2017年6月5日月曜日

『「死の棘」日記』

『「死の棘」日記』 著作島尾敏雄を読んだ。

      
(一番上の写真)
昭和30年夏   国府台病院の中庭
右から島尾敏雄 ミホ 林和子  
マヤ 伸三

「死の棘」を読んだのは、今から何年前だったか、記憶が定かではない。
読書中の2週間、それから2,3か月は、頭の中を島尾敏雄と島本ミホさんが走狗のように暴れ回り、私までもが、苦衷の日々を過ごした。

敏雄は「死の棘」で日本文学賞、読売文学賞、芸術選奨を受賞した。
別の本で知ったことだが、島尾敏雄は枯淡で万事にこだわり少なく、誠実で温厚な性格だったそうだ。

読書好きで割と本のことをよく知っている私なのに、当時、よくも、こんな本を見つけたものだ、と感心していた。
同時に、この作家をもっと知りたいと思った。尊敬も憧憬もした。
その時に、『「死の棘」日記』なる本があることは知っていたが、もうこの「死の棘」を読むだけで、エネルギーを使い果たし、それ以上読む根性はなくしていた。

敗戦の色濃い昭和19年。
海軍震洋特攻隊の隊長として奄美群島加計呂麻島に赴任していた青年将校は、琉球皆南山王の血をひく旧家の娘と出会い、戦後神戸でこの娘さんと結婚することになった。
敏雄は特攻の発動命令を受けながら、特攻出撃をまぬがれた。何故か? そして、15日の敗戦迎えた。

この青年将校がこの小説の作家の島本敏雄で、娘さんは田村俊子賞作家で歌人の大平ミホだ。
島尾敏雄は戦後「純文学の極北」と言われた。
極限とは、デジタル大辞泉では、極北=物事が極限まで達したところ、とあった。



今度の読書は、小説『「死の棘」日記』だ。小説「死の棘」の拠りどころだ。島尾夫婦にとって、もっとも大きな試練のときであった。その苦難に堪えて夫婦二人して復活が叶った。
親子の縁は一世、夫婦の縁は二世と言う絆の深さが知れた。

ミホさんはこの本『「死の棘」日記』の刊行に寄せてのなかで、次のように書かれている。
「日記」を読み返しながら、几帳面に書かれた文字の跡にさえ、当時の夫の苦衷が偲ばれて、涙が降る降る零れました。その時私は精神異常の状態にあったとは申せ、顧みて自分の姿が悲しく慙愧に堪えません。

この本の裏表紙に書かれていた文章そのものが、この本の全てだ。
愛情の無間(むげん)地獄に堕ちていく。
夫の不実を知ったことから精神を病んだ妻。
妻の責め苦に、身も心も追いつめられた夫の記録。

小説「死の棘」をもっと奥深く理解しようと、「死の棘」の背景なり直接的な素材として読むことにした。
「死の棘」で書かれていなかった部分の謎を詳細に解き明かしていく妙味?と言えば叱られるか。
そんな謎解きに興味を持ち過ぎたかもしれない。

「新潮」にこの本を刊行するに至っては、名瀬市の市役所職員、20人を越す人たちが3日間にわたって、2階の部屋と書庫に積み上げられた蔵書の詰まった段ボール箱約千個のなかから、日記、夢日記だけを探し出した。
小学校入学間もないころから、69歳で帰天する前々日までの日記だ。
膨大な量であった。

昭和27年、敏雄家族は東京都江戸川区小岩町四に引っ越す。
着々と作家としての地歩を築きつつあった。広い範囲で、作家仲間を持ち続けた。
精神が可笑しくなったミホの世話をしながら、著述に精をだした。
作品を着々と書き上げていた、筆無精ではなかった。
ミホは精神分裂症だった。

精神が可笑しくなったのは、何もミホだけではなかった。敏雄もやられていた。
精神病の悪化のために、信濃町の慶応大学病院に入院する。

筆料だけでは生活が困難なため、都立向丘高等学校定時制の非常勤講師として働いた。
世界史と一般社会を担当した。
友人、知人が貧困な敏雄のために、何かと協力してくれた。

そんな時、敏雄夫婦に悲劇が始まった。敏雄の不倫がもとでミホに異常をきたした。
それから、この日記は始まる。

この日記は昭和29年の秋から翌30年の大晦日まで、敏雄家族の壮絶な生活記録だ。
敏雄とミホ、子供2人(伸三6歳とマヤ4歳)の生活。一匹の猫がいた。
夫の不倫で、思いやりの深いミホの神経は異常をきたし、憑かれたように夫の過去をあばき立てる。

敏雄はもはや女のところへは行かないことを約束し、ミホに隷属する。
受動的に発作に襲われた狂乱の妻。
ひたすら侘び許しを求める夫、果てに至上の苦しみに陥る。
父母の仲に気を揉む伸三とマヤ。

平穏な日々は長く続くことはない。
そして、苦しくてやりきれない日々は確実に迫ってくる、家の中は死片のかたびら、真っ暗闇だ。
ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録。

ミホには恐怖感、不安感強く幻覚被害妄想あり、それに自殺念慮あり。
悲し過ぎるほどの病人だ。ミホはなにかと祈祷文を詠う。

雄が不倫した女性からは、「アクマデヒキョウデオクビョウモノ。ニゲマワルカ。ジブンノヤッタコトニセキニンヲモテ。サイゴマデタタカッテヤルカクゴシロ」。
留守中、そのように書かれた紙片が自宅に張られていた。
「イツカエルカオシラセコウ○○○○○」という女からいやな電報。

小石町の自宅を売却するべきか、住み続けるべきか。
売却した場合の引っ越し先は、相馬か、宇都宮か、小岩か、ミホの身内のの誠九郎さんのところか、丈夫兄の所か、悩みぬいた。

29日、病院の二人の医師と話す。精神分析をすすめられたが、退院をすすめられ、ミホは島帰りを希望した、

昭和30年3月30日、ミホ退院、自宅に帰る。
自宅を売却して、佐倉の藤野一郎氏の家を借りる。佐倉市並木町に7日に引っ越す。

30年6月6日、千葉県市川市の国立国府台病院第二精神科二十七病棟3号室に入院する。
敏雄とミホは夫婦二人して入院。
与えられた病室を何とか綺麗にした。
敏雄が不倫した女性は近づいてこなくなった。

6月19日、伸三とマヤ、林和子と共にミホの故郷である奄美大島へ向かう。
ミホは持続睡眠治療を受ける。

7月5日。ミホは病院内で、たびたび敏雄が悲しむことを口走る。
ジョウヘキトッテクダサイ、モットモットミホヲスキナ人の所ニ行ケバヨカッタ(ガラリと変わる)ナイヤガラの滝(ナイル川)で誰もいない所でオトウサントクラシタイ。

そばにいるだけでいい、本当というので手をさすっているとニャンコのヨソ行きの顔をして、うれしそうな顔で眠りに入る。
早く病的な状態から治したい。
その寝顔を見て今は一日の疲労もふきとび、打たれる。
キチガイになってさえ離れられぬ程おとうさんが好きなんです。分かってください分かってください。

ミホやがて眠りにつく。すると僕は深い安堵を感じ、どっと正常に戻る。
絶対に腹を立てずにミホの神経症を救いあげねばと思う。
一個の二律背反のブレーキと化した頑固で執拗な病巣が、眠ってしまうとふしぎにそうは思えない。

8月16日、ミホが部屋に帰ってこないので外へさがしに出る。見当たらぬ。看護婦と中庭をさがす。見つからないので、中庭の池の底を竿で掻いて探す。
当直医師も探す。
4時ごろ2メートルばかりの板塀をそれと同じくらいの高さの有刺鉄線の塀を越えて帰ってくる。
奄美大島に行っている筈なのに、マヤの所に帰ろうとどんどん歩いたが敏雄の泣く声が聞こえて帰ってきたと言う。

8月23日、神経科病棟に移転。
ミホはなかなか眠られない。神経は間をおかず可笑しくなる。
かたや敏雄はミホの世話をみながら、自らの小説づくりに励む。こんな状態と言えども、作品は続く。
他人の書いた本に対しての書評も多い。
作家友達や友人が病院に訪ねてくれる。これほどたくさんの人間が病院の主にきてくれたことを書いた本はない。

お会いできない知人たちには、電話やハガキを数多く書いた。1冊の本のなかで、これほどハガキや手紙を書いたものを読んだことはない。電話の回数も多い。

9月、ミホが調子悪い日もあれば、比較的調子の良い日もあった。
調子の良い日に、ミホは、生まれ育った鹿児島の奄美群島加計呂麻島に帰りたいと言う。
子供の伸三やマヤ、育ててくれた姻戚の方々のことを思い出したのだろう。

気に入った作品は出版会社の編集員が窓口になることが多いが、この敏雄の作品に関しては、何故か、作家仲間が出版社に持ち込んでくれることが多い。
この作家・敏雄ファンが、いかに多かったことだろう。
又逆に、自らが気に入った誰かの作品を、出版社に持ち込むことも多かった。

10月17日。
医師、婦長、看護婦さん、婦人患者たちに挨拶して、病院を後にした。
国府台病院を退院して、奄美大島に2人して帰るのだ。
省線に乗って桜木町駅に、そして高島桟橋に荷物を置いた。出発を待つばかりだ。
沢山の友人たちが見送りに来てくれた。二人には想うことが何と多かったことだろう。
4時出帆、別れのテープ。
積荷を続ける。
8時頃動き出す。

10月18日。朝食の頃、船は浜松沖あたり。
ミホ爽快なり。
10月19日。
明け方6時頃大阪港沖に一時碇泊。友人や作家友達親戚の方々にハガキ。
10月20日。七時出航。
10月21日。八時出航。

10月23日。5時40分、あと40分で入港。
6時過ぎ名瀬が見える。トラガリ肌にソテツの段々畑。
立神島。港外にいかり。7時頃税関員来る。ハシケに乗りうつる。桟橋にはミホの親戚連中と伸三とマヤ。伸三もマヤも眼がぎょろついてやせて見えた。
認めた瞬間目頭があつくなった。
戦時中に加計呂麻島の瀬相聚楽にはじめてきた時と同じ気分が空気の底にあるのは空気のせいか。陽が照ると夏になり、かげると秋、うすら寒い、冬口のようでもある。
明日24日は、ミホ36歳の誕生日。

11月9日。叔父と敏雄は、大島高校に嘉野校長を訪ねる。敏雄の大島高校への就職は異存がない。来年度転勤者が出れば採用したい。
今県の人事係が来ているから会っておくようにと指示された。
作家仲間に転居のお知らせの手紙を書く。
ミホの叔父が西南戦争に出たこと。医学勉強の為薩摩に滞在していた時、西南役に従軍したが、銃弾が人に当たらぬよう、鉄砲は常に上に向けて撃った。
当時の鉄砲を今も保存している。

12月3日。屋仁川の方からウン火の粉がとんでくる。ウンバックの家が気がかりだ。ウンバックに所に行くと、既にミホの兄夫婦が来ていた。
山際の避難場所に家財道具を運ぶ。火の手広がり次第に近づいてくる。
加勢がふえる。
殆ど運び終わり、夜もしらじらとあけ、火も近づき、頬に痛い程照り返す。
この火事で焼失1500世帯、市街地の三分の1とも4分の1だ。


カトリック奄美大島フランシスココンベンツアール修道会司祭ジェローム・ルカシェフスキーは、公教要理を説明した。
ゴミサのサマタゲになります。
説教、ミサの意義、犠牲ということば多し。さわぐ子供の親たちをたしなめる。いいたくありませんが、これ大事なことです。
これあたりまえの事です。親たちは子供をしつけなければいけない。
ミサのあと神父が儀式のこと勉強してほしい。ぼくに神学的哲学的に研究してほしいことなど言う。又特別に教えたいと思うが、周囲のたねよくない、できないことなど言う。
★印 本の中にでてくる公教要理という言葉が、私にはよく解らなくて、ネットで調べた内容をそのまま転載させてもらった。
公教要理(こうきょうようり)とはーーー(私にはよく解りません) カテキズム (英語: Catechism )は、キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説の事で、伝統的には洗礼や堅信礼といったサクラメントの前に行われる入門教育(catechesis)で用いられる。 文体は問答形式をとることが多い。

11月15日。夕ぐれ時、伸三宿題するそばで、「地球詩集」(菊川より受贈)を読む。このグループの詩の言葉ゆたかなりと思う。
自分の「のがれ行くこころ」。埴谷の解説をゆっくり読み返す。
新刊雑誌を見ると、胸にいらだちの小波が起こる。それを鎮めて、先ず自分の家族の生活と自分の仕事を、たしかな歩みの上にのせなければならぬ。

ミホの精神病なのか神経分裂症なのか?なかなか治らない。敏雄の苦労も、東京の病院での生活と余り変わらない。敏雄はそんなことで、気が滅入るばかり。

でも文章を書く作業は踏ん張っていた。作品は徐々にでき上がっていく。
東京新聞より稿料来ている。10枚11、000なり。広島郵政より選稿料、2、500。又東京の朝日より新人発言なる原稿依頼。
南海日日新聞社に原稿渡し、郵便局で東京朝日に承諾打電。
朝日西部本社学芸部より依頼のあった原稿「文学は果つるところ」を渡す。
これらは、著作で得たほんの一部だ。もっと、もっと活動の幅は広い。



































2017年5月25日木曜日

梅雨のはしり


今日(2017 5 25)の天気図(雨雲)をいくら見張っても、スッキリしない天気図だ。私の目は万巻鏡だ。

沖縄は雨、九州から近畿は回復傾向。東海、北陸と関東、東北も曇りや雨の一日になりそう。北海道は晴れ間があるが午後は、急な雨や雷雨になりそう。
上記の文章は、ネットを見て、朝のテレビでの天気予報を参考にして作ったものです。

テレビで、解説者がこのように梅雨を前にして天気が悪くなるなることを、『梅雨のはしり』と言われています、と言った。近頃、日々の生活に面白味の足りない私には、面白い言葉もあるものだ、と感心した。
お前、そんなことで、そんなに興奮するもんではないヨ。

じゃ!
「梅雨のはしり」って奴をもうちょっと知りたいと考えた。
はしりを走りと書いていいようなのだ。

5月下旬から、梅雨本番前ぶれのように雨が降り続く状態を言う。「走り」とは、「先駆け」を意味し、「梅雨の走り」とは、梅雨に先駆けて降り続く雨と解釈することもある。「走り梅雨」ともいう。
沖縄などの南西諸島が梅雨期にあり、南西諸島付近にある梅雨前線が一時的に本州南岸沿いに北上したときに多く見られる。

その他、メイストームなど、日本海や北日本方面を通過する発達した低気圧の後面に伸びる寒冷前線が本州を通過して、太平洋側に達した後、南海上の優勢な高気圧の北側に沿って、そのまま停滞前線と化して、太平洋側、主に東日本太平洋沿岸部でしばらくぐずつき天気が続くケースもその類いである。


メイストーム(和製英語)とはー。

4月後半から5月。
主に温帯低気圧の急速に発達による大風、暴風が吹く気象のこと。ヘルマン・ヘッセの「春の嵐」でこの言葉を知った。
今月の12日にブログにした「春の嵐」でのこと。

2017年5月12日金曜日

春の嵐


2017年のゴールデンウイーク、4月29日から5月5日まで、この1週間の読書にヘルマン・ヘッセの「春の嵐」を選んだ。原題は、主人公・クーンが想う女性「ゲルトルート」。
舞台は19世紀末のドイツ。
ヘッセ33歳の1910年に発表した。
商品の詳細

唐突にこのような本を話題に出すとは、青天白日? 雨後晴天?
語彙の使い違いか? ちょっと可笑しいか。
今の私、健康に恵まれているが、年老いた妻の母の面倒を観ることになって、外出することはできない。ならば、室内での贅沢にするかと決めた。
この「春の嵐」は高円寺駅南口の古本屋さんで、大学4年生の時に買った。
彼女のアパートからの往還は定かではない。現在の妻だ。今から46年程前。

大学時代はサッカー部。優秀な学生が集まってきた。
全国のサッカー有名校から、並み外れたサッカー餓鬼だ。
4年生、技術、体力に苦労はしていたけれど、やっとのことで、何とか試合に出してもらえるほど腕を上げていた。
そんな私の青春糞まみれ!時代だ。
粗筋の文章では、「春の嵐」/訳=高橋健二の中のものを随時大いに使わせもらった。

ちょっとした3年前の事故で脳に傷を負ってしまってから、何もかもいじけてしまった私なのだ。
それでも読書欲だけは、上手く理解できないけれど、しつこい。
高橋和巳を読み太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光を読み、次に目をつけたのは、この「春の嵐」だった。

恋愛小説を読みたかった。
でも、文学をよく理解できなかったのだろう!! そんなに面白いとは思わなかった。
それよりも、小説を文学として良く読みきれていなかったのだろう。

ところで書名の「春の嵐」とは何じゃ、と思った。
これも、悔しいけれどネットで調べさせてもらった。
4月から5月にかけての時期、急速に暖かくなって過ごしやすくなった頃、冷たい空気と暖かい空気がぶつかりあって、巨大な低気圧を発生させることがある。
この際に台風並みの強風や暴風が発生する。
これらの気候の状態のことだそうだ。


★粗筋
避けがたい身の上、苦しい運命に自覚をもって、よいことも悪いことも十分味わいつくし、偶然的なこともあるだろうが、思わぬ運命を獲得することがある。
このようなことが、人生に対して、貧しくも悪くもなかった。
これこそが、人生なのだ。

頭章では、クーンの回想からはじめられるこの物語は、彼が左足の複雑骨折とたたかいながら、自分の芸術と人生をいかにして可能にしていったか、その過程である。

クーンは、6、7歳のころから「目に見えぬ力のうちに、音楽によって最も強くとらえられ、支配されるように生まれついていることを知った」。
学校を終えて音楽学校に学んだ。
ところがどうしたことか音楽に身が入らない。
最終学年に、好きな女友だちにそそのかされた彼は、急な斜面を橇(そり)で落下し、木に激突、左足を骨折したのだ。結果、足はビッコを引きながらでないと歩けない。

本では、一生「かけることも踊ることも」できない障害を負うことになり、それからが自分の「内的な本来の運命」とある。

学校に復帰した彼は、彼の音楽を強く支持するオペラの名歌手・ムオトの知遇を受け、1年後、彼はムオトの推薦によりR市の歌劇団にバイオリニストの職を得る。
彼はムオトとの交流のなかで、少しずつ創作をすすめ、音楽家として世に認められるようになる。
作曲家としてだ。

何よりも音楽愛好家の娘、ゲルトルートとの出会いによって、彼は「春の嵐」を経験し、愛と仕事、音楽と生活のるつぼで身を焼きながら、オペラの作曲をすすめる。
ところが、そのゲルトルートは、彼の兄貴分のムオトと結ばれることになり、絶望した彼はついに自殺を決意する。

ところがその実行の日「チチキトク ハハ」の電報によって、彼の自殺は未遂に終わる。彼は運命に大きくゆさぶられながらも、作曲家として世に認められ、物語は、後年、未亡人となったゲルトルートと、友情をあたためあい、歌やソナタを作曲していく日々を描いて、静かに幕となる。

ヘルマン・ヘッセは、作品のなかで弱者・障害者などに対し、つねにあたたかい目を注ぎ、作品を書いている。

音楽家をこころざすクーンは、すでに20歳をこえている。
不慮の事故のために、彼は長い療養生活を経験する。
彼はそれを、自分は青春をむざんに切断され、見るかげもなくされてしまったが、これは自然が自分にとって必要な「休息をとらせた」のだと悟っていく。

自分は「音楽をやること」以外には生きる道のないことを自覚する。こうして彼は「不具となった足もたいしたことではないとさえ思えるまでに回復していく。

しかし、彼は以後、事あるごとに自分の肢体障害に心乱される。
療養生活を終えて故郷に帰った時もそうだった。彼は再び外出もできず、憂うつのなかに落ちこんでいく。

それをいやしたのは「ひとり旅」であり、「自然」だ。
彼は「静かな貧しい村のたった1軒の小さい宿屋」に泊り、孤独のなかで親しく自然に触れ、憩う。
高地での数週間は一生のもっとも美しかった時だったと思いだす。

音楽家として世に出た彼は、その評価についても素直に喜べない。
それは社会が、自分をいたわり、自分にあんなに親切にしてくれるのは、自分が哀れな身障者であるからだ、と思った。

それでも、クーンは、障害に負けた生き方をできなかった。
彼はやがて自分の障害を運命として引き受け、そこから新しい人生を切り開いた。

この本の結末の文章に、「われわれ人間の中には、親切と理性が存在する」し、「私たちはたとえ短いあいだだけであるにせよ、自然や運命より強くありうるのだ」だから「私たちは必要なときには、たがいに近より、たがいに理解する目を見合い、たがいに愛したり、たがいに慰めあって生きることができるのである」とあった。
ヘルマン・ヘッセの強い決意が表現されている。

クーンが芸術家であると同時に、障害を負っていたからこそできたのだ、と、ヘッセは言いたかったのではないでしょうか。

2017年5月7日日曜日

次の高橋和巳は、「邪宗門」だ

この本から、やっぱり、私は身を引き下げれない?
脳髄から抜け切らないのは、高橋和巳作品集のなかでも「邪宗門」だ。

再読、その後、感想を述べないわけにはイカナイ。学生時代を終え、それから10年、大いにこの作家に影響を受けた。
1971年、39歳で早逝した高橋和巳はこの小説を「朝日ジャーナル」に連載した。
私の学生時代、大学3年か4年生だった。

1984年(昭和59年)の「オウムの会」から、2000年(平成12年)に破産するまで、世間の関心がオウム真理教に大いに寄せていた。このオウムとは全然関係なく、私の頭脳構造は苦悩教の始祖・高橋和巳の「邪宗門」に傾いていた。
まさか、このオウム真理教の開祖・麻原彰晃はこの邪宗門を夢にでも見ていたのだろうか。
そんなことは、ないだろう。

「邪宗門」が、新興宗教団体を題材としていたから取り上げたのだろうか。
この小説では、最終的にオウム真理教のようにテロを思わせるような展開になる。
オウム真理教はテロでも、邪宗門は決してテロではない。

オウム真理教と関連したように引き合いに出されたのは、「邪宗門」にとって不幸であった。勝手な者が、身勝手に発想しただけのことだ。
著者である高橋和巳は、後で記す大本教を手本にしたことは事実だ。
オウム真理教と「邪宗門」の関係することは、この程度にして、これ以上話すことも書くこともない。高橋和巳さんにとって、面白くも可笑しくもない話だ。
繰り返すが、「邪宗門」はオウム真理教のような狂気な集団でない。
むしろ、大本教を模した宗教物語のようだ。ちなみに、大本教とは反差別思想や平和主義を掲げる教派神道系の教団だ。

誤解されやすい題名が誤解を招く結果になったのかもしれないが、信仰や宗教にこれほど真摯に取り組んだ文学作品はほかにはない。私にとっても、不思議な文学だった。

高橋和巳が存命ならば、オウム真理教と並べて自作が語られることに毅然とした態度で反論したはずだ。

昭和6年、母を失くし「ひのもと救霊会」を訪ねた少年、千葉 潔は教団に救われた。やがて時代は戦争へと向かって、教団は徹底的に弾圧を受け、教主は投獄される。
それから、分派、転向、独立、壊滅へ向かう教団の運命はいかに?
上記の内容が、この物語の極めて大まかな粗筋だ。


★もう少しまめな粗筋をネット記事より拝借した。

ひのもと救霊会」は、国家権力からの圧力を受け、教団の本拠地である神部(かんべ)の村の神殿を破壊される。

太平洋戦争勃発以降虐げられ続けた教団は、敗戦とともに勢力を取り戻すが、再び弾圧的となり、ついには権力との対決を選ぶ。
この本の最後には、神部を自治解放区に変え、国家からの独立宣言をなした。

小説は大きく戦前、戦中、戦後を時系列に描く三部構成をとっており、教団に関わる数多くの人物が登場する。

高橋和巳の視点は、どの人物にも丁寧に照射されており、壮大な群像劇とも言える。
そして、その中心には常に教主が置かれている。
二代教主は、
開祖・まさとともに「ひのもと救霊会」を立ち上げた行徳仁二郎である。

裁判にかけられ、投獄されても、仁二郎は教団の精神的支柱であった。

仁二郎は、特別に高邁な理論を並べるだけではなく、ただひたすら、日本に土着した人々の普通の考え方、来し方を説くのみだ。
先祖代々の土地を守ろう、そこで一生懸命に働こうと言う教主の言葉は、読者の我々にもしみじみと伝わってくる。
本書より、、、、、、、、
神とは何か。
それは祖霊、すなわち先人たちのなさんとして果たさざりし心の結晶であります。
それゆえに私どもは、その神の意を体し、神の意を受けて、この土地に神の国を築かねばなりません。
それが先祖の業績、その富の文化をうけて生活する子孫の義務であります。

刑務所の独房に閉じ込められ、ついには出所できないままに果てるのであるが、そんな極限の環境下でも仁二郎は、周囲に圧倒的な影響力を持ち続ける。
特に説教をするわけでもないし、獄中の囚人には発言どころか仰臥する自由さえ与えられていない。
それでも、長年にわたって仁二郎と接触する人々は、いつのまにかその人物の大きさの前に自然とこうべを垂れるようになるのだ


その一方で、高橋和巳は、信者たちに太陽のような存在として崇められるだけの人物を描くわけではない。
教主の姿は仁二郎が意識して作り上げたものであり、その裏側には同時にまた、別の仁二郎がいることをも、冷酷に暴いていく。

幹部の誰かが警察の訊問に屈して開祖まさのお筆先を否定した、という噂が流れる。
ところでこの「お筆先」の意味をネットで調べた。
お筆先とは、神のお告げ。
特に天理教や大本教で教祖が神のお告げを書き記したという文書だそうだ。

仮釈放された仁二郎は、彼が不在の間、妻の八重が教主代理を務めてなんとかやりくりしていた神部の教殿に戻る。
自室に籠ると、仁二郎は妻の八重の前にひれ伏して、慟哭する。

拷問の末、開祖の教義を曲げたのは、ほかならぬ仁二郎であった。
真の宗教家らしくあり、またひとりの人間としての弱さをあわせ持つ仁二郎は、死に際に教団の将来を示唆する遺言を残す。
遺言を引き継いだ者は二人いて、それぞれが受け取った言葉は、正反対のものだった。

長老の松葉幸太郎には、怨みや怒りは持たず何もなかったようにして自分たちの信じる道を歩めという寛恕の言葉が伝えられる。
かたや、青年部の足利正が臨終の枕元で筆記したという文章は、権力を呪詛し、凌辱のはずかしめをあたえよという内容だった。

仁二郎の二面性がそのままふたつの遺書として残ったとき、教団の人々もまた、当たり前のようにしてどちらも正式な遺書として受けとめる。
二者択一はせず、矛盾したものとして非難もしない。
人は必ずしも一貫した精密さで、ひとつの考え方を保ち続けるわけではない。
ましてや、長年の独房生活の末に獄死を覚悟した人の遺言なのである。
未来志向の展望も、度重なる弾圧への私怨もあって当然。
この教主と信者の関係性の幅の広さと信頼の奥深さが、「ひのもと救霊会」の宗教団体としての純粋さをリアルに表現している。
仁二郎が死んだあと三代教主の座につくのは、
千葉潔である。

物語の冒頭に神部の村はずれで、行き倒れているところを老婆堀江駒に救われた少年が、成人となって教団のトップに昇りつめる。
読み取り方によっては、「邪宗門」は千葉 潔の成長物語でもある。

千葉 潔は、東北の貧しい農家の出身。
父親が早くに行方不明で稼ぎがなくなり、母親と二人で放浪しながら乞食生活を送る。
ついに餓死寸前のところ、母親から私の肉を食べて生きのびろと言い渡される。
死んだ母親を食らって生きながらえることの因業。
幼くして孤児となった千葉 潔には既に暗く哀しい将来しかなかったのだ。

千葉少年を引き取って育てることになった堀江 駒の一家は、その過去は知らない。
千葉 潔は素直な働き手とはなっても、誰とも語り合わず交流もせず、ひたすら孤独に神部の村で暮らし始める。

不幸な生い立ちではあるものの、千葉 潔は明晰な頭脳を持ち、他人を惹きつける雰囲気を備えていた。
教団の中で少しずつその存在が馴染んだところで、教団最高顧問加地基博は千葉少年にこう言い渡す。
年端もいかぬ年齢でお前がどういう経験をしてきたか、どういう運命の下にあるか、言わいでも解る。
お前自身もそれは知っていよう。お前は人を愛してはいけない。
この世のすべてが空であるその空に身を寄せて、生涯を孤独に送りなさい。

最高顧問の忠告通り、いちどは千葉 潔は教団から離れるが、戦争が終わって南方の島から復員すると、神部の村に戻ってきてしまう。
そして、再び教団に対する弾圧が始まると、望まざる形式のもとで三代教主になってしまう。

参謀役として信者を細胞化させ全国に広めることに成功した千葉 潔は、教主になると、抜群の記憶力をベースに次々と通達を繰り出す。
混乱する教団を理論で導き、組織人事を固め、ひそかに武装化を進める。
  
しかし、怜悧な戦略家ではあっても、彼は所詮、宗教家ではないのだ。
ただ千葉 潔の場合はそうではなかったのだ。

もし一切の宗教が自らに生命を与え、外気に触れながらもただ泣きわめくことしか知らぬ自分を育ててくれた者への感謝、そして今ひとつ死すべき存在としての人間の死の恐怖に発するものなのなら、彼にはまさしくその宗教的感情の基礎が欠けていたのだ。

結局、教団は予期せぬ事故をきっかけとして、千葉 潔が準備していた武器弾薬を使用することになる。
すなわち、神部を自治解放区に変え、国家からの独立を宣言したのだ。

当然のことであるが、戦後すぐの日本の支配者はGHQ、アメリカ占領軍であり、ちっぽけな一地域の武装蜂起などすぐさま鎮圧してしまい、教団の存在もろともなかったことにされてしまう。

信者と神部の土地を失った千葉 潔は、開祖まさのお筆先の通り、餓死の道を選ぶ。それは、母親の肉で飢えをしのいだ彼にとって、宿命づけられた死に方だった。
そして「お前は人を愛してはいけない」という最高顧問の言葉は、忠告ではなく千葉 潔の運命を予言したものであったのだ。
三代教主千葉 潔を同時に愛する二人の女性は、ともに二代教主仁二郎の娘でもある。

姉の阿礼は、気高く傲慢な精神と豊満な肉体を持ち、千葉 潔を小間使いとしてこき使う。いじめることが他の誰よりも愛することなのだとは、本人さえもわかっていない。

かたや、妹の阿貴は、小児麻痺から片足が不自由となり、幼くして堀江駒の家に預けられた。
自然の成り行きとして、駒が拾ってきた千葉少年が阿貴の面倒をみることとなり、無口な阿貴は千葉にだけはなつくようになる。

その千葉 潔が教団を去る場面。汽車を見送って、歩くこともままならない阿貴が走り出す描写は、ドストエフスキーの『虐げられた人々』のネリーを彷彿とさせる。


この二人の女性、阿礼と阿貴は、その立場を逆転するようにして、父であり教主である仁二郎不在の教団を支えることになる。

阿礼は、教主代理として自分を捨てて戦中の教団を支える。
ついには物資の調達に行き詰まった教団の困窮を救うため、救霊会から分離独立してファシスト集団化した皇国救世軍の子息のもとに嫁ぐ。

一方で、阿貴は、父の死と姉の嫁入りの後、教団の継主、すなわち次の教主を指名する権限を持つ最高責任者にすえられてしまう。

戦争が終わり、右翼団体から出戻りした阿礼は、妹の阿貴にかしずく立場となる。
昼間から酒を浴び自暴自棄になった阿礼は、復員した千葉 潔が神部に戻ってくると、阿貴になりすまし、偽の手紙を書いて千葉を三代教主に指名してしまうのである。

ただ遠くから千葉に思慕の念を抱き続ける阿貴と自分付きの下男として千葉を直接的に使い倒してきた阿礼。
どちらが男と女の関係に行きつくかは明白だ。
阿礼は三高生となって成長した千葉 潔と契りを結び、教団が占領軍の手により滅ぼされる直前にも再び千葉と閨を共にする。
誇り高い阿礼と虚無的な千葉の交わりは、具体性の乏しい、極めて詩的な表現で描かれている。

原本より。
すべてが完全な沈黙の中に行われた。
寒々した部屋。
彼女の健康を気づかう人々もさすがに疲れて寝静まった夜半。ただ月のわずかな青さだけが流れこむ部屋に、二人は向い合い、そして阿礼は長襦袢の襟をはだけて横たわった。
雨が降っていたのだろうか。
ぽとぽとと雨だれの音がする。
いや、それは枯葉が庭に散る音だったろうか。
人影は動かず、もの言わず、じっと彼女を見おろしている。

2017年5月5日金曜日

朝日新聞 社説その3

「第2の政治改革」構想を

政治システムとは機械仕掛けの時計のようなものだろう。

優れた全体設計が求められ、繊細なバランスの上で歯車やバネが役割を果たさなければ、針は狂い、故障してしまう。

「安部1強」の下で、日本の政治システムの歯車が狂いつつあるのではないか。不自然な国有地払い下げに端を発した森友学園の問題を見るにつけ、そう感じざるをえない。

首相への権力集中

安部首相は本人も妻昭恵氏も関与していないと繰り返す。政府は事実究明に後ろ向きだ。

一方、政府の監視役であるべき国会は、国権の最高機関としての役割を果たせないでいる。

野党は国政調査権の発動を求めるが、与党の反対で実現しない。財務省資料の国会提出は宙に浮いたままだ。

政府・与党を掌握する首相への権力集中という政治状況が問題を解明しようとする歯車の動きを止めているのだ。

首相の1強は、1980年代末から進められてきた「政治改革」の帰結ともとれる。

金権政治への国民の怒りを受けた一連の政治改革は、自民党一党支配を元凶と見立て、政権交代可能な政治をめざした。

勝敗をより際立たせ強い政権をつくるため衆院に小選挙区制を導入。政党助成金制度で、政治家個人や派閥より政党に政治資金が集まるようにした。

その後も省庁再編、国家安全保障会議や内閣人事局の設置など、歴代政権がバトンをつなぎながら「政治主導」「首相官邸機能の強化」を追求した。

人事権、公認権、カネ、情報ーーー。権力の源泉が首相に集中する一方で、国会による監視機能は相対的に低下した。

確かに、小選挙区制は政権交代をもたらした。政治とカネの大きな疑惑も減った。

だが、政権交代を繰り返すことで、権力チェックの機能が強まる。そんな好循環は旧民主党政権の挫折によっておぼつかなくなっている。

抑制と均衡の回復を

政治改革の成果は生かしながらも、行き過ぎた権力の集中がないかを検証し、統治機構のバランスを回復するメンテナンスが必要だ。

立法府と行政府の間に抑制と均衡の緊張関係を取り戻す。そのための「第2の政治改革」と言ってもいい。

例えば森友学園問題で俎上にのぼった国政調査権。ドイツでは行使の権利を議会の少数派に与えている。同様の制度を日本でも導入できないか。

憲法に書き込む方法もあろうが、国会法などの改正で実現することもできる。

「強すぎる首相」の一因である、首相の衆院解散権を抑制すべきだという指摘もある。

衆院憲法審査会では「解散理由を国会で審議するなど解散手続きを法律で定める方法と憲法を改正して解散の条件を明記する方法がある」という具体的な選択肢も議論された。

政治の歯車が狂うのは権力の集中によってだけではない。衆参の多数派が異なる「ねじれ」現象で国会が停滞し、「決められない政治」と批判を浴びた。再び衆参がねじれた場合に、国会がどのように合意形成をはかるのかという問題にも答えを出しておく必要がある。

三権の全体構想から

似通った選挙制度と権限をもつ衆院と参院という二院制の役割分担をどう整理するかは、政治改革で積み残された大きなテーマでもある。

衆院のコピーではなく、参院独自の果たすべき役割とはなにか。「再考の府」か。それとも「地方の府」か。

憲法学者の大石眞・京大名誉教授はこう指摘する。

「衆参それぞれの役割をイメージしたうえで、選挙制度や権限はどんな組み合わせがよいのかという統治機構全体を構想する議論を始めるべきだ」

まずは司法を含む三権全体のあり方を点検する議論から始めたうえで、今の不具合は国会の規則や慣例の変更で対応できるのか。国会法、公職選挙法、内閣法など「憲法付属法」の改正が必要なのか。統治機構の基本枠組みを定めた憲法の改正が避けられないのかーー。

そうした整理を進めることこそ、あるべき道筋だろう。

自民党からは「衆院選の合区解消」「緊急時の国会議員の任期延長」など統治機構の一部をとらえた改憲論も上がる。手を付けやすいテーマでとにかく改憲をという思惑が透ける。

求められるのは、このような改憲ありきの局所的な手直しではないことは明らかだ。

日本国憲法は施行から70年の時を刻んだ。自由や人権、平和主義といった憲法の核心といえる理念を守り、次の世代に引き継いでいくには、健全な政治システムが必須となる。

その針と歯車は狂いなくしっかり動いているか。主権者である国民一人ひとりが絶えず目を光らせる努力が欠かせない。

2017年5月4日木曜日

5月4日の天声人語


天声人語

日本国憲法のもとになったのは連合国軍総司令部(GHQ)がつくった英語の草案である。外相の側近だった白洲次郎が、翻訳の過程を回顧している。天皇の地位を定める英文の表記をめぐって、外務省の担当者が疑問の声をあげた。「シンボルって何というのや」。

白洲はそこにあった英和辞典を引き、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったという(『プリンシプルのない日本』』。天皇主権の時代を生きてきた人びとの戸惑いが伝わってくる。

出自にかかわらず平等を旨とする民主主義と、世襲の君主制。本来ならば相いれない二つを結びつけたのが、象徴という言葉であった。しかし、「象徴とは何か』について私たちはどれほど考えてきただろうか。

象徴のありようをずっと模索してきたのが、天皇陛下であった。そのあらわれが被災地への訪問であり、病に苦しむ人たちとの対面なのだろう。太平洋戦争の激戦地への慰霊の旅は、大きな犠牲の上に今の平和が築かれていることを思い起こさせてくれた。

もしかしたら、そんな姿に甘えていたのかもしれない。先日の紙面にあった渡辺治・一橋大名誉教授の言葉にほっとした。「将来、別の天皇が、慰霊の旅として、国民の間で様々な意見がある靖国神社や全国の護国神社を回るとしたらどうでしょう」。

退位のあり方にとどまらない議論が必要なのだろう。主権を手にした私たちにとって、象徴とはどうあるべきか。施行されて70年の節目に、問いかけられている。






憲法70年 朝日社説その2

9条の理想を使いこなす

戦後70年余、平和国家として歩んできた日本が、大きな岐路に立たされている。

台頭する隣国・中国と内向きになる同盟国・米国。北朝鮮の核・ミサイルによる軍事的挑発はやまない。

日本は自らをどう守りアジア太平洋地域の平和と安定のために役割を果たしていくか。

答えに迷うことはない。

憲法9条を堅持し、先の大戦の反省を踏まえた戦後の平和国家の歩みを不変の土台として、国際協調の担い手として生きていくべきだ。

平和主義を次世代へ

安部首相はきのう、憲法改正を求める集会にビデオメッセージを寄せ、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と語った。

首相は改正項目として9条を挙げ、「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値する」と語った。

自衛隊は国民の間で定着し、幅広い支持を得ている。政府解釈で一貫して認められてきた存在を条文に書き込むだけなら、改憲に政治的エネルギーを費やすことにどれほどの意味があるのか。

安部政権は安全保障関連法のために、憲法解釈を一方的に変え、歴代内閣が違憲としてきた集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ。自衛隊を明記することで条文上も行使容認を追認する意図があるのではないか。

9条を改める必要はない。

戦後日本の平和主義を支えてきた9条を、変えることなく次の世代に伝える意識の方がはるかに大きい。

専守防衛の堅持を

日本防衛のため一定の抑止力は必要だが、それだけで平和と安定が築けるわけではない。

米国が北朝鮮に軍事攻撃を仕掛ければ、反撃を受けるのは日本や韓国であり、ともに壊滅的な被害を受ける可能性がある。日米韓に中国、ロシアを巻き込んだ多国間の対話と、粘り強い外交交渉によって軟着陸をはかるしかない。

そこで地域の強調に力を尽くすことが日本の役割だ。そのためにも、専守防衛を揺るがしてはならない。

自衛隊はあくまで防衛に徹する「盾」となり、強力な打撃力を持つ米国が「矛」の役割を果たす。この役割分担こそ、9条を生かす政治の知恵だ。

時に単独行動に走ろうとする米国と適切な距離を保ち、強調を促すため、日本が9条を持つ意義は大きい。

中国や韓国との関係を考えるときにも、他国を攻撃することはないという日本の意思が基礎になる。侵略と植民地支配の過去を持つ日本は、その歴史から逃れられない。

一方で今年は国連平和維持活動(pko)協力法制定から25年の節目でもある。

pkoを含め海外に派遣された自衛隊は、一発の銃弾も撃っていない。一人も殺さず、一人も殺されていない。

9条が自衛隊の海外での武力行使に歯止めをかけてきたことの効用だ。その結果、中東などで賠われた日本の平和ブランを大事にしたい。

紛争の起きた国の再建を手伝う「平和構築」は憲法前文の精神に沿う。日本も「地球貢献国家」として、自衛隊が参加できるpko任務の幅を広げたい。朝日新聞は憲法施行60年の社説で、そう主張した。

同時に、忘れてならない原則がある。自衛隊の活動は、あくまで9条の枠内で行われることだ。それを担保するpko参加5原則を緩めてまで、自衛隊派遣を優先してはならない。

日本の「骨格」を保つ

pkoは近年、住民保護のために積極的に武力を使う方向に「変質」している。そこに自衛隊を送れば実質的に紛争に関与する恐れが強まる。

pko以外にも視野を広げれば、災害支援や難民対策、感染症対策など日本にふさわしい非軍事の貢献策は多い。こうした人間の安全保障の観点から、日本ができる支援を着実に実行することが、長い目でみれば日本への信頼を育てる。

安全保障の文脈にとどまらない。戦前の軍国主義の体制ときっぱり決別し、個人の自由と人権が尊重される社会を支えてきたのも、9条だった。

これを改めれば、歴史的にも社会的にも、戦後日本はその「骨格」を失う。戦前の歴史への反省を否定する負のメッセージと国際社会から受け取られかねない。その損失はあまりにも大きい。

軍事に偏らず、米国一辺倒に陥らず、主体的にアジア外交を展開する。国際協調の担い手として、常に冷静な判断を世界に示す。そんなバランスのとれた日本の未来図を描きたい。

9条は日本の資産である。

そこに込められた理想を、現実のなかで十分に使いこなす道こそ、日本の平和と社会の安定を確かなものにする。