2017年3月3日金曜日

糞ったれ、腰痛野郎!!

今、激痛に苦しむ腰痛の元は、やはりサッカーだったのか?

サッカーをすると腰痛になる、と書かれているネット記事を読んで、これは、なにもネットでなくても、自分自身で感じていたことだった。でも、読まないわけにはイカンわ。

私は、中学校の時はバスケットに、高校・大学ではサッカーに心から体まで魅入られてしまった。ファールの微妙な判断が気にいらなくて、私のバスケット頭はパニクッた。そんなバスケットに情熱の火は点(つ)かなかった。
それで、だから、サッカーになってしまった。大学からは、朝から夜まで一日中、只、サッカー一途だった。

大学時代は、午前中はサッカーの授業の助手として、それが終わってからラーメン屋=芳葉の皿洗い、そして1時からは大学のサッカーの練習。大学の練習が終わったころに早稲田実業高校のサッカー部の練習に参加。それからは自主練習。

ボード板にボールを何回も蹴った。試合になると、何があるか解らない。相手の何かを見定めて、一つの動作をしてから、ボールを蹴る。1年で1万回蹴ったとしたら、4年間で4万回から5万回。それほど、蹴っていた。
ヘッディングの練習。地面から2メートルほどの高さに宙吊られたボールを、右から左から走ってきてガツーンと一発。面白くないから、飽きてしまう。それでも、私は挫(くじ)けない。
キックでは左足ばかりを入念にこなした。右足でのキックはどうにでもなった。ボールはどちらから来るか解らない、そして、左右のどちらのキックが必要なのかは、試合の流れで決まる。
やった、やった、、、、、やり通したーーーーー左足のキック練習を。
早実が帰り、真っ暗になって、グラウンドに誰もいなくなったら、そろそろ俺の練習も終わり。更衣室の中にある共同の浴場で、ゆったり湯を浴びる。最後の最後の浴槽には砂利がいっぱいある。湯はぬるく、決して美しくない。田舎で口遊(ずさ)んだ歌謡曲を他人のことを気にせず、大きな声で歌った。グランド管理のオジサンが、なんだ山岡か!とチェックに来る。
入浴料が無料、俺には最高にいい! 

授業の助手としては1時間240円、ラーメン屋では1時間で700円をいただき、それに昼飯をご馳走になった。飯はニラレバ定食。助手の1時間240円というのは、体育局からは1時間120円しか出せないことになっているので、山岡、悪いから、誰でもいいから2人でやっているように報告しておく。その一人の名前を教えてくれればいい、ということだった。吉田先生はサッカー部のコーチでもあり、雨の日は来ず、私がルールを教え、雨でも平気な奴にはサッカーの試合をさせた。学生の出欠をとるのも重要な仕事だった。

そんな日常だったので、俺ほどサッカーの練習をした奴はいない。朝9時から夕方7時、8時までが私のサッカー練習だった。教室で勉強するなんて、考えたこともない。でも、俺が一番上手だったわけではない。いつまでも、下手は下手のままだった。
大学の練習の休みは月曜日。俺は独人(ひとり)で井の頭公園や善福寺公園まで走った。早く走ったり、亀さんのようにゆっくり走ったり。決めた電柱までは思い切り早く走り、次の電柱まではやけにゆっくり。
公園内を、時間の過ぎるのを惜しまなく、ゆっくり歩いて遊んだ。樹木の緑葉や、幹が逞しく私を喜ばしてくれる。散歩道をウサギ飛びやら、高い塀の上を歩いたり走ったり。小さな植物の上や垣根、大きな水の溜まりを、片足で両足で飛び越えた。

皆(みんな)でやる練習で、一番気をつけたのは、迷惑を掛けないことだった。恐ろしいほど妙技は見せられないし、捏(こ)ね繰(く)った技はなく、ひたすらに迷惑をかけないことだった。ここで、自分の左足のキックだけは、気を貼り付けた。失格は許されない、だからと言って、いつも必ず完璧なキックができなかった。

スポーツを愛する人、特にサッカーを愛する人は、腰痛で苦しむ人が多い。
日々の生活態度次第で、腰痛に痛んでいる人も多い。スポーツをしなければ腰痛はないのですが、サッカーをする度に同じ症状が繰り返される。
症状は上半身を捻(ひね)たり、左足でシュートを打つ等の動作をしたときに、左尻の少し上のあたりに激痛が走り腰痛になりサッカーができなくなる。一時的になっても、またサッカーをするとこの痛みは繰り返される。腰痛の原因はいくつも思い当たることはあるが、何よりも私にはプレーヤーとしての機能力、対応能力が少なかったもので、始終、無理をしていたのが、決定的な原因だったように思う。無理矢理、無理無理の連続だった。
サッカーこそ腰痛の宝庫だ。

私のサッカーに対する技術は貧困だった。凄まじい程、悲しい貧困の無さだった。おまけに体力が無かったので、マークする相手を何もできないように牛耳ることは困難。体感というか体幹というか、この能力についても悲しいものだった。
頼れるのは、負けん気の強さだけだ。

私の過ごした大学は、日本中(じゅう)の特別優秀な人が多く、育った地域の方言を憚(はばか)ることなく、平気だった。全国大会でも常にトップクラスの静岡、広島、埼玉、京都、大阪、東京のサッカー名門校の出身だ。
今、恥かしくて言えないけれど、先輩からは常に「ワセダ・ザ・ファースト」と言われ、部員は重い熱を背負わされていた。寮内のあっちこっちにこのフレイズが書かれていた。誰もが重荷か重圧を背負い、身震いしながら生きていた。
かって、大学のチームでありながら、社会人のチームを含めての大会で、日本一・天皇賞を獲得したこともあった。

昭和44年の入学、入部だった。優秀な部員が沢山いた4~5年前からは、俊敏で優秀な人が少なくなって、苦戦していた。
1年生のときは、4年生に優秀な人がいっぱいいたのに、負け戦ばかりだった。私の目には、根性のない人ばかりだったように思えた。キャップテンは一時、サッカー日本一(天皇賞獲得)になった法人に何年も勤め上げてから入学した人だった。良識のある立派な人だったが、チームを引っ張る牽引力の足りない人だったのではないか。4年生のその他の選手は、高校でこそ立派だったかも知れないが、大学に入って腰抜かせになってしまった。情けない、と横目で見ていた。

その次の4年生は、前年の弱みを再び味わいたくないと、練習は走ることをメインにガツガツやってくれた。キャップテンは藤枝東高校。
このキャップテンから、私のことを、「此奴はゴミだよ」だった。でも、その後、何だか?私を可愛がってくれた。悔しいことも苦しいことも楽しいことも、みんなごじゃごじゃ、だった。
私は2年生。長距離に短距離。技術に縛られない練習ほど、私を面白くさせてくれた。頑張って、頑張って、関東大学リーグでは首位を走った。このときの充実感は、並大抵のものではなかった。

その次の4年生のキャップテンは、大阪の有名な高校出だった。私は3年生。
私より1年先輩だったが、どういう訳だか知らないが、能力の貧弱な私をよく可愛がってくれた。もっとコウしろ、もっと強くしろ、もっと早く走れ蹴れ、もっとしつこくやれ、アドバイスはそんなにレベルの高いものではなかったが、アドバイスの声に愛情が溢れていた。体力は2年間で、随分身についていた。言われたことを、完璧にこなせなくても、なんだかんだと付いていけた。
この頃から、チームの一選手としてやれる自信みたいなものが、付いてきた。
それはどういうことか、と言えば、もっと強く、もっと早く走れ蹴れ、もっとしつこくやれ、これらの先輩のアドバイスを良く理解できて、そのようにプレーできるようになったからだ。

大学のメンバーは、ある程度は優秀で、ある程度はダメで、その間の人は、頑張り次第ではどうにでもなる人たち、そんな構成だった。
3年生になるまで、私は情けないほど、ダメな部員だった。
新入生のときは、先輩たちに飽きられた。こんな奴は、どうにもならないではないか?そのように疑われていた。当然だ。

入部を目指す人は、入学が決まる前に、すでに部と打ち合わせしていた。これが常識だった。その際、サッカー部のことや大学のことを先輩たちはよく教えてくれたそうだ。

私の大学時代。
有難いこともあった。ラッキーだったことだ。
部員が少なく、紅白戦をやると、人間が足りなくなることもあった。
だから、3年生になると、私だって試合に出してもらえた。俺は下手だから、困ったなあなんて言ってはいられない。下手は下手なりに、上手は上手らしく、選手として立派にやらなければならない。その実感、それこそが、私の喜びだった。

当時、入部のための厳しい審査がなかった。そんなことで、滅茶下手な僕だって入部できた。今の入部基準では、私は入部することは絶対できなかっただろう。新入部員担当の4年生が、この人も京都の山城高校出身で、私が宇治の城南高校の出ですと言うと、解ってくれた。明日にも荷物を持ってきなさい、と快諾してくれた。この4年生は、有名な山(やま)さんだ。

入部して気を引き締めてやったことは、体を張って強くしつこく、誰よりも早くスタートして、諦めないことだった。マークする相手を自由にプレーさせない。
どんなボールでも蹴るかヘッドをするか、相手のボールコントロールを徹底的に邪魔すること。手にしたボールを攻撃しやすい所に早い目に出すことだった。
役に立たないニャロメじゃ、死んだ方がましや!!

医者では腰椎椎間板痛といわれ腹筋、背筋を鍛えることだと言われても、骨が痛いのではなく筋が痛いように感じて、なかなか医者の指示に従えない。
こういう症状はどこが悪くてどういう対処をしたらいいのか分かる方、アドバイスお願いします。

私が4年生、大学最後の学年。
関東大学サッカー選手権と全日本大学サッカー選手権、この二つの大会で優勝した。
栄光の2冠王だ。この貧弱な私でさえ、ちょこちょこ試合に出してもらったことが嬉しい。
関東大学リーグでは2試合に出してもらった。
全日本選手権では(旧)大阪商科大学との決勝戦に出してもらった。後半、我がチームのふんわりした相手ゴール前へのボールが、何故か不思議な動きをした後、相手ゴールに入った。
ボールが何故、どうして? それは誰も解からなかった。
ボールの周りには我が大学の選手は、何人もいたのに。
このゴールを早稲田の「神がかりシュート」だと言って、新聞の記者に喜んでもらった。翌日のサンケイスポーツには、この言葉が紙面に躍り上っていた。
夜、私の双眸には喜びの涙が溢れた。

2017年2月25日土曜日

糞!!又か?ヘルニアだ

参ったなあ、ヘルニアだってヨ!

又しても、この私の腰、臀部から下肢に強い痛みを感じてきた。
情けないことに、これは、椎間版ヘルニアによるものだ、と感じたのは最近のことだ。
この悪病! ヘルニアについては、誰よりも誰よりも多くの知識を持ち、今までに何度も体験しているので、痛みを感じてからほぼ10か月、ヘルニアだと気付くのに余りにも長く、情けないと思っている。
この10か月、この足や腰の痛みが、まさかのヘルニアだとは気付かなかった。
繰り返すが、何とも情けない話だ。

3年前に思わぬ工事で頭を強く打ってから、私の脳は勿論、身も心も痛んでいたからか、この痛みが本物のヘルニアだとは気付かなかった。

この痛みを感じ始めたのは、昨年のゴールデンウィーク、4月29日からだ。
自宅から会社までのほぼ10キロの道のりを徒歩で通勤することにしていた。その途中に保土ヶ谷公園があって、その入り口脇の駐在所の前で、ほんの少しギクッとよろめいただけで、クルブシ辺りに少しの痛みを感じた。
この痛みなんて、大したことはない。少し時間が経てば直るに決まっている、と思っていた。それから10か月、痛みが落ちるどころが日を追うごとに強くなってきたのだ。
調子がいいと思えば、悪い日もある。

それから、私の徒歩通勤は終わった。バスによる通勤に変った。

そして、今月の13日。
痛みの余りの酷さに我慢できなく、ここらでお医者さんに診てもらわなくてはナランと思いきや、20年か30年か前?腰痛でお世話になった国際親善病院へ行った。入院もさせてもらったことがある。
診断の結果、先生が仰った言葉は私が前もって気にしていた通り、間違いなくヘルニアですよ、言っとかなくちゃイカンのは、深度なのか震度なのか、状態は進んでいますよ。早い目に治療しなければエライことになりますよ。進度4レベルです。
聴く私の頭は狂いだしてきた。

ネットで調べてみた。
椎間板ヘルニアとは、椎骨と椎骨の間でクッションの役割を果たしている軟骨(椎間板)が変性し、組織の一部が飛び出すことをいう。
このとき、飛び出したモノの一部が付近にある神経を圧迫し、腰や足に激しい痛みやしびれなどの症状を起こす。

この病院には毎日通院できないので、自宅近くの東戸塚駅界隈で薦められる病院があったら教えて欲しい、とお願いした。その病院が、今、私が通っているところだ。
病院を経営しているお医者さんは、実に快活でよく話を聞いてくれる。
人気の高さがあって、老人をはじめ患者の何と多いことか。病院の開店時間に行っても、患者が多く、なかなか診てもらえないので、少しばかり遅くに行った方が待ち時間が少ない。

リハビリテーションの強化。
先ずは干渉波だ。
干渉波という低い電流を体内で発生させ、特定の患部を集中的に刺激する治療だ。
ブルブルと腰の辺りを刺激してくれる壷のようなものを、私は気に入った。電気の発動の強弱を看護婦さんが調整してくれるのだが、私はモット強くモット強くと言うものだから、看護婦さんは弱ってしまう。余り強過ぎても良くないんですよ、と注意してくれるが、回復を急いでいる私は、そんなアドバイスなんて気にしなく、只、強くしてくれることを願った。
干渉とは、複数の波の重ね合わせによって、新しい波ができることらしい。



 

2017年2月23日木曜日

日刊新聞創刊の日って?


2017 2月21日、今日は何の日?だろうかとネットで調べてみた。
今日は「日刊新聞創刊の日」とあった。

ネットにあった記事とは、1872(明治5年)2月21日、東京初の日刊新聞「東京日日新聞」(毎日新聞)が浅草で創刊された。世界で最初の戸別配達の日刊新聞だ。このことを記念して、「日刊新聞創刊の日」とした、とあった。

こんな記事を読んで、この表現はちょっと間違ってはいないか?と思いついた。それは、下のように表装されている本を、今、私が夢中に読んでいる。
内容については、今まで知り得なかったことばかりなので、よく理解できていない。
この本の内容については、後日、あらためて著述するつもりだ。

★ これからが、この稿のハジマリ,ハジマリだ。



本の表装に掲示された写真は、幕末戊辰戦争の最終戦・五稜郭の戦いの前夜、函(箱)館で写された一枚の写真だ。
戊辰戦争とは、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥州越列藩同盟が戦った日本の内戦のことだ。
仏軍人と幕府士官、それぞれ4人が写っていた。
8人による何とも言えない信頼と親しみの雰囲気。
いったい彼らは何を話していたのだろうか。
日本人武士とガイジン?それもフ・ラ・ン・ス人との束の間の出会いに秘められた歴史の影に何があったのだろうか。

これらのことを、作家の鈴木明氏は、フランスをメインに、また国内での調査に駆け巡る作動がエネルギッシュで、なんとも興味深かった。

昭和54年の冬。函館山の中腹にある図書館で、ノンフィクション作家の鈴木明氏がこの写真を観て、写真の内容そのものが解らないものだらけなのに先ず驚き、その写像そのものをなんとか理解したいと思いついた。
それからの内容について、現在、私は鈴木さんよりもなあ~んにも知らないものなのに、解らないままの読書が、悔しい。
けれど、一つ一つの内容は解らないままだけれど、全体ば面白くて、堪らない。

五稜郭では榎本武揚のことだけは、知っていた。新撰組の副長の土方歳三も参加していたらしい。
榎本武楊の名前から、恥かしながら、王政復古側の重要人物かなと思っていた。
その榎本武揚のことを、この本の一部から知った。
函館脱走の前、5年近くもオランダに留学をし、帰国するとすぐ洋服を作らせたという「西洋かぶれ」と言われているが、函館に残されている写真は幕末の旗本らしく、日本刀だけは忘れていない。
だいたい、脱走軍として函館に集まったのは、旧徳川家の側に立ち、官軍に一泡吹かそうと志した保守的な集団だから、土方歳三などが武士の魂である日本刀を手放さなかったのは当然である。

徳川幕府から明治への移行時。
この時期、町民はどのように、あたふたしていたのか?そのことについて、多少なりにも想像はつくが、武士の世界,藩政なり幕政、天皇方の目論見は何だったのだろうか?
政治は、誰がどのように?日本をどのように仕向けていこうとしていたのか?
学校の先生は詳しく話してくれなかった。当然、教科書にも何も触れられていなかった。こういうことに、誰よりも、誰よりも、強く詳しく教えて欲しかった私なのだが、当時、そんなことまでは、どうでもよかったのだろう。能天気な子供だった。

この本の丁度半ばに、新しく発刊されていく新聞のことがでてきたので、此の稿の始めに書かれている「日刊新聞創刊の日」の内容に疑問を持ち始めた。
その部分を転載させてもらう。
新政府軍が江戸総攻撃をかける、という話が伝わった3月の初め、そして3月13日には、有名な「西郷隆盛・勝海舟」の話し合いがあり、4月11日、江戸は無血開城となる。
彰義隊が反乱を起こしたのは、5月15日未明である。
この慶応4年4月、新聞は、日本に「瓦版」ではなく、真実を伝えるため、日本歴史始まって以来、奔流のように市中に出廻った。

「もしほ草」の論説には、次のような記述がある。
「旧来の汚習を掃精し、文明なる法律を下したまふべし。旧政府の法律は、拘束を多くして、不便なる事のみを好み、何事によらず、たやすく整ふこと無きをよしとする風あり。これによりて、奸吏時を得て、みだりに暴威を振ふ、種々の悪計を設けて、商売を困らせ、以て自らを富ます謀(はかり)ごとをなせり。これらのこと、まことに憎むべきの至りなり」

どうも、新聞が発刊されたのは、この時期なのだ。
慶応4年は、日本歴史にとって、まさに「新聞元年」ともいうべき年であった。
新政府が有名な「五箇条誓文」で、「旧来の陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クベシ」と宣言した。
2月「中外新聞」、4月「中外新報」、閏4月「江湖新聞」「もしほ草」「日日新聞」「各国新聞」、5月「外国新聞」「曾よ吹風」などが創刊されているが、中でも、内容、文体などからいっても代表的なものが、柳河春三の「中外新聞」、岸田吟香の「もしほ草」、福地源一郎の「江湖新聞」であったことは、いま残されている資料からみても、一目瞭然である。

それで、此の稿を書きだした原因を確認したい。
「日刊新聞創刊の日」と上に掲げた幾つかの新聞の創刊とは、何が違うのだろう、か?
そのことを、今後確認してみたいと思っている。






















2017年2月18日土曜日

春一番を、識(し)る

茲(ここ)で、春一番のお勉強!

この年の端、恥かしい話ですが、何かを知りたくなったときには、ネットの画面を利用させてもらう。身も心も裂(さ)けるほど悔しいけれど、それでも、厭きることなく?性懲りもなく、、、、ネットのお世話になる。
この「春一番」を人並に知っていたかった。
この「春」という言葉を観たり聞いたりするだけで、私の体のエッチな虫が目を覚ましたり、山口百恵さんの何とか何とかの歌の文句を思い出したり、その程度のワタシなのだ。

そして、春一番の次の文章だ。
2月17日の早朝、気温が髙く風が強かった。

春一番とは、季節が冬から春へと変わる時期に、初めて吹く暖かい南寄りの強い風のこと。
具体的には、2月4日ごろの立春から3月21日ごろの春分までの間に、日本海で低気圧が発達し、初めて南寄りの毎秒8メートル以上の風が吹き、気温が上がる現象のことである。南寄りとは、東南東、西南西からのことだ。

決められた期間以外に南風が吹いても、春~番の言い方はしないそうだ。

春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日などは寒さが戻ることが多い。これを「寒の戻り」と言う。

今年の2月17日ことだ。
午前中に強い南風が吹いた。私の唯一の家事であるゴミ出し、体にあたる風圧は大変なものであった。
有難いなあ、冬が終わって春が来たのだ。多少、足さばきが軽くなった。
これが、春一番かと思っていたら、夕刻になって急に気温が下がりだして、やっぱり、そう簡単に、冬を忘れさせてくれないワイと苦笑いした。
風の強さは以下のようだ。
東京・18、0メートル(午前9時10分)
横浜・19,1メートル(午前7時33分)

春一番が観測されたとき以降、同じ年に同様の南風が複数回発生した場合には、春二番とか春三番とか呼ぶことがある。

この強い南風は、竜巻などの突風(とっぷう)だけではなく、雪崩や融雪洪水などの気象災害や海難事故をもたらすこともある。

2017年2月9日木曜日

馬耳東風

先月、『ジイジー!「馬耳東風」ってどういう意味なの?』と、孫から尋ねられた。

その時の、私の返答は、この言葉は大事なことを教えられても聞いても、本当の意味をわからないままでも、平気で平気でいられる人のことで、対象になる人は余りいい性格ではないんだ、だった。
馬の耳には東風も西風も関係なく、吹いている風の意味合いなんて感じなかったのだろう。この時は、この程度のお答えだった。

ところが、孫は負けない、、、、、のだ。
何となく意味は解ったが、何故?西風ではなく東風なんですか?と追加の疑問点を突っ掛(かけ)ってきた。ここまで、ぎゅうじって質問されると、知識の足りない吾輩は、せめてネットだけでも調べてみることにした。

春が近づいてきた頃に吹く東風は心地よく感じる。
人の言葉に耳を貸さないこと、又心を留めないこともある。
そのような四字熟語なので、年長者に対しては使わない方がいい。

「粉骨砕身」の意味を教えてから、孫は俺様のことを何でもかんでも、知っている奴と思っているようなのだ。

★馬事東風の語源・由来『四字熟語』  ネットより。
馬耳東風の「東風」は東から吹く暖かい風で「春風」の意味。馬耳東風の「馬耳」は文字通り「馬の耳」のこと。
つまり、人は春風「東風」が吹けば寒い冬が去って暖かくなると喜ぶが、馬は耳をなでる春風に何も感じないという意味で、他人の意見を聞き入れない態様、心に留めようともしない人のたとえとして、「馬耳東風」と言ったものである。

同じような意味で、「犬に論語」「牛に経文」「兎に祭文」がある、とネットで知った。


それにしても、吾輩の脳足り(ノータリ)んには情けないやら悲しいやら、死んでも死にきれんわ。



2017年1月30日月曜日

またしても、「沈黙」か!!



 

  1.         





2017 2 1
9:50~

横浜駅の近くにある映画館で、「沈黙ーサイレンス」を観てきた。
上映時間は09:50から12:40、約3時間。
60歳以上の入館料は、廉くなると聞いていたので、保険証を持参した。
工事中の事故から、自動車免許書をゴミにした。
ところが、どっこい。
本日の上映は初日なので、自動的に特別価額になっていた。
1100円だ。

このブログの題名を、何故、『またしても「沈黙」』になったのか?と思われるかもしれない。
ハッキリそのブログの日時を言えなのは、仕事中の怪我の後遺症かもしれない。
記憶力が乏しい!!
頭の芯が狂ってしまった。

この映画の原作を、5、6年前に熟読した。
ストーリーが激しく、問題にしていることが余りにも惨(むご)く、キリストを信じる人々にこれほどまでに厳しいのは、どうしてなのか?
感動に溢れ、落ち着いて他人に話せなかった。
長崎の隠れキリシタン、、、、、、、、。
私には、登場する役者ほど頑張れないし、頑張る魂はない。

最初、この本を読んだときに、映画化されたならば、イの一番に私は観たかった。
でも、1971年、篠田正浩監督による映画化はされていた。
そんなこと、露ほども知らなかった。

今回、こんな激しい物語を、外国監督がどのように映画化をするのだろうか?そっちの方にも、関心が深かった。
珍しく、ストーリーはよく憶えているので、今回は、どのように映像化するのか、そっちの方に関心は強かった。

名も知らぬ外国の俳優たち、それに窪塚洋介にイッセー尾形ら、日本の俳優たちも、どのような演技を見せてくれるのか、期待で胸がワクワクしていた。


※ 以上の文章は、昨日映画を観てからのものです。



ネットより。

遠藤周作の小説「沈黙」を。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などの巨匠マーテイン・スコセッシ』が映画化した歴史ドラマ。

17世紀、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる江戸時代初期の日本を舞台に、来日した宣教師の衝撃の体験を描き出す。

『アメイジング・スパイダーマン』シリーズなどのアンドリュー・ガーフィールドをはじめ窪塚洋介や浅野忠信ら日米のキャストが共演。

信仰を禁じられ、苦悩する人々の姿に胸が痛む。

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★「沈黙」の問題提起 今こそ(朝日新聞より)

遠藤周作(1923~96)の原作を映画化した「沈黙ーサイレンスー」の公開を機に、遠藤の長男でフジテレビ専務取締役の遠藤龍之介さんと、遠藤に師事した作家で「三田文学」元編集長の加藤宗哉さんが対談した。

映画化を手がけたのは、「タクシードライバー」などで知られるマーティン・スコセッシ監督。龍之介さんは、映画化にあたって内容に注文をつけることは一切しなかったという。

「父が生前よく言ったのは、映像化は娘を嫁に出すようなものだから、実家の親がああだこうだと言うのはおかしいと。ましてや息子が言うのは変ですからね」。

遠藤の代表作「沈黙は」は、キリシタン禁制下の日本に潜入したポルトガルの司祭ロドリゴが、厳しい拷問にさらされる日本人信徒たちを目の当たりにして、棄教を迫られ苦悩する物語。映画はおおむね原作に忠実に展開するが、原作にない、ある印象的な場面が終盤にある。

公開に先んじて映画を見た加藤さんは、その場面について「まさに鬼才だと思った」と言う。「遠藤先生が作品にこめた思いを、たった一つの場面ですくい上げている。見事だった」。

映画が完成した昨年は、遠藤周作の没後20年、そして「沈黙」刊行から50年という年。だがスクリーンで展開する物語に、古びた印象はない。

「『沈黙』では、イエズス会で絶対的な善であるキリスト教が、江戸初期の日本では忌むべきものとして迫害される。憎悪が逆転する」と龍之介さん。「今の社会が、これが善でこれは悪という二分法のようになりつつあるなか、非常に現代的な問題提起になっていると感じた」。

「9・11も、いわば宗教対立の問題でもあった」と加藤さん。「異なる価値観の対立、宗教対立の問題が深刻になっている今こそ、遠藤文学が読まれる意味があるのではないか。

(柏崎 歓)
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2017  1  24の朝日新聞天声人語より

東京都文京区の住宅街に「切支丹屋敷跡」と書かれた碑がある。通り過ぎそうになるほどめだたない。異教を禁じた江戸幕府が拷問の末に棄教させた宣教師らをこの屋敷に幽閉した。

17世紀の日本に潜入し、捕らわれたジュゼッペ・キアラ神父もそのひとり。80代で亡くなるまで40年暮らした。遠藤周作氏は彼をモデルに小説「沈黙」を書いた。米巨匠スコセッシ監督によって映画化された。信者や神父に対するむごい拷問の場面に観客席で思わず呼吸が乱れた。

キアラは牢屋で数々の責めを受ける。先に日本で捕われ、棄教したかっての師フェレイラがこう迫る。「お前たちが苦しめられても神は黙っているではないか」

身を裂くような葛藤のはてに踏み絵に足を置いてしまう。岡本三右衛門という名と妻を与えられ、江戸の切支丹屋敷に押し込められる。

彼の墓碑は東京都調布市のカトリック教会の一角にたたずむ。そばの資料館ガエタノ・コンブリ館長(86)は日本に来て60年余り。昨春、イタリア・シチリア島にあるキアラの故郷を訪ねた。現地で見た肖像画には「日本で布教に努めたが、住民からとがった竹で首を刺されて帰天した」と説明文があった。キアラが棄教者ではなく殉教者と語り継がれてきたことに驚いた。

「転んだことをキアラは後悔しながら暮らした。でも信仰は最期まで捨てなかったのでしょう」とコンブリさん。「転びバテレン」の汚名に耐えたキアラが晩年まで胸に隠し続けた矜持に思いをはせた。
                
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以前に読んだことで、あらすじやその他についてよく憶えているが、やはり、この稿ではあらためてあらすじや、感じたことを筆記しようと思った。

幸いにして、この本のあらすじをネットで見つけた。
その原稿を拝借する。



★あらすじ

島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。

フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルベは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。

キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。

幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルベは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。
ロドリゴは、ひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。

逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。
連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。


長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかっては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は、意味を持つのかという命題を突きつけられる。

奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返される。

ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。

神の栄光に満ちた殉教を、期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラは語りかける

その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。

その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。

自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。

すり減った銅版に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。

そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。

踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つための十字架を背負ったのだ」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。
イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。

「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」
「弱いものが強いものよりもくるしまなかったと、誰が言えるのか」

踏絵を踏むことで、初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。


2017年1月15日日曜日

黄檗宗が「解夏」にも

黄檗宗

萬福寺  
黄檗宗総本山満福寺        新年法要


大学の入学試験では、私にとって日本史が重要な科目だった。

英語はそれなりに頑張って、国語は新聞をよく読むことに専念した。
日本史は英語や国語の成績が拙かった時に、何とか穴埋めをできるだけの力をつけていたかった。

日本史においてはどんな問題が出ようが、悪くて90点、うまくいけば95点から100点をどうしても取りたかった。
余り粋(いき)がって書いているわけではない。
それほどの自信があった。

英語はそれなりに勉強した、が、悔しいけれど、65点から70点しかとれない。
国語は、参考書なんて買うなんて考えたことはない。
どうにかなる、と思っていた。
新聞をよく読んで、漢字、文節・文章の綴り方、文字の使い方、それに、どんな文章でも、作意や文意を理解できたら、それでイイと考えていた。

そこで、今日の話題は日本史の黄檗宗の話だ。


宇治の黄檗山満福寺は黄檗宗の総本山。
本山を開いたのは隠元さん。
隠元(インゲン)さんが中国から持ち込んだ豆が、インゲンだった。
この豆が子供の頃から、私の好物の一つだったから、勉強とは関係なく、隠元さんが私の頭の中で抜き差しならぬモノになってしまった。

この黄檗宗は日本における仏教の宗派で、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つ。
臨済宗や曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。
だから、読経などは聞き取れないと聞く。

私の郷里は京都府綴喜郡宇治田原町、通っていた高校は府立城南高校。
そんなこともあって、京阪電鉄の黄檗駅にある満福寺が教科書にあったので興味が沸いた。
先にも書いたが、黄檗宗の総本山の満福寺のことだ。
宇治川や宇治の地について、由々しい昔話はよく聞かされたが、私の耳は馬耳東風、何も面白くなかった。

今から50年前の高校生で、隠元さんのことを学んだのは、人名と禅宗だという程度。
それ以上のことは、学習しなかった。

そして、2006年の11月。
廉(やす)く買える古本屋で買った本が、さだまさしの「解夏(げげ)」。
この本を読んでいて、黄檗宗の寺の名前が出てきた。
その寺は長崎の三福寺といわれている崇福寺、福済寺、興福寺。
ネットで調べたら、日本各地、本山の満福寺だけではなく、あっちこっちに同派の寺があること知った。

な~んだ、京都宇治の満福寺だけではないんだ。
学習が足りなかったことに、不満だけが残った。

ネットで解夏のことを調べた。

解夏とは仏教の僧が夏に行う安居という修行が終わる時をいう。
対語は結夏。
舞台はさだまさし氏の故郷、長崎。
ベーチェット病を発症した若者が、次第に視力を失っていく過程の苦悩、そこから立ち直っていくまでを描いた、青年男女のお話だ。


サッカー部の練習がない日に、独りでこっそりに観に行った。
私以外に参拝者がいなくて、ちょっと寂しかった。
お寺の人は、何か?変な奴やあな、ぐらいに思っただろう。
他所の寺とは何かが、ちょっと違うぞとは思ったが、その違うことがここで書けない。
私の頭は、その程度に、ボケットしていたのだろう。