆、「ちびっこカムのぼうけん」の神沢利子、「兎の眼」の灰谷健次郎、「ぴいちゃあしゃん」の乙骨淑子、「北の国から」の倉本聡らの作品をやつぎ早に本にた。

2012年6月9日土曜日

新藤兼人監督 死去

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20120531朝日・朝刊 新藤兼人監督=2010年

 

20120531の朝日新聞と日経新聞の記事をそのまま、マイファイルさせてもらった。

新藤兼人氏を偲ぶことにしよう。

この稿全ては新聞記事をそのまま転載したものだ。

1面

新藤兼人監督 死去

映画「原爆の子」「裸の島」

「原爆の子」「裸の島」など社会性あふれる作品を数多く生み、日本最年長の現役映画監督だった新藤兼人(しんどう・かねと、本名・兼登)さんが、29日午前9時24分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。100歳だった。

広島県出身。1934年、京都の新興キネマに入り、興亜映画を経て44年に松竹に入社した直後に召集される。復員後に脚本を手掛けて評判になり、50年、吉村公三監督らと独立プロ「近代映画協会」を設立。翌年「愛妻物語」で監督デビューした。52年に「原爆の子」で社会派として注目される。広島で被爆した子どもたちの作文をもとに、保母と子どもたち、その家族がたどる悲惨な生活を描いた。「原爆」は終生追ったテーマの一つで、原爆で全滅した移動劇団の最期を追った「さくら隊散る」(88年)なども監督している。

61年、瀬戸内海の小島の家族の生活をせりふ抜きで表現した「裸の島」(60年)でモスクワ国際映画祭グランプリに。ほかに「第五福竜丸」(59年)や「本能」(66年)「裸の十九歳」(70年)「竹山ひとり旅」(77年)「北斎漫画」(81年)など、人間の苦悩や生きる力、社会とのあつれきを粘り強く追求した作品が並ぶ。

76年に朝日賞、2002年に文化勲章。

独立プロ時代から苦楽を共にした女優の乙羽信子さんと78年に結婚。乙羽さんとの最後の出演作「午後の遺言状」(95年)の舞台化で99年、舞台演出も手がけた。

最後の作品となった「一枚のハガキ」(2011年公開)もキネマ旬報1位など高い評価を受けており、「周囲が許せば、もう1本、100歳の映画を作りたい」と語るなど、創作意欲が衰えることはなかった。

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20120531朝日・朝刊  「北斎漫画」で樋口可南子さんに演技をつける=1981年

 

37面

戦争体験 強烈に映す

新藤兼人さんの映画は強烈な反戦主義で貫かれていた。これは自身の戦争体験に負うところが多い。召集をうけた仲間100人がクジ引きで次々出撃して帰らぬ人となり、終戦を迎えた時に生き残っていたのはわずか6人だったという。

亡くなった仲間のことがずっと頭から離れなかったと、晩年の新藤さんは記者によく語っていた。「なぜ自分が生き残ったのか。なぜ生かされているのか」。反戦を訴え続けたのは、自分のやるべきことがはっきり見えていたからだ。

硬派な映画でも、観客を退屈させないサービス精神を発揮した。それは長いキャリアの初期を脚本家として過ごしたためだ。溝口健二監督に「これは脚本ではない」と一蹴されて奮起。吉村公三郎や木下恵介ら名監督に重用され、商業映画の脚本を量産した。その時に培われた映画屋魂が監督作にも息づいていた。

もう一つの特徴は、人間の強さやしたたかさをユーモアと愛情をもって描いた点だ。代表作の一本「裸の島」は瀬戸内の小島で淡々と暮らす夫婦の生命力をセリフなしで表現しきって、海外でも高い評価を得た。

高齢になっても創作意欲は衰えなかった。「これが最後の作品」と何度も言いつつ、無手勝流とも呼べる自由な境地でコンスタントに作品を発表した。

「本当にこれが最後」と宣言したのが「一枚のハガキ」だった。応召した100人のうち6人残ったという原体験をモチーフに、反戦主義と人間のしたたかさをひょうひょうと描き、新藤映画の集大成となった。しかも新藤さんらしく、きちんとヒットさせた。

2010年6月末、群馬での撮影現場にお邪魔したことがある。冷房の利かない酷暑の屋内で、孫の新藤風さんの押す車椅子に乗っててきぱきと指示を出す姿は、とても98歳のものではなかった。

撮影終了の日、無人になった現場で、涙が止まらなくなったという。「こんなことは初めて」と話していた。万感の思いの中心には、すべてを出し切った満足感があったと思う。映画に全てを捧げ尽くした人生。今頃は戦争で逝った仲間に再会し、褒められているに違いない。(右飛徳樹)

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20120531朝日・朝刊 「原爆と戦争責任」について、ドキュメンタリー作品に取り組む=1976年

 

映画ヒロシマ 晩年まで意欲

「死ぬまでに映画『ヒロシマ』を作りたいんです」。2009年の朝日新聞のインタービューに、新藤さんは故郷の悲劇を改めて映画化する意欲を見せていた。戦争から復帰して戻った広島は焦土と化していた。その光景が原爆孤児らの群像を描く「原爆の子」を作る原動力になった。「我々が百ぺんしゃべるよりも、『原爆の子』をいっぺん見ただけで人の心をひきつける」と広島県被団協の坪井直理事長。「亡くなっても映画は残る。たくさんの人に見てもらいたい」

新藤さんは当時を伝える被爆建造物が減ることに危機感を抱き、学者らによる「被爆建造物を考える会」が89年に発足した際に記念講演。被爆証言の大切さも説いていた。

 

俳優「魂に触れ感謝」

「一枚のハガキ」に出演した俳優は30日、一様に死を惜しんだ。主人公を演じた豊川悦司さんは「すさまじくも美しき100年、その魂に少しだけ触れさせていただけたことに感謝しています」。大竹しのぶさんは「私の中で、映画も監督も、永遠に生き続けます。監督、これからも私たちに正しいことを教えてください」と、それぞれコメントした。柄本明さんは4年前の出演作品を振り返り「『まだ撮れる、まだ(時間が)ある』と言っていた。撮影に入れば、年齢を一切感じさせない人だった」と話した。

 

山田洋次監督の話

仰ぎ見るような先輩でした。ヒットするとかしないとかまったく考えないで、地をはうようにして映画を製作する。でも、経済的に苦労されたのではないか。僕なんか想像できないような苦しい思いをたくさんしてきたのではないか。肉声がスクリーンから聞こえてくるような作品でしたね。

 

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朝日朝刊

天声人語

「これは日本人だけが作れる映画だ。日本人だけが作る権利を持ち、より以上に作る義務を持っている」と、60年前の小欄が書いている。新藤兼人監督の「原爆の子」を見て、当時の筆者は「すぐにはペンを執れぬほどの強い感動をうけました」と記した。

占領下の日本で、原爆をめぐる記述や映像は厳しく検閲された。封じられ、忘れられたようだった原爆の悲惨を、この映画は真っ向から描いて突きつけた。「作りたい映画をつくる」を貫いてきた新藤さんの代表作である。

その訃報を聞いて、硬骨にして濃密な人生軌跡を思う。反戦平和への信念は、兵役の体験が根底にある。「ゴミみたいな中年兵の一人だ」だった。殴られ、しごかれ、「もう敵がアメリカなのか帝国海軍なのかわからなかった」。召集仲間100人のうち、実に94人が戦死していった。

終生のパートナーになる乙羽信子さんには、亡妻をしのんだ監督デビュー作「愛妻物語」の妻役として出会う。すでに新たな家庭があった。それぞれの葛藤は想像に余るが、長いときののちに結婚に落ち着いた。

乙羽さんの自伝にある言葉がいい。「(好かない男の砂糖より)好いた男の塩の方が甘い」。がんで余命わずかな乙羽さんが、夫のメガホンで燃焼しきった「午後の遺言状」は名作の誉れが高い。

「新藤組はシンドイ組」と言われた撮影への執念。それを携えての旅立ちだろう。4月の小欄で満100歳をお祝いしたばかりだった。天界では新たなロケが始まるころか

 

20120531 日経新聞 文化

新藤兼人さんを悼む  地道な労働への愛と誇り

映画評論家・佐藤忠男

新藤兼人監督がなくなられた。

つい先日100歳の誕生日を迎えて、たくさんの弟子や後輩やスタッフ、そしてもちろん家族の人々の集まる誕生祝いのパーティーで祝福されたばかりである。

かって、日本映画には、小学校、あるいは旧制中学だけの学歴の巨匠がたくさんいて、撮影所の下積みの苦労を重ねることのなかから自分の独自の表現を作り出してきた。新藤兼人はその最後の人である。農家の出身だが、父親の破産で農業を継ぐことはできず、映画界の仕事は撮影所の現像場の肉体労働から始めた。その労働に対する愛と誇りは新藤兼人の映画に一貫する重要なテーマになっている。

新藤さんは敗戦直後の頃にシナリオ作家として注目され、売れっ子になるが、まもなく同士とともに近代映画協会という独立プロを起こす。当時、思想的な理由で撮影所から追われて独立プロを起こした映画人は少なくなかったが、新藤さんの場合はそうではなく所属していた松竹の撮影所で吉村公三郎監督との名コンビを引き裂かれようとしたことに抗議して独立プロを起こしたのである。

独立プロでは経営的にとても難しいということは誰にもわかっていたので、、みんなびっくりしたものだった。あくまで作りたい映画だけを作るという信念、あるいは一緒に仕事する仲間をなにより大事にするという態度からそうしたのであろう。そして結局、60年もそれを続けてきた。これは大変な記録だと言っていい。

経営の難しい独立プロだから派手な映画は作れない。作品自体が貧相に見える場合もないではない。しかし、反戦、平和、そして貧しい人々のけんめいな生き方に対する一貫した支持、さらには自分を育ててくれた母親や姉たち、妻、そして小学校時代の教師、仕事仲間など、深く恩を感じる人たちに捧げる感謝。そういう主題は変わらない。「愛妻物語」「原爆の子」「第五福竜丸」「裸の島」「母」「竹山ひとり旅」「落葉樹」「さくら隊散る」「わが道」「三文役者」などの作品にそれらは結実している。

こんなに自分の心からあふれる思いを映画で描き続けることができたなんて、なんという幸せな映画作家だったことかと思う。それらの作品が、時として暗くてしんどく、エンターテインメント的には弱かったことは否定できない。しかし、年齢を重ねるに従ってそこに、初期の鋭さや叙情に加えてなんとも言えない滋味とユーモアもにじみ出てくるようになった。その結晶が遺作となった「一枚のハガキ」である。戦争反対を遺言のように真剣に語っているが、その語り口のなんという土くさい笑い。その笑いが怒りと同じくらい力強くて良かった。

日本の文化的伝統は階級によってそれぞれ独特のものがある。そのうち武士の伝統は黒澤明が表現しているし、町人の伝統は溝口健二が受け継いでいる。小津安二郎はかっての文人から近代の市民層の文化を表現していると思う。そして最も人口の多い農民の文化的伝統を映画で受け止めて映画で表現したのは新藤兼人である。地道な労働を価値ある大切なものとして描くことと、仕事の仲間や家族への感謝を大事にすること。個人のというより、仲間や身内の声として社会的主張を表現すること、などが特色である。

洒落た笑いよりも集団的でエネルギッシュな笑いがそれに加味されて、それがどう発展するか、楽しみにしていたのに、なくなられて悲しい。しかし本当にお手本にしたい生き方である。合掌。

ドクダミは、十薬だ

今度はドクダミに挑戦しようと思った。

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どこにも生えて、特に庭や畑では邪魔者扱いされているアイツのことだ。私の生家は農家で、この草を見つけると、父は忌(い)ま忌ましい顔をして、引っこ抜いては、畑から遠い所に処分をしていた。

子供の頃、父も母も、それほど関心を見せなかったが、祖母はひたすらドクダミを乾して番茶を作るように煎じて、私には飲ませてくれた。誰かが、病気した時に、にわかに作ったようでもないし、さりとて、番茶のように常飲していたわけでもない。

十薬(ジュウヤク)とか、センブリ茶?とかそんな言葉として、記憶にある。祖母から、虫下し(むしくだし)によく効くので飲みなさいと言われてよく飲んだ。家族の他の者はどのようにしていたのだろうか。当時、野菜の施肥には糞尿が使われていて、ぎょう虫をお腹に持っている人が多く、そんなことを心配してのことだったようだ。

実際、小学校では毎年恒例で検査を受けた。昭和の20年代は、ぎょう虫卵の保卵率は70~80%で、結核と並んで国民病と呼ばていた。現在では、化学肥料の普及や下水道の整備によって、幼稚園児、小学校の児童の保卵率は1%に減った。

先生から説明された内容は、今でもよく憶えている。だって、子どもには余りにも面白い話だったから。成虫のメスは、寝ている夜中に、肛門から出てきてその周辺に卵を産み付ける。その産み付けた卵をセロハンテープのようなものを張って有無を確認する、そのような検査だった。検便ではぎょう虫の検査はできなかったのだろうか。夜中に、肛門から抜け出したぎょう虫が、我物顔で活躍しているなんて、不思議だった。成虫が動きまわった肌は痒かった。

思えば俺たちはの子どもの頃、お尻をよく掻いていたもんだ。

ここで、私は大きな勘違いをしていたことに気づいた。センブリ茶はセンブリ茶として私のこの稿とは別にあった。我が家では、ドクダミを煎じて飲んでいたので、煎(せん)じるをセンブリ茶のセンと、いつか混同してしまったようだ。

現実にこのドクダミの煎じたものを飲んだ後、排便の中に白い小さな虫を見つけたことはあった。

このドクダミが会社の周りの日陰に沢山生えてきたのだ。除草して捨てるには、勿体ない。乾燥させたものを煎じて飲んだ感想をブログする。採集するのは20120614日の金曜日だ。金曜日は、社員全員で社屋の内外を掃除する特別の日だ。

 

最後に、ネットで得た知識をまとめておこう。

薬草としては十薬と呼ばれ、利尿・湿疹・腫れ物・蓄膿症に効能がある。生薬としては、生葉を揉んで柔らかくしておできに当てると吸出しの効果がある。食用にもなる。若芽や若葉は加熱すれば悪臭は消えて、天ぷらなどがおすすめ。またドクダミ茶は、便秘・むくみ・動脈硬化に効果あり。入浴剤にして薬湯にすれば腰痛にもいいとか。

北島の今の心境は?

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20120412日経新聞(探検学校・三浦豪太)

高速水着を着用して出した自らの日本記録を上回った北島(日本選手権)

 

4月、ロンドン五輪の日本代表選手の選考も兼ねていた日本選手権で、ひょっこり日本に帰ってきて、100メートル平泳ぎで日本記録を上回り、3日後には200メートルでも優勝してしまった。

優勝してしまった、と言う表現は、私にとって、なんだか拍子抜けしたというのが、正直な思いだったからだ。五輪派遣の基準タイムを軽々とクリアし、初の4大会連続の五輪代表を決めたのだ。4大会連続とは、恐れ入谷(いりや)の鬼子母神だ。

2000年のシドニー五輪では、100メートル平泳ぎで4位入賞。次の04年アテネと08年北京の両五輪では、100メートル、200メートルの平泳ぎで金メダルを獲得した。

0、01秒の差を競う個人競技だ。

北京五輪が始まる前まで、アテネ五輪で2種目金メダルを獲得してから、どのように過ごしたのだろうか、それが知りたかった。最高の栄誉の金メダル獲得して、さらに次回に向けて緊張をどのようにしたら持続できるものなのか、知りたかった、心配もしていた。高速水着が話題になったときにも、目もくれず泰然自若、「泳ぐのは僕」と言い切った。ところが、どっこい、私の心配を露ほども感じさせない泳ぎで、2大会連続で2種目とも金メダルを掻(か)っ攫(さら)ってしまった。

そして、今度はロンドン五輪を目指している。

北京五輪後の1年以上の休息の後、2009年の11月に「今、復帰しないと、ロンドン五輪に間に合わないと体が言ってきた」と話した、といつかの新聞記事で知った。

そして、先の日本選手権で見事な記録で、我々の目の当たりに健在ぶりを証明した。

それじゃ、アメリカで、泳ぐってことをどのように考えて過ごしているのだろうか、と気になっていたら、ちゃんと新聞がその辺りを記事にしてくれていた。記者は女性だった。取材の的は、他ならぬ北島康介なのだから、もう少しの突込みが欲しかった。

この記事を逃すまい。今の北島の様子がよく解る記事だったので、いつも通り、マイファイルさせてもらった。

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20120605日経新聞 自己責任の国、米国で「水泳の楽しさ知った」という北島。

(米カリフォルニア州サンタクララ)

 

20120605 スポーツ

日経・朝刊  北島、考えて泳ぐ

米で開いた新境地

「結果がわからないからことに挑戦 楽しい」

ロンドン五輪で平泳ぎ2種目の3連覇に挑む北島康介(日本コカ・コーラ 29)が、米カリフォルニア州で3日まで行われたサンタクララ国際に出場した。二人三脚で歩んできた平井伯昌コーチのもとを離れ、米国に拠点を移して2年余り。独りで試行錯誤を楽しみながら泳ぎを仕上げ、五輪史上初の偉業がかかる本番を迎える。

五輪前の最後のレースとなるサンタクララ国際では、100メートル、200メートルとも低調な記録に終わった。もっとも、この結果は予想通り。むしろ良い刺激を受けたようだ。「これでいい練習をしたい気持ちでいっぱいになった。スイッチが入る」

悪い理由はわかっている。五輪代表選考会だった4月の日本選手権の後、再び追い込んだ練習をしていた。また、米国では腕のかきを重視するが、北島の持ち味はかって蹴った瞬間に肉離れを起こしたことがあるほどのキック力。この2つがまだかみ合っていない。

理屈では、キック力に強い腕のかきが加われば、速くなる。「自分の良さを生かさないといけない。でも、これをやったら速くなるとか、分からないよ。結果が分からないことに挑戦するのが楽しい」。

いいコーチの指導を受ければ「努力する選手、才能ある選手はある程度までは伸びる」と北島。だが「そこから先は何が正しいか分からない」。すでに誰も成し遂げたことがない場所にいる。その先の解を考えるのが、今は面白くて仕方ない。米国で新たに知った水泳の楽しみ方だ。

米国では練習メニューこそあるが、選手がそれぞれの意志を持って、自分の感覚を大事にして練習する。「人に流されないんだ。僕も(コーチの)デーブの話を半分聞き流している感じ」。体調やモチベーションを自分で保たなければならない一方で、「周りにガタガタ言われない。ダメだったら全て自己責任。失敗の原因を分析するのも楽しいしね」。

この2年、試行錯誤してコツコツ積み重ねてきたことは「徐々に生きている」。故障の多い北島がケガらしいケガや体調を崩していないのもその証しの一つか。今後のテーマは腕のかきとキックを合わせること。「自分のタイミング、水の感覚を頼るしかない」。

4年前、8年前は「絶対、金メダル」と目をギラギラさせていた。勝負そのものが楽しかった。今回は違う。「落ち着いているね。成し遂げたい気持ちはない」。今の醍醐味は自分で考えて泳ぐこと。そのために努力する。

「もう僕の勝負は(多く)見てもらったでしょ。でも十分な状態で五輪に出れば、みんなにも楽しんでもらえると思う」。自分の考えの正しさに手応えを感じている。

(サンタクララ〈米カリフォルニア州〉=原真子)

2012年6月7日木曜日

後輩と久しぶりに、痛飲した

大学時代のサッカー部の後輩が、久しぶりに弊社に顔を出してくれた。

松さんだ。

卒業して入った日本でも有数な重電系大手を35年勤めて、定年後に再就職した会社の営業を兼ねての訪問だった。営業をしかけられた内容には、今後できるだけ協力すると約束を交わした。かって、15年ほど前には、私も経営に参加したトナーカートリッジのリサイクルの仕事で、松本さんが勤めていた会社から常時、大量に受注させていただいていたので、その恩返しの意味も込めて、協力したいと思う。

その重電系大手は、色んな分野を手がけていたが、彼は、街角などでよく見かける飲み物などの自動販売機を扱うセクションに所属していた。自社で製造したものを、いろんな方面に販売する営業の係だった。銀座のクラブで女性を侍らかし、お酒を飲んでのサービス残業に精励、お陰様で糖尿病になっちゃいました、と笑っていた。ゴルフは、接待ゴルフで相当腕に自信をつけたようだ。

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彼は、昭和44年頃のこと、浦和南高校が高校サッカーで三冠を獲得したときのメンバーだった。有名な松本暁司先生率いるチームだった。その勢威(いきおい)で、我らの大学に入部した。優秀な選手だった。このチームからは、その後、古河電工に入社した永井良和氏、日本サッカー協会の田嶋幸三氏やサッカー解説者の水沼貴史氏らを輩出した。

私が大学でサッカーに明け暮れていた頃、サッカーが盛んだった地域は、北から埼玉、東京、静岡、京都・大阪、広島だった。明治40年代に大学でサッカーをしていたのは、東京帝国大学と東京師範学校だった。この東京師範学校の卒業生が教職員として散らばったのが、埼玉、静岡、広島だったようだ。私の出身である京都府も教員のサッカーチームが強かった。この影響が教育にも行き届いたのだろう。中でも、群を抜いていたのが、埼玉、静岡、広島だった。

酒を飲めば、出てくる話は昔の学生時代のことばかり。話は、喜怒哀楽込み込みの四方山盛り?沢山。私たちの青春時代、4年間、熟(う)れることなく青い果実のままだった。

彼は私たちの大学のサッカー部(私たちの大学ではア式蹴球部と呼んでいる)を、一時的に抜けたことがあった。その原因は、OBで日立製作所サッカー部の三太郎さんに、練習時間中ではなくプライベートに呼び出されてイチャイチャ文句を言われ、それに対して若者らしく激しく逆らった結果だったらしい。実に、下らない先輩から下らない忠言を受けたらしい。馬鹿はいつの時代も健在だ。

しばらくグラウンドから遠ざかった彼は、やはり、再びグラウンでプレーすることを部に対して切望した。申し出を受けた我ら4年生は、8人、この件で話し合いをもった。学生自治だ。ある者は、我が栄光の大学サッカー部を舐めているんではないか、軽く見くびっているんではないか、と言う。ある者は、失敗やミスや愚かな行為を、強く反省しているのならば、何度でも、受け入れていいのではないか、と言う。

松さん、俺はあのとき、あなたの復帰を支持する最左翼だったんだよ。

話し合いの内容は、こんな内容だった。私は、栄光だとか名誉あるチームだということは理解できても、この件を判断する何の基準にも成り得ないと思っていたから、彼の復帰を迎えたかった。

本音で、仲間が一人でも多く居て欲しかったのだ。こんな話し合いだったが、腹を割って話し合うと、随分、自分と異なる意見を持っている者もいることに、気付かされた。これから巣立って行く社会も、このように千差万別、色んな考えが入り乱れているのだろう。

話は、転職した会社のこと、今までの会社でのこと、家族、とりわけ子供たちのことについては、力を入れて話していた。話しは尽きなかった。私の会社の、今の状況についても詳しく話した。

大学時代に同じ釜の飯を食った仲間は、いいもんだ。自宅は新小岩だそうだ。