2014年3月13日木曜日

東京大空襲

 

新聞記事を読んで、知識の浅薄さを自覚する機会が余りにも多いので、いささか自嘲気味、でも、、、だ、教えられたこと、入手した知識を大事に扱いたい。 知らないことは知らない、知ったかぶりをしない、教えてくれた人には感謝する。今まで、このように生きてきた。

そこで、今回は20140310の日経・春秋の内容だ。

前の世界大戦の終わり頃、当時の政権は、疎開していた子女たちを都会に戻させた。都会から人が去ることは、敵国に戦意を喪失したかの如く見られるとの憶測か、それに日本国民の緊張を高めるためとでも考えたのだろうか、折角、危険を回避するための疎開生活を中止させて、都会に引き戻させたというのだ。そんなこと、初めて知った。そのことについて、この日の春秋は著している。

また、東京大空襲がどんなものだったのか、とネットで調べていたら、先ず第一に、その大空襲で、一夜にして10万人近い人が亡くなったということ、又、第二は、米国のこの空爆の責任者を佐藤栄作政権は、何故か、彼に勲一等旭日大綬章を授与したことに驚いた。学生時代、佐藤訪米羽田阻止デモに参加したが、こんなことは初めて知った。東京大空襲の内容の一部を、ネットより、後の方にマイファイル、転用させてもらった。

今から約70年前の19450310の大空襲は一夜にして10万人近い人が亡くなった(殺された)と言うが、戦争を避けようと、人智の使い方次第では、このようなことは起り得なかった。酷薄な人災によるものだ。3年前の20110311の東日本大震災は、防災に対する備え不足は認めるにしても、神のみぞ知る天災だった。その震災で2万人近い人が、亡くなったり未だに行方が分からない。

私には基本的に身に付けている数字の単位がある。1年間で自殺する人数は、3万人弱。3万2~3千人は東京マラソンランナーの総員。1年間に交通事故死する人数は、1万人弱。神奈川県の人口は9百万人でその4割が横浜市の3百50万人、藤沢40万人で小田原はその半分の20万人。

 

20140310

日経・春秋

「やむをえず方針にしたがうことになりました」。校長先生は子供たちと親を前に、そうあいさつしたそうだ。時は昭和20年3月9日、場所は東京・下町の国民学校。現在の小学校にあたる。卒業生66人を引率、疎開先の宮城県から帰京し、親に引き渡した時の言葉だ。

これから空襲がひどくなり、首都がその標的になると予想していた。せっかく疎開している子を戻すのには反対だった。しかし、やむをえずの帰京。国のやり方への反感を公の場で示したのは、当時としてはぎりぎりの発言かもしれない。「くれぐれも空襲から身を守ってあげてください」。校長先生は親たちに念を押した。

生徒の1人である東川豊子さんのこうした回想を、早乙女勝元著「東京が燃えた日」が紹介している。両親との再会、慣れた町、集団生活からの解放に皆、はしゃいだ。その日の深夜に、爆撃機が来襲。子を守ろうとせぬ親などいなかったはずだが、それでも66人の生徒のうち13人が命を失う。東川さんも父と弟を失くした。

この夜の死者は10万人以上。想定外の数字ではなかった。河出書房新社「図説東京大空襲」によれば、東京の防衛に責任を持つ陸軍中将が空襲の前年にこんな論文を発表している。東京の爆撃で約10万人が死ぬ。 しかし東京の人口は700万人、「十万死んだところで東京は潰れない」。命を見る目の軽さに改めて驚く。

 

『odd_hatchの読書ノート』2012年6月16日付エントリより

著者は、江東区の住人で当時13歳。3月13日(ママ)からの空襲を経験した。この記録が残されていないことに憤りを感じて、東京大空襲の記録を集める活動を開始する。本書はたぶんその第一弾にあたる。係累をたどることで数十名の経験者に対談を申し入れたが、ほとんどの人に断られ、承諾した13人の証言を組み合わせて、3月10日の空襲の模様を再現する。

作戦はこうだ。おとりの2機のB29を東京上空に飛ばし、なにもしないまま房総半島を通して退避させることで、警戒を緩める。その直後に300機とも400機ともいえる大編隊で侵入する。まず、円形に空爆し炎の壁を作り、閉じ込められた人の逃げ場をなくす。そして円の内部を風上から順次、爆弾を落としていく。多くの人は窒息死、圧迫死、二酸化炭素や一酸化炭素の中毒、厳冬の川に逃げ込んだ末のショック死、溺死などを遂げる。たくさんの焼夷弾は人の体を炭化するほどの燃焼力を持っていた。この夜の死者は8万人にもなるという。本書には何枚かの写真が掲載されているが、それは当日および翌日にかけて撮影されたものだ。被害の大きさと悲惨さに目を背けたくなるが、見なければならない。

 

『日本語と日本文化 壺齋閑話』~「早乙女勝元『東京大空襲』より)

(前略)3月10日に東京を襲ったB29の数は、334機という説と279機という説があったりで、正確なことはわからない。落された爆弾と焼夷弾の量もしたがって正確には分からないようだ。米国戦略爆撃調査団の資料によれば、1667トン、これによって焼失した市街地の面積は15.8平方キロメートル、死者の数は83600人、負傷者の数は10万2000人、一日で失われた人間の数としては、戦闘行為も含めて世界戦争史上最大の規模になるという。

早乙女さんが日本政府のとった対応の中で最も許せないことは、この空襲の責任者だったルメイ将軍に対して、昭和39年に勲一等旭日大綬章を授与したことだ。ルメイは東京大空襲のみならず、広島、長崎に原爆を投下した直接の責任者でもある。こうした男に、何故当時の佐藤政権が最高の勲章を授与したのか、まったく理解に苦しむといって、早乙女さんは憤っておられる。日本人なら誰でも同感のはずだ。

神聖喜劇・第1巻、粗筋(未完)

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20140312 超人的な記憶力と論理的思考で、非人間的な旧日本軍組織に抵抗する兵士を描いた長編小説「神聖喜劇」で知られる作家の大西巨人(おおにし・きょじん/本名は、巨人を〈のりと〉と読む)さんが、亡くなったことを知って、この本の粗筋をまとめ中の原稿を投稿した。10ヶ月前に読み終えていたが、この本は粗筋をメモしておかないと後で困ることになりそうな予感がして、書きだしたものの、中途半端のままだ。この春から第2巻に取り組むつもりだったが、兎に角、作者は巨人さん、読み側はフラフラになってしまうのだ。2巻も多分1年間かけて読むことになるのだろう。

以下、未完ですが、弔意を込めて今朝投稿した。ご冥福をお祈り致します。

 

この本を読んでいて、なるほど、この本の題名が実に神聖的なる喜劇だと納得した。それにしても疲れた。中休みに、別の著者の本を数十冊読んで気分転換、そして今日20130531、やっとの思いで第1巻は読了した。

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朝鮮海峡に面した対馬に、24歳の主人公・東堂太郎が補充兵役入隊兵として教育を受けるべく、着任した。その教育に、手ぐすね引いて待ち受けていた堀江中尉(隊長)、大前田軍曹(班長)、神山上等兵たちとの騒動を主人公が語る形で話は進む。1941年1月から4月までの物語だ。当時、対馬は日本の第一の要塞だった。

大東亜戦争に突入した時にも、東堂はこの聖戦の本質を知りながら、「反戦平和のための積極的活動を行い得なかった」ことを屈辱と感じ、虚無主義者として軍隊の中で「一匹の犬」のように過ごそうと考えていた。

着任して早々、まだ軍隊生活の細かい決め事を教えられないうちに一つの事件が起こった。朝の呼集の時間を知らされていなかったので、のんびり洗顔をしてその呼集に遅れてしまった。遅れた数人を上官は叱責した。東堂と冬木以外は「忘れました」と答えたが、東堂は「知りません」と答えた。遅れた者たちは聞いていなかったので遅れたのに、忘れましたと答えた。東堂も忘れましたと答えれば、その場を穏便に済まされることは解っていたが、どうしても教えてもらっていないのだから、忘れましたとは言えず、知りませんと答えた。軍隊内では、何故、「知りません」が許されず、「忘れました」が強制されるのか、深く考えるようになった。「知りません」なら上官の責任が追及され、「忘れました」なら、悪いのが全て下級兵のみで上官には責任を求められることはない。

だが、冬木と東堂は、今回の此の件について、何故か「忘れました」の使用をとことんまで強圧せられることもなく見送られたのか、この段階では知り得なかった。

この「知りません」禁止、「忘れました」強制という無条件的な不条理に対して虚無主義者ないし「一匹の犬」らしからぬ疑問と興味を持った東堂は、いくつかの教範操典類を調べて、その根拠となるものを探し始める。

この教範操典類を調べているうちに、睾丸ハ左方ニ容ルルヲ可トスなども知る。

学生時代に特高の取り調べを受けた。驚異的な記憶力と暗記力を持つ東堂に、かって読んだことがある共産主義に関する禁書、非合法印刷物の名前や買ったもの、借りたものを、容赦なく尋問される。その特高に対しては、帝国主義勃発の前夜とその勃発後における、関係諸国の労働階級や社会主義諸政党の国会議員団の反戦任務を規定したテーゼについて、漠然とした記憶しかないと、嘘をついた。東堂は、一度読んだり聞いたことは、そらんじることができるほどだ。公然と売られている本を読んだか、読んでないか、何故そんなことが問題になるのだ。

教練教官から、大刀洗陸軍飛行隊見学での徒歩教練と銃訓練には、くたくたになるまで鍛えられるであろうが、「ただし、どうしても行きたくない者は」と言って、教官は、明確に参加しない者は教練の用意をして登校せよと、指示した。東堂と西条の二人は、別に申し合わせていた訳ではないが、翌日教練には参加しないで、学校には登校した。登校したのは二人だけだった。このことで、学校側と二人の間で強硬な談判がはじまった。ここで、悶着は、東堂は28回の欠席で西条は29日の欠席を既にしていて、飛行隊の見学に参加しなかった二人は欠席扱いになって、西条は欠席日数が30日に達したとして原級に留め置かれる。東堂に対しては、反学校当局的、反軍事教練的やり口を尚続けるならば、今期以降の教練成績が低い査定やその他の不利損失を被ることになるよ、と訓戒される。

一時代前に全国学生大衆を巻き込んだマルクス主義的、共産主義的焔の歴史は、昭和9年、16歳の高等学校生には、まだまだ真の理解に達していない未熟な東堂なのに、赤化学生だと追及され、「おれの単純素朴な行為は、そんな事々しい意義を持つことができるのか」と驚愕した。学校側はこれ以上、東堂にこの種の学問に傾倒していくならば、保証人である父親を召喚する必要があるだろうと迫るが、東堂には何も恐れるものはなかった。

 

大前田軍曹(班長)

神山上等兵

堀江中尉(隊長)

 

石橋二等兵が書いた手紙の内容は「毎日毎日三度三度大根のおかずばかり食べておりますので、大根中毒しそうです。このごろは戦友たちの顔まで大根のように見えてきました。よろしくお頼みします」だった。食事についての不服を隊外への通信に記したことが軍事機密や軍隊の内情を漏らしたことになると言って公的制裁、ビンタを受けた。

神山は、公的制裁という合成語を使った。教範操典類のどこにも、上官が下級兵に対して行う制裁のことには触れていないどころか、厳しく禁じられていた。まして、公的制裁?なんてあり得ない。

石橋二等兵に対する制裁が終わってひと通りの訓示をした後、神山は唐突に、冬木の名を呼んで、「そうだな、冬木。悪事を働いた人間は、何よりも自首するのが一番正しい。そうだな? 冬木」と言った、突然のこの発言は冬木に何を示唆し、何を求めているのか、理解できなかった。神山のそれからの「お前は、忘れたのか?」、「少なくとも後一年半?」。それから「どっちにしろあんな人間だし、、、」という侮辱。大前田の「お前がどげな人間か、班長は知らんと思うなよ、、、」という警句。巡察衛兵の「ふうん。お前が冬木か、、、」という感嘆。冬木自身の「ここにも世の中の何やかやがひっついて来とる、、、」という述懐。これらが、何を具体的に指示しているのか、この時点では、解らなかった。

事は、犯罪と刑罰とに関係しているのであろうか。秘密がありそうだ。あるいは冬木は刑余の人間ででもあるのか、不可解なことだった。

それにしても、どういう訳か、東堂並びに冬木が「忘れた」の使用をとことんまで強圧させられることがなく、見送られたのだろうか。何かが、班長以下に意図がありそうだ。

 荒巻jっk、橋本庄次二等兵は、堀江隊長に神山から大根のおかずの件を、軍事機密だと教えられたことを、暴露する。また、身上調査において橋本の義務教育を終了したのか、尋常高等小学校を終えたのか、いい加減に聞き取られていたことが判明した。そこで、再度、橋本は大根のおかずの件を隊長に、軍事機密だと教えられたことを告げた。隊長は神山を責め、上司である大前田も責めた。

そこからが面白い。堀江隊長は大根のおかずは軍事機密ではない。そのように言った神山、それを認めて訂正をしなかった大前田も悪いが、外部に漏らしてはならない防諜上の秘密を、軍事機密と言いそこねたのだと、神山を助けた。この似非(えせ)弁証法には、驚愕と嫌悪を覚えた。

 

そんなてん末の最中に、神山は上衣から取り出した手帳の1枚に何かを書きつけて、堀江隊長の後ろを通って大前田に手渡した。大前田は隊長に差し出した。何が書かれていたのか、物語の推移を待とう。

責任阻却(そきゃく)とは、違法行為者も特定事由の下では(その責任が阻却せられて)刑法的非難を加えられることがない、「責任なければ刑罰なし」、というような意味だ。ここで、「知りません」「忘れました」問題を再び訴求する。「忘れました」は、ひとえに下級者の非、下級者の責任であって、そこには上級者の下級者にたいする責任(上級者の非)は出て来ないのである。言い換えれば、それは上級者は下級者の責任をほしいままに追求することができる。しかし下級者は上級者の責任を微塵も問うことができない。これが、「知りません」禁止、「忘れました」強制の慣習に繋がっているのではないか。

そして、この責任阻却の論理を、上へ上への追跡があげくの果てに行き当たるのは、天皇だった。統帥大権者が完全無際限に責任を阻却されている以上、ここで責任は雲散霧消し、その所在は永遠に突き止められない。

軍隊は人外の境地。

軍隊はひとえに理窟不要、問答無用、蒙昧無法の非論理的特殊地帯。

「典範令」、特に『軍隊内務書』、『内務規定』、『陸軍礼式令』などの勉強に積極的に取り付いたのは、直接には「知りません」禁止、「忘れました」強制なる不条理の正体を突き止めるためだった。

 

軍隊内においては、軍隊には軍隊の字の読み方がある、と言って憚(はばか)らない。真諦(しんたい)→シンテイ、弛緩(しかん)→チカン、捏造(でつぞう)→ネツゾウ、直截(ちょくせつ)→チョクサイ、消耗(しょうこう)→ショウモウ、

「軍隊の読み方」などは成立しない、そんな不条理はあり得ないと考えた東堂は、「軍隊内務書」の中に一般「社会道義」と東堂の「個人の操守」とは、軍隊でも完全に保守されなければならない、ことを明確に指示する準則を見つけた。

弛張(しちょう)を軍隊ではチチョウと読むのじゃ、と断言する堀江隊長に対して「地方も軍隊も字の読み方は同一でなければならない、と白井少尉に具申しておきました。堀江隊長にも意見を具申し、、、。」と話した時、堀江隊長は「待て、横着者が。『白井少尉』とは何か」と、二等兵の分際で、将校を呼び捨てにしよって、『白井少尉殿』となぜ言わぬ」と責められたが、「軍隊内務書」の「敬称及称号」によって、隊長殿は白石少尉の上級者でありますから、ただいまの東堂は隊長殿の下級者たる白石少尉に敬称を略しました」

1巻はもう少しで終わりだーーーーーー!!!1

2014年3月10日月曜日

沙羅、愛子お姉さんに習おう

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20140213 朝日・五輪

決勝2回目のジャンプを終えた高梨沙羅=飯塚晋一撮影

 

今月の8日、スキージャンプ W杯オスロで、個人第16戦が行われ、既に個人総合2連覇を決めている高梨沙羅(17)が、初の5連勝をマーク、今季13勝目、通算22勝目を挙げた。1回目は最長不倒の132メートル、2回目は128.5メートルを飛び合計257.6点で圧勝した。

今シーズン、W杯シリーズでは、落ち着いて勝ち続けてきた。小さな沙羅ちゃんに王者の風格さえ感じられる。それでも、先月のソチ五輪では、優勝候補の最有力にあげられながら、初の五輪出場、平常心で飛ぼうとしたのだろうが、オリンピックに棲む魔物って奴か、重圧に苦しんみ、無念の4位で終わった。気まぐれな風にも影響を受けた。

今大会で女子ジャンプは初めて行われた種目だ。

ラジオで、スポーツ写真家が、飛び出し台にいる沙羅ちゃんが緊張でガチガチ、いつもの高梨選手ではありませんでしたと話していた。

ソチ五輪で4位入賞が決まった直後の記者のインタービューに、「支えてくれた人たちに感謝の気持ちを伝えるためにこの場所にきたので、いいところを見せられなかったのがとても残念、ここ(オリンピックの場)に再び戻ってきて、その時には、いい結果を出したい」と訥々と話していた。この敗戦の悔しさこそ明日への苦い良薬になるだろう。

テレビの前の私は、「沙羅ちゃん、ヨッシャ」と声をかけた。いいんだヨ、現実をしっかり認識することダ、若いんだからサア、これからヤ、と既に次のステージでの活躍に期待していた。私の方が立ち直りは早かった。

沙羅ちゃんは次に向かって往(い)く。そして、果敢に戦っている。平常心を取り戻したのだろう、現在、W杯の転戦では勝ち続けている。

悔し涙を浮かべる沙羅ちゃんを見ていて、頭の隅っこに、開幕一番目に登場したモーグル女子の上村愛子(34)選手のことが過(よぎ)った。テレビに映る沙羅ちゃんに向って、あの上村の愛子姉さんのアスリートとしての気骨を学べ、と叫んでいた

上村選手は、18歳で初出場した98年長野五輪で7位、以後大会ごとに6位、5位、4位と順位を上げて5大会目を迎えていた。今度のソチでは、優勝候補の筆頭、本気でメダルを取ると意気込んでいた。06年トリノ大会では「そろそろ(メダルを)もらえると思っていたのに」と目を腫らし、10年バンクーバー大会では「なんで一段一段なんだろう」と涙した。そして、結果は4位入賞に終わったが、彼女の表情はすがすがしかった。

かって、現役時代には女姿三四郎と言われた筑波大大学院准教授の山口香さんが、20140218の日経新聞に寄稿していた。その一部が、私が応援団長を務める沙羅ちゃんを激励するにふさわしい文章だったので、そのままここに転記させてもらった。

海外の選手はW杯を生活のために戦うが、五輪は人生を懸けて戦うと。今回、W杯では未勝利で金メダルを勝ち取ったドイツのフォクト選手らは人生を懸けた一発勝負に出たわけだ。ちょうど上村選手が競技人生の集大成として、絶対に逃げずに滑りきるんだという決意で攻めたように。

上村選手が示したのはメダルだけではないスポーツの価値。あれだけ重圧がかかる戦いを終えて「すがすがしい気持ち」になれる選手がどれだけいるだろうか。よく聞く「自分のベストが出せればいい」という言葉も、本当にそう思えるのは最善を尽くした人間だけ。努力は結果を保証してくれないが、「これが自分のベストだ」と言い切れるよりどころになる。

自らの限界に近づくには上村選手のような鬼気迫るものも必要。4年後、最高の飛躍を見せてやると目の色を変えた高梨沙羅選手を見たい。

2014年3月8日土曜日

まど・みちをさん

今月28日、まど・みちをさんが老衰のために、都内の病院で亡くなられた。104歳だった。お悔やみ申し上げます。童謡「ぞうさん」や「やぎさん ゆうびん」、「一ねんせいになったら」などで知られ、優しい言葉で、ユーモアたっぷりに、又、命の大切さを歌いあげた。

ぞうさんも、一ねんせいも、口癖のように日ごろ、歌っているのに、この詩を綴った張の本人がこのまど・みちをさんだったことなど知らなかった。幾人かの詩人の詩集をもらったり、買ったりして、詩に触れることはままあるのに、ナンチュウコッチャサンタルチア、まど・みちをさんの名前すら知らなかった。

友人にそんなことを話すと、半ば呆れ顔で、ひぇ~と言われてしまった。

まど・みちをさんの死亡に際して、氏を紹介している新聞記事を読んで興味を持った、と書くと、氏をよく知る人の間からは、今さらとあきれられ、シラケ鳥が飛ぶようだ。でも、私のことは心配しないでください、知らないものは、知らないのであって、これからでも遅くない、追っかけで、氏の作品を味わいたい。今まで、私はこのようにして、遅れ遅れで学習しながら生きてきたのだ。

 

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朝日 100歳を前にしたまど・みちをさん=2009年、東京都稲城市

 

新聞記事をマイファイルさせてもらった。

20140301

朝日・天声人語

「トンチンカン夫婦」という作品が愉快だ。91歳の夫は靴下を片足に2枚を重ねてはき、もう片方がないと騒ぐ。84歳の妻は米の入っていない炊飯器にスイッチを入れる。〈おかげでさくばくたる老夫婦の暮らしに/笑いはたえずこれぞ天の恵みと〉。

「おならは えらい」にもくすっとさせられる。なぜ偉いかというと〈でてきた とき/きちんと/あいさつ する〉からである。しかも〈せかいじゅうの/どこの だれにでも/わかる ことばでーー〉やさしさとユーモアに満ちた詩をたくさん残して、まど・みちをさんが亡くなった。享年104歳。童謡の「やぎさん ゆうびん」をはじめ、ひらがなばかりで書かれた多くの作品は、見た目を裏切る深みをたたえていた。

小さなものに慈しみの目を向けた。蚊や毛虫、ビーズ、あかちゃん。それが、宇宙の無限や太古の悠久につながっているところに真骨頂があった。〈ああ/ほしが/カと まぎれるほどの/こんなに とおい ところで/わたしたちは いきている〉。

「戦争協力詩」を書いたことがある。後に編んだ『全詩集』に、それをあえて収めた。懺悔も謝罪も手遅れと思いつつ、当時の心情を誠実に分析し、あとがきに代えた。

『人生処方詩集』で見られる自筆原稿は、なんとも天衣無縫だ。〈たのしみは? ークーテネール〉と始まり、〈すきなさくは? ーオナラハエライ〉と続き、〈まだかくき? -シンダラヤメール〉とくる。いま宇宙のどのあたりだろうか。

 

 

20140229

朝日・朝刊/評伝

まっすぐ届いた言葉  

広い世代に勇気

 

日本人の心のふるさとといえる多くの詩と童謡を生みだした詩人のまど・みつをさんが2月28日亡くなった。100歳を超えても詩を書き、やさしく深い言葉で森羅万象を歌いあげた。

ぞうさん

ぞうさん

おはながながいのね

そうよ

かあさんもながいのよ

戦後を代表する童謡「ぞうさん」を書いたのは1951年。作品を頼まれ、一気に6編書いた。その1編が「ぞうさん」だった。作曲家の故団伊玖磨が曲をつけ、ラジオで放送された。

聴くたびに、詩人谷川俊太郎さんのまどか評を思いだす。「こんなにやさしい言葉で、こんなに少ない言葉でこんなに深いことを書く詩人は、世界で、まどさんただ一人だ」。

「ぞうさん」については、まどさんは「ほかの動物と違っていても、自分が自分であることはすばらしいと象はかねがね思っている」と語っていた。自分が自分に生まれたことはすばらしいーーーこのテーマの作品がまどさんには多い。冬眠から覚めた熊が川面に映る顔を見て、「そうだ、ぼくは くまだった/よかったな」と思う「くまさん」もある。こんなものの考え方に、どれほど多くの人が勇気づけられたことだろう。

熱烈なフアンの間では、純粋無垢の詩人として、いわば神格化する動きさえあった。しかし素顔は普通のおじいちゃんだった。夫婦げんかもすれば、人の悪口だって言った。

戦時中に戦意高揚のために書いた戦争詩に晩年苦しんだ。書いたことも忘れていた「はるかな こだま」など2編を91年に見たときは、衝撃を受けていた。

翌年には「私はもともと無知でぐうたらで、時流に流されやすい弱い人間」と自己批判し、読者に謝罪した。05年に会ったとき、突然、「私は臆病な人間。また戦争が起こったら同じ失敗を繰り返す気がする。弱い人間だという目で自分を見ていた」と語り始め、驚かされた。戦争責任はこれほど正面から向き合った文学者はまれだ。

みずみずしい想像力は晩年まで衰えなかった。まどさんは、現在詩とか童謡とか、世間の分類にとらわれることなく、だれの心にもまっすぐ届く言葉で詩を書き、詩をみんなにものにした。こんな詩人はいない。

(著・白石明彦)

 

まどさんは、100歳の誕生日を控えた2009年11月、「なんか新しいことができるんじゃないかと、いつも必ずそれを思っている」と語っていた。08年の年末に腰を痛めて入院、09年春に介護付病院に転院してからは、居室の大き目の机で、日記や抽象画を描いた。

11年8月出版の「絵をかいていちんち まど・みちを 100歳の画集」には、50代に集中して描いた抽象画35点に加え、99歳から再び描き始めた抽象画170点も掲載された。編集した松田素子さんは「100歳を過ぎても、『びっくりしたな』 『しらんかったなあ』 『ありがたいなあ』が口ぐせだった。小さなものの中にある宇宙を、いつも初々しい目で見ておられた」としのぶ。

30年のつき合いがあった編集者・市河紀子さんは、「やさしい、温かな方だったけれど、厳しさも持ち合わせていた」と振り返る。1992年に、「まど・みちを全詩集」を出版した後も、校正を繰り返し、妥協しない姿勢を見せていた。

(著・佐々波幸子)

2014年3月7日金曜日

ヘイトスピーチと「アンネの日記」

 

新聞記事で、「コリアンタウン」と呼ばれる東京都新宿区の大久保とその周辺地域の約50箇所で、在日韓国・朝鮮人に対する差別蔑視言葉の落書きを消す作業を、今月の2日、市民グループが行ったことを知った。

その落書きは、商店街の看板や住宅の壁、工事現場の塀、JRの高架下などに書かれた「コリアン日本に来るな」 「非劣なバカ」 「帰れ」といった文言やナチス・ドイツの「かぎ十字」などだ。

今回の活動の中心になった市民グループは、ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)のデモに反対する「のりこえねっと」で、ツイッターで「差別落書きを許さない姿勢をしめそう」と呼びかけた。デモの際には、彼らは体を張って阻止を試みた。デモは容易になくなりそうもなく、今でも各地に拡散、散発的に行われている。

無念だ、と諦めていないのがこのグループ、今回の活動は、差別蔑視言葉で書かれた落書きを消すことだった。見れば嫌な気分になり、読めば神経がささくれだってくる。呼びかけに賛同した人たちが、首都圏や東海地方から約50人駆けつけ、雑巾やスポンジで消して歩いた。エライなあ、と感心させられた。

しばらく、この手のデモが鳴りを潜めていると思っていたら、今度は新種の蔑視モンだ。「アンネの日記」と関連本が、東京や横浜の図書館で300冊以上が破られるという卑劣な事件が起こった。まさか、大久保でのヘイトスピーチ・デモの一味の犯行かと、、、、想像してみたが、そんなことはないだろう、と打ち消してみたものの、すっきりしない。

大久保では、他の国や民族のことを差別蔑視言葉で表現し、「アンネの日記」や関連本からは、ナチス・ドイツの行為を表現から抹殺しようとしている。「アンネの日記」といえばナチス・ドイツによるユダヤ迫害の悲劇を象徴する本だ。当然、杉原千畝氏に関する本も含まれている。

 

20140228の朝日新聞・社会面の記事をここに転記させていただく。

自著「母と子でみるアンネ・フランク」が破られた早乙女勝元さんは「人間とは何か、が詰まっているのが本。それを切り裂くのは歴史を知らず、想像力を欠いた人だ。ナチスは焚書(ふんしょ)した末に人間をガス室で殺し、焼いた。本の次は人間を切り裂くことにならないか」と心配した。

高千穂大学の五野井郁夫准教授=首相の靖国参拝が一定の支持を集めるような社会の右傾化が背景にあるのではないか。歴史や領土の問題では中国や韓国に日本がおとしめられたと感じ、戦後の歴史観を否定しようとする人もいる。ネット上ではそうした意見が広がっており、戦勝国側の価値観を全て否定しようという意見さえ出始めている。その延長線上で、敗戦国が反省すべき象徴ともいえるホロコーストに関する本が狙われたのではないか。「ユダヤ人虐殺がうそならば、南京事件や慰安婦問題だって全否定でき、日本は悪くないと主張できる」というゆがんだ発想かもしれない。様々な意見はあるだろうが、史実に基づいて議論していくのが開かれた社会だ。

 

アンネ・フランク

第2次世界大戦下でドイツ・ナチスの迫害を逃れ、家族とともにオランダに移住したユダヤ人少女。13歳からの2年間の隠れ家生活で感じた恐怖や悲しみ、希望を日記に綴った。その後、アンネはナチスに捕まり、15歳で収容所で亡くなった。戦後、生き延びた父親が編集した「アンネの日記」は世界的ベストセラーとなり、2009年に世界記憶遺産に登録されている。

2014年2月26日水曜日

森さんは、後悔していますよ

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以前、この私のブログ=「メダル、メダルと言いなさんな」で、ソチ五輪に出場するアスリートの崇高な挑戦を前に、どうか馬鹿かアホな観衆にはならないでください、と訴えた。開会式のバッハ会長の開会の辞に感動し、今の日本の、メダル、メダルとテレビ番組ではしゃぐ野郎に警告したのだ。

危惧したとおり、案の定、その大馬鹿者がやっぱり現れた。その馬鹿者とは、何と、あろうことか、2020年に東京で開催が決まった五輪とパラリンピック組織委員会の会長に就任したばかりの森喜朗元首相のことだ。

バッハ会長はこのソチ大会の開会の式辞のなかで、世界の政治指導者に、スポーツは、国別の対抗ではないと申し上げます。国民のアスリートを支援してくださっていることに感謝します。かれらは国の最高の選手たちです。敬意、寛容、卓越、平和という選手たちのオリンピックメッセージを尊重してください、と述べた。

我が国の元首相でもあった馬鹿・森は、スポーツの本質のほんの一部も理解できない男だ。

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20140220 朝日・社会

SP当日練習で左手を差し伸べる浅田真央選手=山本裕之撮影

中盤のステップで、浅田は切なさそうに遠くを見つめる。一度視線を切ってから、今度は天(亡くなった母)に届けと、左手を上に向って伸ばす。

 

以下は、馬鹿・森の発言を記事にしたものだ。20140221の朝日・朝刊の社会面の記事をそのまま引用させてもらった

2020年の東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森善朗元首相が20日に、福岡市での講演会でフイギュアスケート女子の浅田真央選手のショートプログラムでの演技について

「頑張れと思って見てたら、見事にひっくり返ってしまった。あの子、大事な時には必ず転ぶんですよね。何でなんだろうな」と述べた。

また、団体で日本が5位になったことについても「あれは出なければよかった。浅田さんが3回転半をすれば、ひょっとしたら3位になるかもしれないという気持ちで浅田さんを出したが、見事にひっくり返った」とも述べた。

さらに「団体戦も惨敗を喫し、その傷が浅田さんに残っていたら、ものすごくかわいそうな話だ。負けるとわかっている団体戦に浅田さんを出して恥をかかせることはなかった」とも語った。

 

確かに、この馬鹿・森の発言通り、浅田真央選手(23)はショートプログラム(SP)で、冒頭のトリプルアクセル(3回転半)ジャンプで転倒、残りのジャンプでも精彩を欠いた。散散(さんざん)、まさかの16位。浅田選手を応援している人々の間からどよめきが起こった。

でも、この時のどよめきって奴は、決して失望ではなかった。この口軽で馬鹿な森には解らないだろうが、真央ちゃん、大丈夫、前を向いて頑張って、と激励のどよめきだったのだ。

SPが終わった夜、浅田選手に佐藤信夫コーチの叱咤激励の雷が落ちた。そして、翌日のフリー当日の練習でもやはりジャンプ練習はさえなかった。その間にも、佐藤コーチからは厳しい言葉で励まされた。表情はさえないとテレビは報道していた、が、そんなことはない、そんなことはない、と私は念じた。

そして、やっぱり、さすが浅田選手、馬鹿・森発言の翌日、日本時間21日の未明、失意のどん底から立ち直って最高の演技を見せた。見せてくれた。見事だった。テレビの前で、涙、涙。パジャマの袖が涙でぐじゃぐじゃ。サッカーのゴールした時のように大声を出したかったが、そうもいかず、ただただ、涙を流した。よかった、よかった。馬鹿・森の馬鹿ぶりを見事に証明して見せた。

曲は、ロシアのロマン派音楽を代表する曲の一つ、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、あらゆる時代にも最も人気のある協奏曲だ。トリプルアクセルを綺麗に決めて、後のジャンプもきっちり、全6種類計8度の3回転ジャンプを華麗に跳び、142.71点と自己ベストを更新した。完璧な演技で、10人抜きで6位に入賞した。トリプルアクセルは、前回のバンクーバー五輪では計3回成功しており、2大会連続の成功は女子では初めての快挙だ。

演技の中ほどから、場内には観衆の手拍子が起こった。この手拍子の音源にしても音量にしても日本人の応援団だけではないなあ、と思った。会場の多くの人たちが、浅田選手の氷上の舞に魅了されるがままに、手を打っていた。ロシア人は、当然地元の選手を熱烈に応援しますが、他国の選手と言えども、いいものには徹底的に、賛辞を贈るんですよ、と外務省の元官僚がラジオで話していた。

メダルには届かなかったが、それはたいした問題ではない。あきらめない心、可能性に挑む勇気の大切さを、この大健闘は教えてくれたのだ=20140222 日経 春秋より。

世界のスケーターが真央ちゃんに賛辞を贈った。その内容を20140222の日経新聞で見つけたので下にその記事を転記させてもらった。

フィギュアの「皇帝」と呼ばれ、ソチでも団体で金メダルを獲得したロシアのエフゲニー・プルシェンコ選手は、浅田選手がフリーで成功させたトリプルアクセルを賞賛し、「真の戦士」と投稿した。

長野五輪で銀メダルに輝いた米国のミシェル・クワンさんはSP後「悲痛」と顔文字付きで書き込んだが、20日の会心の演技後は「永遠に忘れられないパフォーマンス」と喜んだ。

ソルトレークシテイー五輪王者のロシアのアレクセイ・ヤグディさんも「泣きたくなるほど素晴らしい」とたたえた。

五輪で2回銀メダルを獲得したカナダのエルビス・ストイコさんは、メダリスト3人にひと言づつ触れながら「私にとって今夜の主役は浅田真央だ」と記した。

 

25日、帰国後の記者会見で、浅田選手は馬鹿・森発言について、「私は別になんとも思っていないですけど、森さんが今、少し後悔しているのではないかと思います」。会場は爆笑に包まれたそうだ。

2014年2月23日日曜日

大雪小景、喜怒哀楽、、、

今月の15、16日、関東甲信と東北にかけて大雪に見舞われた。

フイリッピン人の私の友人は、最初は冷たいとか、寒いとか、体だけではなく頭脳までも萎縮していたが、慣れに従って元気に私のパートナーとして除雪作業に精を出してくれた。この雪が年に一度か二度の天の神様の余興かと受け流せば、この能天気、馬鹿者め、と叱られそう?

記録的な大雪に、生活にも仕事にも大変な被害を被ったが、尻込みして、嫌だ嫌だと、文句ばかり言って居ては始まらない。スタッフが自動車のタイヤにチェーンを取り付けてくれた。尻を押すように、どうぞ、頑張って物件の周りの除雪をやって来てください、激励と共に見送られた。どうせやるなら、楽しく取り組むしかないではないか。

今回の降雪で、嫌なことばかりではなかったことを、この数日で知った。行き交わせない狭い通路で、向こうから来るお年寄りや女性や子どもたちに、すれ違うずうっと前に通路を外れて相手に譲る、その時に、相手は有難うとかすみませんとか声を掛けてくれるのだが、こんなことは、雪があってこそのことだ。往路で声を掛け合うのは、山ではよくあっても、普段街中では見掛けることはない。

物件の周りの除雪作業においても、近所の人たちとはよく声を掛け合った。誰もが等しい状態に追い込まれ、その対策においても等しく応じなければならない。言わば我々には、同好の士か好(よしみ)か? 親近感がお互いの気持の中に生まれたのだろう? にこやかに会話ができた。

それでも、なかには相手のことを考えない、ちゃっかりした暴君がいた。余りにも降った雪が大量だったので、家の前面道路の雪の持って行き場所に誰もが苦心していた。駐車場も除雪しないと、車の出し入れができない。道路の向かい側や隣地が空地の場合は、その周辺に置かせてもらうことができた。ところが、ある空家の前には、大量の雪が彼方(あっち)此方(こっち)から持ち込まれ、駐車場はおろか玄関前にも高く積み上げられ、家の敷地内に入ることさえできない、そのような光景が見られた。これって、空家の持ち主が見たらどう思うだろうか、近所には失礼な奴がいるもんだ、と怒るだろう。雪を持ち込んだ人は、どのように考えたのだろう、か。

そんな嫌なことも遭ったが、流石(さすが)、お・も・て・な・しの国、日本らしい良い話も耳に入ったので、ここに、書き留めておきたいと思った。滝川クリステルさんが述べたおもてなしの心とちょっと趣は異なるが、大雪の中に、素の心遣い気遣いがあった。

心温まる小話だ。

その1は、大雪で閉された中央道の談合坂SAでのこと、ヤマザキ製パンの配送車が同じように動かなくなったトラックの運転手たちに積荷のパンを配った。他の運転手たちも手伝った。もらった運ちゃんは、これからはヤマザキのパンしか食わねえ、と感激したとか。スタバや蕎麦瓦屋からも食料を無料で提供した、とネットで知った。

その2は、東京電力福島第1原発事故で避難、仮設住宅に住むおじいちゃんやおばあちゃんが、福島市の国道で立ち往生した車の中の飲まず食わずの運転手たちに、お握りを差し出した。コシヒカリを集会所で炊き出し、海苔と梅干しを各自持ち寄った。20人ほどで、300個を握った。16日昼、糖尿病の影響で頭がぼーっとしていたら、窓をノックする音で気が付くと「おにぎり食べて」と差し出された、と感謝を述べている。

その3は、数百台が立ち往生した青森県横浜町の国道279号だ。運転手たちは、国道沿いの小学校や集会所などに避難し 一夜を過ごした。集会所には近所の人から差し入れのおにぎりや味噌汁などが届いたという。
集会所では石油ストーブをつけ、座布団を用意した。地元の消防団がカップ麺を渡すと、 「温まる」「ありがたい」と大事そうに受け取った。

上の2と3のようなことは他の場所でも行われた。又、ボランティアが出動してお年寄りの住む家屋の屋根の雪下ろしや、移動のための通路を確保する作業にも参加した。

 娘婿が3年前に新築した住宅の屋根には、沢山の雪の滑り止めを装着したのだが、それでも「お父さん、雪止め、大丈夫でしょうね」と気にかけて電話してきた。近所に迷惑を掛けてはならないと思っての質問だった。

そんなこんなで、雪がもたらす災厄を凌ぐことでさえ、心が温かくなる作業に転化してしまう、お見事です。

やさしい人たちに、乾杯!!