2013年1月23日水曜日

カルチョはサッカーの起源

下の記事は、2012の或る日の日経新聞のものだ。サッカーを愛して止まない私にとって、読み捨てるわけにはいかない内容だったので、そのままここに転載、マイ・ファイルさせてもらった。

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カルチョはサッカーの起源

伊 フィレンツェ

古代蹴球 市民に脈々

乱闘排除「お祭り」守る

 

イタリア中部の古都、フィレンツェ。ルネサンス期の絵画や彫刻があふれる文化の都は毎年6月後半、あるスポーツに熱狂する。その名はカルチョ・ストーリコ。訳せば古代フットボールで、イタリアではサッカーやラグビーの先祖とされている。存続の危機を乗り越え、その伝統は市民の手で受け継がれている。

青組のリーダー、ガブリエレ・ツェケレーリさん(56)がボールを手にじりじりと前進する。赤組の選手がこれを阻もうとすると、あちこちで殴り合いや取っ組み合いが始まる。ツェケレーリさんはこの間に中央を突破し前線にパス。受け取った味方が敵陣ゴールにボールをたたき込んだ。

1チームは27人。ボールを蹴ることもできるがラグビーのように持って走ったり、パスを回したりする場面が多い。ボールを持たないプレーヤーへのタックルやパンチも反則でなく、集団格闘技のようにも見える。

市内の教会前の広場がこの時期だけスタジアムに一変し、約5千の観客席は満杯になる。青いシャツ、青いカツラをまとったモニカ・カルブーティさん(40)は「旦那がいる青組が絶対に勝つ」と興奮気味だ。

市内の4地区がそれぞれチームを持ち、この日は準決勝。東部地区の青組はその後も攻め続け、11対0で圧勝した。青組は過去に何度も優勝したことがある強豪。最年長のツェケレーリさんは「カルチョは私の人生そのもので、チームメートは家族同様」と話す。普段は雑貨店を営み、息子もチームにいる。

歴史家でフィレンツェ市顧問のルチャーノ・アルトゥージさん(80)によると、カルチョは約2000年前にフィレンツに進駐した古代ローマ軍の玉を使った訓練に源流がある。13世紀ごろに現在の形で市民に定着。1530年にはフィレンツェを包囲した敵軍が砲弾を浴びせるなか、平然と試合が行われたことが史実に残っている。

サッカー発祥の国は英国というのが通説だが、アルトゥージさん「欧州各地に進出したフィレンツェ商人が英国にカルチョを伝え、足だけを使うサッカーに変化した」と断言する。イタリアでは今もサッカーをカルチョ、サッカーくじをトトカルチョと呼ぶ。ルネサンス期の装束をまとったパレードが試合に彩を添える。よろい、かぶとの騎士団を先頭に約600人が市内を練り歩き、選手とともに入場する。鼓笛隊で太鼓をたたくのは細川泰利さん(49)。市内に住むオペラ歌手で、外国人として初めて参加を許された。「大変な名誉で、ずっと続けたい」と意気込む。

選手からパレード隊、会場の係員まで全員が市民のボランティア。カルチョは市民による、市民のための「お祭り」だ。しかし、最近は観戦目的の観光客も増え続け、経済振興に一役買う。

そのカルチョは2006年、存続の危機に立たされた。大乱闘で試合が続行不能となり、警察が捜査に乗り出す事態となった。07年、08年と試合は中止に追い込まれたが、再開を願う市民がルールを厳格化し、チームは粗暴な一部選手を追放。審判委員長のアレッサンドロ・アルジェールさん(53)は「騎士道に反する行為はなくなった」と話す。

試合は09年に再開され、広場には市民の歓声が戻った。各チームは集団で献血したり、OBがチャリテイーマッチを開いたりして社会貢献活動にも力を入れ始めた。

(フィレンツェで、藤田剛)

2013年1月22日火曜日

野菜にも命がある

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公的な機関から雀の涙ほどの振込があることを知った今日20121213は、巾着(きんちゃく)の紐(ひも)を少し緩めて、経営責任者の中さんとインド料理店でカレーを食うことにした。今日は私がお勘定を払って、今までのお世話になったほんの一部だけれど、返済気分だ。

2年前に経済ショックを受けた私は、生活の全てにおいて慎(つつ)ましく、切り詰めた暮らしをしている。着るもの、食事、光熱費をギリギリまで節約している。来春には、晴れてそのショックから脱出できそうだ。

日頃、中さんとは行動を共にする機会が多くて、昼飯時に食うメニューについては、最少の費用で満腹を得ることを最優先に検討する。その努力は痛ましいほど真剣だ。そして食事を終えた二人は、摂った食事が好かったのか、良くなかったのかと必ず検証して、その満足度を測るのだが、でも今日はいつもとはちょっと違って、どこか変調気味だ。

運ばれてきたカレーやサラダを前に、何だか神妙な気分になって仕舞ったのだ。食べ物を大切に食べなくてはイカンと決めて来た。このカレーにはどんな食材が使われているのか、サラダは何処で栽培されたのだろうか、思いを馳せた。いかに腹がいっぱいになったかではなく、どれだけ食べ物のことを考え、感謝して食べたか、これが問題なのだ、と。神妙だ。実は、昨日の山田農園主の言葉が影響している。

昨日は休日の水曜日。いつものように山田農園での手伝いに精を出した。私は百姓の小倅(こせがれ)、なまじっか、田舎での野菜作りの経験のせいか、作業全般にゾンザイなのだ、作業中、ややもすれば乱暴になりがちな私の仕事っぷりに、農園主の山田女史は気分を害したようだ。

ほらほら、踏んづけちゃってるよ、土をかけると病気になるんだ、雑なんだから、もう!、、、、小言はダラダラと絶えない。その声が、耳から消えない。

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野菜にも命がある。

山田女史は、「いい加減にやってれば、いい加減なものしか作れない」、これを金科玉条とする。ごもっともだ、尊敬する御仁なり。

2013年1月19日土曜日

余熱利用も省エネだ

20110311の東日本大震災による津波で起きた東京電力福島第一原発の事故で、日本の原発は全て稼働をストップした。その後、安全基準をクリアーしたとして、関西電力大飯原発のみが昨年7月から再開した。夏に向かって、電力不足をカバーすることが急務だ、と言って細野豪志原発事故担当大臣はゴリ押しだった。15%が節電されないと、近畿圏がパニック状態になりかねないと脅かされた。

ここで、不思議だったのは、当初から再開を反対していた橋下徹大阪市長と嘉田滋賀県知事らが、政府の方針に対して、「仮に再開するにしても、期間を限定してなら」と譲歩、その後はご覧の通り、何も言わなくなった。そして、国民の大半が原発ノーの意思を示しているのに、無視。政府の再開決定だった。

関西には関西ならではの事情もあるのだろう。中小企業が多いこと、関西電力は原発に依存する率が高いことがその理由なのだろうが、何やら不思議にしゃあしゃあと再開してしまった。胡散臭いにわか審査。安全基準さえクリアーすれば安全で再開だ、と日本全国の原発再開に向けての宣布活動のようにも思えた。

そして201301、昨夏も今冬も計画停電はなく、節電の呼びかけさえもない。電力会社の胸算は相当狂っただろうが、収支は兎も角、必要な電力量を原発に頼らなくてもまかなえるのではないか。

ここまでダラダラと書かないと、私の冷却装置機能不全のド頭(どたま)は鎮まらない。私のド頭はメルトダウンしたままだ。

この稿は、私の冬の省エネ対策に少し触れてみたかっただけなのに、ここまでダラダラ、ひと通り書かないと気が納まらない。

これからが、本番。以下は、私の「冬の省エネ策」だ。

言うまでもなく、照明についてはマメに消したり点けたり、必要な時だけ点灯する、当たり前のことだ。必要以上に明るくしないこと。お金があれば、LED照明に変えたいのだが、暫くは辛抱。

節電の一つに余熱を活かしている、ということに触れたい。

先ずはエアコンだ。我が家のエアコンの暖房は最低温度の17度に設定。寒ければ衣類を1枚多く着る、それだけで5度以上の効果はあると思われる。作業をしている時はエアコンを使わない。食事中は要らない、ましてお酒をいただいているときなんかにオンはギロチンか切腹ものだ。読書やテレビを観るときにはオンにするが、長々とつけっ放しにはしないで、30分おきにオン、オフを繰り返す。一度暖かくなった空気は、余熱となって、そう簡単に冷えない。少し冷えてきたなと感じたら、オンにする。外出する前には、直前にオフにするのではなく、前もってオフにする。

我が家の、台所のコンロはIHだ。IHヒーターと言った方が恰好いいのか。長時間の加熱が必要な煮物はオン、オフを適度な間隔で切り替えて、ダラダラと煮る。解凍などは何も電子レンジのお世話にならない。前もって外に出しておけば自然に解凍できる。

就寝時は、寝間着の下にもう1枚身に付ける。それでも寒ければもう1枚纏う、湯たんぽ、レッグウォーマーで補う。靴下を履く。

カーテンは厚手のもので、長いものがいい。

昼間、外気の温度が上がってきたら、すかさず窓を大きく開けて室温も同じ温度にして過ごす。寒さに体を慣らすことだ。室温だけを飛び抜けて暖かくしないように心がけよう。その室温で過ごせるように身支度をして慣らしておけば、外気が冷えてきても、その分だけ対応すればいいのだ。ノルウェーの冒険家・アムンゼンの真似をすることもないが、彼は幼少の頃から厳寒期においても、窓を開けて寝ていたと聞く。それほど強靭でもない我々は、せめて冬の寒いときには夏の暑さに思いを寄せ、夏の暑い最中には冬の寒さに思いを寄せて凌ぐことだろう。

浴室の熱気を捨ておくことはない。浴槽の蓋を半分にして出入り口の扉を開けておくと、湿気を含んだ暖気が室内を暖かくしてくれる。金のかからないエアコンデショニングだ。

余熱とは少しずれる内容になるが、省エネの手法の一つに冬野菜を食べることだ。鍋物にすれば、最高だ。根菜類をメインにした冬野菜の鍋物に、好みで辛味を加えれば、左手の盃も、箸も忙しくなる。

洗濯は、洗濯機に汚れ物と風呂のお湯、それに洗剤を前もって入れておく。汚れが水に浸すことで落ちやすくなる。そして標準時間よりも短い時間で洗い終える。使用時間の短縮だ。

金芝河氏が無罪に

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20130105の産経新聞から拝借した。

 

韓国の詩人・金芝河氏の1974年に起きた民青学連事件の嫌疑について、犯罪の事実はなかったとして無罪判決が出たことを新聞で知った。嗚呼、キ・ム・ジ・ハ! え~え 私はすっかり忘れていた。

彼の書いた詩集を持ち歩いていたのは、もう40余年も前のことだ。大学時代。体育会系左派を自任していた私は、アディダスバッグの中に、彼の本を忍ばせ、気分が高揚してくると彼の詩集を強く握った。このバッグには、マジックで「喝」とも書いた。私は金芝河をもっと過激な思想の持ち主だと思っていたが、後になって穏やかな人柄だと知って、拍子抜けしたことを憶えている。それで、良かったのだが、不思議な感覚だった。

1970年、金芝河は時の韓国の朴大統領体制を鋭く風刺した詩「五賊」を発表して、反共法違反容疑で逮捕された。1972年、4年生の冬、サッカー部の同期の金ちゃんの根回しで、一人で韓国を旅した。当時、戒厳令下にあった韓国の国情をこの目で見たかった。金芝河がマッカリーをよく飲みに行くという飲み屋に行ってみたかったことも理由の一つだ。

私が大学時代に所属していたサッカー部は韓国の高麗大学サッカー部と毎年定期戦を組んでいて、韓国は一番身近な外国だった。

ミョンドンの飲み屋で知り合った韓国の学生に、金芝河のことや韓国政府の非民主的な施策について話しかけても、彼らのほとんどは余り関心がなさそうで、私をがっかりさせた。金ちゃんが紹介してくれた大学の講師も、そんな話には乗ってこなかった。国民のほとんどは、政治に関しては監視されていて自由に話せなかったのだろう。

その韓国14日間総費用4万5千円の旅を思い出した。

関釜フェリーは片道5000円、往復だと10%割引の9000円だった。釜山では朝鮮水軍を率いて豊臣秀吉と戦った李舜臣の像が、リュウトウザン?公園の先頭?に日本に向かって立っていた。釜山の漁村、山村を歩いた、寺院にも行った。釜山の市場には海産物が豊富だった。オンドル。宿でマッカリを飲みたいと言ったら、ヤカンをもって酒屋さんに買いに行ってくれた。釜山駅の駅長さんは島根県出身だった。駅の周りには乞食が多かった。どんどん太鼓を叩きながら走る葬儀社の車。対馬が見えた。宿屋のオヤジに女はいらんか?と聞かれて尻込みした。

板門店から北朝鮮の軍人を見た。板門店までのバスの中で、軍人に銃を突きつかれ身体検査された。統一号に乗った。ソウルでは月に1度の空襲警報が出て、新聞社の飛行機が敵機になって上空を旋回、訓練だった。歩行者は地下や建物の中に、車は黄色い旗を出して路肩に停め運転手も避難した。ミョンドン、東大門、南大門。混雑した市場。樹木の少ない山並み。サッカー部の先輩、李時東さんの事務所に行ったが、留守だった。パルリー、パルリー(急げ)、のんびり歩いている私は交番に連れ込まれて、パスポートの提示を求められ、早く歩け?と叱られた。長髪の私を、レストランのウェイトレスはナンバーテン(最悪)だと誹謗した。高麗大学と大学のサッカー場。乗り合いバスは、バス停を過ぎても、動きながらどんどん人を乗せては降ろした。焼肉、犬の肉の鍋物。

 

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朝日・天声人語

うっかりすると見逃しそうな小さな記事だった。5日付の国際面に「詩人の金芝河(キムジハ)氏39年ぶりに無罪」とあった。50代半ば以上の世代なら、ひとつの時代の象徴のように、その抵抗詩人の名を記憶している方も少なくあるまい。

韓国の体制に抗して繰り出す詩は、紙つぶてとなって権力者を撃った。よく知られる「五賊」は長編の風刺詩だ。財閥や国会議員、高級官僚、将軍らを国に巣食う五賊と呼び、〈夜昼のべつ盗みにはげみ、その技(わざ)これまた神技(かみわざ)の域〉 などとこきおろした。

民主化運動の弾圧事件で1974年に死刑判決を受ける(のちに減刑)。この年にはソ連の反体制作家ソルジェニーツィン氏が国外追放されている。国家体制も状況も異なるが、2人の抵抗人の「良心」が様々に語られたものだ。

そのころの韓国は軍政下にあり、言論統制は厳しかった。たとえば新聞の場合、官憲が各社に常駐して記事を検閲したそうだ。真実を書くのに覚悟が求められた。

時は流れて金氏は無罪を勝ち取った。その報を読みつつ目を転じれば、中国で「言論の不自由」への抗議が沸き上がっている。南方週末という新聞の新年号が、当局の指示で違う紙面に変えられたという。この抗議を人々の「良心」ととらえたい。言論の自由を書いたままでは、中国は大国になっても成熟できまい。民衆の口を封じるのは川を止めるより危険ーー。いずれ不満が高じてあふれ出すからだが、政府が省みるべきそんな古言も、中国にはある。

2013年1月16日水曜日

桜宮高、部活再開に向けて、起て

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大阪市立桜宮(さくらのみや)高校のバスケットボール部主将の2年男子生徒(17)が、顧問の男性教諭(47)の体罰を受けた翌日に自殺した問題で、同校はバスケットボール部と、過去に体罰問題で処分された教諭が再び体罰を繰り返していたバレー部の両部を、無期限に活動を停止することにした。他の部についても調査して問題がなければ再開する。体罰を生んだ風土が改善できない場合は両部の廃止も検討するとある。

また、橋下大阪市長は15日、記者会見で今春の同校の入試で、体育科(定員80人)とスポーツ健康科学科(同40人)の募集を中止すべきだと述べた。同校の全教員を入れ替えないと、真の改革はできない、と踏み込んだ。

これらの新聞やテレビの報道を見聞きしていて、ちょっと可笑(おか)しいのではないか、と頭をかしげた。部活に励む生徒たちや、入学してノビノビ勉強したいと願う生徒たちが、何ゆえにこんな目に遭わされなくてはならないんだ。

調査されるべきは、体罰で恥じることもなく指導していた顧問教諭や、知らないふりをし続けた校長ら学校関係者たち、教育委員会であって市長のことだ。生徒に部活停止を押し付ける理屈も権利もない。改善されなければ廃部を検討すると聞くと、怒りよりも笑止千万、呆(あき)れてしまった。

識者は、募集を中止するかしないかは、教育委員会の判断で、市長にはその権限はないと話していた。私は、図らずも臭いを嗅いでしまった。この裏には、市長と教育委員会の積年の揉め事、恨みつらみが潜んでいるのではないか、このことが、市長がここまで踏み込んで発言している訳だ。

横浜のスポーツを愛して止まない初老のオヤジから、部活に励む生徒たちにエールを送る。

手続きを踏んで校長に部の活動再開を願い出ろ。ノーと断われる理由は無いが、馬鹿な校長は拒否するるだろう、が、屈することなくに抵抗しろ。君たちに非はない。世間、校外に向かって部活を再開したい旨を、立看〈立て看板)やチラシ、ネットで発信しろ。そして、自主的に練習メニューを作成して活動を再開するのだ。君たちの気持ちは多くの賛同を得ることは間違いない。

繰り返す。非難、鉄槌(てっつい)を下されべきは暴力教師であって、無責任な学校関係者、とぼけた教育委員会であって、いいかげんな市長だ。奴らを断罪せよ。我が軍、貧乏暇なし、千騎万兵で桜宮高校に駆けつけたいがそうもいかない。

桜宮高校の全生徒に告げる。高校生としての誇りを、権利を、阿呆な教育者どもから奪い返すのだ。今直ぐ、起(た)て!!

昔から、私の高校大学時代にも、体育(局)会所属の人間は上部からの指示には従順過ぎると言われてきた。納得できないことにも、ショウガナイなあと諦めさせられた。当時、私にはそんな傾向が歯痒くてならなかった。スポーツは従順な人間を育成するためのものではない、強いリーダーを輩出するためのものだ。

2013年1月9日水曜日

明けましておめでとう

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カメラマンは営管の佐藤。留守番は和。

 

20130104、4日は今年、全員で行動した最初の日、09:00から近所の神明社に初詣に行った。私は年末の30日と1月2日以外は普通のように出勤していた。何も、これっという仕事があるわけではないが、新聞や雑誌を読んで、2時間ばかり会社に居て、イーハトーブの果樹園に寄って帰るだけだった。

全員が出社して、元気な顔を見合わすと、なんだか温かい気持ちになるのは、何故なんだろう?

何もアベノミクスを過大に期待しているわけではないが、ちょっとした拍子で気分が変わるもんだ。病(やまい)は気から。景気の気も気持ちの気だ。この長期のデフレからの脱出も、難しいことはよく解らないが、この気がマイナーに働き過ぎているのかもしれない。今年は巳年(みどし)、巳のように着古した殻を脱皮したい。

4日の朝日家の天声人語氏は、こんな小話を紹介していた。手元に新聞がないので、思い出しながら綴っている。

ある靴の製造会社がアフリカかどこかの国へ、2人を今後の販売促進のための市場調査に派遣させた。帰国して、2人が会社に報告した内容は、真っ反対だった。一人は、あの国では靴を履いている人は一人もいません。よって、絶対売れないと思います、と悲観的な意見。もう一人の人は、あの国では靴を履いている人がいません。だから、いくらでも売れると思います、と楽観的な意見。

どちらの意見も極端過ぎる、が、あなたはどちら派ですか? 私たちは、後者の意見に乗っかってみたいと思う。裸足を日常にしている人たちに、靴の持つ安全性と利便性を説いて買ってくれるように、努力を奮う側に立ちたいと思う。

それと、もう一つのお話は、一人の娘さんは、「あなたの足は大根のようですね」と言われ、「そうですか、そんなに白いですか」と答え、もう一人の娘さんは、「あなたの足はゴボウのようですね」と言われ、「そうですか、そんなに細いですか」と答えたという話だ。私もこの二人の娘さんのように思考したい。

こんな話をみんなにして、今年の仕事始めとしますか。

2013年1月8日火曜日

W大ア式蹴球部 インカレ優勝

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20130106、早稲田大学ア式蹴球部は、平成24年度の第61回全日本大学サッカー選手権大会で、5年ぶり12度目の優勝を遂げた。決勝戦は、東京・国立競技場、九州リーグ1位の福岡大学と関東リーグ3位の早稲田大学というカードで、3-1で早大が福岡大に勝利。

古賀聡監督にとって3年任期の今年が最後の年、絶対、負けられない。1回戦は徳山大学に3-0でシャットアウト、2回戦では札幌大学に2-1の辛勝、準決勝は鹿屋体育大学に5-0で、決勝戦に駒を進めた。

山梨県の塩山に住む後輩のシダ君に、お歳暮をいただいたお礼の電話をかけた際に、ヤマオカさん、今週の日曜日に早稲田が大学選手権の決勝をやるんですよ、私も行けたら行こうと思っているんです、と聞いて吃驚した。徳永や兵働、渡辺が卒業した後は、リーグ戦においても苦戦していると聞いていたので、このビッグニュースは青天の霹靂(へきれき)か?寝耳に水か?正直、驚いた。

恒例の社内に掲示するスローガンを、朝から書いた。この標語は社員に対するもので3枚仕上げた。1枚目は、「慎み深く 感謝して 奉仕する」、これは仕入れをさせていただいた売主さんに、買っていただいた買主さんに対する心構えだ。2枚目の「横浜で一番元気な会社 パラディスハウス」は、弊社に所属する社員の基本的な精神だ。このような気分で働こう、そんな感じ。そして3枚目は「強い意志 広範な知識 大胆な行動」だ。これはスタッフ一人ひとりの日常の行動規範だ。

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この3枚を書き終えて、経営責任者の中さんが作ってくれたお雑煮を食べて、12:00の少し前に会社を後にした。13:30までなら国立競技場の千駄ヶ谷入り口に早稲田関係者にチケットを渡すコーナーがあるので、そこでチケットをもらいなさいと、同輩の工藤が教えてくれた。

工藤は、10年前に膠原病に糖尿病、難病の二重奏?、今はすっかり健康体を取り戻していた。有田さんも一緒だった。有田さんは、アメリカでロッキー青木のステーキハウス紅花の取締役をしていたが、今は、子どもたちと日本で暮らしていている。日韓で共同開催したFIFAワールドカップサッカーの決勝戦の前に中華街でごちそうになりました、そのときのお返しですと、飲み物とカツサンドをくれた。

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同窓の仲間たち

試合は、今までの早稲田のサッカーの試合では観たことのない好ゲームだった。早稲田伝統の百姓一揆ではなく、理知的で聡明、勇猛な戦いを見せてくれた。早稲田は進化していると印象づけられた。観客は、サッカー協会や高校や大学のサッカー連盟が後押しして、動員がかかったのだろう、1万7千人近かった。サッカーを愛する若い人々が集う祭典の雰囲気だ。40余年前、私たちがこの大会で優勝した時は西が丘サッカー場で、観客は千人もいなかった。

古賀監督は「ファイナリストや国立でプレーするだけでは意味がない。ボクたちは年間を通じて日本一を目標に戦ってきた。何が何でも福岡大に勝利を収めて頂点を極めたい」、「準決勝の鹿体大戦は難しい戦いになると思っていたけれど、ぶれずに自分たちのプレーを最初から最後までやり続けることができた」と言っていた。

試合は、前半開始2分に早稲田の白井選手が先制ゴール、優位に立った。2点目は40分、福岡大のオウンゴール、もうこれで安心、と思っていたらPKをとられて、1失点。PKをとられるほどの反則ではなかった。3点目は76分、ペナルティエリア外からの富山選手の左足の豪快なシュートだった。圧巻、ドライブがかかっていた。

試合を観戦しながら、午前中に書いたスローガンを思い出していた。

早稲田は背の高い選手が多い福岡大に対して、粘り強く、「強い意志」を持って勇猛果敢に戦った。福岡大は、身長185センチ以上の選手を先発に4人揃えた。ヘッディングでは決して負けなかった。特にDF陣はお見事だった。DF山地は「セットプレーで競り負けなかったのが勝因」と胸を張った。

それにパスをカットして、攻守の切り替えが早い。ボールをキープする相手に、素早く距離を縮めた。攻撃のボールを多彩にちらし、接触プレーにおける賢い対応、それらが「広範な知識」を活かしたプレーだった。

「広範な知識」が乏しかったのは福岡大だ。密着して負けそうになると手を使って、早稲田の選手を頻繁に捕まえるなど、不用意な反則を繰り返した。又、ロングスローインを繰返した。一度や二度は、ゴール前まで投げられて早稲田は吃驚した、が、繰り返されるともう怖くない。早稲田にとって、滞空時間が長いと守る体制を作り易いのだ。「広範な知識」不足は、悲しい。

そして「大胆な行動」は、繰り返しになるが、上背のある選手とのヘッデイングでの競り合いは恐れを知らぬ、鬼気迫るものがあった。監督から絶対負けるなと指示がでていたのだろう。キーパーの落ち着き払ったプレーも「大胆な行動」だった。私のようにヘッデイングの弱い選手は、絶対、使ってもらえないだろう。

試合が終わって、一息ついた時に日産マリノスのシモジョウを見つけた。彼は相鉄線の緑園都市に住んでいる。時々、電車の中で出くわす。彼の説明によれば、今試合に出ている選手のうち8人は、高校時代に高校のサッカー部やJリーグのユースでキャップテンをやっていた奴なんですよ。だからなんでしょうね、どいつも責任感が強いんです、突出した選手はいないのですが、諦めない、サボらない、ひたすら頑張る連中なんですよ、と説明してくれた。選手としての人格が形成されている。

そして、私は会社のことに思いを馳せた。このようにスタッフ一人ひとりが個性を活かして、「強い意志」で「広範な知識」を駆使して、「大胆な行動」をしてくれれば、弊社も上手くいくのだろう。その際の私の役廻りはどうすればいいのだ。

表彰式を見終わって、栃木のマツちゃん,県立鎌倉高校のバシコ先生と暁星高校のシヤハ先生の4人で、新宿駅の近くの焼肉屋でお酒を飲んだ。シヤハの馴染みの店だった。二人の先生は、教師として、早稲田ア式蹴球部の役員として色々情報を交換していた。私は、みんなの話を聞きながら快く酔っていた。マツちゃんは、休日の野良仕事の話をしてくれた。

横浜駅で相鉄線に乗り換えた。乗った電車にシモジョウが居た。