2013年3月14日木曜日

時間を空費しないで

下記は、20130313の日経新聞・スポーツ欄の吉田誠氏の記事だ。サッカーに興味を持つ者ならば、この視点からの指摘には、誰もが関心を高く持つだろう。学生時代、体力が乏しかった私は、このロスタイムを大いに利用していた、が、そんなことでは高度なサッカーには通用しないことを当然解っていた。私の限界だった。

この記事をそのままマイファイルさせてもらった。

かって「ロスタイム」といっていたものを、Jリーグでも2010年から国際基準に合わせて「アディショナルタイム(追加時間)」と呼んでいる。そもそもロスタイムは和製英語で、競技規則には「空費された時間」と書かれている。選手交代や負傷者の退出などに時間を空費した場合、前後半の最後にその分を追加するわけだ。

もちろん、空費されている時間はもっとある。安易にボールを蹴り出したり、接触で簡単に倒れたりすると、スローインやFKでの再開までに時間が掛かるため、無駄な時間が積み重なる。

そうした中断時間を除き、実際のプレー時間を示すのがアクチュアル・プレーイング・タイム(APT)で、、昨季のJ1の平均は55分37秒、J2は52分25秒だった。

J1、J2を通じての最長は浦和の60分2秒。

2008年から11年までは広島が最長だったので、ペトロビッチ監督が率いるチームが5年続けてもっとも長くプレーしたことになる。監督がボールをきちんとつなぐサッカーを志向すれば、必然的にAPTが長くなる。

ちなみに10年ワールドカップ(延長戦は除く)では、どちらかが勝った試合のAPTは68分0秒、引き分けた試合は67分2秒だった。準決勝のスペインードイツ戦は76分にも及んでいる。

Jリーグに話を戻すとプレーの中断時間が35分もあるわけで、観客にすれば、その時間を最後に追加してもらいたくなる。リードしているチームの時間稼ぎも戦術のうちかもしれないが、時間稼ぎを楽しみに来ているファンはそういない。

そうした時間の浪費を防止するにはフットサルやアイスホッケーのようにプレーの中断の間は時計を止めればいいのではないか。そうすると、試合時間が3時間近くなってしまうかもしれないが、、、、。

2013年3月10日日曜日

進化した、ヨイトマケ

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美輪明宏の「ヨイトマケの歌」を最初に聞いたのは、多感で、夢みる青二才の頃だった

「よいとまけ」という言葉は、この歌の中だけでしか知らないし、未だに馴染みがない。土木、建築の現場で大勢で一斉に鎚(つち)を滑車で上げ下げするときの掛け声だと教えられても、まだまだ、ぴーんとこないが、「えんや、こら、せ~」の掛け声と同じだと聞いて理解できた。

1966年のヒット曲のようだ。彼がテレビで歌っているのを観たとき、聞いたときは不思議な歌手もいるものだと思った。この年に私は高校を卒業した。歌詞にある土方(どかた)を始めた年でもあったのだ。土木作業員として、大学に行くための資金稼ぎをした。東京の学校へ進学を夢見ていたが、卒業1年目も2年目も、行きたくても受け入れてくれる大学はなかった。ここは、じっくり金を貯めて準備に入ろう。ちょっとぐらいの学力不足なんか、どうにでもなると信じていた。

見習い土方として土木作業に携わってみれば、それはそれなりに充実した。生半可なアルバイト気分では勤まらない、常態化した筋肉痛にもめげずに人一倍頑張った。日給は大人と同額だった。在日韓国人の一人親方(社長)だったが、自分たちのことをドカタとは言わずにツチカタと呼んで、土方稼業に誇りをもっていた。色んな過去を背負って働く仲間たちとの付き合いも楽しかった。

この歌手は、自分で作詞をしたというではないか。青春時代の入口だった私には不思議な存在だった。並み居る歌手のなかで、異色だった。本音(ほんね)で話そう。正直、当時、「こんな素材を歌にして、人前で、ようやるわ」とひねくれて観ていた。貧しいとか、苛(いじ)められたとか、女々(めめ)しいぞ、と突き放した。こんなことは、腹の内、胸の内に秘めておくものだと思っていた。

当時、よいとまけとか土方が肉体労働者に対する差別用語だとして放送禁止曲に指定されたことにも、腑に落ちなかった。私の身の回りでは、土方は決して差別用語ではなかった。勝手な奴らが、勝手なことを言ってやがる、ぐらいに冷ややかだった。

貧乏な家に生まれ育った少年が、そのために、よいとまけの子ども、きたない子どもといじめられたにもかかわらず、土方で頑張る母の姿を見て成長した。そして、今は立派な~♭ エンジニア~♯。そんな母の愛情を思い出しての歌だ。

そして、昨夜20130309のことだ、19:30からのNHKの番組『”明日へ”コンサート生放送! 復興へエール』で、その美輪明宏が「ヨイトマケの歌」を歌っていたのだ。

この歌を初めて聞いてから40余年が経つ。美輪(当時は丸山)明宏の歌い方には工夫を加わえ磨きがかかって、久しぶりのよいとまけに、メロデイーが歌詞が、私の目から、耳から、皮膚から、頭の芯に心臓に骨や肉に、無防備な私にガンガン打ち奮(ふる)うではないか、そして静かに涙腺が緩んだ。

机の上の小さいテレビを覗き見る私も、風体(ふうてい)だけではない、心のありようも変わった。私には定年はないけれど、その年齢になってしまった。この9月で65歳だ。

確実に私は年をとった。まさかの進化? いやいや退化したのでは? それとも老化したの?だろうか。

40余年前が嘘のように、昨夜は美輪明宏の歌に聞き惚れてしまった。

2013年3月6日水曜日

大根役者って、なぜ大根なんだ?

今、読書中の「新聖喜劇」・(著者=大西巨人)の文章の中で、「大根役者」が出てきた。

大根役者の大根は、あの野菜の大根のことだ。私にとって、年間を通じて特別親しくしている野菜だ。おでんに、糠漬け、生野菜としてアルプス盛り(かって、居酒屋山ちゃんの名物メニューだった)、今日の朝飯にも、味噌汁には大根を入れた。存在感は絶大だ。

物語の中で、教育練習兵が、「毎日毎日三度三度大根のおかずばっかり食べておりますので、大根中毒しそうです。このごろは戦友たちの顔までが大根のように見えてきました」と、葉書に記したことが検閲で見つかった。教官は、副食に大根が多いという軍事機密?が軍の外に漏れると、練習兵を責める。制裁が厳禁されているにもかかわらず、公的制裁だとか、何とか言って。

大根役者という言葉を、ヘボな役者のことぐらいしか認識がなかった。どうもこれって、少し調べる必要があるなあと感じて、本棚の「常識として知っておきたい日本語」(幻冬舎)・著者=柴田武を手にとった。

大根役者という言葉は、大根は煮ても焼いても当たらない(食中毒にならない)ところから、いくら頑張っても客席が沸かないことにたとえられたという。

昭和50年だから、私が学校を卒業して2年目のことだ。新聞やテレビで八代目坂東三津五郎が河豚(ふぐ)の毒に当たって死んだことを知った。若いころから、敵役や老役(ふけやく)を得意として、人間国宝にもなった歌舞伎の名優だ。この死因の、大当たりの「河豚」の毒と、当たることのない(食中毒ならない)「大根」を引っ掛けて、「大根役者」を説明してくれている。

それまでに、河豚なるものを食ったことがなかった私には、なんぜ、そんなにまで危険を冒して、食うんだろうと不思議だった。大騒ぎだった。この八代目は、毒の強い肝をもう一皿、もう一皿と板前にせがみ、とうとう四人前を食ってしまった。

河豚の毒に大当たりしてこの世を去った八代目坂東三津五郎は、「もしかして、歌舞伎の隆盛を願うあまり、わざわざ危険な部分に箸をつけたのではなかろうか」と著者の柴田武氏。

2013年3月3日日曜日

薬膳果ボケ 天下一

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商品名は「天下一(てんかいち)」、宣伝用のキャッチフレーズか? サブ名称か?「薬膳果ボケ」なる果樹を、昨年、鎌倉で仕入れた中古住宅の庭に鉢植えされていたものを、個人的に頂戴した。頂戴して、我がイーハトーブの果樹園に定植したが、果たしていかなるものが実るのか、楽しみにしている。

今、この天下一は花盛り。バラ科バラ属、落葉低木。幹や枝の樹皮、花の形は、ボケそのものだ。移植した時の状態がいい加減だったので、根付くかどうか心配していたが、どうやらしっかり根付いたようだ。

鉢植えされていたときに、幹に針金留めされた天下一の商品の説明書きが面白かったので、俄然興味をもったのだ、、、、。中国四千年歴史より発見された幻の秘果とあるが、四千年?の歴史がどうしたというのか? 何がどうして秘果なのか? 食べるために改良されたとあるが、これはいつの頃改良されたのだろうか? 加えて効能書きが盛りだくさん。これらの文章が、中国から持ち込まれたときの売り言葉だったとしたら、嘘っぽいなあと思ってしまう。誇大広告? 特に食料品の、この点に関しては中国は要注意国だ。気温が-20度まで耐えられる、また耐暑性も強く、日本のどこでも栽培ができる。

ところで、名前のボケは余り感心しないなあ、と常々思っていた。どうしても、名を聞いてボケっとしている人様を思い起こしてしまう。その名の由来を、ここではウィキペディアさんのお世話になるが、各自で調べてくださいなあ。木になる瓜で「木瓜(もけ)」と呼ばれたものが「ボケ」に転訛(てんか)したと言われる。また「木瓜(ぼっくわ)」から「ボケ」に転訛したとも言われる。

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以下は、説明書きの一部だ。

「医食同源」を追求してきた中国ならではの食材です。洋梨に似た食感で健康の維持効果のある成分が多く含まれている。

中国では、抗癌、免疫力の向上、器官系の消炎、血液軟化、血糖値降下、胃や肝臓機能の向上、便秘、貧血。高血圧、肉体疲労、老化防止、二日酔い等に効果が期待できると言われてきた。

実の大きさは500グラムから最大3キロに達する超巨大果実で、収穫は10月下旬から11月中旬に実が黄色づいた頃がベストだが、早い目に収穫して保管追熟させてもよい。

調理方法は手軽に作れるのが甘露煮。他に実を煮込んでからシロップや砂糖漬け、ジャム、ボケ酒、ジュース等にできる。

2013年2月27日水曜日

ロシアに隕石が飛来

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ロシア・ウラル地方のスベルドロフスク州カメンスクウラリスキー市で15日朝、車載カメラで撮影された、上空を横切る隕石=ロイター

 

小学生のころ、隕石のことを教えてもらったときに先生に、大きな大きな隕石だったらどうなるの?と聞いたことを思い出した。

そりゃ、そのときは大変なことになるんだろうな、ぐらいにしか先生は答えてくれなかった。実際、この40億年に地球に無数の小惑星が衝突をした。その結果、地球では恐竜が絶滅したり生態系が大きく変わった時代もあった。想像して描く漫画や小説、映画の話ではない、現実に起こったことだ。天文をよく知る人でさえ、現実に起こった事象に脅威した。

私のようなものでも、これは人工衛星が落ちてきたんでは、と直感した。同じように思い付いた人はいたようだが、人工衛星なら最大で秒速7キロ程度らしくて、今回は秒速15~20キロらしいので違うと教えられた。

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今のところ発見された中で最大といわれるホバ隕石 (ウィキペディアより)

 

以下は、写真も含めて20130216の朝日・朝刊の記事をそのまま転載させてもらった。私が一部加筆している。

ロシア・ウラル地方のチェリャビンスク州付近で、20130215午前9時20分ころ(日本時間午前0時20分ころ)隕石が飛来して上空で爆発。衝撃波で多数の家屋のガラスや屋根が壊れた。インタファクス通信は内務省の話として、約千人がけがをしたと、ロシア内務省によると少なくとも約300の建物が被害を受けた。

ロシア科学アカデミーは「数メートルの大きさで、重さ約10トン、秒速15~20キロで大気圏に突入した」と推定している。

動画サイト「ユーチューブ」には、落下の瞬間をとらえた映像が多数投稿された。車載カメラが記録した動画では、光の点が画面左上に見え始めてから10秒足らずで、尾を引きながら画面中央に達し、爆発。一帯をまぶしく照らした。惑星間の空間で、惑星同士が衝突して、発生した岩石などの破片が大気中を落下、通過する際に熱くなって気化するが、気化できないまま残ったのが隕石だ。

 

日本でも過去、いくつも発見されている。とりわけ、南極において南極観測隊が多く見つけた。周囲が氷で、熱で氷が解けた所を探せば見つけることができた。

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日本に落下した隕石。(ウィキペディアより)

 

20130217の朝日・朝刊 2面に、隕石の威力についての記事をここにそのまま転載させてもらった。

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15日、隕石の爆発で部屋の中にも爆音が響き渡り、耳を押さえてうずくまる人々。衝撃波で窓が吹き飛ばされた=英語放送局ロシア・トウディがユーチューブに投稿した動画から

 

音速50倍 衝撃波強力

米航空宇宙局(NASA)の推定によると、ロシを襲った隕石は直径17メートル、重さ約1万トン。東京タワー2・5本分の重さの物体が、音速の約50倍に相当する秒速約18キロで大気圏に突入したという。TNT(高性能火薬)に換算して約500万トンという核爆発並みのエネルギーの固まりは、どのようなしくみで地上に被害をもたらしたのだろう。

NASAによると、隕石は、太陽に近いところは金星軌道、遠いところは火星の軌道のそばを通る楕円軌道を回っていた。地球の大気圏に突入するのを最初にとらえたのはアラスカにある観測施設だった。物体は音速を超えると進行方向の空気が圧縮され、急激な圧力の上昇に伴って衝撃波が出る。これをとらえたようだ。

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高温高圧で爆発

今回の隕石の場合、空気の圧力は千気圧ほどに達したとみられる。東北大学高山和喜名誉教授(元国際衝撃波学会会長)が隕石のそくどをもとに試算したところ、発生した衝撃波は「隕石のほかは、核爆発でしか生まれない」ほどの強さだったという。

衝撃波の影響で、隕石表面の温度hs数万度に上がって溶け始めた。熱は内部にも伝わり、高圧の環境も重なってグラスに熱湯を注いだときのようにひびが入って割れた。NASAによると大気圏突入から32・5秒後のこと。この爆発で衝撃波が地上に降り注いだ。

複数の破片に分かれた隕石は、衝撃波を出しながら落下を続けた。高度の低下とともに地上に届く衝撃波は強まり、被害をさらに大きくしたとみられる。

 

瞬間で10度上昇

高山さんは住居の窓ガラスの破損など、ニュースが伝えた被害状況をもとに、衝撃波の大きさを試算した。1平方メートルの窓に最大で約5万トンのトラックが乗ったのと同じ力がかかったとみられる。「貧弱な建物は壊れ、窓枠や窓ガラスが割れるのは当然。屋外の物は瞬間的に10度近く温度が上昇し、現地の人なら熱も感じただろう」と話す。

被災地では、屋外に通じる窓ガラスは損傷を免(まぬが)れたのに、家の中の物が壊れた、といった声が聞かれた。

高山さんは個々の建物が詳しく調べないとわからないとしながら、「衝撃波が隙間から家の中に入り込んだり、衝撃波によって建物が震動したりして、室内の弱い部分が壊れた可能性が考えられる」と話す。

(田中誠士、波多野陽)

 

衝撃波=空気の圧力が波として伝わる現象で、物体が空気中を音より速く動いたときなどに生まれる。飛行中の超音速機「コンコルド」から出た衝撃波が地上の窓ガラスを割るなどの被害を出したことが知られている。国内では米軍機による衝撃波の被害が問題となっている。

衝撃波を絞って特定の場所に当て、破壊力を制御する技術もある。医療現場では、体内にできた結石を壊して体外に取り出す技術などに応用されている。

2013年2月25日月曜日

東京マラソン→自殺者?

24日に開催された東京マラソンのことを新聞記事で読んでいて、自殺者のことを想い起こした。東京マラソンと聞けば自殺者、と連想する癖がついてしまった。その度に悲しい気分になる。今まで、幸いにして身内に悲しい出来事は起こらなかったが、仕事の関係では、親しくしていた人を救えなかった。

世界最大の市民参加型のマラソンで、参加を希望しても1、7倍の抽選に選ばれなければならない。走る前から競争は始まっている。そして資格を得た3万6千人が冷たくて、都心ならではの強いビル風を受けて走った。

以前に、ラジオ番組で3万人の自殺者がどのくらいの人数かといえば、東京マラソンの参加者が一斉に走っている人たちを想像してみてください、それぐらいの人たちが毎年、自殺で亡くなっているんです、とパーソナリティーが話していた。そのことが耳に残って消えない。

今日のことだ。友人から、東京マラソンには3万人以上が走るんだってね? と聞かれ、そうなんだよ、日本で1年間に自殺する人の数と大体同じなんだよ、と答えてしまった。友人は東京マラソンで3万6千が大群をなしてスタートしている様子と、その8割の人が自殺行為に向かう、そんなイメージを思い描いたのだろう、ええっ、と鶏のように一段と高い声をだした。日本での自殺者=3万人、が頭の中に固まっている。

昨年の自殺者数は2万7766人、1997年以来15年ぶりで3万人を切った。世界では100万人近くの自殺者が出て、その半数がうつ病患者が占めているそうだ。

2013年2月23日土曜日

憲法、アメリカ、集団的自衛権

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コラージュ・野口哲平/The  Asahi  Shinbun

 

2月14日は建国記念日だった。

建国と聞けば、やはり憲法へとイメージはつながる。そんな訳で、朝日新聞が企画した20130214のオピニオン=「憲法、アメリカ、集団的自衛権」は、憲法学者の長谷部恭男(はせべ・やすお)氏が寄稿したものだが、今、鼻息荒い安倍晋三首相や、都知事職を無責任に投げ出して国政に参加した石原慎太郎氏が、日本人自らが草案に参加していない、アメリカに押し付けられた憲法を改正したいと姦(かしま)しい状況の中、冷静になって考えるヒントを提供してくれている。

集団的自衛権についても、政治家や評論家の各氏、百花繚乱、自分の意見を披瀝するのも勝手だが、これも、生臭さはつきもので、一体誰の意見を聞けばいいのだろう。

どちらにしても、国民がこぞって議論しなければならない時期に来たようだ。

それで、この憲法学者・長谷部恭男氏の寄稿文を読んでみると、成る程と首肯させられる部分が多くて、これを、いつものマイファイルにしまわせてもらうことにする。

 

以下、寄稿文。

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長谷部恭男 (麻生健撮影)

 

米と同じ憲法原理

あえてなぜ変える

それで何をするの

 

日本国憲法はアメリカの贈り物である。日本の憲法原理はアメリカのそれと等しい。個人を尊重し、多様で相対立する世界観・価値観の存在を認め、その公平な共存を目指す立憲主義の憲法原理である。アメリカとの関係を確固たるものにしたいとき、歴史の反省を踏まえて大切にしなければならないのは、まずこの憲法原理である。それは、南北戦争に敗れたアメリカ南部諸州が、奴隷を解放し人種の平等を求める憲法原理を、たとえ「押し付け憲法」であっても大切にしなければならないと同様である。

こうした問題を考えるとき、ウエットになってはいけない。アメリカも自国の利益と無関係に日本に憲法を贈ったわけではない。ドゴール大統領が喝破したように、憲法で作られた国家に「友人はいない」いるのは「同盟国 allie」だけである。憲法解釈を変え、憲法を変えることが日本の平和と安全のためになるか、そしてしかるべき国との同盟関係を深めることにつながるか、冷静な見極めが肝心である。

昨今、先人たちが苦労して積み重ねてきた憲法解釈を変更しよう、さらには憲法自体を変えようという動きがある。問題は、こうした動きに乗る人たちが憲法と戦争の間の根本的な関連性を理解しているかである。戦争は国家と国家が戦う。国家を形作るのが憲法である以上、戦争によって攻撃されるのは、敵対する国家の憲法原理である。異なる憲法原理を抱く国家同士は対立する。対立が激化すれば戦争に至る。

さて、憲法の役割の核心は、政府のできること、できないことを定めて、その行動を縛ることにある。しかし、力がむき出しになる軍の行動を憲法で縛ろうとしても簡単ではない。

政府の行動は違憲だという見解が学会では有力だが、政府は巧みな解釈論を展開して法の拘束をすり抜けようとするし、外交・防衛問題に関わりたくない裁判所は明確な憲法判断を示そうとしない。現実と乖離したままでは憲法の権威が低下するばかりだから、いっそのこと憲法の縛りなどなくした方がましではないかという極論まで出て来かねないーーーという状況に陥りがちである。

                        ★

相も変わらぬ日本の話だと思われるかも知れないが、これはアメリカの話でもある。アメリカ合衆国憲法は大統領を軍の総指揮官とする一方で、「戦争の宣言」を連邦議会の権限としている連邦議会に戦争開始の決定権を与えて、政府による不用意な軍事行動を抑制するのが、「戦争の宣言」を議会の権限とする合衆国憲法の趣旨である

ところで、敵国の急襲のような緊急時に、連邦議会の同意なしで軍を出動させる権限が大統領にあることは建国当初から疑われていなかった。さらに自分の手を縛られたくない政府は、「戦争 War」とまで言えない規模の武力紛争での派兵については、議会の同意は不要だと一貫して主張してきた。その結果、連邦議会の事前の同意を得ずに兵を送り出すことが通例となっている。

もちろん、正式の「宣戦布告」がなされた例もごくわずかである。建国以来、ほぼ毎年のように戦争を遂行してきたアメリカだが、正式の「宣戦布告」をしたことは5度しかない。議会の側も、発言権を強化しようといろいろ努力してきたが、大統領の戦争権限を実効的に抑制することに成功したとは言い難い。

それでも憲法による軍事行動の抑制には意味がある。立憲民主国家の多くは、議会の関与を通じて政府の戦争権限を抑制しようとしてきた。戦争で、まず危険にさらされるのが国民自身である以上、国民代表の同意を要求することには十分な理由がある。哲学者のカントも、開戦にあたっては、国民を代表する議会の同意を得るべきだと述べている。しかも、すべての国が職業軍人からなる準備軍を廃止し、人民自身が武装する国民皆兵の制度を備えるなら(徴兵制はその一種である)、いずれの国の議会も簡単には戦争に踏み出さなくなるはずである。かくして、戦争がより起こりにくい世界への、つまり「永遠平和」への歩みが始まるというのがカントの目論見であった。

それでもやはり戦争に訴えるしかないと議会が判断し、開戦の決定を行うのであれば、開戦の正当性も固まり、効果的な戦争遂行を支えることにもなる。アメリカで、憲法と現実との乖離が指摘されながらも、現実に合わせて憲法を変えようという議論が有力にならないのは、憲法を通じて政府の戦争権限を抑制する意義が広く認識されているからでもある。そして、憲法による軍の抑制という困難な課題に悩み、試行錯誤を繰り返しているのは、アメリカだけではない。

                         ★

さて日本の話である。自民党が最近用意した改憲草案を見ると、9条を改正して「国防軍」を置くとする一方、その出動について国会の事前の同意を憲法原則とはしておらず、具体の制度は法律に委ねることとされている。憲法の条文のうわべを見る限りでは、アメリカ以上の好戦国家だということになりかねない。「そんなつもりはない」ということかもしれないが、周辺の諸国民は日本の政治家が善意の固まりだとは考えていない。憲法は見かけも大事である。政治が取り扱うのはしばしば生の現実より、そのイメージである。

憲法による政府の権限抑制、手続きではなく内容面でなされることもある。日本国憲法9条の下では、国に自衛権はあるものの、それは個別的自衛権であり、集団的自衛権は認められないとされてきた。国際法上認められている権利を自国の憲法で否定するのは背理だと言われることもあるが、これは背理ではない。大福餅を食べる権利は誰にもあるが、私は自分の健康を考えて、大福餅を食べるのは控えるというのが背理でないのと同じである。

注意が必要なのは、集団的自衛権ということばもいろいろな意味で使われることである。大きく分けると第一に、ある国が武力攻撃を受けた際、その国と友好関係にある他の諸国も共同して各国の個別的自衛権を行使する場合を指して、集団的自衛権の行使ということがある。個別的自衛権を行使する各国の安全と、武力攻撃を受けた最初の国の安全とが密接に絡み合っている場合である。

第二に、ある国が武力攻撃を受けた際、その国の武力が不十分であるために、友好関係にある他の諸国が援助する場合を指して、集団的自衛権の行使という場合がある。この場合、援助する国自身の安全が脅かされている必要はない。国際の平和と安全という国際社会の一般公益のために、援助国は行動する。

従来の政府見解が日本にないとしているのに、このうちの第二の集団的自衛権である。たとえば、日本の領土や国民の安全とは関係のないインド洋上やアマゾンの奥地で、他国を支援するために自衛隊が実力を行使することはできない。国際の平和と安全のために命がけで行動するのは、国際救助隊サンダーバードもかくやと思われる立派な行いのように見えるが、国際社会のメンバーがお人よしばかりではないことは、誰もが承知している。命の危険も顧みずに他国のために活動しても、美名の裏で自国の利権拡張を図っていると疑われるものであろう。自分のためにもならず、相手に感謝もされない危険な活動に踏み出す理由は、日本のような普通の国にはなさそうである

逆に言うと、たとえば日本が武力攻撃を受けて、それに対処するためにアメリカ軍と自衛隊が共同行動をとっているとき、アメリカ軍への攻撃に対して自衛隊が反撃することは、憲法で禁止されてはいない。従来の政府見解でも、こうした反撃は、わが国の自衛の範囲内であり、その場所がたとえ公海上であったとしても、自衛隊による反撃を否定するのは、常識的には奇妙なことだとされてきた。

                         ★

「解釈変更」が自己目的化していないか。

ここで問われているのは、法律の解釈とは何かである。憲法9条2項の規定は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」とする。平和に向けた決意表明としては尊いが、現実問題として、何らの実力組織を備えないで領土の保全や国民の生命・財産の安全を図れるかと言えば、それは無理であろう。だから、「戦力」と言い得るほどの規模・能力の部隊を保持することはできないが、自衛のための必要最小限の実力であれば、保持は禁止されない。そうである以上、国際社会の平和と安全という一般公益のために自衛隊が活動することはなく、あくまで、自国の安全が脅かされている場合にのみ行動する。ほどほどの知性と良識を備えている人であれば、納得のいく理屈ではなかろうか。

良識に敵(かな)う判断をどう支えるかが法の解釈においては肝心である。条文の言葉に国語辞典を重ね合わせて答えを導く単純な作業を法解釈とは普通言わない。具体の場面で法の制約がいかなる結論を導くかという問題への回答も、良識に敵う結論を筋が通るように、条文や先例、諸外国の事例を参照しながら支えていく作業であって、いくら非常識な結論になっても、条文に国語辞典を掛け合わせ、ガチガチの論理操作でとにかく答えを出すという作業ではない。もちろんそれで、できることとできないことは区別することになる。

9条に関する従来の政府の解釈、とくに集団的自衛権に関する解釈を変更すべきだという議論がある。頼まれてもいないのにオッチョコチョイで変えようというのではなく、本当に「解釈の変更」が必要なのか。9条の条文との関係を意識しながら良識に敵った結論を具体の場面ごとに支えることではなく、「解釈の変更」が自己目的化してはいないだろうか。かりに日本の安全とは無関係に、国際社会の平和という一般公益のために自衛隊が戦闘行動するような厄介で危ないことまでは想定していないというのであれば、実は「解釈の変更」は必要ないのではないか。

戦争権限の拘束をはずすことは日本の平和と安全のためになるだろうか。「面倒だからはずしてしまおう」で済む話ではない。