2012年8月10日金曜日

四人目の子(娘)の結婚に、乾杯

MX-3500FN_20120722_134011_001

結婚報告の葉書

 

20120804に、私の4番目の子供・ノソが軽井沢高原教会で結婚式を行う。

何ヶ月か前に予告されていたが、メモすることを失念して、一昨日20120715、あれっ!結婚式は何日(いつ)だったけと思いつき、確認のためにノソに電話したら、正確な日時を教えた後に、父には、乾杯の音頭をしてもらうことになっているからね、と言われた。

口下手なんだ。味の染(し)み出た? 言葉が出てこない、話法にも拙(つたな)いけれど、人前で話すことは好きなのだ。自分の本当の気持ちを自らの言葉で語れる貴重な機会だからだ。

今回は、新婦の父親なので、美辞麗句の必要はない。娘を嫁に出す父親の立場で「乾杯」の音頭役だ。嬉し恥ずかし、開演のスターターだ。

さて、何をどのように話せばいいものか、このページで試みてみた。

冗長は一番嫌われる、イカン、イカン。要領がよくて愛嬌、ユーモアがないと、イカンなあ。新郎新婦の琴線に触れる話ができたらいいな。これって非常に難しい。新郎新婦以外の人たちにも聞き応えのあるスピーチ、ますます難しいなあ。

それでは、本番です。読んでみてくださいな、添削、大いに歓迎するところだ。

 2012no 003

   ーーそれではーーはじまり、はじまりーー

今、司会者よりご紹介にあずかりました新婦・ノソの父親の山岡保です。ここに居るのが、女房の有子です。

タツー、ノソ、結婚おめでとう。龍之介君のことを横浜では、タッツンと呼んでいるのです。私はタツーと呼ぼうと思っている。松町家関係の皆さま方、今日は、この喜びを共に分かち合いましょう。

新郎のタツーとは、先月豚カツ屋で、二人っきりで話す機会がありました。結婚に至るまでの経緯から、今後の仕事における覚悟の程を話してくれました。私の方からは、身の上の状況を話し、心境を裏表無く話しました。タツーは、実の子供でないだけに、客観的に理解してくれたようでした。

いい友人がもう一人増えた思いです。

新婦のノソは、我々の夫婦にしては上出来のいい子です。我々夫婦の自慢の子ですが、まだまだ未熟者です。今後ともよろしくお付き合いしていただけることを切にお願いします。

タツーのことを、ちょっとでも多く知りたくて、私の子供に、タツーちゅう奴は一体どんな奴や?と聞いたことがあるのです。そしたら、タツーはノソを男にしたような奴や、と返事が返ってきて、その時は成る程と妙にスンナリ納得しました。きっとお似合いの夫婦なのでしょう。

二人は、造形を学ぶ学校で知り合っている。物作りは、着想したものを見えるものに仕上げる作業だ。創意と技術が必要です。その作業は、仕事にも、家庭作りにも、相通ずるように思うのです。モノ作りの喜びを共有していることは、十分に君たち固有の財産だと思う。

松町家の皆さん、タツーは我々の仲間に既に取り込んでしまいました。今度はノソを松町家の仲間に入れてやってください。

私の娘や息子たちはそれぞれに元気に家庭を築いています。、田森家あり、山岡家あり、内竹家ありで、これからは松町家の合流です。新郎新婦が作ってくれた家族同士が、末永くお付き合いできることを楽しみにしています。

マツーとノソの末永き幸せと、並びにこの宴にご参集の皆さんのご健康とご多幸をお祈りいたしまして、カンパイ!!

 2012no 007

タツー手作りの婚約指輪

 

20120808に追記

こんなラフな下書きを用意していたが、本番では「もう、何も言うことネエ」と北島康介の此の4月の日本選手権の時の言葉を借りた、それだけしか言えなかった。

それに、やっとの思いで「カンパイ」とだけ、発するのが精一杯だった。いつまでも、駄目オヤジぶりは変わらない。

2012年8月7日火曜日

笹船にアリでも乗っけるか

20120804 三女の結婚式と披露宴に出席するために、軽井沢に来ていた。

当地には前日の深夜に着いた。翌朝、結婚式を行う教会の隣接にあるハイカラなレストランで、パンとコーヒーで朝飯を終え、木陰で本を読んだり、周辺に流れる小川を眺めたりして、夕方の挙式までの時間を楽しんでいた。読んでいた本はV・E・フランクルの「夜と霧」だ。連れて行った犬たちも、軽井沢の風が気持ち良さそうだった。久しぶりに会った孫たちが、仲良く遊んでいるのを見て楽しんだ。

昼食後、次女夫婦と目に入れても痛くない孫たちの中で一番の年長者のハルを連れて、4人で小川に沿った小路を歩いていたら、ハルはパンツ1丁になって水に入り出した。さすがに水は冷たくて、潜ろうとはしなかったが、足をパンツぎりぎりの深さまで水につけて楽しそうだった。川床の石の上を慎重に歩いた。

image

小路に突き出した熊笹で、次女の婿の竹さんが船を作った。笹舟だ。そして、「川に流そう、蟻(アリ)でも乗せて~」と孫に話しかけていたら、次女のハナが、そんな可哀相(かわいそう)なことをしちゃ駄目だよ、と話す声が後ろの方に居ても聞こえた。「そうだなァ」と婿の返答も聞こえた。この地球に住むどんな小さな命にも、気遣う子になって欲しいと思う母心なのだろう。あんなにヤンチャだった娘がよくもこんなに優しい母親になってくれたもんだ!! 大木の陰で、再び本を読んで時間が過ぎるのを待った。樹木の葉々から蒸散するシャワーが心地よい。

その後、結婚式を終え、披露宴も私の涙の乾杯コールで始まり、順調にお開きになったことは言うまでもない。

5日の夕方に横浜に戻り、会社に寄って一人アパートに帰った。

そして20120806の朝日・天声人語だ。自分の慣れ親しんだ居所で目を覚まし、お茶を飲み、飯を食って新聞を読む。実にありふれた生活、こんな日常がなんとも幸せなんだと、此の頃つくづく感じるようになった。ところが、その慣れ親しんだ、ありふれた日常の中に、軽井沢でのひとコマを思い出させることが起こった。

天声人語の主題が事の重大な原爆で、なんてことの無い我が家の「笹舟アリ事件」が、今回の胸を打つ天声人語につながった、ということだけの話だが。

早速マイポケットする。

genbaku08

20120806

朝日・天声人語

足元のアリが目にとまることがある。踏みたくはないが、人の想像力は知れていて、靴の裏で起きるアリの悲劇には思いが至りにくい。67年前の原爆投下は、人をアリと見る所業だった。

かって米国の博物館が企画した原爆展は、地上の惨状を紹介しようとして退役軍人らにつぶされた。担当者は「彼らは原爆投下を(原爆機が飛ぶ3万フィートの高さから見ようとしている」と嘆いたそうだ。

広島が死んだ日、原爆をつくった科学者たちはパーティーに興じた。設計通りに爆発したことのお祝いである。なんという想像力の欠如。救いは、自責の念から木陰で吐いていた若手がいたことか(文春新書「父が子に教える昭和史」)。

ウラン型の「成功」に続き、3日後には長崎でプルトニウム型が試された。科学者は核分裂のエネルギーを制御できたと喜んだが、最後は手綱を解いて暴れるに任せるのが核兵器だ。実際、見込み違いもあった。

原爆の破壊力のうち、開発陣は衝撃波に重きを置いたとされる。だから放射線と熱線の殺傷力を知って驚いた。「起きたことは私たちの想像をはるかに超えていた」と。乾いた述懐に、日本人として平静ではいられない。

翻って原発の制御は、廃炉まで暴走させないことに尽きる。事あれば国土の一部が失われ、放射線におびえる生活が待つ。福島の教訓は、核は飼いならせる代物ではないということだ。故郷を追われた人々に思いを致し、誰もが核被害者の、いわば「アリの目」を持つ時だと思う。

2012年8月1日水曜日

差別つぶやき

20120726の朝日・朝刊・社会で、ロンドン五輪の陸上女子三段跳びに出場する予定だったギリシャのボウラ・パパクリストウ選手(23)が、ツイッターで人種差別的なつぶやきをしたとして、ギリシャ五輪委は「オリンピックムーブメント(五輪運動)の理想にに反する発言をしたため、代表から外すことを決めた」との記事を見つけた。ソーシャルメディアによる発言で罰せられた最初の選手だ。

voula-1r

AP通信によると、パパクリストウ選手は、アフリカからの移民をからかい、極右政党への支持を表明するようなつぶやきをしたという。

記事は小さな扱いだが、その意味は大きい。

国を代表して五輪に出場する資格を得るには大変なことだ。選ばれた選手は、猛烈なトレーニングを重ねての研鑽の日々、そうして並み居るライバルたちと激しく競って資格を得たのだろう、が、パパクリストウ選手から出場資格を取り消したことは、原因となった差別発言がいかに重要かと言うことだ。

五輪は、今じゃ五つの大陸?なんて観念は薄れ、世界の隅々までの国や地域が参加する、世界丸ごと大会だ。参加国・地域数は204。かって、女子の参加は認められていなかった時代はあったが、2012今回のロンドン五輪は女子の参加競技も増えたこともあって、史上初めて全ての参加国・地域から女子の参加があった。

クーベルタン男爵は、さまざまな民族同士が切り離している諸々の偏見を乗り越えるまで、平和を手に入れることはできない。個人の自由を尊重すること、すぐれた意思と肉体を持つ人間を育てることだと言った。スポーツ選手は記録を出す前に、より賢明で、よりスマートであらねばならない。そしてフェアプレイに徹する。

200px-Coubertin

wikipediaより拝借 ピエール・ド・クーベルタン

近代オリンピックの父・クーベルタンの言葉より、「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」。

 

話は変わるが、先のサッカー欧州選手権の決勝戦で両チームがスタジアムに入場する際、彼らを先導した青いフラッグには、「RESPECT DIVERSITY」(リスペクト ダイバーシティー)と書かれていた。他者の多様性を尊重しよう、ということだ。スポーツの世界において懸命に取り組んでいる問題だ 。私が考えている以上に荒廃している現状があるのだろう。 

人種、性別、宗教、言語、あらゆる違いをポジティブにとらえて「違うから排除する」のではなく、「違いこそが新しい何かを生む」と日本サッカー協会特任理事の野田朱美氏が述べていたことを朝日新聞の記事で知った。

 

★オリンピックムーブメント(五輪運動)

★オリンピズム

2012年7月31日火曜日

ネコって、猫からきてるの?

ヤマオカさん、明日20120726、11:00に泉区中田の東さんの現場に応援にきてくれませんか、と同僚の桜から要請を受けた。

220px-2008-07-15_Construction_wheelbarrow_at_Duke

「ネコ」と言われている、手押し車。

 

その1

コンクリートの打設をする予定なんですが、人手が足りないので、応援して欲しいということらしいので、喜んで参加しましょ、勢いよくイイヨっと応諾した。

東さんの家は、私の友人の農婦の自宅のすぐ近所にある。農婦の家の外壁塗装を弊社で受注して、その打ち合わせの中で、近所で庭のブロックフェンスを作り直したがっている人がいるんだけどと言われ、担当者の桜は何もかもが縁ですから喜んでお請けしたいので是非紹介してくださいとお願いした。

東さんは、仲良くしている農婦がそこまで信用している会社なら、きっと信用できる会社だろうと判断して、お願いするわということになった。

前夜、風呂に入って焼酎飲んで、翌日の私の担当することになる仕事をイメージして、ニンマリ、自然に顔が緩んだ。

明日、ミキサーカー(トラックミキサー)の荷降ろし用の樋(とい)から、コンクリートをネコに流し込んでもらい、そして型枠の組んだところへネコを押して行く。ネコの先を下に、ハンドルを高めて型枠の中にコンクリートを流し込む。太陽の日差しがガンガン差す。額には汗が溢れ、タオルが汗でびっしょり。型枠の中に入れたコンクリートを棒で突っついて、コンクリートが空(す)き間のないように隅々までいきわたるようにする。このような作業で、私は十分楽しいのだ。

そんなことに思いを巡らしながら、氷を浮かした水割り焼酎を何杯も飲んだ。

だが、翌日の11:00には、工事の準備が遅れて私の出番はなかった。ショック。現場に駆けつけて、焦る担当の桜にそんなに無理すること無いよと声を掛けて、ミキサーカーの到着時間を15:00に遅らせた。

東さんが冷たいお茶を、農婦さんから頂いた西瓜なのよ、と煎餅と合わせて出してくれた。私は、農婦さんの友人で、会社が休みの水曜日の午後に少しだけ野良仕事を手伝っているんですと話した。生家が百姓だったので、彼女の仕事の手伝いで土を掘り起こしたり、野菜を見つめていると心が休まるのだ。

私の前夜の白昼夢ならぬ夕べの夢は、儚く現実化しなかった。

私は久しぶりにネコに触れて、使いこなしたかった。ネコだけではない、スコップやツルハシだって、鍬や鎌だって、本物のドカタや百姓さん以外なら誰にも負けないほど使い慣らしていた。そんな道具類に囲まれてみたかった。大学に入るまでの2年間のうち、3月から8月末までの半年間を2回、それは本物のドカタだった。日当だって、学生アルバイト並みではなく、オジサンたちと同額を頂いていた。

お茶を頂いて、寛ぎながら雑談をしていてら、何故、あの手押し車のことをネコと呼ぶのだろうか、と話題になった。今まで、何度もこんな機会に巡り合ったけれど、誰からも呼称の由来を聞かされたことがない。ドカタ時代には、疑問を本気で調べる余裕はなかった。今なら、何だってネットで手っ取り早く調べられる。

お茶を頂いて現場を離れて、違う現場に向かった。

 

その2

そうだなあ、そんなことも知らないで死ぬわけにはいかないなあ。早速、会社に戻ってネットで調べてみたら、私と同じ疑問をもつ人は、この世にちゃんと居た。検索して、ネットの問答編を見た。

色んな返答を読んでみたが、答えはこれしかないと言い切る人はいなかった。それでも、正解に近いと思われるような、幾つかのアンサーをここにまとめて、それなりに納得することにした。

語源は未詳だからこそ、興味は果てしない。

1,工事現場などでよく見かける幅の狭い木の板の通路を「ねこの足場」と呼び、その通路をヒョイヒョイと移動するのを、猫が塀や屋根の上などを歩くことに例えて、ネコと呼んだ。

英語でも、狭い通路のことを CAT WALKと言うらしい。

2,この手押し車を、仕事を終えると中の汚れを洗い落として逆さまにひっくり返しておく様子が、丸まって寝ている猫の後ろ姿に似ていることから、そう呼ばれた。

3,奈良時代には、刀剣の材料になる良質な砂鉄のことをネコと言った。山から採れる鉄鉱石もネコと言われ、それらを運ぶことからネコ車になった。

2012年7月29日日曜日

夜と霧

MX-3500FN_20120727_085515_001

弊社の経営責任者の中さんの父親が老人ホームに入るのに、持っていけない荷物を弊社で預かることにした。沢山のクラシック音楽のCD、ビデオ、本の山の中にこの本、「夜と霧」があった。

この本を中さんの了解を得て、自宅に持ち帰り自分の机の上の本棚に立てたままにしてあった。いつ手をつけようかと思いながら、読みあぐねていた。内容が重いこともあって、直ぐに読書に取り掛かれない。手っ取り早い本をついつい優先的に読んで、この本を読むのが億劫になっていた。

大学時代、余りにもあっさり、飛ばし読みしたことを後悔、いつかはじっくり読まなくてはイカンと思っていた。当時の私は、読書量をそれなりにこなして、それで満足していた。昨今は、商売にうつつを抜かしている。そんな私に、突然目の前に「夜と霧」が再び現れたのだ。視線は点に、やはり手元に置いておきたくなって、中さんにおねだりをした。

そして、状況が変わらないまま、約1年が過ぎた。

今、7月が終ろうとして、8月が近づいてきた。1945、8、15、戦争は終った。毎年、終戦記念日が近づいてくると、戦争に関しての様々な企画が開催される。私にも胸騒ぎが始まりかけていた。そんな心中(しんちゅう)に炎の点いた矢が刺さった。その矢とは、日経新聞20120721の「春秋」の「夜と霧」を題材にした文章だ。後の方に、そのまま転載させてもらった。

春秋を読んではじかれたように、やっと、私はこの本の再読を始めた。40余年ぶりだ。

この本「夜と霧」の著者はV.E.フランクル。霜山徳爾訳、発行はみすず書房。原題は、「強制収容所における一心理学者の体験」だ。この本はフランクル教授が自らユダヤ人としてアウシュヴィッツ収容所に囚われ、奇跡的に生還した実体験の記録である。

MX-3500FN_20120729_174150_001 

アウシュヴィッツ・ビルケナウの収容所の有名な「死の門」。囚人列車はこの門より中に引き入れられ、ガスかまどに向かう。

 

1941年12月6日にヒトラーが発した「夜と霧」特別命令は、非ドイツ国民で占領軍に対する犯罪容疑者は、夜間秘密裡に捕縛して強制収容所に送り、その安否や居所を家族親戚にも知らせないとするもので、後にはさらにこれが家族の集団責任という原則に拡大され、政治犯容疑者は家族ぐるみ一夜にして、霧のかなたに消え失せた。その数、6百万人とも1千万人とも言われている。これが、その特別命令の中身だ。

MX-3500FN_20120727_085530

V.E.フランクル教授

 

この本を20120729も読書中です。1日5ページ位しか進まない。頭が痛くなるんだ。

読後、私なりの感想を書きたいと思うが、今、此処では、作家の野上弥生子氏の評を引用させてもらう。氏の文章で、大方の本の内容は理解してもらえるだろう。この文章はこの本の裏表紙に書かれていた。

私の頭脳は分析する力に乏しく、感情移入されやすいタイプなので、読後しばしの時間が経たないと、文章にはできない。

=この本は、人間の極限悪を強調し、怒りを叩きつけているが、強制収容所で教授が深い、清らかな心を持ち続けたことは、人間が信頼できるということを示してくれた。この恐ろしい書物にくらべては、ダンテの地獄さえ童話的だといえるほどである。しかし私の驚きは、ここに充たされているような極限の悪を人間が行ったことより、かかる悪のどん底に投げ込まれても、人間がかくまで高貴に、自由に、麗しい心情をもって生き得たかを思うことの方に強くあった。その意味からフランクル教授の手記は現在のヨブ記とも称すべく、まことに詩以上の詩である。

MX-3500FN_20120729_175339_001

【掃蕩広場への行進(ワルシャワ)】

 

 

MX-3500FN_20120729_174306_001

(ベルゼン強制収容所の集団殺戮のあと)

 

★お詫び=無断で、この本の写真を使わせていただいた。すみませんでした。

ーーーーーーーーーー

20120721

日経・朝刊

春秋

ーーー

人々は貨車に詰め込まれ、アウシュヴィッツに送られた。その耳に鋭い汽笛が薄気味悪く響く。「大きな災厄に向かってひかれていく人間の群れの化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった」。フランクル「夜と霧」の一節である(霜山徳爾訳)。

収容所に着くや、ユダヤ人らは2組に分けられた。ナチスの親衛隊将校が右を指せばガス室へ、左を指せば強制労働へ。それ以前、列車が着いたときには常におびただしい男女が息絶えていた、そんな貨車に人々を乗せる役割を果たせたとされる97歳の最重要戦犯が先日、ハンガリーの首都ブダペストで拘束された。

スロバキア東部の町で警察j幹部だった1944年春、ユダヤ人1万5700人をアウシュヴィッツに送るのに協力したというのが、この男の容疑だ。戦後、本人不在で死刑を宣告されながらもカナダに逃走するなどして行方をくらましていたという。それでもついに悪運は尽きたというべきか、長い長い潜伏生活は終った。

「夜と霧」とは、ヒトラーが出した特別命令の呼び名だ。夜陰に紛れて市民を捕縛し、霧のかなたへとその存在を消し去るーー。少なくとも、600万人以上が犠牲になったといわれるホロコーストはこの名のもとに遂行された。人類の犯した極限の罪に関わった者への追及は、現代史の霧を晴らすあくなき営為でもあろう。

2012年7月26日木曜日

国民に対する裏切りだ

20120717の朝日・朝刊の社説で海上自衛隊の文書隠しの問題を、「国民に対する裏切り」のタイトルで論じていた。

この社説を読んでいて、この類のことなら、今の日本にはいくらでもあるのではないかと自嘲を込めて思う。

せめて、役所仕事ぐらいはしっかりやって欲しいものだ。役所仕事の怠慢か悪意が、結果に及ぼした悪影響を、携わった公僕たちは、どのように考えているのだろうか。公僕とは、広く公衆に奉仕する者のことなのだ。公務員とはそういうものだ。

以下、社説の一部~

何回同じことが繰り返されるのか。そのたびに行政に対する信頼は傷つき、国の土台がむしばまれてゆく。海上自衛隊から「破棄した」はずの文書が見つかった。2004年におきた隊員の自殺をめぐり、同じ護衛艦の乗組員にいじめなどの実態を聞いたアンケート結果だ。薬害エイズ事件のフアイル隠しを思い起こす。海自は、自殺の原因を知ろうとした遺族情報公開請求に「文書はない」と答え、賠償を求められた訴訟でも、裁判所の提出命令に応じなかった。公正で民主的な行政の推進を掲げて制定された情報公開法と、裁判を適正に進めるためにある民事訴訟法。その両方をないがしろにした行いである。引用した社説はここまで。

「文書はない」と言えば、不開示がまかり通る。それで現行制度を正す改正法案が昨年4月には閣議決定されたが、未だに法制化は進んでいない。

悪意のある役人なら兎も角、小さな誠意さえあれば、こんな馬鹿なことは起こらなかったはずだ。

エイズ問題もそうだった。薬害エイズ事件の処理に当たり、当時厚生省の官僚たちが無いと主張していた行政の過ちを証明する郡司ファイル(当時の厚生省生物製剤課長・郡司篤晃がまとめた)を、厚生大臣・菅直人の指揮のもと発見された。このことで、菅大臣は人気を博したが、これは前大臣たちの功績を横取りしたものだ、との意見もある。

小沢一郎の政治資金規正法における虚偽記載の罪に問われての取り調べにおいて、何と日本の司直の最高権威である東京地検が、事もあろうに証拠品に手を加え、虚偽の報告書まで作ってしまった。こんなことは絶対許されない。

政府の福島第1原発事故の危機管理の脆さには呆れてしまった。その一つひとつを拾って糾弾していたらキリがない。各事故調査報告書を垣間(かいま)読むにつけ、危機管理の面で納得できない点が多い。現場スタッフの撤退が一部なのか完全撤退なのか、事の重大性から政府と東電との連絡・確認作業が余りにも軽々しく無責任過ぎた。事故当時、現場の指揮をとっていた吉田昌郎所長は、原子炉の冷却作業をする人間は撤退できないと死を覚悟した、破滅的に何かが起こるだろう、と恐怖したことを語っている。もう少し言わしてもらえば、米軍の放射線測定に基づく汚染地図の提供を受けていたのに、国民には知らせなかった。緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)の試算を米国には伝えたのに、国内向けには公表しなかった。国民に対する安全安心を損(そこ)ねた。

今話題になっているのは、大津の市立中学2年生の男子生徒がいじめを苦にマンションから飛び降り自殺した問題で、当初、学校と市の教育委員会はその因果関係を認めようとしなかったが、ここにきて、世論の後押しもあってか、市は因果関係を認め、実態を明らかにして、被害者側と和解したい旨のコメントを市長は述べた。この件で、学校で2回行った生徒たちのアンケート調査の中で「葬式ごっこ」や「自殺の練習と言って首を締める」の記述があったにもかかわらず、教育委員会は見落としていた、気づかなかった、と記者会見で堂々と述べていた。又、この学校では60人前後の教員がいるが、アンケートの全体をきちんと把握していた教員は、たったの10人程度だった。共有されていなかった。

こんなことを、連々(つらつら)書き出したら、いくらでも思いついて、何だか虚しくなってきて力が入らない。

一旦、ここで幕引きだ。

と、思っていたら、幕引きの翌日はハレンチな教諭のオンパレードで、その翌々日は、全国的に警官の不祥事が多発している。我々が必死の思いで収めた税金から給料をもらっている輩ばかりだ。嘆かわしい、浄化運動こそ必要だ。

お・か・し・い!!ぞ。

2012年7月25日水曜日

踊場、その名の由来は?

MX-3500FN_20120725_084459_001

20120721 朝日・夕刊・文化

階段の踊場で語る「三匹の猫」(横浜市地下鉄・踊場駅)

 

昭和51年から52年にかけて、私がかって勤めていた某電鉄系の不動産会社で、太陽とか月とか、神戸だとか横浜だとかの名のつく銀行の遊休地に、注文建築事業部が住宅を建てて売却する、そんな開発を長後街道を長後に向かって右側の窪地のような所で行った。私はその事業のスタッフだった。ちょうど、今の地下鉄駅の東側の辺り。規模は35棟ほどだった。

そのとき、「踊場」が面白そうな地名だから、この事業の販売用のパンフレットに使おうと思って調べたことがあった。だが、仕事が滅茶苦茶忙しかったこともあるが、印刷物を作るまでもなく売れてしまったので、私の思いつきはそれまでだった。

今からほぼ40年ほど前の長後街道は、狭くて、雨の日などは泥んこ道で車の混雑ぶりは半端ではなかった。立場の方から来たバスは、乗客がぎゅうぎゅう詰めで動かない。シビレを切らした乗客は、この踊場付近で降車して戸塚駅に向かって歩き出していた。その方が早かった。

そんなとんでもない長後街道も、踊場も、今は往年の嫌なイメージからは、スッカリ垢(あか)抜けして、ハイカラな街の風景に変わった。私よりも年配者たちには、隔世の感、大いにありだろう。

地下鉄の延伸に伴って、踊場駅ができたのが1999年。

今回はその駅名にもなっている「踊場」という地名の由来と、踊場駅のお話が朝日新聞・夕刊の文化欄に載っていたので、やはりマイファイルしておこうと思って、その記事そのまま転載させてもらった。ライターは森均さん。

ーーー

駅 ものがたり  踊場

 

横浜市営地下鉄踊場駅(横浜市泉区)の駅名は、地元に伝わる「踊る猫伝説」からきている。

言い伝えでは、毎夜、人里離れた峠に古猫が集まり、持ちだした飼い主の手拭いをかぶって踊り回ったらしい。いつからか、一帯を踊場と呼ぶようになり、とうとう駅名にまでなった。

構内各所に猫のデザインが施されている。通路の壁には縦長の大きな紡錘形の模様。気づかない人が多いが、眺めていると猫目に見えてくる。

階段の天井や手すりの下など、目立たない所にも猫がいる。案内板はなく、見つけるのは結構難しいが、「ひそかに隠れているのが猫らしくていい」と猫好きは言う。

「15匹いるから、探してみては」と笹木一慶駅長。その気になって歩き回ると、地上出口の横に猫の供養碑があった。住民が持ち寄った招き猫の置物が並ぶ。これも含めると15匹どころではない。近くの公園には、「ワンパク」でなく「ニャンぱく砦(とりで)」と名付けた子どもの遊び場があった。猫伝説はまだまだ幅をきかせている。