2016年11月9日水曜日

政子の井戸


政子の井戸


昭和49年(1979)、学校を卒業した。


昭和53年(1983)、学校を卒業して入社した会社の都合で、当時横浜駅前で一番高かったビルの20階にある不動産会社に転勤になった。
入学が他人(ひと)よりもおくての私は、27歳だった。

昭和54年(1984)、イラン革命に端を発する石油の供給危機で、日本経済は大いに狂いだしていた頃で、会社の方でも、方向転換を大いに狙っていた。
第二次石油危機とも呼ばれた。

手持ちの不動産を、できるだけ早く、多く、売り逃げたかったのだろう。
私にとっては、そんな環境が面白くてしょうがなかった。

お世話になった会社は、神奈川県においては、鎌倉、逗子、横須賀で戸建やマンションを、嫌と言うほどハゼに売り出しをやっていた。
これらの資源は、先代が、戦後のドタバタ時代に、多くを取得していた。
売り出しでは圧倒的にボリュームが多く、他社の人間からは、羨ましがられた。
私は、お客さんの住宅資金、今まで住まいにしていた戸建やマンションの売却を担当するセクション、仲介部に配属された。

私は、いつもの負けん気強さを発揮して、誰よりも誰よりも多く仕事をこなした。

住宅に関しては、様々な法律、条例をマスターしていないと、賢い社員になれないし、いいお客さんに対して喜んでもらえない。

その法律、条令らとはこのようなものだ。
これを、陰日向関係なく理解し、きっちり説明できないと、アカン垂れになってしまう。
建築基準法、宅地建物取引業法、国土利用計画法、宅地造成等規制法、
区分所有法、民法、刑法。

私は、社内で優秀な営業社員だけでなく、いつでも、何があっても、独りで生きていくだけの知恵や方策を身につけていた。
田舎育ちの一匹狼だ。
同業他社からの友人も増えていた。
学校に入る前からドカタ稼業になれていたものだから、このような仕事は一人前。


昭和58年、会社の仲間と保土ヶ谷駅界隈のドライブ中、今回の「政子の井戸」を発見した。
「御所台の井戸」とも言われていた。
なんだ、こりゃ?

政子さんのことは、受験勉強で大いに親しくなった御仁(おひと)だ。
JR保土ヶ谷駅を戸塚方面に1号線を100メートル程進んだところに、細い道で横浜清風高校へ向かう道があり、その道の入り口にある。
この坂道を、旧金沢街道(かなざわかまくら道)のいわな坂(石名坂、磐名坂、石離坂と諸説がある)と言われている。

あの源頼朝の北条政子さんのことか?と同乗者に話しても、色よい返事は返ってこなかった。
私は、受験勉強で、日本史に関しては、どんな問題が出されようと95点以上は稼げるだけの力を身につけていた。
英語は70%、日本史はほぼ満点、国語は70%をとれるだけの実力を身につけていた。
ぶっちゃけた話、英語や国語で多少失敗しても、日本史で100%とれば、何とかなる。
これが、私の受験戦略だった。


北条政子。

伊豆の国の豪族だった北条時政の長女の北条政子は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室になった。
どこで、どのような縁があったのか、正室とは奥さんのことだ。
頼朝が1192年に鎌倉に政権を樹立すると、御台所と呼ばれ、頼朝の死後は尼御台、最後には尼将軍とか女将軍とか称され、抜群の力をつけた。
私が受験浪人だったときに、鎌倉幕府ができた年のことを、「1192をイ・イ・ク・ニ作ろう鎌倉幕府」として憶えた。

社会の先生が、政子が自陣の兵への演説で、「頼朝公の恩は、山よりも高く、海よりも深い」を、意味深長に話したことが、印象深い。

ここで、何故、井戸?なんだろうと考えた。
綺麗な人だったのだろう、お化粧をしたのか、身についた汗を拭き切るためだったのか?
別嬪さんで、色香たぐわしい人だったのだろう。
力をつけた女将軍のことだから、政子が来たからには、地元の民衆は騒ぎたてたのだろう。

その後、天皇や将軍が保土ヶ谷宿の軽部本陣に立ち寄った際には、この井戸の水で料理を作った。


 政子の井戸 その2



それから、20年後。


7年前のこと、私の勝手な都合で、一時的に住んでいた横浜市泉区のアパートのそばに神社があって、馬頭観音の碑が建てられてあった。

相鉄線の「弥生台駅」から、歩いて10分。
木が幾つも樹立していて、小さな森になっていた。
神社の名は、横根稲荷神社。

その森の一番奥まったところに本殿があって、その脇に碑が建てられていた。

近所の老人に神社の話を聞いたところ、昔、ある女性が使った井戸がかってあったのですよ、だった。

早とちりの私は、政子の井戸が、ここにもあるんだ、とかん違いをしていたようだ。



むかし、木曾義仲の夫人、巴御前は女武者として義仲とともに勇名をはせていました。
しかし、寿永3年(1184)に近江で義仲が敗れると捕われの身となり、和田義盛に引き取られて、義盛の本拠地三浦で暮らすことになりました。
そして建歴3年(1213)の合戦で義盛も敗れ、巴御前は木曾へと落ち延びていきました。
途中、横根稲荷神社で一夜を過ごした巴御前は、境内にある鎌倉石と七沢石で囲われた古井戸の水を化粧の水として使ったと言われています。
その後、この井戸は「横根の感念井戸」といわれるようにな泉区役所掲示による横根稲荷神社の由緒です。



2016年11月1日火曜日

金閣寺炎上

金閣寺炎上

三島由紀夫の著作・「金閣寺」は、1956年(昭和31年)に新潮社からは出版された。
私は、それから20年後に読書した。
金閣寺は、京都府京都市上京区金閣寺町にあった。

学校を卒業して2年、結婚した年だ。
主人公の心模様は、難しい文字で綴られていた。
それでも、この本に関しては、三島由紀夫の不思議な虜(とりこ)なった。
大学時代の私は、「いじけた左翼ぶり青年」だった。

そして、今年2016年の10月。
100円でも買える安売りブックストアーで、水上勉の「金閣寺炎上」を手に入れて読了。
この本は恐ろしいほどのノンフイクションで、気合を入れて、入れて読んだ。

仕上がるまでに、書き始めてから26年とか29年掛かった。
目くるめく?詳細な記述に、読書の初めは、頭が痛くなった。
水上勉の、生まれながらの修練か?なんて言うと、叱られそうか。

水上勉は福井県本大飯郡本郷町(現:おおい町)生まれ。
放火した林承賢は、京都府舞鶴成生で生まれ育った。
水上が舞鶴で、教員として勤めたころに、林に会っている。
同じく仏教徒をめざしていたので、それなりに意識していたのだろう。


三島由紀は人間のいわゆる美意識を金閣寺炎上事件に見たが、水上勉はそこに人間を見た、とある評論家は述べていた。

三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。

この金閣寺の炎上事件を、三島由紀夫は「金閣寺」を水上勉は「五番町夕霧桜」を書いている。



鹿苑寺金閣(臨済宗相国寺派の別格地)




足利義満 (室町幕府3代将軍)


鹿苑寺金閣は、国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上。
私の生まれは、1948年(昭和23年)なので、生まれて2年後に炎上したことになる。

国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失した。

林承賢は、寺の裏山で「カルモチン」を飲んで自殺を図ったが、一命を取り留めた。
大谷大学予科 中国語学科1年生。

彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その帰りに、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。

逮捕当初の取り調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。
しかし、金閣寺炎上では、実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており、得度を授かった僧侶よりも事務方が幅を利かせていた。

寺の運営は、金銭欲を持たず自身を無にする禅寺修行が行われず、拝金主義であった。
林には、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。


 焼失直後の金閣寺 (昭和25年7月2日)


1956年(昭和31年3月7日)、結核と重度の精神障害により、京都府立洛東病院に入院中に、26歳で亡くなる。その後、この病院はなくなった。





2016年10月20日木曜日

仕事、気配りチェック

弊社の「お仕事、気配りチェック」
  
ちょっとした事件が発生したので、弊社の社内に張られている標語のことを思い出した。
その標語のことは下の通りだが、今までに、何度も書き換えようと思った。
この標語を、何度、読んでも、読んでも、最初に書いた時の心情が、上手く表(あらわ)れてない。

実は、この標語を、100%満足していなかった。
標語?
それは、スタッフの仕事っぷりを看守、察知、そして監守、激励するスローガンだ。
簡単に言えば、キ・メ・ゴ・トだ。

何もなければ、こんなことなど、どうでもよかったことなのだろう?
生まれつき、私の性格はネチッコイのだ。



今からひと昔前と言や、2005年だ。
株価は2003年が大底(おおぞこ)。
それから2008年位に向けて、全体相場が盛り上がり、アメリカの不動産バブルに新興国の隆盛。

ここらで、日本経済の復興の歩みに、安心感が出てきた。
それでも復興の反発力はなかなか辛抱強く、リーマンショックの後の戻りがあって、為替は円高に動き、欧州の債務危機もようやく突破したと言われた。

私は、そんな環境での弊社の経済状態が気がかりでしょうがなかった。
正月には、毎年、私の決められた仕事があった。
新年における、標語の書き換えだ。
ところが、何故か? モジモジしてしまうのだった!!

弊社の社員宛の「お仕事、気配りチェック」を筆で書いて、壁に張り付けることだ。
他人に見てもらって、堂々と胸を張れるほどのモノを書けなかった。
でも、出来上がりは兎も角、私の心根(こころね)だけは、誰よりも強靭で辛抱強く、激しいものを持っていた。




2003年 1月1日の午後

会社には誰もいない。
一人っきりだ。
鎮静な社内だけど、孤独な私を温かめてくれているように感じ。
慣れない手書きのため、出来上がった標語は、見事な悪筆ぶり。
そんなことには無頓着なのが、私の特徴。

この時に仕上げたものを簡易な額に入れて、壁に張り付けた。
その内容は次のようなものだ。

     ①強い意志
 
  ②広範な知識  
 
     ③大胆な行動


ここで、これらの一つ一つの意味と、それに関しての吾輩の思惑を書いてみる。

①の「強い意志」とは

社員の皆に対して、弊社の法人としての品格、品性を高めて欲しい。
理解される宅建業者でありたい。
卑(いや)しくも、業者として辱(はずかし)めるような言動を発したり、行ってはならない。

弊社の商品である中古住宅の法的な知識を、何もかもよく理解して、判りやすく説明をすること。
この精神を強く持って欲しい。

建築基準法
宅地建物取引業法
国土利用計画法
都市計画法
宅地造成等規制法
区分所有法
集落地域整備法
消費者契約法
民法
刑法



②広範な知識とは

物件の売買、賃貸について発する諸問題を、整理して、判りやすく関係者に納得してもらうこと。
発生する費用の明解さ、必要とする時期。
それに必要な諸書類。

物件の周囲の崖や川や電柱から影響を受けるもの。
嫌悪、もしくは好評な建造物の性格。
天然的に影響を受ける内容。



③大胆なな行動

①・②で、確信をもった内容については、躊躇することなく、勇気をもって、大胆に関係各社の担当者、お客さんに、言葉や書面で表現して欲しい。
このことこそ、関係者、お客さんに最大のメリットを受けてもらうことになる。

諄(くど)いようですまないが、もう一度繰り返す。
弊社にとって、言い辛いことこそ、大胆な行動で、言動して欲しいと言うことだ。

上の三つの標語を限りなく正確に行ってもらうために、情感にも条件をつけた。
慎み深く、感謝して、奉仕することだ。
精神的に豊かになって、きっちり業務に励みたい。


Kabocha.jpg  
写真と関係なく、11月7日は立冬だ。
初めて、冬の気配が感じられる。




2016年10月8日土曜日

今こそ 高橋和巳

今こそ、高橋和巳


朝日新聞 文化・文芸

2016 9 26 月曜日の朝刊



破滅文学、苦悩教の始祖と呼ばれた。
全体性をつかもうと格闘し続けた。

作家・高橋和巳氏は、1931年、大阪市生まれ。
日雇い労働者の多い西成区で育つ。
太平洋戦争の空襲で実家と零細工場を焼失。
1949年、京都大学文学部に入学した。
そして、5年後、10年後に人気作家になった。

26日の朝日新聞・朝刊で、並み居る作家の紹介の後に、高橋和巳さんの紹介記事が出てきたことに、吃驚した。
私にとって、高橋和巳は今、此処に一緒に暮らしている作家だった。
こんな状態で紹介される人になってしまった。

彼の作品を、大学を卒業してから数年間、読んで、読んで、読みまくった。
それから30~40年、恥ずかしながら、あれほど愛して愛して、魂が狂うほど好きだった氏のことを、恰(あたか)も忘れ去ったように過ごしていたことを、悔(くや)んだ。
それほど、仕事が楽しかったのだ。

頭脳が辺境な私の読書歴は、実に偏狂だ。
大学に入る前から卒業するまでは、新戯作派、無頼派と呼ばれていた作家の作品ばかり読んでいた。
太宰治や坂口安吾、織田作之助 田中英光、山岸外史、壇一雄たちの著作物だ。
前記の作家以外にも、何人もの作家のものを読んだ。
アホの馬鹿読みだった?のだろう。

私の生まれは、1948年、昭和23年。
劣等生の私が、2浪の果てに大学に入ったのが、1968年。
2年間、皆よりも遅れたものだから、サッカーだけではなく、ただ、皆の邪魔にならない程度に練習をするだけで、大変だった。
今年の9月23日で、68歳。

大学時代はア式蹴球部(サッカー部)に所属したものだから、勉強の怠慢さは当然の当然。
身辺に勉強のことを話し合う仲間や友人さえも、いなかった。
勉強しないのが、「当たり前だのクラッカー」、、、、、、だ。
吉本新喜劇の、お馴染みの当たり言葉。
幾ら下手くそでも、サッカーは愉しかった。
何度、ヤマオカ、荷物を担いで、田舎へ帰れと言われたことか。

代表的な本は、
・「悲の器」
・「邪宗門」
・「わが心は石にあらず」
・「日本の悪霊」
・「わが解体」
・「孤立無援の思想」
・「憂鬱な党派」
・[堕落」ーーーーだった。


社会人になって、最初に購入したのが太宰治の全集、その数年後に高橋和巳作品集を買った。
私の自慢の、買い物だ。
太宰治の全集は3度読みなので、これは人生の記念樹にと想って買った。

高橋和巳の作品集は、よっぽど張りつめて読んだのだろう、か? 
どの本のことも詳細に憶えていないのが、恥かしい。




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これからの文章は、全て新聞に書かれていたものの転載です。
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2014年に 『邪宗門』で始まった河出文庫の高橋和巳作品の復刊が、没後45年にあたる今年、『憂鬱なる党派』 『悲の器』と続いている。

『邪宗門』は戦前・戦中に弾圧された宗教団体が、戦後、世直しのため武装蜂起し、政府とGHQ(連合国軍総司令部)に鎮圧される物語。
『憂鬱なる党派』は1950年代の左翼運動の分裂を背景にし、『悲の器』は自らのスキャンダルに法をもって戦う刑法学者が主人公だ。

社会思想史研究者で京都精華大学専任講師の白井聡さん(39)は、少し前に高橋作品と出あい、感銘を受けた。
『永続敗戦論』の著者らしく、「敗戦と革命の挫折」に思いをはせた、という。

「対米従属批判は60年安保の頃までは盛んだったが、経済的成功とひきかえに不問に付されていく。
安保法など戦後の総決算が迫られている今の課題は、この時代に根があったと改めて痛感しました」

社会に肉薄「求道者の文学」

もう一点、白井さんが刺激を受けたと話すのは、人間社会の実相に肉薄する作家のまなざしだ。
権力はいかに複雑な構造に支えられているか。
同じ世界観をもちながら、どんな卑俗から思惑から亀裂は生じるのか。
この夏の都知事選で敗北した野党共闘を見るにつけ、政治と人間への冷徹で豊かな想像力の引き出しを持つことが、市民の側にも不可欠だと思ったという。

政治思想史研究者で放送大学教授の原武史さん(54)も、学生時代に読んだ『邪宗門』の衝撃が忘れられない。壮大なスケールで描かれる『虚構の戦後像』。
マルクス主義の影響がまだ強い中、宗教という土着のものに根差した変革をめざす着想も斬新だった。

促されるように、大学院では、小説のモデルとされる宗教法人大本の本部に、資料収集のために滞在する。
国家への反乱は架空の物語だが、大本の歴史の中で、天皇制や国家神道に対峙したとみられる要素があったことを知った。

「政治と宗教の問題を掘り下げていく自分の研究を、決定的に方向づけた小説です」

一般には難解な点も多い。
でも生前退位問題はじめ天皇制について考えることが重要ないま、作品の問題提起は古びていない、と原さん。

「阿修羅」のごとく悩み続け

すぐれた中国文学者でもあり、母校の京大へ赴任した高橋は、全共闘運動に一定の支持を表明した。
教員の権威主義や知識人の欺瞞に自覚的だった。
やがて学生との板ばさみに苦しみ、39歳の若さで病死する。
葬儀には多くの若者が弔問に訪れ、「思想的事件」と言われた。
「自己指弾」の文学がたどり着いた悲劇と惜しむ論評もあった。

だが批評家の若松英輔さん(48)は、そうした現象的な作家として語られすぎたことが、三島由紀夫と並ぶスターで文学史に残る力量ある作家を「過去の人」にしてしまった理由の一つとみる。

高橋の作品世界の神髄とは「求道者の文学」だと、若松さんは言う。
人間と人間を超えるもの。
語り得ることと語り得ないこと。
時代と永遠。
理想と現実ーーーー。

「ままならない問題の『あいだ』に立って苦しみ抜いたからこそ、宗教を、外側からだけではなく内面の海、実在をもって描き、沃野を切り開くことができた。彼の作品を政治運動や時代の文学置き換えてはいけない。
同時に、あまりに形而上学的に受け止めてもいけないと思います」

個人の実在から世界の成り立ちまで。
「生涯にわたる阿修羅」としての思索の往還が、全体が見えない時代を生きる私たちを、静かに鼓舞する。

(藤生京子)

高橋和巳の憂憤ーー33回忌に

 ●
 高橋和巳の死を知ったのは、軽井沢のホテルだった。
 不安をぬぐいきれぬまま、連休を利用して出かけたつましい家族旅行の旅先。
 急遽、鎌倉・二階堂のお宅の通夜に駆けつけ、泣きくずれた。
「悪かったわね。あなたに本当のこと言わなくて・・・・」
 高橋たか子さんは毅然としていられた。
 肩を叩かれ、私は絶句した。

 
入院先の病院には、同人雑誌仲間の井波律子や古川修と見舞いに行ったのだが、その病状がすでに絶望的であることなど、もとより何も知らされていなかった。

 
 花々に埋まれ、高橋さんは永遠の眠りについていた。
 野辺送りの日、その顔は白く静かに映え、棺に打つ釘音が五月の鎌倉の風にむなしくひびく。やがて斎場で、白骨の一片をつまみながら、私は高橋和巳の死をしだいに確認していた。

 ●
 三十九歳という若さで生き急いだ高橋和巳とは、いったいわれわれにとって何だったのだろう。
 一九六二年、第一回文藝賞『悲の器』で華々しくデビューした高橋和巳は、その翌年、立命館大学文学部講師を辞職。上京して念願の作家生活に入り、『憂鬱なる党派』『散華』『邪宗門』『我が心は石にあらず』『堕落――あるいは内なる曠野』『日本の悪霊』『黄昏の橋』などを精力的に発表する。

 絶望、破滅、堕落、暗黒の下降意識に沿ったモチーフの根源を、高橋和巳はひたすら殉教者のように負った。登場する主人公たちは、いずれも栄光ある国家、社会、組織から宿命的に弾劾される。いや、自らの選良忌避の告認である。ゆえに追放され、地獄の苦悩と叫喚に引き裂かれる。
 われわれはいつも滂沱の涙を流しながら、その小説を読んだ。
 なぜだったか。

 思うに、終世、高橋和巳はやみがたい憂憤に駆られたまま、そこに言動のすべてを収斂させていく。孤立の憂愁と褐色の憤怒。
 その日本的ラディカリズムというべきものが、内なる感覚のくすぶりを挑発し、静かに熱狂させていた。

 一九六七年、恩師の吉川幸次郎博士の強い招聘で京都大学文学部助教授に就任。
「小説も、一種の念力で書くものでね。その念力さえ涌いてくれば、もうこっちのものさ」
 花形作家はよくそう言った。

 学生として大学の研究室を訪ね、大阪・吹田のマンションに遊びに行き、気がつけば同人雑誌『対話』復刊に、私は加わっていた。高橋さんが鎌倉から京都に舞い戻っての月例の読書会は、熱気が入っていった。   そして、生駒・宝山寺前の旅亭での夜を徹した文学論は白熱した。花札に熱中して、三日間、丹前にくるまり、夜も昼も無心に札を引いたこともある。

 やがて、若者のアイドルとなった高橋さんは、全共闘運動とともに尖鋭苛烈な時代の最先端に突き出される。だが、病に倒れ、入院。京大紛争の中で、その内的葛藤を綴った最後の著作が『わが解体』となった。

 ●
 通過儀礼でもあるまいに、大学自治なるものの幻想と虚偽に立ち向かう青年たちに、高橋和巳は新たな政治的実践者としての全存在を賭ける。それは文学の自己指弾、自己処罰としての営為でもあったのだろうが、大学闘争の過程で、義に近い人間関係を重んじ、道義性を深くうつたえ、人間それ自体の変革を説く高橋和巳は、常に蒼白に身を奮わせて迫る。会議、集会、団交、デモ。路上に火炎瓶が炸裂し、学生たちは血を流し、バリケードが築かれる。
 だが、全存在を賭けないお祭り好きの学生たちは興ざめし、孤立と高揚の裂け目がさらに深まる。

 にもかかわらず、高橋和巳は無上に優しかった。泣きたくなるほど、切ない魅力を持っていた。祇園のお座敷に上がり、
「お前に、このお姐さんの美しさが分かるか」
 と酒をぐいぐい飲みながら言った。いや、美しさが分かるかということよりも、この時、高橋さんは私をダシにいったい何を企んでいていたのか。

 また、先斗町の飲み屋では、
「キラリ光った流れ星、燃えるこの身は北の果て、姓は高橋、名は和巳・・・・・」
 と唐獅子牡丹もどきに、音程はずれの『網走番外地』を歌ってくれもした。
 だが、まもなく、夜明けの仮寓で嗚咽し、不規則な生活もたたって脇腹の激痛に苦しむ。大学の教授会にボイコットされて孤立無援の中で鎌倉に帰り、病床で喘ぐその姿を見るのは無上につらかった。

 末期ガンを知らされた梅原猛先生は、病院に見舞いに訪れた時、
「こういうことで腹を切ったんですが、これで、もう自分の業は終わったと思うんですね」
 と高橋和巳は手術した腹部の無残な傷跡を見せながら言った、という。
 聞かされ、凄いことだと私は思った。
 高橋さんは、おそらくその死を覚悟しながらも、本来のあるべき自己の純粋な内面の文学を書くことを悲愴に決意していた。

 ●
 その後のモーレツからビューティフルな高度消費社会、イデオロギー対立の冷戦構造の終焉、また、バブル後の今日の不透明な社会状況の中で、あの憂憤の高橋和巳が、もし元気に生きていたとしたら、どう対応し、変容し、どのような作家的成熟を果たしていたのだろう。

 むろん、あの六〇年代から七〇年代に向けて疾走した極限と葛藤の高橋文学が、ふたたび熱狂的に迎えられるということは、おそらくもうあるまい。だが、それにしても、作家の個性や言動は、もっとつややかに語り伝えられてしかるべきであろう。

 幸いにも、良友に巡り会い、百愁安慰す。
 友愛の詩型を慄然と説く福島泰樹は、高橋和巳に献じる魂の告白として、第十八歌集『黒時雨の歌』を上板。また、藤井省三はひと夏の軽井沢の山荘で、『堕落』における中国皇帝の意味を備えた黄色の傘の存在と文芸評論のあり方について論じ、日本ペンクラブ獄中作家委員会のあった帰りの酒席などで夫馬基彦は「愛読しましたね。あの情念に魅かれましたからね」と言い、そして、小嵐九八郎とは大宮・氷川神社際の雨の夜の料亭で、蜂起には至らずと酌み交わしたことなど、決して忘れることはできない。
 孤独な薄明のリングで、いまなお、高橋和巳は熱っぽく語られつづけている。

 五月、切なく、苦しい。
 われら憂鬱党、同士数人、その夢と志を秘めて、いまだ健在。高橋和巳三十三回忌。一壺をかかげ、初夏、高らかに献杯。
 
『図書新聞』2002年5月25日号


2016年9月30日金曜日

お嬢さん、どうしたの?

お嬢さん、どうしたの?


苦しそうなお嬢さんに、何をしてやればいいの?

先週の木曜日のことだ。
弊社の公開前の中古住宅の洗浄に出かけた。
現場は、横須賀。
洗浄といっても、そんなに難しいことではない。

改装を終えた物件を、リニューアル住宅として販売するための、第一仕事。
購入を考えるお客さんに、いかにアピールできるか、腕の見せ所だ。

弊社の品格、物件の親愛感性を高めたい。
先住者がつけた、駐車場や玄関周り、庭の嫌な汚れを何から何まで、高圧の水を利用して洗い流すことだ。
洗浄の仕事の後は、雑草を引き抜いた。

作業は難しくなく、時間の経過とともに、それなりに成果は得られた。
作業開始は9時、終了したのは13時。
一人っきりの休みのない仕事なので、4時間で、十分、1日分の仕事だ。
それにしても、我輩は疲れた。

小雨打つ中を徒歩で最寄駅まで向かった。
たかだか、20分だ。
京浜急行の追浜駅と横須賀中央駅の間。

国道に面したところで、小雨から本活的な雨に変った。
それでも歩こうか? もう少し横浜寄りの駅までのバスを待とうか? 
悩みは重い!!

それでも、今、私ができることは、歩くことだと決めた。
バス停にいたおばあちゃんの「駅までは、歩いたって10分ぐらいよ」、と言われた言葉に駆り立てられたのだ。

各駅停車の電車だから、気長に席についた。
それから、2、3駅過ぎたころに、、、、、、、驚天動地?の大事件が起こった。

隣席は、年ごろは大学を出たころの、22~24、5才の非の打ちどころのないお嬢さんだった。
細身の可愛らしい娘さんだ。

げっぽげっげっぽと喉を鳴らして、それから吐瀉物を次々とハンカチで拭きかけた。
彼女の表情はかたつぶりのように、固まっていた。
私もギョット固まり、吃驚したのに、頭は、それからそれから大いに狂いだした。

小さなハンカチ1枚で困っている彼女に、私は自分のカバンに入っているタオルを貸すことで、何とかならんもんか、と思った。
彼女は、ハンカチもタオルも一緒くたに、胸から腹を拭いた。

通路の向かい側に座っている人は、30歳ぐらいのスポーツマン。
お前こそ、何かをしてやってくれないか、と歯軋りした。
その隣のオバサンは、横目で苦しむお嬢さんを眺めるだけの、情けなしの能天気ババアだった。
そんな状況の中で、私の頭だけは、狂いに狂った。
オバサンも、あんたも何かをしてやってくれよ。

彼女の吐いた物が座席のシートを汚した。
見て観て、私は、ただ、心苦しく、可哀想に思えて、ここで、何かをしなければ、タモツは死んだも同然だと、笑われそうだ。

彼女は項(うな)垂(だ)れたまま、降車した。
これ以上、おかしくなったら、駅員さんに訴えるのよ、と強く言った。
その足で、車掌さんに、シートの汚れのことを話すと、車掌さんは座席をゴロンとひっくり返した。
そのサマは、何も知らない人には異様に見えただろうが、それで、よかったのだ。

元の自分の席に戻った。
周りの人々は、俺のことを、変なジジイと想ったことだろう、か?

彼女の無事を祈るばかりだ。

2016年9月22日木曜日

爽やかな秋が欲しい

爽やかな秋が欲しい


梅雨でもないのに、台風の影響を受けてのことだろう? 

なんだかこの1か月、空模様のはっきりしない日が、昨日も今日も。

これから、こんな日が何日続くのだろう。


かって、台風が去った翌日は、雨はやみ爽やかな風が吹く台風一過と呼ばれた。
幼いころ、この好い日のことを、台風一過だと憶えた。
日日是好日?

ところが、今年、そんな日は1日たりとて、見せてくれない。
嫌な想いの傷の後遺症なのか?
単純に空模様が悪いせいなのか?
頭のなかが、すっきりしない。

田畑だって野原だって、当然のこと、、、、。
我々も泣いて、喚いて、苦しんでいる。
糞っ垂れ、俺はどうして生き延びれば、いいんだ!!

秋の日は釣瓶(つるべ)落とし

【読み】あきのひはつるべおとし
【意味】秋の日は釣瓶落としとは、秋の日の急速に日が暮れるさまの形容。

今年も、何台かの台風が過ぎ去り、その度に海に囲まれた山稜の我が国は、山が崩れ、川の水が住宅地や商店街に溢れ、橋が壊れ、建築物は住宅だけではなく大型の公共的なものや老人ホームでさえ、木端微塵(こっぱみじん)にやられてしまった。

「釣瓶」とは、水を汲むために竿や縄の先につけて、井戸の中におろす桶(おけ)のこと。
その釣瓶が井戸に滑り落ちるように、秋の日は一気に日があっという間に暮れるということをいう。
以上、釣瓶おとしからの小文はネットよりいただいたものです。


ところが、まだまだ、次の台風の目が控えているようで、安心はしていられない。
人災被害は当然、それ以外の被害だって、目も当てられない状態だ。
心情の悔みをお金でなんて、どうしょうもなく換算できないことぐらい、よく解っている。



でも? だからか?
今日20160922の朝日新聞・朝刊の1面記事を読んで、これまた、驚いた。
その記事というのは、下記のことだ。
可能な限り、ダイジェストさせてもらった。
国の予算を1兆円も、こんなものに使っていたなんて、吾輩、「堪忍袋の緒がきれる」状態だ。
政府が21日、原子力関係閣僚会議を開き、高速増殖炉原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)について「廃炉を含め抜本的な見直し」を表明したことについて、地元からは不信や困惑の声が上がった。
同市の渕上隆信市長は21日夜、市役所で報道陣に対し「日本を豊かにする核燃料サイクルを担っているという誇りを持って応援してきた。それが簡単に変わるのか強い怒りを感じる。地元の意見は何も聞いてもらえなかった」と、もんじゅの存続を強く要望。
福井県議会も21日、「核燃料サイクルの推進には高速炉の研究開発は不可欠で、長期的視野に立ち、覚悟を持って取り組む必要がある」とする意見書を可決した。
一方で「ほとんど動いた実績がないのに、1兆円超がつぎ込まれてきたのは異常。廃炉にかじを切るのは当然だ。

2016年9月16日金曜日

めぐみの秋。まずは柿ザ!

めぐみの秋! そりゃアー柿ザ

  
おいらの果樹園(横浜市保土ヶ谷区今井町と横須賀市衣笠栄町の2か所)では、色とりどりの果物類がもう少ししたら採ってよね、と大きな声を張り上げている。

幾種類も、植えてあるのだ。
なかでも柿は、真っ青で、赤くなるのはいつ頃のことだろう。

社用で不要になった宅地を、会社に対する貸付金の相殺として頂くことになった。
これやァ 嬉しいことなのか?悲しむべきことなのか? 私にも解らない。

幾万種類ある果樹のなかで、柿の木ほど、親しんできたものはない。
葉は茶の代わりに加工され、飲まれることがあったそうだ。
私が頭が痛いと訴えたときに、祖母が煎じ茶を作るときと同じように作ってくれた。
まるで、薬のようだった。

食うことにおいては、我が家の柿は兎も角、親戚の柿も、お隣の柿も、みんな俺のもんだ、と言って憚らなかった。
種類も、いっぱいあった。
大学に入ったころ、今 東光氏の著作物で、ある柿の種類を「チンポがき」と著いていたのを、何故か?思い出してしまった。

浪人中は、涙が出るほど面白くなくて悔しいシーズンだけれど、一夜に食う量は、小さいものならば20個、大きいものならば5~6個は、カル~イものだった。

甘柿だけではない。
渋柿の皮をナイフで切りとることも、母や私の大事な仕事だった。
皮を切りとった柿を、何台もの棚を作って干した。

干しきって、柿の表面に白い粉がついたものが、宇治田原町の干し柿として、商品化した。
わが町の名産品だ。
ここで、要らなくなった皮は、しばらく天日干しにして、ほどよく乾いたものを、漬物の糠に混ぜた。
皮から出た、ナントカナントカが、より良い味覚にしてくれたようだ。

もう一つ忘れていけないことは、渋柿の生渋をとって、それを専門業者に売ることだった。
未熟果を収穫し、空き臼や粉砕機で砕き、圧搾をかけて生渋をとる。

柿の生渋には、タンニンが多く含まれていて、その渋が、番傘とか漁網、釣り糸など、防腐剤として用いられる。
清酒の清澄剤としても使われている。

渋柿は果実が熟するまでは固くって、味は苦い。
その渋柿を、焼酎の入った鍋に2~3日入れて放置しておく。
それを、いただくのだが、甘柿とは違った、古風な味を楽しませてくれる。
ただ、甘いだけではない。
言葉の知らない私には、この微妙で古風な味覚を表現できない。

柿の葉寿司=余り上等なので、これを、食べるだけのことはある。
一口大の酢飯(すめし)に鯖や鮭などの切り身と合わせ、柿の葉で包んで押しをかけたすしだ。

ここまで書き進めてきて、重要なことを思い出した。
お酒をちょっと多い目に飲んだとき、翌日の頭の痛みから抜けられない。

18歳から25歳まで、どうにも避けられないことだった。
二日酔いのとき、そんな朝、柿を思い切りガブ食いすると、何故か、酔いが自然に冷める。
柿肉の科学反応?それともエネルギーが頗(すこぶ)る低いの?
友人から得た知識は、大事にしなくっては!!
イカンなあ




このように、柿は、甘いも渋いも、大いに人間に貢献しているようだ。



 Kaki.JPG