2012年7月29日日曜日

夜と霧

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弊社の経営責任者の中さんの父親が老人ホームに入るのに、持っていけない荷物を弊社で預かることにした。沢山のクラシック音楽のCD、ビデオ、本の山の中にこの本、「夜と霧」があった。

この本を中さんの了解を得て、自宅に持ち帰り自分の机の上の本棚に立てたままにしてあった。いつ手をつけようかと思いながら、読みあぐねていた。内容が重いこともあって、直ぐに読書に取り掛かれない。手っ取り早い本をついつい優先的に読んで、この本を読むのが億劫になっていた。

大学時代、余りにもあっさり、飛ばし読みしたことを後悔、いつかはじっくり読まなくてはイカンと思っていた。当時の私は、読書量をそれなりにこなして、それで満足していた。昨今は、商売にうつつを抜かしている。そんな私に、突然目の前に「夜と霧」が再び現れたのだ。視線は点に、やはり手元に置いておきたくなって、中さんにおねだりをした。

そして、状況が変わらないまま、約1年が過ぎた。

今、7月が終ろうとして、8月が近づいてきた。1945、8、15、戦争は終った。毎年、終戦記念日が近づいてくると、戦争に関しての様々な企画が開催される。私にも胸騒ぎが始まりかけていた。そんな心中(しんちゅう)に炎の点いた矢が刺さった。その矢とは、日経新聞20120721の「春秋」の「夜と霧」を題材にした文章だ。後の方に、そのまま転載させてもらった。

春秋を読んではじかれたように、やっと、私はこの本の再読を始めた。40余年ぶりだ。

この本「夜と霧」の著者はV.E.フランクル。霜山徳爾訳、発行はみすず書房。原題は、「強制収容所における一心理学者の体験」だ。この本はフランクル教授が自らユダヤ人としてアウシュヴィッツ収容所に囚われ、奇跡的に生還した実体験の記録である。

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アウシュヴィッツ・ビルケナウの収容所の有名な「死の門」。囚人列車はこの門より中に引き入れられ、ガスかまどに向かう。

 

1941年12月6日にヒトラーが発した「夜と霧」特別命令は、非ドイツ国民で占領軍に対する犯罪容疑者は、夜間秘密裡に捕縛して強制収容所に送り、その安否や居所を家族親戚にも知らせないとするもので、後にはさらにこれが家族の集団責任という原則に拡大され、政治犯容疑者は家族ぐるみ一夜にして、霧のかなたに消え失せた。その数、6百万人とも1千万人とも言われている。これが、その特別命令の中身だ。

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V.E.フランクル教授

 

この本を20120729も読書中です。1日5ページ位しか進まない。頭が痛くなるんだ

読後、私なりの感想を書きたいと思うが、今、此処では、作家の野上弥生子氏の評を引用させてもらう。氏の文章で、大方の本の内容は理解してもらえるだろう。この文章はこの本の裏表紙に書かれていた。

私の頭脳は分析する力に乏しく、感情移入されやすいタイプなので、読後しばしの時間が経たないと、文章にはできない。

=この本は、人間の極限悪を強調し、怒りを叩きつけているが、強制収容所で教授が深い、清らかな心を持ち続けたことは、人間が信頼できるということを示してくれた。この恐ろしい書物にくらべては、ダンテの地獄さえ童話的だといえるほどである。しかし私の驚きは、ここに充たされているような極限の悪を人間が行ったことより、かかる悪のどん底に投げ込まれても、人間がかくまで高貴に、自由に、麗しい心情をもって生き得たかを思うことの方に強くあった。その意味からフランクル教授の手記は現在のヨブ記とも称すべく、まことに詩以上の詩である。

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【掃蕩広場への行進(ワルシャワ)】

 

 

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(ベルゼン強制収容所の集団殺戮のあと)

 

★お詫び=無断で、この本の写真を使わせていただいた。すみませんでした。

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20120721

日経・朝刊

春秋

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人々は貨車に詰め込まれ、アウシュヴィッツに送られた。その耳に鋭い汽笛が薄気味悪く響く。「大きな災厄に向かってひかれていく人間の群れの化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった」。フランクル「夜と霧」の一節である(霜山徳爾訳)。

収容所に着くや、ユダヤ人らは2組に分けられた。ナチスの親衛隊将校が右を指せばガス室へ、左を指せば強制労働へ。それ以前、列車が着いたときには常におびただしい男女が息絶えていた、そんな貨車に人々を乗せる役割を果たせたとされる97歳の最重要戦犯が先日、ハンガリーの首都ブダペストで拘束された。

スロバキア東部の町で警察j幹部だった1944年春、ユダヤ人1万5700人をアウシュヴィッツに送るのに協力したというのが、この男の容疑だ。戦後、本人不在で死刑を宣告されながらもカナダに逃走するなどして行方をくらましていたという。それでもついに悪運は尽きたというべきか、長い長い潜伏生活は終った。

「夜と霧」とは、ヒトラーが出した特別命令の呼び名だ。夜陰に紛れて市民を捕縛し、霧のかなたへとその存在を消し去るーー。少なくとも、600万人以上が犠牲になったといわれるホロコーストはこの名のもとに遂行された。人類の犯した極限の罪に関わった者への追及は、現代史の霧を晴らすあくなき営為でもあろう。