2013年11月6日水曜日

第2の果樹園に本格的鍬入れ

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今日20131106(水)は、横須賀市衣笠栄町にある弊社所有地を果樹園にするための準備をしてきた。この2番目の果樹園の名前は、「ケンタウルスの果樹園」だ。宮沢賢治さんが生きていたら、きっとこのように命名してくれただろう。ギリシャ神話に出てくる上半身人間で下半身が馬のあの星座のことだ。「銀河鉄道の夜」では、「ケンタウルス、露を降らせ」と星たちが群舞する。横浜市保土ヶ谷区今井町の1番目の果樹園は、「イーハトーブの果樹園」だ。豊穣の果樹園になってくれた。

本日の作業員は、経営責任者の中さん、私、中さんの義弟の3人だ。勇敢な有志だ。

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果樹を植えるために大きな穴を掘ってきたのだ。何故って? 普通の土地なら、何も気にせずに、苗木を植えればいいのだが、この土地は、以前は住宅地でも、地面の表層1メートルには大小様々な石が混入していて、かつ路盤のように固くなっていた。そんな土壌に果樹なんか直接植えられるものではない。

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ハンマードリル                    発電機

今度弊社が経営に参加することになった建設会社の社長さんのアドバイスで、ハンマードリルと発電機を建設機械のレンタル会社で借りてきた。延長コードは会社から持ち出した。次女の夫の竹ちゃんには、彼が勤めている会社からツルハシを借りてきてもらった。直径1メートル深さ1メートルの穴を12個、3時間ほどで掘れた。ハンマードリルやツルハシで土を柔らかくして、スコップで土を放り出す、それの繰り返し。深いところからも、大きな石や粘板岩がゴロゴロ出てきた。我々は、この手の仕事をするのに、力の配分というか、要領、ペースが解らなくて、目先の仕事を何とか早く終えたいと思うから、仕事のペースは早くなりがち、自然に急いでしまう。急激な筋肉の緊張は、過酷だ。中さんの全身の筋肉には破滅的な衝撃を与えたようだ。腰痛持ちの私にも、結構なお仕事でした。

1週間前、一人でスコップで掘ってみたら、1時間程かかって直径50センチ深さ30センチの穴を掘るのが精一杯だった。ドカタ上がりの私でも、この手掘りの作業はきつかった。疲れた手と足と腰を掌(てのひら)で叩いて、このありさまを前に可笑しくなるほど、クラクラ、ガッカリ、気落ちしたのだ。

そのように気落ちしていた私でも、今日は朝からエンジン全開だ。朝一番で建設機械のレンタル会社に行って、予約してある内容を受付のネエさんに話すと、彼女はマイクで弊社の会社名と機械名を呼ぶ、そうすると、作業員の方が私の車に機械を乗せてくれる。ほんの数分間の出来事だ。いろんな建設会社のトラックやダンプカーがどんどんやってきて、いろんな建設や土木に使われる機械が積まれては去っていく。初めて見る緊張感のある光景、面白かった。借りた機械の作動の仕方をレンタル会社のスタッフに詳細に教えてもらった。

さて、この後はどうすればいいのだろうか? 

穴を掘ったのはいいが、果樹を植えるには穴の中に良質な土を大量に入れなくてはならない、難儀だ。もっと周囲の土壌も改良しなければならないだろう。

まだまだ、気を許せないのだ。この土地は階段約50段程の高さにあって、当然、車を横付けにはできない。これからのハードルをどのように越えればいいのだろう。 鳩首、いい知恵を出そうぜ。

2013年11月4日月曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト3

そんなことも、あったか!!

私が浪人時代にドカタ稼業で得た資金は、大学の3年間の授業料と3年間の生活費を合わせて見積もった300万円に近い額だ。郷里の農協に貯金をして、その貯金通帳と届け出印を母に預け、当面の資金だけを持って、1969年、昭和44年の2月のある朝、高田馬場駅に着いた。前の日の深夜、京都を急行列車銀河で発った。高価な新幹線などには乗らなかった。

私は、早稲田大学でサッカーをやるために、はるばる東京までやって来た。

大学に行きたいが、1浪しても2浪しても、勉強したいモノを思いつかなかった。だが、飢えていた。何でもいい、何にでも熱中、夢中になりたかった。この熱病者は、虐(いじ)めつけて引き留めておかないと、どこかに、飛んでいってしまいそうだった。熱(ほとぼ)りのはけ口をサッカーに向けた。

2年間の浪人時代はドカタ稼業と少しの受験勉強に明け暮れた。朝、目覚め、飯を腹一杯に食って、昼間、親方の指示に従って、仲間と共同して思いっ切り体を使って働いた。夕方、仕事を終えると、親方から酒を振る舞われ、帰宅、夜、酔って机に向っても、ほんの数分で居眠り、そのまま熟睡してしまうこともしばしば。働いているときは充実しているが、ドカタが雨で休みの日や、ドカタ弁当を食い終わって一息入れたとき、夜中に目が覚めたときなどに、屡々(しばしば)、急に不安になり焦燥に駆られた。夜中、ぶるぶる震えることもあった。

他にも数校の大学から合格通知はもらっていたが、決めたのは本命だった。当時の大学のチャンピオンで、日本サッカーリーグのどのチームと戦っても、十分互角に戦えるチームだった。学部は社会科学部だったが、どの学部でも構わなかった。

実家は貧しい農家だった。でも、実家の跡取りの5つ年上の長兄も父も、私が東京の大学に入ることには大賛成で、仕送りすることにも大いに賛同してくれていた、が、私にも意地があって、できるだけ貯めたお金でやり繰りしたいと考えていた。4年生の時の1年分の授業料は父と兄のお世話になるとして、生活費については、貯めた3年分の生活費を倹約に倹約を重ねれば、何とか4年間を過ごせるのではないか、と目論んでいた。

長兄は父の期待に応(こた)えるように、高校進学を諦め、2年間の高校の定時制(昼間、週に2、3日の授業)の茶業科に進みながら、お茶と米作を主とした農業に精を出した。村の人々が吃驚するほどの勤勉なお百姓さんになった。この兄は、中学生の頃でさえ、大人顔負けの仕事をこなした。

高田馬場駅の近くのホテルに1泊しただけで、翌日にはアパートを決めた。そのアパートの住所を郷里に電話で知らせ、布団や衣類、私がまとめておいた荷物を送ってもらった。大家さんは人の良さそうなおばあちゃんだった。荷物が届いて、入学の手続きを終えた。履修科目の登録も済ませた。

ようし、これからが大事な仕事に取り掛かるのだ、と気合いを込めた。サッカー部に入部するための手続きにグラウンドのある西武新宿線の東伏見に向った。当時の住所は、東京都北多摩郡保谷町東伏見だ。

東伏見駅に下りて、駅員さんにサッカーグラウンドの位置を尋ねたが、この坂を下りて行くと、色んなグラウンドがあるので、そこで聞いてご覧、と言われた。駅を出て右を見ると、東伏見稲荷神社への案内板があった。京都・伏見の稲荷神社にはよく行ったので、なあんだ、伏見稲荷の東の国の支社だ、こりゃ縁があるぞと親近感を持った。上背があって、屈強で筋肉モリモリのえんじ色のトレーニングウェアーの学生らがふざ(悪戯)けながら、坂を上(のぼ)ってきた。彼らの振る舞いは、天衣無縫、奔放だった。奴らは何部なんだろうか。大学の運動部はさすがに迫力あるなあ、と恐ろしくなった。あんな奴らに負けるもんかと力んでいた。今までに見たことのない体つきだ。

坂を下った突き当りが、サッカーのグラウンドだった。練習の終わった時刻だったのだろう、グラウンドには4、5人が銘々勝手に練習していた。グリーンハウスの前のベンチでしばらく周囲を見回したが、目ン玉がサッカーグラウンドから離れない。

急に近視眼になったように、サッカーグラウンド以外の風景は、漠然と霞がかっていた。

水飲み場で、水を飲んで顔を洗って、足を洗っている部員に近付いて行った。彼に、此処が私が入部を希望している早稲田大学のサッカーグラウンドであることを確認した。そして、入部を希望しているのですが、どうすればいいのですかね?と尋ねると、サッカー部の寮を教えてくれて、「そこで、海本さんに、聞いたら?」と関西訛りで答えてくれたので、私もつい、おおきに、と応えた。間抜けた質問だったのか。

その彼は新入部員の銀だった。球さばきが上手く、1年生でレギュラーに選ばれた。すっかり部員になりきっていて、大学生の風格のようなものを既に漂わせていた。この銀ちゃんとは、在学中も卒業してからも抜き差しならぬ関係?になってしまった。 

海本さんは新人監督で、後で知ったが、寮長さんでもあった。寮に行って海本さんに、面談を求めると集会場のような20畳ほどの部屋に連れて行かれて、お前はどっから来たんやと聞かれたので、京都の宇治にある京都府立城南高校出身であること、チームは強くなく部員も少なく、きちんとは練習していなかったことを話した。出窓に腰を下ろしてリラックスしながら、俺も京都出身で山城高校や、と海本さんは同郷のよしみ、か?親しみを込めて話しかけてくれた。私は恐縮して畳に正座していた。

さすが、強豪校の出身で4年生にもなれば、タイしたもんだなあ、と感心していたら、ええよ、分かったから、早く寮に来い、新人は強制的に入寮することになっているんだ、と言われ、数日前にアパートを決めて荷物が郷里から届いたばかりだったので、驚いた。少しは混乱した。賃貸借契約をしてたかだか1週間しか経っていないのに、家賃と礼金、敷金は戻ってこない?ものだと、と思わないといけないのか。悔しかった。

後で知ったのだが、ほとんどの新入部員は、大学の入試を受ける前からサッカー部のマネージャーと合格してからの手続きなどの打ち合わせをしていたのだ。セレクションというのがあることも知らなかった。私ら2、3人以外の新入生は、私が初めてこの寮を訪ねた日よりも、1ヶ月も2ヶ月も前から、練習に参加していたのだ。

セレクションなどに参加などしていたら、先ず、走力などに極めて劣っていた私は、バッテン印をつけられたことだろう。結果的に、直接、藪から棒に入部を申し出てよかったのだ。この海本さんが、誰にも相談なく、その場で決めてくれたことにも感謝したい。

当時の4年生は、日本代表(今でいうA代表)や大学選抜に数人が選ばれ、高校時代のユース代表が数人いて、他の大学とは比較にならないほど優秀な選手が揃っていた。そんなチームだったので、私のような者の入部は想定外だったのだ。入部にふさわしいだけの基礎的な能力を、私の自己申告だけで、判断してしまった。違う、判定などしようとしなかった、その太っ腹、鷹揚さに感謝。私は嘘をついたわけではない、私は幸運だった。

海本さんに、1週間前にアパートを決めたこと、それでも3日後にはアパートを引き揚げて入寮するので、よろしくお願いしますと、何度も頭を下げた。

問題はアパートの賃貸借契約の解約のことで、頭がいっぱいだった。どのように大家さんに話せばいいのか気を揉んだ。私の入居を大家さんは非常に喜んでくれたのだ。家賃は安いだけにそれなりに環境が悪かった。それでも、私には十分だったのだ。

大家さんは、上品でいいおばあさんだった。部屋を10日間使わせてもらったのに、家賃も礼金も敷金も全額そのまま返金してくれた。敷金は兎も角、家賃は、使った日数だけでも日払いで取ってくださいとお願いしたが、笑っているだけで、受け取ろうとはしなかった。礼金などもらえないよ、と顔を赤くした。恐縮する私に、頑張りなさいよ、しっかり練習するんですよ、と励ましてくれた。何度も何度も頭を下げて有難う御座いますと繰り返した。明日からは俺も早稲田のサッカー部だと思うと、興奮していつまでも眠れなかった。

翌日、田舎から送られてきた布団や諸々の荷物を、何もかも布団袋に押し込んで、高田馬場駅まで背負って行った。私の体の1、5倍もの荷物だ。腰を屈(かが)めているので見えるのは地面だけ、やっとのことで駅の改札口に辿り着いた。駅員さんがにこやかな笑顔で、切符に鋏を入れてくれたのを、顔を斜めにして確かめた。

かくして、高田馬場暮らしは10日間だけだった。

さつま芋の蔓を食った

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鍋に入れる前の、カットを済ませたさつま芋の蔓

 

先の大戦の終わりごろ、日本は苦戦を強いられ戦況に歩調を合わせるように酷い食料事情に陥った。終戦直後の都会は全くの飢餓状態だった。

それでも私の生家は農家だったので、都会での深刻な状態など露知らずだったようだ。私たちが住んでいた村は、交通の不便な人里離れた辺境の地だったのに、そんな村にまで、京都や大阪から農作物の買い付けに、人々がやって来たらしい。

庭先に、干し柿を作るためにむいた渋柿の皮を干しておいた。柿の皮は、糠漬けに入れると芳醇な香りを出すためのもので、漬物作りには欠かせない。そんなものでも、分けて(売って)くれませんかと頼まれたよ、と話してくれた。

大学に入って、東京育ちの学友の父から、戦中、戦後、私らはよく「すいとん(水団)」を食いましたよと聞かされた。米がなくその代用食としてすいとんを食ったのです。小麦粉が不足していたので、小麦粉を水で緩く溶いて、汁、または熱いお湯に直接落とし込んで団子状態にしたものを食いました。まあ、よく食わされました。当然、汁には充分な味付けなどはしていないので、いくらなんでも美味いとは言えなかった、よ。

そして、この夏、2013の終戦記念日、私はすいとんを作って、食った。往時を偲(しの)ぶつもりだったが、立ち寄った友人から、そんなのすいとんとは言わないよ、すいとんはもっと貧しいものだよ。これは、野菜のごった煮に小麦粉の練ったものを入れただけじゃないか、とにべもなかった。

そのような話をしたり聞いたりしていると、私は私の田舎でのことを思い出した。私の故郷のほとんどの家は田畑を多かれ少なかれ持っていた。でも数軒は家の庭先しか耕作地を持たない家もあった。そのような家庭の働き手が、現金収入を得られる仕事につけなかったら、その生活は大変だった。

遊びに行った友人の家(うち)の食事を見て、吃驚したのだ。さつま芋の葉を細かく切って鍋に入れたのを見た。芋はなかった。さつま 芋はおやつとして、ふかしたものや焼き芋を食ったことはあっても、蔓も葉も捨てていた。その光景を母に話したが、ふう~んと言っただけだった。

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できあがったさつま芋のキンピラ。

 

それから約55年後の今、イートハーブの果樹園の隅っこで芋(安納芋)を作っている。来週あたりに、孫と一緒に掘れたらいいなあ、と思っているが、孫も忙しいようで、どうなることやら。このさつま芋を植えた時から葉を食ってみると決意していた。そして、昨日、山田農園主の手伝いの最中に、さつま芋の葉を食おうと思っているんだ、と話しかけたら、農園主は「芋の葉ではなくて、蔓をキンピラにすると美味しいよ」と教えられた。

早速さつま芋の蔓を、山田農園からもらって帰った。作った、食った、美味かった。キンピラ作りはオテノモノ、美味しく頂きました。

ところで、葉っぱを食うことはどうなったんだっけ? 肝心なことが先延ばしになってしまった。

2013年11月1日金曜日

何故、日本勢はACLで勝てないの

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20131026 朝日・朝刊

準決勝で大敗した柏。過密日程をどう避けるかが、今後の課題に浮上した。

 

20131026 朝日・朝刊/スポーツ、「敗れ去る日本勢の真の敵は」「サッカーACL 5年連続外国勢で決勝」の記事に注目した。日本チームのACLでの活躍を期待するサッカーファンにとって、関心深い記事だ。この数年の日本チームの戦いの不出来に、気を揉んでいたのだ。

今月の26日から始まるACL決勝には、日本勢は5年連続で決勝の舞台に出場できなかった。そこには、何か理由(わけ)があるのではないか? 何故か、勝てない。その理由を探った内容だ。Jリーグのチームが、やっと、出場の権利を得ても、抱える難題は多いようだ。活躍を阻害しているものは何か。

今大会に於いては、日本勢は広島、仙台、浦和の3チームが1次リーグで敗退。唯一決勝トーナメントに残った柏が準決勝で広州恒大に大敗した。この負け方が余りにも、異常だ。

07年に浦和、08年にガ大阪が優勝してからは、09年4強、10年16強、11年8強、12年16強、今回は4強止まりだ。

 

以下、新聞記事のダイジェスト。

1、JリーグにとってACLは、浦和など集客力のある一部クラブを除いて、準決勝以上に進出しないと赤字が出る事業だった。そこでJリーグは日本協会(JFA)とともに、負担の重い敵地への渡航費の補助に踏み切った。1次リーグでは80%を援助した。

2、チームを支える活動資金の量が、今回、柏と準決勝戦を戦った広州恒大は圧倒的に潤沢だ。年間予算は、柏の35億円(12年度)の倍以上、J最多の浦和でも53億円だ。

3、柏のネルシーニョ監督は完敗を認めつつ、「本来の体調ではなかった」と、準決勝第2戦まで20日間で6試合を戦わざるを得なかった日程面の問題を指摘した。準決勝に残った中国、韓国、イラン勢はいずれも国内リーグの日程を大きく変更するなど対応をとっていた。

4、アジアのライバルに比べて加盟クラブが多いなど、自由が利かない事情もあるJリーグだが、今季の結果を受けて、柔軟な対応が可能な日程の検討を始める。

2013年10月29日火曜日

ネエネエ、八丁畷って

今度、京浜急行線の八丁畷駅から歩いて2分ぐらいの所で、中古住宅をリフォームして販売する予定だ。この物件に関わる仕入担当者や工事担当者が、何度も口から発する「八丁畷/はっちょう なわて」が、聞く度に耳に残り、見る度に3文字の漢字が網膜から消えない。

ちょっとこれは、調べてみる価値はあるな、とネットに頼った。

Yahoo 知恵蔵によれば、八丁畷の地名の由来は、川崎宿から次の市場村まで距離8丁の「あぜ」道があったことによる、とある。

畷(なわて)とはあぜ道のことで、8丁は870メートルに相当するそうだ。

あぜみち?

不動産の登記簿謄本や公図を前にして、我々不動産業に携わる者たちは、よく畦畔(けいはん)という言葉を口にする。大体は国有地で、たまには地元の自治体の所有地になっている。少し意味が違うが赤道とか青地と呼ぶこともある。そして、その畦と畔は、ともに畦道(あぜみち)であって、畔道(あぜみち)なのだ。田畑の端で通行の用途に供される細長い土地のことだ。通行に使われていない畦畔は、傾斜地になっていることが多い。

ならば、この畦のあぜと、この畔のあぜはどのように違うのだろう? 昔、高峰三枝子の「湖畔の宿」という歌謡曲が歌われていたので、畔はどうも「辺り」(あたり)という意味が含まれているのだろう。「山の淋しい/湖に/ひとり来たのも/悲しい心」の歌詞で知られる大ヒット曲だ。

畦は、水田と水田の境に水田の泥を盛り上げて、堰のようにして水が外に漏れないようにする。その際に土の上に土を盛り上げるさまをイメージして、圭の文字を使って表現したのだろうか。作物を植えたり種を蒔いたりするのに、周囲の地面よりも高くする畝(うね)とは違う。

私の考察は、レベルが低過ぎますか!

2013年10月23日水曜日

今年も「銀河鉄道の夜」が近づいてきた

銀河鉄道の夜

今年も、東京演劇アンサンブルの、ブレヒトの芝居小屋での宮沢賢治・「銀河鉄道の夜」の公演が近づいてきた。

早速、例年通り招待状を3日前にいただいた。招待を受ける日は12月23日(天皇誕生日)、15:30~だ。招待を受けた私だけが観劇に行ったところで、劇団さんには収益的には喜んでもらえない。

今年の7月25日、長女の娘・梅(小1)と次女の息子・晴(小3)と私の3人組で、松居スーザン・「はらっぱのおはなし」を、このブレヒトの芝居小屋で観た。音楽劇だった。このときに、初めて芝居を観た梅が、こんなに喜んでくれるなら、次回もこれからも、、、暫くは、オイラは一緒の3人組だ、と決めた。よって、今回は当然のように3人組で行く。

従兄妹同士の晴と梅、仲がいいのがジジイには微笑ましい。この孫たちにいつまでも寄り添っていたい、成長を見届けたいと思う。この3人組が、3年後には4人組になり、5年後には5人組、7年後には6人組になるだろう。きっと、そうなる。

そして先月、梅の誕生日に、私からの誕生プレゼントとして、このお芝居の招待状を手作りして手渡した。

劇団からの郵便封筒には、招待状とa letter from the Ensembleが入っていて、そのなかに、親しくさせてもらっている代表者の入江洋佑さんの「やるしかない」と、演出家の青井陽治(あおいようじ)さんの「銀河鉄道の夜」とブレヒトのことに触れた文章を見つけた。ブレヒトを余り理解していない私にとって貴重な文章でもある、ここに転記、マイファイルさせてもらった。

 

「やるしかない」

著・入江洋佑

「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない」 1927年8月の詩稿である。「銀河鉄道の夜」は、最愛の妹トシの死を賢治自身どう昇華しようかと志した作品だ。恐らく24年のサハリン旅行の悲しみの中で構想が閃いたに違いない。しかし、それから10年間改稿を重ね推敲を続けても納得のできる作品にならなかった。そのことは賢治にとって妹トシの死、そして広く人間の死をどう考えたらよいのか一生位置づけることが不可能だったのだろう。賢治の「銀河鉄道」の草稿の中に何回も鉛筆で「いとしくおもうものが そのままどこへいってしまったかわからないことから ほんとうのさいは(わ)いはひとびとにくる」と書いては消し書いては消したあとが10回にわたってみとめられると研究者の紹介文がある。妹トシ⇔カンパネルラの死をそのように考えたかったのだが、その甘さを許せなかったのだろう。冒頭に引用した詩句は、自分の身体の不調、(死を予感したのだろうか)、実践としての羅須地人会の困難、東北の飢饉、世界大恐慌の予感、そして自分の詩作の「銀河鉄道」の未完の焦りの中でふと漏らした悲鳴なのだ。

(何をやっても間に合わない)、これは今の僕の実感でもある。

アンサンブルは来年創立60年になる。1954年に18人で出発した。創立の文書には「明日を待ち望み、明日のために汗する人たちと共に」と翻訳調の言葉が並べられている。アメリカがビキニ環礁で世界初の水爆実験を行い200キロメートルも離れた海域で操業中の漁船第五福龍丸の乗組員が全員被爆し死者も出るという衝撃的な事件のあった年だ。第1作「みんな吾が子」(ミラー作) 第2作「森の野獣」(ヴオルフ作) いづれも激しい反戦のドラマだった。その頃は日本国中(敗戦から10年)みんな戦争に反対だった。4000万人の死者を出した第2次世界大戦、人類は再びこの愚かな行為は繰り返さないだろうと考えていた。しかしそれから60年、地球上で戦争のなかった年はない。そして、日本はもう戦争をする国になっている。集団的自衛権、憲法9条改悪も時間の問題といっても良いだろう。時には自衛のためには日本にも原爆が必要だという声も聞けてくる。アメリカも中国もロシアもいや世界中が。僕は60年間何をやってきたのか、宮沢賢治の「何をやっても間に合わない/世界ぜんたい間に合わない」この言葉が痛く強く身に沁みる。でも諦めるわけではない。「海鳴りの底から」(堀田善衞)の作中明日全滅と覚悟した中で一人の老女が話す「この世の中は本当に善くなっていくのだろうかと思う大勢の人の溜息が天に届くのさ」そして一人の農民が明日の死を知りながら、麦を踏む。そう仕事は続けなければならない。「銀河鉄道の夜」の最初のシーンで水俣の水銀に冒されて骨の曲がった魚が生まれないように僕たちにできることはなにか。ジョバンニは、真っ黒な宇宙を見つめてこう叫ぶ。「あの闇の中にほんとうの幸いがつまっているかもしれないんだ」。そう、かもしれないんだ。やってみるしかない。

 

「銀河鉄道の夜」

著・青井陽治

朗読やリーデイングのワークショップの時、銘々好きなテキストを選んでもらう。必ず誰かが選ぶのが、宮沢賢治・金子みすず・谷川俊太郎。だが、彼らを選ぶ人は要注意だ。いかにもな声を作り、独特のtーンで読む。しかし、詠嘆風に、嘘臭いユーモアや作り物の透明感など漂わせても、太刀打ちできる相手ではない。やさしい、だが強固な文体。言う間でもないことだが、賢治はやわではない。みすずも俊太郎も。その文体も、その世界も、雰囲気で絡め取るなど不可能だ。じゃがいものような実体をつかまなくては!

ブレヒトってのはな、ヨーロッパの演劇のおもしろさ、楽しさ、はなやかさ、うまい見せ方ーーーーすべて知り尽くしたおっさんなんだよ。その達人がちょっとここから見てごらんと、未知の視点を示す。すると陽画が陰画に反転する。泰西名画の向こうに、世の中の仕組みや美女の骨格と血の巡りが透けて見える。それが異化ってことだよ。同化、つまり、うっとりさせる力あっての異化なんだ。街角の洋食屋のオムライスだって、パセリがちょこっと乗っかってると、うまそうに見える。異化はそのパセリだよ。

ところが日本のブレヒト信者たちは、パセリだけ皿に山盛り出してきて、これがブレヒトだと言う、おいしいオムライスを作ろうとせずに。44年前の、師の言葉。賢治とブレヒトの魂は響き合うのか? ブレヒトの総本山で、賢治はどう異化の視点を持って舞台化され、かつまたその磁場に僕を捕え、陶酔させてくれるのか?僕は、賢治の見た夢を追えるのか?

ある時、舞台監督が、うれしそうに寄って来た。「ちょうど設定の年に出た漱石全集が見つかったんですよ! この家にあったらぴったりですよね!いい感じに古びててですねーーー??!!」。笑顔が退いて行った。

「そうなんだよ、ごめん。その年にはぴっかぴかの新刊だったんだよね、あの漱石全集は!」。僕たちは昔の人を昔の人だから古いとしばしば勘違いする。古いものとして、その良さに迫ろうとする。彼らより進化した人間として、彼らの素晴らしさを再発見しようとなどする。とんでもない! 鴎外や漱石は言うに及ばず、鏡花も万太郎も、そして賢治も、その時代に、どんなモダンな、新しい人であったかを忘れては、正しく捉えられない。70年、50年、100年前の作品と向き合う時、それがその当時、どれほど斬新だったか、時には革命的でさえあったか、その視点を持ち損ねたら、お終いだ。作家に大変な失礼をすることになる。

作家は、自分の本質とか真実ばかりを、作品の核に置くわけではない。憧れや願望も、時には立派な動機になる。としたら、賢治は、たとえば自作を故郷の訛りや音声化されるなど望んだだろうか、外国や宇宙にいつも思いを馳せた彼が? もちろん、故郷の訛りなくしては成り立たない作もあるけれど。

僕には、ジョバンニの銀河旅行が、臨死体験とも思えてならない。母が行ってしまう死の世界を、母より一足早く、ジョバンニは夢のなかで視察に行ったのではないか、母に「こわがらなくても大丈夫だよ」と言ってあげたくて。僕は、恋多く頃、好きになった人が死ぬ夢を見ると、「あ、本気だな、僕!」と知った。カンパネルラは、ジョバンニの夢の中で死ぬのでは駄目だったのか。

武蔵関の駅からブレヒトの芝居小屋まで、いろいろ思いが交錯した。僕は、方向音痴ではないのだが、この駅では、毎回、どっちが劇場だかわからなくなる。僕の磁場を掻き乱す何かがあるらしい。それを脱出して、間違いなくブレヒトの芝居小屋へ向かっている、と軌道を確認してからの道は、これから見る芝居に思いを馳せたり、心を空にしたり。『銀河鉄道の夜』の帰り道は、行きのさまざまな思いに、美しい、確かな答えを得て、西武線を新宿とは反対方向に乗りたくなった。そしたら、もしかしたら、まわりはいつの間にか闇となり、電車はふわりと浮いて、銀河をめざしてはくれないだろうか。そんな期待に、胸がうれしくざわめいていた。

内田が語るドイツサッカー

38℃。。。だと?!|off the wall  内田篤人のブログはこまめ日和?噂のCMグリコ2013!裏話とは ...

世界のスター選手が集う欧州にあって、ブンデスリーグ(ドイツ1部)の競技レベルは、スペイン、イングランドに次ぐ3位に位置すると欧州サッカー連盟は算出しているそうだが、昨季に限ってはとんでもない、ドイツサッカーこそが欧州で一番存在が目立った。

そんなドイツで、強豪シャルケに所属して、チームにとってかけがえのない選手になった日本人選手・内田篤人が、新聞紙上に語っていた内容が印象的だった。

それは、サッカーを少しやった者なら、誰もがやる練習の一つに、ボール回しというのがある。コートを少し狭くして、両チームを5人から7人に分けれて、攻撃と守備に分かれてボールを奪い合う練習だ。この練習について、内田選手は日本とドイツの違いに驚いたようだ。

私もその違いを聞いて、やはり驚いた!! だが、未だに、子どものサッカー教室などでコーチに関わっている人でさえ、知らないままの人が少なくないのではないか?と思って、この文章を綴っている。

ドイツ人は体が大きくてパワーがあり、目の前の敵との1対1にこだわって、相手を崩すとか、抜くとか、力で潰そうとする。が、日本では、この練習を自然に「上手にパスをつなごう」ということになる。私も、大学においてはこのように練習してきた。地元のサッカー教室でも、子どもたちに私がやってきたように教えた。

パス回しという名称からも、ボールを持つとマークを外している味方を見つけてその者にパスを出す。又、パスをもらうために動きに緩急をつけたりフェントで相手のマークを外す。空きスペースを効率よく使う、そして相手のマークを受けながらのキックやトラップの精度を高める、そのような練習だが、得てして、日本ではパス回しを最優先にした練習になっている。

ところがドイツでは、前の方で触れたように目の前の敵との1対1にこだわって、そのマークする相手を自らの力で抜こうとする。1対1の潰し合い。サッカーの攻撃の原理原則の第一条は、数的有利な状況を作り出すこと。ボールをキープした者が、パスを出す前に相手マークを外して、スピードに乗れば、ボールを保持する側は極めて有利になり、守る側は大ピンチに陥る。

そこで、特に子どものチームのコーチの方々に考えてもらいたい。ドイツ式のパス回しと、香川真司が仙台で子どもの頃所属していたチームの、パスをしないでドリブルで前進、相手ゴールに迫る練習を取り入れて欲しい。これらは、1対1の対人プレーに強くなるいい練習方法だと思う。

もう一つ内田がドイツのサッカーについて言っていたのは、日本と同じように、何よりも「チームのため」「勝利のため」という自己犠牲の精神が尊重されることらしい。ミーテイングでも、そればっかり監督が強調して、ちょっと意外でしたと述懐している。