2014年2月8日土曜日

こんな夢を、何故、何度も?

大学入試センター試験の初日の夜、私は今までに何度も見た夢を又見てしまった。年に2度も3度も、同じ夢を見るということが、私以外のみんなにもあるのだろうか?

その夢というのは、大学の卒業を控えた4年生のときのこと。卒業に必要な履修単位の取得数が、私が計算していた数字と、事務局が指摘する数字とが違って、あわや留年になりかねないと、てんやわんや、学部の事務局内でスタッフに噛み付きながら確認している。1単位の余裕もなかったのだ。私の計算に間違いはない、、、慎重に確認しているんだ、、、事務局スタッフとの大騒ぎの果てに、カッとなって目が覚める。毎回、同じところで目が覚める。

その背景には、切羽詰った私なりのお粗末な事情があったのだ。

私はクラブ活動を年内に終え、2月には、まだ卒業に必要な単位を取得していないにもかかわらず、卒業見込みの扱いで、就職する予定の会社の新入社員教育を受けていたのだ。人事担当からは、卒業できないと入社はできないんだよ、と念を押されていた。

社会科学概論と社会思想史の2科目の追試を受けなければならなかった。勉強していないのだから、試験では何も書けなかった。当然だ。この追試を乗り越えないと、卒業はできない。

追試を受けなくてはならないと知らされた翌日、人事担当に事情を説明して、会社を休んで2科目の担当のそれぞれの教授宅を訪ねた。私には、結婚相手が決まっていて、焦(あせ)っていた。この会社では、このような件に、人事担当はそれほど大問題とは考えていなかった、前例があったのだろうか。いろんな大学からやってきた新入社員は、パラパラと各大学の卒業式に出かけて行った。知り合ったばかりの明治大と法政大のアイスホッケー部の元主将らから、これ見よがしに、卒業証書を見せつけられた。

社会科学概論担当の教授は、君のような学生がいるから本学はいい学校になれないんだ。係属の高等学院と他学部でも授業を持っていて、学校をこよなく愛し、この学校が母校の教授だった。サッカー部に所属しているからといって、勉学をサボるのは許せない。勉強をしないからスポーツも弱くなるんだ、とか何とか、30分ほど説教された。奥さんがお茶を持ってきてくれた。それからも、現代の学生の気風が、私らの学生時代とは随分違うんだと、牛の涎(よだれ)、これも30分ほど説諭され、教授には時間的な余裕があったのだろう。

しびれを切らした私は、教授、何とかこれから1週間でやれるだけやってみますからと言い放ち、立ち上がって帰ろうとしたとき、唐突に、君、君、今度の追試にはこの5つの問題を出す心算なので、そのうち3問以上は完璧に答案用紙に書き込みなさい、と問題を教えてくれた。結果、5問とも満点をとったのは言うまでもない。これで、この科目はオッケーだった。

もう一つの科目社会思想史は、担当教授の専門がフランスの思想史だったようで、この科目は難関だった。この科目を履修科目に選んだのは、サッカー部の先輩の助言があったからだ。あの教授の試験は今までずうっと毎年同じ問題なので、受講しなくても、模範解答が歴代サッカー部に残されているので大丈夫、とのことだったのだ。浅墓にも、その話に乗った。

ところが、どっこい、今回の試験問題は、過去に一度も出たことのない問題ばかりで、授業に出席したこともなく、教科書を一度も開けたことのない私には、完全にお手上げ状態だった。

同じように担当の教授宅を訪ねたが、教授は留守がちで、会えたのは3度目にお邪魔した時だった。勉強しなかったことを詫(わ)び、現在は既に就職先で新入社員教育を受けていること、できるだけ早く結婚したいと思っていることを話した。学究肌の教授は、そんな言い訳を聞いていたのか、聞いていなかったのか、柔和な表情のまま肯(うなず)いていた。

教授は、兎に角、まだ1週間あるので、できるだけ勉強してください、だった。取り付く島もない教授に解りましたと辞した。それから、私は思いを巡らした。今まで、何年もこだわって出題した問題なのだから、その過去問題にこそ、私が今度受ける追試のためのヒントがあるように思えた。今までとは全然問題は違えども、何かが、教授が学生に習得して欲しいと思うことがある筈だと推察した。

過去問題をじっくりじっくり確かめた。そして、先輩たちが用意してくれた模範解答よりももっと深く調べて、自分なりの答案を原稿用紙に書き綴った。それだけの勉強では、大した対策にはならないことは解っていたが、今、できることはそれしかなかった。そして、追試の本番で、そこに出題された問題を見て仰天、アニハカランヤ、期末に出題された問題と同じものだった。ラッキー、充分合格をもらえるだけは書けた。そして、余った時間で、出題された問題とは別に、教授が過去の問題等でこだわってきた課題について、この1週間で学習したことを、できるだけ沢山、答案用紙に書けるだけ書いた。

合格点をもらえたことを確認した後、休日を利用して教授宅を、お酒をもって訪ねた。教授はニタッと微笑みながら、よく勉強したね、と褒めてくれた。立派な社会人になるようにと激励された。

こんな波乱含みの、単位取得騒動だったのだ。

2014年1月30日木曜日

忘れられた皇軍

 

大島渚監督が撮ったドキュメンタリー「忘れられた皇軍」が、日本テレビで今月13日の深夜に放送された。それを観た。

この番組は、1963年、東京オリンピックの1年前に大島渚が監督した作品の再放送だ。1963年といえば、私は15歳、中学3年生の時のことだ。その日のテレビ番組表の別枠で、この番組の紹介を見て、どうしても観ないわけにはいかないぞ、と目覚まし時間を深夜の00時30分にして20時に寝た。が、目覚ましに起こされることなく、深夜00時過ぎに自然に目が覚めた。番組が始まる時間は00時50分。

幾ら酒を飲んで寝ても、こういうことがある日は、必ず目が覚めるのだ。

子供の頃、母に連れられて、私にとって最大の都会だった京都の四条河原町に出かけた時に、街の角角に白装束姿で、腕のない人や足が片足だけの人や、両足ともない人が、楽器を奏でたり、のぼりを掲げたり、道路にうずくまっている人たちの群れを見たことがある。違う場所では、一人で立っている人もいた。小学校の遠足で東大寺の大仏さんを観に行ったときにも、そこらじゅうで見た。その光景は異様で不気味だった。立ち竦(すく)む私の手を母は強く引っ張った。

戦争で傷ついた「傷痍軍人」だと、母に教えられた。母もそうだったが、通行人が冷ややかに、避けるように通りすがるのを子供心に気になった。私の伯父は、風土病に掛かって復員、間もなく闘病の果てに亡くなった。小学生の私にも、戦争の惨(むご)さについては、祖母から聞いて多少は理解していた。

今回の番組が取り上げたのは、日本人ではなく、旧日本軍に従軍した朝鮮人の傷痍軍人だったのだ。

監督が、このフィルムで怒っているのは、日本人と同じように戦争に召集され、日本人と同じように皇軍の一員として戦って、傷ついて復員したが、待ち受けていたのは酷い仕打ちだった。戦後、朝鮮半島は、朝鮮戦争を経て大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分かれ、在日朝鮮人の元日本兵は、外国人になってしまった。

そして、旧軍人として、当然受けられるべき手当てや医療費は打ち切られた。その救済を求めて韓国の大使館に赴き窮状を訴えても、日本の戦争による被害なんだから、日本政府の責任であって、韓国政府はくみすることはできない、と拒否された。

この不条理にオ・オ・シ・マは怒った。

医療費や生活費に困窮する彼らは、街に出て、物乞いするしかなかった。それから半世紀、彼らが必死で訴えたことは、未だに梨の礫(つぶて)のようだ。

番組の終わりに、監督は「日本人よ、わたしたちは、これでいいのだろうか」と、日本政府と日本国民に向って訴えた。

 

追記

約35年前のこと、安DOさんという住宅建築の発注者と請負会社の代表者としての私は、工事が終わってからも付き合いは続いた。安DOさんは在日韓国人、生い立ちを恨み、それでも真面目な勤労学生になって、日本軍の志願兵になることを夢見ている間に終戦を迎えた。付き合いが始まった頃、戦争が終わって随分経つというのに、それでも、在日韓国人として生きていくことのやるせなさに、日々悩んでいた。酒を浴びるように飲んでいた。彼は、日本人以上に、もっと忠実な日本人になろうとした、、、、が、なれなかった。

そんな彼が、夜な夜な酩酊の果てに電話を掛けてきた。ヤマオカ、俺は一体、どっち側の人間なんだ、お前が建てた俺の家には、どこの国の旗を揚げればいいのか、教えてくれ。朝鮮ピーの旗か、日の丸か! それは悲痛な叫びだった。

安DOさん、そんなときは国連の旗でも揚げとけばいいんだよ、と慰めたけれど何の慰めにもなっていなかった。最後に電話を受けたのは、肝硬変で急死する前々日だった。

 

20140126 日経新聞・朝刊

春秋

そのドキュメンタリーは怒りに満ちている。1年前に亡くなった映画監督の大島渚さんが1963年に撮り、日本テレビで放映された「忘れられた皇軍」だ。ずっと再放送の機会に恵まれてこなかった作品が先ごろ、監督の1周忌に合わせて半世紀ぶりに電波にのった。

旧日本軍の兵士として戦い、手足を、両目を失いながら、どこからも補償を受けられずに戦後を生きる在日韓国人たちーーーー。31歳だった監督は渾身の力を込めてその不条理をフィルムに焼きつけた。仲間同士の貧しい飲み会。軍歌と手拍子。そして眼窩(がんか)からあふれる涙。カメラはクローズアップでそれをとらえて離さない。

松竹ヌーベルバーグの旗手として邦画界を揺さぶった監督は、60年安保闘争を描いた「日本の夜と霧」の上映中止騒動を機に独立してイバラの道を歩む。送り出す作品はことごとく問題作と呼ばれ、そこには怒りと悲しみが横溢(おういつ)した。「忘れられた皇軍」はわずか28分。その短い映像がこの人の精魂をあらためて物語る。

「日本人よ、わたしたちは、これでいいのだろうか」。作品は戦後18年の平和な街の表情を追い、こう訴えて終わる。あまりにもストレートな問いかけに、当時も戸惑った視聴者が少なくなかったろう。反発もあったろう。それを百も承知で、こういう力技(ちからわざ)を果たした表現者がいた。怒りというものの凄(すご)みを知るのである。

2014年1月29日水曜日

名護、辺野古反対の市長再選

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20140120 朝日新聞・朝刊 1面記事より

 

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設計画への賛否が最大の争点となった沖縄県名護市長選は19日、投開票され、同市辺野古への移設に反対する現職の稲嶺進氏(68)が、移設推進を掲げた新顔の前自民県議、末松文信(ぶんしん)(65)=いずれも無所属=を破り、再選を果たした。

この選挙の結果の新聞報道に各紙、大きく違いが出た。私は6紙を読み比べた。朝日が一番強く、東京が二番、三番は毎日の順で、辺野古移設を再考することを主張した。また、粛々と辺野古移設を進めるべきだとの論調では、一番が産経、二番が読売、三番が日経の順だった。私は、国策としての事業といえども、地元の民意を踏みにじってまでも進めるということについては、どうしても同意しかねる。日米安全保障問題も重要な問題ではあるだろうが、やはり、民意は尊重されるべきだ。

市街地にある普天間飛行場は世界で一番危険な基地で、その危険を回避するがために浮かび上がった移設だが、、、、今後、どのような進展を見せることになるのだろうか。政府は、それでも、計画通りに着手するという。

 

選挙に絡めての移設問題の記事を20140120の朝日新聞・朝刊から拾った。後日のためにダイジェストさせてもらった。

辺野古反対の現職再選

名護市長選 政権、推進変えず

 

那覇総局長・谷津憲郎

《解説》

米軍普天間飛行場を名護市の辺野古へ移すという計画に、市民は「NO」をつきつけた。稲嶺進氏は、その先頭に再び立つ。

カネと引き換えに米軍基地を押しつけようとする政権への「NO」であり、埋め立てを承認しながら「県外移設の公約はやぶっていない」とする仲井真弘多知事への「NO」である。

ここ数ヶ月を振り返ってみよう。政府・自民党は、辺野古容認に党県連を転じさせ、末松文信氏に市長選候補を一本化。応援演説では500億円の「名護振興基金」も表明した。知事も一体になった。思惑通りだったはずだ。

それらへの民意を示す初めての機会が、この市長選だった。結果は、見ての通りだ。移設問題が浮上してから計5回の市長選で、容認候補が連敗するのは、これが初めて。市民の意向は明らかだ。

だが稲嶺氏の当選で、辺野古への移設計画がついえたとは、残念ながら私には思えない。沖縄の問題ではない。私たちの政府が、そういう政府だからである。菅義偉官房長官は16日、BS番組の収録で、市長選の結果について、移設には「全く影響ない」と言った。末松陣営も「稲嶺氏が反対しても、移設は止まらない」と繰り返した。止まらないのではない、止めないのである。

私たちの民主主義社会は、投票で意思を示すというルールで動いていると教えられてきた。

しかし稲嶺市政の4年間に政府がとった態度で分かるように、沖縄の基地問題に限れば、このルールは通用していない。では、と違う道を選ぶと「結局はカネの問題か」と揶揄される。

そういう苦しみの中で、名護市民はそれでも「移設NO」を選んだ。実現させるかどうか。今度は本土が意思を示す番だ。

 

天声人語

17世紀末というから江戸の元禄時代、琉球からの僧を迎えた江戸の僧が、その帰郷に際して贈った漢詩が、「琉球は遥(はる)かな大海原に浮かぶ」と書き出し、〈其(そ)の民、天性礼譲に狥(したが)い/古(いにしえ)より未だ甲兵を用うるを聞かず〉と続いていく。礼儀正しく、武器をとって戦ったことがない、と。

その「武器なき島」が、19世紀の初めに「ナポレオンを驚かせた話は前にも書いた。英軍艦が琉球周辺を航海した帰途、セントヘレナ島に流されていた元皇帝に艦長が会って話した。ナポレオンは、武器を持たぬ民の存在を信じかねたそうだ。

それから60年ほどたって、明治政府は琉球王国をとりつぶして日本に組み入れる。沖縄県が誕生し、太平洋戦争での地上戦の悲劇に至った。それにしても、日本への併合措置をさす「琉球処分」は、何と酷薄な響きだろう。

この言葉は戦後、本土が沖縄に難儀を強いるたびによみがえった。講和条約による切り離し。米軍基地を残したままの復帰。そしていま、普天間飛行場の県内移設にも、その言葉が重ねられている。

沖縄基地の多くは米軍の「銃剣とブルドーザー」で有無を言わさず造られた。だが建設を容認した基地となれば違ってくる。何か起きたときに確固たる声を上げられるかーーそんなことも沖縄に住む知人は憂えている。

移転先の名護市民は市長選挙でノーの意思を示した。それは政府自民党のあからさまな「札束とブルドーザー」への軽蔑でもあったろう。押しつけはもはや限界である。

 

社説

名古屋市長選  辺野古移設は再考せよ

名護市辺野古への基地移設に、地元が出した考えは明確な「ノー」だった。

米軍普天間飛行場(沖縄市宜野湾市)の移設先とされる名護市の市長に、受け入れを拒否している稲嶺進氏が再選された。

沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事は辺野古沖の埋め立てを承認したが、市長選の結果は移設計画や政府の手法への反発がいかに強いかを物語る。強引に事を進めれば大きな混乱を生む。政府は計画を再考すべきだ。

名護市長選で基地移設が争点となるのは5回目だ。

昨年末の知事の承認によって、日米両政府の合意から18年間進まなかった移設計画は一つのハードルを越えた。今回の市長選ではこれまで以上に「基地」が問われた。

移設反対派地元の民意を示す最後の機会ととらえた。一方、推進派の末松文信氏側には連日、大臣や知事、自民党国会議員が応援に入り、国や県とのパイプを強調。基地受け入れの見返りに国から交付される米軍再編交付金などを使った地域振興策を訴え続けた。

しかし、振興策と基地問題を結びつけて賛否を迫るやり方には、名護市だけでなく、沖縄県内全体から強い反発がある。当然だろう。

知事が承認にあたり安倍首相と振興予算の確保などを約束したことに対しても、「カネ目当てに移設を引き受けた、という誤ったメッセージを本土に発信した」と批判が上がった。知事は県議会から辞職要求決議を突きつけられる事態となった。

極めつけは自民党の石破幹事長の発言だろう。市長選の応援で「500億円の名護振興基金を検討している」と演説し、その利益誘導ぶりは有権者を驚かせた。稲嶺氏は「すべてカネ、権力。そういうことがまかり通るのが日本の民主主義かと痛烈に批判した。

この選挙をへてなお、政府は辺野古移設を計画どおり推進する方針だ。

稲嶺市長は、作業に使う海浜使用許可を拒むなど、市長の権限で埋め立て工事の阻止をめざす考えだ。政府が立法措置や強攻策を用いて着工することなど、あってはならない。

「普天間の5年以内の運用停止」という知事の求めを、国が約束したわけではない。普天間の危険性を考えたとき、辺野古移設が最善の道なのかどうか。政府は県外移設も含め、もう一度真剣に検討し直すべきだ。同時に、オスプレ配備の見直しや米軍の訓練移転など基地負担軽減を急ぐ必要がある。

2014年1月28日火曜日

望郷編その5 最後は三十三間堂だ

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20131215 

この望郷編の最後は、三十三間堂に出かけたことだ。

西念寺にある義父の墓参りを終えて三十三間堂に向かった。正式には蓮華王院(れんげおういん)という。

鴨川の流れをぼんやり眺め、七条通をぶ~らぶ~ら、余所見(よそみ)をしながら歩いた。50分から1時間ぐらいかかったかもしれない。小雨が降ってきたが、着替えはあったので、新撰組の近藤勇だったか、"春雨じゃ濡れて行こう" だ。今は冬、氷雨(ひさめ)っていう奴か?

東山連山の峰々に虹が出た。歩行者の視線は山に向いた。東の山から下りてきたハイカーさんらと一緒に振り向いて眺めた。「虹」っか!!、と、次女の数日後に迫る出産のことを考えていた。6番目の孫だ。母になる私の次女は、生まれてくる子の名前に、虹の一文字を考えている。

東西に走る七条通を東に歩いて行くと南北に通じる大和大路通にあたる、その角に、七条通を挟んで北側に京都国立博物館、南側に三十三間堂がある。観光バスが数台停まっていた。アメリカ人の高校生と思われる団体や、地方からのお年寄りの団体が多かった。団体の引率者の説明を盗み聞きしながら観覧した。

小学生か中学生の頃にも、学校の遠足か何かで来ているので、その雰囲気は蘇った。静寂の中にじとっと歴史の重さを感じた。仏像たちの数が圧巻、さながら仏像の森だ。その一体一体の形の不思議さにも魅(ひ)かれるが、それらの総量がなす空間は、異状だ。中央の中尊千手観音坐像を囲うように前後10段の階段状に1001体の「十一面千手千眼〈せんじゅうせんがん〉観世音像が並ぶ。

見たことのない人は、早く見てくださいな、私にはこの不思議さを著す言語を持ち合わせていない。

創建当時、後白河上皇は院政の立場で、血の気の多い武士ども、平清盛や源頼朝らと、丁々発止と渡り合っていた。保元、平治の乱では武家の力を利用して、朝廷内における地歩を固め、武家政権との共存を目指した。混乱の時代、民衆も武士も朝廷も、穏やかな治世を求めていたのだろう。上皇は仏教を厚く信奉(しんぽう)していた。

三十三間の間は、我々が日常的に使う長さを表す単位の間(けん、1.818メートル)ではなく、社寺建築において柱間の数を表す。

 

いただいたパンフレットから説明と写真をここに使わせてもらう。

 

日本唯一の千体観音堂

正式には蓮華王院〈国宝〉といい、長寛(ちょうかん)2年(1164)鳥辺山麓(とりべさんろく)(現・阿弥陀ケ峯)の後白河上皇・院政庁(いんぜいちょう)「法住寺殿(ほうじょうじどの)」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し、文永(ぶんえい)3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700余年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋(いりもや)・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル。正面の柱間が33あるところから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。また、見落としがちだが境内・南の通称「太閤塀(たいこうべい)」と呼ばれる築地塀(ついじべい)と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である。

 

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無限の慈悲・千体の観音立像

中央の巨像(中尊)を中心に左右に各500体(重文)、合計1001体がご本尊。正しくは「十一面千手千眼〈せんじゅうせんがん〉観世音」といい、当院の像は檜材の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手に表現される。等身立像の中、124体はお堂創建時の平安期のもので、他の800余体は鎌倉期の再建の折に約16年かけて復興された。

 

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国宝雷神と風神像

堂内両端のひときわ高い雲座(くもざ)にのった風神と雷神像は力強く躍動的。古代人の自然や天候に対する畏(おそ)れや感謝の心が、空想的な二神を創造し、風雨をつかさどり、「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰された。太鼓を打つ雷さまと風の袋をかかえた風の神というイメージを決定づけた鎌倉彫刻の名品〈国宝〉である。

 

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国宝観音二十八部衆像

観音像の前列と中尊の四方に位置する変化に富んだ28体の仏像〈国宝〉は、千手観音とその信者をまもるという神々でインド起源のものが多く、その神話的な姿が迫真的に表現されている。技法的には檜材の「寄木造り」で、仏像の手や顔を別々に刻んで接着し、漆を縫って彩色(さいしき)仕上げをしたものである。目にはより写実性を高めるため、水晶をはめ込む「玉眼(ぎょくがん)」という技法が用いられている。

 

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楊枝(やなぎ)のお加持(かじ)と通(とお)し矢(や)

「楊枝のお加持」は毎年1月中旬に行われる当院最大の縁日で「頭痛封じ」にご利益(りやく)があるといわれる。境内は無料公開され、全国から約2万人が群参する。お堂の西庭では、終日、古儀・通し矢(江戸時代に外縁で行われた弓の競技で、堂内に残る多数の絵馬はその記録)にちなむ弓道大会が催され、特に成人を迎えた女性たちの晴れ着での競技は、いまや正月の風物詩となっている。

 

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曇空、閉門の4時で、巷間、夕闇が急に迫ってきて、東寺まで足を伸ばそうと思っていたが諦めた。

その後は、京都駅前タワーでウドン(うろん)を食ってビールを飲んで、京都駅構内探索と京都駅前タワーの地下で風呂に入って、たっぷりと時間調整をした。風呂は意外にも空いていた。

2014年1月17日金曜日

詰めが甘くなる理由の1つ

日経新聞の武智幸徳氏が、20140110の日経新聞・朝刊スポーツ欄、「アナザー ビュー」で、長年、ドイツをメインの舞台にして、選手の海外挑戦やチームの海外遠征の仲介等の仕事をしている近江孝行さんから、日本とドイツのサッカー事情の違いなどヒヤリングしたものを、記事にしていた。

私は高校、大学とサッカー部に所属して、まじめに活動した。大学の卒業年度には、全日本大学サッカー選手権、関東大学サッカー選手権の2冠を獲得する栄誉に輝いた。私のたった一つの自慢だ。40余年前のことだ。

記事は、近江さんが、ドイツの練習環境や育成部門の指導内容について、日本と比較して話していた。その会話の内容が、みんなには「目から鱗(うろこ)落ち」級だろうが、私にとっては、前々から感じていたことだった。

私のサッカー漬けの日々も、下の記事のようなことを当然のように教えられ、受け入れ、練習ではそのように忠実にプレーしてきた。

昨今の日本代表の守備の甘さの元凶は、この辺りにありそうな気がする。

日本の選手はボールにアタックに行かずに間合いを取って見ることが多い。それが相手を十分に制御できていないようにドイツのコーチには見える。小さい頃から「簡単に飛び込むな、という指導を受けているせいかもしれない」と近江さん。

技術、戦術、判断、いろんな武器の土台としてまず「1対1の戦い」に勝つことをドイツは求める。日本は正面衝突を避けながら数的優位な場所に追い込んで最終的に数の力でボールを奪い取ることを教える。身体能力の低さを知恵と工夫でカバーするそんな身の処し方が、「消極的」「戦えない」となって叱声の対象になる。

 

ところが、試合では、、、、、

私が大学時代にFBをやっていた時には、私の後ろにはスゥイパー役の全日本代表の後輩がいて、私がマークしている相手がパスを受けようとすると、私は素早く限界まで、無我夢中で、それでも安心して間合いを詰めた。そのためには、試合の流れの先を早く読み取り、1歩でも早く動き出すことが、肝要だ。私には、様子を見て間合いを詰めるような余裕はなかった。相手が確実にボールをキープすると、もう私の技術ではどうにもならないので、詰められるときにできるだけ詰めたのだ。

それが、うまくいったのだ。

万が一、間合いを詰め過ぎて、私がフェントをかけられて、ちょんと外されても、相手の懐深くアタックさえしていれば、相手がボールコントロールを少しは狂わす、後ろに控えたスゥイパーが、すかさずカバーリングをする。二人で守り切る暗黙の了解があった。ヤマオカさん、どっちつかずだけはやめてくださいね、と言われていた。

そして、2冠を取ったときに、部員のみんなに言ってはばからなかった。それは、俺程度のプレーヤーが活躍するようでは、大学サッカーのレベルは低過ぎる、その認識を持たなアカンで、と。

2014年1月15日水曜日

望郷編その4、墓参りはこれで終わり

20131215 横浜に戻るために実家を12:00に出た。朝からは、中学校の恩師の吉岡先生の仏壇に挨拶をしてきた。

JRと京阪電車の宇治駅かJRか近鉄の新田辺駅まで送ろうと、甥は言ってくれたけれど、時間はたっぷりあるので、ゆっくりゆっくりこの田舎を楽しみたいと断った。一人でぶらぶら歩きたかった。

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左・田原川 右は高尾〈こうの〉への道からの眺め

 

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宇治田原町高尾地区 水を飲んでいるのは後輩の桝君

 

久しぶりに味わう故郷だ、できるだけ多くの山の気のこもった空気を吸って、できるだけ多くの山々の姿を眺めておきたかった。バス停に向かって歩いていくと、役場の裏を流れる田原川にぶつかる。橋の上から河原を眺めていると、子どもの頃の私が蘇る。春から夏にかけて、笊(ざる)や籠(かご)や網でハヤ、フナ、ドンコ、ザリガニ、ゲンゴロウを捕った。芹(せり)を摘んで帰って母に喜ばれた。魚捕りに飽きたら、石を投げて水面(みずも)を滑らせたり、潜って遊んだ。泳ぎに飽きたら河原で寝転んだ。

こんな町にもスーパーマーケットができていて、買い物客がちらほらいた。かって役場の前にあったバス停はもうそこにはなく、向かいの家で車を洗っている人に教えてもらって、新しく設けられたバス停まで、来た道を戻った。スーパーの隣は祖母、父母たちが眠る墓がある宝国寺だ。墓参りに来た時に、そこにバス停があることは気づいていたが、まさか、このバス停が宇治や新田辺に向かうバス停だと思いつかなかった。

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高尾からの帰り道

 

宇治へはよくバスに乗ったことがあるので、その日は青谷経由の新田辺駅行きに乗ることにした。新田辺駅の駅前のロータリーには一休和尚さんの像があって、その像の前で同志社の大学生らがたむろしていた。

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一休和尚  

 

今回の最後の墓参りだ。

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京都の高倉通り五条下るところにある西念寺で、妻の父のお墓参りをした。京都駅から歩いて15分ぐらいの近さだった。道に面した商店には、仏具店や骨董品、着物の反物を広げている店が多く見られた。仏具店といっても、さすが京都だ、僧侶用の着物や履物、僧侶として身にまとう小物なども多く並べられていた。やっぱり、これらの品物も売っているんだ、と認識した。

義父の眠る墓は周囲の墓石よりも一段と大きく、古く、威容だった。何代ものお骨が入っているのだろう。卒塔婆の小さいのに、私の名前とその日付を、住職さんは筆でさらさらと書いてくれた。お花を買って墓前に供えた。甥っ子の嫁が用意してくれたお線香を焚いた。

義父の葬儀の日、私は4番目の子どもを抱いて、葬儀に来た人々の群れの外で、僧侶たちの読経を聞いていた。23~25年前のことになる。ガンが原因だった。

義父はお酒が大好きな人だった。時々、好きな酒の肴を市場で買ってきた。大阪の銀行に勤めている時でも、早朝、毎日日本酒を1.5合ほど、コップになみなみと注いで、それを飲んで会社に行っていた。傍目には、一切変調や異常は見られなかった。初めて、その光景を見たときは吃驚した、銀行では、始業前に屋上で全員揃って体操をすることになっていて、義父だけが汗まみれで体操している様子が、他の行員からは不思議がられたようだ。支店長さんだけは、その由を知っていた。

体の不調を訴えだしてから、病院を転々とするのだが、ガンとは知らない義父に、どこの病院の医師も、酒が原因ではないと思いますよと言ってくれた。義母の気遣いに、医師も発言に配慮してくれた。どの医師も義父の体の状態の全てをお見通しだった。義父は、せめての気休めのつもりだったのだろうか、妻や娘には、お父さんの病気は酒を飲み過ぎたからではないらしいよ、と弱弱しく言い訳をしていた。何故か、酒は「万長」を好んで飲んでいた。

自分の生い立ちや、幼少の頃の家族のことに関しては、何も話してくれなかった。話したくなかったようだ。私のことも、突っ込んで聞いてこようとはしなかった。

晩年は、地元の商工ローン会社に勤め、その会社の上場準備室長として上場を果たし、その後は業務の拡大を重ねる繁忙の日々を過ごし、その繁忙中に亡くなった。それからの20年後の会社の果てを知らないまま亡くなったのは、彼にとって、良かったのかもしれない。商工ローンは運営において世間からこっぴどく叩かれた。

2014年1月13日月曜日

あそこに、渡し船があるんですよ

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3~4ヶ月前のこと、経営責任者の中さんと、横須賀市の浦賀湾に添って車で走っていたら、運転中の中さんが、この辺に船着場があって、向こうの岸まで渡し船が出ているんですよ、と話しかけてきた。その時は、視界の隅っこに乗船場のようなものを確認しただけで、それほど感心は向かなかった。

ええ~、今どき、そんな悠長な!! この辺りで、渡し船なんて本当にあるの? 半信半疑、その程度の反応だった。

歌謡曲で名高い、矢(や)~♯~切(ぎり)~♭~の~渡(わた)~ア~し~、なら、歌は下手だけれど、名前だけは知っている。葛飾柴又から江戸川を渡って千葉に着く、東京唯一の渡し船だ。

そして、今年の1月6日の朝日新聞の朝刊・横浜版に、”渡し船に乗ってロトロ当選祈願、叶神社が人気”のタイトルで、半年前に中さんが話題にした渡し船のことが、叶神社と合わせて記事になっていた。私の目は、急に色めき立った。なむ!! あの渡し船のことだ。

その記事をダイジェストさせてもらった。写真も全て新聞掲載のものを使わせてもらった。

 

横須賀市の浦賀湾を挟み、渡し船で結ばれる東西の叶(かのう)神社。西の神社の勾玉(まがだま)を東の神社のお守り袋に収めると、恋愛や友人関係、仕事での良縁に恵まれるといわれる。最近では「叶」を「ロト」と読み、宝くじの当選祈願の地としても人気を集めている。

勾玉は水晶、ヒスイ、メノウの3種類。

鳥居近くの船着場に向った。「ポンポン舟」の愛称で親しまれる渡し船は約300年の歴史がある。150円を払い、のどかな湾の風景を2分ほど眺め対岸に到着。東叶神社は勝海舟が咸臨丸で渡米する前、航海の安全を祈願し、絶食した地だ。

(前田伸也)