2013年5月1日水曜日

二人だけのお話し

昨日、現社長の中さんと元社長で今は会長職の私の二人は、いつもの様にスタッフが検討している物件の下見に車で回った。昼飯時、二人は何を食うかということになって、互いに持ち合わせている食堂やレストラン情報を駆使、結局、磯子区の現場近くのとんかつ屋さんに決めた。

さくらい - 料理写真:釜焼きだああ・・

場所は、全国的にも有名になった、人気男性ジュオゆずの地元、磯子区岡村だ。

テーブルについて、メニューを決める際には、相手がメニューを決めるのに影響を与えないように各自で決めて、自らの言葉でオーダーしようと決めた。何故なら、私は相手に影響受け易いタイプで、大きな肉のメニューを飯大盛りでお願いします、と同伴の者が言ったとしたら、私、付和雷同君は、そのまま右にならえ、無理をして胸焼けに襲われ気分が悪くなる、そんな悪い癖があるからだ。

現社長は窯焼き豚カツ定食、私は窯焼きヤング豚カツ定食。メニュー書きには昔から、当店ではご飯、味噌汁、キャベツのおかわりは自由です、と書いてある。親切なお言葉だ。

当然のようにご飯と味噌汁をおかわりした。私のご飯は半分にしてもらった。何がヤングなんですかね、と給仕のオバサンに尋ねても、どうしてでしょうかねえ、と答えてくれただけ。年老いたおじいさん客には、このオバサン、顔を近づけて優しく、熱いお茶にしましょうか、それとも冷たいお茶にしましょうか、心の温まるシーンだった。

満足して車に戻った。中さんは、食った、旨かったと言いながらエンジンをかけた。いつも二人が繰り返す会話を、今日は中さんに言うまいと決めていたので、私は自分の頭の中で、いつもの会話を交わしていた。

「中さんよ、このようにちゃんと飯が食えるのは、ちゃんと給料が出ているからなんだよなあ。給料が出なかった時には、いろいろ、工夫をこらして昼を過ごした。大した苦ではなかったと言うけれど、毎日、同じインスタントラーメンは、ちょっと、やっぱりきつかったなあ」。

腹がいっぱいになったから、午後は茅ヶ崎の中古住宅の駐車場とコンクリート壁の高圧洗浄で綺麗にしましょう、そうしたら直ぐに売れますよ、中さんの独り言だった。

現社長の中さんと元社長の私たち二人だけの、つまらぬお話しでした。スマン

2013年4月28日日曜日

ミーにお友だちができた

20121020 002

昼間、私が仕事に出かけている間は、1人(頭?か匹?)で留守番をしているミーに、人間のお友だちが遊びに来てくれるようになった。18年間一緒に過ごした猫が亡くなって、介護していた母親が先日特養老人ホームに入所して、誰もいない家での手すきの時に、死んだ猫を思い出す。猫と暮らした日々が懐かしい、と。その人が、縁あって、我が家のミーに遊びに来てくれるようになったのだ。

野良猫現役当時、ミーはおしどり寿司という全国チェーンの営業部長だった。駐車場付近で、来店する客をもてなしていた。頭を撫ぜられ尻尾(シッポ)を振って応接に繁忙の日々を過ごしていたが、いつの日か、心ない不良客に下半身を蹴飛ばされたのか殴打されたのか、車にはねられたのか、下半身が心もとない状態になって、結果、排泄機能不全になった。

それからのミーの体は、見るに忍び難い状態になってしまった。お尻の周りは、ウンコとオシッコまみれ、肛門は開きっ放しで、ウンコがいつも見えていた。お腹にウンコとオシックが満タン、人の手が必要に思われた。

こんな状態のミーを見るに見かねた友人が、2011初秋、保護した。そして、一時的に預かって欲しいと頼まれた。預かるかそれとも断るか、その応否の判断に猶予はもらえないまま、ミーは私の部屋にやってきた。それほど、ミーに生命の危険が切迫していたようだ。

mi-

それからの数日間は、非常事態宣言、てんやわんやの大騒ぎ。2DKの安アパートの1部屋をミーに明け渡した。ミーは連日の動物病院通いで、1週間経ち1ヶ月経ち、元気を取り戻した。今では、排便の際には介助が必要だが、排尿は砂場と所々に敷いてある吸水性のシートにするようになったが、週に2度は動物病院で残尿を処理してもらっている。医師から排尿を促す術を授かったが、膀胱の在り場所の把握が難しい。それでも、よくもここまで良くなったものだと喜んでいる。野にいた頃に比べれば、今の状況をミーは喜んでいるのではないかと、自惚(うぬぼ)れているが、実のことは解らない。

そのようにして、ミーの一人っきりの留守番が始まったのだが、やはり一人ではつまらない。私のアパートの2階のベランダから遠くに見え隠れする猫を大きな声で必死に呼ぶのを見ると、ちょっと気が引ける。我が部屋に保護され連れてこられるまでは、広い野を自由に駆け回る特権を謳歌していたのだ。狭い部屋で、私と時には保護者とだけの限られた生活では、十分面白いわけではないのだから。

このような日常生活に遊び相手の出現は、ミーには特別、私にも嬉しい出来事だ。

2013年4月25日木曜日

冷やすの?、温めるの?

ギックリ腰で、駆けつける所は病院ではなく接骨院だと経験上解っていたが、こんな激痛の最中でもいいのだろうかと考えながら、それでも、勃発?の翌日20130423、やっぱり馴染みの整骨院に行った。なかなかできた施療士さんで、労(いた)わってくれる言葉に癒(いや)された。

私が使い捨てカイロ(懐炉)を肌着に張っているのを見つけて、「ヤマオカさん、腰が炎症を起こしているので、冷やさなくてはいけないんですよ」と言われたが、「そのように、誰からも言われていますが、私は何十年前もから度々腰痛に襲われていまして、その度に、冷やしたことはなく、温めて直してきました。だから、これだけは、私のやり方を認めてください」と開き直った。

施療士さんは戸惑ったようだが、しょうがないと思ったのだろう、その後言及はなかった。そのように言い切る私は、懇意にしている港南区にある診療所のお医者さんと、かって話したことを私なりに理解していることが原因だと思う。

サッカーのクラブ活動で、体のあらゆる部位を捻挫、脱臼、骨折、打撲を経験してきた。その際には確かに冷やした方が、痛みを抑えることはできた。腫れることも抑えられた。

そのお医者さんは、実は医者もよく解ってないんですよ、と話し始めた。医者仲間でテニス大会を年に何回かやるのですが、毎回、捻挫やら何やらと怪我をする奴が出るんですよ、そうしたら、面白いんですね、ある医者は冷やせと言うし、ある医者は温めろと言うんですよ。私は内科だから、そんな言い争いを外で聞いているだけなんですがね、と。なあ~んだ、そうだったのか、と納得した。

学校を卒業してからは、自宅の2階から滑落して鎖骨を骨折したこと以外は、ギックリ腰の腰痛のみで、一時的な過労を除いて、関節や筋肉を傷めたことはない。鎖骨骨折の時は痛み止めの薬を飲んだ。だから、冷やしたらいいのか、温めたらいいのか、それを自分の体で試したのは腰痛だけだった。結果、腰痛は温めた方が痛みを和らげ、早く治癒できることを知ったのだ。

賢者の皆さん、果たして、この私の独断で間違いはないのでしょうか、科学的な説明を求めています。

2013年4月24日水曜日

またもや、腰痛だ

20130422の朝、月曜日。毎週月曜日08:30からは、前の週にあった業務上の全ての洗い出しをスタッフ全員で行う定例会だ。

朝飯を終え新聞を読み終え、テーブルを離れようと椅子から立ち上がった時に、腰に電流が走った。懐かしいが、恐れていた電流だ。同時に愕然として跪(ひざまず)き、両手を床についた。この電流が、何を意味し、これから何をもたらせるかを十分解っているだけに、暗然とした。それでも、大事な月曜日、歯を食いしばり腰を折り曲げて出社した。

さかのぼること30年前、35歳の頃、デスクワークの最中に腰に痛みの前兆が遠くからトカトントン(これ、太宰治氏より拝借)、激震に襲われた時には床に屈していた。額に脂汗たらたら。これが、我が生涯、最初の腰痛との遭遇だった。腰をくの字に曲げたままタクシーに乗せられて病院直行。付き添ってくれた先輩は笑っていた。その後、勤めていた会社を辞めることになるが、その辞める遠い、遠い原因がひょっとしてこの腰痛のせいだったのではないか、と今は思う。気力が一時的に萎えたのだろう。

その後10年、45歳の頃に再び強烈な腰痛に襲われた。私は独立していた。この時は、左の足の股の付け根から指先まで完全にマヒした。棒で叩いても痛さを感じなかった。大きな総合病院に入院した。その病院の治療方法はボックス注射と腰痛体操の繰り返しだった。同病の友人が手術で完治した例を医者に告げて同じ処方を訴えたが、病院の方針で受け入れられなかった。

それならば、腰痛は自分で治すしかないと覚悟して、自ら申し出て退院し、それからの私は気合が入っていた。早朝、犬の散歩のついでにベンチや鉄棒のある公園で腹筋、背筋の体操を繰り返した。お陰で、その後は全く腰痛知らず、腰痛を患う知人に偉そうにアドバイスを垂れていた。

そして、2008年のリーマンショック、今から5年前のことだ。規則正しく健康管理をしていた日常が、営業不振、資金繰りに追われて、一気に反転した。弊社にとっても驚天動地の大事件。何度もこの類のショックには果敢に闘い、何とか難を逃れてきたが、このショックは、会社の規模が拡大基調にある最中だっただけに、受けたダメージは深かった。

日常の生活は激変、精神的ストレスが重く、自由に意図的な行動が少なくなった。犬の散歩も余裕なく短時間で引き上げ、考え込むことが多くなった。それだけに運動量が減った。怠惰の始まりだった。

20110310、東日本大震災の前日、スタッフの短君と相模原の物件の内見の帰り、車中で腰に激痛を感じ、仕事を断念して自宅まで送ってもらった。その翌日11日は会社を休んだ。そして地震だ。腰を伸ばすことも、起き上がることもできなかったのに、本棚が今にも倒れそうに揺れているのを、起き上がって押さえた。火事場のバカ(糞)力だ。オシッコは、風呂場まで四つ足で這いつくばって行き、犬のように後ろ足を上げて済ませて、水で流した。かって貯め込んでいた腰周りの腹筋背筋力はこの日までに全てを使い果たしたようだ。

 

 つくし 073 つくし 062

今回の腰痛が発生した22日の前日、4月21日は日曜日で昼から、長女の家でバーベキュをした。私は午前中で仕事を終え、スタッフに、頼むわ悪いなあと言って会社を出た。

朝から、強い寒風が吹き冷たい雨が降っていたので、どうするんだと電話で尋ねたら、予定通り、と強く言い返され、罰悪く感じて尋ねたことを後悔した。

長男は海外に出張中なので、4人の子どものうちの3人の子どもとその相方、それらのカップルの間に生まれた5人の孫が集まっていて大層賑やか。孫たちは従兄妹同士、いつまでも仲良くして欲しいと思う。

男衆は長女の夫の主導で、屋外の屋根のかかった広場で、肉や野菜を焼いた。焼けるたびに室内の子どもや女衆に運んだ。私は焼く手伝いもせず、ただ、ワインや焼酎を飲みながら孫たちと遊んだ。

この時の冷たい風に体はすっかり冷えたのだろう。これが、翌日に腰に火を点けたのだ。それに加えてこの5年間の運動不足だ。東日本大震災の後、腰痛予防の体操や腹筋、背筋のトレーニングにも努力しなかったばかりか、意識もしなかった。自覚が薄れていたのだろう、歩数計が小さい数字を示しても何とも思わなくなっていたのだ。

腰痛の最大の原因は怠惰だ。

2013年4月19日金曜日

三国連太郎を悼む

MX-3500FN_20130419_082439_001

映画「三たびの海峡」で主人公を演じた当時=1995年

 

万年ヒラのサラリーマンであるハマちゃんは、上司の佐々木課長に教わった釣りにすっかりハマ?ってしまう。その入れ込み方がまさに釣りバカ状態。ある日ハマちゃんが釣りに誘った初老の男性が「スーさん」だった。ところが、このスーさんの正体は、ハマちゃんが勤める会社『鈴木建設』の社長・鈴木一之助だったのである。味わい深い社長サンだ。このシリーズの何本かを正月映画として観た。この社長とハマちゃんを中心に、それぞれの家族や社員が繰りなすドタバタ劇が、「釣りバカ日誌」として人気シリーズになった。

その社長さんに扮していた三国連太郎が、14日に亡くなった。この三国連太郎という男の翳(かげ)に魅(ひ)かれ、不思議な人間だと、ずうっと思っていた。人に歴史あり、その歴史が顔を作る。被差別部落で育った。この俳優の原風景はどのようなものなのだろうか、と思い続けていた。大学時代に観た「飢餓海峡」が頭から離れない。戦後の暗いどさくさの世を生き延びるために殺人を犯し、果てには会社の経営者になる冷徹な人間を演じた。

 01

釣りバカ日誌11

 

20130417の朝日朝刊・文化に石飛徳樹氏の「三国連太郎さんを悼む」の文章が載っていた。それをそのまま転載させてもらった。この文章の中に、私が気にかけていた三国連太郎の心象の一部を垣間(かいま)見えた。

14日に亡くなった俳優の三国連太郎さんは90年の人生を、差別や不条理が存在する社会への怒りをもって生き抜いた。その怒りが、俳優としての破格の大きさになって結実していた。

「三国さんは自分たち俳優を遊芸民と称していた」。民俗学者の沖浦和光さん(86)は振り返る。中世以降、芸能に携わる人々は、何も生産しない民としてしばしば差別を受けていた。

長年親しかった三国さんとは「『芸能と差別』の深層」(ちくま文庫)という対談集を出している。「観客を魅了したあの名演技は、闇の部分が多い複雑な実人生の投影であることが分かります」この本の中で三国さんは、「親父の田舎」の由緒について触れている。

「中学の頃からなぜ自分がのけ者にされるのか理不尽に感じていたと話していた。役者になってから、柳田国男や折口信夫をはじめ観阿弥・世阿弥など芸能史について幅広く勉強されていました」

三国さんの思い入れが特に強かった映画は、今村昌平監督の「神々の深き欲望」(1968年)だったという。「沖縄の土着的な文化と近代化の間に起こる差別を、初めてまともに描いた作品だと思う。三国さんは、監督が完璧主義で納得いくまでOKを出さず、撮影に1年半かかった、と話していた」

戦時下に日本へ強制連行された朝鮮人に扮した95年の「三たびの海峡」も三国さんらしい映画の一本だ。神山征二郎監督(71)は言う。「皇民化教育の時代に育ち、青春を送った人だから、戦争に対する憎悪はすさまじいものがあった。抑圧されている者の怒りが、単に役柄を演じている以上の迫力でひしひしと感じられた」

脚本の読み込みも尋常ではなかった。「撮影のある日は毎朝、赤鉛筆で直した台本を見せられた。そこまでこだわる俳優は、ほかに会ったことがない。若い頃の苦労が俳優としての生き方の強いバネになっていたのでは」

神山監督は、日本にはいないタイプの器の大きな俳優だったとも話す。「なぜ戦争が駄目なのか、という大きな思想をきちんと語れる方だった。マーロン・ブランドをほうふつさせる」

ブランドの持つ存在感や威厳は、確かに三国さんに近いものがある。アカデミー賞主演男優賞に決まりながら受賞を拒否したが、その理由は「ハリウッドの少数民族への差別」だった。

「三国さんがもっと活躍できる幅の広さを今の日本映画が持てていなかった」と神山さんは残念がった。

MX-3500FN_20130419_082503_001

「神々の深き欲望」の三国連太郎(左)=日活提供

指導者の責任は重い

今度はサッカーでの体罰問題だ。

新聞記事で、岐阜県大垣市のサッカークラブのコーチが中学2年の男子生徒(13)を蹴って両腕を骨折させた事件のことを知った。岐阜県サッカー協会は14日に理事会を開き、コーチで元Jリーグ選手の西脇良平容疑者(33)の処分を決める。協会幹部によると「永久追放」になる見通しで、日本サッカー協会に承認されれば正式に処分が決まる。

学生時代、相撲や柔道で、現実に体罰の現場に立ち会ったこともある。ところが、私が大好きなサッカーにも不祥事が起きてしまった。このようなことは、サッカーの選手として大学まで過ごした期間、それに自治会の子どもチームの指導者として参加していた期間、起こらなかったし、絶対起こしてはいけないと考えていた。私が一番嫌うことだった。

ある日、友人から相談を持ちかけられた。

チームの監督が自ら率いるチームの子どものプライベートな部分を、酒の席で面白可笑しく語ったとのことだった。その子どもの両親のプライバシーに関することも話題にのぼった。友人は、監督の言辞を決して許されるものではない、と訴えていた。現場に居合わせた友人は、面白可笑しく話している内容が、本人の耳に届いた時に、言われた本人らはどのように傷つくかを想像して、肝が冷えたと言っていた。

これは言葉の暴力だ。体罰と何ら変わりはない。私が指導者だったとき、隣のグラウンドから野球のリトルリーグの子どもを整列させて、監督が喋る長々とした指導(教訓)が度を過ぎ、決して指導というようなものではなく、聞くに耐えられなかった。

そんな監督は指導者として最低の人物だ。私もかって、地元の自治会が作ったサッカーチームの指導をしたことがある。この時に、一番気を使ったことを此処に書いてみたい。

子どもたちの「心」を傷つける言動を避けることを、見守る父兄やコーチとして参加する父親たちに徹底した。余計なことを安易に口出さないでくれとお願いした。自分の子どもが、ちょっとばかり上手だからといって、他の子どもたちとは違うと勘違いする親が実に多いのだ。「どうして、うちの子どもを試合に出さないのですか」。私の子どもたちに処する原理原則は機会均等、ポジションを固定せずに、どのポジションも交代でやらせた。

試合中に親が、子どもたちに向かって、「何をやっているんだ」と声をかける父兄を怒鳴った。真剣に怒った。二度とグラウンドに来ないでくれとまで言った。声をかけるあなたは、何を考えて声をかけているんだ?励ましたり、賛辞を浴びせるなら腹を立てることはないが、「何をやっているんだ」の言葉ほど、子どもを侮辱した言葉はない。

器用に言われたことをすんなりこなせる子どもはいる。ボール扱いがなかなか思うようにいかない子どももいる。難聴の子、病気の後遺症なのだろう、びっこの子どももいた。

子どもたちは、サッカーを純粋にやりたくて、ボールを蹴りたくて集まってきているだけなのに、クダラン大人の一言で嫌な気分にさせられる。素(す)の子どもと対峙するスタッフは、真剣でなければならない。怒った子どもの頭には鶏冠(とさか)が屹立(きつりつ)。楽しい気分は失せ、やる気は挫け、上手になろうという意欲は薄れ、投げやりになる。子どもの怒りの矛先は発言者に向かい、その矛先が親なら、怒りは度を増して変質する。この恐ろしさを、親は当然、監督やコーチは最大に注意しなければならない。不心得な親は、やる気をなくした子どもから攻撃され、普段の生活にも支障をきたすことにもなるだろう。

友人から相談を持ちかけられた、この監督の振る舞いは、謝るとか、改善するとかではなく本質的な問題だ。このような立場からはできるだけ早い目に去るように助言すべきだろう。

この監督が、そのチームの代表をしているのならば、先ずは日本サッカー協会の地方の下部組織に訴えることだ。当事者間で話し合う問題ではない。

2013年4月17日水曜日

支えたいアスリート

アスリートたちに、こんなに熱い視線を注ぐ経営者もいるんだと、うらやましかった。

最近では高校のバスケットボール部の指導者による体罰が原因でキャップテンだった高校生が自殺したり、その前には、柔道の日本女子代表選手たちの監督、コーチによる体罰、ハラスメントの告発問題だ。何れも、現場を管理監督する組織の思考能力の低下、見事に機能不全状態を露呈、アスリートたちは被害者だ

アンチスポーツ派からは、スポーツ馬鹿どもが!?、と大いに批判される絶好の材料を提供してしまった。でも、そんな嫌なことはあったとしても、日々のアスリートたちは、真剣に、真面目で、その活動は常に我々に感動を与えてくれる。そんな折、20130402の日経新聞・スポーツ面におけるミズノ副社長、上治丈太郎氏の「支えたいアスリート」の文章が掲載された。企業人である上治氏から見た、アスリートたちの姿だ。こんなアスリートの生き方を知ると、私は無性に気分がよくなるのだ。

 

スポートピア

上治丈太郎/支えたいアスリート

 

日本が史上最多38個のメダルを獲得した昨年のロンドン五輪。初めて、もしくは何十年かぶりにメダルを取った競技も多かった。17の国内競技団体のスポンサーを務めてきたミズノにとっても、長年の努力が形になったうれしさは格別だった。

大会中もさることながあら、今回は終わってからも選手たちに感謝させられた。福原愛選手、石川佳純選手、平野早矢選手の卓球3人娘をはじめ、多くのメダリストが会社までわざわざお礼のあいさつにきてくれたのだ。競技団体の役員に連れてこられたのではなく、大半の選手が個人としての来社だった。

柔道で虎の子の金メダルを獲得した松本薫選手は、付き添いもなく1人でやってきた。単なるあいさつにとどまらず、「これからファンや子どもたちにどう接したらいいでしょうか」など色々聞いてきた。立場が人をつくるというが、金メダリストとしての自覚がにじみ出ていて頼もしく感じた。

最近の選手は、周囲への感謝や気配りをしっかりできる。時代もあるのだろう。デフレの中で育ち、企業のスポーツ撤退など厳しい環境を生き抜いてきた彼らだ。一方で、1年中合宿できるナショナルトレーニングセンターの開設など国の充実した支援の恩恵も授かっている。競技に打ち込めるありがたみを身に染めて知っている世代といえる。インタービューで周囲への感謝を口にする選手もとても増えた。

メーカーとアスリートの関係はもちろん、ビジネスでもある。商品開発やブランド戦略での大事なパートナーとして、有名な選手ほど成績に応じたインセンティブなど付帯条項も多くなる。契約社会の欧米選手だと契約書類は30ページにもなる。30年前は2、3ページだった。

ジュニア時代からサポートしてきた選手が五輪を目指すレベルまで来た途端、高い契約金で他のメーカーに引き抜かれたりもする。将来性のある選手は関わっている人たちも多いし、最近は青田買いも進んでいる。

ビジネスにドライな部分があるのは当然。だが、メーカーとして思い入れのある選手はビッグネームよりも、無名時代から製品を愛用してくれている選手だったりするものだ。正直言って、4年に1度しか注目されない五輪競技のサポートは損得だけを考えたら成立しない。結局は人と人との世界で、「この選手にメダルを取らせてあげたい」とほれ込むかどうかで、我々のサポートも変わっていく。

ソチ五輪の星、スキージャンプ女子の高梨沙羅選手からはシーズンが終わると手書きの礼状が届く。まだ16歳、なかなかできることじゃない。幼少期から応援してきた縁があるとはいえ、ミズノと契約を結んでいるわけではない。分厚い契約書よりも、そんな1枚の手紙に我々もその気にさせられる。  (ミズノ副社長)