2016年6月20日月曜日

悪霊の午後

悪霊の午後


悪霊の午後=遠藤周作


この本のことを、遠藤周作氏の「魔性の女シリーズ」の一つだ、と友人から聞いていた。
それとも、簡単に言えば。
魔性の作家による魔性的小説と思いこめば、いいのか。

この本を読む前から、遠藤周作氏の本が好き?でもなく、気がかりに?でもなく、頭の中に残って忘れられない-----シコリものだ。
読者に、シコリものを残す性根の強い作家だ。

「悪霊の午後」。
この作家が書いたものだから、まずは読み出した。
ちょっとでも、全部でも、、、、、読まないと話は始まらない。
小説とは、そういうものだ。

ヤマオカは、古本でも新刊でも、私の心はどうにも治まらない。
読まないわけには、いかない。
悪名とは何だ? 午後とは何だ?
題名からの妄想も、次から次に浮かぶ。

※この小説の読後感想を、ネットで得た内容を元に書いた。
書き始めると、どうしても山岡が自ら書いたようにように思われるかもしれない。
が、再度、繰り返しますが、ネットで得た文章に私が乗っかったようになってしまった。
そのことを、冒頭で述べるべきだった。

美しい女性があらわれてきた。
この女性が、マ・セ・イ的な小説の張本人か?
本の題名の「悪霊」とは、この女性のことだ、と直感した。
ここで、心がワクワクし出した。

この女性は、作家の藤綱の秘書として仕事を始めるのだが、この美女には、どうも恐るべきトゲがある。
彼女に取り掛かる人々は異常な心理や何かにのりうつられたりするのだ。
この美女こそ、有刺鉄線だ?

最初の奇っ怪なことは、この美女の夫の交通事故死だ。
自分に厳しく、規律を重んじる有名作家の藤綱を中心として話は進む。
大学で講師をしていた時の教え子が、自動車単独事故で死亡した。
死亡したのは、南条。
これが、この本の最初の奇っ怪な出来事の始まりだ。
不可解な事故だ。
この事故の原因に、妻も何らかのことにかかわっていたのではないか、と思う人も現れる。

そこに、教え子の妻であった美しい女、これがどうも魔性的、、、、、が浮上してくる。
この妻は、美人で、夫の見知らぬ交通事故にもかかわらず、恰も何もなかったように生活していた。

話はこれからだ。
南条の大学時代からの友人として、菊池は怪しい行動をなす。
菊池はサラリーマンとしては、ちょっと恐ろしい行動をおこすタイプである。
その菊池が、身のうえの事情にかかわらず、南条の妻に密かな恋心を持ちはじめる。

藤綱は、そんな菊池の強引な勧めで、彼女を秘書に迎えた。
ところが、藤綱は、仕事以外の部分で、秘書のプライベートな動作に不審な一面を見てしまう。
南条が交通事故で亡くなって、まだ多くの日が過ぎ去ったわけでもないのに、自宅ではないマンションに男と連れ立って入っていた。
このマンションで行われていることが、どうにも不思議感が抜けない。
藤綱も、この美女に関係する人たちと同じように、何かを感じた。
理解できない不思議さだ。

それ以来、元秘書の美女の周辺で可笑しな出来事が絶えない。
実に、魔性なのだ。

次のようなことが、何故?起こり得るの?-----どうしてなの?

・過去のことを、実にあったかのようにあばく。
・美女に関係した者たちは、美女の夫の死を疑わしいと思いだした。
・画廊に今まで働いていた人が、美女と接した後、万引きに手を染めて堕ちていく。
・美女が就職した画廊では、今まで画廊で働いていた人が、何故か首になった。
・有名な画伯が、マンション内で、赤子の真似ごとをしていたらしい。
・この画伯の、気が狂ったような行為が、過ぎる。

美人を追っていた菊池は、前記の異常な現象に引き込まれ、この術中にはめられていく。

ここで、もう一つの大事件が起こる。
菊池は自らも抑えきれず、美女から自殺願望について告げられ、もはやその呪縛から逃れられない窮地に追い込まれる。

何故だ?
それだけではない。
南条は、精神的に悩みぬいたあげく、結果、美女の友人を扼殺することになってなってしまう。

肝心要の藤綱も、この美女から悪魔の象徴に追いかけられ、精神病に駆り立てられていく。
精神科の治療を受けつつも、病院の屋上から自殺するまで、弱っていた。
でも、何とか自殺を止められたのは、彼の女房の献身だった。

人の心の奥底に抑圧されている願望の栓が開かれるとき、人は滅亡に向かっていく。





2016年6月10日金曜日

日本で一番美しい花は?

日本で一番美しい花は?

★年の瀬までに、これから咲く花のなかで、日本で一番美しい花は蓮(ハス)だと言う人がいる。

私は、祖母が育てていたダリアとか百日草、向日葵(ひまわり)が気に入っていた。
祖母や母がやっていたモノこそ最高のモノと思い込んでいる。
でも、そんな影は、田舎を後にして45年も経てば、すっかり薄れてしまったようだ。

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★雨の日の休日。
高次脳機能障害で、怪しげに固まってしまった脳を、少しは緩めたくて、一体、日本人はどのような花が一番美しい、と思っているのだろうか、と考え出した。
頭に、新鮮な血を巡らせたかった。

私の脳は傷ついたままだが、美しいものを観て蘇りたい。
でも、今日は、脳の怪我については語らない。
休日を、少しでも愉しいものにしたい。

桜なのかツツジなのか、それとも吃驚するほど思わぬ花を告げる人が現れたら、エエのに。
それほど、私の頭はコチコチ!
いわゆる感性が薄まってしまった。

気分を好くする色や香り、見た目が格好いい花を、見つけ出せない。

そんなコチコチ頭だけれど、蓮(ハス)のことを浮かべた。

蓮のことを皆はどう感じているのだろうか? 脳足(ノー・タ)リんの私には、これこそが重要なことだった。

蓮の花は朝に咲いて、夕方に蕾に戻るようだ。
何故だ?
不思議な花だ。

綺麗な水でも、蓮は花を咲かせることはできるが、大きな花を咲かそうとするのであれば、泥水が必要になるそうだ。
何故だ?
これは、第二の不思議だ。

鶴岡八幡宮源平池のハス


Hachimanguhasu1407252


★実は今回のブログで本当に言いたかったのは、日本で一番美しい花が何なのか?ではなく、私自身に、それを判断できるだけの感性が弱っていることだった。

嘆かわしい、私の感性不足が、何よりも何よりも貧困なのだ。


★ 以下の文章と写真は、ネットのものをそのまま引用させていただいた。

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮


源氏池

源氏池


平家池

平家池

★鎌倉八幡宮の正面の両側に広がり、かっては東の源氏池に三つの島が、西の平家池に四つの島が配されていた。
三は「産」で源氏の繁栄を、四は「死」で平家の滅亡を祈願したためと伝われている。


★鎌倉のハスは、鶴岡八幡宮の源平池で咲くハスと、大賀博士が発見した大賀ハスが咲く、材木座にある光明寺が名所です。

開花時期はハスの花の種類や咲く場所、気候の状況によって違いがあるが、大体、7月から8月です。

かっては、「源氏の白旗」と「平家の赤旗」にちなんで、源氏池には「白ハス」が、平家池には「紅ハス」が植えられていたといいますが、現在は紅白咲き乱れている。






2016年6月3日金曜日

陀羅尼助(だらにすけ)って、日本最古の胃腸薬

「陀羅尼助って、日本最古の胃腸薬」 
「腹によし 歴史が支える胃腸薬」



約300年前から「陀羅尼助」を製造、販売している藤井利三郎薬坊。
昔ながらの看板が目立つ=奈良県吉野町


上のタイトルで、20160531の朝日新聞の夕刊に特集されていた。
目を牙(きば)、脳を鱗(うろこ)にして読んだ。

この記事を捨てるわけにはイカナイと、観念した。
この体(てい)の材料に、田舎を去ってから、極めて興味が深いのだ。

私にだって、センブリ(千振)を煎じたものを飲まされたことはある。
お腹が痛くなったり、頭痛を起こした際に祖母が用意してくれた。

センブリは「リンドウ科センブリ属」の二年草。
薬草として利用され、生薬及び当薬といわれていた。

記事には「ダラニスケ」とあるが、日常的には「ダラスケ」と呼ばれていた。
昨年から同居をはじめた義祖母(妻の母)は、幼少の頃から、この薬のことをよ~く知っていた、そうだ。

ニュースの所在が、大峰山の麓、奈良市となれば、関心が深まるのはしょうがない。

私は、くたばっても京都府の出だ。
奈良市はお隣だ。

★ ネットで、藤井利三郎薬房の
陀羅尼助の成分として、次のようなことが書いてあるのを発見して、それも付け加える。

①オウバク(キハダ)
オウバクはベルベリンを主成分とする生薬で、抗炎作用があり、漢方では健胃、消炎、消化不良などに用いられる。

②センブリ
我が国の民間薬として古来より、苦味性の健胃消化剤として、胃弱、胃部・腹部膨満感、胃のむかづきなどに用いられる。

③ゲンチアナ
ヨーロッパでも古くから薬効が認められた生薬で、強い苦味が胃液の分泌を促し、食欲不振、消化不良に効果がある。

④延命草
古くから苦味、健胃薬として民間薬に配合され、消化不良、食欲不振などに用いられる。

⑤ゲンノショウコ
日本で古くから建胃、整腸薬として民間療法に用いられ、慢性の胃腸病、胃弱などに効果がある。

⑥その他
ニンジンやケイヒなども、胃弱対策用に含まれている。


★ 私のブログに、新聞記事そのままを転載しておこう。
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胃腸薬に使う金額が、全国の県庁所在地と政令指定市の中で一番多いのが奈良市だ。

総務省の昨年の調査では、2人以上の世帯で1年あたり1919円を使う。
なぜ多いのか。
「なかなか難しいですがーーー」

奈良県薬務課の中村正主幹(54)が悩みながら答えてくれた。
「配置薬制度も関係があるかもしれませんね」。
 
つまりは「置き薬」。
県によると、江戸時代中期に「大和の名薬」が有名になり、幕末の頃には全国に行商圏を広げていったという。
 
1960年代半ばごろまで、県出身の配置員が4千人以上いて、全国を回っていた。 
「以前は奈良のどこの家にも置き薬ありました」

「大和の名薬」の一つが、約1300年前に奈良で生まれた日本最古の胃腸薬といわれる「陀羅尼助(だらにすけ)」。

奈良では「抜群の知名度」だと中村さん。
「ちょっと具合悪いと、とりあえずこれを飲んどけって言われ、小さい頃からよう飲みましたわ」

サクラで有名な同県吉野町に「陀羅尼助」を製造、販売している「藤井利三郎薬房」がある。
創業は約300年前。

品質管理責任者の柏田信二さん(58)は「何代にもわたる常連さんもおられます」。

陀羅尼助の成分は、キハダのほかセンブリ、エンメイソウなどいずれも健胃作用のある薬草だ。

店に残る江戸時代とみられる資料には、頭痛、やけど、きりきずなどにも効くとある。
 
「お酒の前に飲むと悪酔いしません。私が実証済み」と笑う。

日本書紀には611年、推古天皇が今の奈良県宇陀地方で薬狩りをしたという記述があるなど、県内では、ヤマトトウキ ヤマトシャクヤクといった薬草が古くから盛んに栽培されてきた。

歴史的背景に着目し、県は2012年から「漢方のメッカ推進プロジェクト」をスタートさせた。
生薬の生産拡大から関連する商品・サービスの創出などを、総合的に検討している。

UHA味覚糖が藤井利三郎薬房と協力して4月に発売した「陀羅尼助飴」はその一環だ。

陀羅尼助に使われているキハダ成分に着目し、黒糖味に仕上げた。

藤井利三郎薬房に置いたところ、数日で一千袋近くが売れたという。
関西を中心に発売中だ。

(斉藤博美)


★印胃腸薬の年間支出額

※総務省の家計調査から。
県庁所在地と政令指定市の2人以上世帯の年間支出額(2015年)

①奈良市     1919円
②山口市     1692円
③札幌市     1662円
④さいたま市   1599円
⑤仙台市     1554円

(全国平均     1145円)




2016年6月2日木曜日

虎杖(いたどり)って、知ってる?



このブログのタイトルの虎杖は、スカンポ、イタドリとも読むらしい。
子供の頃、どちらの名称も使っていた。

イタドリ(スカンポ)の佃煮~!

スカンポ、イタドリだって、おかずになるって、本当か?

この野草の植生と、料理法を雑誌の広告記事でみた。
記事では、恰(あたか)も珍しい植物のように扱われていた。
が、私のような田舎暮らしの者にとって、何故、あの野草をそんなに重宝がるのか?
と、不思議でしょうがなかった。

この広告記事というのは、スカンポの滋養を活かした食品だった。

昨日までは、ただの雑草のひとつに過ぎなかった。
あんな物でも食えば、この世の中、食えない物はないゾーーーーーーー、これは、食べ物のお天道様のお言葉だ。

子供の頃、この野草を引き抜いては、友人にゴミのようにぶち当てた。
この野草だって、非力な弾丸になった?

いやがらせ、だった。
私にとってこの草はただのゴミで、草にとって私は卑劣で卑怯な乱暴者だった。

田舎では、イタドリとかスカンポとか、勝手な名称を使っていたので、どちらが正式な名称で、どちらが変則的? もしくは非常識なのか解らない。
子供の私は、野原で皮をはがして、青白い身を食べた。
不味(まず)くはなかった。

ネットで、この野草のことを、その姿態から虎杖(こじょう)とか虎杖根とか言うらしいことも知った。
日本は実に文化的だ。


ネット情報より
 タデ科の多年草。山野に自生。高さ約1.5メートル。茎にはかすかな紅色の斑点があり、葉は卵形で先がとがる。雌雄異株。夏、白色または淡紅色の小花が円錐状につく。花が紅色のものを特に、明月草(めいげつそう)とよぶ。若い茎は酸っぱいが、食べられる。
東京の友人にこの草のことを尋ねても、知らないの一点バリだった。

6月1日に行われる京都貴船神社の祭礼。
もと陰暦の4月と11月の1日に行われ、4月の祭礼では、付近に生えた虎杖(いたどり)を採って、大きさや量を競い虎杖祭と呼ばれた。

「スカンポ」の画像検索結果 

イタドリの植生だ。
イタドリ/いたどり/スカンポ<春の山菜イタドリ・すかんぽ・調理方法・あく抜き・山菜・食べ方

摘み取って、並べてみた。


★イタドリの胡麻和え

イタドリ(すかんぽ)のごまあえ レシピ・作り方 by サエコさん|楽天レシピ 

イタドリを鍋に入れて、さっと茹で、水を張ったボウルに取り出す。
イタドリの水気を拭き、塩と胡麻で和える。
食べる時に少し醤油を垂らす。


★イタドリのお浸し

イタドリのお浸し

鍋で茹でたものを、醤油と辣油で炒めたもの。

2016年5月27日金曜日

紫陽花(あじさい)の季節だ!!

紫陽花の季節がやってきた。

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5月が終わって、これからはワ~シィの季節だと、紫陽花の枝木に力が溢れている。
息吹(いぶき)っている♯ という奴だ。
元気盛りの私だって、これからやってくる暑気に負けるものかと♭ こっちも、気が張り詰まってきた。
冬の寒気にも夏の暖気にも、そうやすやす、心も体も許しません。

前のような文章を綴って、会社を出た。
ビールを飲んで、夕食のために食卓についた。
5月26日の19時半
テーブルの壁に近い部分に紫陽花の花が、ガラスの花瓶に入れられて置いてある。
真っ紫(むらさき)の紫陽花だ。
お~い この紫陽花はどうしたの?
未だ、季節が早いから、買うには髙かったでしょ?
この私の問いに、返ってきたのは、この花は長女の庭に咲いていたものなのよ。
いったい、この紫の原因は何だ。

土壌が、酸性度、アルミニウムイオン量は?
開花までの日数は?
これらのことは、後ほど調べなくてはならん!!
私の家から200メートルほどの近くに住んでいる長女夫婦の広い庭に咲いているものを、ちょっといただいてきたようだ。

紫陽花の花が咲くのは、6月に入ってからだと思い込んでいたので、嬉しさよりも、アッケにとられた。


生家の畑の周りで、よく咲いていた花は、春は桜、コブシ、サクラソウ、タンポポ。夏は紫陽花にカーネーション、アサガオ、ハイビスカス、ヒマワリ。秋は菊、コスモス、ツワブキ、キキョウだ。
ハイカラな花はないが、どの花も機嫌よく、体の調子はデッコウチョウ。
栽培方法は、さすがに山岡流で、我が家馴染みの無農薬で無肥料。
水をさすのも、御天候さまにおねだりのしっ放(はな)し。
言い方を変えれば、放(ほ)~り放(ぱな)し。
でも、、どの種類のどの花も、活き活きとして、実に山岡的に奔放なのだ。

何故、この内容を書きたくなったかというと、私の家と道路向いの三女の家に、紫陽花の緑の蕾の塊が大きくなってきて、その蕾からどのような色の花が咲くのか、楽しみにしているからだ。
怪我あがりの、今の私にとって、楽しみなんて、あれもこれもと、いっぱいあるわけではない。

生まれ育った京都府綴喜郡宇治田原町と、通学した府立城南高校の宇治だけが、私の20才までの生地だ。
その宇治に、下の写真にある三室戸寺とあじさい公園があった。

高校生のときに、気楽に参詣したことはあるが、その幽玄さに心が奪われた。
歴史の重みが静かで、深層。 
勇壮な森の入り口に毅然とある。
そのとき、その様を、実に不思議に思えた。
だが、、、、、参詣したときに感じたこの幽玄さと、この不思議さを文字にできないのが、辛い。
私には、能力がないのだ。  


三室戸寺(みむろとじ)

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三室戸寺
所在地京都府宇治市莵道滋賀谷21
位置北緯34度54分1.72秒東経135度49分9.10秒座標: 北緯34度54分1.72秒 東経135度49分9.10秒
山号明星山
宗派本山修験宗別格本山
本尊千手観音(秘仏)
創建年(伝)宝亀年間(770年~781年)
開基(伝)光仁天皇
札所等西国三十三所10番
神仏霊場巡拝の道124番(京都44番)
文化財木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像、木造釈迦如来立像、木造毘沙門天立像(重要文化財)
京阪宇治線「三室戸」駅より徒歩15分





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あじさい公園

あじさい公園のことは、このお寺のホームページを観ていただけば、何もかもよーくわかる。

1万株のあじさいが、杉木立の間に咲く様は、絵巻のようで素晴らしい景観だ。
50種、1万株の西洋アジサイ・額あじさい、柏葉アジサイ、幻の紫陽花「七段花」等が咲き乱れ、
「あじさい寺」とも称されている。

実に紫陽花の名所だ。

土壌の酸性度やアルミニウムイオン量、開花からの日数など、複数の要因が重なって色が変わるとされている。
その様子を「七変化」といわれている。


三室戸寺地図


2016年5月17日火曜日

何??、、、、、板東俘虜収容所


何!!  そんな板東俘虜収容所だったの?

板東俘虜収容所・ロケ地の門


日本軍の俘虜(ふりょ)となったドイツ兵の収容所が、驚くことなかれ、四国の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)にあったことを、ある小説を読んで、知った。

外国人俘虜の収容所があったことなんて、私には大きな驚きだった。

私は、京都府と滋賀県の国境、山奥の山奥で、教育なんてきっちり受けていなかった。
父からも母からも、ナーンにも教えられなかった。

よく調べると、日本の何処にもこの類の俘虜収容所はあったらしいが、この収容所はその運営に関して、特に、注目することが多かった。
施設の中だけのことではなく、管理者の日本人と捕虜との交流が、ミ!ン!シ!ュ!テ!キだった。
珍しいことに、地元の女性との恋愛もあった。

そこにきて、収容施設内での人間関係は、崇高でレベルが高かった。

村や町の人々との交流には、涙が溢れることが多々あって、私は人間が変わったように、ドイツと日本の両国の虜(とりこ)になった。
交流や運営が、公正で民主的、文化的、学問的で、食文化も先鋭だった。

このブログを書き始めた動機は、この小説の読後感想の心算だった。
が、そんなことよりも、想いもしなかった収容所の内容に心を奪われた。
これが、書き出しの源泉だ。

本の題名から、醸し出す内容が、融和で仄々(ほのぼの)とするものだったので、書店の中で10ページほど読んだ。

ところが、ドッコイ、不思議だった。
日本軍の持つ、強固で荒々しく緊迫的なものは、どこにも見えずに、美しい交流そのものだった。
悲哀っぽく、心身が鋳(い)たまる箇所は、なかった。

日本のどこにもある、古本を廉価で販売するチェーン店で、いい加減に買った。
東戸塚駅前の店だった。

こんな施設に、ちょ~っとも関心を寄せないまま、餓鬼大将からバスケットボール、サッカーと、少年から青年、成年になった。

そして、今や、悲しい老人になってしまった。
私は、昭和23年9月の生まれで67歳、日本国は敗戦後71年。

その私が、ここにきて、このショック。

今まで、何も知らないで過ごしてきたことが、嘘のような本当の話だ。

この小説は、潮出版社の「ハンスの林檎」、著者は村上政彦氏だ。
この書名の「ハンスの林檎」は、ドイツで長らく使われてきた私生活での標語?だ。
それは後々、解説させてもらおう。

ハンスの林檎
「ハンスの林檎」

板東俘虜収容所

収容所長の松江大佐


以下は、ネットの記事をそのまま参考にさせてもらった。

徳島県、旧板野郡板東町の「板東俘虜収容所」を読んでいただければ、詳細に知ることが可能です。

第一次世界世界大戦期に、ドイツの極東根拠地の中国の青島(チンタオ)で、日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名を1917年から1920年まで収容した。

この収容所は2年と10か月使用された。



指揮棒を持って強烈な個性で指揮をとっているベートーベンの心像。
ベートーベンの「第九」交響曲は、1918年6月1日、板東において日本で初めて演奏された。


概要

1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。

収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後は大佐)。
松江大佐は、捕虜らの自主活動を奨励した。

今日に至るまで日本で最も有名な捕虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で、友好的な処置を行ったとして知られている。


先の小説では、ドイツ人捕虜と日本人の交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまで両国の発展を促したと評価されている。




板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生産工場も有し、農園では野菜を栽培。

また捕虜の多くが志願兵となった元民間兵で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。

彼らは自らの技術を生かして製作した”作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。

文化活動も盛んで、同収容所内ノオーケストラは高い評価を受けた。
今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。

建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている。




金銭

戦時中、日本にいたドイツ人民間人らは、経済活動は禁じられていたものの、生活の自由は保障されていた。

彼らは捕虜となったドイツ人らに援助委員会を介しての物品、金銭援助を行い、本や楽器のための寄付活動も組織した。

捕虜たちは階級差はあるものの、日本兵と同様に給料を受領。
更には周辺地での労働や、親類、以前の勤務先からの振り込みなどを通じてお金を調達した。

1917年までドイツ政府は将校に月給とクリスマスボーナスも支給していた。

収容所内には日本人が経営する売店もあり、彼らは自由に買い物ができた。
また収容所を出入りする商人からも同様に買い物ができ、アルコール類も生活必需品と同様に入手可能だった。
板東収容所内にはレストランも完備されていた。



連絡手段

手紙や小包は没収、破棄されることもあった。
郵便物の発着送は検閲官の管理下にあったが、手続きは大変煩雑であった。

発送は許可されたものはわずかで、規則を順守する形で送られるか、もしくは郵送手段が全て禁止されていた。
使用言語が日本語・ドイツ語以外のもの(ハンガリー語など)は郵送は認められなかった。


文化活動

演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなどが結成された。
彼ら捕虜の多くが、もともと民間人の志願兵であったため、技術を生かして様々な自治活動を行った。

彼らは収容所内の自治活動に参加。
菜園管理や動物の飼育、厨房(酒保)やベーカリー(パン屋)も経営していた。

また、捕虜らに向けた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われた。

収容所内に設けられた印刷所では、その他にもディ・バラッケ、『(兵営)や(兵舎)の意味』と呼ばれる瓦版(ニュースペーパー)の刊行、語学教科書やガイドブック、実用書などが発行された。

音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行った


1919年12月末より翌20年1月末にかけて、ヴェルサイユ条約の締結により、捕虜の本国送還が行われた。約170人が日本に残り、収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んだ。

現在よく知られているユーハイム(カール・ユーハイム)やローマイヤ(アウグスト・ローマイヤー)、そしてフロインドリーブなどは日本に残留したドイツ兵によって創立されたものである。

一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎された。収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられる。



※著者より、書名・「ハンスの林檎」について。
書名に”林檎”を用いたのは、ドイツを旅して、ドイツ人の生活に触れてみて、どの家庭でも、庭に林檎の木を植えていることは、地方によっては男の子が生まれた時に記念樹として林檎を植える風習があることだと知った。
ルターの「あした世界が滅びても、僕は林檎の木を植える」という言葉が実感できたことによる、とあった。















2016年4月29日金曜日

俺の頭が可笑しいのか?


俺の頭が可笑しいのか?  狂ってしまったのか!!
どんな内容がどのようになろうとも、他人に解ってもらうように、話がマ・ト・メ・られない。
何処かの何かの智能が頻拍しているようだ。

脳内が混雑して、表現方法が拙(つたな)く、これらを修理修繕するために、誰か? 何とかしてくれないか。
こんな、変なお願いを私がしているなんて、これも又、可笑しな話し、だ、ヨ。

高所から落ちて、頭を路面のアスファルトで強く打った。
私の脳の構造に、大きな変化が起こったのか? 
神経系統の乱調なのか? 
何かが大きく変ってしまった。

単純に変化どころでなく、変質してしまった? と思うしかない。この悲嘆ほど、心苦しいものはない。
悲嘆のネタの一つ一つを、掲げてみた。


先ずは勘違いが多過ぎる。

体の老化か脳の退化で? 変質してしまったのだろうか? 
材料を灰汁(あく)抜きで話そう。
この頃、若い娘さんの美しさが異常に感じる。
服装から、化粧から、話し言葉まで、オジサンには美しく思えてしょうがない。

スカートの丈だって極端に短い。
馬鹿な振る舞い次第では、パンツ丸見えになることだってある。
ところが、娘さんは気丈にふるまっているのが、然(さ)も可愛い。

このことを、女房に話してみた。
女房は、お父さんはそんなことに気を使うことはないのよ、ほっとけばいいの、ヨ。
よっぽど、怪しげな子供がいた場合は、静かに、説得すればいいことだよ、貴方が心配することなんて、なあ~んにも無い。

会社に向かうときも、自宅に帰るときも、顔を見合す高校生の男女が仲睦まじく話している。
これまた悔しいのだけれど、なかなか、私の老婆心を慰めてくれる。

悔しい事ながら、会社の近所にある公園内のテニスコートでは、会社の同僚でも近所付きあいでもない人たちが、笑顔を絶やさずに、テニスを楽しんでいる。
声高らかだ。
筋肉の励みだって聞こえてくる。

俺だって、お前さんたちには負けないぐらいは、できるんだぞ!

かっては、年頃の娘さんだけに目を皿にした。
が、今は小さな子供から年とった人まで、掛け替えなく愛せる。
もう少し極めて言おう。
小さな子供から、年とった老人まで、私の好みは変わらない。

お金を鱈腹持っている奴よりも、綺麗な生き方をしている人を好む。
大きな舘(やかた)なんか、な~んにも羨ましくない。
悲しくても貧しくても、心の優しい人になりたい。

金持ち連中の嘘には敏感になろう。
清貧にこそ、真実がある。

眩しく煌く世界よりも、静かに佇むなかにこそ、安らぎを匂うようになってしまった。



我が家では、1年前から女房の母と同居している。
義母は88歳。

足腰が不自由で少し苦しまれているが、俺たちで何とか、まかないたいと思う。
母と娘、これあ、当たり前。


20160311-04

ネットで楽しそうなグループの写真があったので、お借りしました。

話は、増々進める。

街で見かける年をめされたオバサンが、実に綺麗なのだ。
顔立ちだけではなく、服装の吟味から、その振袖というとちょっと古典的かもしれないが、明るく軽やかで、ナント、ナント、年齢は驚くほど若く、感じる。

ヘヤースタイルも、よく、よく、気を使っているもんだ。
顏の美肌さ! これにも、頭が上がらない。
私が尊敬している私の母や父とは、随分変ってしまった。



山水画のような奥秩父連山 : 八ヶ岳高原アラカルト

今の子供たちは、山をどう思っているのだろうか。

まさか、山はドス汚(きたな)く、誰もがそう簡単に入山するものではないなんて、思ってはいないだろうな? 
聖山っと呼ばれている。

アケビがたらふく実り、何処も遊び場になってくれた。
登山道、樹木、土や風、空気に惚れた。
若い人たちは、山に高く登れば登るだけ、気風が高鳴る人でないと、入ってはいけないと思っているのだろうか。

私は、学生時代から、誰にも負けない山塊の士だった。
恥かしくもなく、ウンコも平気デできた。処理には、万知を活かした。
小便だって恐ろしくない。

女房と一緒に秩父の連山を駈けたときの情動は、それはそれは楽しいものだった。


大学時代。

都の西北のグラウンドで、体がガタガタになるほど頑張れた。
昭和48年に関東大学サッカー選手権と全日本大学サッカー選手権で優勝した。
2冠王だ。

技術や体力は貧弱だったので、5戦に1戦ほどしか出場できなかった。
でも、この喜びは並みのものではない。




スポーツ魂に燃える女学生。

かって、プロレスなどに女学生たちは身動きしなかった。
興味をもって、テレビや週刊誌、会場などに参加する人はいなかった。
私が高大校生のころは、興味どころか、興味をみせる者たちに冷たく当たった。
ワーとかグーとか、見苦しい嬌声に飽きていたようだ。

それほど格闘技嫌いの娘さんたちが、競技場に、今までのことが嘘のように駆けつけてきた。観衆も選手も、スポンサーも湧いて、湧いて、楽しみだ。


プロレスだけではない。相撲も他のどんなスポーツにも、観客席には美しい人がめっちゃ溢れている。