2013年12月16日月曜日

社長さんは、早朝出勤がお好き

私は社長を約25年間、今の社長の中さんは丸4年だ。

二人でコンビを長く組んで会社を経営してきた。私には私なりの性情、習慣がある、中さんにも中さんの家庭の事情がある。そんな二人に共通しているのは、夜早く寝て朝早く目が覚めることだ。私が社長になった当初、寝つきが悪く、そのための催眠にと夕食時に酒を飲む習慣をつけてしまった。酔いの勢いで寝ついても、間もなく目が覚め、深夜に追い酒を飲むわけにはいかず、眠れぬならば起きだすしかないと、当時は未明に出勤していた。

夜早く寝れば朝早く目が覚めるのは、当然のことだ。この当然を良いことに、二人は朝早くから仕事をすることにしている。中さんも私も、摂食については真面目なので、きちんと自分の食事を済ませ、今は5時半夏は4時頃に待ち合わせをして、スタッフが検討中の物件の下見に出かけるのだ。私は自分だけの食事を作ればいいのだが、中さんの場合は家族全員の食事と息子の弁当も作るのだ。

早朝ならば、道は空(す)いていて車はすいすいと進む。効率よく見回れて仕事ははかどるのだが、その反動が午後の体調に現れる。11時前後に早飯(はやめし)を食い終わって1時間もすれば、急に睡魔に襲われる。体中の血液が胃袋に集中するらしい、脳の血液は薄々(うすうす)、持続可能な範囲すれすれだ。運転手の中さんは欠伸の連発に耐えながらハンドルを握る、私は申し訳ないと思いつつ、後部座席で、運転手さんへの配慮はそっちのけで熟睡に入る。

 このようなスケジュールをとった日に痛感することがある。24時間営業の牛丼屋ではなく、普通の地元のラーメン屋さんや食堂に入りたくても、我々のような早朝からの労働者には、店の開店時間が遅過ぎる。メジャーなレストランに金を落とすのが嫌なんだ。大体、開店時間は11時半か11時、二人とも、人並み以上に空腹に対する忍耐力が弱い。朝5時前に飯を食うので、通常の生活者よりも早く腹が減るのは当たり前。

そんな折、よく利用するラーメン屋さんの店頭に、今まで11時の開店だったのが、10時45分に早めたことを知らせるシールが張ってあって、二人はニンマリ、このラーメン屋の主(あるじ)は、よく解っている人だと感心した。主は、この15分の差に商売のネタが埋蔵されていることを見抜いたのだ。商魂たくましい。狙いは図星、11時前には多くの我々と同じ、早朝出勤労働者たちが目を血走らせて入ってくる。

私のマーケット調査は更に進む。

会社の近くのイオン系のスーパーマーケットでは、食料品売り場は7時から営業している。こちらの方でも、やはり、我々のような早起き仕事野郎が朝飯を漁(あさ)っていた。

そして先日、東京は渋谷のハチ公前で、お世話になっている人と夕方4時半に待ち合わせをして、一杯飲みながら話しましょうということになって、手ごろな酒場を探した。が、営業中の店はどこも五月蝿(うるさ)かった。静かそうな店は、どこも開店時間が6時以降ばかりだった。

そうだよなあ、俺たち年寄りは、朝が早いんだから、昼飯も早くなり、当然飲みたくなる時間も早くなるもんだよ、まだ居酒屋組合は、マーケットを調べ上げてないな、、、、、、。

、

2013年12月10日火曜日

堤清二さんの死に想う

 OSK201301130128.jpg

西武百貨店、西友、パルコを中心とした流通グループをセゾングループとして育てた。一方、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても活躍した堤清二さんが86歳で、25日に肝不全のために死去したことを知って、何故か、私がかって勤めた会社の社長で異母弟の堤義明氏のことも、併せて考えてしまった。

堤清二さんと堤義明氏、二人に欠けていたのは自らの企業グループ内に、自分の考えを理解して実行する人材、将来を見据えたグループを代表する後継者を育てられなかったことだろう。

画像

私は学校を卒業し、西武鉄道グループの中核会社のコクド(入社時は国土計画だった。社長は堤義明)に入社、9年7ヶ月勤めて、昭和57年(1981年)33歳で退社した。この会社の未来に失望したのだ。

国土計画ほどの大会社が、モノの見事に社員の人材育成をしないのには驚いた。チャンスも与えない。何を計画したくて、このような社名にしたのだろうか。内輪での人材育成に留(とど)まり、会社の将来の展望を見据えた人材を育てようとはしなかった。瑣末なことに、社長は会社をキリキリ舞いさせていた。オリンピック、体協、各冬季競技の団体役員などの公務は華々しかった。同期入社は40人足らず、前年もその後も体育会系と縁故関係を主力に採用して、各部門のスペシャリストを育てようとしなかった。個性的な人材を採用したにもかかわらず、平均化、イェスマンに仕立てた。個性を活かすのではなく殺す方に注力していた。社員の能力は、社長指示事項を従順に忠実にこなすこと、それだけを求めた。

会社の全ての指針が、社長からの指示事項で決まってしまうのだ。社長に異論を唱えられる人は居ない、怖かったのだ、袋叩きにあう、世にも不思議な会社だった。虚勢だけは大いに奮う裸の王様。幹部は虎の衣を借る狐。繰り返すが、そのことに失望したのだ。入社して退社するまで、家族友人の慶弔による欠勤を除いて、一日の病欠もしなかった。

この二人の父親は衆院議長にもなった堤康次郎だ。政治家としての彼よりも実業家としての方に刺激を受けた。この創業者には、異母兄弟が皆で何人居るのか、当の兄弟の一人と特に親しくされていた方から、本人さえその正確な人数を把握していなかったそうだよ、と教えられ、本当なんだからと聞かされても、本気で、そうなんですか、とは返答できなかった。10年も前の話ではない

若かりし頃は元共産党員。詩人や文化人としての辻井喬さんの活躍は誰もが認めるところであるが、この稿においては触れない。経営者としての堤清二さんは、大衆消費社会に、文化が付加価値になる文化資本主義を大きく花開かせ、70年代後半から80年代に、世界的にもまれな広告の黄金時代をもたらした=朝日新聞・文化、上野千鶴子氏。文化事業を経営に融合させる手法で、事業を拡大させていった。

その文化事業を経営に融合させる手法は、演劇や現代美術を取り込み、セゾン文化として発信、コピーライターやアートディレクターが文字や映像で表現した。その気運によってグループ会社のイメージを高め、小売業として売り上げを伸ばした。私が懇意にさせてもらっている某小劇団にも協力を惜しまなかった。

だが、インターコンチネンタルホテル買収から始まって、不動産や観光、ホテル事業の展開による金融機関からの多額の借入金による拡大路線がバブル崩壊で破綻、セゾングループは崩れた。

このような、文化的、カリスマ経営者の後釜は、グループ内では育たなかった。育てようとはしたのだろうが、無理だった。確かに、グループ内には彼の影響を受けた方や、感動社員の何人にもお会いしたが、グループを主導、主宰できるだけの後継者としては、誰もが無理だった。だが、身の退き際は潔かった。

堤義明氏も同じように、後継者を育てられなかった。転落のとば口になった原因は兎も角、コクド体制の崩壊は必然、自業自得だった。

業界は違えども、稀代(きたい)まれな異母兄弟の大経営者二人は、かくして経済界から去ったのでした。

 

 

20131128

朝日・天声人語

1980年前後、渋谷の公園通り界隈でよく遊んだものだった。西武百貨店の81年のコピー「不思議、大好き。」や翌年の「おいしい生活。」が時代の空気を彩っていた。モノから、情報へ。消費社会の変容を仕掛けた元セゾングループ代表の堤清二さんが亡くなった。

その仕事には常に文化が薫(かお)った。優れたクリエーターを集め、斬新な広告を繰り出す。劇場や美術館をつくる。芸術の発展と創造に抜群の貢献をしたと、音楽評論家の故吉田秀和さんは絶賛していた。頼りになるパトロンでもあったのだろう。

だが、消費社会は堤さんをも追い抜く。バブル絶頂の88年のコピーは「ほしいものが、ほしいわ。」だ。買い物には飽きた。欲望も萎(な)えた。人々の心変わりに、売り手が困り切っているようにも読めた。3年後、グループ代表からの引退を宣言する。

元は政治青年だったせいか、その方面の発言に遠慮がなかった。55年体制に幕引きせよと主張し、自社連立政権の役割に期待した。「個人」の尊重を説き、古くさい愛国心教育論を退けた。憲法の平和主義へのこだわりも再三語った。

回顧録『叙情と闘争』に、小学生のころ同級生に「妾(めかけ)の子」といじめられ、大げんかした話が出てくる。後年の反骨精神の源の一つだっただろうか。経営者として挫折を経験したが、詩人で作家の辻井喬(つじいたかし)として多くの著作を残し、健筆を貫いた。

〈思索せよ/旅に出よ/ただ一人〉。回顧録の最後に掲げられた短い詩の一節が、旅立ちに似合う。

2013年12月5日木曜日

墓参りに、郷里に向かう

経営の最前線から一歩後退して、経営責任者の中さんのサポートをする立場になって2年、気分に余裕ができたのか、望郷の懐(おも)いに度々駆られることがある。その懐いとは父母や祖母、若かりし頃の私を可愛がってくれた今は亡き人々のことだ。そして、この秋のお彼岸に墓参りを思いついた。が、仕事の都合で果たせなかった。

父母は16年ほど前、祖母は40年前に亡くなった。母が癌で亡くなった同じ年に父も癌で亡くなった。父は、棺の中の母に向かって、迎えに来てくれよと叫んだ。そんなことを言うものではない、と戒められても意に介しなかった。父の葬儀の日、親戚のおじさんたちに、よっぽど二人は仲が好かったんだねと冷やかされた。

墓参りを思いついてからは、何度も何度も、田舎での活気に溢れた生活を懐かしんでいる。懸命に野良仕事に精を出していた父母、留守を守り家事を担当していた祖母。母の毎年の藪入りに一緒に連れて行ってもらった際には、女主人の伯母と伯母の母(母の母)はいつも温かくもてなしてくれた。中学生のときから大学に行くように進めてくれた吉岡先生。酒を飲んだ勢いで、タモツ、タモツと大きな声で話しかけてくれた叔母の夫。そして、私と杯を交わすのを楽しみに、帰郷する私を待っていてくれた妻の父。彼らが、天界で私の墓参りを待っているような気がするのだ。

冬の夜、お湯割りの焼酎の酔いと仕事の疲れで、ボヤ~ンとしていると、田舎の風景が頭に浮かんでは消える。横浜の私の貧しい部屋の窓から、鷲峯山が吹き下ろす冬の冷たい風や、夏の田畑の草いきれ土の臭い、製茶工場の窓から新茶の香りが、漂ってくる。そんな気がするのだ。

タモツ少年は、真っ赤な夕焼けを背に、野原で牛の散歩をしている。紐を放たれた子牛は、草を食(は)む親牛の周りをじゃれている。父と母は、仕事の手を休めて私や牛たちを眺めている。

今度こそ、墓参りを決行しようと、20131212の深夜バスに乗って帰郷することにした。

2013年11月26日火曜日

猪瀬都知事さん、あなたまで?

 MX-3500FN_20131126_172618_001

20131123 朝日新聞・朝刊

定例会見で徳州会からの5千万円受け取りについて説明する猪瀬直樹都知事=22日午後、東京都庁、飯塚晋一撮影

猪瀬さん、やっぱりあなたも、黒い闇に巣食う政治屋に堕(お)ちましたか。

東京都の猪瀬直樹知事(67)が昨年12月の知事選前に医療グループ「徳洲会」側から現金5000万円を受け取った問題で、東京地検特捜部が、現金提供の経緯について複数の同会関係者から任意で事情聴取していることが、関係者への取材で分かった。

この件は、徳洲会グループ創業者の徳田虎雄・元衆院議員(75)の次男・徳田毅(たけし)衆院議員の、前回の衆院選挙における公職選挙法(運動員買収)違反容疑の取り調べのなかで、発覚したというか、露見されてしまったのだろう。その後、徳田議員の捜査はどうなっているのか、と気になっていたら、特捜部は既に小者(こもの)の徳田議員の容疑は固まって、主たるネライは猪瀬都知事に向ったようだ。この方が捕物としては力が入る。

猪瀬都知事は、私よりも2歳先輩の昭和21年(1946年)生まれの67歳、私は2年浪人後の入学なので、大学4年間は同じ期間を過ごしたことになる。私はサッカー部に所属しながら、クラスの友人に誘われて、大学の構内外でのデモ、国際反戦デーと佐藤首相訪米阻止闘争に過激なデモの一員として狩り出され機動隊と衝突した。1969年、2年生のときだ。2つのデモでは、同じように最榴弾を背中に受け、濡れネズミになって、高田馬場の後輩のアパートに寒さに震えながら逃げ帰った。

一方、猪瀬都知事は信州大学の全共闘議長として、同じ時期に同じ場所で、私と同じようにデモっていたことを知った。それに彼の著作だ、私が就職した西武グループと堤家(当時の社長は堤義明で、創業者は父・堤康次郎)らを皇族と絡めて著した「ミカドの肖像」を楽しく読んだ。その著作で、私が気にかけている第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したものだから、尚更、私は勝手に親近感をもっていた。

先の東京都知事選においては、都の財政が破格に豊かだからこそ、耄碌ジジイの石原慎太郎が大いにサボっても無駄遣いをしても、批判はさほどに起こることもなかった、が、さすがに批判の波が押し寄せてきたと察知した狡(ずる)いジジイは、自ら演出して映画「ロッキー」のテーマ曲をバックに、都庁から追い払われるように去った。悲しい男だ。そして猪瀬副知事が都知事に当選した。

そこで、やっと、行政の実務家としての猪瀬直樹氏の登場を、私は好ましいものと喜んでいたのだ。ところが、どっこい、ここにきて、やっぱり、お前までもか、やっぱり、そうだったのかとガッカリさせられている。この元全共闘も腐ってしまったようだ。

徳洲会グループ創業者の徳田虎雄氏に知事選への支援を要請した後、今や豚小屋(ブタバコ)行き寸前の徳田議員から議員会館で5000万円を現金で受け取った。今どき、5000万円を現金で手渡すなんて、そんな前近代的なことは一般社会ではしない、非常識、異常だ。「選挙資金ではなく、個人的な借り入れだ」と言うが、無利子無担保、返済期限が決められていない借り入れなんてこの世の中にあり得ない、異常だ。もらったのでは、ないの? 借用書が本当に存在するのか。

その金は、手をつけずに、妻名義の貸し金庫に保管しておいたところ、徳田議員への強制捜査が入った直後、返済したという。こりゃ、マズイと泡を食ったのだろう。

選挙のための借り入れだったのか、個人的な借り入れだったのか、それとも、選挙のための寄付金だったのか?

徳州会側からのあらぬ目的のため?に、、、そして徳州会の事業に配慮する。いつまでも返済しなくてもいいですよ、と甘言され、、そして、時を経て自分のものにする、そのような双方の語らず、書き残さずの了解があったのだろう。 

学生運動を共に闘った同志と、勝手に思い込んでいたのです、、が、、、、。

 

 

20131123

日経・春秋

闇に埋もれた事実を暴くノンフィクション作家・猪瀬直樹がこの席にいたら、果たしてどんな質問をぶつけたのか。そんな想像をしつつ、きのうの猪瀬直樹東京都知事の記者会見を見ていた。知事選前に猪瀬さんに徳州会側から5千万円わたっていたことの釈明である。

行きつ戻りつした説明はこうだ。選挙に出ることを決めた昨年11月、徳田虎雄氏に挨拶に行った。初対面である。しばらくすると徳田氏側から5千万円貸そうという申し出があった。「厚意で貸してくれるなら」と借用書を書いて個人名で受け取った。そのまま妻の貸し金庫に保管した。すぐにもう不要だとわかったーーー。

初めて会って5千万円? などなど、筋の通らぬところはいくらもあるのだが、わけても不思議なのは、「選挙のことを知らなかったし、これから何があるか解らないので借りたが、選挙とまったく関係のない金だった」という部分である。投票日の1ヶ月ほど前の大金だ。よもや本人もこれで世が納得するとは思うまい。

猪瀬さんは駆け出しライターだった30代のころ、仲間と飲んでどんなに座が盛り上がっても午後10時には店を出て仕事場に戻った。自分と向き合うためだという。「酒の席を適当に切り上げる習慣は今も変わっていない」と最近も書いている。二人の猪瀬直樹が向き合って、知事は作家を丸めこむことができるのだろうか。

2013年11月23日土曜日

ケネディ銃殺された日の私は?

  MX-3500FN_20131130_115620_001

                      朝日新聞 遠藤啓生撮影

アメリカの新しい駐日大使になったキャロライン・ケネディ氏(55)が、20131115、着任したとの新聞記事を読んだ。にこやかに報道陣に囲まれ、軽やかに堂々としていられるのは、やはり血筋の為せる技か。1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ元大統領の長女で、女性初の駐日米大使だ。成田空港に到着後、声明文を読み上げた。そこには、父は米国大統領として初めて訪日することを望んでいたこと、日米両国の緊密な関係の強化に取り組めることは、私にとって特に名誉なことだ、と。

彼女の外交官としての力量は解らないが、オバマ大統領に近しい人だ。19日、着任挨拶を兼ねて天皇陛下にオバマ大統領の信任状を奉呈するために皇居に向かった。沿道には、今までには例のない大勢の人出があった。彼女は沿道の人々に笑顔を、カメラの放列に手を振って応えた。

父親のジョン・F・ケネデイ元大統領が暗殺されたのは、1963年11月22日のこと、そして今日は50年後の11月22日だ。葬儀の日、父の棺を見送る幼いキャロラインのスカート姿が痛々しかった。

今回は、キャロラインさんのことでもなく、元大統領の死でもない。光陰、矢の如し。ケネデイ元大統領が銃殺されたその日、私は何をしていたかをよく憶えている。ボヤ~ンと生きてきた私だけれど、この日のことは本当によく憶えている。

当時、私は15歳、京都府の宇治田原町立維孝館中学校の3年生だった。

従兄弟のなかで一番年上の清市さんが、私も良く知っている農協のマドンナのサッちゃんと結婚した。50年前のことだ。私たちの田舎では、新郎側から、結婚したカップルが新婚旅行から帰ってきた数日以内に、結婚に際してお世話になった人や、お祝いをくれた人たちに、お礼返しをする習慣があって、私はそのお礼返しの品を配達していた、その日に、事件が起こった。お返しの品は紅白の餡入りのお饅頭で、100軒ほどに届けた。このような仕事をあてがわれるのは、昔から大体子どもで、配達先で寸志を包んでくれるのをいただけたのだ。いただいた寸志の総計は2万円にもなった。大金を稼いだことになる。

このような役をそつなくこなせるのは、新郎の周辺では、私だったのだ。品物を3回に分けて配ったのだが、2回目に清市さんの家に戻ってきたときに、テレビのニュースがただ事ではない取り扱いをしていることに、気になった。サッちゃんは、アメリカの偉い人が殺されたそうなんや、と冷静だった。その時代には衛星放送などなかった筈だから、どのようにその映像はアメリカから日本のテレビ局まで届いたのだろうか。

2013年11月17日日曜日

大岡越前通りとは?

MX-3500FN_20131112_122916_001

 

私と経営責任者の中さんとは、スタッフが検討している物件の全ての現場を確認をしているので、多い日には車で300キロメートルを移動することもある。見る現場が多い日には、15件ぐらい見て回ることだってある。中さんが運転、私は後部座席でウトウトしながら、身を沈めて乗っている。中さんには悪いなあと思うのだが、今、我々が移動に使っている車を私は運転できない。

道すがら、名所、旧跡、珍しい建物や有名なお店、好奇心をそそる地域や地点に至った時には、必ず2人は何だかんだと話題にする。物知りの量では圧倒的に中さんの方が多く、私はいつも聞き側に立っている。感心事が初物(はつもの)ならば共同で知恵を出し合う。

今回は、中さんも私も知らないことに出くわした。

茅ヶ崎市のみずきの物件に向かうために地図を見ていて、茅ヶ崎の北のはずれ、寒川寄りの道路が、なんと、大岡越前さんの名を冠にした「大岡越前通り」と銘記されているのに気づいた。中さんは知らないらしい。中さんが、神奈川県内で、地名の知らない在所なんて、有り得ないと思っていたので、彼が知らないフリをした時には、私の方が吃驚した。でも、加藤剛主演のテレビドラマでお馴染みの大岡越前さんについては、お互いによく知っていた。大岡家の菩提寺が浄見寺で、その前の大きな通りが大岡越前通り。

大岡越前さんの勤務先は江戸南町奉行所で、中央の高級幕臣(官僚)だと思っていたが、どうして、こんな田舎においでだったのだろう?と思ったが、なんてことはない、彼の生まれが此処だったのだ。言わば本籍地だ。

大岡越前守と呼ばれた大岡忠相(おおおか ただすけ)(1677~1751)は、八代将軍徳川吉宗が進めた亨保の改革で、江戸町奉行では判官(はんがん)としてその仕事ぶりは”大岡裁き”と呼ばれた。司法以外にも市中行政にも携わった。

 

茅ヶ崎観光協会のホームページで、大岡越前祭のことを知った。以下の写真と文章はそのホームページのものをお借りした。

忠相公は1751年(宝暦元年)、75才で亡くなりましたが、数々の功績に対して1912年(大正元年)、従四位が贈られ、翌2年に忠相公の墓前で贈位祭が行われました。これが大岡越前祭の始まりとなりました。
大岡越前祭は関東大震災や戦争などで中断していましたが、昭和31年に復活し、茅ヶ崎の春祭りとして、墓前祭、越前行列など様々な催しが行われ、市の内外を問わず親しまれています。

 

浄見寺

浄見寺は堤村を本領とした大岡家の二代当主忠正が、父忠勝の追善のために慶長16年(1611年)に建立しました。
山号は窓月山、寺号は浄見寺といい、浄土宗の寺だ。
浄見寺は大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615年)にこの寺に改葬された初代忠勝の墓石をはじめとして、13代まで一族累代の墓碑58基が整然と並んでいます。

2013年11月13日水曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト4

MX-3500FN_20131114_170912_001 

そんなこともあったか!!

 

私たちの大学のサッカーチームからは、日本のサッカー史上、多くの名物人を傑出してきた。

サッカーが日本に持ち込まれた当初は、師範系大学から帝国大学に、そして一般大学に広まった。その草創の頃から、我が大学は先駆的に関わり、発展の過程に特別な人たちを輩出してきた。その人が監督だったり、コーチだったり選手だったり、その面々は余りにも個性的で多彩だ。

私がこの大学のア式蹴球部に所属した4年間だけでも、私を魅惑した先輩、こんなオッサンにはかないっこない!! そんなスーパーマンを何人も見てきたが、今回は、その中でも代表して3人の傑物をここに登場してもらおう。もの凄く傑物なのに、ほんの一部しか紹介できないのが残念だ。このオッサンたちから大きな影響を受けて、私は学生時代を過ごした。

 

一番目に登場願うのは、なんと言ってもキングこと工藤孝一(1909~1971)さんのことだ。

早稲田大学のサッカー部が、Jリーグの発足(1993年)に合わせるように発展的?な運営を意識、未来のサッカーを思考し始めた。私が在学中(1968~1972)は、早稲田だけではなく、日本のサッカー界全体がまだまだ手探(さぐ)り状態だった。競技のレベルとしては、東京オリンピック(1964)を経て、メキシコオリンピック(1968)で銅メダルを獲得してから、進化の芽が吹きだしつつも、爆発的な人気が持続するまでには至らなかった、それでも日本サッカー協会は努力し、我々愛好家は一所懸命ボールを蹴った。

それより50数年前のこと、1936年(昭和11年)のベルリンの奇跡は、代表選手16人中10人を早稲田が送り出した。このときに、工藤さんは日本の代表チームのコーチとして帯同した。監督は早大OBの鈴木重義氏、もう一人のコーチは東大の竹腰重丸氏だった。手前味噌になるが、この日本代表チームの大半は早稲田の選手が占め、早稲田のメンバーが中心になってチームは強固な意志をもつ一本縄に仕上げた。この大会の少し前から、日本の代表チームや早稲田大学のチームには常々、必ずそこには工藤さんが監督として、コーチとしてそこに居た。それから、亡くなるまで早稲田の主(ぬし)であり、精神的大黒柱だった。

私が1968年に入部して、最初、工藤さんを見たときに不思議なジジイだなあ、と思った。東伏見駅の方から、毎日、杖をついて不自由な左足を引きずりながらやってきては定位置のベンチに座り、じっと練習を見つめる。1966年に病に倒れ、その後遺症で体の半身が不随になった。毎回、練習や試合を終えて工藤さんの前に集まって講評を求めた。工藤さんは、全体的なことには触れないが、ワンポイント、気づいた選手のプレーについてコメントした。その際の表現が辛らつだった。でも、工藤さん特有のユーモアを含んでいるので、その表現が酷ければ酷いほど、笑って受けとめられた。東伏見での一日の練習の全てを見終わって、ゆっくりゆっくり坂道を自宅に向かって歩いて帰る。今でもこの光景は網膜に焼き付いている。

なかなかパスを出さないで、一人でボールを保持し過ぎて、墓穴を掘ることが多かった海さんに、「お前は、いつまで片肺飛行をやっているんだ」とか「片目をもぎ取られたトンボみたいだ」と批評した。又、ラフなタックルを売り物にしている先輩に対しては、「お前のことを、?大学の監督が関東蹴球協会でも注意して欲しい、なんて言ってたけれど、俺はアイツは頭が変なので、大目に見てやってくれ、と言っておいたので、心配しないで、いつものようにやってこい」、と指示していた。

2年生になって、みんなと同じ練習になんとかついていけるようになった頃、工藤さんに「尻(けつ)に糞を挟んで走っている奴は、偉そうな名前のヤマオカか? そんなんじゃ、サッカーはできない、田舎へ荷物をまとめて帰れ」と怒鳴られた。瞬間、この糞ジジイと思ったが、この時期の私は、他の人から何と批判されようが、びくともしなかった。そんなことに、構ってなんかいられなかったのだ。

それから、ときどき交代選手として試合に出してもらえるようになった頃のことだ、紅白試合の最中に、何を思ったか工藤さんが杖をつきながらグラウンドに入ってきたのだ。どうも、工藤さんの向かっているのは私のようだったので、嫌な予感がした。そこで、試合は中断。私の前まで来て、お前は下手(へた)なんだから、ここからここまでは、と言いながら杖でグラウンドに線を引いて、この線の中だけは、絶対に、確実に相手のプレヤーにボールを自由にさせるな、この線からは出るなとも言われた。当時のフォーメーションはWM方式で、私はフルバックを任されることは多かった。オフサイドトラップをかけなくてならないときもあるし、時にはチャンスにドリブルでサイドを突っ走らなくてはならないときもある。でも、工藤さんのここからここまでのエリアでは、命がけでデェフエンスしろ、の戒(いまし)めは徹底的に厳守した。その結果、守ることには部内でも評価されるようになった。

3年生の9月、工藤さんは亡くなられた。葬儀は23日、早稲田大学ア式蹴球部葬として、同期の井出多米夫さんが葬儀委員長を務められた。棺を自宅からグラウンドまで、ベルリンオリンピックの代表者たち、次いで卒業年度順に、棺をグラウンドまで運んだ。グラウンドの中央のセンターサークルに棺を置き、ベルリンオリンピックの代表監督だった鈴木重義、現役、早大OB、慶応のサッカー部関係者で円陣を組み、「都の西北」と「紺碧の空」を歌った。

4年生のときには、工藤薬局の2階に下宿させてもらった。行儀の悪い学生だったけれど、工藤さんの奥さんは文句一つ言わずに置かしてくれた。奥さんの笑顔は最高だった。その工藤さんの息子が同期の工藤大幸だ。次女の京子さんは同じ学部の先輩だ。

工藤さんは1909年(明治42年)、岩手県岩手郡(現・岩手町)に生まれた。地元の小学校、中学校から早稲田大学第一高等学院に入った。それから、工藤さんの早稲田とサッカーとの関わりが始まった。私は、このジジイは、どうも岩手県の岩か石から生まれたのではないかと思うようになった。風貌は凡庸でよくよく見かける路傍の石、口数少なく、だが、意志は強過ぎて固過ぎる、コチンコチンの細工のきかない石のような岩のような男だった。人生のほとんどの時間をサッカーにかけた。見事なサッカー狂人、サッカー馬鹿だった?このような人生を過ごした人を、他に見たことないし、聞いたこともない。 

工藤さんは私にとって、雲上の人だった。

 

二番目は堀江忠男教授(1913~2003)だ。

入部した時の4年生のメンバーは他の大学を圧倒するような優秀な選手が揃っていたにもかかわらず、残した成績は戦後最悪だった。そして翌年、監督には堀江教授、キャップテンは松永章でスタートした。そこで、監督の堀江教授を初めて知った。以前にも監督をしたことはあったが、チ-ム再建のために、教授の再度の出番をOBたちが求めたようだ。

さすが教授だけあって、黒板に戦況を描き、それぞれの選手の動きを多少は理論的?に話されたが、基本は、局地において1対1で勝つこと、ボールをゴール前に集めて、それをなんとかゴールに持っていくこと、単純に表現すればこれだけのことだった。伝統的な早稲田の百姓一揆の復活か?を目指していたと言ったら、天上の堀江監督に叱られそうだ。 ところが、その単純明快な教えを、監督は自ら実践を織り交ぜて説明した。

堀江監督は日本代表(ベルリンの奇跡)でもフルバックだったので、守りにおける心構えや、対処の仕方は実にユニークで、堀江流だった。ボールを挟んで二人が相撲のように、レスリングのように肩と肩をガツンガツン、突っつき合ってのボールの争奪戦を実践して見せた。最初は、滑稽に思えて失笑してしまったが、そのうち、監督の迫力に誰も何も言えなくなってしまった。

タックルの仕方だって、多分当時55歳位だった監督が、両足を前後に大きく股を開いて猛然とボールにタックルして見せるのだった。筋肉の落ちた白い足が、にゅうと器用に伸びた。相手の懐深いところに入り込むことの見本を見せたかったのだろう。その程度のことぐらい、言われただけでも理解できたが、身を挺して模範を見せて説明しないと、監督は満足しなかったのだ。そして、監督が独り言を漏らしたのを聞き逃さなかった、「俺は、やったぜ」と。

学校は、入学して間もなく2年間はロックアウトされ、学校での授業は開かれず、単位はレポート提出で取得していた。2年生の終わり頃のことか? うちの大学のグラウンドではなかったが、監督が私を呼びつけて、「ヤマオカ、お前のあのレポートでは単位はやれないよ。でも、可をつけといたから悪(あ)しからず、、、」と言われた。勉強不足の私には、堀江教授が提示した命題の意味が解らなかった。だから、レポートらしいレポートなど書けやしなかったのだ。私のレポートは、きっと、教授が求めていたこととは、大外れで、チンプンカンプン、デタラメだったのだろう。

3年生の時、学校から高田馬場駅までの帰途、いつものように古本屋の店頭に並べてある文庫本を物色していたら、前の道を早足で歩く堀江教授に見つけられ、一緒に東伏見に帰ろうと言われた。ハイと答えて、持っていた文庫本の束を棚に投げ入れて、並んで歩くことになった。私からは何も話す内容を持ち合わせていない。早足だった。教授も、私などに話すことなど何もなかったのだろう。一緒に帰ろうと言われても、こんなに息苦しいことはない。そして、高田馬場駅の改札口を過ぎた瞬間、黒い鞄を手下げたまま、初老の教授は階段を2段飛びでダッシュした、その表情は真剣、猛進するさまは異状だった。私は、ニヤニヤして後ろを追っかけた。そして、私は教授から逃げることを考えた。これ以上、二人っきりになるのが怖くて、先生、やっぱり、僕、古本屋さんに戻ります、と言って、実際に本屋さんに逃げた。彼と、私とはモノが違うと実感した。

工藤さんに教えられた通り、ここからここまでは、絶対、相手に自由にボールを持たせるなの戒めを、私は忠実にこなした。そんな私の守備を、監督からも少しは評価されるようになって、少しづつ、試合に出してもらえるようになった。

私たちの4年の時も堀江監督だった。私たちの学年にはスーパースターがいなかったからか、どうかは、よく解らないが、キング工藤・堀江監督の考え方をチームに生かすことが最善と、誰もが思い始めていた。チームの結束は固かった。その結果、一人ひとりの実力はそんなに大したことはなかったにもかかわらず、関東大学リーグ優勝、全日本大学選手権優勝の2冠獲得につながった。

卒業して数十年後、堀江教授は後輩の結婚披露宴の主賓のスピーチで、私のことを、田舎からやってきた無芸無才の男が、努力して試合に出られるまでになったことを話したと後輩から聞いた。監督からは何も言われなかったが、私のことをそのように理解してくれていたのかと、嬉しかった。

堀江監督は人生の先生でもあった。

 

 

三番目は、胡崇人(えびす たかと))さんだ。

このオヤジも凄いんだ。日本サッカーリーグ(JSL)の日立製作所サッカー部のコーチだった。背丈は私と並んでも10センチ以上低かったので、おそらく155センチぐらいの小兵だったが、ぴりりと辛い男だった。

日立のサッカー部の監督さんは早稲田大学のOBで日本代表チームの監督も務めたこともある高橋英辰(ひでとき)=通称ロクさんだ。そのロクさんが目指したのは、走るサッカーだった。「これまでの日立は60分走るのが精いっぱいだった。90分走り続ける体力がまず必要」だと考え、その指導を徹底するには、大学の後輩の、胡崇人=通称エビスさんがコーチになるのが必須条件と考えた。

当時の日本サッカーリーグは、テクニックや個人技を重んじるヤンマー、スピードを誇る三菱重工、組織力の東洋工業(現・マツダ)や古河電工がいた。そのなかで、走るチームがなかったことに注目した。どのチームも、日本のサッカーは走り足りないとロクさんは考えた。

そこで、登場したのがエビスさんだった。

日立のサッカー部のグラウンドは吉祥寺にあって、私たちの大学のグラウンドとは近く、公式戦のない時は毎週末と言ってもいいほど、練習試合をした。日立の選手が来る1時間前に、エビスさんはグラウンドを一人で駆け巡る。グラウンドを確かめながら。前日の練習で疲労くたくたの私には、エビスさんが元気でグラウンドを走っているのがまぶしくて、言葉にならない呻(うめ)き声を上げた。 エビスさんが走っている!!ぞ。

性格が気さくな人で、我々学生の誰とでも親しく話してくれた。ちょっとインテリ風で物静かなロクさんの目の届かない部分をエビスさんが引き受けていた。日立のチームは何故かキーパーを除いて、エビスさん同様小柄な選手ばかりだった。背丈165センチの野村六彦選手を中心に、走って走って走り回るサッカーを作り上げた。その走り回って、走り回って、相手に優位に試合を進めている場面を見ると、私の目に涙が潤んでくるのだった。それほど、感動的なのだ。

当時、グラウンドは今のように芝生ではなく地面だったので、雨の日などは泥んこ状態になることもあった。そんな時こそ、日立の低い位置に備えられたエンジンは、バランスよく、俄然パワーを増すのだった。日立の底力だ。個人的なテクニックを重んじるヤンマーやスピードの三菱重工、組織力の東洋工業や古河電工を、こてんぱにやっつけた。そこには、ロクさんの発想と、現場監督のエビスさんがいたのだ。この名将の陰にこの名補佐あり。

このように元気で、溌剌とした人を今までに見たことがなかった。

エビスさんは私の理想の人だった。このような男になりたいと思った。