2013年2月23日土曜日

憲法、アメリカ、集団的自衛権

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コラージュ・野口哲平/The  Asahi  Shinbun

 

2月14日は建国記念日だった。

建国と聞けば、やはり憲法へとイメージはつながる。そんな訳で、朝日新聞が企画した20130214のオピニオン=「憲法、アメリカ、集団的自衛権」は、憲法学者の長谷部恭男(はせべ・やすお)氏が寄稿したものだが、今、鼻息荒い安倍晋三首相や、都知事職を無責任に投げ出して国政に参加した石原慎太郎氏が、日本人自らが草案に参加していない、アメリカに押し付けられた憲法を改正したいと姦(かしま)しい状況の中、冷静になって考えるヒントを提供してくれている。

集団的自衛権についても、政治家や評論家の各氏、百花繚乱、自分の意見を披瀝するのも勝手だが、これも、生臭さはつきもので、一体誰の意見を聞けばいいのだろう。

どちらにしても、国民がこぞって議論しなければならない時期に来たようだ。

それで、この憲法学者・長谷部恭男氏の寄稿文を読んでみると、成る程と首肯させられる部分が多くて、これを、いつものマイファイルにしまわせてもらうことにする。

 

以下、寄稿文。

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長谷部恭男 (麻生健撮影)

 

米と同じ憲法原理

あえてなぜ変える

それで何をするの

 

日本国憲法はアメリカの贈り物である。日本の憲法原理はアメリカのそれと等しい。個人を尊重し、多様で相対立する世界観・価値観の存在を認め、その公平な共存を目指す立憲主義の憲法原理である。アメリカとの関係を確固たるものにしたいとき、歴史の反省を踏まえて大切にしなければならないのは、まずこの憲法原理である。それは、南北戦争に敗れたアメリカ南部諸州が、奴隷を解放し人種の平等を求める憲法原理を、たとえ「押し付け憲法」であっても大切にしなければならないと同様である。

こうした問題を考えるとき、ウエットになってはいけない。アメリカも自国の利益と無関係に日本に憲法を贈ったわけではない。ドゴール大統領が喝破したように、憲法で作られた国家に「友人はいない」いるのは「同盟国 allie」だけである。憲法解釈を変え、憲法を変えることが日本の平和と安全のためになるか、そしてしかるべき国との同盟関係を深めることにつながるか、冷静な見極めが肝心である。

昨今、先人たちが苦労して積み重ねてきた憲法解釈を変更しよう、さらには憲法自体を変えようという動きがある。問題は、こうした動きに乗る人たちが憲法と戦争の間の根本的な関連性を理解しているかである。戦争は国家と国家が戦う。国家を形作るのが憲法である以上、戦争によって攻撃されるのは、敵対する国家の憲法原理である。異なる憲法原理を抱く国家同士は対立する。対立が激化すれば戦争に至る。

さて、憲法の役割の核心は、政府のできること、できないことを定めて、その行動を縛ることにある。しかし、力がむき出しになる軍の行動を憲法で縛ろうとしても簡単ではない。

政府の行動は違憲だという見解が学会では有力だが、政府は巧みな解釈論を展開して法の拘束をすり抜けようとするし、外交・防衛問題に関わりたくない裁判所は明確な憲法判断を示そうとしない。現実と乖離したままでは憲法の権威が低下するばかりだから、いっそのこと憲法の縛りなどなくした方がましではないかという極論まで出て来かねないーーーという状況に陥りがちである。

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相も変わらぬ日本の話だと思われるかも知れないが、これはアメリカの話でもある。アメリカ合衆国憲法は大統領を軍の総指揮官とする一方で、「戦争の宣言」を連邦議会の権限としている連邦議会に戦争開始の決定権を与えて、政府による不用意な軍事行動を抑制するのが、「戦争の宣言」を議会の権限とする合衆国憲法の趣旨である

ところで、敵国の急襲のような緊急時に、連邦議会の同意なしで軍を出動させる権限が大統領にあることは建国当初から疑われていなかった。さらに自分の手を縛られたくない政府は、「戦争 War」とまで言えない規模の武力紛争での派兵については、議会の同意は不要だと一貫して主張してきた。その結果、連邦議会の事前の同意を得ずに兵を送り出すことが通例となっている。

もちろん、正式の「宣戦布告」がなされた例もごくわずかである。建国以来、ほぼ毎年のように戦争を遂行してきたアメリカだが、正式の「宣戦布告」をしたことは5度しかない。議会の側も、発言権を強化しようといろいろ努力してきたが、大統領の戦争権限を実効的に抑制することに成功したとは言い難い。

それでも憲法による軍事行動の抑制には意味がある。立憲民主国家の多くは、議会の関与を通じて政府の戦争権限を抑制しようとしてきた。戦争で、まず危険にさらされるのが国民自身である以上、国民代表の同意を要求することには十分な理由がある。哲学者のカントも、開戦にあたっては、国民を代表する議会の同意を得るべきだと述べている。しかも、すべての国が職業軍人からなる準備軍を廃止し、人民自身が武装する国民皆兵の制度を備えるなら(徴兵制はその一種である)、いずれの国の議会も簡単には戦争に踏み出さなくなるはずである。かくして、戦争がより起こりにくい世界への、つまり「永遠平和」への歩みが始まるというのがカントの目論見であった。

それでもやはり戦争に訴えるしかないと議会が判断し、開戦の決定を行うのであれば、開戦の正当性も固まり、効果的な戦争遂行を支えることにもなる。アメリカで、憲法と現実との乖離が指摘されながらも、現実に合わせて憲法を変えようという議論が有力にならないのは、憲法を通じて政府の戦争権限を抑制する意義が広く認識されているからでもある。そして、憲法による軍の抑制という困難な課題に悩み、試行錯誤を繰り返しているのは、アメリカだけではない。

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さて日本の話である。自民党が最近用意した改憲草案を見ると、9条を改正して「国防軍」を置くとする一方、その出動について国会の事前の同意を憲法原則とはしておらず、具体の制度は法律に委ねることとされている。憲法の条文のうわべを見る限りでは、アメリカ以上の好戦国家だということになりかねない。「そんなつもりはない」ということかもしれないが、周辺の諸国民は日本の政治家が善意の固まりだとは考えていない。憲法は見かけも大事である。政治が取り扱うのはしばしば生の現実より、そのイメージである。

憲法による政府の権限抑制、手続きではなく内容面でなされることもある。日本国憲法9条の下では、国に自衛権はあるものの、それは個別的自衛権であり、集団的自衛権は認められないとされてきた。国際法上認められている権利を自国の憲法で否定するのは背理だと言われることもあるが、これは背理ではない。大福餅を食べる権利は誰にもあるが、私は自分の健康を考えて、大福餅を食べるのは控えるというのが背理でないのと同じである。

注意が必要なのは、集団的自衛権ということばもいろいろな意味で使われることである。大きく分けると第一に、ある国が武力攻撃を受けた際、その国と友好関係にある他の諸国も共同して各国の個別的自衛権を行使する場合を指して、集団的自衛権の行使ということがある。個別的自衛権を行使する各国の安全と、武力攻撃を受けた最初の国の安全とが密接に絡み合っている場合である。

第二に、ある国が武力攻撃を受けた際、その国の武力が不十分であるために、友好関係にある他の諸国が援助する場合を指して、集団的自衛権の行使という場合がある。この場合、援助する国自身の安全が脅かされている必要はない。国際の平和と安全という国際社会の一般公益のために、援助国は行動する。

従来の政府見解が日本にないとしているのに、このうちの第二の集団的自衛権である。たとえば、日本の領土や国民の安全とは関係のないインド洋上やアマゾンの奥地で、他国を支援するために自衛隊が実力を行使することはできない。国際の平和と安全のために命がけで行動するのは、国際救助隊サンダーバードもかくやと思われる立派な行いのように見えるが、国際社会のメンバーがお人よしばかりではないことは、誰もが承知している。命の危険も顧みずに他国のために活動しても、美名の裏で自国の利権拡張を図っていると疑われるものであろう。自分のためにもならず、相手に感謝もされない危険な活動に踏み出す理由は、日本のような普通の国にはなさそうである

逆に言うと、たとえば日本が武力攻撃を受けて、それに対処するためにアメリカ軍と自衛隊が共同行動をとっているとき、アメリカ軍への攻撃に対して自衛隊が反撃することは、憲法で禁止されてはいない。従来の政府見解でも、こうした反撃は、わが国の自衛の範囲内であり、その場所がたとえ公海上であったとしても、自衛隊による反撃を否定するのは、常識的には奇妙なことだとされてきた。

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「解釈変更」が自己目的化していないか。

ここで問われているのは、法律の解釈とは何かである。憲法9条2項の規定は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」とする。平和に向けた決意表明としては尊いが、現実問題として、何らの実力組織を備えないで領土の保全や国民の生命・財産の安全を図れるかと言えば、それは無理であろう。だから、「戦力」と言い得るほどの規模・能力の部隊を保持することはできないが、自衛のための必要最小限の実力であれば、保持は禁止されない。そうである以上、国際社会の平和と安全という一般公益のために自衛隊が活動することはなく、あくまで、自国の安全が脅かされている場合にのみ行動する。ほどほどの知性と良識を備えている人であれば、納得のいく理屈ではなかろうか。

良識に敵(かな)う判断をどう支えるかが法の解釈においては肝心である。条文の言葉に国語辞典を重ね合わせて答えを導く単純な作業を法解釈とは普通言わない。具体の場面で法の制約がいかなる結論を導くかという問題への回答も、良識に敵う結論を筋が通るように、条文や先例、諸外国の事例を参照しながら支えていく作業であって、いくら非常識な結論になっても、条文に国語辞典を掛け合わせ、ガチガチの論理操作でとにかく答えを出すという作業ではない。もちろんそれで、できることとできないことは区別することになる。

9条に関する従来の政府の解釈、とくに集団的自衛権に関する解釈を変更すべきだという議論がある。頼まれてもいないのにオッチョコチョイで変えようというのではなく、本当に「解釈の変更」が必要なのか。9条の条文との関係を意識しながら良識に敵った結論を具体の場面ごとに支えることではなく、「解釈の変更」が自己目的化してはいないだろうか。かりに日本の安全とは無関係に、国際社会の平和という一般公益のために自衛隊が戦闘行動するような厄介で危ないことまでは想定していないというのであれば、実は「解釈の変更」は必要ないのではないか。

戦争権限の拘束をはずすことは日本の平和と安全のためになるだろうか。「面倒だからはずしてしまおう」で済む話ではない。