2014年1月8日水曜日

望郷編、その3 吉岡先生

20131215、横浜に帰る朝、吉岡先生の奥さんのご自宅を訪ねた。3年前に先生が亡くなられた時には、仕事の都合で駆けつけられなかった。亡くなる1年前に、病院にお見舞いに行ったときには、体だけではなく精神的にも弱っておられた。先生は、中学時代の恩師、体育の先生だった。大学への進学を大いに勧めてくれた。受験浪人中、度々お邪魔してお酒をご馳走になった。

先生は、野球部と陸上部の顧問をしながら、学校の全ての体育クラブの総括もされていた。クラスの担任ではなかった。

私たちの学校は、どのクラブも特別に強いことはなかったが、スポーツの盛んな学校で、私が所属していたバスケットボール部の休みは、年間を通じて3日もなかった。放課後、休日でも運動場や体育館は各クラブの活動で大賑わい。私はバスケットボール部員で、バスケットボールそのものに悩みを持ちながら、それでも今はやるしかない、と決め込んでいた。私が気合を入れてプレーすればするほど、ファウルをとられた。相性が合わなかった。

吉岡先生と呼んでいるけれど、実は奥さんの籍に婿養子に入られたので、姓は森田。その新しい苗字に慣れない私は、いつまでも、吉岡先生と呼んだ。死因は、多年の大量の酒飲による多臓器機能不全による疾患だ。それほどまで酒を飲むようになった理由は、いろいろ思い巡らすことはできるが、今回はそのことには触れない。仏壇に妻が用意してくれた品を供えた。

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壁には、先生の遺影と当時の野田佳彦総理大臣が、先生の長年に亘る教育者としての功労に対して、褒美なのか感謝状なのか、大きな賞状が掲げられていた。奥さんは、遠慮がちにこんなものをこんなところに飾って良いものか、と大いに悩んだけれども、勇気をもって飾ることにしたのよ、と仰っていた。事実、親戚の者から嫌味なのか、僻(ひが)みなのか、心無い声を聞かされたと、奥さんは嘆いていた。

実は、私が大学に行くために田舎を去った頃から、先生は強度のアルコール依存症になった。現役時代、酒魔にとり憑かれた先生を学校に家から送り出し、教育委員会に通っていた時には自殺をほのめかされ、小学校の校長で職を辞めるまでは、悲嘆に明け暮れる惨憺たるものでした、と述懐されていた。他人には言えないけれど、ヤマオカさんなら聞いてくれるよね、と先生の酒を飲んで酔っ払ってのだらしない行状を、涙をこらえて話してくれた。内助の功なんて、そんなものではなかった。でも、時間の経過と言うのは有難いもので、今では、お父さんを恨んではいません、あんなお父さんだったからか、反面教師だったのでしょう、子どもたちはいい子になりました。

ところが、私の中学時代の吉岡先生は、ムチャクチャ輝いていた。年がら年中、校内を生き生きと活動していたのに、感銘を受けたのだ。こんな大人になりたいと思った。何故?そこまで頑張れるのだろう、か?一日中グラウンドにいるので、顔は真っ黒だった。

ところで、気安く「吉岡先生」と言っているが、小学校から大学まで数多くの先生にお世話になったけれど、心底、先生と敬意を込めて言えるのは、大学時代のクラブの監督だった堀江忠男教授と、この吉岡先生の二人だけだ。欠陥だらけの吉岡先生と、人格的にも完璧で、畏(おそ)れ多い雲上の人、堀江教授。二人の先生から、学ばせていただいたことは、大だ。

二人の先生が鬼籍に入られる前に、もう少しいい教え子でありたかったと思う。

2014年1月3日金曜日

今年は、W杯ブラジル大会だ!!

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今年の6月15、20、25日(現地時間は、14、19、24日)、日本はサッカーファンのみならず多くの国民にとって、熱い日になりそうだ。

サッカーをこよなく愛している私にとって、首を長くして待ちに待つ日々、地獄を見せられて悄然とさせられるのか、欣喜雀躍、天国を見せてもらえるのか、ウ~ン、それが問題だ。

20131224の日経新聞で、FIFAマスターを終了した元日本代表で、04年のアジアカップと06年ドイツW杯で日本代表の主将を務めた宮本恒靖氏が、トークショーで語った内容が記事になっていた。宮本氏は現在、日本サッカー協会の国際委員だ。組み合わせ抽選会が行われた後の1208の、これも日経新聞のスポ-ツ欄で、日本が1次リーグで対戦するチームの分析記事を見つけてファイルをしておいた。

話は少しずれるが、宮本氏の日本代表でのプレーについては、私は終始不満だった。

サッカーが好きだと言っても、外国のチームの戦力の詳細な情報まで持ち合わせていない。孫の持つ知識にも到底及ばない。よって、世界のサッカー事情に知見ある宮本氏の談話や新聞記事をダイジェストして、本大会に備えたい。

日本が決勝トーナメントに進出するためには、絶対に相手チームのエースを抑えること、失点を極力少なくすることだ。

そのためには、DF陣だけではなく、全員が危機感を共有すること。1人で無理なら2人、2人で無理なら3人で囲い込む。カバーリングを重層で行う。ボールを持つ相手を追い回して効果的なパスを出させないこと、最終ラインでは相手巧者の技を安全確実にどの程度制せられるか、が鍵だ。

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6月15日(レシフェ) コートジボワール戦

アフリカ予選を5勝3分けの負けなしと安定感ある戦いを続けてきた。中心にいるのがFWドログバだ。体の強さや驚異的なバネを持つ母国の英雄。チェルシー(イングランド)で数々のタイトルを獲得してきたその存在感は35歳の今も健在だ。トゥーレ兄弟ら「黄金世代」と呼ばれる仲間とともに最後のW杯になる可能性が高い。

宮本:「トップレベルの選手が多い。ドロゲバは35歳で全盛期とは違うが、強さもうまさもシュート力も健在。ワントップのドロゲバに対し、日本はCBが強めに当たって前を振り向かせず、ボランチと挟み込みたい」。

:「逆に守備はけっこうルーズ。CBの2人が細かい動きにあまり強くなさそうなので、日本のワントップがうまく動いて、相手を混乱させることができるのではないか」

:「日本は90分間集中力を保って規律よくできるが、コートジボワールは70分良くても残りの20分でいきなりレベルが落ちるときがある。日本はそういう心のすきを突くべきだろう。最初から飛ばして先制点を取れれば」

 

6月20日(ナタル) ギリシャ戦

伝統の堅守は今回も変わらない。欧州予選では組み分けに恵まれた部分もあるが、10試合でたった4失点だった。逆襲速攻の中心となるのが1トップのミトロゲル。トラップやフェントなどの足技もあり、カウンターの仕留め役は適任。ルーマニアとの欧州予選プレーオフでは2試合3得点。大舞台に強いだけに、日本にとってはやっかいな存在になる。

宮本:「日本のように90分間頑張れる。守るべき時に守り抜く力もある。ただ、本来ならDFラインをペナルティーエリアの手前ぐらいで止めておいた方がいいのに、CBが少し下がり過ぎるところがある。CBとボランチとの間を突けばチャンスはあるのではないか。中盤の選手もスライディングで止めにくるので、ドリブルや早いパス交換で崩すと反則をもらえてFKをもらえるチャンスが生まれる」

:「もちろんカウンターは危ない。欧州のトップチームのカウンターのスピードはJリーグと全然違う。アスリートとしての能力がすごく高い」

:「ミトログルはワントップでサイズがあり、右足でも左足でもシュートを打てる。何でもできてスケールが大きい。でも、トップスピードに入るまでに少し時間がかかる。日本は、オフサイドに掛けたり、うまく駆け引きして特徴を出させないようにしたい」

:「CBのパパスタソプーロスはマンマークがとても協力。日本のワントップはマークされないように、もう一人のCBのところに行って、この選手にはカバーリングをさせる方がいい」

 

6月25日(クイアバ) コロンビア戦

シード国。世界ランキング4位。南米予選をアルゼンチンに次ぐ2位で突破。1次リーグ突破の最有力候補であることは間違いない。怖いのは予選13試合で9得点のFWファルカオ。何でもできる万能型だが、ゴール前に飛び出すスピードと、人垣の間を絶妙にすり抜ける緩いシュートのうまさは特筆もの。今大会屈指のストライカーの一人だろう。

宮本:「力があるし、選手層も厚い。南米開催ということを考えると、グループ1位になる可能性が高い。ファルカオはペナルティーエリアの中で強さを発揮する。自分の長所を自分でよく知っているので、ポストプレーでもシンプルにボールをはたいてまた動きなおす。華麗ではないが、ボールをいいところに置いてしっかり足を振って流し込む。正統派のストライカー。日本はシュートを打たれるときに間合いを詰めておくなど、しっかり応対してほしい」

:「ボランチのサンチェスもすごく効いている。ボールをつないでしっかりと堅実なプレーをする。フィジカルの強さを生かしたデフェンスもある。CBのペレアはスピードを生かしたカバーリングで、1対1で抜かれそうになっても最後に追いついてタックルする。日本のワントップの選手は2人のCBのうちこの選手にマークされておいた方がいいだろう」

荒ぶる魂が、吼える

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20131220 私の一番身近なところで、小さな命が果てた。悲しい師走になってしまった。

泣いても泣いても、体のどこでこれだけ大量の涙が作られるのか。いつまで経っても枯れない、人体の謎だ。このような時に、何をして?気を晴らすかは経験的に身につけている。

軽症のときは、身辺の整理整頓と掃除で気分転換を図る。学生時代はスポーツだった。部員が揃っての練習を終えてから、とんでもない特別メニューを考えて自らに課した。社会人になってからも基本的には変わらないが、肉体労働で体をくたくたになるまで追い込むことだ。肉体を虐(いじ)めて追い込めば、私の魂が荒ぶる、野生的に吼える、そして、やがて精神は静穏になる、これが私の習性だ。このようにして、何度もピンチを乗り越えてきた。

そして今回思いついたのは、住宅の解体作業で体に鞭打つことだった。港北区で仕入れた土地には古い住宅が残っていて、この家を壊して、土地だけの売却も視野に入れているが、それよりも、建売住宅として販売したいと考えている。

年の瀬の27、28、29日の3日間を解体作業で過ごすことを決めた。この解体作業こそ復活の糸口だ。スタッフは経営責任者の中さんの義弟のスチィーブ君と私の二人だ。彼は30歳になったばかりの若者だ。解体と言っても、柱や梁などの主要な構造部分はプロの解体業者さんにお願いすることにして、私たちは建具、床、天井、壁と、建物に施された付着物などの撤去だ。

それでも、大きなバールやハンマーを振るうことは多く、私たちには充分過酷な作業だ。かって、同じような作業を何度も経験したが、今回は、加齢のせいか体に堪(こた)えた。屋根裏、天井からの土ぼこり、土壁のため粉塵の多さにもまいった。

初日、二人は無我夢中で働いた。捗(はかど)った。年はとっても、私は平均的な一人前の仕事はできる。もう一人のスタッフのスチィーブ君は、一人で二人前の仕事をこなす。3時間みっちり仕事に没頭、二人で三人前の仕事の成果に満足した。が、私は疲れていた。

そして二日目、同じように夢中で働いた。前日よりも、力任せの仕事は減って、細かい部分の撤去作業だ。建物内の壁はなくなったので、室内の全体が見通せるようになった。

作業中振り向くと、スチィーブ君が猛烈に働いていて、その気迫に圧倒された。私だって負けてはいないぞ、と自らを叱咤。が、疲れは増すばかり、休もうと話しかけても、彼はただ笑うだけで休もうとはしない。階段を壊そうとしたが、構造がよく解らなくて手のつけようがない。仕事を始めるときに決めていた終了時間よりも、1時間半も長く仕事をすることになった。

こなした仕事の量の多さにもう少し感動的になっても、いいのに、、、、、、私はただ終わりだ、メシだ、とスチィーブ君に告げるばかり。

家の周りには廃材で溢れた。

年の瀬、隣家にも気兼ねをしなければならない、と考えて予定していた29日の作業は休みにした。体の各所の筋肉が痛いことも中止の理由だ。スチィーブ君は仕事をしたがっていた。正月気分を吹き飛ばすためにも、仕事始めの1月4日には、解体を始めることにしよう。

大晦日の夜、鮟鱇(あんこう)鍋。来年はいい年にしたい。

2014年1月2日木曜日

大楠山に登ってきた

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この数年の私の初詣は、大晦日の夜七時前後に自宅から歩いて出かけ、カウントダウンの始まる前に着いて、新年を迎えていた。次女夫婦と孫、孫のサッカー友達とその母親らと一緒だ。行き先は、寒川神社や鶴岡八幡宮、川崎大師だった。

昨年の年末に、私の身近で悲しい出来事があって、今年は初詣の代わりに山へ行くことにした。山にだって、谷にだって神様はいるだろう。第一希望の丹沢連山には雪が積もっていて断念した。次女の婿の竹ちゃんと孫の晴も一緒に行きたいというので、それならば、以前から気になっていた大楠山に行こうと、前日に決めた。大楠山に決めたことを知らせるメールで、次女にお握りを作って欲しいとお願いした。横須賀市の広報には「おおぐすやま」で、日常使っている「おおくすやま」ではなかった。

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20140101の朝、9時頃に次女に東戸塚まで送ってもらった。山行は、私、竹ちゃん、晴の男衆3人だ。

JR横須賀線の衣笠駅に10時過ぎに着いて、そこから歩き出した。竹ちゃんは駅構内のコンビニで、ビールと「氷結」とツマミ、晴にはジュースを買った。歩き出して、早速缶ビールの栓を開けた。衣笠運動公園、城北小学校を右に見て、大楠山はあの辺りですよ、なんて指をさしながら、気楽に歩を進めた。

そのうち、大楠山入り口の看板があるだろうと、多寡を括(くく)りながら歩いていたが、それらしき道案内はなかった。衣笠中学校を過ぎ、疎水に沿って進んだ。横須賀市立しょうぶ園の告知板があったので、大楠山の方向だけは確かめられたが、山への入り口らしきところが見つからず、戸惑っているところに、粋のいい3人の男の人が私達を追い抜いていこうとした。その時、私はこの人達も大楠山を目指しているものと察知、どちらを目指されているんですかと尋ねたら、オオクスヤマと答えが返ってきた。

よかった、この人達について行けばいいのだ。缶ビールは空になり、「氷結」に手をつけた。間もなく、大楠山入り口の看板があった。民家の間を縫うように走る狭い道をてくてく進んだ。そのうち山道に入り、登山道は整備されていた。一気に深山幽谷の趣だ。人里が急に遠く感じられる。上から下りてくる大勢の人たちに出くわした。今日はと挨拶をし合った。

小川があって橋がかかっているところで、硫黄の臭いがした。晴が最初に気づいた。川底の近くに山の斜面から3本の管が出ていて、その管の下には白いペンキでも塗られたようになっていた。竹ちゃんは、川底に下りてその白いものを手にとって臭いを嗅いだ。これはSの臭いだと、叫んだ。なるほど、阿部倉温泉が近くにある。

晴が前を歩きながら藪から棒に、ジジイ、元旦と元日はどう違うか知ってる?と聞かれた。学のない私は、そんなもの字が違うだけで、どっちも同じ様に使っていいんだ、と言い張った。冷静な晴はジジイを諭(さと)すように、元旦と元日は全く違う意味です、元旦の「旦」の下の「一」は水平線を表していて上の「日」は太陽を表しているのです、太陽が水平線の上に上ってきて、太陽が水平線から離れるまでを元旦と言うのです、太陽が水平線から離れてしまうと、元旦ではなく元日なんです、と教えてくれた。晴に教えてくれた、クラスの担当の山田先生に感謝。ガンタンはうちの会社の社長の名前です、では孫の質問の答えにはなってない、どこまでも馬鹿なジジイだ。

山頂に到着したのは、正午頃。1時間半か2時間かかったことになる。頂上では、家族連れの人たちが十数人休んでいた。

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東京湾と相模湾が一望だ。三浦半島最高峰の標高242メートル。低い山だが、周囲に高い山がないので、ナイスビューだ。展望台と、NTTの大楠無線送受信所の鉄塔が2基ある。丹沢連山、房総半島はよくわかったが、空は青空なのに富士山や伊豆大島はよく見えなかった。眼下には尖(とんが)ったり、凹(へこ)んだりの三浦半島の入江や岬が面白い。

関東百名山の百番目の山だ、とウィキペディアにあったが、何が百番目なんだ?

下山して県立塚山公園に向った。この公園までの道のりが長かった。

横浜横須賀道路の横須賀インター入り口のコンビニで、晴が男用トイレで、私は女用のトイレで脱糞。悪しからず、急がねばならなかったのだ。アイスクリームを竹ちゃんが買ってくれた。

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この三浦按針の墓のことも、以前から見てみたいと思っていたので、大願成就、よかった。京浜急行の安針塚駅に着いたのは午後の3時頃だった。道中、晴にはジョン万次郎のことを話してやったが、間違って話してないか、馬鹿なジジイは心配になった。

2013年12月29日日曜日

望郷編その3、墓参り(1)

20131213、郷里に着いた。郷里の実家は、京都府綴喜郡宇治田原町南亥子だ。

私が生まれて育った家は、もうない。甥が数年前に新しく建て替えたので、ビカビカに大変身した。再建されたモダンなデザインの新築住宅を見たとき、こんな田舎にも、こんな住宅の波が押し寄せているのかと驚いた。でも、発注者の甥の年齢が40歳になったばかりと知れば、それほど驚くこともなかったのか。それにしても、住宅メーカーの商魂は逞しく、こんな田舎にまで販路を広げていた。

兄夫婦と甥夫婦に挨拶をして、妻が用意してくれたお供え物を仏壇の前に、父母、祖母に長いことご無沙汰していたことを、線香に火を点け手を合わせて詫びた。位牌を確かめていたら、父母や祖母と暮らした日々のことが走馬灯のように思い出された(陳腐な表現だ)。兄嫁が、よく墓参りに帰ってくれましたねえ、と喜んでくれた。気を病んで、闘病中の兄嫁は随分痩せて覚束ない足取りだったが、それでも笑顔で自らの療養生活について話してくれた。兄と仲良く、気ままに暮らして欲しい。

20131213同窓会、墓参り 022

祖母は昭和56年に86歳で、父と母は平成13年の3月に母が81歳で、12月に父が86歳で亡くなった。父母は、二人とも同じ所に癌ができて、母が亡くなって9ヵ月後に父も亡くなった。「お前のおっ母(か)あと親父(おやじ)は仲が良かったんだよ」と親戚の誰にも言われた。母の入院中、父は仕出し屋で作ってもらった特別な弁当を持って、毎日病院に通った。

祖母は名家の出身、厳しい人だった。若い頃に夫を病気で亡くし、長男を戦争で失い、次男である父を大黒柱に、狭い農地に頼る細々とした生活ゆえ、何かと厳しくせざるを得なかったのだろう。でも、私には優しいオバアチャンだった。一緒に風呂に入って糠(ぬか)袋で体をこすってくれたり、一緒の布団で寝たり、学校や遊びから家に帰ると、必ず、おやつを用意しておいてくれた。おやつは、お握りや、干し芋、干し柿、かき餅だった。おやつを食わないと夕飯までもたない。私が国語の教科書を読むのをよく聞いてくれた。仕事に忙しい父母は、私の勉強なんかには構っていられなかった。祖母の楽しみの一つは、毎年2月の奈良・東大寺のお水取りだった。もらってきた水でご飯を炊いて、無病息災を祈った。

晩年、足腰が弱って、その弱っていく足腰をこれ以上悪くならないように、杖をついて家先の庭から裏の農機具小屋まで、何度も往復していた。気丈夫だった。最期の介護は母が見事にこなした。祖母のお通夜、酔っ払って、冷たい亡き骸に添い寝をして夜を明かしたことを憶えている。当時は土葬だった。墓地までの長い道のりを、棺の前の部分を肩に紐をかけて下げた。この役割は私こそ担うべきだと思ったのだ。私が初めて味わう身内の死だった。

母は愛嬌のある人だった。私が人前でおどけると、そのオッチョコチョイは母譲りだと言われた。私が歌を歌うのを初めて聞いた人はその度外れた音痴に誰もが驚くのだが、その源泉が母にあることを知ったのは、母が町の公会堂で行われたNHKののど自慢大会の予選会において、見事な調子外れの歌唱力を披露して、大爆笑を得たことからだった。予選会にどうしても出たいと考えた母は出場の機会を逃すまいと、希望者の列の一番前に並んで受付を待ったそうだ。そんな母だから、皆からハナちゃんと親しまれていた。

母も野良仕事においては重要なスタッフだった。授業参観日に、真っ黒な顔に白粉(おしろい)をべったり縫って赤い口紅をつけた母が、教室の後ろの方で友人の母と楽しそうに話しているのを見かけて、驚いた。母の顔は日焼けて一年中真っ黒だった。それからは、先生からもらう学校行事を知らせるプリントを見せなくなった。母も何も言わなくなった。私が着る服やズボンは、二人の兄からのお下がりがほとんどで、ツギハギだらけだった。私は、それらの服を私なりには気に入っていた。祖母は「保にもきちんとした服を買ってやり」、と母に苦言を言っていた。特にツギハギの多かったズボンに慣れていたせいか、新しいズボンを身に着けるのが無性に気恥ずかしく、中学生の頃には、土埃を無理にこすり付けて一部汚してから、身につけるようになった。汚れたズボンを穿(は)いてこそ、私の精神は安定した。

私が東京の学校へ行くのに、朝、実家を出ようとした時、母は珍しく真面目な顔をして近づいてきて言ったのは、「保、この家はお兄ちゃんがしっかりやってくれている。お前は東京へ行って、何をしても構わないけど、お兄ちゃんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれ。お金持ちにならなくてもいい、偉くならなくてもいい、警察のお世話だけにはならないでくれ」、これが母からの私に対する、生涯たった一度だけの忠言だった。

父は頑張った。父は、戦争で亡くなった兄の代わりに、祖母から期待を背負わされた。その頑張りの成果は、父の死後、相続のための整理中に見つけた書類で驚かされた。戦争で働き手がいなくなった農家が手放さざるを得ない農地を買い増して、自分が百姓を始めた当初よりも、3倍以上の田畑に増やしたのだ。国が農地の購入を希望する農家のために、資金を融資することだけを目的とした金融機関を一時的に数行作ったようだ、国策だったと思う。聞いたことのない金融機関と債務者である父との金銭消費貸借契約や抵当権設定契約書が何枚も出てきた。

父の面目躍如たることの紹介をしておこう。父はどこかから情報を得てきたのか、耕運機の試作を友人の寺西鉄工所のオヤジとやりだした。半年間は野良仕事を終えての夜間の共同作業、出来上がった物は子どもの私にさえ上出来とは思えなかった、利便性には欠ける部分が多々あったけれども、走ることは走った。二人は嬉しそうに、眺めては走り、そして又眺めていた。不具合の修理ばかりで、実際に仕事で使っている光景の記憶がない。それから、数年後、井関農機や久保田鉄工が量販しだして、父らが作った耕運機は解体された。このような父の影響で、長兄は機械いじりの妙味を覚えたのだろう、中学生の兄が発動機のエンジン部分を一つひとつの部品にまでバラして、掃除をして元通りに組み立てた。近づくことを許されず、遠くから眺めていた。

それからの父は、少しお金を貯めては新しい農機具を買うのを楽しんだ。新製品を追いかける父を祖母は諌(いさ)めたけれど、父の勢いは止(とど)まらなかった。祖母は、言い張る父を説得できなかった。そのうち長兄が父の仕事をサポートをするようになった。この兄は、静かな笑みを常に絶えさず、早く大量に仕事のできる、規格外の、村一番の働き者になった。働く父の背中を見て育ったのだ。私はと言うと、故郷を離れるまで、いつまでも子ども扱いだった。

お酒は嫌いだったが、私がすすめるとお猪口(ちょこ)一杯だけは飲んだ。盆踊りの会場から、父を迎えに来てくれと電話が掛かってきて、私と母がリヤカーで迎えに行ったことがある。役員席で飲まされたのだ。ベロンベロンの態(てい)、よっぽど口汚く沢山飲んで酔っ払ったのだろう、とは町の誰もは思わない。帰途、リヤカーを曳く私たちは、踊る村人たちから面白可笑しくはやし立てられ、見送られた。狭い町のこと、父が酒に極端に弱いことを皆はよく知っていた。

私の妻はその度に批判するのだが、4人の子どもを連れて実家に帰ると、よお~く帰ってきてくれたと言っては、私の息子だけを抱いて、何処かへ居なくなってしまう。残された三人の娘は、あのジジイ、どうなってんの?と思ったことだろう。お前のところの子どもはみんなエエ子や、が口癖だった。

父母とニューディーランドへ行った。その後、父と私は息子が留学しているオーストラリアへも行った。父と息子、孫の三代にわたる男衆の珍道中は楽しかった。耳の遠くなった父の耳に、息子は手でラッパを作って交差点のど真ん中、オジイチャン、何食おうか?と声を掛け、嬉しそうに寿司だウドンだ、ソバだと答えていた。健啖家だった。しょっちゅうタバコを吸わないではいられないほどの狂〈愛)煙家で、オーストラリアは文化レベルが高い国で、人前では吸ってはいけないことになっているんだ、だからタバコを吸いながら歩いている人はいないでしょ、と説明して納得させても、たまに吸いながら歩いている人を見つけては、タモツ、あの人は吸っているでとニタッと微笑み、凄く吸いたそうな顔をした。私は人通りを避けてビルの隙間に連れて行き、ここならエエでしょう、と父が美味しそうに吸い終わるのを待った。

跡取りの長兄には厳しかったけれど、弟の私には優しい父だった。中学校を卒業してからの進路について、私が勝手に決めて、勝手に進めることに何も口出ししなかった。入学した高校も大学も、浪人していたことについても、卒業して入社した会社のことも、何も聞こうとはしなかった。信頼してくれていたのだろう。

翌日の14日、甥の嫁から受け取った線香を持って、菩提寺である宝国寺のお墓と伯父の戦没者慰霊塔に参った。長兄が山岡家の墓石を新しく建立してくれた。どこまでも頼りになる兄だ。

2013年12月28日土曜日

望郷篇、その2同窓会

同窓会

20131214(土) 19:00~  会場:魚定の2階(南にある魚屋さん)

今回の帰郷の目的の一つに、同窓会に出席することがあった。

この同窓会は、昭和23年に京都府綴喜郡宇治田原町の南地区で生まれ、地元の田原小学校と維孝館中学校を卒業した竹馬の友たちの集いだ。宇治田原町には他にもいくつかの地区があるが、維孝館中学校の同窓生150人のうち、3分の1程度が、この南地区で生まれた。今回は、その半分が出席したことになる。

65年間も狭い地域で住んでいるから、兄弟姉妹同然だ。交流が深まるのは当然。出席者は、近くの城陽市に嫁いだ人もいたけれど、私以外のみんなはこの宇治田原町で今も暮らしている。私は、初めての参加だ。実家に帰る度に訪れる大辻百貨店で、店番をしているハルエちゃんから、同窓会での楽しい話を聞かされ、早く一度は出席してみたいと考えていた。

幾星霜(いくせいそう)、皆の風貌は激変していたが、話し出せば、昔の思い出ばかり。今の仕事については、お互いに興味がないようだった。現在の状況を尋ねられたら、私はどのように話せばいいのか実のところ悩んでいた。激しい仕事の現実を話したら、きっと彼らは舌を巻いたことだろう。務めていた会社や役所を定年で辞めた者たちは、地元地域の役員さんになって世話役を担っている。

郵便屋さん、消防署の署長さん、茶問屋、バイク屋、百姓、マンションの管理業、某自動車会社の陸送の運転手、建材会社の社員、私は不動産屋。毎日会社に出勤して仕事をしているのは、男では2、3人だった。女性たちとももう少し話したかった。悔やまれる。

私のカメラに写された人のプライバシーは守られないことになっているので、そのままここに掲載させてもらう。あしからず。

 

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2013年12月22日日曜日

望郷編その1、お月さま

20131212の深夜、横浜から観光バス会社=オー・ティー・ビーが主催する深夜バスで京都に、それから、寝屋川に住む大学時代の友人の銀さん宅で、奥さん手作りの温かい味噌汁をいただいて、待望の故郷、京都府綴喜郡宇治田原町に帰った。銀さんが車で送ってくれた。お世話になった人が亡くなってから、唯、仕事が忙しいと言うだけの理由で、長く墓参りをしていないことに気づいたのだ。父母、祖母、伯母と伯母の母? 伯父、妻の父。

中学校を卒業して一度も出席したことのない同窓会にも出席した。スケジュールを思いっきり調整した。

途中の浜名湖のサービスエリアで、トイレを済ませて眺めた湖上の月は優しかった。これって、誰かの顔に似ているなあとじっと眺めていたら、アンパンマンが浮かんだ。昨夕、横浜で眺めた月の光は穏やかだった。

そして翌日の13日、高校時代のサッカー部の後輩の家を出て、同窓会に向かう夜道で見た月は赤い月だった。同窓会の散会後、3人だけの2次会をやろうと、少し離れたスナックに連れてゆかれる車の窓から眺めた月は、冷たい夜を昼間のように明るく照らしていた。

高校生の頃、夜道を歩くときは何故か守屋浩の「僕は泣いちっち」をよく歌った。恋人を追いかけて行くわけではないが、きっと、東京にいるだろう、未だ見ぬ恋人との邂逅を夢見ていたのだ。その道を車で走りながら、昔のように私は口ずさんでいた。

僕の恋人 東京へ 行っちっち
僕の気持を 知りながら
なんで なんで なんで
どうして どうして どうして
東京がそんなに いいんだろう
僕は泣いちっち 横向いて泣いちっち
淋しい夜は いやだよ
僕も行こう あの娘の住んでる 東京へ

 

そこにきてこの記事だ。無粋な私のこの一両日の月のことを想った。

 

20131217

朝日・天声人語

忙しく年が暮れる師走の夜空を眺めて、「徒然草」の兼好法師が書いている。〈すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、二十日余りの空こそ、心ぼそきものなれ〉。現代語なら、荒涼とした月が寒々と澄んだ光を放つ二十日過ぎの空はもの寂しい、といったほどだ。

おぼろに潤む春の月。涼しく光る夏の月。さやかな秋の月。それらとは違って冬の月には凄(すご)みがある。今夜は晴れ間があれば、北風に磨かれたような満月が、きりりと空に浮かぶはずだ。

約400年前、自作した望遠鏡でガリレオが初めて観察した天体が、やはり冬の月だった。完全無欠で鏡のような球体と信じられていた表面に、幾多のクレーターを見つけた驚きを自著に記している。

そのガリレオも眺めたことがあったろうか、今では「虹の入江」と名のつく平原に、中国の無人探査機が着陸に成功した。米国と旧ソ連に続く3カ国目になる。ゆくゆくは人を送り込む計画というから、技術力は侮れない。

未来の資源への期待ゆえか、昨今、改めて月に目が注がれているという。科学の進歩とともに神話や俗説は葬られてきた。月の都はなく、地球から見えない裏側に結集して侵略をもくろむ異星人もいなかった。といって、地球人同士の縄張り争いになるようでは困る。

月夜のロマンからはほど遠く、「権益確保」なる言葉が登場する昨日の本紙記事だった。知ってか知らずか、手つかずのあばた面(づら)は天空で「寒けく澄める」光を静かに放っている。